横浜教区平和旬間於ける濱尾文郎大司教の講演
2001.8.12 

テーマ:<平和〜交わりとしての教会をめざして〜>

今日このような機会が与えられたことを梅村司教様はじめこの平和旬間を準備なさった皆様方に心からお礼申し上げたいと思います。

私は皆さん大体ご存知だと思いますけれども、3年前教皇様に呼ばれてローマに参りました。私の仕事は「教皇庁移住移動者司牧協議会」というちょっと聞き慣れない言葉なんですが、1970年に設立されました。第2ヴァチカン公会議のあとです。

ですから正義と平和委員会とかエキュメニズム委員会とかあるいは諸宗教対話委員会とか、そういうのが設立された年度と一緒なんですね。

移民の人達そして難民の人達、これが一番大きな問題です。ますます増えているんですね。2200万位の難民が世界にいるわけです。そして特に船乗り、商船とか漁船に乗っている人達。それから国際空港、民間空港で働いているパイロットやスチュワーデスや入管の事務所で働いている人達。

ヨーロッパの空港に大抵チャペルがありますが、チャプレンがそこで働いています。大変大きな仕事をしています。

それからロマとかシンテイと言われる、流浪の民。前にはジプシーと呼んでいましたけれど、ジプシーというのは差別用語だそうで使ってはいけないことになってんですね。エジプシャン、エジプト人という意味で、使っていたヨーロッパの人達が、今ジプシーと言う言葉を使わないでロマ、ローマじゃなくてロマ。ロマとかシンテイて言って、大体パキスタン辺りから始まって今全世界に1700万位います。インドに800万位いるんですね。その人達はずうっと中近東から東欧を通ってヨーロッパにやって来てイタリー、スペイン迄行ってそれから北米、合衆国に移民しているんです。日本には来ていませんけどね。

それからサーカスの人達。サーカス団、それから移動遊園地。

ついこの間わたしは北イタリーの方に呼ばれましたけど、アルプスのコーラス隊なんですね。何で僕がいかなきゃなんないのか分かんなかったんですけど。その一つの団体の30周年記念に十字架を祝別してくれって。山の上に十字架立てて、みんな信者なんですけども。

アルプスの歌ってうのがヨーデルでもないんですけども、チロル地方に多いんですが、皆様方お聞きになった方も多いと思うんですけども、第一時世界大戦のときに出征してたお父さんなりご主人なり息子なりのために、いつか帰って来るようにという悲しい歌なんだそうです。初めて聞きました。

それでそのグループがあってその人達も移動して、例えば村のお祭とかそういうときに歌うんです。その村のお祭に出る人達の世話をするのが僕なんですね。

あと留学生、旅行者、そして(巡礼団?)と大体九つ位のセクションがあります。

勿論その仕事は昔から教会がやっていたわけです。17、8世紀位までは司教省という司教の役割なんですね。つまりほかの言葉で言えば今お話ししたような人達、毎日曜日定期的に決まった小教区へ行かれない人達と言えばお分かりになると思います。

逗子教会の信者ですとか、山手の信者ですとか、中和田の信者ですとか、皆さんそこに住所がおありになるからそこにいらっしゃれるんですよ。今お話しした人達、それが無いんです。それが無いって言うことは、赤ちゃんが洗礼を受けるチャンスも無いし、初聖体を受けるチャンスもないし、堅信の準備も出来ないし、又結婚の準備も出来ないし、お葬式もできないし、そういうことのために司牧をしなければならないので移住移動者司牧協教議会というのが出来て、それが私たちの仕事です。

司牧は司教自身が出来ませんからみんな大体担当司祭というのがいるわけです。それが世界中にいてその総元締めみたいなことでローマの教皇様と地方の教会のそういう仕事をしている人達との橋渡しをするのが私の役割なんですね。ですから大分いろんな所を廻っています。

今日お話しするのは、私は昨年9月に東京で国際協力委員会の主催での話しがありましからその時に今までの話しをしましたのでそれ以後、昨年の9月以降今日迄私が体験したようなことからちょっとお話ししてみたいと思うんです。

特に「平和について」ということに主点をおいてお話ししたいと思います。

まず第一に「平和」というのは感じるものではないんじゃないか、「平和」というのは求めるものなんで、「平和」というのは感じはしますけども、「今、平和を感じている」とか「平和に過ごしています」っていうことを言えるわけですけども、それで済むものではないんじゃないか、むしろ平和は求めるもの、なぜならばイエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人達は神の子と呼ばれる。」と教えていらっしゃいます。

イエス様の真福八端ですね、「幸いなるかな、貧しい人」とか「平和を求める人」とか。あれをずっと八つ位お読みになって、「過去どうしたので幸いだ」と言われている人はひとりもいないんです。

「今まで正しい生活をしてきた人は幸いです」ということはないんです。「今、義に飢え乾いている人は幸い」なんですね。「今、悲しんでいる人は幸い」なんです。「平和を求めている人は幸い」なんです。

「今、平和を感じている人は幸いじゃない」とイエス様がおっしゃっているわけじゃないけども、わざわざあの真福八端で呼びかけておられるのは、今平和を感じてないんでしょう、その人は。

例えば、わが家では家庭内の平和がないとか、職場で平和がないとか、或いは小教区の中で平和がないとか、社会に世界に平和がない、だから平和のために働く人は幸いなんですね。平和というものは常に求めるものなので、降って湧いて来るものでもないし、でも最終的にイエス様のお話しでも平和というのは聖霊の賜物なんですね。ですから神様からのプレゼントです。けれども人間はそれに協力するということがどうしても大切でしょう。

ちょっとその平和と関係しましてちょうど今年の7月20日から22日、皆さん方もいろいろニュースでお聞きになったでしょうけど、北イタリアのジェノバというところで主要国首脳会議、サミット、G8ですね。そのときに大変反対する国があって、それこそ外人部隊がドイツからフランス辺りからずっときたんですね。

