現代語訳『戦陣訓』


 『口訳 戦陣訓』(満州第六〇四部隊)に載っている文章に少々の手を加えた、現代語訳版の『戦陣訓』を公開する。ただし、現代語訳とうたってはいても、大東亜戦争期に出版された冊子(『口訳 戦陣訓』)をもとに本稿を作成しているので、古めかしい言葉や言い回しがここかしこにある。
 文語体の原文に目を通すよりは読みやすい、といった程度の認識でもって、現代語訳『戦陣訓』を取り扱ってほしい。



■現代語訳

戦陣訓



そもそも戦陣というところは、天皇陛下のご命令をもととして、皇軍の皇軍たる真価を現し、攻撃すれば必ず取り、戦闘すれば必ず勝ち、広く八紘一宇のご聖旨を世界に行き渡らせ、敵軍に、天皇陛下のご威光を仰がせて、その尊さを深く心に刻みつけさせる場所である。だから戦陣にある者は、十分にわが大日本帝国の、世界人類の幸福を増やさねばならぬという、尊い役目を会得して、皇軍の軍人として皇道を顕現するためにふみ行わねばならぬ、正しい道をしっかりと保ち、わが国の威光と恩徳とを、広く世界に揚げ現すように努めねばならない。
思うに、軍人精神の根本となる道は、恐れ多くも軍人にお下しになった勅諭の中に、はっきりとお示しくださっている。そして戦闘や訓練などについて、よりどころとせねばならない大切な点は、また操典や要務令などの綱領に教え示されている。ところが戦陣の様子や事情というものは、また格別な点があって、どうかすると目先の事柄に気を取られて、大切な根本を忘れ、ひょっとするとその行いが、軍人としての義務に背くようなことがないとは限らない。十分に反省し気をつけねばならぬことではないか。そこで、これまでの戦陣における経験から考えて、常に戦陣で勅諭のご聖旨を頂いて、十分にその大御心に添い奉る行いができるように、いちいち実際の事柄について戦陣での行いのよりどころを教え、そして皇軍の将兵が、八紘一宇のご聖旨を世界に行き渡らすために守り行う道徳を、一層高いものにしようと思う。これがつまりこの戦陣訓本来の趣旨とするところである。

本訓 その一

第一 皇国

大日本帝国は、天照大神以来相受けて代々天皇がお治めになっている国である。天地とともに連綿と続いて窮まりのない皇統をお継ぎになっている天皇陛下が上においでになり、天照大神以来変わることのない国家統治のご方針を受け継いで、永遠にこの国をお治めになっているのである。天皇陛下の厚いお恵みは、全ての国民、誰一人これを頂かない者はなく天皇陛下の聖なる徳は、世界中に照り輝いている。この尊くありがたい天皇陛下を上に頂くわれわれ国民もまた、先祖代々、忠・孝・勇・武の徳を受け継いで天皇陛下のみ国日本の道義を、広く世界に揚げ現して、八紘一宇の大御業を助け奉り、天皇陛下と国民とが一体となって、今日のように国の勢いを盛んにしたのである。
戦陣にある将兵は、よくこの万国に比類のないわが国体の根本の意義を十分自分のものとして、しっかりとして動くことのない信念を堅く持ち、断じてわが皇国を守るところの重大任務を成し遂げることに努めねばならない。

第二 皇軍

皇軍は天皇陛下おん自ら率いられて、神武の精神を身をもって示し、このことによって、皇国の威光と恩徳とを世界に揚げ現し、皇室のお栄えをお助け申し上げることを任務とするものである。
常に天皇陛下の大御心を体し奉って、心が正しくて武勇であり、武勇であって情け深く、よく全世界の大協和を実現するもの、これを神武の精神というのである。武の徳は厳格でなければならず、仁の徳は公平に隅々まで行き渡らすことが大切である。仮にも皇軍に反抗する敵があったときは、勢い鋭く、当たるべからざる武力を振るって、断然これを打ち砕かねばならない。しかしまた、たとえそのいかめしい武力をもって、よく敵を屈服させることができたとしても、降伏してくる敵は撃たず、服従する者は哀れむという徳が十分でなかったなれば、いまだ皇軍の道として完全なものとは言うことはできない。武の徳は高ぶらず、仁の徳は見えを主とせず、これらの徳が自然に行いに現れ出るのが尊いのである。皇軍の本来の特色は、慈愛と武威とが同時に並行して行われ、至らぬ隈なく、天皇陛下のご威光を仰がせ慕わしめるということにある。

第三 軍紀

皇軍の軍紀の生命とする点は、恐れ多くも大元帥陛下は対し奉って、絶対に服従申し上げるという気高い精神にあるのである。
上官と部下とが一斉に、天皇陛下の大御心を奉体する指揮命令の、尊く犯すべからざるものである理由を深く心に刻んで忘れず、上官は大元帥陛下のご統帥に服し奉ることが謹み深く厳格であり、部下もまた謹んで上長に服従の誠心を尽くさねばならない。将兵ことごとくが、忠節の誠心をもって堅く結びつき、上下の心のつながりがぴったりとついており、全軍がただ一命令によって整然と行動することは、これが戦闘に勝利を得るために最も必要な条件で、またこのことは、実に地方の安寧と秩序とを堅く保つために、最も大切な方法である。
特に戦陣は、服従の精神を極度にまで発揮し徹底的にこれをふみ行わねばならない場所である。進んで死を恐れず、艱難辛苦に堪えて、ひとたび命令が下るや、喜び勇んで、生還の望めない場所に跳び込み、黙々として、身命をささげてその命令を実行し、これを立派に成し遂げるのは、実にわが軍人精神の最も輝かしい現れである。

