『縛りの信仰』 (97年静修の集いより)
宣教部(六会)大泉  仁

 去る2月23日大阪教区の和田幹夫神父様をお迎えして、恒例の静修の集いが催されました。四旬節第2の主日に当たります当日は、本当に沢山の方が参加され、有意義な1日であったことと思います。

 主のご受難と死そしてご復活を迎えようとする、準備と回心の大切なこの時期に、私たちの信仰の原点を再考する貴重な講話をいただきました。そこで、ミサの中での説教そして講話を要約してみたいと思います。

 ミサの中で朗読された“みことば”の内、創世記22章を中心として、「イサクの献げ」のテーマから、神の御旨に従うということは、『息子イサクを縛って祭壇の薪の上にのせる』この縛りの信仰に要約されると言われます。つまり、自分の最愛の息子(自分の命)を献げるほどまでの絶対帰依の中に、信仰の原点があることを教えてくれます。

 聖母マリア様の受胎告知、或いは長崎26聖人の信仰の原点は、神との縛りの信仰のうちに確認されます。キリスト教徒としての私たちも、ペトロの投げた網に捕らえ(縛り)られ、舟に乗せられて素直に岸(彼岸)についたとき、復活されたイエスに出会うことを約束されています。

 この縛りの信仰を講話の基流として、今から50年前の1947年、死海のほとりクムランの地で偶然発見された“死海文書”とイエスの教え“新約聖書”の関連を概説されました。

 発見されて間もない“死海文書”は、十分な研究もされないうちに、キリスト教信仰を揶揄するような解説書が出回っております。しかし、同文書の研究が進むにつれて、この中にBC150年頃ヨナタンによって追い出され、やむをえずクムランに移り住んだ「義の教師」によって創設された教団の文書も発見されました。その結果同文書は、当初律法遵守に熱心なエッセネ派のものではないかと思われていましたが、或いはサドカイ派のもという説も有力になりました。  いずれにせよ、禁欲と律法(外なる律法)の遵守を通して、神を恐れる心、神への畏敬の念を大切にする素晴らしい精神性を持った教団といえます。そこには旧来の祭儀宗教から一歩前進し、律法本来の精神の高揚を中心とした教団の在り方が見出されます。

 これら福音書が書かれたと同時代の文書の発見により、福音書の解釈に少なからず影響を及ぼすことは考えられます。更に、同文書の研究が進み、同時代の背景が少しずつ明らかになることによって、福音書の更なる豊かな意義をえることが可能になりましょう。その意味からも死海文書と福音書に関する研究は、21世紀の学問といえます。

 しかしながら、聖書を通して伝えられるキリスト教の信仰原点は、死海文書に見られる律法の遵守の姿勢とは大きく隔たり、むしろ、律法遵守という当時の一般的な社会通念からはじき出された人々へのまなざしを起点とし、全ての人々に救いの手をさしのべるという、彼等にはない特性を見ることができます。

 勿論キリスト教は、神への畏敬の念を前提としておりますが、身近な存在としての神、共に歩まれる神として聖霊をいただきます。この聖なる霊こそ私たちにとっての“内なる律法”であり、洗礼をとおして私たちに、新しい心が与えられ、新しい霊をいただきます。この水を受けることによる縛りの秘儀によって、全ての人々が神の示された道を歩むように招かれています。

 以上要約を試みましたが、信仰の原点とこれを確かめる広範囲に亙るテーマを網羅することは、重すぎる荷といえましょう。

 しかし、ミサの説教から講話にいたるこの1日の集いは、和田神父様のメッセージの中からにじみでてくる深い霊性と信仰の喜びが、参加された大勢の皆様に深い感銘を与えてくれたものと思います。



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