ハスの花 ユキの物語   










                               石屋まーく


                           扉のハスの写真は. by pocari





                               






















女は妙な夢を見た。

一年に一度あるかないかというひどい風邪を引いてしまい、高熱を出してしまった。
いつもなら多少熱が出ても仕事に出かけるのだが、
朝から不思議な胸騒ぎがして、出かけることができなかった。
夫は、昨夜から仕事に出て、夜勤明けの今日、お昼過ぎには帰ってくる。
寝床にもぐっていると、体中が嫌な汗をかいており、喉の奥がからからに乾いた。
この妙な夢は、体調のせいかも知れないと思った。

仕事に出かけて留守をしていると思い込んでいる夫がアパートに女を連れ帰る夢……

午後3時を回ったころ、誰かが玄関のドアを開ける音がした。
夫が帰ってきた……と思って上半身を起した時、夫の気配のほかに、もう一人の人間の気配がした。
間違いなく女であった。夫の背後から、クスクス笑う女の声が聞こえてきた。
寝間から一歩も出ることができなくなり、そのまま様子を伺うしかなくなってしまった。
夫は、女と戯れながら、居間のほうにやってきたようだ。



「待てよ、明かりつけないと暗いんだよこの部屋……」
「ふーん、案外いいとこ住んでんじゃない……」と女が言った。
それっきり……女は凍りついたように立ち止まってしまった。


寝間の引き戸が少し開いていた。

向こうの闇の中から、物凄い形相で睨みつける妻の顔があった。










「今日は、帰ってくれ……」

男はすぐに女を追い返した。
振り向くと、居間の中央には、寝巻きのまま髪を振り乱した妻がいた。
小刻みに肩が震えているのがわかったが、どうにもならなかった。
男は部屋のもう一方の隅に正座して、押し黙っていた。

膝に目を落としたまま、小1時間経っただろうか、
言い訳をしようと顔を上げた瞬間、総毛だった。

妻は、じーっと男を凝視していたのだった。

男は、鳥肌を立て、目をそらした。
妻は唇を噛み締めながら、目を真っ赤にしていた。
急に起き上がって寝間に入ったかと思うと、ダンと戸を閉めた。

その後……闇の向こうから長い長い嗚咽が聞こえてきた。



  ***

女は半年前から病気だった。

身体には常に微熱があり、倦怠感があった。
風邪に似た症状を繰り返し、吐血することもあった。
自然に、夫婦のことがうとましくなった。
夫に言った一言は、半分本気だったのだ。

外で、いくらでも浮気しておいでよ……

その時の今にも泣きそうな夫の顔を忘れない。
母親に捨てられた少年のような、実に哀れな顔をしたのだった。

ごめんなさい……結局あたしが悪いの。
ごめんなさい……あなたを幸せにはしてあげられそうもない。




女は、自暴自棄になっていった。

家を出たのは、それから間もなくのことだった。










家を出てからすぐに離婚手続きをした。

そして半年が過ぎた。
モデルの仕事をしながら、水商売のアルバイトをすることもあった。
その不思議な男と出逢ったのは、すすき野のカラオケバーだった。
大柄で威圧感があったが、瞳が外人のように灰色がかっており、魅力的だった。
なにより、声が優しくてどこか自分の父親の声に似ていた。
証券会社に勤めていて、独身だと言う。
話が面白くて、一緒にお酒を飲んでいると心が癒されるのを感じた。

まもなく同棲した。

男は証券会社になど勤めていなかった。
すすき野にあるSMクラブの支配人だったのだ。
女は、どうせ離婚した身だからこの面白い男としばらく暮らしてみようと思った。
その手のクラブは、所得の高い紳士の遊び場所らしく、
クラブも男も金回りはよく、お金に不自由することはなかった。

一年経った時、あることに気が付いた。
自分を愛してくれてはいたが、結婚の二文字を口にすることはなかった。

女は時々、高熱を出し、自分の病は重いのかもしれないと思うようになった。
心細くなればなるほど、この男への思いはつのった。

ある日、男には奥さんがいるということを知った。
問いつめると、男はバツが悪そうに苦笑いしながら、こう言った。
「うまくいってないんだ。別れるつもりだ。今の僕には君しかいない」
嘘でも嬉しかったが、調べると、奥さんは彼の両親とべったりで、
その両親は、とても離婚に同意などしてくれるような状況にないことが分かった。


さて女は、起死回生の一手を思いついた。










「あたし、生活たたんで東京に帰るわ」

女は、男の様子を確かめた。
特に、お気に入りの灰色の瞳に動揺の色が浮かばないかを、
注意して見つめた。
男はいつにもまして、冷静な口調でこう言った。
「ユキが東京へ帰るなら、一緒に行くよ」
「だって、あんたのクラブ東京にはないでしょ」
(内心、嬉しかった)
「いや、こんど六本木に店を出す計画はあるんだ」
「なんだ、なら自分に行かせて下さいって、言ってみたら?」
がっかりした。
ひょっとしたらこういう事態を予測していたのかも知れない。
ユキは、揺さぶりをかけたつもりだった。
奥さんを捨てて本当に自分について来るかどうか確かめるために。

うまくかわされたような後味の悪さが残った。


翌月、ユキは東京に戻ってきた。一足先に渋谷の実家に戻った。
犬を伴って、突然帰ってきたユキを見て、父母は仰天した。
札幌で、幸せな新婚生活を送っているとばかり思っていたからだ。
「おまえ、別居でもしたのか?」
「違うよ。そんなめんどくさい、離婚して来ちゃったさ」
驚く両親に、その後知り合った同棲相手の話はしなかった。
勤務先が勤務先だ、言ったが最後心臓麻痺を起こしかねない。

