信徒宣教者
米谷和江さんのネパール便り

1996年〜1998年にかけて信徒宣教者としてネパールで働かれた米谷和江さんからのお便りをまとめました。

目 次

ネパールとの出会い

1ルピーちょうだい

ネパールから藤沢教会の皆さまへ

ネパールからのたより

まかせる気持ち

日本に帰って

ホームページに戻る  資料室メニューに戻る


ネパールとの出会い
信徒宣教者会   米谷 和江

 ヒマラヤとカレーとチャイ(ミルクと砂糖をたっぷり入れた紅茶)の国ネパールより、こんにちは! 12月16日、一番寒い時期に(首都)カトマンズ入りしました。私がホームスティしている家には暖房がなく、フィリピンから来た事もあり私は湯たんぽを抱いて寝ています。中流のネパール人家族に温かく迎えられ、ネパールの生活と文化を学びつつネパール語を習い始めました。3カ月後ここからバスで約28時間離れた村へ入る予定です。食事は3食カレー味、アメまでカレー味でフィリピン同様手で食べていますが、最近胃袋が黄色くなって来ている気がします。この寒い中家族は皆裸足で、ネパール語で裸足とはカレー食った(クッタ)と言いますが、この単語だけはすぐに覚えてしまいました。ネパールについて簡単に説明すると、正式な国名はネパール王国、インドと中国に挟まれた難しい位置にあり、人口1909万人(1991年)、面積14万で北海道の約2倍、宗教はヒンズー教が86%を占め、インド同様カースト制度があります。政体は立憲君主制、ネパール語を公用語としますが多くの民族・言語が存在し、主要産業は米・小麦・トウモロコシ、GNPは34億5300万ド ル、一人当たりのGNPはアジアで最も低い180ドル(1991年)一方ではODA、NGOとも多国の援助が入っています。中でも日本の援助額は莫大で日本の援助で作った、橋、ダム、日本式信号の話しはよく聞きます。

 さて、私とネパールとの出会いは大学生の時インドに旅行した時から始まりました。ボンベイから電車で数時間の小さな街に住む友人石川神父様(ヒロ神父さん)を訪ねたのですその当時神父様は神学生でした。ヒロ神父さんは本当のインドの姿を見て欲しいと私を売春街に連れて行ってくれました。そこには道や小さな家の中に色とりどりのサリーに身を包んだ15才位の少女からおばあちゃんまでの様々な年齢の女性達があふれ、異常な熱気に包まれていました。ネパール女性はインド女性より色が白いため人気があるそうで、ここには多くのネパール女性がいました。彼女達の多くは山奥の貧しい村からブローカーを通し、たったの2万ルピー(約4万円)で売られて来て、その後、年老いても病気や、今、ネパールでも問題となっているエイズにならない限り、故郷ネパールには帰れないと言うのです。私と同じ年代の女の子達が1回何百円というお金で1日何人もの客を取らされている場に立ち、ショックを隠しきれない私にヒロ神父さんは2つの話しをしてくれました。まだ10代後半の美人で頭の良い女性が最近火に飛び込んで死んだと言うのです。インドのある地方では夫が先に死んだら妻はその死体を焼く火の中に踊りながら飛び込まなくてはならないという風習が残っているためだそうです。もう1つはインドやネパールでは結婚の際、女性は多額の持参金を夫の家に払わなければならず、その時に払えない場合は、何年後までに払うという約束を交わす場合があり、もし約束の期限が過ぎても払えなかった時には夫の家族からお嫁さんは殺される事もあると言うのです。この様な話を初めて売春街の近くの小さなチャイ屋(喫茶店)で聞いた私は突然お腹が痛くなり、近くの家のトイレに駆け込みました。その後、この街を去る前日、いっしょに売春街について行ってくれたネパール人の友人から「ネパールの話をしてあげるから」と言われついて行くと、何もない彼の部屋には大きく真っ青な空に白く輝くヒマラヤのポスターが何枚かはってありました。このヒマラヤは美しく、こういう美しい山々のある故郷へ帰りたくても帰れない売春街の女性達の気持ちをふたたび考え、私にはわからないと思ったものです。それから約4年、私は今自分の目でヒマラヤを見、ネパール人と暮らしています。今朝はお父さんの靴を履き易いようにそろえてあげたら、「和江、私は気にしないけどネパールでは父親の靴は息子しか触れないんだよ。」と教えられました。又カーストも複雑で汚れるという意識より触れてはいけない物や入ってはいけない場所もある様です。ムズカシイです。

