象徴と暗喩で読み解く「遠藤文学の世界」

−『沈黙』の場合−

横浜女子短期大学専攻/西洋哲学 兼子盾夫

「主よ,あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

目 次

0.「象徴」と「暗喩」の使用−形而下の世界と形而上的世界の重ね描き

1.「象徴」による「重ね描き」T−自然描写の例

2.「象徴」による「重ね描き」U−魂をめぐる「あついたたかい」の例

3.「蝿」−「悪魔的な行為(罪)」の象徴

4.干魚と水−「キリスト」の象徴としての魚と「生命の水」の枯渇

5.「白」い色−キリスト教的神聖(霊魂の無垢,清純)の象徴

6.いくつかの暗喩

7.「キリストの顔(キリスト教の象徴)」の変化−西欧キリスト教から日本的キリスト教へ

8.おわりに神の沈黙の意味−神はほんとうに沈黙しているか

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0.「象徴」と「暗喩」の使用−形而下の世界と形而上的世界の重ね描き

 以前の論文の中で既に指摘したことだが,遠藤の小説には言葉の文字通りの意味とその裏に隠されたもう一つの意味という二重構造がある。遠藤は初期の評論「カトリック作家の問題」の中で「作家の秘密は往々にして,その自然描写に発見されるのだが,モーリアックの自然描写のなかには異端的自然観とキリスト教的自然観のあつくるしいたたかいがある」と言う。周知のように遠藤はモーリアックから小説作法に関して多くを学んだ。だとすれば遠藤の小説のなかにも当然,モーリアック流の異端的自然観とキリスト教的自然観の「あつくるしいたたかい」があると考えても不思議はない。

『沈黙』と言う作品の主題に関しては,これ迄にもさまざまに論じられてきたが,小説作法に関しては,これこれの実験的・意欲的な試みがなされたという指摘は少ない。勿論,例えば『沈黙』の叙述には大まかに言うと三つの語り口があることなどは既に指摘されている。即ち疑似歴史的な語り口(「まえがき」と最終章の二つの日記)・主人公ロドリゴの一人称による語り口(「ロドリゴの書簡」),そして主人公を彼(または司祭)と三人称で呼ぶ語り口(五章以下最終章まで)である。

 これらの語り分けはそれぞれ異なった視点に対応している。即ち個人の主観を排した歴史的視点,ロドリゴという外国人司祭が日本の風景や人間を見る視点,そして彼の運命を物語る作家の視点の三つである。だがこの作品には厳密に言うと,さらにもう一つの視点が秘められている。

それは全編のいたる所に言わば「重ね描き」されているところの「神の視点」であり,作家遠藤の真に伝えたいメッセージがそこに秘められている。そしてその「重ね描き」に必要な道具だてが,キリスト教図像学や聖書神学における「象徴」の使用なのである。

 それゆえ,この小説はとくに「ロドリゴの書簡」から「回想」までの箇所をキリスト教図像学や聖書神学的な「象徴」解釈で読み解くと,そこに秘められた作者の思いがはっきりと浮かび上がるのである。例えば,日本的な自然描写の中に読みようによってはキリスト教対異教のあつくるしい「たたかい」が見てとれるし,さりげない風景描写の背後に西欧的な劇の要素,即ち人間の魂を巡る「神と悪魔の綱引き」の息づいているのが感じられる。あるいはさらに。厳しい運命に翻弄される人間の悲劇の背後にさえ恩寵に満ちた「神のやさしい眼差し」が隠されているのである。



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1.「象徴」による「重ね描き」T−自然描写の例

 例えば,第4章で危険の迫るトモギ村を捨てたロドリゴが夜陰に乗じて船で五島に渡り,早朝に廃墟と化した寒村を抜けていく箇所がある。

<海沿いの狭隘な土地では彼らは生きることも年貢を納めることもできない。貧弱な麦と粟に肥の匂いが一面に漂っていました。そしてその臭気にむらがる蠅が顔のまわりをかすめながらうるさく飛んできます。ようやく明けはじめた空に向こうの山々が鋭い型のような姿をみせ,今日も白い濁った雲には烏の群れが嗄れた声をあげて舞っています>

 これは表面的には西欧人司祭ロドリゴの眼に映じた,山と海が迫る典型的な日本の寒村と,その上空に烏の舞う自然描写の一例でしかないが,いまそこにキリスト教図像解釈と聖書神学的「象徴」解釈を当てはめてみると,この風景はにわかにまた別の様相を帯びて来るのである。即ち西欧人司祭ロドリゴにとっては,この典型的な日本の寒村の風景が極めて敵対的,異教的なものに見えているらしいことが述べられているのだ。

 この描写の中でとくに下線を施した「蝿」「烏」そして「剣」に注目して欲しい。ここでの蝿は,日常生活に見られるところの非衛生なあの好まれざる昆虫ではない。蝿のここでの役割は悪疫の運び手として,悪の伝播に手を貸すれっきとした悪魔の手先なのだ。何故ならキリスト教の象徴体系では蝿は「悪魔の手先」または「罪」の象徴であり,烏は死者の眼や脳を貪り腐肉を好むことから,人間の魂を暗闇に投げ込み知性を冒し,その腐敗を喜ぶ点でやはり「悪魔」の象徴とされるからだ。

 したがってここの,貧しく急峻な段々畑を登っていく司祭,彼を取り巻く周囲の肥の悪臭や蝿のぶんぶんと飛び廻る非衛生な風景・上空に烏の舞うありふれた日本の自然描写は,作者遠藤によってもう一つの,形而上的な意味が付け加えられているのである。即ちそれらの日本的風景・きわめで形而下的な自然描写が,その上に形而上的な意味を重ねられて,悪魔の支配下にある異教的風土,しかも前途に鋭い「剣」のような山が連なる−剣は正義や裁きとともに受難を象徴する−異教的世界のただ中で司祭の前途に横たわる険しい受難の数々を暗示する描写だと考えられるのではないだろうか。

