私のミサのあずかり方
ハンラティ神父

(1)”受けなさい“

 私はより深くミサにあずかる為に、自分用の使いやすい助けはないか?と人生を通してずっと探してきました。私が見つけた一つの助けは、これから始まるミサの中で起ろうとしている事により深く焦点を合わせる事が出来るように、ミサ前数分間(少なくとも2、3分間)を使う習慣を持つことです。もう一つの助けは、ミサ後出来るだけ早く同じような時間をもち、今日のミサの間に神様が私の中でして下さったことの内、私が気付いた事は何か?と自らに尋ねてみる習慣です。

 長年にわたってミサ前の数分間に私はまず”神様は今ここで何をなさろうとしていらっしゃるのか?“と自分に問いかけたものです。それから私の信仰、経験、研究から答えが飛び出してくるのを待ちました。何が飛び出してくるのか、何が強調され何が力強く出てくるのかはその時その時で違います。何故ならその時その時で私の状況や気分が違うからです。

 こうして導かれる処がどこであろうと、これは実り豊かなミサのあずかり方だと私はいつも感じてきました。同様にしてミサ後の習慣は、そのミサがその時の私の気分や感情、態度をどう変えたかによく気付くように助けてくれました。更にミサが私の日常生活に与える効果にも気付かせてくれ、意識的にしてはいないけれどもそれが次のミサに向けてのよい準備にもなっているとわかりました。

 最近の私のミサ前の助けは、”受けなさい“という言葉に只々集中すること、に変わってきました。その言葉をゆっくり繰り返している内に色々なイメージが心に浮かんできます。それは丁度親がかわいい子供に言うようにその言葉を私に言って下さっている父なる神であったり、また別の時にはすっかり変わって神様がその言葉をそこにいる一人一人に向かっておっしゃっているイメージで、私はそこにいる皆とも、神様ともより近づけられたと感じたりします。

 もちろん一番多く出てくるイメージはイエズスです。聖書の中で色々な場面にお現れになったようにです。そこで彼は私に、私達におっしゃいます。 ″受けなさい、受けなさい、受けなさい・・・・“そして私は、砂漠で疲れてお腹がすいて当惑している5千人の人々をご覧になった時のイエズスの気持、また気の変わりやすいペテロや、ユダ、他の弟子達の足を洗った時の彼の気持、エマオスの食卓で気落ちして逃げて来た二人に示された彼の憐れみと忍耐、などなどその時々のイエズスの気持ちを少し感じる事が出来ます。それらの時と変わらない同じ寛大さと優しさでイエズスは私にも集まっている皆にも ″受けなさい、受けなさい、受けなさい……“とおしゃっていると感じます。

 今はまた ″受けなさい“の言葉がイエズスの ″聖霊を受けなさい“の言葉へと繋がって心に響いてきます。聖堂はエルサレムで弟子達が身を寄せあった高問へと変わり、ミサは聖霊降臨の再現となります。

 ある日には私は自分と神様だけを意識し、またある日には一緒にあずかっている人々の方に心を向けるように深く導かれます。そのような時私は、神様が私達皆を一つの家族のように近づけ、ご自分とも、もっと一致させようとなさっていらっしゃると感じます。そしてミサの問にまたミサの後に、イエズスが弟子達を世界に派遣なさったように私達も派遣されると意識するようになります。

 先に申しましたようにその日の私の気持ちや状況によって違います。例えば困っている時、悲しい時、心配な時、″受けなさい“の言葉は、私は何も持っていなくてどんなに乏しい者かという事を、更に私だけでなく私達皆もたぶんそうだという事を私に意識させます。そのような時、食べ物を分けて頂いて強めてほしいと大いなる飢えと渇きを感じます。また別の時には、私は神様からも人々からも赦される必要がある、私の足も心も洗ってほしいと強く感じます。

 また時々私は”受けなさい、受けなさい……“と繰り返し始めると突然に ″でも私は受けている!“と気付きます。そして頂いているもの、助け、喜びなどなどが具体的に次々と湧き出て来ます。たちまち私はすごく幸せだと感じ、感謝に満ち溢れ、イエズスが一緒に御父に感謝と賛美を捧げようと私を導いて下さっていると感じます。

 ミサの中のこのような時、他の人々も、またもっと頂けるようにイエズスが私を通してお働きになりたいと、そうさせて欲しいとイエズスが私を招いていらっしゃると感じます。頂いたものを皆と分かちあってほしいという彼の願いが私の中で大きく育ち始めていると感じます。

 この先に何が起こるかはまだわかりません。私は只 ″受けなさい、受けなさい……″ と繰り返し言って、待って、そして起こった事を見ているだけなのですから。

 ミサにあずかる為のこれらの助けは、私がイエズスをだんだんよく知ってきた事によって芽生えてきました。私はイエズスがこの地上で生きていらっしゃた時に彼自身の心に起こった気持ちや感情を想像しようとする事に多くの時間をかけてきました。(私は聖書を祈れば祈る程、彼をよく知るようになってきました。)

 今私はイエズスの御父への常に変わらぬ態度について、もっともっとよくわかってきつつあります。御父への変わらない態度故に、御父のすべての子供達−イユズスにとってはすべての兄弟姉妹達−への変わらない態度なのです。そしてそれは御父からいつも頂いているという認識の上に立脚していたのです。ですから彼はいつも感謝に溢れていました。そのお返しとしてご自分のもっているすべてを御父にお渡ししたいと望まれました。彼は他の人々とすべてを分かち合う事によって、また彼らを通して彼らと共にお返しする事によってそれをなさいました。これらの考えが私がイエズスをどう理解したかの中心になりました。

 ″受けなさい“の言葉は私にとってこの事をひとことでまとめる言葉になっています。ですからその言葉がミサにあずかる為にそれ程よい助けとなっているのです。

(後日これらの事についてもっと詳しく沢山書けたらと望んでいます。それまでは ″よりよくミサにあずかる為に自分はどんな助けを使っているか?“ご自分を振り返って調べていて下さい。ノートに書いてみるといいですね。)

(2)第2の助けはイエスの心を知ること

 先月号に於て、より深くミサにあずかる為に、ミサ前に“受けなさい”の言葉を使う事が、私にとってどんなによい助けになっているかを述べました。その言葉をゆっくり丁寧に繰り返していくと、自分の関心事だけにとらわれている状態から引き出され、考え方や態度が変えられていきます。神様は今この瞬間にも私と共にいて下さり、しかも私に与えたがっていらっしゃる方なのだと思い出させてくれます。