 それでは、最後に今日読んだ本からの言葉をそえて「人が不幸になってゆくという事は、単にその人間の問題だけではなく、環境や才能やめぐりあわせなど、いろいろな条件の不調和という事もある。」

 1997年1月12日
    ナマステ(さようなら)
      米谷 和江(Kazue Yoneya)



目次に戻る


1ルピーちょうだい
信徒宣教者会   米谷 和江

 こちらネパールも少しずつ暖かくなり、赤レンガの民家の前に菜の花の黄色が美しく彩りを添えています。

 先週カトマンドゥからバスで約30分離れた、古都バクタプールを訪れました。その日はヒンドゥー教のお祭りの日で、広場にはお面をかぶり神様に扮した人が踊りながら50人余りの子供を相手に鬼ごっこの様な事をしていました。子供達は右手を口にあて、インディアンのする様に「ワワワ・・・」と大きい声を出し、左手をまっすぐ前に伸ばし、「こっちにおいで!」と神様を誘います。そして、その誘いに乗って神様が近づいて来ると、全力で逃げるのです。子供達の余りに楽しそうな声と表情に誘われ、私も子供達に混じって参加してみました。また、その私に「つかまってはダメだよ」と真剣に教えてくれる子供達の表情があまりにかわいくて、思わず私は一番小さい子を抱きしめ、ホッペとホッペをくっつけてしまいました。気付くと私の周りにはたくさんの子供達、「僕にも!私にも!」と期待にうるむ大きな目が、まっすぐに私を見つめていました。その子供達を抱きしめいっしょに遊び私にとって心の柔らかくなる一時を過ごしました。

 次の日、バスで帰ろうとしていた私に5才位の2人のハダシの女の子が「1ルピー、1ルピー」(ルピーとは、ネパールのお金の単位。1ルピーは約2円)と少しこびた、大人の様な仕草で掌を出して来ました。貧しいとされている国を旅する多くの人が出会う光景です。バスの出発まで時間があったため、私はつたないネパール語で、「名前は?年はいくつ?お家はどこにあるの?」としゃがみこみ話かけてみました。しかし、何を質問しても彼女達は「1ルピー」としか答えてくれません。負けてたまるかと彼女達の手を握り質問し続ける私に、彼女達ははずかしそうにポツポツと答えてくれるようになりました。さらには自分から生き生きと話し出したのです。その瞳は昨日会った子供達と同じものになっていました。きっと彼女達にこの様に話しかける人は少ないのでしょう。疲れている時、私もお金をせびる子供達に眉をひそめた事があります。多くの場合、子供達に乞食をさせているのは彼らの親で、子供達もどうしたら同情を引くのか良く知っています。観光ガイドブックにはしつっこくつきまとはれた時、「ジャウ!(行け!)」と言うように書かれています。きっと彼女達も「ジャウ」と何 度も言われたのだろうなと思いつつ彼女達はわずか5才の小さな子供の心を持っている事を「フッ」と気付かされました。そしてバスが走り出しても彼女達は手を振り続け、最高の笑顔を見せてくれました。その笑顔に感動しながら私は、次に会う時は「1ルピー」ではなく「ナマステー(こんにちは)」と言えるといいね。と、心の中でつぶやきました。 今も、世界のどこかで笑う元気もなく、多くの子供達が死んでいっている事を信じられない様な、おだやな夕暮れでした。

  1997年3月5日 米谷 和江



目次に戻る


ネパールから藤沢教会の皆様へ
信徒宣教者会 米谷 和江

 ハッピーイースター!