第四 団結

皇軍は、恐れ多くも大元帥陛下を上に頂き奉っているのである。だから大元帥陛下の深い大御心をしっかりと頂いて、忠節の誠心によって一致団結し、全軍が一心同体であるという立派な実績を挙げねばならない。
軍隊は、大元帥陛下の大御心に基づく指揮命令の、根本の意義によって、隊長を中心とし、強く堅く結束して、その上なごやかな気分の満ち満ちた団結を作り上げねばならない。上官も部下も、皆が各自の尽くさねばならぬ本分を堅く守り、常に隊長の計画方針に従い、誠心をもって信じ合い、いささかの隔ても置かず、命も損得も眼中になく、全軍のため、ひいては君国のために、わが一身を喜んでささげる覚悟がなくてはならない。

第五 協同

全ての兵が心を一つにして、自分に与えられた任務を成し遂げるために突き進むとともに、全軍に勝利を得させるために、喜び勇んで自分を顧みることなく、いちずに協力し合うという精神を振るい現さねばならない。各隊は、互いにそれぞれ与えられた任務を尊重し、名誉を尊んで、信じ合い助け合い、自分から進んで艱難辛苦を引き受け、力を合わせ心を一つにして、ともに目的を成し遂げるために奮闘せねばならない。

第六 攻撃精神

およそ戦闘には、勇気に満ちて決断がよく、常に攻撃してやまない精神で終始しなければならない。
攻撃する場合には、思い切って自ら進み出て、敵の先手を打ってその気勢をくじき、気力が強くて困難に屈せず、敵を徹底的にたたきつぶさねばならない。また防御に当たっても、よく内に鋭く激しい攻撃精神を保持して、必ず始終敵に働きかけて動作することのできる立場を持ち続けよ。陣地は死んでも敵に渡してはならない。追撃には絶対に容赦なく、どこまでも手を緩めず、とことんまでやっつけねばならない。
勇ましく脇目も振らず突き進んでどんなことにも恐れず、よく落ち着き度胸を据えて困難な場面に当たり、堅く堪え忍んで心を動かさず、どのような苦しみにも打ち勝ち、あらゆる障害を突き破って、まっしぐらに勝利を得るために突き進まねばならない。

第七 必勝の信念

信じる心が強ければ、そこに無限の力が生じるものである。自軍の勝利を固く信じて、断じてひるまない強い意志をもって戦う者こそ、何事の戦闘にも勝つのである。
きっと勝つという信念は、百千万回死に身になって訓練してこそ、始めて生じるものである。よくわずかの時間も惜しんで研究し、ありったけの知恵を絞って工夫して、必ず敵に勝つことのできる実力を身につけねばならない。
戦いに勝つか負けるかは、たちまちわが国の栄えるか滅びるかに直接影響する。名誉ある皇軍の歴史をよく考えて、あらゆる戦に必ず勝ってきた皇軍の歴史を汚してはならないという、自分の責任を深く心に刻みつけ、確実に勝利を得るまでは、絶対に戦闘をやめてはならない。

本訓 其の二

第一 敬神

われわれの一挙一動は、常に皇祖皇宗のみ霊がご覧になっているところである。
心を正しく持ち、身の行いを慎み、深く誠心をもって神を敬い奉り、いつも忠義と孝行との二つを心から離さず、仰いで神々のお守りを受けることのできる、資格を身に備えねばならない。

第二 孝道

忠義と孝行とが一致するということは、わが国だけにある特別の道徳の、最も優れた点で、わが国の忠義の念に厚い人々は、きっとまた誠心から孝行を尽くす人々である。
戦陣においては、君国のためにこの身をささげさせてくださる父母のご恩を、深く心に頂いて、よく身命をなげうって、忠節の道を貫きとおし、このことによって、先祖から伝わってきた忠君の美風を明らかに世に現し、孝行の道を全うするように努めねばならない。

第三 敬礼挙措

敬礼は、純粋で混じり気のない服従心から、自然にあふれ出るもので、また上官と部下との心が一致した現れである。だから戦陣においては、平時にも増して特別に厳格で正しい敬礼をせねばならない。
礼儀に厚い心が内に満ち満ちており、動作が慎み深く厳格でかつ正しいのは、強い武人だという証拠である。

第四 戦友道

戦友間において守られなければならぬ道徳は、忠君の道において生死を誓い合い、互いに心の底から信じ頼り合い、ともに怠ることなく腕前と人格とを磨き、危急の場合に助け合い、間違ったことは注意し合って、一緒にそろって軍人としてのご奉公を完全に成し遂げることにある。

第五 率先躬行

幹部は燃えるような誠心の持ち主であり、部下の全ての行いの手本でなければならない。もしも上官の思想や行動が正しくなかったなれば、部下の行いは必ず乱れるものである。
戦陣では、特に論より実行が大切である。何事も自ら人々の真っ先に立って、しっかりとした強い態度で実行しなければならない。

