手術、そして帰国


良性の卵巣腫瘍であることを信じてアメリカで受けた手術の後、医者からがんだったと告げられたあの日が今でも脳裏に焼きついている。そのうえ、化学療法も必要だと言われたときには、悩んだ。家族の介護・援助がないアメリカで、通院ベースのきつい治療を乗り越えられるのだろうか。でも夢を抱いて渡米した時の想いをどうしても捨てきれない。渡米3年目を迎えたばかりで、生活基盤がなんとか整い、これからというときに全てを諦め帰国するなんて。揺れる想いの中、最終的には日本に帰国し治療を受けることに決めた。結果として、アメリカでの仕事を失い、日本で生活を立て直すことを余儀なくされる。


8/4/2002
今日は朝8時以降絶食。そのため一日中ひもじい。さらに、 夕方から8/2にもらった下剤(Fleets Phosphosoda)で腸をからっぽにする。まず6時に1.5オンス(約 45 ml)をクランベリージュースで3倍に薄めて飲み、同量を9時に飲む。かなりきつい下剤のようで、6時から10時まではトイレに座りっぱなし。腸が空っぽになって肛門から水しか出ない状態になっても便意があるほど。明日病院で付き添ってくれる友人が、一日中一緒にいて、アパートに泊まってくれたため、気が紛れてあまり手術のことは考えずにすんだ。

8/5/2002 - 手術当日
手術当日。朝7時に病院へ到着。手続きを済ませた後、一階の準備室(Preparation Room)で下着をすべて脱ぎ、割烹着のような後ろ開きの手術着に着替え、シャワーキャップのような不織布キャップをかぶる。夏だというのにひんやりした暗い部屋。でも不思議と不安はあまりない。カーテンで区切られた狭いスペースに置かれたベッドに横になる。血圧を測りにきた技師の軽い冗談に、付き添いの友人と笑う。しばらくして全身麻酔(General Anesthesia)の前の軽い麻酔注射を打たれた。すぐに記憶がなくなる。手術室(Operation Room)で一旦目が覚め、医者や看護師が手術前の準備に慌しく動き回っているのが見える。執刀医から 'Hi, How are you doing?' と声を掛けられるが、答えるまもなくまた意識が遠のく。どうかうまくいきますように…。

次に目を覚ましたのは回復室(Recovery Room)。心拍数・血圧を測る看護師に何時か尋ねる。声が出にくいが痛みはない。12時半ということは手術に3〜4時間かかったのか。これが早いのか遅いのかは分からない。隣のベッドでは痛みにうめく患者が寝ている。奥さんらしき人がベッドの傍らに寄り添っているのを見て、友達はどこにいるのだろうとぼんやり考える。

しばらくしてベッドごと病室に移動。ベッドを押してくれた看護師が、そのベッドを病室のベッドに横付けした後、自分で隣のベッドに滑り込めと言う。は? 冗談じゃない。まだ麻酔が効いていて体が思うように動かないというのに。それでも何とか自力で体の位置を動かす私をぼーっとつっ立ったまま見つめる看護師。はあ〜やっぱりアメリカ。こんなときまで自分でなんでもやらなきゃいけないの!

ほどなく友人が病室へ。どうだった? と尋ねる私に、涙ぐみながら首を振る。え? なに? 良性じゃなかったの? 思わず 'No!' と叫んで涙が出た。信じられない。まさかがんだったなんて。じゃあ、子宮はある? 卵巣は? 友人は首を振り続けるばかり。目の前が真っ暗になった。お腹にメスを入れることへの不安しかなかった。先生はおそらく大丈夫だと言ったじゃない…。夕方になって担当医とその助手、そして病理医(Pathologist)が病室へやってきた。担当医以外は女性。私の顔を気の毒そうに見つめる。「がんだったよ」。知ってるよ。泣くもんかと思いつつ涙が出る。「転移を調べる病理検査を現在行っているから」と言われても、そのときはがんに対する不安より、子宮・卵巣全摘出のほうがショックだった。「がん患者のサポ−トグループもあるから必要なら紹介します」と言われたが、そこまで頭が回らない。こんなことになるなんて。麻酔のせいで朦朧とした意識の中で、そうだ、今日は妹の誕生日だ。あ、時差があるから昨日かななどと考える。日本の家族は今何をしているのだろう。