 第2の助けとして私が述べた事は、現在私がイエスの心を段々によく知るようになってきている事でした。イエスが祈ったり、弟子達や群衆また敵も含めて様々な人々と交わった時に抱かれた気持ちや想いを、私は聖書で祈り始めてから徐々によく知ってきました。 教えられた時、癒された時、ご受難、ご死去の時、新しい力を与える為に弟子たちの所に戻っていらした時、その時々のご自分の気持ちをイエスは私に分かちあって下さる事が出来るようになったのです。感謝、信頼、希望だけでなく、切なる願いや落胆、悲しみ、恐れも含みます。こうして彼の気持ちをよく知ってくると、イエスがごミサの中で行われる時、私は彼に近づけられていると感じるようになりました。

 今回はこの事についてもっと詳しく述べたいのですが、その前に私の言いたい事をよく理解していただく為に少し説明をしておきたいと思います。

 私は人生を通して、神様についてまた神様と私達や私との関係について、たくさん聞き研究し考えてきました。しかし私の集めた山程の知識は頭の中のものにすぎなかったと認めざるを得ません。それは心の中にまで落ちてこないのです。その中のいくつかが心の中に入る時があります。そのような時には考えなくても自然によい行動がとれていると気付きました。私の思い方や態度も変えられています。心の中に自然に湧き上がってくる思いは頭の中の知識の適っています。知識が神の“生きた知恵”になったといえましょう。

 このようになったのは、ほんのわずかな知識だけなのですが、それは神様が私の中で働いて下さるように、神様に静かな時間をさしあげた事によって出来ていました。自分の努力ではないのです。自分が何も持っていなく、乏しく助けもない状態だと感じて、この気持ちの中に留まって神様の働きを待つ時にこの事は起こります。ついに神様が私の心を動かします。頭ではなく、腹の底で、心の底で深くわかります。このような事は近年イエスの心を私が知るようになってから私に起こっている事です。ミサについての知識に於いても同じ事が起こっています。

 イエスの心について私が理解した事を表現しようとしたら、私は次のように要約したいと思います。イエスの心は御父でいっぱいになっている。御父はイエズスの考え、気持ち、望み、希望の中心です。御父と、御父の意志、御父の栄光がイエズスにとってすべてであり、一番大切な事でした。彼は御父にご自分を完全に与えました。

 イエスがいつも御父からいただいていると、いつも意識していらしたことが、この態度の根底にあります。彼はいつも感謝に満ちていました。いつも感謝の気持ちが自然に湧き上がっていたのです。 御父への信頼はここから来ています。実に神様はいつも用意して下さっている! こうして暗闇の時も、しいたげられた時も、また予想もしないわけのわからない状態に陥った時も、尚、信頼し希望する事が出来たのです。 “最後にはすべてうまくいく”と希望をしっかり持ち続けられたのです。

 このように御父からいただいている事へのイエスの応えは、御自分の持っているすべてを御父にお返ししたいという望みでした。これは御自分自身の総てをまるごと信頼をこめて御父に明け渡す事を意味します。

いつも御父に聴いてみ旨を知り、それを行う事を意味します。自分から進んで喜んで忠実なしもべであろうとする事によって御父に応えている“わたしの愛する子”だったのです。

 そしてイエスが御父の心をわかればわかる程、誰もが御父のかわいい子供であると深く悟りました。私達は皆彼の兄弟姉妹であり、四六時中いただいている者なのです。イエスは誰もがこの事を知り、このように生きる事を望まれました。御父への御自分の気持ち繩謝と信頼、賛美、御父に忠実に明け渡したいという望み繧浮ゥちあう事を望まれました。それで誰もが彼によって、彼と共に、彼の内で応えることが出来ます。すべての人達に御自分の気持ち、態度を与えたかったという事は、御自分の霊を与えたかったという事なのです。

 これが彼の夢でした。その為に彼は生き、そして死んだのです。 これらは彼の全生涯にわたっての想いですが、ご受難、ご死去、ご復活を通して最もよく表れました。御父への、弟子たちへの、群衆への、また敵へのその態度は復活に於いても聖霊降臨に於いても少しも変わっていません。弟子たちをゆるし、慰め、新しい力と希望を与える為に、どんなに急いで弟子たちの所へ戻られた事か!彼らはその時、空になっていたのでいただく事が出来ました。そして彼の霊をいただいた効果を私たちは見せられています。弱くてあてにならなかった弟子たちがどんどん彼に似てきて、彼のように行い始め、彼からいただいたものを他の人達と分かちあうように出かけて行ったのです。

 私は今、“イエスの全生涯は、受けて、感謝して、分かちあった、生涯だった”と要約できると思ってそれはまたミサの要約でもあります。

 ミサの間に私が心を開いて受け身になれた時、彼は時々これらの考えの一つを私の心に入れて私の心に触れて下さいます。そうすると彼の心や想いが私の心に浸み込んでくると感じます。そして私は違った風に物事を見たり、新しい事に感じたりします。更に、私はもっと彼のように、かれと一緒に行うよう導かれます 。

 私はまだいただく事は下手ですが、もっとよくいただけるようにイエスが私を次第に変えて下さっています。そして今、イエスが私に最も与えたいのは、ご自分の心であると私はより深く悟ってきています。この招きを受けながらミサにあずかりたいのです。

ミサの中で起こるあなたの心の動きや変化にもっとよく気が付く為に、時間を使って下さい。

(3)第3の助けはミサの中の言葉にもっと敏感になること

 先の2回に於いて、よりよくミサにあずかる為に私の使っている二つの助けについて述べました。第1の助けは、ミサ前の数分間に“受けなさい”の言葉をゆっくり静かに繰り返すことでした。それによって受けるように私を招いていらっしゃる神様に、心を向けることができます。神様に心が向けられると、私の目は覚され、いただく用意が整います。 第2の助けは、この世にいらした時にイエスが抱かれた気持、態度、望みをもっとよく知ることでした。私はこれを聖書で祈ることから学んでいます。イエスは今ここに生活しているこの私にも同じ気持ちをもってくださる、とミサの中で気付かせてもらえます。“これをしなさい…私を想い出しながら…私のことを考えながら…”と彼が私を駆りたてている、とよく分ってきます。これは最も大切な助けです。

 今回述べたい第3の助けは、ミサの中の言葉、特に聖変化と聖体拝領の言葉にもっと敏感になることです。私の経験は次のようです。

 ミサの前に“受けなさい”の言葉を使って、心はすでに方向づけられています。回心の祈り、聖書朗読、奉納の祈りでこの気持が更に深められていく時もあります。でもほとんどいつも私の心に力強く響き、私の胸に浸み込んでくるのはミサの中心の言葉です。まるで初めて聞いたかのようにその都度心を打たれます。 しばらく留まってその言葉をしっかり心に沈ませたいのですが、ミサは進行していき、出来ません。でもそこで心を打たれたことによって、私の内で何かが動き、何かが変ったと感じます。