第六 責任

大元帥陛下の大御心に基づいてわれわれに与えられた任務は、尊厳で犯すことのできないものである。したがって、その任務に伴う責任は非常に重大である。だからわれわれは、一つの仕事一つの役目もおろそかにせず、魂を打ち込んで、ある限りの方法を尽くし、その任務を完全に成し遂げるために努めねばならない。
自分の責任を大切にする者こそ、本当に戦場における最も優れた勇者である。

第七 死生観

必死の場合においても、厳として揺るがぬわれわれの行動のもととなるものは、身命をささげて君国は尽くすという気高い軍人精神である。
生死のいかんを顧みず、一心不乱に、自分の任務を完全に成し遂げるために突き進まねばならない。ひとたび死所を得たなれば、ある限りの体力精神力をささげ切って、落ち着いて死を鴻毛の軽きに比し、永遠に忠勇義烈の士として名を残すことのできるのを、武人としての最大の喜びとせねばならない。

第八 名を惜しむ

名を重んじ武人としての恥ずかしい行動をしない者は強い。常に戦陣における自分の行動が、直ちに郷里の人々や、家族親戚たちの名誉に影響することを考え、一層奮い立って、これらの人々の希望に添うように努力せねばならない。
死ぬべき命を生きて、捕虜となるような恥ずかしいことをせず、死んで汚らわしい罪の名を後の世に残すようなことがあってはならない。

第九 質実剛健

戦陣における行動は、全て飾り気のない誠心をもととして、強くて正しい軍人気質を奮い起こし、勢い盛んな意気を奮い立たせねばならない。
陣中における生活は、簡単で質素でなければならない。不自由はいつものことと思って、何事にも倹約をするように努めねばならない。ぜいたくな生活は、勇猛の軍人精神を失わしめるものである。

第十 清廉潔白

心がさっぱりして私欲がなく、少しも汚れた気持ちのないということは、軍人の気概と節操とのもととなるところのものである。自分の心に生じる欲心を抑えることができないで、物質上の欲望に本心を奪われるような者が、どうして皇国に身も命もささげるというような気高い行いをすることができようぞ。
品行は極めて厳格でなければならない。物事を取り計らうには公平で正しくなければならない。自分の行いを反省して、神にも人にも少しも恥ずかしい点のないように心掛けねばならない。

本訓 其の三

第一 戦陣の戒め

一 ちょっとした油断から思いも寄らぬ大変なことが生じるものである。平生からよく気をつけて準備を整え、厳重に警戒せねばならない。
敵兵や住民を軽んじ侮ってはならない。わずかな成功に気を緩めて、最後の仕上げに力を惜しんではならない。残敵や住民に対するちょっとした不注意もまた、重大な災いの原因となることを知っていなければならない。
二 軍事上の機密を漏らさぬよう、細かく気を配っていなければならない。スパイはいつもわれわれのすぐ近くにいるのである。
三 哨兵の任務は非常に重くかつ大切である。軍全体の安全か危急かを、自分一身に引き受け、隊全体の軍紀を身をもって示すものである。だからよろしく身命を打ち込んで、その重い責任に当たり、厳かに、心を引き締めてその任務を守り行わねばならない。
哨兵の責任の重い地位は、自他ともに十分に尊重せねばならない。
四 思想上の戦いは、今日の戦争の大切な一部分である。
わが皇国の使命と実力とに対する、厳として揺るがぬ信念によって、敵の宣伝やごまかしを打ち砕くだけでなく、さらに進んで住民や敵軍にまで、八紘一宇の尊いご聖旨を行き渡らすように努力せねばならない。
五 よりどころのない風説や、無責任なうわさに気を取られるのは、信念の弱いときに起こることである。そんなことに迷ってはならず、信念を動かしてはならない。百戦百勝の皇軍の実力を固く信じて、誰が何と言おうとも、十分に上官を信じ頼らねばならない。
六 敵地の財物や資材を大切にするように注意することが大切である。
人夫や軍需品を出させたり、取り上げたり、物を焼き払うなどのことは、全て規則どおりにして、是非、指揮官の命令を受けたうえで行わねばならない。
七 世界平和を目標とする、皇軍本来の使命から考えて、哀れみ深い心で、よく罪のない住民を愛し、いたわってやらねばならない。
八 戦陣において、仮にも酒や女のために魂を失い、または欲心の起こるにまかせて持ち前の正しい心をなくし、そのために皇軍の威光と信用とを損ない、君国のために尽くさねばならない大切な自分の一生を駄目にするようなことがあってはならない。十分に自ら戒め慎んで、決して武人としての立派な道を汚さないように努めねばならない。
九 腹を立てぬようにし、不平を起こさぬようにせねばならない。「怒りは自分を滅ぼす敵だと思え」と昔の人も教えている。いっときの腹立ちを抑えることができなかったために、長くいつまでも後悔せねばならなかった実例が多い。
軍の法律の厳しいのは、特別に軍人の名誉を高く保たせ、皇軍の威光と信用とを十分に持たそうがためである。歓呼の声に送られて、出征の途に上ったあの日の、堅い決心と熱い感激とを常に思い起こし、はるかに祖国の父母・妻子が自分の身の上を案じている心の中を思いやり、仮にも罪を犯すようなことがあってはならない。

