「ミサの中の、歌の役割」

六月四日(日)の朝九時半ミサから、午後二時半まで、典礼部の研修会でフランシスコ修道会司祭 南雲神父が話された内容を、整理して縮小し、まとめました。録音テープもありますのでお聞きになりたい方は典礼部にお申し出ください。

キリストのからだ全体の参加

 第二ヴァチカン公会議でヨハネ二十三世が一番したかったことは、ミサ典礼の刷新でした。

 六世紀以降次第に変わりはじめ、何時の間にか聖職者中心のミサ典礼になってしまっていたのを、初代教会のミサ本来の姿である、キリストのからだ即ち、キリストをかしらとする信徒共同体全体の参加するミサ典礼に戻したかったのです。

 「ミサにあずかる」ということばは、聖職者中心のミサ典礼にあずかる信徒の気持ちをあらわして居ます。四世紀のキリスト単性説等異端から信徒の信仰を護ろうとして、教会はキリストのからだ即ち、聖体の神聖さへの崇敬を極端なまで強調するようになり、罪を考えミサで聖体拝領できないと思う人や拝領させられないと思う人を増やしてしまったことも聖職者中心を助長したようです。

 しかしミサ典礼の目的はあくまでも、救いのみわざに感謝して聖霊を受け、信徒がキリストのからだになる、ということです。

 ですから今わたしたちは、ミサに参加すると言うようになり、この刷新が今、ミサ典礼における信徒の祈りの姿勢にあらわされます。

ながらく見失われていた祈りの本質

 六世紀から変わりはじめたミサは、十三世紀頃にはとうとう、選ばれた限られた人たち特定の人たち、のためのものになっていました。例えば祭壇の近くは、金持ちや貴族の人たちの席で占められ、ちょうどイエスの時代の、ユダヤ教のように、祭儀から排除され祝福されない人たちがたくさん居ました。また生きている人のためではなく、金持ちや貴族の家族である死者の取次ぎを願うミサも盛んでした。そして、ミサは一体何のためか、キリストのからだは何のためなのか、を見失っていました。

 その後いろいろな出来事があり、たくさんの犠牲者を出しながら、ようやく第二ヴァチカン公会議で、その見失われた初代教会の本質をミサに取り戻そうとしたのです。

キリストを頭とするからだ全体の祈り

 聖体拝領のためにある「主の食卓」は、聖職者中心のミサで意味を失い「祭壇」になりとうとう壁にくっついてしまったのです。そしてミサに預かっても、聖体拝領できないたくさんの信徒のために、ミサの終わったあとせめて聖体を拝ませようとはじまったのが聖体礼拝式でした。

 しかしわたしたちが「主の食卓」を囲むのは、父の遣わされた御一人子イエス・キリストの実現した神の救いのみわざを感謝し、その聖霊を受けた一人一人が、キリストを頭とするからだの各部分になろうとするのです。

 ですからミサは、共同体の祈りであり、祈りはキリストのからだ全体に結ばれた者の祈りの他にはありません。

ミサの二つの部分 ことばとパン

 典礼・礼拝・儀式は、わたしたちの五感に感じるしるしをもって神に祈りを捧げます。

ミサは、二つのしるし即ち、ことばとパンのしるしが持っているはたらきを受け止めて一人一人が、その生きるエネルギーにします。

 わたしたちは、ことばによって神に呼ばれていると覚り、ことばによってそれに応えますが、その時一番大切なことは、聴くということです。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」サムエル

 しかし、それだけで感謝の交わりは充分ではありません。神の用意されたパン即ち、キリストのからだを感謝して食べ、救いのみわざに一つになって生きなければなりません。わたしたちは一人一人キリストのからだの部分になります。「わたしの記念として、このように行いなさい。」ルカ

ミサ典礼の中で歌うのは、神に呼ばれて答えるのにみことばを聴くのが大切であり、神の用意されたパンを食べるには感謝が大切であるという二つのことに深く結ばれています。

どのように聴き、どのように食べるか

 教会で行われる葬儀に出席する多数の信徒でない人々は、合唱団でもない少数の信徒たちが人々の間に散らばっていながら一つになって歌うのに驚きます。どうしてそのように歌えるのだろうかと。

