聖体の神学 聖体奉仕者研修会(99.2.7)  御受難会 國井神父

 聖体についての教会の基本的なオフィシャルなまとめの儀式書「ミサ以外の時の聖体拝領と聖体礼拝」がでています。とてもよくまとまったものですが、この背景にある基本的な教会の体験、考え方をお話していきたいと思います。

 まず、ご聖体の形から入っていきたいと思います。聖公会の有名な典礼学者、グレゴリー・ディックスにカトリックでも使っている「The shape of liturgy」(典礼の形)という古典的な名著があります。神様には形はないけれど、ロゴス、みことばを通してみことばが人となって、目に見える方となられ形をもって現れてくださったキリストの神秘を典礼で祝う時、共同体で祈る時の基本的な形があります。

 ミサの出発点は、最後の晩餐でした。共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では過越の食事、ヨハネではその前日になっています。共観福音書ではイエスは意図的に過越の食事を最後の晩餐に選ばれました。紀元前13世紀にエジプト脱出、シナイ半島を彷徨い、シナイ山でヤーウェと契約を結んだ一連の出来事を祝う過越の祭りを背景とし、イエスはご自分が新しい過越としてキリストの血によって結ばれる新しい契約の中心におられます。そして「これをわたしの記念として行いなさい」という命令を教会に残されました。

 最後の晩餐の時には、たぶん弟子たちにはその意味がわかりませんでした。結局それはイエスの十字架と復活のことだったのです。イエスはこの後のゲッセマニの園、衆議所での宗教裁判、ポンシオ・ピラトの裁判、十字架の刑、三日後の復活を先取りして、いにしえの過越を完成する新しい過越としてご自分をお与えになり、そのことをパンとぶどう酒を使う食事を通して記念していきなさいという命令をお残しになるのです。

 初代教会では、たぶんユダヤ教の安息日の始まる金曜日の晩の家での食事が主の晩餐、パンを裂く場になりました。まずパンの祝福、聖別で始まりそれが食前の祈りとなり、それからフルコースの食事となり、最後の三番目のぶどう酒の祈りが食後の祈りとなりその時に御血の聖別が行われることになります。初めにご聖体拝領をして、それから食事をして、最後に御血の拝領で終わるこれが初代教会のミサの形だったのです。

 もう一つの要素は、土曜日の朝、ユダヤ人の会堂での典礼です。会堂の典礼は基本的にはことばの典礼であり、最初にトーラー(モーゼ五書)を読み、詩編を歌い、預言者のことばが読まれ、ことばの説明の説教があり、共同祈願の先駆けである十八の祝福と祝福してくださる神の賛美がありました。 カトリックのミサは、ユダヤ教から受け継いだものであり、典礼は無から作られたのではなく豊かな先駆けとなるものがあったのです。初代教会では、家での主の晩餐と会堂でのことばの典礼の二本立てでしたが、だんだんキリスト教がユダヤ教から離れていき100年から150年頃、ローマの殉教者ユスチヌスの書いたものを見るとそのころにはほとんど今のミサの形が出来上がりました。ユスチヌスの「アポロギア」の中でエウカレスチア(ミサ)については、前半が聖書、後半がパンとぶどう酒、これをキリスト信者は主の日曜日に祝うとあります。だんだんキリスト信者がユダヤ教から迫害を受け、独立するとユダヤ人の聖日土曜日ではなく、新しい聖日イエスが復活して主となられた日、日曜日に集まり、ミサそのものからは食事は離れ、パンとぶどう酒を象徴的な食べ物、飲み物とする主の晩餐になっていきます。これが基本的なミサの形として今に残っているのです。 特に、ミサの後半部分、感謝の典礼はどういう構造になっているかは、今のローマ教会のオフィシャルな説明としてグレゴリー・ディックスの説を受け入れ、簡素化したものが「ローマミサ典礼書の総則」です。

 「教会は最後の晩餐のキリストのことば、行いを次のように儀式化した。最後の晩餐の食事の席で主イエスはパンを取り、あるいはぶどう酒を取り、感謝を捧げ、あるいは賛美の祈りを捧げ、裂いてお与えになった」