 ご復活おめでとうございます。ネパールは、だんだんあたたかくなってきました。私は今(3月29日午後9時)ネパール語のミサから帰ってきました。約3時間にわたるキャンドルサービスをまじえたミサでした。ミサが終わると皆で「ハッピーイースター」と握手をして、ネパールの飲み物の代表チャイ(砂糖とミルクたっぷりの紅茶)を飲み、皆でウキウキした雰囲気でした。 この3ヵ月間「いろいろな事があったなぁ」とあらためて思い出しながら、たくさんの人と握手しながらネパールで出会えた一人一人に感謝しています。 1年前はフィリピンのイサベラの貧しい村で神父様もいない丘の上の教会でイロカノ語で十字架の道行をして、今はネパール語。2年続けて言葉はほとんどわかりませんが、言葉はただのコミュニケーションの道具で、気持ちは伝わるものですね。 フィリピンでも、ここネパールでもおちこみそうになる時は必ず人を通して神様が励ましてくれました。それがとてもおもしろい方法で、大笑いできたり、歌を歌ったり、踊ったり、そしてそこにはいつもたくさんの人々がいました。 日本での研修の時、外国で生活できる人は「寂しさにたえられる人」と何回か聞きました。でもどこへ行っても現地の人々がいるから自分から飛びこんでいけば、必ず寂しさはたえられない程ではないような気がします。どこでも嬉しい事、悲しい事はどこの国の人も同じだから! 今週はインド人のシスターと看護婦さんについて村へ診療へ行ってきました。真っ黒な顔の子供達の顔「もう少し洗うだけでケガも病気も防ぐ事ができるんじゃないかしら?」と思いながら村の人と触れ合ってる瞬間は私にとって「今一番幸せな時だ!」と感じました。 勉強が嫌いな私はじっと部屋にこもってネパール語を勉強するのは苦手なので、野菜屋で1時間座り込んで野菜の名前を教えてもらったり、レストランでネパール人と友達になったり、針をうちにいっておばあちゃんと話したり周りの人みんなが先生です。 もちろんへんてこりんなネパール語なので、大笑いされる事もありますが、そんな時は「私は笑顔を増やすために来たのよ!笑われてよかったじゃない!」と少々くやしい気持ちをおさえてさらにネパール語を話すようにしてます。 病気の人、抱えきれない悩みを抱えている人、食べる物のない人、死と向かいあっている人、戦争の中にある人、たくさんの人が今世界にいて、生きている事を思うと何とも言えない気持ちです。国境も民族も言葉も越えて。  ハッピーイースター!



目次に戻る


ネパールからのたより
信徒宣教者会 米谷和江

 藤沢教会の皆様

 Merry Christmas! 藤沢のクリスマスはいかがですか? 2年前藤沢の子供達といっしょにすごしたクリスマスをなつかしく思い出しています。

 ここネパールはヒンドゥー教の国なので、特にクリスマスを祝う習慣はありませんが、クリスマスの少し前に山を降りて、3日間の黙想をドン・ボスコの教会で、ネパール人のクリスチャンと共にしようかと思っています。

 オクレは日増しに寒くなり、数日後には雪が降ると村人は言っています。家へ帰ってきてもホッと一息という訳にいかず、日本のお風呂がなつかしいです。仕事の方は、50軒の家庭訪問を終え、よもぎの軟膏をつくったのですが、かゆみを少々おさえる程度で、あまり効果的ではないので、今はグワバの葉(抗生剤様の働き)から軟膏や石けんを作ろうと考えています。週1回の小学校での保健の授業も順調で、女性達のコミュニティーを作り、女性の体のしくみや、子供達の健康などのセミナーなどが出来たらと考えています。しかしせっかく見つけた看護婦さんが辞める事となり、何をするにもいっしょに働くネパール人の看護婦さんがいない事には、外国人の私一人では何もできずクリスマス後から、又、看護婦さがしを始めようと思っています。しかし私にとってこの看護婦さんとの出会いから多くの事を学ばせてもらいました。3才年下とは思えない、しんの強い彼女とは全てに対する考え方、習慣が対照的で時には朝4時まで話しこんだりしました。ヒンドゥー教を信仰する彼女は毎週土曜日、断食をします。その彼女は最近しきりにカトリックに興味を持ち、将来はシスターになると言い出し たりしています。オクレを去る、と彼女から聞いた時は、彼女を思いとどめて下さい…と祈った私ですが、将来について真剣に悩む彼女のため、今は、彼女と共にいて下さい、心に平和を…と毎日祈っています。大切な物を手離すと少し自由になる、と前に聞いた事がありましたが、彼女を失いたくないと思っていた時よりずっと今は自由な気がします。神様のはからいは、深くって、予想もつかない体験をさせてもらっています。しかし、どうか皆様、新しいナースが見つかるようお祈り下さい。

 皆さんの 素敵なクリスマスをネパールより祈っています

 たくさんの お手紙ありがとうございます。とても励まされています

  1997年11月24日

               かずえ

藤沢教会、湘南台センターの皆様

Happy New Year!