第二 戦陣のたしなみ

一 古来武徳を尊んできた皇軍の歴史を、一層輝かしいものとするように、武人としての徳を養い、その腕前を磨くことに努力せねばならない。
「何事をするにも途中で飽きるな」ということは、昔の将軍の言った言葉にもある。
二 自分の死後に何の心残りもないようにして、一心に君国に仕え奉るために努力し普段から身の回りを整理して、死んだ後、何の汚れも残していないように用意しておく心掛けが大切である。
自分の死骸を戦場に横たえることは、もちろん軍人としてかねて覚悟しているところである。たとえ遺骨が郷里へ帰らないようなことがあっても、少しも気に掛けないよう、前もって家族の者によく言い聞かせておかねばならない。
三 せっかく戦陣に出ながら、病気のために死ぬようなことがあっては、このうえもない残念なことである。だから戦陣では、特に健康を保つことに心掛け、自分のふしだらな生活が原因となって、ご奉公に差し支えの生じるようなことがあってはならない。
四 刀を自分の魂とし、馬を宝とした、昔の武士の心掛けを、しっかり自分のものとして、戦陣においては、いつも兵器や資材を大切にし、馬をかわいがり、大切にせよ。
五 陣中で、道徳上の義務が完全に守られているということは、強い戦闘力の発揮できるもとである。常にほかの隊の都合の良いように心掛け、宿舎や物品、資材等を独り占めせぬよう注意せねばならない。
「水鳥は飛び立っても、跡の水を濁さない」ということわざがある。さすが日本の軍隊は、勇ましいうえに軍紀が厳粛で、正義の念に厚く、奥ゆかしいという評判を、外国の片田舎にも、永久に語り伝えられたいものである。
六 総じて自分の功績を自慢せず、手柄を人に譲るのは、武人の、優れて高い人柄として尊ばれるところである。
人の昇進をうらやむことをせず、自分の認められないのを不平に思わず、深く反省して、自分の誠心の足りない点を考えねばならない。
七 何事も正直にと心掛けて、大げさに言ったり、うそをつくことは、恥ずかしいとせねばならない。
八 常に自分は、世界を率いて立たねばならぬ大日本帝国の、選ばれた軍人であるという、広く大きい度量を持ち、正しい道をふみ行って忠節の志に緩みなく、皇国の威光を広く世界に揚げ現さねばならない。
しかし、そのために外国人に対して高ぶるようなことなく、外国に対する礼儀もまた、大切にしなければならない。
九 当然死ぬべき命を生き永らえて、祖国へ帰れとの大元帥陛下のご命令を頂くことがあったら、よくよく、戦陣において斃れた戦友の身の上を思い、言葉や行いに気をつけて、国民の手本となり、一層奮励努力して君国に尽くし奉るの覚悟を固くせねばならない。

結び

以上に言ったことは、全て軍人勅諭のご聖旨から出て、また軍人勅諭のご聖旨に帰り着くものである。だから以上の教えによって、戦陣における道義を立派にふみ行い、そして軍人勅諭のご垂訓を、欠けたところなく完全に守り遂げるように努めねばならない。
戦陣における将兵は、この戦陣訓を守らねばならぬ道理を十分に会得し守って、一層誠心をささげて君国のために尽くし、よく軍人として尽くさねばならぬ務めを完全に成し遂げ、天皇陛下の厚いお恵みにお報い申し上げねばならない。




■原文

表紙

題名
戦陣訓
著者

出版
軍人会館図書部

昭和十六年一月十五日印刷
昭和十六年一月十八日発行
備考
昭和十六年一月二十五日陸軍省検閲済


陸訓第一号
本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ
昭和十六年一月八日
陸軍大臣 東条英機

***

戦陣訓

目次


本訓 其の一
本訓 其の二
本訓 其の三
 第一 戦陣の戒
 第二 戦陣の嗜


***

戦陣訓



夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の動義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘竝に訓練等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て、勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

本訓 其の一

第一 皇国

大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり。
戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓つて皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。

第二 皇軍

軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。」
常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。仮令峻厳の威克く敵を屈伏せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御稜威を仰がしむるに在り。

第三 軍紀

皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大権の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。
特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

第四 団結

軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。
軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、鞏固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし。上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。

第五 協同

諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。
各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。

第六 攻撃精神

凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉碎せずんば已まざるべし。防御又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。
勇往邁進百事懼れず、沈著大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障害を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

第七 必勝の信念

信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。
必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。

本訓 其の二

第一 敬神

神霊上に在りて照覧し給ふ。
心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

第二 孝道

忠孝一本は我が国道義の精砕にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。

第三 敬礼挙措

敬礼は至純なる服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。
礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。

第四 戦友道

戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分を完うするに在り。

第五 率先躬行

幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざれば下必ず紊る。
戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。

第六 責任

任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

第七 死生観

死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

第八 名を惜しむ

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。」
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

第九 質実剛健

質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる志気を振起すべし。
陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を触むものなり。

第十 清廉潔白

清廉潔白は、武人気節の由つて立つ所なり。己に克つこと能はずして物欲に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢざるべし。