 それがどの言葉によってかは、その日によって違うのですが、一番多く、しかも強い力をもつのは聖変化の言葉、特に“とる”と“与える”の意味をもつ言葉です。“とって…私を受けなさい…これは渡される私の体…流される私の血…あなたの為に…皆の為に”とイエスは私にも皆にもおっしゃいます。ここではっきりと彼から私へのメッセージを聞きます。“私は私自身をあなたに与えます。あなたの為に、皆の為に”この言葉は私の心を動かさずにはいません。

 また別の時には、感謝、分かちあい、一つになる、霊、賛美等の言葉が私の注意をひき、気持ちを深めます。これは聖変化後の祈りの中でよく起こります。ミサの中でイエスの霊をいただくことによって、私達が一つになるように、という彼の望みを感じます。彼と共に彼によって私達は一つになって皆一緒に御父に感謝と賛美を捧げることが出来るのです。“天に在します”の祈りは、イエスが心の中にいつももっておられることの良いまとめだと思います。特にゆっくり唱えられる時、彼の気持によく触れることが出来ます。これこそが彼の霊であり、彼が私達に分かちあいたい心なのだと気付きます。

 このような気持に浸っている最中に、“自分はそれに値しない”という考えに襲われる時があります。自分の弱さや罪、失敗が思い出されます。でも、“世の罪を除き給う主”という言葉が、ゆるしと忍耐のイエスへと私を引き戻してくれます。これには3つの効果があります。@自分の悪さではなく、彼のすばらしさに焦点を合わせ、Aそこに居る皆への彼の忍耐を私に思い出させ、B彼のその心と力をいただいて、私も他人に忍耐をもつように、そうして彼の忠実な弟子になるように、と導かれます。回心の祈りの間に感じることは、こうして深められていきます。

 これらのことは、御体と御血をいただく時に頂点に達します。私はミサ以外の時にもこのことについて黙想します。食べ物の外観をとってご自身を与えて下さることは、私にとって強烈な印となっています。食べ物として私の一部になるという事は、つまり彼は私の一部になりたいのだ、ということをはっきりと私に示します。拝領して私が“アーメン”と言う時、私は“承知します。あなたは私の一部になって下さい”と言っているのです。

 イエスが私の部分になりたいということを黙想すると、様々な強い気持が引き起こされます。その一つは、信じがたい!という気持ちです。私は彼にとって、それ程重要な人物でしょうか?それに対して私が出来ることは、この気持の中からイエスに向って“私の信仰を強めて下さい”“あなたをもっとよく知ることが出来ますように”と繰り返し続けることだけです。

 また、私の大部分はイエスの心と何と違っていることか!とショックに近い程の気持になる時もあります。そんな時も私に出来ることは、イエスに向って“私を変えて下さい、変えて下さい”と繰り返し続けることだけです。

 私の人々への態度はイエスのようではない!とがっかりして、あがいたり困りはててしまう時もあります。そのような時、“受けなさい”の言葉が突然に飛び出して来て私を変えてくれます。イエスは本当にご自分の心を私に下さりたいのだということを、信じて受け入れてまたやっていこうという気持になります。

 イエスは、“皆が一つになって欲しい、そのように私を導きたい”と切に望んでいらっしゃるのに、私の望み方はまだまだ弱くて、とても及ばない、と気が遠くなるような思いになる時もあります。 そんな時、その日に出会うすべての人々(好きな人も嫌いな人も含めて)を通してイエスは私の所に来て下さりたいし、また私を通して彼等の所にもいらっしゃりたいのだ、と突然に気が付いて、気持は変えられ強められたと感じます。そのような時ミサの終わりは、まるで聖霊降臨の再現のようで感謝に満たされます。私達は弱くて足りないけれど、イエスが導いて下さるから希望をもって他人の所へ出かけていくことが出来ると感じ、元気になって出かけて行き、私達を通してイエスに働いてもらうのです。

 最後に一言つけ加えたいことがあります。今まで述べたすべての言葉がミサの度に私の心を打ち、心を動かす訳ではありません。ある日はこの言葉であり、また次の日には別の言葉であったりという風です。しかも残念ながら、どんな言葉も私の心に触れないでさまよう日もあるのです。私の書いたことがあなたの経験と違ったり、難しいと気落ちさせてはいないかと気になります。これは50年以上にわたってほとんど毎日ミサにあずかった実りに、沢山の研究と黙想と更に教えることまでがプラスされた結果なのだ、と思い出して下さい。 私はあなたを激励したくてこれを書いているのです。

 ミサの中であなたの内面を動かしたり変えたりする何か特別な言葉や動作に気が付いたことがありますか?

(4)ミサの問に起こった心の中の変化を回想する事

 先に、よりよくミサにあずかる為に私が発見した三つの助けについて述べました。第一の助けは、ミサ前の数分間に”受けなさい”の言葉を繰り返すことでした。それによって心が開かれ、”私の所にいらっしゃい。もっとよくなるように変えてあげたい”と招いて下さる神様の声が聴けるようになります。

 第二の助けは、イエスの心の動きに段々に良く気が付いていくことでした。これは聖書の中でイエスに出会うことによって、学んでいくことが出来ます。第三の助けは、ミサの中の言葉が私の心を動かし、気持ちを深め、態度を変えてくれる、そのままに私の心を任せることでした。

 今回述べる第四の助けは、ミサ中に私の心の中に起こったことを、後で回想することです。

 私はミサ後の数分間、少なくとも3、4分を使います。ミサ後出来るだけ早くする程、効果的で実りも豊かだと気付いています。

 先回述べましたように、ミサ中に新しい気持が起こったり、突然ひらめいたり、心を打たれても、ミサは進んでしまい一瞬の閃光のようなものを、深く心に沈ませることが出来ません。第四の助けは、これらに時間を与え、消えてしまわないように私の内にしっかりしみ込ませ、確かなものとする為です。

 回想の仕方は次のようです。先ずミサの間に起こったことに気が付けるように心を開いておきます。そして、私はミサの問に何を戴きましたか?私の内に何か変化を感じますか?私の心を打った言葉とか動作がありましたか?しばしゆっくり思い巡らせたいところがありますか?と振り返ります。

