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ぼくが初めてヒロ・フジカケに会ったのは1987年で、当時のぼくはロンドンのRCAレコードでクラシック音楽のディレクターをしていた。その少し前、彼は権威あるエリザベート王妃国際音楽コンクールでグランプリを受賞していて、クラシックのジャンルの彼の作品を、我々がレコーディングする気はないか打診するために、ぼくのオフィスにやってきたのだった。ぼくは、今は現代音楽を出すことにほとんど関心がないことを彼に説明し、それ以外のもので何かないかたずねた。そこで、彼はシンセサイザーで演奏して録音した軽めの曲の入ったカセットをかけた。その1曲目が『妖精の森』だったのだが、ほんの2、3小節を聴いただけでぼくの目は輝き、大変な逸品を見つけたことを知った。

その数年前、RCAレコードに対して、ぼくは名フルート奏者ジェームズ・ゴールウェイと契約をかわしていた。我々は何枚かの“クロスオーバー”のジャンルに入るアルバムを制作したが、その中の1枚『Annies Song』は大成功をおさめ、ヨーロッパや北アメリカのチャートで1位に輝いた。続いて制作した何枚かの同様のアルバムの中に、『Songs of the Sea Shore - a collection of Japanese folk songs』があり、これは名指揮者岩城宏行の指揮するスタジオ・オーケストラによって東京で録音された。これらの成功によって、ミスター・ゴールウェイは世界中にいわゆる“クラシック畑でない”多くのファンを獲得したが、こうしたファンはなおも彼に同じようなレパートリーをもっと期待していた。しかし、そういうものを見つけるのが困難になっていたのである。

ヒロの曲はジェームズ・ゴールウェイにぴったりだと、聴いたとたんにぼくにはわかった。カセットを送ると、彼もぼくに同意した。それで、1988年の日本でのコンサート・ツアーの合間に、ヒロ自身の曲とアレンジした曲をレコーディングする手はずを整えた。

1988年3月13日、東京のサウンドバレー・スタジオで、我々全員が顔を合わせた。それは、いくらか緊張した会合となった。ジェームズとヒロは初対面だったし、我々はそれまで一度もシンセサイザーだけの伴奏でレコーディングしたことがなかった。そのシンセサイザーはすべてヒロひとりが演奏するのである。我々はローランド・シンセサイザーをセッティングし、ジェームズの頭にヘッドフォンをかぶせると、彼のための最初の曲を演奏した。スタジオの雰囲気は、たちまち生き生きとして信頼に満ちたものになった。ジェームズとヒロは、一流のミュージシャン同士ならそうなるように、ふたりでする仕事を楽しんだ。その結果は『妖精の森』のCDで今も聴くことができる。これまで何百万もの人たちを楽しませてきたアルバムだ。

ヒロはまた、ユーモアにあふれた非常に魅力的な人物でもあることが、すぐにわかった。1日目の仕事を終えたところで、これからどうするつもりかと彼はぼくにたずねた。タクシーを拾ってホテルに戻るつもりだと、ぼくは答えた。
「ぼくは駅へ行くのだけど、駅はホテルへの通り道にあるんだ。一緒のタクシーで行かないか?」 
もちろんそうできないわけがない。駅に着く寸前になってヒロは、このまま電車に乗って帰ってしまわないで、駅で一緒に食事しないかと誘った。それはいい考えに思えたので、ぼくらは彼のお気に入りの“和食レストラン”に入った。そこではなにもかも日本語で書いてあって、英語の表示はひと言もなかったので、ぼくの分も注文してくれるようヒロに頼んだ。
「うどんは好き?」と彼は聞いた。
「もちろん好きだよ」と答えると、すぐにテーブルにうどんが来た。ぼくにはこうしたすべてが、初めてのとてもわくわくする経験だった。ぼくはヒロがすることを注意深く観察した。そうすれば、それに倣って同じようにすることができる。ヒロはぼくの意図に気づくと、おいしそうな料理をスプーンにすくいながら、ぼくに笑いかけて、日本式テーブル・マナーの最初のレッスンをしてくれた。
「日本ではね」と彼は言った。「麺類を食べるときは大きな音をたてるのがマナーなんだ」 それ以来ぼくらはとてもいい友だちになった。

『妖精の森』は非常な成功をおさめ、それに続くものが求められた。それで、1992年、ジェームズがコンサート・ツアーを行っていたオーストラリアのシドニーで、『ひばりは高らかに』をレコーディングした。今度のアルバムでは、トラディショナルとクラシックの曲をやることにして、アイルランド民謡(タイトル曲)を入れ、クラシックの曲は、アルビノーニの『アダージョ』から、ボロディン(弦楽四重奏のための美しい『夜想曲』)、ショスタコーヴィッチ(“The Gadfly”から『ロマンス』)、そしてフルートとシンセサイザーのために非常に独創的なアレンジをほどこしたドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』にまでわたっている。アルバムはまたしても成功をおさめた。演奏者としてもトラディショナルな曲のアレンジにかけても、ヒロが卓越した技量を持つことを、アルバムは余すところなく示している。それだから、偉大な作曲家たちがもしも現代に生きていて、ローランド・シンセサイザーで演奏するために曲を書いたとしたら、当然こんなふうになるだろうというように聞こえるのだ。

これに似たユニークな才能を持つ音楽家で、ぼくが知っているのは、ヒロの他にひとりだけ、彼と同国人の富田勲である。彼ともまた仕事仲間であり友人であることをぼくは嬉しく思う。

ぼくが見るに、ヒロ・フジカケが音楽で成功をおさめたのは、演奏者として、また編曲者としての技量を通してなのはもちろんであるが、とりわけそのすばらしい生来の作曲の才能によるところが大きいと思う。それは“神から授かった”ものにちがいない。なぜならそれは教わることができないからだ。すべての人が楽しめるような魅力的なメロディーを創りだすことができる才能というのは。

“ヒロ、君と知りあえたことは何ものにも替えがたい宝だよ”

ラルフ・メイス
2004年8月


ラルフ・メイス氏 略歴

イギリス人音楽家にして、レコード・プロデューサー。ロンドンのロイヤル音楽アカデミーで学んだ。

英国ロイヤルバレエ団の音楽スタッフとしてその経歴をスタートさせ、1961年にバレエ団が東京と大阪で公演を行った時には指揮を担当した。この年新規にオープンした上野の東京文化会館で公演した最初のバレエ団となった。

1970年からはレコード業界で仕事をしている。デビッド・ボウイの初期のアルバム『The Man Who Sold the World』では、ムーグ・シンセサイザーの演奏で参加、また、ブラジルのスーパースター、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルが、1970年代の初め政治亡命してロンドンに住んでいた間の3枚のアルバムをプロデュースした。

彼は、クラシックの多くの偉大なアーティストたちと仕事をして、150枚以上のアルバムをプロデュースした。その中には、ジェームズ・ゴールウェイ、富田勲、ヘンリー・マンシーニ、キャシー・バーベリアン、ヴラディーミル・スピヴァコフ、山下和仁、岩城宏行、クレオ・レーン、エヴリン・グレニーがいる。

音楽活動に加えて、現在彼は19世紀イギリスの素手によるボクシングのボクサー、ジェム・メイスの伝記を執筆中である。ジェム・メイスは1862年のイギリス・チャンピオンで、40歳だった1870年にはニューオーリンズで世界チャンピオンになった人物である。


ラルフ・メイス氏による ジェム・メイスについてのホームページはこちらです。
Jem Mace - Champion of the World



日本語訳:IZZY
オリジナル英文

藤掛廣幸氏オフィシャル・ホームページ

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