8/6/2002
昨日・今日とずっと寝たきりで背中が痛い。トイレ、電話とTV付の個室だが、騒がしい外の様子は伺える。尿道カテーテル(Urethra Catheter)を通しているからトイレに起き上がる必要はないけれど、合併症予防のため歩く練習をしろと言われる。看護師の補助で起き上がってみて、あまりにも足が弱っているのにびっくり。気分も悪くなる。椅子に座っている間、看護助手らしき二人の若い女性がシーツ交換にやってくるが、その間中二人で無駄話。大判のウエットティッシュを渡され体を拭けとつれなく言われるが、左手には点滴と痛み止めの管が通っているし、全身に力が入らず自分でできる訳がない。食欲もない。ナースコールで氷と水を持ってきてもらう。毎日食事のメニューが配られ、希望するものに丸印をつけて注文するシステムらしいが、トーストやラザニア、スパゲティなんて術後すぐに食べられない。仕方なくジュースとゼリーを注文する。日本のお粥やうどんが食べたい…。

昼頃担当医がきて、腕にエストロゲン(Estrogen)パッチを貼られる。卵巣欠落症状(更年期症状)を和らげるためらしい。一生これを貼り続けなければいけないのか。この年で女性ホルモンがないなんて私はもう女じゃないの? いろいろなことを考えると辛い。職場の同僚からの電話では、がんだったことは言わなかった。けれど、日本の家族からの電話では、思わず「全部なくなっちゃった」と言いながら大泣きしてしまう。

8/7/2002
今日は頑張って長くベッドから起き上がっていた。病室を出て少し歩ける程。外は夏真っ盛りのいい天気。気になっていた輸血は行わなかったとのこと。よかった。お腹の傷は少し痛むけど、昨日より調子がいい。カテーテルも取った。そのためトイレの度にナースコールでベッドから体を起こす補助を頼まなければならない。コールしてもすぐには来てくれないし、感じのいい人もいるけれど、なにか頼むと嫌そうにする看護師もいて気が重い。そうなるとなんとか自力で体を起こそうとし、それができるようになる。手術3日目でもその気になれば結構できるものだ。ただ、術後一度もガスが出ていないのでお腹が張って、唸るくらい痛い。ガスを出す薬も効かない。夜になって浣腸してもらい、やっとガスが出て楽になった。担当医から「明後日のお昼頃まで入院は可能だ」と言われるが、少しでも早く家に帰りたかったので、明日の朝の退院を決める。空腹感はあり何か食べようとするが、空っぽの胃が受けつけない。夜になって友人が病院に来てくれる。リクライニングチェアを病室に持ち込んで、側で寝てくれた。ありがとう。

8/8/2002 - 術後4日目、退院
午前中退院。ホルモン剤や痛み止めの薬をもらった程度で特に手続きはなし。四日ぶりの日差しが眩しい。友人に車を運転してもらい、アパートまで30分のドライブ。道路のでこぼこで車が軽く振動するたびに傷が痛む。元気なときは感じなかったけれど、アメリカのハイウエイって本当に舗装がなってない。アパートに到着してからシャワーを浴びる。思いのほかきれいな傷口(Incision)が見える。緩やかに弧を描く横切り。下着にすっぽり隠れる位置にある。痛みで前屈姿勢は取れないけれど、髪や体を簡単に洗う。歩くと傷口を留めているホッチキス(Staples)が攣れて、燃えるように痛い。普通食を食べると胃が痛いが、ガスやゲップがでると楽になる。術後の経過は友人が驚くほどいい。自分でもよく頑張っていると思う。手術前は開腹手術を単身アメリカで乗り越えられるか不安だったけれど、これが単なる卵巣嚢腫だったら十分乗り越えられたはず。いまさらながら人間の回復力ってすごいと感じた。とはいえベッドに横になり、体が平らになるとさすがに痛みがある。ソファーで膝を立て、背中に枕をあてがって横になると少しは楽なのだけど。今日は2回痛み止めを飲む。

今は痛みでいろんなことを考えなくてすむ。けれど、この先子宮・卵巣のない自分とどう向き合い、受け入れていけばよいのかわからない。しかも、がんの転移についてはまだわかっていない。治療が必要になれば日本に帰るほうがいいのか。心は揺れる。

8/9/2002
下剤を飲んだからか術後初めて便がでた。食事も以前ほど胃が痛むことなく食べられる。午前中は気分もよくインターネットができるくらい。病理検査結果がでたときの医師との話し合いに備えて、子宮がん・卵巣がんに関する情報を集め、質問すべき事柄を書き出していく。
夜ベッドで体を平らにして寝ると痛い。ホッチキスの攣れで歩くと相変わらず燃えるような痛みがある。