 新約聖書に出てくる最後の晩餐は〔@まずパンを取りA感謝を捧げB割ってCお与えになったDぶとう酒の杯を取りE感謝を捧げFお与えになった〕パンについては四段階、それからぶどう酒については三段階の七段階でしたが、150年の頃になると全て例外なしに三つの段階、あるいは四つの段階にまとめられているのです。パンを取りぶどう酒を取るのが一つの段階であり、パンとぶどう酒の上に感謝の祈りを捧げ、それからパンを裂いて与え、ぶどう酒を与える古代の古い典礼の形がまとめられていたのです。

 「パンを取り、ぶどう酒を取る」というのが奉納であり、「感謝し」が奉献文、「割ってお与えになった」が拝領、交わりの儀であり、ミサの後半の奉納から拝領までの感謝の典礼の基本的な構造はこのように最後の晩餐に帰っていくのです。ここで大切なのは、改正された典礼では、奉納ということばがなくなりました。奉納の行列、奉納の歌ということばが残っているので紛らわしいが「パンを取り、ぶどう酒を取る」ではまだ捧げているのではなく、供え物の準備、食卓の準備する段階なのです。本当の捧げ物は奉献文の中で行われます。

 奉献文は感謝と賛美の祈りのことです。唱えるのは主に司祭ですが、共同体がいっしょに祈るように「主はみなさんとともに」〜「賛美と感謝をささげましょう」から賛美と感謝の祈りが始まります。そして栄唱「全ての誉れと栄光は、世々にいたるまで、アーメン」でひとつの大きな祈りが終わります。

 「割ってお与えになった」のが、交わりの儀として儀式化しました。聖体拝領のことですが、キリストと一致して共同体が一つになることです。

 感謝の典礼の理解の仕方は、準備、感謝の祈り、交わりの三段階なのです。

 聖体の意味について考えていきますが、現代の考え方を理解するために大まかに以前はどう考えられていたかをみていきましょう。

 パウロのコリント前書に出てくる考え方では、主の晩餐、ミサで記念しているのはキリストの死と復活であり、また一つのパンを食べたから一つの体になった、キリストの体になったという共同体の一致を強調しています。その後、4〜5世紀になりますとこのほかにヨハネ福音書から来るいのちの糧、パンがキリストの体に、ぶどう酒がキリストの血になる変化についていろいろな考え方が出てき、またこの頃ご聖体は危ない旅行に出掛ける時等にお守りにも使われました。

 わたしたちに影響を残しているのは中世以降の考え方で、まずパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わる変化、正確には実体変化に強調点をおきます。日本の教会では聖変化と呼びますが、この呼び方はヨーロッパでは使われずたぶん漢字圏だけで使われる呼び方です。この変化で何が大事かというと、ご聖体におけるキリストの現存、そこにおられるキリストは礼拝の対象である、そこで捧げられるミサは、カルワリオのいけにえ、犠牲の再現であるということが非常に強調されました。

 ただ、強調点がこれだけでは足りないのです。主の晩餐の二番目のステップ奉献文の中にご聖体が何であるかが、いちばん古い信仰の証として、教会の活きた体験として100年代から伝わっている祈りそのものの中に現れています。その後、ニケア公会議のニケア信条、コンスタンチノープル公会議、エフェソ公会議、トリエント公会議等があり、難しい公会議の決定が出てくる源には、連綿とした教会の信仰があり、教会の信仰体験が続いていてそれが教会の祈り、特に奉献文エウカリスティアの祈りの中に表されていました。その祈りの中で教会は何を祈ってきたか、今もどのように祈っているのか、そこに聖体とは何かが一番よく表されていると思います。

 毎日曜日に祈っているエウカリスティアの祈りとはどういう祈りなのか、対話のあとまず感謝の祈り叙唱プレファティオがあります。ドイツのユングマンの研究によると、プレファティオのプレは時間的に前ということでなく、空間的な意味での前であり、司祭が会衆を代表して神の前に立って捧げる感謝の祈りであり、ここから奉献文の本質的な要素に入ります。人間同士の感謝の場合もその内容をことばで表しますが、神様の場合も同じで神様がして下さったことをことばで表します。天地創造を感謝する叙唱も少しありますが、ローマ典礼の八割は救いの歴史の感謝です。特に救いの歴史の頂点となるのはキリストの死と復活であり、典礼暦を思い出してみると待降節の叙唱、クリスマスの叙唱、四旬節の叙唱、復活節の叙唱、全部救いの歴史の記念です。そのことをことばにだして神様に感謝するのです。