それで一人の青年が殺されましたし、そういうようなことがあって、反対運動っていうのはね、このサミットというのはG8、世界の先進国の8ケ国ですね、日本も含めて。

その人達の集まりというものに対してものすごい反対があるのは、このグローバリゼイション、グローバル化に対する反対なんですね。

グローバル化そのこと自体は地球規模になるということですから悪いわけじゃないんですよ。教皇様も教会の人も連帯のグローバル化を図りましょう、といってるわけです。連帯ってものが一つの国だけじゃなくて世界中に広がるようにというような。

ですからグローバル化自体は悪くないんですけども、グローバル化というものがどうしても大きな組織や仕組が中心になってしまって発展途上国とか貧しい国というのが見落とされちゃうわけです。

それで、ますます世界の貧富の格差が広がっちゃうんですね。ですからそれに対する、世界から来た8ケ国の、日本の小泉総理も含めまして、世界の貧しい人を代表している人達は我々のことを考えてくれっていうデモ、平和のデモはいっぱいありました。神父様が入ったデモもたくさんありましたし非常に過激的なものもあったんですね。

ですから、今までの世の中の現象っていうものの中に平和を目指そうとしている、グローバル化で平和を目指そうとする、世界の人が情報を交換し、お互いに知り合うようになろうという良い意味はあるんだけども、残念ながらやっぱり国益とか自分の会社の利益とか利潤とかエゴイズムというようなのが優先しまして、声なき者とか決定権のない者、貧しい者というのは不要だと思われてきたんです。どんどん、どんどん。世界では不要だと思われてしまった。そして優秀な人とか豊かな国だけがどんどん進んでしまうという、もう、平和な面からみれば一番反対の傾向に行ってしまうということで、グローバル化というのがとても問題になっております。

確かにいろんな、グローバルな世界というものもあるし、豊かな国も、それが一緒に共存するということはとっても難しいことですし、今日のテーマである「平和〜交わりとしての教会をめざして〜」というのはまさに梅村司教様の就任なさったときのメッセージ「交わりのなかの交わり」ということを指しているわけで、神の国を目指すことなんですけども、そこに至るまでにどうしても私たちがしていかなければならないことは、例えば、グローバル化というものの、いつも利潤とか一国を優先させるとか先進国同士の都合を中心にするとかっていう動きに対して、見落としてはいけない、世界のどんな人も見落としてはいけないという目をもって貧しい人、見落とされている人、忘れられている人を大切にするというとってもキリスト教的な精神が入ればこのグローバル化というものは大変意味を持つんじゃないかなっていう気はしております。

ですが教会はグローバリゼーションに反対しているんじゃないんです。グローバリゼーションそのものはニュートラル、中立なんですよね。そのもの自体は。コミュニケーションだってそうでしょう。コミュニケーションって言葉だってそのもの自体は中立なんですね。それが悪用されることもあれば善用することもできるということなんでしょう。

ですからそういうことで環境保護とか世界の貧困の解決とかあるいは対外債務の帳消しということにグローバリゼーションが関わればそれは世界にとって素晴しいことになるんじゃないかなと思います。

そこで、今回のG8のサミットの間にジェノバの大司教様はカトリック教会とアングリカンとオーソドックス教会、ルーテル教会合同で祈りと断食によってG8の成功を願ったし、教皇様はローマでアンジェラスのときにあそこに出てくる8ケ国の代表とか一緒についてくる政治家達に、祈りながら会議をしなさい、ということをお勧めになったんです。聞いた人がいるかどうかそれは分かりませんけど。

そういう風にしてみんな責任を持ってやりなさい、本当に大きな責任なんだよっていうことを非常に強調されております。

平和のない状態ということをちょっと考えてみますとね、平和のない状態というのは、一番すぐに出てくるのは、異なる考えとか、考え方が違うとか、習慣が違うとか、宗教が違うとか、文化が違うということによって一番やはりギクシャクしちゃうことがあるんですね。

家庭のなかでもそうでしょうしね。家風が違うとかね。学校の友達の中でもそうでしょうし、職場の中でもそういうことがあると思います。そういう違いというものがマイナスなのかどうか。違いというものは私は教会というものにはとても大切なものなんで、違いがあるからこそ豊かなんだ、ということ。

さっきの梅村司教様のお説教にもありましたけど、そして今日の第2の朗読のパウロのコリントの手紙にもありますけども、みんなが目だったらどこで匂いを嗅ぐのか、みんなが耳だったらどこで見るのか、目もあれば耳もあれば鼻もあれば手もあれば足もある。違うんです。違うからこそお互いに必要なんですよね。目は足がなければ前に行かれないんです。足は目がなければ壁にぶつかっちゃうんですね。ですから他を必要とするんです。必要とするように見る、その目が大切なんです。

それは私は信仰がさせることが出来るし、或いはもっと広い視野を持つということによって違いの中の良さを見るということができるようであります。これがないと平和というものを持つことができないんじゃないかなと言えます。

今盛んに先進国、日本もヨーロッパもそうですけども、高齢化してますし、少子化してますし、労働者を必要としているわけです。自分の国の労働者が働かない、っていうことがあるし、きつい、きたない、危険な仕事はしない、っていうことがあるので、外国人労働者を必要としているわけですね。確かに。にもかかわらず、そのためにずいぶんとアメリカなんかでもここ3年続けて60万人の技術者のためのビザを配慮した法律を作ったりなんかしてましたけど、今度移民が増大し、ますます増えてると思いますけども、同時に人種差別、民族主義、ナショナリズム、外国人嫌悪症というんですね。クセノフォウビア、恐ろしいですよ。クセノフォウビアっていうのは。エスニッククレンジングという民族浄化運動、抹殺しちゃうんです、民族を。ユダヤ人のことをやったでしょう、ナチはね。それは昔だけじゃないんです。今でもそれが残っているんです、世界には。クルド人ていうのは難民でずっといきますよ。国家がないんですよ。祖国がないんです。結局、周りの人はその人達を抹殺しようとしてるんですね。教会はそれを助けるんです。

