98年度典礼研修会
ミサと信徒の霊性

6月21日(日)午前9:30ミサより、御受難会の國井神父様をお迎えして「ミサと信徒の霊性」のテーマでお話をいただきました。お話は、聖霊の働きを中心に語られました。お話の要旨は次の通りです。

西方教会では伝統的にともすれば父と子に力点が置かれ、聖霊は脇役的な存在でしたが、東方教会の伝統では、聖霊の働きというものが重視されてきました。しかし、そんな西方教会でも聖霊降臨に歌われる聖霊の続唱のように聖霊に対するすばらしい賛美の歌があります。その聖霊の働きを中心に私たちの信仰、典礼を見ていきたいと思います。

聖霊は聖書の中で様々に表現されていますが、もう少し体験的に考えてみましょう。小さな子供は親の愛のうちに育ちます。親に衣食住すべてにわたって世話になりますが、子供はそれを特別のめぐみとは感じないでしょう。しかし、成長し大人になると、その愛のうちに育てられた体験がいかに恵まれたものであったかをわかります。聖霊も同じようなものではないでしょうか、私たちは気づかないうちに毎日聖霊の世話になっています。当然と思っているようなことが、実は聖霊の大いなるめぐみなのです。そのことに気づくと私たちの信仰、典礼はもっと生きたものになれるのではないでしょうか。

天地創造の時も、イエスの誕生の時も聖霊は重要な役割を果たしています。私たちがキリスト者であるのも、実は聖霊のおかげです。信仰は私たちが選んだものではなく、神から与えられたものです。生まれながらのキリスト者はいません、たとえ幼児洗礼であってもキリスト者となるには、家族や共同体の信仰のうちに育てられなければなりません。そこに働かれるのが聖霊です。

以前の公教要理で勉強された方は、ミサのクライマックスは聖変化の言葉のところだと教わった方が多いと思います。本当にそうでしょうか?それだけではとても狭いようです。

私たちの属する西方教会では、アンブロジウスの教えによって伝統的にキリストの最後の晩餐での言葉を繰り返すことによってパンとぶどう酒が聖別されると教えられてきました、ところが、東方教会の伝統ではパンとぶどう酒の上に聖霊の働きを求める祈り(エピクレーシス)によって、聖霊の働きで聖別されると考えてきました。そして、それはどちらが正しいと言うよりも、双方が正しいようです。たとえば今日使われた第2奉献文を見てみますと、キリストの最後の晩餐の言葉の前に第1のエピクレーシスが置かれ、聖霊の働きによってパンとぶどう酒がキリストの体と血になるように祈り求めます。

しかし注意しなければならないのは、ミサはただ単にパンがキリストの体に変わることを祝うのではないと言う点です。ミサは「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と歌われる、キリストの過越の神秘を祝い、そのキリストの奉献に私たちのすべてを一致させ、共に捧げる事なのです。

すべての秘跡は信仰が前提です。信仰がなければ聖体はただのパンでしょうし、他の秘跡も意味を持たないでしょう。ミサが実りあるものであるかどうかは、共同体の信仰にかかっているでしょう。ミサは、記念唱の後に続く第2のエピクレーシスに「キリストの御からだと御血にともにあずかる私たちが、聖霊によって一つに結ばれますように」と唱えられるように、わたしたちがキリストのからだとして一つになる、私たちの聖変化でもあるのです。

よく、司祭がミサをたて信徒がそれにあずかるという言い方を聞きますが、それは間違えです。キリストを信じる共同体がミサを捧げ、司祭はその中で司式の役割を担うのです。ミサは司祭だけで行うのではありません。すべての人のそれぞれの役割があります。朗読の奉仕、先唱、案内、献金奉仕、奉納、祭壇の奉仕、聖歌隊、オルガン、そして会衆。会衆もただそこにいる傍観者ではなく、共に歌い、共に祈る固有の役割があります。そのすべてがあって、はじめてミサが出来るのです。ちょうどオーケストラに様々なパートがあって、それがハーモニーを奏でるとき完成したものとなるように、

生き生きとしたミサにするためには、生き生きとした共同体の信仰が必要です。そしてその信仰を与えて下さるのも、また聖霊なのです。共に、「聖霊来てください」と祈りましょう。



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