キリスト者とは

聖年の準備として

横浜教区長 濱尾文郎

 教皇ヨハネ・パウロ二世は全信者に、紀元2000年の大聖年に向けて「反省・回心・祈りと学び」によって準備するように勧めました。今年は三位一体に向けられた準備の第一年「イエス・キリスト」の年に当たります。

 信者であること

 教皇は、今年の意義について次のように説いています。「聖年は受肉と、全人類の救いの秘義である神の御子のこの世への到来を祝うのですから、聖年の顕著なキリスト論的性格を強調しなければなりません」(『紀元2000年の到来」40項)つまりキリストを中心とした準備の年となります。キリスト教的な生き方の基礎である洗礼の理解を深め、刷新することによって、救いの秘義を深めますここで、洗礼の意義、キリスト者とは何かについて考えたいと思います。

 「せっかくの日曜日に、どうしてあなたは教会に行くの」と尋ねられた場合に、「私はキリスト信者だから」とか、「実は洗礼を受けているから」という答えは、正しいでしょうか。これは、なぜ教会に行くのか、なぜキリスト教を信じているのかという問いの答えにはなりません。教会に行く目的を言い表していないからです。だれでも洗礼を受けた理由はそれぞれ異なります。親が信者で幼児洗礼を受けた人、教会学校やカトリック学校に通う間に影響を受けた人、親しい人を通して教会に導かれた人、大きな悩み、苦しみに遭遇して救いを教会に求めて来た人など、その動機は千差万別です。洗礼を受けた理由はさまざまであっても、それらは現在、信者である意義を示しているわけではありません。「どうして今でも教会に続けて行っているのですか」と尋ねられたら、あなたはどう答えますか?

 キリストの弟子

 信者であることは、イエス・キリストの弟子であるということです。洗礼の時期や、受けた動機が何であっても、今あなたはキリストの弟子であることには違いありません。弟子は先生の教えを理想として、それに向かって邁進する者です。生涯かけても、その理想には到達できないでしょうが、七転び八起きで前進しなければなりません。そのためには弟子は先生の掲げる理想や信念を学びとる必要があります。

 福音書を熟読して二千年前、イスラエルでイエスが弟子たちと共に群衆と出会った場面を思い巡らし、そこに自分をおいて考える努力も必要です。しかしイエス・キリストは過去の人物ではないのです。今も現存して私たちに関わってくださつているのです。祈りや黙想、典礼、持に聖体祭儀でキリストと出会う時を大切にしたいものです。そこで師イエス・キリストは弟子のあなたに、何を問いかけているのでしょうか。

 主イエス・キリストは最後の晩餐の時、弟子たちに一つの掟を残しました。「あなたがたに新しい掟を与える互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆は知るようになる」(ヨハネ13章34-35)。これはキリスト自らが保証した「弟子らしさ」です。神学に詳しい人、聖書を熟知している人、小教区で積極的に働いている人たちは、イエスの弟子としてふさわしいでしょう。しかし、それだけが決め手となるわけではありません。

 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同しことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ5章46-47)。「敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(同章44)。これらはイエス・キリストの言葉です。国籍も、皮膚の色、男女の別も、育ってきた環境も、性格も全くちがう人間同志が、互いに相手の過ちを赦し合い、互いの幸せを祈り、そのために手を差し伸べるならば、それはまさにイエス・キリストの弟子にふさわしい人だと言えるでしょう。

 神と共に人に関わる

 一般に、自分の考え方に合う人と親しい間柄になるものです。自分が不愉快な思いをしている人と、わざわざ交わるようなことは避けるはずです。まして手を差し伸べることなどは不可能に近いと思うでしょう。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべての人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによつて、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。・・言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(ヨハネの手紙1・3章15-18参照)。このようにヨハネは強調しています。永遠である神の命、神の恵み、神との関わりなしに、だれも真から人を愛することができないのです。そこに宗教の存在理由があり、神を信じて教会に通う意義があるのです。「わたしがあなたがたを愛したように」の言葉に従い、私たちは神と共に人と関わるのです。

 私たちの模範は、イエス・キリストです。イエスは天の御父と祈りを通して頻繁に関わる時を持っていました。御父と共に人々と関わったのです。イエスに従うはずの私たちは、神様よりも厳しく他者を裁くことがあります。ある人の過去にこだわり、未来にまで悪いレッテルを貼ってしまうこともあります。イエスは相手が善い入だから親切に手を差し伸べて、病気を癒す奇跡を行ったのではありません。今、目の前に苦しんでいる人がいたから、相手の痛みに共感し、苦しみを共有したのです。病人、悪霊に取り付かれた人、貧しい人、罪人など、特に弱い立場にある人々と関わりました。福音書の至る箇所に描かれているイエスの姿をよく黙想し、学びたいものです。

 神の国の建設に協力する

 「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、とりわけ、貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心の中に反響を呼び起こさないものは一つもない」1965年、第2バチカン公会議に発行された『現代世界憲章』の冒頭の言葉です。

 キリストの弟子である信者の関心は、すべての人の幸せであり、救いにあるのです。時間や空間を乗り越えて、どの時代の人々とも、また世界のあらゆる所で、苦しんでいる人々とも連帯できます。特に弱い立場に置かれた人々の基本的人権、人間としての尊厳に関心を持つこと。個人としても民族としても、差別や偏見を乗り越えて、どこにでも、神の国を実現しようとするのがキリスト者です。私たちは、自分が置かれている場に神の国を建設するように招かれています。欠点だらけで不完全な私たちが、想像を越える神の国の建設の協力者となることは、なんとすばらしいことではないでしょうか。家庭、職場、地域社会で、互いに神の子としての尊厳を持ち、兄弟姉妹であることを証ししようと努力するならば、そこに神の国があるのです。

 「御国が来ますように、そのために私をお使いください」と祈りながら、よりよい準備の年にいたしましょう。



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