モデルのアルバイトをしながら、彼の到着を待った。
3ヶ月後、渋谷の借り上げ社宅に移った。
夫婦の暮らしが始まった。
よく喧嘩もしたが、休日は二人で過ごした。
六本木の経営を任された彼は仕事の一部をユキに手伝わせた。
時には、危なげなチラシのモデルをさせられることもあった。
ユキにしてみれば、ビジネスと割り切ればなんでもないことだった。
共同経営感覚で、営業も事務も経理も仕切っていた。

ようやく、彼の周りから奥さんの影は消えたかに思えた。

梅雨寒のころ、自分が妊娠していることを知った。
体調が以前にもまして悪いのはそのせいかも知れないと思った。
病院へ検査に行った帰り、道玄坂の途中で、携帯電話が鳴った。

それが……最初の電話だった。










(無言電話だった)

女の気配だと思った。
確たる根拠はなかったが、20年以上女として生きてきて、
誰に教えられるでもなく培われてきた女のカンがそう教えているのだった。
何回か無言電話を受けるうちにその思いはますます強まった。
思いあまって、「あなたね……」という言葉が喉まで出かかったとき、プツンと切れた。

彼に聞いてみることにしたのには、理由があった。
「あなたまさか、奥さんにあたしの携帯の番号バレてんじゃないの?」
と問いただすと、そんなことあり得ないと言うのだがあてにならない。
男というものは、簡単にへまを犯すものだということを、
最初の結婚で十分に味わったからだ。

奥さんがいやがらせしてきているとしか考えられない。
それとも、自分の中にある罪の意識が幻想を生み出しているのだろうか?


夕方原宿で買い物をした帰り、急に雨が降り出した。
ビルのエントランスに駆け込んで雨宿りをしていると、また携帯が鳴った。
どうせ無言電話だからと取らないでいると、留守録に切り替わった。

誰かが録音している……

再生してみると、初めて聞く気味の悪い女の声で、

……おまえ……なんか……病気で……さっさと死んじまえよ……


ユキは、恐怖のあまりその場にへたり込んでしまった。
誰かに自分のすべてを覗かれているような恐怖を感じた。
自分が病気であることを、なぜ知っているのだ?
もしもこの声が彼の奥さんの声だとすると、
全身鳥肌が立つようなある光景が見えてくるのだ。

自分をうとましく思い始めた彼は、実は陰で奥さんと連絡を取り合っていて、
彼女にこう言い聞かせているのではないか?


……この女はどうせ病気だ。
長生きはできないだろう。
長期の東京出張だと思って、
待っていてくれないか……










「あなたねえ、子供産む前に、一度精密検査しないと」

検査結果を見ながら、医者は真剣な表情でユキに言った。
その時、自分が子供を産めない身体であることを直感していた。
産婦人科を出た後、気持ちが暗くなった。
原宿のお店で見つけたピンクのベビー服が頭をよぎった。
心の中に確かな位置を占めていたものが、いま静かに消え去ろうとしていた。

渋谷のアパートに帰るには、
どうしても小学校のグラウンドの横を通り過ぎなければならない。
子供たちが、歓声を上げながら走り回っていた。
ユキは腕時計を見た。
いつにもまして大声を上げる子供たちを見て、暗澹たる気持ちになった。
その瞬間、耳鳴りがして、子供の動きがスローモーションになった。

子供たちの、笑う声……


***


目が覚めた。

天井になにか気味の悪いものが見えた。

一瞬、人間の生首に見えたので、ハッとした。

だれなの……

もう一度見た。
よく見ると、天井にぶら下がる照明だった。
急に、視界の中に彼の顔が現れた。
心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か?」と彼に手を握られたとたん、涙が頬をつたった。
「子供は……また……」
よく聞こえないし……
聞きたくないし……

(小学校の前で貧血を起こして、病院に運ばれたらしい。
切迫流産だった。)


……ごめんね、あなたを、産んであげられなくて、
ごめんね、さっきの顔、あなたよね、きっとそうだよね、
病気の、母さんの顔、見に来たんでしょう?……



止めどなく涙が流れた。
大声を上げて泣いた。
誰になんと思われてもいい。
思いっきり泣かなければならなかったのだ。

彼の首にしっかり抱きついたままで……










おかしな夢を見た。

亡くなったはずのおじさんが法事に来ていた。
喪服の上に洗い立てのかっぽう着を着た女たちが、
めじょけねな〜、と慰め合いながら食事の支度をしていた。
その時だった、お膳の前にちょこんと座っているおじさんを見つけたのは。
おじさんはユキをちらりと見るなり、まるで目的は果たしたとでも言うように、
そそくさと身の回りのものをまとめてから席を立った。
見送ろうと廊下に出た時、後ろから母に呼び止められたような気がした。
なに?と振り向いたすきに、おじさんは消えていた。
玄関を見ると、紫色の風呂敷包みを忘れている。

「あ……」

すぐ外に飛び出したが、おじさんの姿はなかった。
ユキは駅へと続く坂道を駆けて行った。

おじちゃん!待って!