 この時に、ミサ後の自分の気持がミサ前とどんなに違うかに気付くかも知れません。その例を私の体験から話しましょう。一日中忙しかったある暑い夏の日曜日の夜でした。疲れていて、ミサはなくてよいのにと不承不承ミサに向かったのです。ミサ後の回想で自分自身を見つめた時に、今はもう元気で、熱心で、幸せな気持になっていると、突然気が付きました。またある時は、心は開かれていて神様が私を通して働いてくださるようにと希望に満ちてミサに出かけたのに、ミサが始まってみると、自分は空っぽで不安を抱えていて、心も閉ざされていると分かった時がありました。その時もミサの間にイエスを体験したことによって変えられたと、回想の時に気が付きました。

 時々この短い回想の間に、ちょっと留まって思い巡らせたかった所を思い出すかも知れません。今はそこに戻って、そこで時を過ごす時です。最近の聖体拝領の時のことを思い出します。イエスが突然に”今日一日、人々を通しても私を体験できると思い出してください“と静かにおっしゃっているように思えました。それ以前にしばしば自分でそのように言っていたにもかかわらず、その時初めて習ったかのようでした。回想の中でここに戻った時に、このことを一日中忘れないでいたい!という強い望みが私の中にあると気付きました。それで私はこのことを一日中覚えていて、そのように行うことが出来るようイエスに祈りました。そうしたらさらなる悟りに心を打たれました。”他の人達は私を通して神を体験することが出来る”その日は一日中誰かとこれらのすべてを分かちあうよう導かれました。その結果ある人が自分の体験を私に分かちあってくださり、それはまた私の体験を深めたのです。

 ミサの中で戴いたことが夜の”よかったことの祈り”の中で、よかったこととして飛び出してくることも時々あります。

 例えば、ミサを終わって何を戴いたかと回想しながら出て来た時に、すごい忍耐を必要とする状況に出会いました。その時思いもかけない大きな忍耐が私の内で働いていると気付いて、私自身が驚いてしまいました。その夜”ミサの中で戴いたイエスの力が私の内で働かれたのだ。私は自分をはずして素直になっていて、イエスに働いて頂けたのだ”と分かりました。

 このように第四の助けは日常生活に及ぼすミサの影響を増幅します。一日中それに繋がっていて、無意識の内に次のミサにあずかる準備となっています。

 勿論、私がずっと書いてきたことは、ミサについて言われるべきことのほんの少しです。でも少なくともその核心に触れています。とても深いレベルではないかも知れません。それは私がまだそこまで到達していないからです。またミサの歴史は大変重要なことなのですが、今回は書けませんでした。今回は次のような大きな質問に的を絞りました。日常生活の中でミサは私に何をしてくれるのか?私の生活の中でどのようにしてすべての兄弟姉妹達と結びつけてくれるのか?どのようにして皆一緒に父なる神に賛美と感謝を捧げるよう、私達を導いてくれるのか?

 4回に渡って私が書いて来たことで皆様が励まされて、ミサが自分にとってどんな意味をもっているのか、各々自分の考えや体験をまとめてもっとはっきり認識してほしいのです。ミサはあなたにどんな影響を与えていますか?ミサはあなたに何をしてくれますか?あなたが考えられることが余りに少ないと、初めの内はがっかりするかも知れません。でももしミサの中で起こったことを回想する習慣を始めたら、それが大きな助けになると気付くでしょう。私が書いてきたことの多くは、この実践のお蔭なのです。もし私の分かちあいを聴いて”少ししか分からない”と感じるのでしたら、私は50年以上ほとんど毎日ミサにあずかっている上に、研究と黙想と回想も重ねているのだからと思い出してください。(あなたも体験を重ねて、今度は私があなたの分かちあいを読ませて戴ける日が楽しみです)

 実は私は、ミサによってまだ少ししか自分を変えさせて戴いていないと残念に思っています。例えば私は最近、ミサの中で敵の為に祈ることが少ないと気付いています。敵とは私を傷つける人達だけでなく、私が避けたり恐れたり批判したり裁いたりしてまう人達です。この祈りはイエスの心の中心にあり、常に私のミサの大切な部分であるべきものです。私がこれらの人々のことを思い出すのはたまにだけで、特に聖体拝領の前の平和と和睦と一致の祈りの中でです。この怠慢に気が付くようになって、私はまだキリスト者の旅路のほんの初歩だとはっきり自覚しました。

 10年後にこのような記事をまた書けたら、もっとずっと深くてよいものが書けるでしょうと楽しみです。何故なら私達は日々の暮らしの中で、ミサを理解し感謝し、ミサを生きて絶え間なく成長していくはずだからです。イエスはミサを通して私達が個人としてもグループとしても、もっともっと意識して彼と共に生き、共に行うよう私達を導いてくださっています。ミサはとてつもなく大きな助けなのです。

(5)足を洗う”ところを黙想すること・・ ヨハネ13章1〜15

 私にとって、よりよくミサにあずかる為の一つのとても大きな助けは、ヨハネの福音書にある“足を洗う”場面を黙想することです。それによって、ミサの中の私の想いや気持ちは、影響を受けるからです。

☆最後の晩餐について語るに当たり、ヨハネは何故この“足を洗う”出来事を選んだのでしょうか?

 マテオ、マルコ、ルカと同様に、ヨハネも御聖体の重要性をよく理解していました。

 イエスが御自分は命のパンであり、新しい命を皆に与える為に父から特別に遣わされた事を、非常に強調して説明なさった事を、ヨハネはしかと覚えています。例えば、お腹のすいた群衆を養う為に、パンをふやされた後に聞いています。これはイエスの教えの中心部分だと、よく知っています。

 それから約70年の年月が流れ、ヨハネは今エフェゾスの近くの彼の共同体に向けて、教えを書いています。70年にわたる沢山の回想と祈りと黙想を通して、イエスのなさった事、おっしゃった事のすべてを、前よりもっと理解するようになっていました。更に、イエスの霊が初代教会で働き続けている事を、目の当たりにしてもきました。その上で今、どんな心をもってミサ、即ち最後の晩餐の継続に参加したらよいのか、一番大切な心は何なのかを、イエスに従う者達に教えたいのです。(聖書学者たちは、イエスの愛された弟子が一番よくイエスの心を理解していたと言っています)彼は最後の於けるイエスの心について、彼らにもっとよく分からせたいのです。どんな心で、今最後の晩餐の継続であるミサに出席すべきなのか?特に彼らの間に何らかの分裂がある場合には?(そして人が集まる所に分裂はつきものなのです)この事を教える為に一番よい方法として、ヨハネは“足を洗う”出来事を選びます。

☆最後の晩餐でのイエスの心聖書を読むと、今イエスは御父からいただいた使命を正に終えようとしています。そしてこれが一緒に食べる最後の食事なのです。

 これから彼は大変な苦痛と、屈辱に満ちた方法で殺されようとしています。それなのに弟子達は、この非常事態を感じていないようです。イエスは、御自分を完全に御父に捧げていらっしゃいます。すべての人に、すべての人の為に、御自分を完全に捧げていらっしゃいます。それなのに弟子達は、イエスの愛する弟子までも、イエスを何と理解していない事かと思います。