私たちがやってる難民移民を助ける対象はなにもカトリック信者である必要はないんです。イスラム教徒も多いですしヒンドゥ教徒も多いですし他のプロテスタントの人も多いし宗教のない人もいっぱいいます。その人達が本当に人間としてみんなから大切にされるかどうかをなんとかして助けるということを私たちは努力しなければならないんですね。

それから、違いがあることに対する困難さというのは、一つどうしても平和に対する一番大きな障害のあることだと思いますけども、もう一つは無関心ですね。

この無関心の方がもっと怖いらしいですね。つまり積極的に何もしてませんから、良く見えるんです。ケンカしてる方がいいですよ。ケンカしてると仲直りするチャンスがあるんですね。でも無関心は仲直りするチャンスがないんです。だからとても怖いです。

 家庭の中にしても友達同士にしても職場の人にしても小教区の中にしても無関心でいられるっていうのは知らん顔してればいいんですから、お互いに。

でも一所懸命気は使ってるんですね。無関心だっていってもね。あの人何言ってんのかなって、一応気になってんでしょうけども。でも無関心ていうのは怖いですね。他人に対する無関心さは悪いことはしていないんですね、積極的に。でも、私はとっても悪いことじゃないかと思うんです。ですからイエス様の教えでは冷たいことが悪でしょう、罪でしょう。私が飢えていたときに食べさせなかったから地獄へ行っちゃうんですよ。持ってたのを取り上げたから地獄へ行くんじゃないんですよ。お弁当取りあげっちゃったから地獄へ行くんじゃないし、無実の罪で訴えて牢屋へ入れたから地獄へ行くんじゃなくて、友達が犯罪を犯して牢屋にいるのに、あなたはそこへ行くのは人に見られたら恥ずかしいし不名誉だから行かなかった、ということですよね。そのために地獄に行くんですね、マタイの25章は。

従ってイエス様の教えによると無関心ということ、特に冷たさというのは罪だと思います。とても悪いことだと思います。やっぱりそこら辺りが良くなっていかないと大変大きな問題になると思います。

もう一つやはり違いの中の一番大きな問題は人種、民族の差別。さっき言った習慣とか宗教の差も大きいですけども、やはり民族の差というか人種別というのはとても大きい問題なんですね。

私はこれがアダムとエヴァの原罪の今だに残っている所の一番根深く人間の心に根差しているものの一つじゃないかなと思います。どんな人にもあるわけですね。他の国民に対して。

今ちょうどテレビで世界選手権大会やってますね。それからオリンピックが今度ありますよね。ああいうのを見てるのはみんなとても楽しいですね。そのときどうしてもみんな日本は日本人を応援するし、韓国の人は韓国人を応援するということ、とても良いことなんだ、と。ナショナリズムは。それ自体悪いことじゃないんだけど行き過ぎると今度憎しみになっていっちゃいますね。嫌いになるんです。嫌いは嫌いならいいけど、それは悪いけど憎しみになるし、或いは足を引っぱりたくなるし、そしていじめたくなるし、武器があれば相手を殺してしまう、ということになるわけでしょう。民族の違いというものはとっても大きい問題だと思っています。

昨年アメリカに行きまして移民のための会議っていうのはちょうどアメリカ大陸であったんですけども、アメリカにいる今の白人たちというのは全員移民なんですよね。ヨーロッパから来た移民なんです。ところが原住民がいるわけです。だから今のアメリカの教会が移民について、自分たちが移民であるという意識はありますよ。そして今新しい移民がアジア、アフリカからどんどん、どんどんアメリカへ来てますから、それは司牧的な大きな課題で、アメリカの教会の一番大きな課題なんですね。

私たちさっきお話ししたローマのオフィスは私を入れて20名なんですがアメリカの司教団の移民のオフィスは45名ですよ。大変な数です。一番大きいです。やっぱりアメリカって所は全部移民で成り立ってるってことがそれ自体増えてる。

今アメリカの移民のしている教会が一番考えてるのは、自分達がヨーロッパから移民として入ってきて原住民の文化を破壊したことに対する反省なんです。先程反省の話しも出ましたけどね。教会は聖年という時に反省するということでしたが、アメリカは今そういうことを一所懸命やっています。

アメリカへ行った時のことをちょっとお話ししましょう。

マイアミまで行ったんですけども。ニューヨークからワシントンからマイアミまで行ったんですけども、3つ入国者の収容所というのを訪問したんです。すると、そこでミサをしてくれっていうんですね。というのは、そこの人たちは主にどこから来ているかというとハイチとキューバ、沢山来てるんです。特にハイチの人達は一番近いところから、キューバの一番端のところからマイアミまでが一番近くて、大体距離として100キロ位。そしてキューバは共産圏だから、ロシアの大きなトラックのタイヤの中のゴムでもって、片側にベニヤ板かなんか板を作ってゴムボートを作るわけです。それを膨らまして、そうすると大体家族3人位乗れるんです。それでもってシャツかなんかで帆あげてやって来るわけです。100キロの海を。3つに一つが成功するそうです。2つ沈んじゃうか、フカにやられちゃうんです。そうやって逃げてきてるんです。それは去年の話しですよ。僕はそれを見まして、そのゴムボート日本に持ってきたいなと思いましたけどね。本当に大きな問題です。

そこで、ミサをしました。ハイチの人達ほとんどカトリックですし、キューバの人達もみんなカトリックです。この中に中国人の若い男女がいました。どうして中国人があそこにいるのかなと思ったら、中国本土から来てるんですよ。ちょっと聞たんですが、誰も答えませんでしたけど、やっぱりそういう世話をする人いるんだそうです。そしてすごいお金をかけてアメリカに行けば何とかなるっていうんで、中国本土から留学生とか何かという名目でもって出て来てるんでしょうね。だから中国人だけはミサがぜんぜん分からなかったみたいでしたけどね。でもキューバとかハイチの人達はとっても喜んでくれたんです。