駅までは10分位の距離だから、見逃すはずはない。
道ばたには、向日葵が咲き乱れていた。
なだらかな下り坂を下りきったところが駅だった。

改札口の正面には、隣ホームへ行く白い連絡橋が見える。
その向こうに、青い海が広がっていて潮騒の音が聞こえた。
ふと見ると、連絡橋の階段の下にしゃがみこんで、海を眺めている人がいた。

おじちゃん……

「おじちゃん、忘れ物だよ。
だめじゃない。

あたしの法事なのに……」


するとおじさんは、目を赤くしてこう言った。


ユキちゃん、おめの法事だってか。おめはもう、死んだってか。
バガげたごど、言うもんじゃねえ。オラの半分も生きてねえくせに、なんが法事だでが。
生意気言うもんじゃねえ。おめは、まだ、こっち来ちゃなんね。
すぐに帰れ、いま来た道帰れ!おめの法事の、みやげだなんで、
オラは、もらうつもりはねえぞ!そげだバガな話があるもんか。
おめごどは、小ちゃい頃からオラが一番よぐ知ってる。
オラが死んだどぎも、おめだげが最後まで泣いで、
何本も何本も、線香あげでいだっけな。オラ、おめの気持ちが嬉しがった。
オラ絶対に、そんごどは忘れねえ!いいかユキちゃん、よぐ聞げよ。
オラがおめを守ってやる。オラが最後まで守ってやる。
命さ代えで、守ってやる。命さ代えで……




目が覚めた。






8




「日記をつけていますか?」

とユキの表情を確認しながら医師は言った。
ユキは、少し考えていたが、静かにうなずいた。
子供の頃からの日記魔で、一日として日記を書かない日はなかった。
嬉しいことも、哀しいことも、苦しいことも、日記の上に書き込むことで、
自分を立て直すことができた。もしも、自分から日記を取り上げたら、
自分の半分を失うようなものだと友達によく話していた。
日記には、イラストやスケッチが描かれたり、その日の友達の様子や、
お気に入りのお店や料理のことなども書き込まれていた。
ユキの日記の面白さを知っている親友たちは、
ぜひ読ませて欲しいと無理を承知でせがんだものだった。

「白血病と戦うには……日記は邪魔です。」

医師はきっぱりと言った。
「以前の元気な頃の日記を読むようになるのです。
すると、今の、病気の自分が情けなくてね、鬱病になってしまう。
そんなことでは、病気と闘うことができなくなってしまう。
だから……辛いだろうけど、日記は焼き捨てなさい。」
ユキは身体が震えた。
慢性白血病だと宣告され、病気と闘う心の準備は出来ていたが、
自分の分身でもある日記を焼き捨てなければならないということに耐えられなかった。



部屋に戻ると、彼はもうでかけた後だった。
押入の段ボールにきちんと整理してあった日記を取り出して、ページをめくった。
元気な頃の楽しい絵や漫画が、ページのあちこちに書き込まれていた。

先週末の日記に、ピンクのベビー服が描かれていた。
あのベビー服もう誰かが買ったかしら?
視界が、涙で潤み始めた。
ユキは、ぐいと涙をぬぐって、こう自分に言い聞かせた。
「あれは、あの子の服だわ。
明日買ってこよう。
あの子に着せてあげるんだ。
あの子が着たがっているもの。」
そう決めたとたんに心が躍った。
明日、一番お気に入りの洋服を着て原宿まででかけよう。


何を迷うのユキ、日記に書かれてるのはすべて過去のあなた。
人生を生きているのは、今のあなたじゃないの。
日記の中のあなたが人生を生きているわけじゃないわ。


携帯電話が鳴った。

SMクラブの売れっ子、リサだった。
「ユ〜キちゃん、リサよ〜、ちょっと会えない?
あなた、最近お店来ないから、リサ、寂しいよ。
あなたにグチこぼさないと、仕事やってられんわ。
それに……」言いよどんだ。
「それに?なんだよ、リサ」


「あなたに、話しておかなければならないことがあるし」










六本木の狸穴坂を下りきったあたりは、お店もなく昼間でも薄暗い感じがする。
古いアパートが立ち並ぶ光景は、とても六本木とは思えない。

ユキが最初に見た六本木は、俳優座やアマンドのあるおしゃれな街だった。
六本木は外人も多く、歩いているだけで、心が浮き立つのだった。
彼、タニザキが支配人をしているSMクラブは六本木らしからぬ場所の方にあった。
しかも、薄汚れたタイル貼りの賃貸マンションの一室を改装したものだった。
玄関脇の洋間が、受け付けと女の子たちの休憩所にあてられており、
ユキが行けないときは、リサが受付の仕事をしていた。
リサは、こないだまで美容師だったが、アメリカにジャズダンスを習いに行きたくて、
こんな仕事をしながら、せっせとお金を貯めているのだった。
リサは陽気な性格で、サドもマゾも両方こなしていた。
今流行の小顔美人だと自分で自慢するだけのことはあった。
体つきもちょっと見た感じ高校生といった風情で、父性本能をくすぐった。

ユキはリサに、どうしても聞きたかったことを質問した。
「あんた、叩かれて怖くないの?」
リサはケラケラ笑いながら、
「ユキ〜、あんた案外うぶね〜。
男なんて、興奮したら子供とおんなじよ〜。
痛くなる前にこう言やいいんだよ。
許してください、ご主人様……」
両手をすりすりするリサの格好がおかしくて大笑いした。
「でも、本格的に危ない男だったらヤバイじゃん」
「そこは、あんたの彼氏がさあ、そういうのは会員にしないわけよ」
「え?」
「つまり、タニやんはさあ、クラブに入っていることがバレたら世間体が悪そうな、
社会的な地位がちゃんとしてるのばっか入会させてんのよ。
医者とか、先生とか、公務員とかね。
しかも誓約書とってるみたいよ。」