 イエスは、弟子達が御自分をよく理解していない事を知っています。私利、私欲、私情しか思えない事が邪魔して、御自分の真の心を聴く事が出来ないと分かっています。ユダが誘惑に負けて、御自分を敵の手に渡すことも知っています。他の弟子達は臆病で、変わりやすい事も知っています。 イエスにとって極めて苦しい心境の時です。

 彼はどうしても、御自分が彼らを完全に愛している事、彼らの弱さは問題ではない事、御自分の愛には限りがない事を、彼らに示したいのです。でもどうしたら彼らの自己中心を打ち破って、この熱い想いを彼らの心に届ける事が出来るでしょうか? 御自分の愛の深みを悟らせる為に、彼らに衝撃を与えてみよう!

 衝撃的にイエスは立ち上がる。弟子達は彼がたらいに水を入れ、タオルを手に取り、一人の弟子の足を洗い始めたのを見て、びっくりしています。(この仕事は、イスラエル人でない奴隷にだけさせる卑しい仕事として、さげすまれていました) イエスは一人から次の人へと進んでいきます。弟子達は驚きうろたえ、言葉を失ってぼう然としています。ペトロが自分の怖れを表現し、強く抵抗します。しかしイエスが“もし足を洗わせないなら、あなたは私と関わりがなくなる”とおっしゃると、ペトロは変わります。

☆この箇所を黙想すると、イエスが私の前にひざまずいて私の顔を見つめながら、次のように説明し下さっていると感じます。どうかよく聞いて分かって下さい。

 私はあなたと共にいたいのです。あなたのすべての所と共に。殊にあなたが私から隠しておきたい所と共にいたいのです。私に近づく為に、そしてあなた方がお互いに近づく為に、その所でも私を喜んで受け容れてくれますか?

その為に私の助けが必要だと認めますか?

 私に洗ってもらう為に、喜んで足をさし出しますか?

 信頼してあなたの弱さを私に見せる事によって、私自身をあなたに完全に与える愛を、あなたは知っていくでしょう。私はすべての人への私の愛の深みを、皆に知ってほしいのです。私はあなた方がお互いに足を洗いあうように導きたい。それは、助けられる必要のある所、ゆるされる必要のある所に、お互いに入り合っていく事を意味します。例えば、地位をめぐる争いの相手、また政治的、知的に等色々な点で非常に違うと感じている相手も含みます。私故にあなたはそれが出来るようになっていくでしょう。そしてその時、あなたを通して私は他の人の足を洗う事が出来るのだ、とあなたは知るでしょう。この方法であなたは私にも、他の人達にも近づけるでしょう。こうしてあなた方皆が、御父に近づけられていき、私達は段々一つになっていくのです。

 今私達は、“愛された弟子”が書いて伝えたかった教えを、よりよく理解できます。彼が最後の晩餐であるミサを繰り返す時に、もってほしいと願った心はこれなのです。

☆私ハンラティは毎日ミサにあずかる時に、次のような事を意識していたいと願っています。

 あなた(父と子と聖霊)は、私達皆へのあなたの愛を私達にもっとよく分からせたい。私達があなたを必要としている事、またお互いをも必要としている事を私達にもっとよく分からせたい。その為に私達をこの集まりに招いていらっしゃる。

 あなたは、私達がもっともっと一つになる為に、またその一致が私達の集まりを越えて広がり、世界が一つになる為に、私達をここに招いていらっしゃる。

 あなたは、私達が自分の弱さを認め受け容れ、あなたによってまたお互いによって足を洗われる為に常に足を差し出すよう、私達を招いていらっしゃる。

 私達はあなたの愛をほんの少ししか理解していないけれど、私達の弱さの中で働くあなたに出会う事によって、あなたの愛を少しづつ理解していく事が出来る。

 あなたに近づけば近づく程、自分の中にあると気付いてもいなかった洗う必要のある所を見つけてしまう!とびっくりしてはいけない。無意識の内に先ず自分を大事にしすぎる所、自分の力と支配に頼り過ぎる所、自分を与える事、変わる事を避けようとする所、あなたを裏切る事さえ出来る所、今まで受け入れる事を断ってきた所等です。(どれも最初の弟子達にとてもよく似ている所です)それらを皆、あなたは受け入れて下さっている事、しかもその中でこそあなたの愛が働く事を、あなたは私に分からせたい。

☆次は、この黙想の成果の例です。

  1. “主よお互いの足を洗いあえるように、私達を変えて下さい。先ずこの私から始めて下さい”という祈りが自発的に流れ出てくる。
  2. 他人への私の態度が、キリストにより似てきていると気付いて、賛美と感謝の強い気持ち溢れてくる。
  3. ミサ後その日に起こる様々な出来事の中で、“主よ、あなたは今ここで私の足を洗って下さっている! 神様にも他の人達にも、もっと近づく事を妨げている私の内の邪魔物を、あなたが取り払って下さっている!と突然に気付いてびっくりする。等々です。

 私達はイエスのこの心をいただいて実行に移すように、出かけてゆき広めるようにと、ヨハネは教えて下さっています。

(その6)聖書を祈ることに助けられて

最後の晩餐に於て、イエスの心にあった主な感情は何だったと思いますか?私は多くの時間をかけてこの事を思い巡らしてきました。そしてこの事は、私がよりよくミサにあずかる為の助けとなり、また私の日々の生き方にも影響を与えてくれると気付きました。聖書を祈ることが大きな助けとなっているのです。ルカの22章をよく使います。

最後の晩餐前のイエスの苦しい闘い

過越の食事を控えたその週に、イエスの心の中では何が起こっていたのでしょうか?と想像し始めます。その間ずっとすごく苦しい闘いが続いていた事でしょう。丁度大河からの奔流が荒波に流れ込んだ時に起こる激しい波のぶつかりあいを見ているようです。日々新たな出来事が起こり、それがまた新たな落胆、悲しみ、疑い、怖れの波を引き起こします。次から次へと襲う波がイエスを打ち倒し、おぼれさせるぞと脅します。イエスはご自分のもっていらっしゃる信頼、感謝、希望、愛の奔流が、これらの攻撃に打ち勝つよう祈り続けなければなりません。