そしてもう一つは、ハンガリーでハンガリーの政府を訪問しました。ハンガリーの移民局というところも行きましたけども、ハンガリーでは大変な数の移民がいるんです。一番大きな移民は少数民族です。ハンガリーの少数民族お役所というのがあるんすよ。その中で一番大きな役所はロマ、いわゆるジプシーの人のなんです。

第2次世界大戦中に受けたジプシー達の、ロマ達のホロコースト、民族浄化の償い運動を行おうとしているんですね。ですからみんなそういう反省の時期にいるっていうことは確かなんですね。

平和をつくるため、ということは皆さん方も一番お考えでいらっしゃることでしょうし、ですから今までお話ししたような無関心をのりこえることと関心を持つことそしてお互いに違いというものを良く見つめることですね。誰だって違うんですから。私たち日本人同士だって違うわけですから。同じ家庭の中だって人は違うわけだから。違うのは当り前なんですよ。違わないでみんなで同じ方が中がいいか、っていったらとんでもないんです。違うからいいんだという発想を持たなくちゃだめですね。それがとっても大切だと思います。

特に、一番見忘れられがちの人達のことにいつも気をつけることです。例えば移民も入りますね。それから定年退職した人達とか失業している人達とか子供達とか、世界的にいえばやっぱり女性の地位っていうものはずいぶん見落とされているとか、つまり、最後にしか見つからないっていう感じの人達。最初に目立たない人です。それから特に移民の場合に非正規移民。つまりパスポートがない人とか移民の許可のない人。そういう人達がいぱいいるわけですね。まあいわば不法というのがいっぱいだって言ってて、あれあんまり良くないですね。法律に反してないんです、あの人達。ただ正常でないんです。だから今あまり不法っていう言葉は使わない。不法っていうのは犯罪者になるんですね。そうじゃ無くてイレギュラーなんです。レギュラーじゃないんです。或いはイリーガルとかいうでしょ。つまりリーガルでない。だからクリミナルじゃないんですね。

ところがそれがまず世界に多いので私たちは教会としては密入国とかそういう非正規移民は犯罪者ではない、むしろ彼等はある犯罪の犠牲者なんですね。すごいお金を払って、払わされてゴムボートでやってくるんです。

イタリーの一番南の方のレイチェクって所があるんですけどあるんですけど、そこからやっぱり数百キロ離れたアドリア海の向こう側のアルバニアというところですが、ルバニアからコソボの人達は逃げたわけです。毎日ゴムボートで逃げたわけです。そのために大変なお金がかかるんです。日本円で何百万円ってお金を払って。それを搾取する人がいっぱいいるわけですから。そんなにまでして自分の財産を全部売ってやってくる。その代り法律上は非正規です。非正常なんです。ですけれどそれは犯罪者ではないんです。犯罪の組織の犠牲者になってることがとってもあります。

ですからもう一つは平和を作るという努力の中に豊かな生活を目指そうとするのではなく、互いに異なる者同士の関わりによる広い視野を持つ、そういう生活を目指すっていうことが特にこれから若い人達には私は大いに期待したいと思いますし、教会としてはそのことを一所懸命言うようです。特に私たちのオフィスは毎回、違うってことがプラスなんだってことを盛んにいってるわけです。

教皇様は毎年「移民の日」、「移住の日」にメッセージを出してくださいますけれども、その中にいつもそれを書いておられますね。

例えば、昨年、大聖年の6月2日に皆様方沢山来て下さいましたけれど、ちょうど私たちの「移民の日」なんです。そのときの聖ペトロ大聖堂の前の広場での教皇様の説教の中に、地中海文化、地中海会議、地中海沿岸の大陸とヨーロッパと来たアフリカですけどね、ヨーロッパの視点というのは目一杯、地中海中心に来るんです。ですから地中海大陸はもう白人だけの、キリスト教の文化ではないんです。多宗教、多民族、多文化の大陸なんです。これは地中海だけじゃなくて世界の至るところがそうなってるでしょう。

それに対して教会はいつもそれを肯定的に見るわけです。そういうふうに教皇様がおっしゃったんですけどね。

地中海の多民族、多文化、多宗教という場面は初代教会が体験した場であり、神の子として互いに兄弟となったんです。初代教会の時だってそうです。いきなり民族が出会ったんですからね。キリスト教の前はヨーロッパではほとんどみんな違う宗教でしょう。ですからそういう人達と共に共存したんです。共に教会を造りあげた。昔の方がもっとダイナミックにそういう新しい、違う人達と一緒に生きられる生活が会ったような気がします。ですからこの違うということがプラスするということをよく私たちは考えなきゃならないという気がします。

こういういうことがあったんですね。ブラッセルで今年の5月ですけれどもヨーロッパの国際空港のチャプレンの会議というのがあるんですね。私もそれに出たんですけれども、ブラッセルの国際空港にはカトリックのお聖堂とオーソドックスのお聖堂とユダヤ教の礼拝堂とイスラム教の礼拝堂と全部あるんです。

もう一つ「無宗教の人の黙想の家」というのがあるんです。何を黙想するのかちょっと分かりませんが。無宗教の人の権利を主張してるんです。そういう部屋があるんです。それで、そこにチャプレンがいるわけですね。まあ、無宗教の方にはチャプレンはいませんけど。カトリックのチャプレンはものすごく大活躍している神父さんです。空港の神父様っていうのはとても大活躍しているんです。

皆さん何もお気づきにならないでしょ、日本の空港にはないですからね。アジアにはまずないですね。シンガポールとホンコン、マニラぐらいでしょうか。あとはアメリカとヨーロッパ。それは大体エキュメニカルな運動が強いです。