8/10/2002
日本の家族と電話で話をした。もし化学療法が必要になれば絶対日本に帰ってくるべきだと言われた。きついといわれている未知の治療に私の気持ちも揺れる。けれど、アメリカでもう少し頑張ってみたい気持ちはある。

8/11/2002
日本人の友人が、肉じゃがなど日本食をもってアパートに来てくれた。話をしている間は明るく努めたけど、一人になると落ち込む。

8/12/2002
今日はとても調子がいい。午後から友人の運転でドライブ。長時間立っていても痛みはほとんどないくらい。天気もいいし、カフェのテラスでランチを食べた。病院から電話があり、入院中の検査で尿道炎(Urethritis)になっていることがわかったため、病院まで抗生物質(Antibiotics)を取りに来るようにとのこと。自覚症状はないのだけれど、急遽病院へ。家に帰ってきてからも疲れは少ない。かなり身の回りのことができるようになった。

8/13/2002 - 術後9日目、病理組織検査結果(Pathology Diagnosis)
生体組織検査(Biopsy)の結果を聞くため、友人に付き添われ病院へ行った。まず、攣れて歩くたびに痛かったホッチキスを外してもらう。抜糸は不要らしい。その後、水にぬれても大丈夫なシートを傷口に貼られる。一週間貼っておくと傷口がきれいに治るとのこと。

単純子宮全摘術(Total Abdominal Hysterectomy)、両側付属器摘出術(Bilateral Salpingo-Oophorectomy)、骨盤内及び傍大動脈リンパ節郭清術(Bilateral Pelvic Lymphadenectomy & Periaortic Lymph Node Dissection)、大網部分切除術(Total Omentectomy)、虫垂切除術(Appendectomy)を施行し、子宮体部と左卵巣にがんが見つかったと告げられる。診断は、子宮体部のがんは頸部にまで進みかけており、頸部に前がん状態の上皮内異変細胞(CIN 2)が認められた、子宮内膜がん(Endometrioid Endometrial Carcinoma)ステージIIA。卵巣がんは、腫瘍が卵巣表面まで達していた類内膜腺がん(Endometrioid Ovarian Carcinoma)ステージIC。子宮がんが卵巣まで広がったか、あるいは同時に起こった重複がんであると考えられるが、病理的には定かでないらしい。幸い腹水(Abdominal Fluid)を含め、他への転移は見られず、がん細胞のすべてを取りきったと考えられるが、予防的(adjuvant)治療をした方が予後が良いとして、カルボプラチン(Carboplatin:パラプラチンとも呼ばれる)とタキソテール(Taxotere)による抗がん剤治療(Chemotherapy)を三週間毎に4〜5クールと、膣上部への2〜3回の放射線治療(Radiotherapy)を勧められる。

気になっていたホルモン補充療法(Hormone Replacement Therapy, HRT)についても聞いてみた。HRTを続けたいと希望していたものの、つい最近アメリカの新聞・記事をにぎわせていたHRTの危険性に関する指摘も気になる。担当医曰く、私の年齢を考えると、リスクよりも、卵巣欠落症状の緩和・骨粗しょう症の防止など、生活の質(Quality of Life, QOL)向上に寄与する利点が上回ると考えられるので、エストロゲンパッチを引き続き使用するほうがいいであろうという判断。現在、がん細胞のエストロゲン受容体(Estrogen Receptor)およびプロゲステロン受容体(Progesterone Receptor)の有無を検査しているとのこと。 [*厳密には、この時点で私が受けていたのは、エストロゲン単独補充療法(Estrogen Replacement Therapy, ERT)で、ホルモン補充療法と呼ばれるHRTとは、エストロゲンと黄体ホルモン併用補充療法を指す]

家族へ送り、日本の医療機関でセカンド・オピニオンを求めるために、病理検査結果(Pathology Report)のコピーをもらう。こちらでは患者の知る権利や病院・治療を選ぶ権利が当然のものとして認められているため、担当医の機嫌を損ねる心配はない。アメリカで治療を受けることになれば9月5日から第一回目の化学療法がスタートする。放射線治療は放射線科医(Radiologist)に電話をしてスケジュールを決めるようにと、連絡先を渡される。

化学療法をしながらでもパートタイムで仕事をすることは可能だと言われたものの、一人暮らしの自分に治療が乗り越えられるのか不安。しかも、完全通院の形で、3週間に一度抗がん剤を受けに病院へ行き、後は自宅で与えられた薬を服用しながら、吐き気や痛みに耐えるなんて。免疫機能も低下し感染を起こしやすくなるというのに、きちんと自己管理できるのだろうか。化学療法を受ける際の注意を記した冊子をもらうが、「38℃以上の熱がでればすぐ病院に来るように」などとさらっと書いてある。異常があったとき突然電話して、すぐに病院まで送ってくれる友人がいつでもつかまるとは限らない。病院から帰る道すがら、アメリカで治療するか日本へ帰るか一人悶々と考える。とりあえず、日本の家族に今日の病理検査をファックスする。