 いくら何でもそれは少々,穿ち過ぎた勝手な解釈だと思われる方に私は反論しよう。数行後に遠藤は烏について,さらに次のような描写を付け加えているのである。

<空は今日も曇っていましたが,蒸し暑くなりそうでした。烏の一団は執拗に頭上で円を描きながら舞っていました。その暗い押しつけるような声は,立ちどまるとやみ歩きだすと追いかけてきます。時々,その一羽が近くの木の枝にとまり羽ばたきをしながらこちらを窺っています。一二度私はこの呪われた烏に小石を投げつけました>

 烏は日本の神話や民間伝承ではけつして不吉な呪われた鳥ではない。むしろそれは神聖な神の使いであつたり,のどかに田園で悪戯する愛嬢のある鳥である。したがってキリスト教的な文脈の中でしか,この鳥に対してロドリゴが抱く過度の嫌悪は説明できない。



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2.「象徴」による「重ね描き」U−魂をめぐる「あついたたかい」の例

 次に魂をめぐる「あついたたかい」の例をあげよう。六章の終わり近く,長崎郊外の雑木林に囲まれた牢屋に囚われているロドリゴが,格子窓越しにたった今,踏み絵を拒否した囚人の一人が処刑されたことを知る場面である。

<剥き出しの中庭に白い光が容赦なく照りつけている。真昼の白い光の中で地面に黒い染みがはっきり残っていた。片眼の男の死体から流れた血である。さっきと同じように蝉が乾いた音をたて鳴きつづけている。風はない。さっきと同じように一匹の蝿が自分の顔の周りを鈍い羽音で回っている。外界は少しも違っていなかった。一人の人間が死んだというのに何も変わらなかった。司祭は格子を握りしめたまま,動転していた。(こんなことが…)彼が混乱しているのは突然起こった事件のことではなかった。理解できないのは,この中庭の静かさと蝉の声,蝿の羽音だった…これが殉教というのか。なぜ,あなたは黙っている>

 遠藤作品に馴染んだ読者にとって下線を施した,この「白い光」が「神の恩寵」の光を指すことは言うまでもない。同じく「風」は聖霊,「蝿」は悪魔の手先,そして「蝉」は−一般的には現世の儚さや移ろいやすさという時間的変化を表す象徴であるが−これも キリスト教的象徴体系から言えば「復活,再生」を指す。それゆえ,ここの箇所をそれらを踏まえて総合的に解釈するとこうなる。

 真昼の処刑の庭には「神の恩寵の光」が強く当たっている。勿論,たった今,無残に処刑された片眼の男の流した殉教の血の上にも。この男の死はけっして無駄死にではない。なぜなら「蝉」,即ち「主の復活」の信仰は先程から辺りに高らかに宣言されているからだ。ただ積極的に人間の行動に結びつく「聖霊」の働きは今のところ見られない。先程から「悪魔の手先」はロドリゴの心の隙を窺ってその顔の周りを飛び回っているが,鋭い衝撃を受けた司祭に感じられるのは,自分が思い描いてきた殉教とあまりにもかけ離れた異質な辺りの静けさと,その静けさを貫く現世の惨さとしての「蝉」の声,そしてひたすら眠気をさそう「蝿」の羽音だけであると。

 即ちここでロドリゴは神に対してこの殉教のもつ不条理性を糾弾するが,彼にはまだこの殉教に秘された神の真意がわかっていない。華やかな栄光に満ちた殉教しか頭にない西欧人司祭にとっては,この場面における殉教はあまりにも惨めで,無意味なだけなのであろう。そう言う意味では,ロドリゴには殉教者の確信する「復活」の信仰が「悪魔の誘惑の声」と熾烈に練り広げている「たたかい」,ましてやその背後にある「神の恩寵」の光を十分に理解することは出来ないでいるのである。だから遠藤はその時のロドリゴの心境をこう表現せざるを得ない。(ロドリゴは)「キリエ.エレイソン(主よ,憐れみたまえ)漸く唇を裏わせて祈りの言葉を呟こうとしたが,祈りは舌から消えていった」



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3.「蝿」−「悪魔的な行為(罪)」の象徴

 たしかにこの作品の中では蝿がたえず出現する。蝿は人間が悪の支配下におかれ,罪を犯す場面でつねに悪魔的な行為の象徴として描かれる。キチジローの最初の出現からして蝿はキチジローに付きまとっている。マカオの貧民街の一室にロドリゴとガルペがキチジローを訪ね,キチジローは薄汚い部屋で酒に酔って二人と対面するが,その場面にも蝿は周到に描き込まれている。