話を聞きながら、タニザキの苦労が少し哀れに思えた。


「ところでリサ、あんた、話って……」
「ああ、ちょっと、外で話そう……もうすぐミミ終わるから」
赤紫のカーテンの向こうから、中年男の太いあえぎ声が聞こえて来た。

(バシッ) いや〜ん、やめて……


リサがおどけた顔で、ユキの前でくねくね身もだえして見せた。
「ミミにしばかれてんの、例の、女子大の先生だよ〜。
どんな顔で授業してんのかね、専門は、女性解放史らしいけど、
ミミのこと解放しすぎだっつ〜の」

ユキは腹を抱えて笑った。おかしくて涙が出た。





10




その喫茶店は、麻布一の橋の交差点の近くにあった。
リサは店の一番奥の席までユキを連れていった。

「ユキ、あんたは一番大切な友だちだから……」と、言ったきり押し黙った。

「遠慮しないで、なんでも言ってくれていいよ、リサ、気にしないから」
「なら言うけど、タニやんにはね、これまでにも女がいぱいいたんだよ。
最初、独身の証券マンだって安心させて、ひっかけるらしいの。
あんたには、ほれてるんだとは思うけどさ、こんなこと言ってごめんね、
こないだ聞かせてもらった嫌がらせの電話の声、心当たりがあるの」
「今も来てるんだ。必ず最後に【死ね】って言われるんだ」

ユキは少し涙ぐんだ。

死ぬかもしれない病を宣告された身には辛い言葉だった。
「ひどいね・・・あんたみたいないいコに、死ねだなんて、ひどいね……」
「でも、奥さんからみたらひどい女だもん、しかたない・・・」
「話は、そのことなの……
あんたに嫌がらせしてる女、昔、札幌で働いていたジュリだと思うんだ。
聞かせてもらった留守録の声さ、わざとお化けみたいに変えてるけど、
似ているんだ。あの時あんたに言わなかったけど・・・」
「ジュリって誰れ?なんであたしにこんなことするの?」
「うん……」

リサが話してくれたのは、聞いたこともない話だった。
タニザキが札幌のSMクラブで業績を上げて、幹部にのし上がったのは、
当時人気者だったジュリの功績が大きかったという。
ジュリはたくさんの固定客を獲得した。
経営手腕を発揮し始めた支配人と、売れっ子のジュリの間に、
何もないわけがない、とユキは思った。
やはり、男と女の関係になったらしい。
ところがタニザキはちょうどその頃、
同じクラブに応募してきた女の子をひっかけた。
それが、今の奥さんだというのだ。
ある時、それがジュリに分かり、大変な修羅場となった。
奥さんとジュリは、タニザキをめぐって、何度も直接会って話し合いをするうち、
互いに似たもの同士であることに気づき、結果的に許し合う関係になったという。
ジュリは、奥さんの献身的な姿に心を打たれたらしく、自分から身をひいた。
今は、山形県の山村で、地元の同級生と結婚して暮らしているらしい。
リサは、札幌時代にジュリと半年ほど一緒だったから、
そのあたりのいきさつを聞いて知っているのだという。

「でも、なぜジュリがあなたを追い詰めるのかが分からないの」


とっぷりと日が暮れて、リサの客が来る時間になった。
喫茶店を出て、一の橋の交差点まで来た時、急にリサが立ち止まった。
外灯の下に浮かび上がったリサは、泣いていた。

「ユキ……こないだ、あんたが夢に見たっていうおじさんだけど……」

少し間があった。 


あたしの夢に出てくるの……





11




トイプードルの蛍の鳴き声を聞いたような気がした。
驚いて耳をすましてみると、カーブを曲がる時の車体が軋む音だった。

母さん、ドッグフードあげたのかな……

いくつかのトンネルを抜けた後、目の前に日本海が広がった。
まもなく海は群青色に染まり、夕日が沈もうとしていた。
海岸線には赤い土を露出させた大小の岩山が切り立っている。
線路は、海とその岩山の間に許されたわずかな隙間をぬって走っているのだった。
時々見える集落は、どこも半農半漁で生計を立てているように思えた。
水平線の近くにキラキラした漁り火が見えた。
見とれていると突然大きく車体が揺れて、
アナウンスが流れた。
「あと5分ほどで……温海(あづみ)、温海です。」

ユキはお気に入りのプラダを肩にかけ、
リサが渡してくれたジュリの転居ハガキを握りしめた。
「斉藤(旧姓 五十嵐)あき子」
それがジュリという女の本名だった。

ホームに降り立った時、夕映えの駅舎の上に、
真剣な表情でジャズダンスを踊るリサの幻を見た。

***

あの時……
リサは札幌から上京してきたばかりで心細かったのだ。
ある晩、プレイルームから青アザをつくって出てきたことがあった。
「あんた、大丈夫?」と声をかけると、
「チキショウ、本気出しやがって」と吐き捨てるように言って、
控え室のベッドに横になるなり、くるっと向こうを向いた。
肩が少し震えているように見えた。
右手で、左の肩口を押さえたまま、上半身が小刻みに震えている。
時折、グッと背中を丸めて、腕を掴む右手に力が入った。
「リサちゃん……」と覗き込むと、顔を背けた。
お気に入りのイヤリングをつけた耳たぶが真っ赤になっていた。