 次に大事な聖体の中心となるのは、聖霊を求める祈り、ギリシャ語でエピクレーシスといいます。この時司祭はパンとぶどう酒の上に手を伸ばし、按手、これは聖霊の働きを求める祈りの動作でありますが、「聖霊によってこの供え物がとうといものとされますように、わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と祈ります。按手の最初のイメージは、創世記の創造の時に聖霊が闇の深淵を覆っていて、神のことばが語られるとそのとおりになったそのイメージです。ルカが書いているお告げの場面「いと高き方の霊があなたを覆い、聖霊によってあなたは男の子を産む」、聖霊の働きによってみことばが人となられる壮大な歴史の流れの中で、司祭がエピクレーシスの祈りを祈ります。

 それから聖体制定の物語が語られます。これを聖別の祈りともいいます。聖変化が何によって起こるか、西方教会ではキリストのことばによって変化し、東方教会では聖霊の働きによって変化するという論争がありましたが、結局解決せず今神学者が言っているのは両方であるということで、ただ東方教会は聖霊の働きを強調し、西方教会ではキリストのことばを強調しています。神の霊が覆っていてそこにことばが与えられるとそのとおりになったのであり、両方の働きが必要です。

 大事なことは、ものの変化、パンがキリストの体になり、ぶどう酒がキリストの血になることがミサの中心ではありません。それを前提としていますが、それ以上のことを祝います。それが奉献文の祈りの中に表現されてきました。聖別の後の司祭のことば「信仰の神秘」に「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで」と答えますが、教会が祈っているのはキリストの死と復活の神秘なのです。神様がキリストの死と復活によって、わたしたちを救って下さる、そのことを祝っているのです。

 「これをわたしの記念として行いなさい」の記念はギリシャ語のアナムネーシスです。日本語では記念ということばは過去のことに使われますが、イエスがおっしゃったアナムネーシスは「このことをあなたがたの心に刻んで忘れるな」ということで、ただ昔のことを思い出しなさいということでなく、イエスがどのような生き方をなさり、どのような死に方をしてければならなかったか、どこまで仕えるものとなり、どこまで自分を徹底的に与え尽くされたか、このことを一時たりとも忘れてはならない、心に刻んでおけという意味です。それを教会は、現在のものとして祝うのです。わたしたちは2000年前のイエスを信じているのではなく、今貧しい人、差別されている人の中にいて苦しみを共にしているイエスを信じているのです。2000年前のキリストを礼拝し、2000年前のキリストに仕えるのではなく現在のキリストを礼拝し仕えるのです。キリストの死と復活の記念を行うという時、キリストの死と復活の力は今も働いていて、神様の救いの力は今も働いていることを心に刻みます。これを記念とか現在化といいます。そこから初めて捧げるという祈りに移っていくのです。