 蝿が活躍する場面はまだある。糞尿譚を愛する遠藤ならではの場面すらある。最初の潜伏先トモギから五島に渡ったロドリゴが人恋しさに彼の先を行く人間の足跡を追いかける箇所がある。突然の驟雨をさけ小屋に飛び込んだロドリゴを驚かせたものはたった今,排泄されたばかりの人糞だった。そこから飛び上がる蠅の群れ。これも一見,自然の摂理のリアルな描写のようであるが,後にキチジローが心ならずも司祭を銀三百枚で売り渡す伏線となっているのである。これ以外にもキチジローの描写には蝿がつきまとう。しかしながらこの作品では,けっして「蝿」はキチジローに固有な属性アトリビュートとして使われている訳ではない。むしろ彼は絶えずいろいろな動物に譬えられている。ある時は蜥蜴に,またあるときは犬に−頻度から言うと犬が一番多い−そしてまた他の時には鼠にさえ譬えられる。したがって悪魔の手先「蝿」はキチジローに固有の象徴ではない。むしろ「蝿」は「悪魔的行為(罪)」一般の象徴であって,ほとんどすべての人間−そこには司祭でさえも含まれる−の所業に関係する。だからロドリゴが捕らわれている牢屋の場面のすべてに蝿(悪魔)は描写されているが,やがて少しづつ出番は減ってくる。例えば第五章の牢屋の場面以降,蝿はロドリゴの眼に映ずる画面から消え去ることはないが,それでも少しづつ言及は減る。そして第六章で片眼の男が処刑されてしまった後,第八章に至ると最後通牒的にロドリゴに転びを勧めにくる通辞が「そうか…−.仕方ない」と呟く場面以降,蝿はもう姿を現わさない。作者によると悪魔の誘惑は終わりを告げた。悪魔はロドリゴの魂をつり上げようとしたのだが,もう彼は神の恩寵の支配下に入ったのだ。

 ここでキチジローの裏切りの真相にも一言,触れておくべきだろう。つまりキチジローははたして最初からロドリゴを売り渡すつもりだったのかどうか。よく読めば彼は悪魔の手先ではなく、ただ極端に臆病なだけである。即ち喉の渇きを訴えるロドリゴのために水を酌みにいったキチジローは,そこで役人に見つかり脅かされてロドリゴの居所に案内してしまう。もし最初から売り渡すつもりだったなら,野宿の夜こそ絶好の機会だった筈だ。また遠議の「象徴」の使用にここで再び我々の注意をむければ,キチジローにはこう言う描写も付け加えられていることに気がつく。即ち彼が長虫(蛇)を捕獲しては袋にいれる件である。「おいたち百姓はこの長虫ば薬の代わりに食いよっとです」(全集2,p.239) しかしここに必ずしも蛇が出てくる必然性はない。だから蛇を捕獲することに熱心であるという描写は,キチジローの本質にふれる作者の示唆的なメッセージであると考えられるのである。蛇はキリスト教の象徴体系では言うまでもなくサタン悪魔自身の象徴であるから。



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4.干魚と水−「キリスト」の象徴としての魚と「生命の水」の枯渇

 ギリシャの哲人ターレスは水は万物の根源アルケーであると考えたし,かのアリストテレスも『形而上学』の中でその理由を述べている。たしかに水は自然界でも動物の生存にとって必要不可欠な物質だが,キリスト教の象徴体系ではさらに神学的根拠をももつ。即ち水は浄化と潔白の象徴であり,罪を清め新生をもたらす物質として扱われる。それゆえ,水は洗礼の秘跡に用いられるのだ。周知の如く「ヨハネによる福音書」4・14でもサマリアの女にイエスは一杯の井戸水を所望し,逆に女に永遠に渇くことのない「生命の水」を与える。

 魚は「イエスス・キリスト・神の子・救い主」のギリシャ語の頭文字アクロニムとその綴りが同じなため,初期キリスト教徒によって「主イエス」の象徴として使われた。それを念頭においてロドリゴがキチジローにすすめられるままに「干し魚」を食べる箇所を見て欲しい。トモギから五島に渡ったロドリゴは焼き討ちにあった部落でキチジローに追いつく。「バードレ,お久しゅう」彼は卑屈な笑いを浮かべてロドリゴに尋ねる「何ばしに,島に来んさったとですか。こん島ももう危なか。しかし俺あ,かくれの残っとる部落ば知っとりますけん」と。

 しかしロドリゴはキチジローの通過する部落が次々と役人に襲われることから,彼を役人の手先ではないかと疑念を抱く。キチジローは足を引きずりながらロドリゴを追いかけ,ロドリゴはバードレの値段が銀三百枚だと聞かされる。その夜は野宿することになり,キチジローはロドリゴに袋から幾つかの干し魚をだし「食べなっせ」と勧める。キチジローを疑いの眼で見つめるロドリゴだが,眼の前の焚き火に塩魚があぶられ,うまそうな匂いがあたりに漂うともう抵抗できない。

<歯をむきだし,私はあさましくその干した魚にむしやぶりつきました。たった一きれの魚で私の心はもうキチジローと妥協していたのです>

 翌日,喉の重きに耐えかねてロドリゴはキチジローに水を求める。「水んほしかとですか。あげん干し魚ばベラっと食べなさったもんな」キチジローの罠に嵌ったかと後悔するロドリゴだが,この「渇き」は単に生理的な渇きのみならず,「永遠の生命への渇望」黙示録7-16をも意味していることは言うまでもない。水を酌みにいったキチジローは役人に脅かされてロドリゴを売り渡す。しかしキチジローが最初から計画的にロドリゴを売るつもりでなかったことは前夜の行動−「バードレ,眠っとんなっとですか」とキチジローがきき,ロドリゴが眠ったふりをしていると,キチジローは静かに小用にたち,すぐまた帰ってくる−で明白である。

 この場面の.「干し魚」は「魚」が「キリスト」を象徴することから,永遠の「生命の水」が干上がったままの,迫書下のキリシタンたちのその時の状況を象徴していると考えられるのではないだろうか。



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5.「白」い色−キリスト教的神聖(霊魂の無垢,清純)の象徴