本訓 其の三

第一 戦陣の戒

一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警めざるべからず。
敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。
二 軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
三 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。
哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。
皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。
五 流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。」
徴発、押収、物資の燼滅等は総て規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は欲情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遥かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。

第二 戦陣の嗜

一 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。
「毎時退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
二 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。
屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。
三 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹を愛護せよ。
五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。
「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。
八 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
国際の儀礼亦軽んずべからず。
九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思ひを護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。



以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。
戦陣の将兵、須く此の趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。



■『戦陣訓』について

 〔愚書『戦陣訓』〕
「戦陣訓」は昭和十六年一月八日に公布されている。つまり昭和十六年一月以降軍務にあった兵隊には、この小冊子が配布されるか、乃至これについて担当将校の訓話を受けたはずである。
「戦陣訓」ができたとき、これに反対する動きも多かったのは、かえって弛緩している軍紀を証明するような逆効果になるのではないか、という心配からである。
 筆者はこの「戦陣訓」を、昭和十八年に中支の戦場で貰ったが、その小冊子の巻末には「戦陣訓」作製に協力乃至相談にあずかった名士たちの名が、ズラリと付されていたと記憶する。筆者はこの小冊子を一読したあと、腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。いうも愚かな督戦文書としか受けとれなかったからである。
「戦陣訓」は、きわめて内容空疎、概念的で、しかも悪文である。自分は高見の見物をしていて、戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまでの十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。それに同項目における大袈裟をきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどである。筆者が戦場で「戦陣訓」を抛ったのは、実に厳しい羞恥に堪えなかったからである。このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、という救いのない暗澹たる心情を覚えたからである。
「戦陣訓」にくらべると、明治十五年発布の「軍人勅諭」は荘重なリズムをもつ文体で、内部に純粋な国家意識が流れているし、軍隊を離れて、一種の叙事詩的な文学性をさえ感じるのである。興隆してゆく民族や軍隊の反映が「軍人勅諭」にはある。「戦陣訓」を「軍人勅諭」と比較することは酷であるにしても「戦陣訓」にはなんら灌漑している精神性がなく、いたずらに兵隊に押しつける箇条書が羅列してあるだけである。およそ考えられるかぎりのあらゆる制約条項を、いったい生身の兵隊が守れるとでも思ったのであろうか。ともかく「戦陣訓」には耗弱した軍の組織の反映があり、聡明なる兵隊はそれを読んだ時点で、すでに兵隊そのものの危機を予感したかもしれない。雲南省で、重慶軍が竜兵団と戦っているとき、蒋総統が麾下兵員に与えた訓示には、真率な人間的情熱が窺えるが、すでに「戦陣訓」には、人間的なものは何ものも失われていたのである。愚書というよりほか、批判の下しようはないのである。
 そうしてこのような愚劣な督戦にかかわらず、なお健闘を尽くした兵隊の衷情を、なんと解せばよいのかわからない。

『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』(伊藤桂一。番町書房)の三百九〜三百十ページまで引用

浸透していなかった『戦陣訓』

 上記に引用した、伊藤桂一の意見が『戦陣訓』の一般的なイメージであろう。それを踏まえたうえで、以下に私の主張を述べる。
 昭和十六年一月八日、ときの陸軍大臣・東条英機は『陸海軍軍人に賜はりたる勅諭』(明治十五年一月四日公布)を実践するための教訓――『戦陣訓』を発布した。この教えは、鍋島藩士・山本常朝の『葉隠聞書』にも劣らぬ、武人としてのあるべき姿を示す訓戒といえよう。しかし、本訓その二の第八「生きて虜囚の辱を受けず」を引用し、兵士を徹底抗戦に追い込んだ、と見当違いな批判をしている者がいる。サイパン島で住民が投降を拒否したのもその一節にこじつけて、やり玉に挙げている。
 左派が言うところの「『戦陣訓』の呪縛」なるものは現実には存在していなかった。
 『戦陣訓』の浸透度合いを図る例として、本訓その一の第六「追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし」を挙げよう。断乎として、というだけでも強い表現だが、断を頭にもう一文字足して断々乎として、と述べている。「生きて虜囚の辱を受けず」より、強固に説かれている教えである。しかし、戦史をひも解けば、日本軍は度々追撃に手抜かりがあった。昭和十六年のハワイ作戦では港湾、貯油タンク、造船所等々の施設を目標にせず、第二撃の反復攻撃をおこなわなかった。空母六隻を主力とする南雲忠一中将指揮する第一航空艦隊はあっさり引き揚げてしまっている。昭和十七年の第一次ソロモン会戦も同様である。三川軍一中将の第八艦隊は日本軍得意の夜戦で勝利するものの、敵航空機の脅威を危惧して一撃で離脱、肝心の米輸送船団を取り逃している。
 さて、山本七平の著書『私の中の日本軍』に、たいして広まっていなかった『戦陣訓』に関する一文が載っている。以下に引用しよう。