 奉献、ラテン語でオブラーティオ、ここで本当の教会の捧げ物が入るのです。十字架の姿である聖体の制定、そのことを心に刻んで第二奉献文の「わたしたちはいま、主キリストの死と復活の記念を行い」キリストの死と復活を今まざまざと目の前に見て、どのようにキリストが完全な御父への従順のうちに自分を捧げて下さったか、キリストの十字架上の完全な自己奉献に合わせて教会も捧げ物をいたします。これが教会の捧げ物、いけにえなのです。ミサがキリストのいけにえの捧げ物であるという所以なのです。これが奉献、捧げるということの頂点です。準備をするところを奉納とは言わないのはこのためです。教会はキリストの十字架上の完全な奉献から離れて別の捧げ物をすることはできません。教会の唯一の最高の捧げ物は、主ご自身の十字架上の捧げ物です。それに合わせて、わたしたちのつたない全て一緒にお受け入れ下さいと祈ります。これが祈りの心、奉献です。 聖体エウカリスチアとは、まず感謝であり、それから聖霊の働きを求めることであり、聖霊とことばにより聖別されることであり、それはキリストの死と復活を今のものとしてみる現在化、そのキリストの奉献に合わせてわたしたちを捧げることであるのです。今のローマ典礼の奉献文では、この後二番目の祈り、聖体拝領のためのエピクレーシス、聖霊の働きを求める祈り、あるいは聖体拝領の実りを祈ります。ですから第二奉献文では「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが聖霊によって一つに結ばれますように」と祈ります。聖体拝領の実りは一致です。典礼神学の立場からいうと、本来はこの二つのエピクレーシスは一つの祈りなのです。聖霊によってパンとぶどう酒がキリストの体と血となったとしても、それだけでは秘跡にならないのです。聖霊によってキリストの体と血となったその食事にわたしたちがあずかって、聖霊のおかげでキリストの体に結ばれていくそれが秘跡なのです。ミサの中の本当の聖変化は、共同体の聖変化なのです。聖霊によって、キリストの死と復活の神秘にあずかるわたしたちもキリストの体となりますようにと祈るのです。これは東方典礼のダイナミックな理解です。ラテン教会では、長い間典礼は司祭の独占物となってしまっていたので、この共同体の次元を見落としてしまいました。奉献文で祈っていることは、パンとぶどう酒が変化するのはわたしたちが変わるためなのです。

 アウグスチヌスが言っているように、我々は普通何かを食べてそれぞれの自分の体に変えていき同じものを食べても違った体になるが、キリストの体を頂くときにはそれを我々の体に変えるのではなく、我々がキリストの体に変えられるのです。それが、聖変化の目的なのです。共同体の聖変化です。

 この後、教会のため、教皇様、司教様、亡くなった人のため、諸聖人の交わりのための取次ぎの祈りがあります。ある意味ではこれはエピクレーシスの一致を祈る祈りを具体化したものです。最後に栄唱があります。賛美と感謝で始まった祈りが賛美で終わります。 交わりの儀では特に一致を強調したらよいと思います。バチカン公会議の前までは、カトリックは聖変化、キリストの現存、ミサがいけにえであるということを強調しました。それはそのとおりでありますが、それ以外にもこんなに豊かなものがあるのを忘れてしまいました。共同体の大切さ、共同体の信仰の大切さは、トリエント公会議のいろいろな規定よりも かに古い、例えば第二奉献文の源は215年にできたのですが、初代教会から教会がずっと祈っているこの賛美と感謝の祈りの中にエウカリスチア、聖体とは何かが一番よく表されていると思います。大事なのはパンとぶどう酒の変化ではなく、それを土台とした共同体の変化であるということで、神様は一方的になさらずわたしたちの信仰の答えが必要です。我々共同体の信仰が強ければ強いほど、キリストの死と復活の神秘がもっと力強く働くことができるのです。

 ですからミサは司祭が捧げるのではなく、共同体が捧げるのであり司祭もその共同体のミサに司式者として参加します。そのほかに朗読者、侍者、先唱、オルガン、共同祈願、会衆の役割がありそれぞれがその役割を果たし、それで一つの共同体の一つのミサとなります。決して一人の司祭のミサではありません。共同体のミサなのです。基本的な共同体の考え方が奉献文の祈りの中に土台としてあると思います。そしてこういう祈りを祈りながら、わたしたちが聖霊によってご聖体にあずかってキリストの体に変えられていく、そしてこういうことを通してキリストの死と復活を昔の出来事としてではなく、目の前に見ていく、神様はこれほどわたしたちを愛して下さった、キリストはこれほどまでのことをわたしたちにして下さった、その思いを新たにしていくのです。

 「聖体の神学」というテーマだったのですが、聖体ということばに大変な問題があるのです。聖体というとすぐ思い浮かぶイメージは、聖櫃においてあるホスチアですが、それは聖体の秘跡としてはほんの一部分なのです。神様がキリストの死と復活によってわたしたちを救って下さる、それをパンとぶどう酒の形で表しているのです。ですからエウカリスチアの秘跡とは、キリストの神秘、死と復活の神秘にあずかることなのです。秘跡とはものではなく、神様の働きなのです。例えば、入信の秘跡は洗礼、堅信、聖体の秘跡といいますが、別のいい方をすると神様がわたしたちをキリスト者にして下さる働きのことです。ゆるしの秘跡は、神様がわたしたちをゆるして下さる働きです。