このことをもう少し詳しく説明します。

☆打ち砕かれた気持

最初に襲われた二つの大きな気持ちは、絶え間ない落胆とすごい悲しみでした。イエスはよい事をし、癒し、慰め、解放し、一致させながら三年間旅してきました。そして今ユダヤ人の生活のど真中に達して、国のリーダー達が聞く耳をもち、考えを改め、変わるように命がけで悟らせようとなさいます。それでも彼らはかえって益々公然と、イエスを拒否し続けます。賛美と感謝の心でイエスに従った人々も、国のリーダー達の側についてしまい、彼らに与えたいとイエスが切に望んだ贈り物をやみくもに断ります。

弟子たちでさえもイエスの心を潰します。弟子たちが十分にご自分の仕事にあずかり、それを広げ、続けていくようイエスは望んでいました。それなのに弟子たちはイエスの言うことを聞いていない、危機が来ていることに気付きもしない、自分の関心事に捕らえられている。支えにならない。頼りにならない、一人は裏切ってイエスを敵に渡そうとたくらんでさえいる。

すべての仕事は完全な失敗に終わりそうだ。後には何も残らないのか?怖れと疑いが起こります。国のリーダー達はイエスを偽預言者と呼びます。歴史を見れば偽預言者と呼ばれた人達は、恥ずかしめられ殺されている事をイエスは知っています。 リーダー達は、なるべく大勢の面前でイエスを恥ずかしめ殺したい、過越の祭りで沢山の人々が集まっている今がその時だ、と考えているでしょう。恐ろしい屈辱的な苦しい死は避けられそうもない!それは本当に恐ろしい。

イエスの使命がこのように終わることが、本当にみ旨なのでしょうか?人の目には何の希望も見いだせない状況で、今死ぬ事がみ旨なのでしょうか?それともこの対立が益々大きくなっていく中で、尚神殿で教え続けるべきか?時が経って民衆が気が付き事が変わるまで、あるいは弟子たちがご自分の仕事にふさわしくもっとしっかり育つまで離れていればよいのか?新たな落胆に陥る度に、このような疑いが起こります。屈辱的な死になりそうだと感じる度に、怖れは増していきます。

☆イエスの積極的な応え

これらの気持ちに対して、イエスはご自分のなさっている事を忠実に続けるのだと、いう強い決意の奔流で押し返します。この事に対して信頼と希望をもって自分自身を完全に与えるのだ、と心は決められています。これはご自分を引き渡してしまうこと、もし必要ならご自分の命さえも、ご自分のなさった事すべても含めて引き渡してしまう事を意味します。イエスはすべてを御父の御手に渡しています。ご自分を空にしています。聖霊が働いて下さる事ができるようご自分をむなしくしています。

全生涯でイエスは信頼を示しました。砂漠の体験から様々な対立に出会うことまで、あらゆる困難の時に“御父が共にいて下さる”と信頼する事が出来ました。ご自分のもっているものすべてが愛する父からの贈り物であると、深く解っていらっしゃるからお出来になるのです。今この最大の試練の中で、イエスはもう一度信頼してご自分自身を与えます。何の意味も見い出せない、この最も恐ろしい経験の中でさえも、尚御父がすべての人を救う為に働いていらっしゃると信頼なさいます。

希望をもってイエスはご自分を与えます。全くの暗闇に入っていくようなものです。これをうまくひっくり返すよい方法はもうなさそうです。それでもイエスは“御父はご自分のなさった約束に忠実である”というご自分の信仰にしがみつきます。それに向けてご自分自身を投げ出します。どんなに出来そうもない状況でも、尚“ご自分の明け渡しを通して、御父はすべての子供たちとの関わりあいを、もっと大きく強くなさるおつもりだ”と信じています。更にイエスは、当てにならない覚悟も出来ていない弟子たちが、この新しい関わりあい、新しい契約の始まりとなるだろうという希望をもっています。弟子たちが最初の“新しい家族”となり、とても無理だと思えてしまう時でもすべての人を救うイエスの仕事をし続け、この一致を皆一緒に天でお祝いし続けることになるだろうという希望です。御父の力に希望をおいているが故に出来ることです。

☆ご自分の心の分かちあい

イエスは弟子たちにご自分の霊を与えたい。弟子たちがご自分と同じ心をもってほしい。御父に対しても、他の人達に対してもご自分が今感じているように感じてほしい。成長してご自分のように行ってほしい。

救いの道具となってほしい。ゆるしの道具、一致の道具となってほしい。

イエスは絶え間なく祈っています。ご自分自身の為に力を願っています。弟子たちの為に力を願っています。すべての人の為に、国のリーダー達の為にさえ祈っています。いえ、むしろ彼らの為にこそ一生懸命祈っています。すべての人が救われるよう祈っています。 そしてこの祈りに弟子たちも加わってほしいのです。

これが最後の晩餐の時の、イエスの心の状態です。

最後の晩餐の時がくる

主に四つの理由でイエスはこの食事を弟子たちと共にしたいと切に願っていました。

先づ、イエスはご自分の使命を果たす為に、“一緒に食べる”ことをいつもとても大切にしてきました。

“一緒に食べよう”と人をよく招きました。“ご一緒にお食事を”という人からの招待をすべて受けました。イエスにとって“一緒に食べる”ことは、寛大な御父から皆一緒に戴くことを表しているのです。食べ物を一緒に分かちあう事は、皆同じ父の子供たちである事を表します。よそ者でなく仲間として歓迎されていると感じてほしくて招きました。それはゆるしと慰めと一致を表しています。

次に、イエスは今これが告別の食事になるだろうと解っていらっしゃいます。一緒にとる最後の食事となるのですから、大変大きな感情が動きます。今までのお互いの関わりあいのすべてをここで味わいたい。弟子たちへご自分の愛を出来るだけ深く表したい。その弟子たちを通してご自分の愛をすべての人に示したい。

第三に、これは過越しの食事で、一年で一番重要な、宗教的な食事です。誰もがその食事をしたいのです。非常に遠方からも沢山の人々がやって来て、この食事をする為に大変な準備をしました。自分たちの民族の為にかって神様がして下さったすばらしいことを記念しながら、今ここでも自分たちを救う為に神様は働いていらっしゃると、意識したいのです。過越の食事は、先祖がエジプトでの奴隷生活から食事を通して救われたこと、不思議に海を渡らせて下さり、砂漠で奇跡的に養って下さり、絶え間ない忍耐とゆるしの心を戴いた事を思いおこし、それらを通して神様が新しい民族に形づくって下さった事を記念し祝う式です。つまり、この契約、神様とのまた他の人たちとの関わりあいを新しくして下さった事を記念しながら、神様が今ここでも同じ方法で行っていらっしゃる事を祝うのです。