空港のチャプレンの仕事はとても重大なんですね。教会はとても沢山関わっているんです。つまり神父様だけじゃなくて沢山のボランテイアが手伝っているんです。特に女性のボランテイアが大切だって言っていました。

空港の中で道に迷って困っている人とか、字が読めなくて困っている人とか、切符無くして困っている人とか、お腹痛くて困っている人とかいうのを見つけるのはチャプレンよりもご婦人方の方だと言ってました。だから教会の婦人のボランテイアが必ず神父様についているんです。

そしてパイロットとかステユワーデスとか入管事務所の人達とか売店の人達、食堂の人達、掃除する人達、チェックインカウンターにいる人達全部知っていますよ、チャプレンは。毎日、24時間、フルタイムですからね。で、一番大切なのは入管の事務所の所に時々行って強制送還されそうになっている人とか、密入国してきた人とか、非正規に入って来た人達に対して悪い態度、冷たい態度を取らないようにとチャプレンがいつも注意しているんです。

今回初めて知ったんですけども、どこのヨーロッパの国際空港にも強制送還される人達の宿泊施設があります。それから彼等は空港のどこの食堂に入っても食べられる食券をもらえるんです。医療施設もあります。親子で住めるようなベッドもちゃんとあるんですね。そういう配慮っていうのはとっても大きいですね。

特にまた、空港のチャプレンが大いに活躍しなければならないのは事故があったときです。飛行機事故で誰か犠牲者が出ますね。そういうときはもう飛行場がパニックになっちゃうんですね。特に従業員とか整備員っていうのはみんなパニックです。一所懸命、火を消したりとかしてるでしょ。亡くなった方とその遺族に対する態度をどうしていいか分からない。そういうときにチャプレン達が一番良く落ち着いてて一番良くお世話するということだそうです。

私なんか初めてそういう場面を知りまして、なかなかこの人達のやってる仕事は大きいことなんだなと感じさせられました。

それから港のチャプレンですね、横浜教区ではケベック宣教会の神父様が横浜の港のチャプレンをやってくださってますけど、世界中でも港にチャプレンがいっぱいいるわけですけれども、港のチャプレン達の仕事も一番そういうのが大きいですよ。特にヨーロッパには第三世界から来た船がどこかの港に着きますね。ところが帰る時の荷物を積ましてくれないわけです。戻りの荷物を取り消されちゃうわけです。片道だけなんです。ですからその船はもう動かないし、雇ってた船員は部クビになっては帰ることになった。船はそこに見捨てられてるわけです。そこでどこにも行かれないっていう船員はその中に住んでいるんです。チャプレンの神父様はその世話もするんです。一所懸命。

ステラマリスってラテン語で「海の星」っていう意味ですけど、横浜にもありますでしょ、つまりありますでしょ、つまりシーメンズクラブですね。海員センター。あれがそういう人達を収容したり何日間かの生活を面倒みたりしてるわけです。

ブラッセルにちょうど5月に行ったときにEU、欧州共同体の事務所があるんですね。来年からユーロですか、それが一斉に変わりますけども、そのことのためにキリスト教関係の7団体が声明文出したんですね。5月に。というのは、欧州共同体というものがどうもお金を、モノとか国境を渡れるとか、その範囲を広げようとか、そういうことばっかりに頭が向いてて決して移民のことについてほとんど、大きな問題にもかかわらず話さない。

それで7つの団体、というのは、ヨーロッパのカリタス、ヨーロッパ移民のための諸教会委員会、ヨーロッパ共同体のカトリック司教協議会委員会、国際カトリック移住協議会、ヨーロッパ司教協議会、正義と平和、イエズス会難民奉仕団、クエーカー教徒ヨーロッパ委員会なんですが、ヨーロッパ共同体が今後、来年から特にそうですが、お金が一つになってきて、まだ15ケ国しか参加してませんけど、今後移民をもっともっと、東欧とか他の国からもアジアからもアフリカからも来るわけですから、その移民の人達をもっと迎えるように、キリスト教会が教えているように、移住者を決して、例え非正規移住者であっても犯罪者と見なさないことを特に注意しましょう。非正規か非正規でないかの問題ではなくて基本的な人権を尊重すべきである。将来、さらに中央や東ヨーロッパからの参加に関していろいろな心配や困難さ困難さもあるが彼等が直面しているしている問題をも配慮してEUは広い心で彼等を受け入れるべきである。

教会の教えているように、最も基本的な姿勢はいろいろな迫害を受け祖国を離れることを強要される者への配慮である。教会の各組織は空港など非正規な移住者が強制送還を受け、より危険な祖国へ強制的に送還されることを憂う。

強制送還は規律的にやりますけど、逃げてきたにも拘わらず強制送還させられたらまた悪い所へ帰らなきゃならないんですね。もっと悪い状況に。逃げたってことを理由にさらされるかも知れないから、教会はそれを守らなきゃいけない。法律に反するかもしれないけど教会は守るんです。

更に安全を求めに来る者を援助する人達が罰せられることがないように。そういう人達を援助することがまた罰せられることがあるでしょう。それがないように、ということを声明文を出したんですね。とても大きな反響を呼んでいます。

私は今年の6月にここに来る前にマケドニアとコソボに行ってきたんですけどね、ちょうど休戦の時期がありますでしょ。20日間位。その間に行ったわけですが、帰ってきてすぐまた戦争が始まっちゃったんですけど、マケドニアとかね、私たち日本の人間とかアジアの人間にはあのバルカン半島の長い間の大変な歴史の変遷と多民族のことはとてもじゃないけどわからないですね。

とってもむずかしくてわからないけれども、こういうことがありました。マケドニア人、アルバニア人、トルコ人、セルビア人、そしてロマ、シンテイといういわゆるジプシーがとても多いわけです。そしてルテイエノと呼ばれるウクライナ地方からの人々が現存(ショウタ?)してマケドニアは67%がオーソドックスというギリシャ正教のセルビア人。そして20%がイスラム教徒のアルバニア人。0.5%がカトリック。1万5千人位いるんです、マケドニア人。そして0.1%がプロテスタントです。