 この作品では随所に「白い」色が象徴として使用されている。「マタイによる福音」では「変容」に際しイエスの「服が光のように白くなった」17-2とかキリストの墓に下った天使の「衣は雪のように白かつた」28-2とあることから,その源は勿論,例えば『旧約」詩篇51−9にまで遡るのだが「白または白色」はキリスト教,もしくはキリスト自身の聖性の象徴である。他の作品でもそうであるが,遠藤の作品中の「白」は必ずしも通常の日本的表現としてそぐわない印象をうける。しかしそれらをキリスト教の象徴体系の中で考えるならば,なるほど,ここでの「白い」という描写の意味は「キリスト教,もしくはキリスト自身の聖性」の意味なのかと合点がいく。それを念頭において以下を考えてみよう。

(1)「白い雲」−「キリスト(神)の乗り物」または「玉座」の象徴

 第八章でロドリゴは主の苦難と自らの受難を重ね合わせ,かつてないほどの精神の高揚を覚える。その彼は裸馬の馬上から午後の光にかがやく湾の向こうに,大きな入道雲を見る。入道雲は金色に縁取られ,なぜか空の宮殿のように白く巨大だった。いままで数限りなく入道雲を眺めながら,司祭はこのような感情で眺めたことはない。日本人信徒の歌う悲しいだけの例の調べ,「参ろうや,パライソ寺に参ろうや」の唄も初めて彼の耳に美しいものに響く。「自分がガルペや彼らとつながり,更に十字架上のあの人と結び合っているという悦びが突然,司祭の胸を烈しく疼かせた」。「湾のむこうに大きな入道雲が金色に縁どられながら湧いていた。雲はなぜか空の宮殿のように白く巨大だった」というこの箇所は明らかに遠藤が『旧約」の「主の栄光」に重ねている箇所だ。即ち主の栄光は雲のなかにあらわれ「出エジプト」16−10,また雲のかたちをとってソロモンが建てた「神殿」を満たす「列王」上8,10−11。そしてまた「黙示録」には最後の審判に際して「人の子」が輝く雲に坐し,手にもった鋭い鎌で地上の刈り入れをおこなう(14−16)とされるからである。

 したがってここの白く巨大な宮殿のような入道雲が金色に縁取られている光景の「白」はキリスト(教)を指し「金色」は神聖な(神の)色だから,白く巨大な宮殿の解釈は,即ちキリストの治める天の宮殿(天国)に殉教者が栄光に満ちて迎えられること(の悦び)を象徴していると考えられる。

(2)フェレィラの流す「白い涙」−誘惑者サタンは救われているか

 この小説でロドリゴがユダならば,フェレイラはサタンである。長与善郎の『青銅の基督」ほどではないにしても,この『沈黙』のなかでフェレイラはオランダ商館員の眼からはやはり悪人に措かれている。つまりフェレイラは決定的な場面でロドリゴに踏絵を踏むようすすめる誘惑者には違いないのだが,神の眼からみて彼は果して救われているのかどうか。それとも神は棄教後のフェレイラをやはり見捨てられているのか。『沈黙』と同時平行的に作られた戯曲『黄金の国』では,彼はちょうど『沈黙』におけるロドリゴの役を演じている。すなわち無辜の農民信徒の苦しみを救うためフェレイラは心ならずも「踏絵」を踏む。ユダの役は嘉助という農民がはたす。彼は嘉助に売られるのだが,彼の踏む踏絵はイタリア大画家の描いた西欧的キリスト像ではなく彼自身の手によって稚拙に描かれた日本的なキリスト像なのである。さらにここで『沈黙』という作品に限って検討してみても,フェレイラはやはり救われていることが遠藤によって示唆されているのではないか。

 西勝寺というお寺でロドリゴがフェレイラに再会する場面がある。司祭としての名誉も誇りもなにもかも奪われて,ただ生ける屍となった彼がキリスト教を否定する書物を書かされているとロドリゴが知る場面。「むごい」ロドリゴは思わずつぶやく。「どんな拷問よりこれほどむごい仕打ちはない」顔をそらしているフェレイラの眼にそのとき突然,白い涙が光ったと遠藤は描いている。

 このときの白い涙の「白い」という形容詞は日本語としてはいささか奇妙な−日本語の「白い」は例えば切腹に赴く武士の白装束や花嫁の白無垢姿などという「ハレ」を表す形容詞かまたは「白々しい」嘘をつくと言うような,「純然と混じり気なし」のと言う意味における用法が適切だ−表現だがこれは他ならぬ「神の恩寵」を象徴する白色の意味なのである。つまり遠藤は裏切り者,そしていまやロドリゴを誘惑するサタンと堕したフェレイラにさえ,神の恩寵の光がやはり注がれているのだと言いたいのではなかろうか。次に「白い光」がもっと意味深長に使われている例をみよう。

(3)踏み絵の場面に描かれた「白い光」−「神の恩寵」の象徴

 フェレイラはロドリゴに言う「もしキリストが,ここにおられたら,基督は人々のために,たしかに転んだだろう」と。しかしそうであろうか。「この状況下ならキリストご自身も愛の実践のために踏み絵を踏むだろう」というフェレイラの言葉ははたして正しいのだろうか。その言葉に押されるようにして「踏絵」を踏んでしまったロドリゴの判断は正しいのだろうか。神の意図を知ることは難しいが,少なくとも作者遠藤がどう考えていたかについては,この場面の「象徴」や「暗喩」の解読から推察できるのではないか。

 フェレイラに再会した後も転ばないロドリゴに井上筑後守はいよいよ,最後の老練な心理戦を仕掛ける。死刑が翌日に行われることを予想させる市中引回しの後,ロドリゴは「受難のキリスト」と自己を同一化し,キリストとの連帯の悦びに浸る。しかし漆黒の夜の闇の中で,理屈ではない死の恐怖と孤独に怯えるロドリゴ。そんな彼の耳に最前から聞こえる牢番のいびき。他人の死や苦しみに臨んでも眠りこけることの出来る牢番の無関心をわらうロドリゴだが,実のところ,それはいびきではなく穴つりにあって苦しむ信徒の瀕死の叩き声だった。フェレイラから真相を聞かされ 己の倣慢にロドリゴは衝撃を受ける。今や動揺し.殉教の決意に綻びの見えたロドリゴに対し,フェレイラの「もし基督がここにいられたら...」という最後の一撃が加えられる。