しかし今イエスは、この三つの理由に勝るもっとずっと大きな理由があって、弟子たちと共にするこの食事を待っていらっしゃいます。イエスは新しい“出エジプト”が今まさに始まろうとしている事を示していらっしゃるのです。イエスがご自分を与える事によってなさろうとしていらっしゃることを通して、人々の新しい解放があるのです。これが新しい契約になります。そしてこの新しい契約をを記念してお祝いする食事が、最後の晩餐の繰り返しです。

パンとぶどう酒のシンボルも、この神秘を私がもう少しよく理解できるよう助けてくれます。食べ物は力と命と慰めを与えてくれますが、改めて考えてみれば、食べ物はそれ自身を何も残さず完全に与えてしまっています。すべてを与えてしまう事によって、私の部分となって色々な方法で私を変えます。この事を想うこともまた、イエスが私たち皆の為にして下さっている事を解らせてくれます。

☆聖書の言葉を思い巡らすこと

聖書の言葉を思い巡らす事は、今私にとって意味を増してきています。“私は苦しみを受ける前に、あなた方とこの過越の食事をしようと切に望んでいた”の言葉に捕まえられます。弟子たちと一緒に食事をなさりたいだけでなく、私の周りの人達とも一緒に食事をなさりたいイエスの望みを強く感じます。また“あなた方の為に渡される”と“流される”の言葉は、今私にとって更にずっと意味をもってきています。イエスが完全にご自分を与えて下さる事を理解する事によって、私からも寛大さがもっと引き出されます。

“神の国で”の意味をもう少しよく理解する事によって、私たちが皆分裂なしに一つの大きな家族として、神様の周りに一緒に集められている最後の時の光景を思い描きます。

“私の記念としてこれを行いなさい”の言葉は、“私がしたようにこの食事を繰り返しなさい”を意味するだけでなく“これを繰り返す時、私と同じ心をもちなさい”という事を意味していると、私は今悟っています。

ご復活や聖霊降臨の後、弟子たちにこの事が現実に起こった事を聖書の中に見つける事が出来ます。弟子たたの内でイエスの心が、イエスの霊が働いて、彼らの日々の生き方に影響を与えているのを見る事が出来ます。こうして聖書を思い巡らす事は、イエスをもっとよく知る為の助けとなります。復活のイエスが今だにミサの中でして下さっている事を、私によく分からせてくれます。ミサの言葉をもっとよく聴くように助けてくれます。私の日常生活で、もっともっとイエスのように行えるよう私を変えてくれます。

(その7)エマオの話を思い巡らしながら

ルカ24章のエマオの話を思い巡らしている内に、私は復活のイエスの弟子として、自分はどの程度の者だろうか?と考えてしまいます。日々の生活の中で、心配事や困難に出会った時に、私はしばしばその苦しみに打ち負かされてしまい、後になってから復活のイエスがずっと私と共にいて下さっている事を完全に忘れてしまっていたと、気が付きます。この箇所は、イエスは負けないどころか、すべてに打ち勝ったのだという事実に私の目を開けてくれます。イエスは新しい命に復活なさいました。そしてまさに私の苦しみの中に入って、私と共にいて下さいます。苦しみは私が新しい方法でイエスに出会うことが出来る場所なのです。

この箇所はまた、イエスがどんなに忍耐をもって私と共にいて下さるかを、思い出させてくれます。特に、苦しい時、間違ってしまった時に、私と共にいて下さる為に急いで来て下さるという事を。

この気付きは私を変えます。イエスの私への忍耐、ゆるしが分かれば分かるほど、私は寛大になり、忍耐強くなり、間違ってしまった人の役に立てるようになります。苦しみに囚われてしまっている人達に、希望と喜びを与えることがもっとよく出来るようになります。

また特にこの箇所は、共に聖書を分かち合うこと、主の晩餐を共に祝うこと即ちミサが、私たちを復活のイエスの近くに運んでいただく為にどんなに大切かを私に教えてくれます。

−ルカ24章を思い巡らす−

私はこの箇所をしばしば祈ります。祈る前にそのつど、どの位の時間祈るのかを決めておきます。その箇所を見つめながら聖霊の導きを待ちます。聖霊の導きは、心が動かされて新しい見方が出来るようになったり、新しい望みが心に湧き上がってきたり、新しい招きを感じたりすること等々です。想像していく内にその場面の中に引き込まれていく事から始まります。その例を次に書きます。

☆ 二人の弟子の気持ち

エルサレムからの道をうなだれて、とぼとぼ歩いている二人が見えてきます。とても疲れていて元気がないようです。ずっと見続けている内に二人の気持ちが伝わってきます。二人ともとても力を落としていて当惑しているようです。衝撃を受けている様子です。恐ろしくまたまったく面目の立たないやり方で、イエスが辱められ、打ち負かされ、殺されたさまを見たのです。他の弟子たちと共にパニック状態に陥り、隠れました。

本当に全て信じ難い事でした。二人は二年前、この預言者イエスに従う為に、自分達の村を離れたのでした。(時々私はこの二人が夫婦だったと想像します。)イエスの話を聞き、なさる事を見て、とても寛大な心でイエスに従う為に家を出たのでした。イエスと共に話し、食べ、旅してきました。イエスはすべてに於いてこの二人の指導者となったのです。「神がイエスと共におられる」と分かるすべての印を見ました。そして、イエスが新しいモーゼとして新しいイスラエルを誕生させてくれるという熱い期待を抱いたのでした。

しかし、今すべての期待は粉々になりました。敵側は自分達の方が強いと証明しました。イエスの弟子達は今、人々の中で面目を失い、迫害を恐れて隠れています。事件は今、「神はイエスと共にいなかった」と語っているのです。

自分達はとんでもない間違いをしてしまったのでしょうか?二人は今、欺かれ、裏切られたと感じています。しかし、イエスが捕えられる前に起こったすべての事を思うと、それもまた信じ難い事なのです。イエスがまだ生きておられるという噂もちょっとの間ありました。でもまやかしの希望にすぎませんでした。混乱して何が何だかわからない。心は打ち砕かれ、傷つき、うろたえ、自分達の選んだ道を悔み、これから役人や周囲の人達が何をしてくるのかと恐れる。故郷に帰れば安泰だというわけではないけれど、エルサレムよりはずっとましだ。逃れる場所ではある。

イエスがこの二人を捕まえて、一緒に添うようにして歩いていらっしゃる様子が見えてきます。私はそれがイエスだと知らされていますが、この二人は気付いていないことにびっくりします。いったい何故だろうと思い巡らします。同じイエスでありながら、全く同じではないと結論を出します。