泣いている……

ユキは、かける言葉も見つからないままリサの背中をさすり続けた。
すると、アウ〜ッ……という声がして、リサは両膝を抱きかかえた。

***

あの時ね……ほんとにうれしかった、とリサは言った。


どんなことが
あっても
ユキのそばを
離れない
たとえどんなに嫌われても
ユキのそばを
離れない

だって……
ユキのおじさんと約束したから……






12




翌日、意を決して温泉街からその村へ行くバスに乗った。
斉藤あき子が住む村のはずれで降りた。
曲がり角にある雑貨店で斉藤あき子の住所を確認した。
橋のたもとにある一軒の古びた家、それが目指す家だった。
椿の生け垣の前に立った瞬間、ユキは心なしか震えた。
ふと携帯電話を見ると、通信可能な地域であった。
こんな山奥から、渋谷にいる自分の携帯に嫌がらせの電話をしているのか?
こんなに美しい自然ですら止めることができない憎しみとは?

恐ろしかった。

生け垣に出ている表札を見ると、
斉藤栄一 あき子 福子、とある。
「福子?子どもがいるんだ……」

すると、突然裏手から3歳くらいの女の子が飛び出してきた。
つば広の帽子を被った長身のユキを見て驚いている。
だがすぐに、クスクスッと笑って、
「知らない、おねえちゃん?」と言った。
「あなた、福ちゃんね?」と聞くと、
うん、と言って上目遣いになった。

ゾッとした。

その瞬間・・・・・・
今の今まで謎に包まれていたすべてのものが、
一気にひと固まりとなって、ユキの心の中に転がりこんだ。
その固まりはやがてユキの中で一つの答えとなった。

福子は……タニザキの子だ……


灰色がかったつぶらな瞳、長くて濃いまつ毛、そしてあの眼差し。
福子は、間違いなくタニザキの子供だ。

「福ちゃん、だれか来てんなかあ?」
家の中から若い女の声が聞こえた。

ユキはゆっくりと荷物を足元に置いてから、携帯電話を握りしめた。
両足を少し開くようにして踏ん張っている自分に気づいた。
ガラガラと玄関が開いて、中から作業着を着た女が出てきた。
ユキを見るなり、女の表情は凍りついた。
しかしすぐに、鬼のような形相でユキを睨み付けた。


「こんな田舎まで、何しに来た!」





13




あんたに何が分かるのよ〜

ジュリは、すごい剣幕でユキに挑んだ。

ちゃらちゃら、モデルなんかしやがって
あたしの100分の1の苦労でもしたことあんのかよ〜
あたしだって、好きで身を引いたわけじゃないんだ
奥さんの気持ちが痛いほど分かったから
身を引いたんだ
だのに泥棒猫みたいなあんたが現れたと
奥さんに聞かされたとき
あたしは、こう思ったのさ〜
死ぬまで追いつめてやるって

ジュリは、吐き捨てるように言った後、
つかつかとユキに近づいて頬を叩いた。
その拍子にユキは道ばたにドッと倒れた。
すぐに、ジュリをにらみ返したが、何もしなかった。
今まで見たこともないような母親の形相に、福子が泣き出した。

ユキは、血をぬぐいながら立ち上がった。

気がすんだ?
あたしはね、あんたが思うほど幸せじゃない。
あたしにはもう、時間がないんだ。
こんな身体だから子供は産めなかった。
だけど、あんたは子供を産んだんでしょう。
そして今は幸せに暮らしているんでしょう。
福ちゃんをひと目見た時……
なぜあたしを憎むのかが分かった。
あんたね……
どんどん嫌がらせの電話をすればいい。
それで気がすむんなら……


ユキは苦しい呼吸を整えた。

「あたしもう……あんたの100分の1も生きられない」


夕日が山の端に沈もうとしていた。
曲がりくねった道を、最後のバスがやって来た。
ユキは、これ以上話す気力も、振り返るつもりもなかった。
もうこれで終わったのだと思った。

ジュリはバスに乗るユキを呆然と見つめていた。
最後部の席に座って、両手で顔を覆うユキの後ろ姿が見えた。
やがてバスは走り始めた。
ジュリはその場にしゃがみ込んで、
泣きじゃくる福子を抱きしめた。

「ごめんね、もう終わりにしなきゃ……」


***


特急いなほ号の発車時間が迫っていた。
ユキは何を見るでもなくボーッと駅舎を眺めていた。
行商を終えた老婆が三人改札を抜けて来た。
最後の老婆が改札を通り過ぎた後に、人影が見えた。

ジュリ……

ジュリが立っていた。
福ちゃんもいる。
列車は、まもなく動きだす。
ユキはすぐに席を立って改札近くのデッキまで走った。
扉の閉まる音がした。
デッキの小さな窓にピッタリ顔をつけた。
するとその時、
ジュリがユキに向かって頭を下げた。

ジュリさん……違う……
悪いのはあたしだってば……



ガーッと音をたてながら、列車が動き出し、
暗い海に沿って、ひたすら東京へと走り始めた。





14




「これで買い物はいいわ」とユキが言った。
今しがた買った座椅子は宅配してもらうことにした。
「ほかに欲しいものはないか?」と父に聞かれて、
ユキは、首を横に振ってから、
「あるある……マンション」と言って笑わせた。