(以上略)日本軍や今次の戦争について、実に確固たる「戦後神話」とも言うべきものが出来あがっていることも、折に触れて感じてはいた。たとえば横井さん(1)が出て来たときすぐその原因は『戦陣訓』(2)ということになり、私自身も取材を受けたが、私は『戦陣訓』など読んだことはないし、部隊で奉読されたこともないと言ってもその人は信用しない。私は自己の体験を語り、その人は戦後生れで軍隊を知らないのに信用しない。また私自身、軍刀をぶら下げていた人間であり、本書に記したように、それで人体を切断した体験のある人間だが、その体験者が「百人斬り」など日本刀の強度からいってあり得ないと言っても人は信用せず、相変わらず戦時中の「虚報」の「戦後版」や「戦後神話」を信じつづけているというのが、戦後の実態であった。それでいてその人は、戦争中の日本人が、大本営発表や新聞の戦意高揚記事に、いとも簡単にだまされていたことを不思議がるのである。(以下略)

(1) 昭和四十七(一九七二)年、グアム島南部の林で、二十八年間潜伏していた元日本兵・横井庄一(戦死扱いで軍曹)が島民に発見された。横井軍曹≠ヘ二月二日「恥ずかしながら、帰って参りました」と故国の土をふんだ。
(2) 昭和十六年一月、東条英機陸相の名で出された、戦場における軍人の心得。「序、本訓其の一(集団的道義)、其の二(個人的徳目)、其の三(戦陣の戒・戦陣の嗜)、結」からなる。横井さんの行動は〈「生きて虜囚の辱めを受けず」。いまだに戦陣訓が厳然と生きていたのだ〉(朝日新聞S47・2・1) 〈横井さんの半生を密林に埋れさせたものこそ戦陣訓だった〉 (同・2日社説)といった説明がされた。


*補足(藤本)
 引用文の中に(以上略)(以下略)とある箇所は、藤本が文章の一部を省略して引用したあとである。原文に(以上略)(以下略)と記されているわけではない。


山本七平ライブラリー2 私の中の日本軍』(山本七平。文芸春秋)の九〜十ページまで引用(1と2の注記は十一ページから引用)

当時の常識を現代の常識で考えてしまう愚

 『戦陣訓』にあれほど追撃の要諦がうたわれているのに、実際は指針程度にしか広まっていなかったのである。ならば、どうして兵士の金科玉条が「生きて虜囚の辱を受けず」だったと言い切れるのだろうか。矛盾してはいないだろうか。戦後に横行した進歩的知識人と称する売国奴の妄想ではなかろうか。『戦陣訓』の本訓その二の第十「清廉潔白は、武人気節の由つて立つ所なり」や、本訓その三の第一「敵及住民を軽侮するを止めよ」などの心打つ徳目には目もくれず、持論にとって都合のよいくだりだけを抜き出す手法には悪意を感じる。あまつさえ、そのめちゃくちゃなやり口によって上述どおりの矛盾まできたしているのだから、救いようがない。
 彼らはそれでも日本軍の非人間性とやらを、相も変わらず主張するだろう。ほかの項目はいざ知らず、「生きて虜囚の辱を受けず」の呪縛は確かにあって、日本軍は降伏を受け入れずに最後の一兵まで戦い続けたではないか、と。しかし、勇敢に最後の一人まで戦い抜くことこそ、当時の日本の常識である。現代人にとって受け入れ難い規範であっても、時代の思想というものがある。
 戦国時代の武将が首をはね、鼻をそぎ、耳を切り取って戦功の証しにするのも、彼らは現在の考え方で断罪するのだろうか。すると、血湧き肉躍る戦国絵巻が突如として暗黒時代に変貌する。織田信長、武田信玄、上杉謙信などの英雄に野蛮人の烙印が押される。想像するだけでも背筋が寒くなる。

軍律厳しい日本軍

 支離滅裂に終始する一部勢力の誹謗中傷はほかにもある。『戦陣訓』の成り立ちを、支那で多発した日本兵の残虐行為を防止するための戒律と曲解するものである。殺人、略奪、婦女暴行など、事実無根の犯罪を組織的におこなっていたかのような捏造に基づく、最悪の批判といえる。世界の参戦国を見渡しても、日本だけが飛び抜けて戦争犯罪を犯していたという事実はどこにもない。アメリカの原子爆弾投下による無差別大量虐殺やドイツのユダヤ人絶滅政策のような悪行はおこなっていない。むしろ世界一、日本軍は規律正しい軍隊であったといっても過言ではない。日本の蛮行と称して喧伝されていることといえば、支那や朝鮮が必死になって創作したうそ八百だけである。
 楳本捨三の著書『山西に潰滅した元泉旅団 ―悲惨たる壘兵団長の全生涯―』に日本軍の真の姿が記されている。関係箇所を以下に引用しよう。