カトリックの司教様っていうのはスコピエというところの首府に一人しかいないんです。補佐司教が2人います。司祭が4、5人しかいません。でもとってもよくやってらして、マケドニアというところではとてもいい印象を受けたんですが、一番多いのがさっき言ったロマ、シンテイという人達が定住してるんです。この人達は移動してないんです。

本当は流浪の民なんですけども共産政権の間この人達は動くことを禁じられたんですんね。ですからどこかにどうしても定住しなければならないので定住しているわけです。

その人達はほとんど皆イスラム教徒です。ですからその人達が定住しながら身に職業が持てるようにいろいろ助けてるんです。教会が。

特に、国連難民高等弁務官の事務所があって、それがまたキャンプを作ってて、そのところには誰がいるかというと隣のコソボから逃げてきたロマ達。コソボから逃げてきたロマ達がマケドニアに住んでキャンプにいるんだけども、自由に外出はある程度できるんですけれども外に行きたがらない。怖いんです。マケドニア人に何かされるんじゃないかそういう辺りの恐怖とかはとっても分からなかったですね、私には。どうしてそんなに怖いのか。本当に事実こわいのかどうかも分からないですね。

でもそういうような状況で、2年間収容所にいました。そこにいっぱいカトリックのカリタスが来てました。ドイツのカリタス、エッセンのカリタス、イタリアカリタス、イエズス会のカリタス、カトリックのNGOが沢山助けてましてね、その難民の住宅地域に入って若者に技術を教えたり、自転車の修理と自動車の修理を教えたり、女の子には裁縫教えたり。

そしてロマ達のためには食料、医療、職業訓練、図書館、そして言葉を教えるんですね。ロマの言葉って言うのがあるんですよ、でもマケドニアの言葉を教えないと他の人と話しができないんですよ。それを手取らすし、それをカトリックの団体はよくやってました。そして6月11日から13日までちょうど僕が参りました直前にエキュメニカルな会合が行われたようです。

それにはカトリックとオーソドックスとイスラム教とメソジスト教とユダヤ教という5宗教団体がこういうことを始めたんです。スイスまで行って。というのは中でなかなか会合ができないんですね。いろいろな事情がありましてね。わざわざスイスまで行って、「諸民族間の和解への努力の声明文」を発表したんです。

これは、とっても重大なことだと思いました。そういう努力を一所懸命やってもなかなか新聞なんかに出ませんけど。

こういうことを言ってました。

「平和の課題は政治家のみに任せておくにはあまりにも重要な課題であり、我々宗教家も大いに協力すべきだと思う」と。

「マケドニアに住む我々5宗教団体は各々の宗教、信仰に基づいて和解とお互いを受け入れ合う寛大な態度、トレランスという言葉ですね、そういう場を作っていかなければならない。この円卓会議で我々はあらゆる暴力を弾劾し、侵略や紛争をやめさせるように呼びかける。我々は独自の宗教の信念に従って異なる民族の諸団体を守る。我々はなお、いかなる宗教に属する者であっても宗教的建造物の破壊を批判する。」

あるんですよ、それが。オーソドックスが来てアルバニア、イスラムの寺院を破壊したとか、教会を破壊した、っていうのが続いているんです。

「そして国内は勿論国際的な世論に訴える。特に東南ヨーロッパ地域、つまりバルカン半島の長期展望による政治的解決を求める。特に2001年の初頭よりアルバニア武装組織とマケドニア政府軍の間の紛争」

これ何ですよ、いつも内紛ってやってるのは。アルバニア武装組織というのがあるんです。それがものすごくフアンダメンタリスト、原理主義なんです。そこと、マケドニア政府軍とがやってるわけです。一般市民にはあまり影響ないんです。ほとんどないんですよ。ですから私も行ったとき、数メートル先にはやってますよ、っていうところまでいきました。そんなに危険はないんです。その2つの軍だけがお互いに戦争してるんです。

ですから、「今年の初頭よりアルバニア武装組織とマケドニア政府軍の間の紛争により多数の弱い立場の者が犠牲の対象にさせられたことは実に遺憾である。特に今年の3月、4月からの民族間の争いや暴力は諸文化や社会そのものを破壊していくものである。私たち5宗教団体と他の宗教団体が平和の実現に唯一にして有効な役割を持つと信じている。」これにはスコピエの補佐司教様も参加しているわけです。

そしてですね、先程言いました、数メートル先のところで2つの組織、アルバニア武装組織とマケドニア政府を軍が戦争してるって所がありましたし、一つ、小さな村はね、真ん中の道を越えて片方が正教会、オーソドックスのマケドニア人で、片方はイスラム教徒のアルバニア人。あまりマケドニア人とかアルバニア人っていわれても僕も良くわからない。そういう人が道のそっち側とこっち側にいるんですよ。

子供達は自由に両方遊んでます。正教会の方には正教会のお聖堂があります。こっちにはイスラムのアルバニア人のためにはモスクって言う回教寺院があるんですね。非常に平和に共存しているんですよ。

こっちの都のほうに行きますとキャンプというのはないんです。戦争でもって隣の国境から逃げて来た人達をみんな家族で受け入れるんです。

私たちが訪問した一軒の家は2階は空いてる。ちょうど息子が外国に出稼ぎに行ってるんで、と言ってそれを受け入れるんですね。そこは非常に家族で受け入れるっていう運動があります。

次にコソボに行きましたけど、コソボというところはややこしいんですが、ユーゴスラヴィア連邦共和国の中にセルビア共和国とモンテネグロ共和国とがあるんです。コソボって言うのはセルビア共和国の一部。でも自治州で現在NATO、北大西洋条約機構の旧コソボ軍隊っていうのが駐留してるんです。