 フェレイラの誘惑に必死になって抵抗するロドリゴ。「わしが転んだのはな,わしの必死の祈りに神は何も答えなかったからだ...」「あなたはもっと神に祈るべきだった…そして殉教する信徒には天上の栄光が待ち受けている筈だ」とロドリゴは言う。しかしロドリゴのロから出るすべての奇麗ごとや護教的なたてまえ論はフェレイラによって一蹴される。「わしは祈ったとも。しかし祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい」フェレイラは続ける。「わしだってそうだった。あの真っ暗な冷たい夜,わしだって今のお前と同じだった。だが,それが愛の行為か。司祭はキリストにならって生きよという。もし基督がここにいられたら」司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら。このフェレイラの言葉ははたして悪魔の誘惑か,それともキリストに倣う真実の愛の言葉か。

<フェレイラは一瞬,沈黙を守ったが,すぐはっきりと力強く言った。
「たしかに基督は,彼等のために,転んだだろう」
 夜が少しずつあけはじめてきた。今まで闇の塊だったこの囲いにもほの白い光がかすかに差しはじめた。
「基督は,人々のために,たしかに転んだだろう」
「そんなことはない」司祭は手で顔を覆って指の間からひきしぼるような声を出した。
「そんなことはない」「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」「これ以上,わたしを苦しめないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ」司祭は大声で泣いていた。門が鈍い音をたててはずれ,戸が開く。そして開いた戸から白い朝の光が流れ込んだ。
「さあ」フェレイラはやさしく司祭の肩に手をかけて言った。
「今まで誰もしなかった一番幸い愛の行為をするのだ」>

 よろめきながら廊下を進むロドリゴをフェレイラは後ろから押す・・・。踏み絵は今,司祭の足元にあった…。黎明のほのかな光。光は剥き出しになった司祭の鶏のような首と鎖骨の浮いた肩にさした。作者は筆を抑えてはいない。理性的な正邪の判断や冷厳な論理性を離れ,ときに遠藤作品の持ち味の一つですらあるセンチメンタリズムぎりぎりの所で,作品の最大の山場に向かって二人は進んでいく。しかし我々は冷静に判断してみよう。「基督は愛のために転んだだろう」というこの判断は例えば『深い河』の大津の「もしあの方が今,この町におられたら・・・彼こそ行き倒れを背中に背負って火葬場に行かれたと思うんです」という言葉と比較してみたらどうなのか。その場合は純然たる愛の行為で何も問題はない。しかし『沈黙』のロドリゴのこの判断はどうであろうか。そこには純粋な愛の実践以外には何もないだろうか。彼の人間的な怯えは介在していないのか。小説のかなり早い段階から窺われる彼の過多な憐憫についてはどうなのか。勿論,憐憫それ自体は自然の情の発露であり非難すべきものではない。しかしほかならぬ司祭が他人に対する憐憫という陥穽に足を掬われたならどうであろうか。勿論,他人とともに苦しむこと,他人とともに痛みを分かち合うことが罪だと言うのではない。もしそうだとしたら病人を憐れむ福音書のイエスは罪人になってしまう。

 そうではなく一時的に愛の行為に見えようとも,神の目からみてそれが偽りの愛の行為であれば,神はそれを嘉みされることはないということだ。しかしではその「神の判断」を人間はどうやって知ることが出来るのだろうか。それは容易に我々人間には知ることのできないことだ。ここで紛れもなく,我々一人ひとりが遠藤によって決議論的な問いを突きつけられている。しかし翻って作者遠藤がどう考えていたのかは,この場面の「象徴」や「暗喩」からはっきりと推察できる。

 ヒントになるのは,上の場面の「白い朝の光が流れ込んだ...。黎明のほのかな光。光は剥き出しになった司祭の鶏のような首と鎖骨の浮いた肩にさした」という描写である。悪の支配を象徴する「夜の闇」は微かな白い朝の光によって破られる。たしかに朝の光は情景の描写として「白い」という形容詞を付けてもそれほど違和感はない。しかしここの「白い光」もまた単なる自然の光の色ではなく,「神の恩寵(の光)」の象徴なのだ。鶏のような首という表現も栄養不足と体力の衰えを指す囚人のごく自然な描写とも見えようが,やはりそれ以上の意味が「鶏」のもつキリスト教聖書神学的「象徴」として,作者によって敢えてここに付け加えられているのではないだろうか。

<司祭は足をあげた...。この足の痛み。その時,踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。
 私はお前たちに踏まれるために,この世に生まれ,お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をかけた時,朝がきた。鶏が遠くで鳴いた>

 上の引用の「闇」の塊とは「真っ暗な夜の静寂」という自然の描写に重ね合わされて「完全な悪魔の支配(神の光が閉ざされている)」の意味がある。また司祭の「鶏のような首」とは劣悪な環境のなかで,心身ともに痩せ衰えているロドリゴの肉体の状態を示す記述でもあろうが,ここに態々,「鶏のような首」と遠藤が描きこんだのは他でもない。「鶏鳴」や「雄鶏」というキリスト教的象徴為を意識してのことである。即ち「雄鶏」は人の子の到来に対して常に注意深く目覚めていることの象徴であり,真の光の告知者である。また古代キリスト教の墓石と石棺の上に描かれた「雄鶏」は死の夜の後に訪れる新たなる日を指し示しており,そう言う意味で「復活」の象徴でもある。