昨日歩きすぎたのか内ももが少しぷくっと腫れている。傷口の方は、ホッチキスをとってもらったため、攣れる感じもなくなり調子がいいのだけど。

8/14/2002
内ももの腫れはまだひかない。リンパ浮腫が心配。なんとなく尿がでるとき違和感がある。排尿障害を起こしているのだろうか。ものすごく不安。でも傷口の回復はかなり早いようで、ベッドに横になってもズキズキしない。

8/16/2002
友人4人との夕食。なんとなく右内ももに痛みがあるが、腫れはひいたようだ。インターネットで化学療法のことを知れば知るほど不安になり、こちらで一人で乗り切る自信が揺らぐ。治療だけでなく、休職して一人アパートに閉じこもり副作用に耐えるのは肉体的にも精神的にもきつい気がする。日本に帰れば家族がいる。

8/18/2002
少し遠方の友人夫妻の家まで遊びに行く。気が紛れる。日本から電話がある。ファックスした病理結果をもって大学病院まで行き、代理診察という形で話を聞いてくれたらしい。日本だと入院ベースで3〜4週間毎に6回の抗がん剤治療を行うため半年かかる。膣上部への放射線治療については、子宮頸部にはがんはなかった(前がん病変のみ)ので不要だろうとのこと。通常、術後2週間〜6週間のうちに化学療法を開始するため、一日も早い帰国を強く勧められる。


この後約一ヶ月をアメリカか日本かで揺れながら過ごす。アメリカで治療を受け順調に進めば、今年中に治療は完了する。しかし、傷口の回復を待って9月中旬に日本へ帰国し半年の治療を受けた場合、治療が終わるのは3月。アメリカへ戻るのは5月ごろになってしまう。会社にもがんだったことを告げ、治療に関する二つの選択肢を打診してみた。アメリカで治療を受けるのならば、休職という形で健康保険も今まで通り使用でき、復職まで今のポストを保証してくれると言ってくれた。しかし、日本に帰るとなると9ヶ月以上休むことになる。それなら休職ではなく、一時退職扱いになる。また、治療終了時に現在のポストの保証はできないと言われた。つまり、日本に帰ればおそらく今の職を失い、アメリカに帰ってくることは不可能になる。会社が病気を理由に私を解雇することはできないし、治療のための9ヶ月の休職が認められないなんて納得いかないが、従業員50人以下の零細企業なので、法律上の縛りはない。アメリカに残るのなら面倒を見てやるが、日本へ帰るのならその後の保証はないということか。このところの業績不振で会社にも余裕がないのだろう。

悩んだ。人生で今までこれほど悩んだことはないほど悩んだ。そして、日本へ帰国することに決めた。決定打はやはり単身で通院ベースの化学療法を受ける自信がなかったこと。会社からは、治療が終わった時点で連絡してくれ、ポストがあるかもしれないと言われたが、バブルに沸いた好景気も終わり不景気風が強まる昨今、そんな申し出になんの保証もないことはわかっていた。しかし、ここは日本で治療に専念し、がんを完治させることを最優先に考えようと決心した。

インターネットで調べて少しでも疑問に思ったことは、担当医に電話やメールで質問した。忙しいスケジュールの合間をぬって回答をくれた担当医に感謝(もちろん無料)。日本では主治医に直接メールし回答を得るなんてほとんど不可能だろう。アメリカでは医者もサービス業だという意識が徹底している。8/29に担当医からメールがあり、私のがん細胞にはエストロゲン受容体、プロゲステロン受容体共存在することが判明したと連絡があった。そのため、エストロゲン単独(ERT)ではなく、プロゲステロン(黄体ホルモン)も併用する(HRT)ようにと指示があり、後日病院へ黄体ホルモン剤を取りに行く。

日本での診察に向け、病理検査結果など手術・診断に関するすべての資料(Medical Records)とCTのコピーを入手するなど慌しく時間が過ぎていく。体調は順調に回復し、車の運転も再開、引越しの準備も友人の手を借りて滞りなく進んだ。

手術から6週間目の9月18日。また戻ってこられると信じ、まだ残暑厳しいアメリカを後にする。


日本での抗がん剤治療