大変な戦車が????、しかもその人達というのがスイス、スウエーデン、ドイツ、英国、北米、イタリアの軍隊です。その横でもってコソボの人達はハイキングとかピクニックをやってるんです。本当にね、ピクニックやってる姿は平和そのものです。でも周りはずっと戦車が囲んで守ってるんです。

そこの国境のところに、コソボの国境を入りましてコソボの方に入っていったら道が駄目になりましてね、どうしてもまっすぐ行かなくなったんです。どうしてかっていったらどうも地雷が爆発したらしいっていうんですね。地雷が今だに沢山あるんです。

ですから、対人地雷があるから駄目だって言うので私たち迂回しまして本当にスイスみたいにきれいな山のある、頂上に雪がまだ積もってるようなきれいなところをハイキングしているコソボの平和な家族がいっぱいいるんですね。そこに戦車が周りにダーッといるようなそういう状況ですけども。

そこでももう一つ面白いことがあったのは、南アフリカのケープタウンから来てるドミニコ会の神父様が作っている「トレランス・ビルデイング・プログラム」っていうのがあるんですね。つまり「和解を促成(?)しようとするチーム」なんです。

そこでは、男女コソボの人達でアルバニア人とかボスニア人とかコソボ人とかトルコ人とか、それからロマ、シンテイ、ジプシーとか皆混ざってるんですけれども、そういう人達と神父様とでチームを作って何をしてるかっていうとね、ウイークデイに家族を集めたり、ご婦人を集めたり、夜になるとご主人達を集めたり、昼間また子供達を集めたり、学校の先生を集めたりして、民族間の憎しみを取り除く教訓を教えています。

みんなイスラム教徒です。指導者が神父様一人です。僕も質問したんです。「動機は何ですか?お互いに和解をする動機は何ですか?何を根拠に和解をしなきゃいけないんですか?」って聞いたら、「カトリック教会の社会教説です。」聖書は読んでないんです。

でもカトリック教会の社会教説を神父様は読んで、教えて、聖書も教えてそれによって人権というものを教えて人間というものはみんな平等なんだと。みんな神の子なんだと。イスラム教徒もそれが分かるんです。だからお互いに助けなきゃならない、ということに一所懸命になるわけですね。

私はとっても感心しました。一所懸命努力してるんです。

民族紛争、民族紛争って外面的にはやってますけども、そして組織に連動してやってますけども、そういう小さな教会の運動、カトリック教会の人数としてはほんの少しですよ、コソボにしても、マケドニアにしても。0.何%ですよ。でもその人達がいろんなカリタスの努力とかNGOとかそういう人達と共に一生懸命働いているんですよ。

それでなんとかして平和の和解、そしてさっきからお話ししているお互いの民族の違い、習慣の違い、それは本当にたいへんでしたね。

僕は前に留学してたときがあるんですけどね、若かりし頃。ローマに留学してたときに食堂の席って決まってるんです、1ケ月。その頃厳しかったですからね。そして目の前にいるのがね、ハンカチも紙も使わないで鼻かむわけですよ。するとね、その手がどこにいくか気になって仕様がない。どうもスータンにくっつけてるようで。それで彼のこと大嫌いになっちゃうんですね。習慣の違いからね、憎しみにまでいくんですね。悪いわけじゃないんですよ、その人。私がそのことを告解したんですね。他に告解の材料ないですから。そしたら神父様に言われました。そんな小っちゃな心持ってるようじゃ、神父になんかなれませんよ、って。だからね、僕は書き出したんですね、彼と僕との鼻のかみ方の違い。そうするとね、人格に触れる問題って一つもないんです。習慣だけなんです。日本はチリ紙みたいなものがあるでしょ。ヨーロッパにはハンカチもあるし、すごい音させて鼻かんだりなんかするでしょ。彼はある国から来てるんだけど、チリ紙もハンカチもないんですね。だから手でこうする。その先はどうなるのかまだ見てない。それで、そのことを朝、黙想するんです。

結局、そういう感じの出会いってつまらんことなんですよ、考えてみれば。その人が悪いわけでもない、こっちがいいわけでもないんですね。習慣なんですね。

アメリカから来た人は靴と靴下がイヤだって、二重に履くのがイヤだって靴下もとって、靴もとって裸足で歩いてるんですよ。そのままベッドに入ってしまうんです。それを考えると寝られなくなってしまう。あの奴どうしちゃってるかなって。つまらんことなんですよ。本当につまらんことなんですよ。国が違えば当然違うんです。

ですけどそういうものを乗り越えてその違いは豊かさに、どう豊かさにつなぐか。まあ、鼻のかみ方の豊かさは、あってもいいのかなと思ったりしてますけども。

コソボの地方の田舎のほうに行きますと銃弾で穴ぼこだらけの家もあるし、その隣に一所懸命建ててる家もあるんです。みんな3階か4階建てなんですよ。どうしてこんなに沢山家の階が多いのかと思ったら、子供が多いんですよ。7、8人なんです。必ず兄弟たちは一緒に住んでるんです。それとお客さんの部屋をとってある。ですからコソボにはキャンプがないんです。難民キャンプが。みんな家に迎える。

彼らは言ってました。我々物質的には以前より貧しくなりました。でも人間を助けることを始めて精神的により豊かになりましたよ、って。ニコニコしていてみんなイスラム教ですよ。

やっぱり痛みを感じて犠牲する、それによってより豊かになるってことは体験しないとわからないということなんでね、私たちは聖書でさんざん聞いているんだけども、こういうことだと思うんですよ。

グローバリゼイションってことから始めましたけれども世界のグローバル化によってまさにこの宇宙船「地球号」、地球村みたいになってきて、世界は一つになりつつあって情報もあってみんながお互い知るようになったし、多民族、多文化、多宗教の人間が一緒になりつつあるということは、国家というものがだんだんもしかしたら民族よりも国家の方の価値が薄くなりつつあるんじゃないかなという感じがするんです、少し。

