梅村司教の「司牧書簡」

『交わりとしての教会をめざして』の解説

横浜教区司教総代理 A.V.カンペンハウド

久しぶりに司牧書簡が出されました。司牧書簡という言葉は聞き慣れないので、戸惑う方もおられるでしょう。司牧書簡というのは司教が教区のすべての信徒、修道者、司祭にぜひ考えてもらいたいことを知らせる文書です。この書簡で、梅村司教は、教区の未来をどういう観点から考えるべきかということを、わたしたちに示してくださったのです。キリストから使徒たちに委ねられた信仰は、教会へと受け継がれ、2千年のときを経て現在に至っています。司教はこの「信仰の遺産」を忠実に保ちながら、この現代社会に生きる神の民を導く責務を負っています。その意味で、この司牧書簡は、わたしたちすべての横浜教区民が、来たる21世紀という新たな時代に、キリスト者として信仰生活を送っていく上での「理念」であるとも言えるでしょう。この「理念」に基づいて、わたしたちの日々の現実を振り返るとき、そこからさまざまな具体的課題が見えてくるのではないでしょうか。梅村司教はこの司牧書簡をもとにした、個別具体的な提言を、教区民のわたしたちに求めているのです。

この書簡を読んだわたしの感想をここで述べさせていただきたいと思います。「教会」は、「集まり」「集会」ということばに置き換えられて表現されることがよくあります。
教会とはまさに神の民の「集い」だからです。典礼の中でも「神に集められたわたしたち…」と祈ります。この考え方は重要であり、今後とも教会を考える上で基礎となる概念です。しかし、最近はこの「集まり」がどのようなものなのかを強調するために、「コムニオ」すなわち「交わり」という言葉をよく使うようになりました。
集まることによって皆が画一化されるわけではありません。皆が自分のもっているタレントを交わし合うことによって、ますます豊かにされ、また自分の弱さを補い合うことによって、強められたりするのです。神様がお望みになる一致とは、互いのカリスマを尊重しながら一人ひとりの成長を希望する、愛の関わりのことではないでしょうか。

このように考えるとき、「コムニオ」と「連帯責任」を切り離すことができないということに気づきます。神様の望まれる「コムニオ」を造りあげることは、わたしたち一人ひとり、またわたしたちが属している共同体の責任です。
聖職者の責任だけではなく、キリスト信者一人ひとりの責任です。自分の家庭において、自分の働く場において、自分の小数区において、福音的な交わりの道具となる使命をわたしたちはいただいているのです。
教会について考えるならば、司牧書簡に出されているように、教区と教区、教区と小教区、小教区と小教区、小教区と修道会、日本人と滞日在日外国人、高齢者と青少年など、それぞれの特徴、カリスマを認めた上で、協力の精神、助け合う心を養うことが必要でしょう。
このすばらしいチャレンジに、喜んで応じたいと思います。

ここで聖パウロの.言葉を思い出します。「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ロマ12:4−5)わたしたちが教会の兄弟姉妹を選んだのではなく、神様がわたしたちに兄弟姉妹を与えてくださったのです。皆、考え方も性質も違いますが、この違いを「やっかいもの」として受けとめるのではなく、豊かな交わりのためにむしろ必要なものと考えるべきではないでしょうか。
最後に教区の交わりの道具と責任者である司教の導きを仰ぎながら、ミサのはじまりに交わす挨拶の一つである「コリントの信徒への手紙2」の結びの言葉を、自分の祈りにしたいと思います。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように」



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