「ユキ、おまえ何か悩んでいるんじゃないのか?」
ユキは腕時計をちらりと見た後で、
「お父さん、お茶でも飲もうか」と言った。
二人は駅前のデニーズに入った。
ユキは席に着いてからタバコとライターを出し、
中からのポンと一本取り出して火をつけた。
「お父さん、あたしって、男運ないのよ」
「なにを言ってるんだ」
「今好きな人がいるんだけど」
「どんな奴だ?」と聞かれてユキは躊躇した。
「うん、証券会社に勤めているんだけど」
「おまえまさか……」と父が問いつめると、
「うん……まさかなんだよ」とユキが力なく笑った。
「好きなのか?」
「自分でも分からないけど」
「便利な女になってるんじゃないのか」
「便利な女って何さ?」と眉間に皺を寄せた。
「掃除洗濯女ってことだよ」
「掃除洗濯女かあ、そうかも知れない。」
「結婚してくれって、言わないのか?
男は本当に惚れたら、結婚したがるもんだ。」
一瞬ひるんだユキを見て、父は追い打ちをかけた。
「じゃあ、お前から言わなきゃだめじゃないか」
「言えないよ、そんなこと」
「男が言うまで待つのか?
男が言わなきゃいつまでも結婚できないのか?」
ユキは急に目を真っ赤にしてこう言った。

「あたし、バカだから……」

***

「お父さん」
「……うん」
「あのね……」
「ああ……」
純朴な父の顔を見ていると、
やはり本当のことを言ってはならないような気がした。
この人にだけは、何も知らないでいて欲しい……


「お母さんのことは諦めなさい。」
父は、突然何を言い出すのだと言うような顔をしてユキを見た。
「分かってる……もともと俺が悪いんだ」
「お父さんは、定年になったら再婚すればいいよ。」
「……そうだな」
「あたしが、いい人見つけてあげるから……」
「おまえなあ、それより自分のことだろ」
「そう……」と大笑いした。

駅で切符を買って改札の手前まで来ると、
ユキは一瞬不安な表情をして立ち止まった。
「ユキ……」と声をかけた父に、
「帰るから……」と言って改札をくぐった。
父はたぶん呆れて立ちつくしているだろう。

きっと自分の姿が見えなくなるまでそこにいるのだ。
いつもそうだった。
小学校の頃から……ずっと……

父は、いつも遠くから自分を見ているのだった。






15




買って来た卵を割らないように静かにドアを開けた。
両手に持った買い物袋をキッチンに下ろしてから、
「ターちゃん、いるの?」
と部屋に入った瞬間タニザキが何かを隠した。
(ユキは見逃さなかった)
「帰りにさあ、ユキちゃんの好きなワイン買って来たよ」
と、バツが悪そうに言った。
袋の中から魚の形をしたワインの壜を二本出して、
「今夜、これから人と会うので遅くなるから」とタニザキは言った。
仕事柄危なげな人とのつき合いもあったから、
ユキはあまり口出しはしないことにしていた。
「じゃあ、ご飯はいらないんだね」
「うん。12時までには帰るから」と言った。

タニザキが出かけた後、乱雑に重ねた雑誌の隙間に、
さっき隠したものがはみ出していた。
それは、一枚の写真と手紙だった。
タニザキに悪い気はしたが、どうしても誘惑には勝てなかった。
写っていたのは2歳くらいの男の子で、
添えられた手紙にはこう書かれていた。

「どうか、この子のことを考えて下さい」

震えるように書かれたその手紙を見た瞬間、
札幌の奥さんからのもだとユキは直感した。
そう思ったとたん、言い様のない屈辱感に襲われた。
鳥肌が立ち、血が下がって、その場で貧血を起こしてしまった。

***

「ただいま……」
12時を少し回った頃タニザキが帰ってきた。
「ユキ、オレ札幌に出張しなきゃならないかも」と言った。
嘘・・・・・・と、ユキは小さくつぶやいた。
「それって、嘘なんでしょ?」と今度はハッキリ言い放った。
キョトンとするタニザキの顔を見て、
ユキの胸は張り裂けるように熱くなった。

「あなた、帰るんでしょ、奥さんのところへ」

ユキの唇が小刻みに震えていた。
「ハッキリ言いなさいよ。帰るって、言えばいいじゃない」
タニザキは困惑した表情でユキを睨み付けていたが、
やがて深いため息をついた後で、持っていた紙袋を投げつけた。
紙袋の破れ目から、ユキの好きなかき氷アイスがふたつ転がり出た。

「そんなにオレが信用できないか!」





16




「これは何?」

ユキは先ほどの写真と手紙を引っぱり出した。
「隠し事はしないって約束でしょ?違うの?」
とユキは少し泣き声になった。
「おまえ、見たのか……人のものを勝手に」
と、珍しくタニザキが怒った。
「人のものを、勝手に見るのか、おまえ!」
ワッとユキは泣き出した。


「それって、あんたの子供じゃない。
子供いたんじゃないよ〜?
ひどいよ、騙してんじゃない。
そんなひどいこと、なんで出来るの?
あたしも騙して、奥さんも騙して、
ジュリさんも騙して、
みんな、騙してんじゃない?」


一瞬、ジュリという名前を聞いてタニザキの顔がひきつった。
ユキは、福子のことまでは言うまいと決心した。
それを言えば、福子の人生が取り返しのつかないものになる。
大人の勝手で、子供の心を引きちぎるような真似はできない。
「おまえ、なんで、ジュリを知ってるんだ?
ジュリは今、どこにいるっていうんだ?」
「知らない……」とユキは泣き伏した。

父の言った通りだった。
あたしは便利に使われているだけなんだ。
でも、言うだけ言ったら心が軽くなった。

それから二人とも、一言もしゃべらないでいた。
ユキは溶けだしたアイスクリームを拾って、
冷凍庫にしまった。
それを見たタニザキの目が赤かった。
ユキは、一度深く息を吸ってから、こう言った。


「あなた、帰りなさい。
奥さんの前に土下座して謝るの。
そして、やり直しなさい……」



タニザキは畳の上に両手をついていたが、
すぐにうなり声を上げた。
やがて、手元に広げられた新聞紙の上に、
ボタボタとしたたり落ちる音がしたかと思うと、
一気に言葉を吐き出した。


おまえを、
置いていけない!