 ほかにいいことばがないので、聖体ということばを使い続けますが、それが出てくる源は、教会の一番中心的な祈り、奉献文の祈りに出てくる理解、神様の働きに対する感謝であり、聖霊の働きを求めることであり、最後の晩餐を記念しながらキリストの死と復活を目の前に描くこと、心に刻み込むことであり、キリストの奉献に合わせてわたしたちを一緒に御父に捧げることであり、そしてその中でみんながキリストのうちに一つに結ばれていくことであるという非常に豊かな次元をもった偉大な秘跡です。共同体の秘跡です。共同体として祝うことができるために豊かな次元を理解して、共通の理解をもって共同体の典礼に奉仕して下さい。

質疑応答

Q.ミサに出られない病人にご聖体を配る神学的背景は?

A.150年の文献、ユスチヌスの「アポロギア(キリスト教の弁明)」の中に、助祭がミサに出席できない人に聖別されたパンを持っていくということがにでています。その意味は共同体のミサの中で聖別されたパンを頂くのはイエスさまと結ばれるだけでなく、同時にその共同体の祈りを祈った共同体と結ばれるのです。

Q.洗礼を受けていない方にご聖体を渡してしまうことが、クリスマス等にありますが、どのようにお考えになりますか?

A.全ての秘跡は信仰を前提としていますので、信仰がなければ秘跡にはなりません。

未信者の方が善意の無知で頂いたとしても、恵みにはなるでしょうがだだのパンでしかありません。またそれを冒涜と考えることもないでしょう。

Q.昔はご聖体を頂く何時間前にはものを口にしてはいけないという規定がありましたが今はどうなのでしょうか?ミサ中の咳止めのあめなどはいけないのでしょうか?

A.基本的には、一時間前から控えることになっていますが、病気、薬に関しては一切規定はありません。拝領の直前でも気分が悪くなりそうな時には薬、水を飲んでもいいのです。昔はご聖体についての考え方が違っていたので厳しかったのですが、尊敬をもって準備すればよいのであって、五分遅れたからダメというようなことはやめましょう。「最後の晩餐」では食事の最中に頂いたのですから。

Q.「お互いの足を洗うように」とは?

A.イエスの生涯を同じ観点で見ている共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)と全く別の観点で書かれているヨハネ福音書の四つの福音書に最後の晩餐の話がでてきますが、ヨハネ福音書だけ、聖体の話が書かれていません。そのかわり弟子たちの足を洗うイエスの姿が書かれています。ある意味でヨハネにとってイエスの仕える姿が聖体だったのです。「これをわたしの記念として行え」とマタイ福音書にありますが、ヨハネでは「先生であり、師であるわたしが足を洗ったのだからお前たちも互いに足を洗わなければならない。」と同じことを違う言葉で言います。ヨハネ福音書には直接はご聖体は出てきませんが、イエスに従う人はイエスのように仕える人でなければならないということです。 「これをわたしの記念として行え」にはり、一つは儀式として、もう一つは遺言としてこれをやりながら、わたしがどんな人間であったかを忘れるな、どんな死に方をしたか忘れるなという二つの意味があります。

Q.聖変化とは、パンとぶどう酒を頂くだけでなく自分たちの中に入って変化させなさいということが、ヨハネの言った足を洗うことでしょうか?

A.ヨハネはそういうことを言ったのではなく、ヨハネ福音書の6章でミサから切り離して「わたしは天から降ってきたパンである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を世の終わりに復活させる。」とキリストの体と血について語っています。

なぜヨハネが最後の晩餐にパンとぶどう酒についてふれていないのかわかりませんがヨハネは、キリストの現存よりも、キリストに従う人はキリストのように仕える人になりなさいというキリストの遺言を強調したのだと思います。

Q.昨晩から体調が悪く、ご聖体を頂いて吐いてしまったらいけないと思い今朝のミサでご聖体を頂かなかったのですが、その判断はいかがですか?

A.最後の秘跡で一番大事なのは病者の塗油ではなく、永遠の旅路の糧として頂くご聖体のなのですから、気分の悪いときこそ頂いてください。



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