 ここに満州事件の折の記録がある。河北省作戦の時のことだ。簡単に記してみよう。

(一)宮本部隊は爾後追撃隊となり、直ちに遵化に向い敵を追撃、但し其砲兵を払暁に追求せしむ。
(二)爾余の諸隊は午前四時接官庁北方道路屈回点附近に集合の後、追撃隊に続行(午前七時飛行機通報の要旨)
(一)坂本旅団は本日中に豊潤を占領するならん
(二)遵化方面の敵は西南方に退却せるも城内情況明らかならず
 追撃隊の主力が五月十六日午前八時二里庄(遵化東方約二キロ)に達したとき、遵化城には機関銃三、四挺をもった相当有力な敵兵が各城門を閉ざし、一般非戦闘員を楯にして城壁上の銃眼を利用して、頑強に抵抗をつづけていた。
 先遣参謀を宮本追撃隊長(少佐)のところへやり、指示を与え、追撃隊をもって直ちに遵化を包囲し、敵の脱走を監視させるとともに、砲兵をもって城壁の破壊射撃を準備させた。
 敵は住民を楯にとって、日本軍の攻撃をはばむ作戦に出ていたので、附近作戦に対して日本軍は絶対、善良な市民には危害を加えない方針であるから城壁による支那軍隊を一刻も早く城外に出して、開城するように要求した。
 だが、城壁によっている支那軍は、住民を利用して出ようとはしない。幾度命じても、住民を強迫して城壁によっている。作戦上の不利を忍び、再三支那官憲に通告するのだが猶予した規定の時間を度々すぎても実行しようとしない。
 仕方なく追撃隊は砲兵をもって城壁の破壊射撃と山砲分隊、曲射歩兵砲で威嚇射撃を実施した。
 旅団主力が遵化城外に達しているが支那兵は出ない、そのうち正午頃、白旗をかかげた密使がやって来た。
「約千名の守兵は国の為に殉ずる洵に忠誠の士というべきなり、しかれども、無辜の住民に損害を与えるに忍びざるところなり、三日間の余裕を給われば支那軍は城外に出すべし」
 支那軍の命を受けて非戦闘員が使者になって来たのである。三日間――さすがに呑気な支那人――というより人をくった支那軍と思ったが、無辜の住民に被害を与えてはならない、作戦の不利を忍んで数時間の余裕を与えた。
 しかし敵は約束を守らない。住民を傷つけないように不便な攻撃方法を選び、城壁に破壊孔を作り、そこから突入しようという方法をとったのだ。
 敵は夕方四時頃、白旗をかかげさせた住民三十人ほどを城外に出して降伏して来た。
 何時間かの余裕と、破壊孔の作業の為に攻撃を延引している間に、千余名の敵兵は便衣に姿をかえ、西方の包囲圏外の一地点から一人残らず逃亡した後であった。
 良民を苦しめず、非戦闘員を殺さず――というのは日本の建軍以来の精神であり、伝統であった。それが武士道の精神でもあり、ヒューマニズムに通じるものであると思う。そして、こうした作戦上の不便を忍びながら、良民を助ける為、抵抗している敵に逃亡の機会を与えた戦記は実に多い。