また、イエスが御自分である事をすぐに告げられない事にも驚きます。イエスが二人の間違った考えをすぐに正されない事にも驚きます。二人が間違った道を歩いている事をおっしゃらない事にも驚きます。エルサレムは神の新しい御業が行われる中心であるのに…。イエスは忍耐して二人と一緒に間違った方向に行かれるのです。

過ちを正す代わりに、イエスは二人の心を占めている大きな心配事は何か?と尋ねます。そして、二人の混乱した感情と、粉々になってしまった希望も疑いも全部聞きます。話し尽くすまで全部聞きます。二人がすべてを話し終わってから、イエスは彼らの間違った考えを正し、説明し始めます。

イエスは、二人がイスラエルの解放について、また新しいダビデの黄金時代についてのくだりにだけ集中して聞いていて、御父の御計画についてイエスのおっしゃった事、イザヤの"苦しむ僕(しもべ)"についてイエスのおっしゃった事を本当には聞いていなかった事を指摘します。

私はイエスの忍耐に驚嘆するばかりです。二人に添って歩き、十分に話を聞き、そして二人に沢山の説明をなさるのです。私は、イエスが二人の話をそれほど良く聞いたからこそ二人が変わったのだと悟ります。二人の心は今もっと聞けるように開かれます。そしてもっともっと聞きたいと思うようになります。

家に着いたのはもう夕暮れ時でした。イエスは、なお先に行こうとなさいます。二人はおもてなししたくて、泊まって下さるように頼みます。先に進む様子を示される事によって、イエスは強いて留まろうとなさるのではなく、二人の自由に任せるのです。二人の望みに任せます。でも、二人は本当にもっと長い間一緒にいてほしかったし、もっと沢山聞きたかったのです。

☆一緒にパンを裂く

家の主人が、食前の祝福の祈りをお客様に頼む習慣がありました。しかし、今イエスのそのなさり方が重要です。その様子が、イエスと共にいた時に、イエスが何回もパンを祝福して皆に分けてくださった、その事を思い出させました。聖書の説明を聞いて、心燃え、心が開かれた上で、今この行為に触れて、二人はイエス御自身がもう一度一緒にいて下さっていると、はっきり認識する事が出来ました。

この事がわかった瞬間の喜びとおそれと感謝はいかばかりだった事か!瞬間呆然としてしまったその時にイエスは見えなくなった!何が起こったのか二人が把握するには時間がかかったことでしょう。(私にとっても、それが二人に何を意味し、私を含めて今のキリスト者に何を意味するのか把握するのに時間がかかります。私は多くの時間をかけてこの事を思い巡らしました。)

☆イエスの新しい現存の仕方を認識すること

イエスは再び去ってしまったけれど、二人はこの時の喜びを失っていません。いまや二人は、イエスを見ることが出来なくても一緒にいて下さっていると知ったのです。苦しみや過ちの中でさえ共にいて下さっていると分かりました。そして、二人は以前とは違う人になりました。

二人は直ちに暗闇の中を出かけていきます。仲間達にこの事を伝えようと、エルサレムへの12kmの危険な夜道を急ぎ戻ります。イエスは死者の中から復活して、今も「共にいて下さる」というこの「よい知らせ」(福音)を分かちあおうと急ぎます。気持ちも外見も居たい場所も、すべてが完全に180度変わります。

行ってみたら、他の弟子たちの雰囲気も全く違っていたのでびっくりしました。イエスはグループの長であるペトロにもお現われになっていて、興奮したお祝いの雰囲気でした。

二人は自分達のすごい体験を分かちあいます。イエスが一介の弟子にすぎない二人にいらっしゃって下さった事、「パンを裂かれた」ことでイエスだと分かったことを、誰もが知ってほしいのです。

−これを書いたルカの望み−

ルカはエフェゾでこの福音を書きました。エフェゾは今のトルコにあります。イエスの死と復活から30年余り経っていました。未熟な自分のキリスト者の共同体を考えていました。キリスト者となったユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人、そして元からの土地の人々の混ざった集団でした。多くの人達はイエスに従うそのグループに入る為に沢山の犠牲を払っていました。家族や地域の人々から排斥されたり、欺かれたり、社会では信用されず虐げられていました。しかし、それ以上にがっかりさせられた事は、自分達の新しい共同体の内にある苦しみでした。実践に当り分裂や論争がありました。例えば、イエスをどう教えるか、ユダヤの伝統をどの位保つか、今わかってくる旧約聖書の新しい解釈についてなどです。特に二つの大きな疑問がありました。「もしイエスが復活されたのなら、何故私たちはこのように苦しんでいるのか」「もしイエスが本当に復活されたのなら、何故私達に御自身を示して下さらないのか」の二つです。ルカはこの話を使って、これらの質問に答えようとしました。

ルカは、目には見えないけれど、イエスが忍耐をもって共同体のメンバー一人一人と一緒に歩いて下さっている事を、もっとよく悟るようにと強く勧めます。しかも苦しい時こそ、また、誤ったり正しくない道を行く時こそ一緒にいて下さるという事を。イエスは一人一人がご自分のことをもっと正しく、深く、そしてもっと近くで知ってほしいのです。この事がよく分かると、共同体の人達一人一人とも一緒に歩いて下さっている事が信じられるようになり、他人への態度が変わります。

さらにルカは、共同体の中で各々がイエスとの自分の体験を分かち合うよう強く勧めます。これによって復活のイエスとの個々の関わりがより深くされます。より大きな感謝、喜び、お互いの支え合い、一致へと導かれます。このようにして、共同体で一緒に祈ったり、聖書を分かちあったり、「主の晩餐」を記念して「パンを裂い」たりする中で、「復活の主」を見つけていくのです。それによって新たにされて、弟子達はこの「よい知らせ」をすべての人に、迫害する人達にさえ広げようと出かけることが出来るのです。

−私にとって−

それで、私はミサの中で、イエスが私と共にいて下さっていると想像しようとします。まず最初に、イエスが私をゆるし続けて下さっている忍耐に気付きます。それから他の人達に目を向け、彼らも同じ贈り物を戴いていると気付くように導かれます。この気付きによって私達のグループが変えられる事を、新しい方向に進んでいく事を、イエスは待っていらっしゃるのです。イエスは、小さくて取るに足りない、全然英雄的でない私達のグループが、この「よい知らせ」を広げるように、より広い社会へ導きたいのです。「よい知らせ」とは「イエスは復活して私達と共にいる」という事、「イエスはすべてに打ち勝った」という事です。イエスは私達にゆるしと喜びと希望を広げてほしいのです。

私は復活の主のよりよい弟子となる為に、まだまだ長い旅をしていくのだと感じています。そして“パンを裂く事”(ミサ)についてももっと理解を深めていくよう成長する必要があると感じています。



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