「麦」という一字に関して述べることは、あまりにも事が多すぎてこの文中では到底賄いきれない。(⇒詳しくは小麦粉、製粉振興会のHPを参考にしてください。)一粒の麦をじっと見つめても、麦という穂から生えた、ただの種子である。この種に対して、多くの人々が人生を一途に傾けてきた情熱は計り知れない。ここでは主体をなす、デンプンとタンパク質の2成分だけに絞って簡単に述べることとする。

 麦と米とが、古代から人類の主要な食料として取り持つ縁は深い。両者ともその創りや成分など共通性があるのは当たり前、同じイネ科植物である。代表的な成分は、何と言っても胚乳から取り出される炭水化物であろう。近頃、脳の栄養素が糖にあるということが段々と判ってきた。糖や繊維なども炭素と水の構成をなすので、炭水化物といっている。我々の身体は炭素を同化させる能力を持っていない。人類がここまで科学を発達させ、全知全能を追って地球を支配する動物と成りえたのも、これら穀物の恩恵を授かってきた結果かもしれない。

 その賜物を、人間が現在のように、ほとんど問題もなく手に入れるようになるまで、大変な努力を重ねてきたのだという事実を、決して忘れてはいけない。それは麦を育てる育種から製粉技術、粉となってからの分析技術の発達、そして、化学成分が特に影響する物性変化の探求である。ただ種子を潰して粉を取っているだけではない。この分野の研究が現代に及んでも世界的に盛んなのは、単に粉が胃に入る食べ物という観点だけに留まらず、我々の母体のしくみが、この穀物を通して、そのどこかに共通点が隠されているかもしれない、という可能性を秘めているからに他ならない。

 炭水化物のデンプンという概念が無かった時代を想像してもらいたい。パンが膨らまない、発酵が鈍い、麺に腰が無い、のびる、何がそうさせるのか判るすべもない。デンプンにも種類があって、それぞれ違った食感があることなんぞ知る由も無い。

 小麦を他の穀物と特徴づけているものがある。今や小学校で学ぶ、グルテンと呼ばれるタンパク質である。今ではタンパクの分析など当たり前、構成している1つ1つのアミノ酸の性質まで知っている。しかし、このタンパクという概念の無い時代を想像してほしい。パンは膨らまない、麺が切れる、食感、それが何んでおこるのか判るはずが無い。

 タンパク概念を、人類がしっかりとつかんだ瞬間がある。ある人物の名は忘れられない。少し前までタンパク検出はケルダール法というやり方で行っていた。これがその人の名である。タンパク質には絶対不可欠な成分、窒素を普通は16%含有している。その値について各国異論があるようだが、小麦はこれより若干多く17.15含まれ、逆に蕎麦は少なく15.84含まれている。この窒素量を4度の化学反応で追っていくのだ。解かってしまえば、なんの変哲も無い反応だ。しかしタンパク量の計測を人類が手にした功績はとても大きい。ケルダール氏はどういうわけかコペンハーゲンの海に身を投げ、帰らぬ人となってしまった。伝説の人魚姫に導かれるように・・・。ケルダール氏の勤めていたビール会社が人魚像を寄贈したのは有名な話である。

 「麦」を過去から眺めて、ここに述べた2つの事項が、人類の手の中に入ったということだけとってみても、その後の二次加工がどれほど理解しやすくなったかがわかる。農家も大変だったであろう。こんな物を作ってと、パン屋の腕も疑われただろう。ビール職人も悩んだ事だろう。粉屋もさぞかし攻められたであろう。知識を手に入れるまでの筋道を、国をも離れて苦労も交えて忘れてはならない。しかし、それは人智である。職人の何気ない技巧は、まだすべて解明されてはいない。