 新年明けましておめでとうございます

 今日、藤沢教会、湘南台センターの皆様からのたくさんの励ましのお手紙を受け取りました。こんなにたくさんの皆様のお祈りに支えられている事を、あらためて知り、感謝と同時に教会から派遣される心強さをしみじみ感じました。ネパールヘ来て早いもので1年以上が経ちました。この1年は書きつくせない程、多くの体験をさせていただきました。フィリピンとは全く別の文化のネパール、特に村での生活は村人と深く関わる程に、特に女性達の置かれている状況を知る程、悲しくなる事も多くありました。この女性遠の状況については次回お知らせします。又、私自身にとっても自分を見つめさせてもらう良い1年でした。突然、無医村で医者として働く状況に置かれ、人の命と直面し、人々の本当に求めている医者、看護婦でない私は、“何故、私をここに派遣されたのですか?”とたびたび祈ったものです。そして同時にビザの問題が起こったり、又せっかく見つけた看護婦さんも12月で村を去る事となりました。今は新しく村で働く看護婦さんを再び探しています。しかし、いろんな事が起こる中、心はとても平和です。それは。受け入れる事を知ってからの様に思います。ありのままの自分 を受け入れることが出来て初めて他の人も受け入れられる様になると言う事は何度か聞いた事がありましたが、それを実感してから、ずいぶんと変わってきた様に思います。

 皆様のお手紙を一つ一つ読みながら、祈りで支えられている安心感を感じました。いつも私の手を足を口を・・・全てを神様の思いのままに使って下さいと、祈っています。どうぞこれからも神様の小さな道具として働ける様お祈り下さい。

 1998年1月8日

      愛をこめて    和 江



目次に戻る


まかせる気持ち
信徒宣教者会 米谷 和江

 おひさしぶりです。日本は桃や桜の季節ですね。実家の近くの公園に咲いていた桜の花がなつかしく思い出されます。

 ここオクレ村はまだまだ寒く、夜、薪でごはんを炊いた後、残り火でお湯を沸かし、湯たんぽを使っています。桃の節句におひな様をかざった事、新聞紙でかぶとを折ったり、十五夜にススキを取りに行った子供の頃の思い出とともに、日本の文化の素晴らしさをここネパールでもしみじみと感じます。私も四季の行事を大切にするお母さんになりたいと予定もないのに考えてしまいます。

 さて、皆様のお祈りのおかげで、オクレのクリニックで働く看護士さんが見つかりましたが、彼はカトマンドゥで試験などがあるため、彼が来るまで私がクリニックをまかされています。すでに1ヵ月半オクレでピンチヒッターの医者として働かざるをえなくなった私は毎日たくさんの事に出会っています。ネパールに来て1年以上が経った事と、以前オクレで働いていた看護婦さんから看護について、ずいぶんと学べた事もあり、クリニックでの仕事も楽しくできるようになりました。 また、インド人とネパール人とのハーフの女の子(17歳)と今はいっしょに住んでいるのですが、彼女とはとても気が合い私達のクリニックには笑いが絶えません。この1ヵ月半でたくさんの肺炎を起こした子供が来ましたが、先日、生後18日の赤ちゃんが村で亡くなりました。村人のほとんどが病気になると、まず祈祷師に見せ、お酒を彼ら(時には3〜4人も)にふるまい、鶏や山羊を殺し、祈祷師にふるまいます。(病人に食べさせるべき!)そして3〜4日、長い時は何週間も祈祷師の祈りに頼り、本当に病気がひどくなってから、クリニックや病院へ来るのです。熱を出し衰弱した子供達のほとんどが5〜 6日何も食べてないと言います。祈祷師は病院の薬を飲んでは悪魔払いができないと言うためせっかくの薬も飲まれずに置かれたままになる事が少なくありません。

 生後18日の赤ちゃんが亡くなった時も、村人は口々に悪魔がたたったと言っていました。病人にキツネの肉が良いとか、ハリネズミの心臓が良いとかも良く聞く話ですが、キツネの肉を食べた人にアレルギーの薬を渡した事もあります。何日も食べてなくて衰弱しきった子供などはクリニックを去った後も不安になる事も多く、また、ほとんどのオクレ村の家族を知っているため夜などとても心配になっていたのですが、いっしょに住む女の子が「心配する事ないよ」といつも私に言うのです。私もネパールのスタイルになじむにつれてクリニックでは患者に対して、この小さなクリニックでできるベスト(アドバイスも含めて)をつくし、後はその人その人に、そして神様にまかせるんだと思ってからはクリニックを一歩離れて自分の部屋に入ったり、ごはんを作りだすと全て仕事の事は忘れられるようになりました。今は1年分のマキを切る時季なのでこの1ヵ月間で3人も手や足をおので切った人が血だらけでやってきました。