 勿論,ここでの「鶏(雄鶏)のような首」とは,第一義的にはペテロとともに描かれた場合の「雄鶏」即ち「悔い改めた罪人」の象徴を連想させるものに他ならない。ここでは朝がくるまでに「三度,イエスを否んだ」というあのペテロの裏切り(マタイ26−34)と同じく,司祭ロドリゴが主イエス・キリストを裏切る行為の象徴であろう。

 裏切り者,ユダの身に己を堕してみて初めてキチジローの裏切りを許すロドリゴ。ロドリゴにとって永い問の謎であったユダの許し。そして裏切り者ユダでさえ許す「あの人」の底知れぬ愛の深さ。永い問,澱のようにつかえていた疑問に対する答えは己の裏切りをもって初めて知ることが出来た。そこには,初めて沈黙を破り,語りかける主イエス・キリストの愛があった。したがって「光はむき出しになった司祭の垂のような首と鎖骨の浮いた肩にさした」と言う上の件は,「恩寵の光がロドリゴに降り注いで」おり,キリストはロドリゴの裏切り(憐憫のためにあえて踏絵を踏むこと)をも許して下さっていることを作者は密かに示したいのではなかろうか。



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6.いくつかの暗喩

(1)黒ずんで沈黙する海−「神の沈黙」の暗喩

 日本人信徒がロドリゴの前で殉教する場面は三度ある。その最初の殉教はしめやかで,悲痛なトーンが支配する場面,モキチとイチゾウが水磔の刑に処せられる場面である。長崎で転ばなかった二人の農民はトモギの海で見せしめのため一日中降り続く霧雨の中で杭に縛りつけられ 二日目についに波間に没する。初めは「パライソの寺に参ろうや」と歌って自らを励ましていたモキチも,その隣のイチゾウの頭も再び潮がはりつめてくると暗い波間に隠れる。そこにロドリゴが見るのは栄光にみちた,聖人伝に記された輝かしい殉教ではなく,あまりにも惨めな,あまりにも幸い殉教だった。海はただ陰鬱に黒く拡がっている。丘の上から見下ろしているロドリゴは,海が暗く単調な昔をたてて浜辺に打ち寄せることに耐えられず「この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を−神が人々の嘆きの声に腕をこまぬいたまま,黙っていられるような気がして…」と呟く。その後にも度々,遠藤によって「黒ずんで沈黙した海」が描かれるが,海が黒ずみ押し黙っているとき,それは「神の沈黙」の「暗喩」であると言えよう。

(2)キチジローの分かり難さ−「隠れキリシタン」の暗喩

 かつて武田友寿氏は「遠藤周作の世界』のなかでキチジローが一番の主役であり,ロドリゴもフェレイラも皆,脇役にしか過ぎない。またキチジローが人物像として一番よく描かれていると書いておられるが,私はキチジローと言う人物像には小説の作中人物として,なにかもう一つ判り難いものがあると思う。遠藤の描く弱者には時として聖性が欠けており恩寵の光が十分に当たらぬまま,弱者が単なる弱者に終わってしまうことがある(『死海の辺』のネズミ)。しかしここでの判り難さの主たる原因はキチジローが弱虫で臆病な性格にあるのではない。彼が心ならずも何度も転び−それは彼の天性の怯懦,弱虫に起因するのであろうが−その度毎にロドリゴに対し「信心戻しの告解」を求めて煩くつき纏うことなのである。少なくとも三度,彼はロドリゴに「信心戻しの告解」を求めてやって来る。それ以外にも彼は護送されるロドリゴの近辺に現れては,あるときにはロドリゴの前にそっと食料を置き,またあるときには哀しそうな眼で遠くから見つめる。なぜ執拗なまでに転びと告解が繰り返し描かれるのか。

 以前の私はこのキチジローの許しの秘跡の度重なる要求を判然と理解できなかった。つまり何度,読み返してもキチジローの弱さからの裏切りと罪の許しのための告解が反復される必然性がどうしてもビンとこなかったのである。しかしこのキチジローが「隠れキリシタン」の暗喩メタファーだとする解釈にたてば,キチジローの再三の裏切りと執拗な告解の懇請の意味もすべて了解される。

 即ちキチジロー(隠れキリシタン)が毎年,毎年「踏絵」を踏んでは,後悔の涙を流し信心戻しの「オラショ」を唱える(おそらく無限抱擁的に,何度でも罪を許して下さる母としての「マリア観音」に縋りつつ許しを乞う)隠れキリシタンの暗喩ということがわかりさえすれば。つまりキチジローの反復する裏切り行為とロドリゴに対する再三の告解の懇請はキチジローに象徴される「隠れキリシタン」の屈折した信仰のあり方だったのだ。だから「キチジローが主役である」と遠藤が言うとき,それはキチジローによって象徴される「隠れキリシタン」に対する賛辞オマージュでもあった。しかし勿論,それは手放しの称賛ではない。遠藤はフェレイラと井上の言葉として,教会の指導者をうしなった場合の日本のキリスト教信仰の危うさをも同時に指摘しているのであるから。