病気のおまえを、
置いていけない!

そんなことしたら、
オレ……

人間じゃなくなる……






17




住職は言った。

「ユキさんというのは、どんな娘さんでしたか?」と。

「優しい娘でした。
ミュージカルに出ることが夢だった。
高校時代には演劇部で活躍しました。
礼儀正しくて先輩思いでした。
小学校の頃から博物館が好きで、
毎週毎週上野の科学博物館へ恐竜を見に行って、
警備のおじさんに
「また来たの?」って可愛がられて。
低学年の頃はバレーを習っていました。
へたでしたが、一生懸命に練習していました。
夏休みは男の子と遊ぶことが多くて、
幼稚園の頃からどろんこで遊んでましたね。
迷子になったときも、泣かない子でしたよ。
あの子は、大雪の日に生まれたもんですから、
ユキって名前にしたんです。
可愛かった。
あの子は天使のような瞳をしていました。

なのになぜこんな目に遭うのですか?
病気になって、苦しんで、不倫に悩んで、
さげすまれて、憎まれて、こんなひどい目に、
なぜ遭わなければならなかったんですか?

泥まみれになって生きたんです。
娘は哀れでした。


「人は泥まみれになって生きるのです。
みっともなくて、情けない人生を生きながら、
最後には、ハスの花のように泥の中から清らかな花を咲かせます。
ユキさんは、みんなの心にそれぞれのハスの花を咲かせました。
それでいいではないですか、
それがユキさんの精一杯の願いなんですから。
それで十分立派じゃないですか。
お父さん、本当のユキさんを理解したかったら、
ユキさんが咲かせたハスの花を観に行ってごらんなさい。」


ユキが咲かせたハスの花?





18




リサのハス

ユキはあの晩から体調がすぐれなくなったの。
分からない、あたしに電話が来るときは、いつも元気だった。
今思うと、元気な振りをしていたんだと思う。
あたしがジュリのこと話したから、
すごく後悔してるって言ったら怒りだしたことがあった。

「リサが言ってくれたから、ジュリさんに会えた」って。
ジュリさんと話が出来たから分かり合えたし、
何よりあたしの気持ちが嬉しかったって。
あなたは早くお仕事止めて、アメリカに行きなさいって。
自分の夢を実現する努力をしなさいって、
あたしにはもう出来ないことだけど、
あなたには出来るでしょ、って。
泣きながらそんな風に言ってくれたの。

あたしユキがいたからがんばってこれた。
家出同然で故郷を捨てたあたしには、
ユキはたった一人の姉さんだったもの。
なんでも相談できる人なんてもう二度と出会えない。
あれだけあたしを心配してくれた人はいなかったよ。
あたしは、ユキを忘れない。

ユキには、
あたしの中の一番いい席に座っていてもらうの。




***



バッグを肩にかけて、航空券を確かめた後、
リサはニコッと笑ってこう言った。

「不思議なんだけど、あたし、ユキの夢を見ないの。
それはね、あたしがいつもユキのこと思っているからだと思うんだ」

成田からニューヨークへ発つ飛行機に乗る前に、
リサが僕に話してくれたのは以上だった。
リサは何度も振り返っては、ちぎれるほど手を振った。

僕は最後までリサの後ろ姿を見送った。





19




ミキのハス 

東京駅で会った時、お姉ちゃんはこう言った。
「あんた、もっとしっかりしなさい。
仕事どうすんの。20歳過ぎたらもう大人なんだから、
いつまでもぷらぷらしてちゃいけないよ。」
お姉ちゃんは、笑いながら私に小言を言ったけど、
目はマジだった。
あたしはね、タニザキという男のこと知ってる。
お姉ちゃんはグチひとつ言わなかったけど、
結構ひどい使い方してたんだ。
お姉ちゃんは利用されたんだ。
最後に身体を壊してしまったのは、アイツのせいだと思う。

ミキは眼鏡を指で上げながらこう続けた。

お姉ちゃんがあんなことになったら、
さっさと札幌に帰ったじゃない。
どうしてもっと前に結婚するって言わなかったの?
当たり前だよ。
する気なんかなかったんだ。
嫌がらせの電話が来た時、
あたしは札幌の奥さんにバシッと言いに行くって、
お姉ちゃんに言った。
そしたら、止められたんだ。
こないだ、タニザキの家に電話してやった。
奥さんみたいな女が出たよ。
「あんたのおかげでユキは苦しんだよ」って言ってやった。
そしたら、電話口で泣いてたっけ。
子供がいたのをお姉ちゃんは知ってたんだ。
タニザキはお姉ちゃんに子供を堕させたんだ。
お姉ちゃんは産みたかったんだと思う。
女の子が欲しかったって、よく言ってたもの。
大きくなったら二人でジーパン買いに行くんだって。