『山西に潰滅した元泉旅団 ―悲惨たる壘兵団長の全生涯―』(楳本捨三著作集第三巻。楳本捨三。秀英書房)の三百三十〜三百三十一ページまで引用



(三) ビルマの友情

 これは、昭和三十一年の春ビルマ方面(インドの一部を含む)戦歿者の遺骨送還と追悼のため派遣された厚生省引揚援護局次長の美山要蔵団長の報告書の一部である。
 遺骨収集と追悼行事の行われたのは、マンダレー方面、シヤン州、カチン州、バーモ附近、チンドウイレ河流域、カレワ―インパール道、アキヤブデルタ地帯であった。
 マンダレー方面では、マンダレー、メークテーラ、メイメヨウ。チンドウイン河流域はカレミヨウ、カレワ。カレワ―インパール道ではホートホワイト、テイデム、インパール、コヒマ、パレル等広範にわたり、あのビルマ方面軍の凄壮な激戦区の跡、とくにインパール作戦の広い戦跡に及んだのであった。
 美山団長は、
『……大衆の対日本軍感情は極めて良好である。私はこの点を強調した。英霊の九十九パーセントまでは上層とは無縁であるからである』と述べ且つ、
『……日本軍は強く正しい感じをビルマ大衆に与えた』といっている。
 イラワジ河畔の追悼式の時のことが記されている。フーコン河、イラワジ河附近、バーセ、マンダレー、コヒマの戦闘状況については前にかいた「ビルマの悲風」其他で触れておいたからここで重ねて書くことは止めよう。
 追悼式の準備をしておるところえ、パコダ(塔のようなもの)のお守をしている老婆が生花二瓶をもってお供えをしてくれという。その老婆はモガウンの住民であるという。
 追悼式のすんだ後、美山団長は、老婆に向い、お供物のお礼をいった後、
『あなたは日本軍にずい分といじめられたでしょう』
 ときくと、老婆の答は、
『日本もビルマ人も同じことです。よい人もあれば悪い人もいます、ビルマも日本も一つです。日本の兵隊さんは私の子供のようなものです。ここで皆さんが追悼式をやられたから、これからは毎朝毎晩、この仏に兵隊さんの冥福をお祈りしますから安心して帰って下さい』
 という意外な、暖かい言葉だった。
 また、ミッチナには旅館がなく、カチン州庁ダヴィド工業局長の家に団長以下五名の収骨団員は泊った。かれはインド人であったが、
『日本の隆盛と日本軍隊の精強であったことは、日本人の規律心と日本軍隊の軍規のおかげです』
 と断言するのであった。そしてダヴィドは二種類のビルマ人について説明してくれた。
 ビルマ人には、カケン、カレン、シヤンのような非常に素朴な農民と、他の一つは妾に労働させて自分は浪費生活をおくるものと二つの種類があるという。そして現在の政府のものは日本が占領時代の要人であって、日本の旗色が悪くなったときに日本から寝返ったもので、日本が強ければ日本、英国が強いときは英国につく、無節操なものだと語り、純朴なビルマ人は日本人や日本軍隊のよさを今でもよく知っていると語るのであった。
 センワイ警察署長の談話の中には、
『北シヤン州には戦争中、日、英、米、印、支の五ヵ国の軍隊が入って来たが、日本軍隊が一番規律正しかった』といい、
『英米の兵隊はちっとも働かない、印度と支那軍の兵隊は強姦することが多い、日本の兵隊は乱暴だがよく働く』
 と語ったと報告されている。日本の病院長が作ってくれた温泉を今もって利用していると感謝した。
 この他、マンダレーの警察学校の武道教官であるモン、チン、モンの話とか、ドウ、イ、センという婦人の日本兵の人情深い物語が記されている。
 収骨や追悼には、実に多くのビルマ人の男女が心から援助をしてくたた。そしてこれらの人たちは謝礼のお金をおこうとしても受取らず、団長は、日本から持って行ったピースなどをお礼としておいてくる外なかったということである。
 野戦倉庫の直田曹長はカレワ炭坑の発掘方法をビルマ人に教えてくれた恩人であるといい、今日でも彼等は感謝とともに直田曹長の恩を忘れてはいない。
 そしてこの美山団長の『ビルマの友情』という一文は左のように結ばれている。
『……風俗、習慣の異なる彼の地において、日本軍人がビルマ人の、最も尊敬する僧侶を殴ったことなどが悪い感情を与えていることも聞きましたが、これらは全く少数の例外のことであって、全体の問題とは考えられません。どうして日本軍隊、軍人がこんなにビルマ人の人に慕われているのでしょうかと考えさせられます。これには高等司令部の指導にもよったことはありましょうが、第一に考えられますことは、ビルマ人は最初英軍の制圧下にあり、次いで日本軍の占領下に入り、遂に英、米、印、支連合軍の占領下に入ったのでありまして、この間、身をもってこの五ヵ国の表裏を体験したのでありますから、内外から観察して真に自身の味方が誰であり、自分を叱りながらもよくしてくれる者が誰であるかを率直に認めた結果でしょう。第一には小さいことでありますが、日本語の語列が最もビルマ語に入り易かった点なども一つの理由ではありますまいかと存じます。その他人種的差異の僅少等もその一つの原因と考えられます。とにかく、日本における日本軍観よりもビルマにおける日本軍観の方がよかったという点は、誠に不思議に感ずる点でありますと共に、将来このビルマの友情をどう育ててゆくかについて、識者は考えるべきではないかと思わせられるのであります』

『山西に潰滅した元泉旅団 ―悲惨たる壘兵団長の全生涯―』(楳本捨三著作集第三巻。楳本捨三。秀英書房)の三百三十二〜三百三十五ページまで引用

結論

 詰まるところ、「生きて虜囚の辱めを受けず」というのは、いにしえからわが国の武士階級に伝えられてきた死生観であって、何も日本軍の『戦陣訓』によって生み出され、広められたものではなかった。また、歴史的事実として『戦陣訓』はそれほど浸透してもいなかった。『戦陣訓』が発布されようがされまいが、もともと日本軍は最後の一兵まで戦い続ける軍隊だったのだ。
 つまり、『戦陣訓』があったから日本軍は降伏しなかったのではなく、降伏しなかった日本軍の根本思想を『戦陣訓』に求めて説明したためにおかしなことになってしまったのである。
 歴史上の事実として、『戦陣訓』が発布される前の日清日露戦争において、日本軍が組織的な投降をしたことなど一度もない。反対に、神風特攻隊のごとく、自らの身をていして必死した兵隊の例は当時でもたくさんある。
 以上のように、わが軍の徹底抗戦主義を『戦陣訓』の教えによって説明するのは適当ではなく、ましておとしめるような評価は浅はかこのうえもない。加えて、日本人が日本人らしさを忘れ、まるで欧米人のような判断基準でもって、降伏しない軍隊を奇妙に思うのは、もはや同胞とはいえず、単なる西洋かぶれか、もしくは白人の植民地奴隷でしかない。
 さて、支那や朝鮮の謀略に対抗していくため、『戦陣訓』本訓その三の第一から学ぶこととする。
「思想戦は、現代戦の重要なる一面なり」
 いまだ大東亜戦争は終わっていない。武力戦は半世紀以上前に集結したが、宣撫戦は今も進行中である。死して護国の鬼になった英霊のためにも、日本国の未来のためにも、われわれは民族の尊厳を護らなければならない。


参考文献
口訳 戦陣訓』 満州第六〇四部隊
『戦陣訓』 軍人会館図書部
山本七平ライブラリー2 私の中の日本軍』 山本七平/文芸春秋
『山西に潰滅した元泉旅団 ―悲惨たる壘兵団長の全生涯―』(楳本捨三著作集第三巻) 楳本捨三/秀英書房
『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』 伊藤桂一/番町書房

履歴
平成十八年一月六日



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