(3)「日本という沼地」−「多神教的風土」の暗喩

 即ちフェレイラは棄教後,再会したかつての教え子ロドリゴに対し半ばは自己正当化から,半ばは心底からの述懐として自分の20年に及ぶ宣教の総括をロドリゴに語る。彼は日本人のキリスト教受容に当たつての変容・屈折の傾向を慨嘆する。彼が知ったことはこの国にはロドリゴや彼たちの宗教は所詮,根をおろさぬということ。根をおろさぬのではなく,根が切り取られたのだとロドリゴは反論する。だがフェレイラは司祭の反論に顔さえあげず眼をふせたまま,意思も感情もなく「この国は沼地だ...この国は考えていたよりもっと恐ろしい沼地だった。どんな根もその沼地に植えられれば,根が腐りはじめる...我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」と言う。「キリスト教の神は日本人の心情のなかで,いつか神としての実体をうしなっていった。あれは神ではない。蜘蛛の巣にかかった蝶とそっくりだ。はじめはそれは蝶だが,やがて外見だけは蝶だが,それは実体を失った死骸となっていく…日本人は神の概念をもたなかったし,これからももてないだろう」ともフェレイラは言う。

 フェレイラの言う「宣教師がたずさえてきた苗はこの日本とよぶ沼地でいつの間にか根も腐っていった」という言葉には真筆な諦めがこもっていたと遠藤自身も書いているが,ある意味ではこの台詞は彼の本音の慨嘆でもあろう。

 また井上は日本の多神教的,精神的土壌の中にキリスト教という一神教は根づかない。「五島や生月の百姓たちが奉じているデウスはキリシタンのデウスとは次第に似ても似つかぬものになっている」と言う。これらの警鐘,慨嘆は所謂「日本沼地論」として遠藤が抱く危惧でもあった。だからこそ『沈黙』の続編とも言うべき後年の『侍』のなかでも遠藤は,この「日本沼地論」を先祖崇拝に対する批判という形で継続して問題提起している。勿論,「日本」は所詮「沼地」で,「キリスト教の苗」は育たぬと言う懐疑に対する遠藤の反論は,小説の中ではキチジローとロドリゴのその後を描くことによって象徴的に否定されている。すなわちこのキチジロー「隠れキリシタンの暗喩」は,遠藤が明示的に言わなくても250年後に歴史が証した「隠れキリシタンの人々」の存在とローマ教会への帰一に繋がっていくし,またロドリゴのいう「新しい愛の教え」は小説の最後部の「キリシタン屋敷役人日記」を注意深くよめば,ロドリゴとロドリゴを助ける仲間キチジローの布教の証として微かに示唆されているのであるから。



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7.「キリストの顔(キリスト教の象徴)」の変化−西欧キリスト教から日本的キリスト教へ

 ロドリゴはキリストの顔に惹かれ,いつも心に思い浮かべる。そう言う意味では,キリストの顔はロドリゴの心の変化を映し出す鏡とも言える。キリスト像の変化はじつに13−4回も描かれている。ここでは『沈黙』の中に,とりわけロドリゴの心象に描かれるキリスト像の変化に注目しよう。と言うのも遠藤自身,「異邦人の苦悩』の中で次のように言っているからである。「沈黙という小説は,そこにさまざまの主題が含まれているために,いろいろな批評家から,さまざまな解説や分析を受けたけれども,私にとって一番大切なことは,外人である主人公が,心にいだいていたキリストの顔の変化である」と。今まで,象徴とか暗喩とか述べてきたが,考えてみるとこの作品における遠藤による象徴の最大の使用はロドリゴの抱く「キリスト像の変化」であると言えよう。つまりキリストの顔とはキリスト教の象徴なのだ。そしていままでの象徴や暗喩はそれぞれの場面において隠された作者の思いを伝える道具であったが,それらが言わば,『沈黙』というタピストリーを織る横糸とするならば,このキリストの顔の変化は全編を貫く縦糸としての役割を担っているのである。それを踏まえた上でロドリゴの心象に描かれるキリスト像の変化に注目しよう。

 ヨーロッパから布教の熱意と師フェレイラの転びの真相を確かめにきたロドリゴが当初,懐いていたキリストの顔は威厳のあるキリストの顔である。それはキリスト教美術では「復活のキリスト」といわれるもので,死に打ち勝った復活のキリストの雄々しい自信に満ちた顔である。例えばピエロ・デラ・フランチェスカの「復活のキリスト1458年頃」(サンセポルクロ市立美術館)を想起せよ。しかし転びバテレンのロドリゴの踏むキリストの顔はそのように威厳にみちた美しい西欧キリスト教のキリストの顔ではない。西欧キリスト教のキリストの顔は,日本での迫害の前に無力である。それは殉教者を前にしたロドリゴの悲痛な祈りに対して頑なまでに沈黙を守る。しかし「踏絵」にまさに足をかける時に,彼がみた足下の顔は日本人職人の作った見すぼらしい,哀しそうなキリストの顔であった。が,そのキリスト像はしかし初めてロドリゴに語りかける。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにあるのだ」と。遠藤のキリスト教理解における決定的,画期的な変化はこの顔の変化によって象徴される。つまり沈黙を破って語りかけるのは西欧キリスト教の神ではなく日本人職人が見様見まねで作った日本人のキリスト像なのだ。

 小説の進行とともに少し具体的に跡づけてみよう。それは先ず学生の頃にポルゴ・サンセポルクロで見た王者たる威厳にみちた復活のキリスト像のもつ「力強い雄々しい顔」に始まり,五島での逃避行の最中に抱く「最も美しく,最も聖らかな顔」を通じて,「何者も侵すことの出来ぬ,何者の侮辱をも許さぬ顔」から,やがてガルペの殉教を経て,「苦しんでいる顔」へと変わる。苦しんでいるキリストの顔,ロドリゴにとって最初,苦しんでいる主の顔だけはなぜか遠いものに思えたが,しかしあるとき牢屋の中でその顔ははっきりと焦点を結ぶ。ついで「受難のキリスト」に自己同一化して殉教に向かって高揚しているロドリゴの心が映し出すあの人の顔はかってないほどいきいきしたイメージで彼に迫る。殉教への道中で「苦しんでいる顔,耐えている顔」,その顔にロドリゴはますます近づく。ここにはともに「苦しむ神」の顔がある。主は言われる。「お前が苦しんでいる時,私もそばで苦しんでいる。最後まで私はお前の側にいる」と。しかし最後の晩,牢屋の中でロドリゴの死への恐れが強まり,「受難のキリスト」との一体化も力をなくした。その時,彼がイメージしたものは「血の汗を流したあの人の歪んだ顔」だった。