あたしは絶対にアイツを許さない。

一生かけて復讐してやる。

自分の人生なんてどうなったっていい……

それじゃなきゃ、お姉ちゃんがうかばれないんだ……






20




タニザキのハス

ユキと暮らした渋谷のアパートを片づけた。
ユキのメモが数枚見つかったが、
思い出につながるものはほとんど残っていなかった。
主治医にすべてを捨てるように言われていたからだ。
それにしても、何もなさすぎた。
最後のメモを胸ポケットに押し込んで、
振り返った。

いつも帰ってくると、
「お帰り、早かったね」とユキは言った。
どんなに夜遅くてもそう言ってくれた。
そんなユキが可愛かった。

……ドアを閉めた。


結婚したかったが、親が二人とも猛反対して、
なかなか離婚、再婚を承知してくれそうもなかった。
そのうち、ユキの容態はますます悪化して行った。
元気が取り柄だと笑っていたユキの衰弱ぶりは、
可哀想で見ていられなかった。
「お父さんに、言おう」とユキに相談すると、
「そんなことしたら、あたし、自殺するから!
あたしが、最後にホッとできる場所、
あなたに奪う権利があるの?」と怒るのだった。

下血がひどく、極度の貧血を繰り返した。
ユキは眠れないと言って、夜更けまで本を読んでいることが多かった。
お気に入りのパジャマを着て、ワイングラスを持ち、
湯上がりタオルを髪に巻いているユキが大好きだった。

ユキのお気に入りだった北斗星に乗って札幌に帰ることにした。
六本木の店が破綻したのは、自分のせいだ。
ユキを失ってからというもの、熱が入らなくなってしまったのだ。




寝台に横になってからユキの最後のメモを見た。
生温かいものが目尻からどんどんあふれて、
耳の後ろからうなじへ流れていくのが分かった。



明日、浅草寺にお参り、
ターちゃん、Yシャツ、
ワイン1本。

吐血……






21








その花は泥の中から生まれる

5月の陽光を葉という葉に受けて
赤ん坊が両手を合わせたようなつぼみをつくる

やがてその小さな合掌は薄紅色の夢を見る


時が満ちて……

花びらは
一枚ずつ若い花たちの足元に散り
知らぬ間に朽ち果てていく


そのとき……


泥の中から優しく呼ばわるものの声が聞こえる

「お前の一生は、今終わった

早く泥の底まで沈んでおいで」


夏の日差しをためた温かい泥の中で
セミたちが歌う最後の歌を聴きながら

その花は少しの間まどろむことを許される







                                      (完)













***



長い間「ハスの花」〜ユキの物語〜をお読みいただきまして
ありがとうございました。
もうお解りだと思いますが、ユキは僕の長女の身代わり。
長女の親友にも登場してもらいましたが、
ことわりもなく出演いただいたこと、心からお詫びします。
長女の最初の夫は、その後なかなか再婚できずにいます。
ある時長女の夢を見たと言って電話をかけてきました。
タニザキは通夜の晩、指輪を持って駆けつけてくれました。
まるでドラマのラストシーンのように……
今は札幌の実家に帰って暮らしています。
僕は、真剣な愛情を娘に注いでくれたことと、
娘の最後の支えになってくれたことに感謝しています。
娘はいつか、こう言っていたからです。

「初めて心から愛せる人に出逢えたの」

彼はその後生まれた女の子に、
娘の名前をつけたそうです。
それもこれも、すべては娘の取り計らい、
それならそれでいいではないか、と思うようになりました。
ミキは独立して、今でもタニザキを憎み続けています。
彼女の憎しみを否定することは彼女の人生を否定すること。
今はただ遠くから見守るしかないのです。

リサですか?
あの娘はとっても性格の明るい子です。
現在は郷里で結婚し、幸せに暮らしています。

さて、ジュリさんには娘の訃報を知らせるべきかどうか迷いました。
結局、知らせることにしました。
一周忌が終わった頃、ジュリさんからハガキが届いて、
時々長女のことを思い出すと書いてありました。


最後に……僕。


やっと立ち直るところまで来ました。
なんと7年という長い長い時間がかかりました。
この物語は、今までも何度か書こうとしては断念してきました。
気持ちの踏ん切りをつけるにはあまりに重いテーマだったからです。
書こうと思ったとたんに、息が出来なくなることも度々ありました。
ようやく、終幕までたどり着くことが出来てホッとしています。



長女はある時、こんなことを言ったそうです。

「このまま治療を続ければ、
お金がいっぱいかかる。
お父さんのことだから、全財産をなげうって、
あたしのために世界中飛び回る。
そんなことになったら、あたしはいたたまれない。
家族みんなが、あたしの犠牲になってしまう。
それだけは、絶対に出来ない……」と。

そのことを思い出す度に平常心ではいられなくなります。




***

長女の祥月命日は二十二日です。
彼女は誕生日である十一月二十一日の四時間後に、
自分で自分の命を終わらせました。
毎年彼女の誕生日を祝った翌日に、
悲しみの涙を流さねばならないのです。
長女が僕に与えたものはシーシュポスの苦役かも知れません。
何度丸い岩を山頂へ押し上げても、
無情にも岩は再び谷底へと転がり落ちるのです。


彼女の誕生日の数字と同じ二十一話で「ハスの花」を終わるにあたり、
今まで読んで下さった皆様に、心から感謝いたします。

本当に、ありがとうございました。










                                    石屋まーく 拝