 そんな中で針治療の間、仲良くなった若いお母さん達と話すのは良い気分転換になります。彼女達から出

産時に汚れたシーツなどは次の日自分で洗い、またその日から仕事を始めなければならないなどの話は良く聞きます。 出産のその日まで30から40の荷物を担いだりもします。また、家族計画が行き届いていないため流産させる薬を闇の医者からとんでもない高額で買い大きな危険をおかして流産させるケースが多くあります。それも妊娠何ヵ月目かなどおかまいなしなのです。

 私にも何人かの女性たちがその薬を売ってくれと訪れて来た事か…。彼女達は出産時も病院などもちろん行かず、実家にも帰れないため甘えた事は言えません。村の若い男性は外国へ出稼ぎに行っている事も多く、5〜6年帰って来ない事もしばしばで、その間女性達は朝から晩まで嫁として働きずめなのです。

 彼女達の話を聞く事、それが私に出来る小さな役割かも?と思う今日この頃です。

 本当に1日とも同じ日がありません。そして祈りなしにはクリニックでの仕事は出来ないと感じます。傲慢にならずまかせる事。そして自分をそのまま受け入れて初めて人を受け入れられる事、良く聞いていたけれど体験しながら実感しています。

 たくさんのお祈りをありがとうございます。 どうぞこれからもお祈り下さい。



目次に戻る


日本に帰って
米谷 和江

 私は多くの人の涙に見送られ7月12日ネパールより無事に帰国しました。この2年半の外国生活を通して日本人である自分を改めて知り、また日本を外から見る発見がありました。今日帰国後1カ月も経つのに、まだ日本に馴染みきれていない自分と逆カルチャーショックを感じる生活の中での小さな出来事を書き留めておく必要性を感じペンを取りました。

 日本へ着いてからの1週間はスーパーマーケットヘ行っても、その物の豊かさに「ヘエー」と感心し、テレビのある生活、「チン」ですぐ食べられる食事「こんにちは」と挨拶しても返事がない事、満員電車の疲れきった人々、今のファッションに身を包んだ若者などで、驚く事ばかりでしたが、それが新鮮で楽しかったのです。少し経つと一時帰国ではなく日本へ帰って来てしまった事を受け入れないといけない時期になりました。

 ネパールで生活していた時はフィリピンの友人と手紙で連絡は取っていたものの、フィリピンでの体験をネパールでの生活の中で改めて思い出す余裕はありませんでした。しかし今になってフィリピンでの貧しい夕食を喜んで分かちあってくれた人々の笑頗、電気のない中でニワトリや猫を追い払いながらの夕食、身を寄せ合って眠った今にも倒れそうな家、そしてみんなの歌声と踊りが新鮮に思い出されるようになりました。そして私に真剣に戦争中に日本兵のした行いをアクション入りで一晩中話す人々や、両親を目の前で殺された人々の少しも癒されていない心とその人々が抱きしめてくれた時の大きな手が今も私の皮膚に感触が残っているのです。フィリピンの事を思い出すと同時にネパールのクリニックで出会った貧しさの中で力強く生きる患者さん達の顔が浮かんで来ます。その一方で何故なのかわかりませんが、その貴重な体験を話せなくなっている自分を感じます。そんな私に「君は話す義務がある」と言ってくれた人もいました。

 私は最近良く、日本の食事は豊か過ぎるように思うのです。例えばネパールでは1週間に1個の玉子しか食べられなかったので、その玉子のおいしさはたとえようがありません。特にそのような環境にいたせいか、日本の飽食ぶりと料理番組(食べ放題など)の多い事には驚くばかりです。ネパールでは確かに生きるために食べ物を食べていました。日本は舌の楽しみのために食べる事が多いのではないでしょうか?もちろんおいしい物を食べるのは肉体的・精神的にとても大切な事だと思います。でも日本の飽食ぶりは、ためらわずにはいられません。

 生きる事に必死だった中では人の痛みに敏感になれ、生きる事に感謝して神様の存在が感じられました。私の言う意味は、日本の豊かさが悪いわけではなく、むしろ日本の教育や医療水準の高さ、栄養のバランスの良い食事は素晴らしいと思います。

 日本の豊かさの中での貧しさと、フィリピン・ネパールでの貧困とは全く対照的で、今の私はこの体験をどう生かして行くか?何を大切に生きていきたいのか?が大きな課題です。8月21日より2週間、ネパールヘ再び行く機会を頂きました。あの豊かで厳しい自然とその中で暮らす仲間の中で、もう一度大切な事を感じて来たいと思います。

 最後にこの2年半の間私を支え、祈り、手紙を下さった多くの方々に心から感謝をこめて・・・

ありがとうございました。

和江



目次に戻る