 次に彼が見るのは,想像によるあの人の顔ではなく,足元にある「踏絵」のキリストの顔である。それは細い腕をひろげ,茨の冠をかぶった「キリストのみにくい顔」だった。踏み絵後の回想によるあの人の顔もやはり,やせこけ,疲れ果てていた顔だった。それは今まで司祭がポルトガルやローマ,ゴアやマカオで幾百回となく見てきたキリストの顔ではなかった。それは威厳と誇りをもったキリストの顔ではなかった。彼の足元のあの人の顔はやせこけ,疲れはてていた。夜,風がふくと(聖霊の見守る中で)ロドリゴはあの人の顔を心に浮かべる。その顔は踏み絵の中で磨滅し,凹み,哀しそうな顔をしてこちらをみている。踏むがいいと哀しそうな眼差しはロドリゴに呼びかける。このキリストの顔の変化とキチジローに対する司祭の気持ちの変化は最後の踏絵の回想の場面で一つに結ばれる。即ちロドリゴがキチジローを心の底から許すことが出来たのは。踏絵を踏むことで自らをユダの立場に落としてみて初めて可能だつたのだ。そしてそのとき初めて「神の沈黙」の意味が彼にも了解される。それにしても何という野心的な作品,しかも小説として練度の高い作品なのであろうか。今回,丹念に読み返してみてつくづくそう思う。



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8.おわりに神の沈黙の意味−神はほんとうに沈黙しているか

 この作品において表面的には神は沈黙したままだが,作者遠藤は「象徴」や「暗喩」を駆使することによって,じつは神をして雄弁に語らせているとも言える。つまりここで神はほんとうに沈黙しているか問われねばならない。主人公ロドリゴは「神の沈黙」の意味を図りかねて「神の存在」そのものをも疑う。「神の沈黙」から導きだされる推論は次の三つである。つまり(1)「神は存在しない(故に神は沈黙している)」(2)「神は存在する,しかしなぜか沈黙している」(3)「神は存在し沈黙していないが,我々が神の言葉を聴く耳を持たない」。主人公は最後に三番目の結論「神は沈黙されていないで(苦しむものとともに苦しまれている)」に到りつくのだが,そこまでの「彼の心の変化」は彼が抱く「キリストの顔の変化」によって象徴的に映し出される。この作品の象徴の使用で最大のものは,じつにこのキリスト像(顔)の変化なのだ。即ちロドリゴが自らを「復活のキリスト」や栄光に満ちた「受難のキリスト」と無意識的に同一化している時には神はあくまで沈黙されたままである。しかしロドリゴが裏切られ 裁かれ,理屈ではどうしようもない死の恐怖にうち震え,牢獄で孤独のうちに夜を過ごし,ついには踏絵を踏むことで(殉教者に許された)栄光をすべて剥奪されたときに,キリストが裏切り者ユダに示された無限の愛を理解する。そしてそのとき初めて「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにあるのだ」と神は沈黙を破られるのである。

 つまり彼が西欧キリスト教の強者の論理に縛られている時には,それは西欧の名画に描かれた雄々しく美しい「基督の顔」であったが,次第にそれは痩せこけ,疲れはてた,日本人職人の稚拙な踏み絵の中の「あの人の顔」,凹んだ眼で「踏絵」を踏もうとする人を見上げる悲しげな顔へと変化する。畢竟,キリストの愛は綺麗な,優れたものに向けられたのではなかった。それは卑しいもの,醜いもの,どうしようもなく弱いもの,時には唾棄すべきものに向けられていたのだ。そのことにロドリゴが徐々に気がついていったとき,キリストは「沈黙」を破られたのだった。「踏むがよい。私は踏まれるためにあるのだ」と。

 ロドリゴは穴吊るしにあって苦しんでいる農民信徒を救うために自らも「踏絵」を踏み,裏切り者ユダの立場に身を堕して初めてキリストの極みのない愛を知る。彼が知ったのは天上の高みから,迫害される信徒の苦しみの前に「沈黙」する神ではなく,みずから病み傷つき悶えともに苦しむ神だった。ここには闘病生活から得た遠藤自身の「神の沈黙」に対する体験的理解がこめられている。そしてこの主人公が最後に到達する「神は沈黙されていない。そうではなく神は苦しむものとともに苦しんでおられたのだ」という「神の沈黙」に対する解答が「ユダの救済」と密接に結びついていることは意味深い。即ち自ら裏切り者ユダに身を堕してみて初めて知るキリストの愛であるから。しかしキリストの愛とは,なぜユダの身に己を堕して初めて分かる愛なのか。なぜ自ら裏切り者にならなくては理解できぬ愛なのか。それはたぶんキリストの前にたったときに,一切の誇り得るものを奪われ,只,惨めな屈辱と後悔の中に己の身を置かなくては,人間の身には本当の「砕けたる魂」(詩篇51・19)に到達し得ないからではないだろうか。

 主の受難にあやかり,殉教の栄光に酔っているときではなく,愛のためとは言え,殉教の栄光を一切剥奪されたときにはじめてロドリゴは神の声を聞く。つまり「砕けたる魂」にのみ神は「沈黙」を破られたのだ。



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