私はそれはいいことなんじゃないかと思うんです。国家というものはやっぱり怖いですね。あんまり強くなると。

違いを解決するためには、勿論紛争とか競争とか武器、暴力は全然意味がないわけです。どんなに武装しようが意味がないんですね。日本が平和憲法があることは幸いだと思ってますよ。世界でものすごく評価されてるんです。日本で全然いいませんけどね。世界のある国は日本の国を真似て軍隊をやめたんです。パナマとコスタリカ。そこの司教様に言われました。日本はもっとそれを主張すべきだと。平和憲法をこれが21世紀のひとつのモデルなんだと。武器をいくら持ったって勝てっこないんですよね、今。アメリカ位の武器にならなきゃ、日本はいくら武器を持ったって守りもできないですね。むしろ、非武装っていってる方が攻めてくるってことはまずない。世界はそういうことを許さない。国際世論が許さないですね。ですから対話ということが一番大切なんでしょうけど。

2年前の1999年の教皇様の「移民の日のメッセージ」というのがあるんですが、特に小教区について、というのがあります。これは日本語に訳されましたから皆さんお読みになったと思うんですけれど、小教区というのは、例えば逗子教会とか片瀬教会とか山手教会とかいう小教区は本来、そこにはよそ者がいない場所なんです。そういう意味なんです。小教区って字を書いちゃうと全然その感じないですけどね。

小教区を意味するパロキアというのはラテン語でギリシャ語から来てるんですけど、それはよそ者がいない場所なんです。誰でもがアットホーム。ですから、カトリック信者の仲の良い人間同士のクラブじゃないんです。けれど、それになりつつあることあるでしょ。

他の民族、他の国籍の人、他の文化の人、そして教皇様は、他の宗教の人々も入りやすい小教区にしていくとおっしゃってます。だれでも自由に入りやすい、そして憩いやすい、誰とでも友達になりやすい、そういう小教区にしていくんで、われわれ所属している信者にとって都合の良い小教区を作るんじゃなくて、そこに所属している信者がよそから明日来るであろう人のことを考えて、その人が入りやすい入口にしてあげたり、案内を置いてあげたり、設備を作ってあげたり、初めて来た人にはすぐに声をかけるということをするのが小教区なんです。

それから今年の最初に教皇様が「新しい世紀を迎えて」という使徒的書簡をお書きになりましたね。これはカトリック新聞にずっと長く掲載されていましたけれど、この4章は愛の実践ということなんですけど、その43項にこういうことが書いてあります。

共同体の霊性というのはこれから新しい世紀を迎えるにあたって私たちは自分で本当にそれを養うように、誓うように努力しましょう。

共同体の霊性、こういうことなんですよね。

他人の中にある良いものを見つける能力を見つける。やっぱりそうだと思いましたね。他人の欠点というのはあまり努力しなくても分かるんです。すぐ感じちゃうんですね。別に探そうなんて思わなくったって。他人の良いところなんて、そんなの分かるのかって思いますね。あるはずがないんじゃないかなんて、そう難しく考える場合があるんですね、あまり好きじゃない人はね。

でも、どんな人にも良いものがあるんですよ。神の子なんだから。こっちだけじゃないんですから。どんな人にも良いものがあるんだから、他人の中にある良いものを見つける能力を見つける。これが霊性なんです。

他の者が受けたお恵み、賜物が、彼があるいは彼女がいただいたものとみるだけでなくて、あたかも私たち自身もあの人を通して神様からいただいたものとして受け入れなさい。

それは例えば、人が良いものもってますね、声がいいとか、頭がいいとか、話しが上手とか、走るのが速いとか、なんでもいいんです。いろいろ持ってる。そういうものは我々みんなのために神様があの人を通してくださった。僕にもあるんです。僕の持っているものはまたみんなのため、僕のためだけじゃないんです。それが共同体の霊性なんです。

これはとっても素晴しいことだといつもお話ししているんです。

もう一つ。お互いに重荷を背負いながら他者にゆとりを残すような姿勢を作りなさい。

ここはちょっと訳が、ぼくが訳したんですが、あまりうまくいかないんですね。

余裕を残せ、という言葉があるんですね。少し空間を残しなさいというわけです、他人の心に。その人は心配でいっぱいなんです。だからその人の重荷を少しこっちが引き受けてその人の心にゆとりをあげるように努力しなさい。それによってエゴイズムとか、私たち自身のようにとか、お互いの競争意識とか、差別とか、嫉妬とか出世主義とか、そういうものを乗り越えることができる。

これが今年の最初にいわれた教皇様のメッセージとして21世紀を迎えるときに、平和というものを目指すときに私たちがやらなきゃならないことだと思います。

やはり世界にいろんな人がいることに対して無関心でないこと、そして関心を持ったらできることから始める、祈ることを勿論始めなければならないけれども、本当に民族の違う人、言葉の通じない人と出会う努力っていうのは、それは私もローマで一番苦労してるのは言葉です。やっぱり日本語通じないですから、どこに行っても。かならず外国語なんです。

ぼくにとってはね。むこうのイタリー人にとってイタリア語が先ず一つ、自分の言葉通じますからね。公に話せますでしょ。英語の人もフランス語の人もいいですけど。それは辛いですけど、そうやって努力して出会おうと努力することでみんなびっくりしますよ、マケドニアに行って、ローマから日本人が来た、なんて。何で日本人が来たんだって言ってたそうですけどね。良く説明してお互い教会なんだからっていってやるととっても喜んでくれますし、言葉の下手なのも補ってくださるし、自分たちの重荷を分かち合ってくださる。やっぱり、その重荷を分かち合う、それによって一つ、ああ、教皇様に通じるな、と。私はそれを持って帰って報告をするわけですから。

そういうふうにして、世界の教会の苦しんでいる小さな教会に出会えたっていうことが大変喜びになっているらしくて、私も少しはお役に立てるかなと思って努力しております。

以上

(当日の録音テープをもとに書きおこしました。文責:藤沢教会広報部)



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