 それは、互いに他の声を聴きながら心を一つにして歌う時、祈りになるからです。

男と女、大人と子供、年寄りと若者、実にさまざまな声がありますが、そのどれを際立たせるのでもなく、すべてを受け入れ、すべてを生かして全体にむすばれて歌います。わたしたちの一人一人を呼ばれる方に応えるのにどうあらねばならない、というようなことは何もありません。

 ミサ典礼で詩篇を歌うことが大切にされるのは、それが祈りのことばだからです。祈りのことばの意味を聴き取り、それを深く味わいながら歌えるように配慮した音のつけ方の故に、グレゴリアン聖歌は、教会の財産として大切なのです。例えば、ことばの音節一つに一つの音のみつけることが許されています。たくさんの音をつけると、音楽としては美しくても、ことばの意味を聞き取る妨げになるのです。高田三郎氏の作曲した聖歌は、その配慮が行き届いた例で、また日本語の抑揚やリズムを生かしているので、歌えば歌うほどそれが現れ味わいが深まります。

 どのように聴き、どのように食べるかは、それが共同体の祈りになるように、の一言に尽きます。奉仕はすべて、そのための奉仕です。

 第二ヴァチカン公会議以前の、中世以来のミサは、演劇的ミサあるいは、本質が見えなくなるほど外観でおおい尽くされ渇ききったミサという、よくない評判があります。

 美しさを求める形式の強調は、マジカル(魔術的)な感覚を求める傾向を人々に生む危険があります。

聴くことで活かされる沈黙

 ミサ典礼のなかで、圧倒的に多く聞こえるのは司祭の声です。「祈りましょう」と招かれても、聞こえるのは司祭の声ですが、司祭はキリストに結ばれた会衆全体をからだに感じながらそれを代表して声をあげるのです。また、朗読奉仕者や先唱者も同様に、その時そこに、神に呼び集められた会衆全体を感じながらそれに一つになって声をあげるのです。そして、沈黙しているわたしたちも今ここに集められたすべての人と共に、司祭と奉仕者の声に耳をそばだて一つになって、わたしたちを呼び集められ、今ここに居られる目に見えないキリストに向かい応えます。

 沈黙が活かされるのは、会衆を代表する声を一人一人が深く聴いていると、すべての人がからだに感じる時です。

ミサ典礼にすべての人が参加する準備

 ミサで朗読される聖書を通して、その時そこで、わたしたちを呼び集められた方が語ることを、しっかり味わい聴くため、その日の朗読個所を皆が予め読んでおくことが出来る方法を、今色々と考えられ行われて居ます。

 リーフレット「聖書と典礼」は一月まとめて各教会に送られてきます。それをすべての人がミサに参加するために、どのようにして役立てるか考えてください。その日になってはじめて目を通すなら、朗読者の声に一つになる祈りの状態は難しいでしょう。二人三人で一緒に予め読むなら、とてもよい参加する準備になります。

 よく説明してくれるテレビなどに慣れているわたしたちは、人のことばを聴きながら自分で考えるのが苦手になっています。わたしの名によって集まる二人三人のなかに、わたしは居る、というようにキリストは交わりのなかで語られます。だから、交わりのなかで語られることを聴きながら考えるのは、ミサでは一番大切なことなのです。

 ベーメ・カンタということばがあります。よく歌う、という意味ですが「よく」とは、心からということで、よく聴く、がその元に在ります。その時そこで語られていることを聴くのでしょう。ですから、よく歌うなら、二度祈るに等しいと言われるのです。

南雲神父の推薦する図書

「ミサ典礼書総則」
「典礼音楽に関する指針」
「朗読聖書指針」
「回勅 教会典礼祭儀について」ヨハネ23世
「わたしたちのミサ」ジュゼッペ・ジリノー
「ミサ昨日、今日」ピエール・ジュネ

(文責:典礼部)



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