蕎麦の脇役たち

 食べ物は我々にとって心に訴える、唯心で保守的な食物のようだが、現代にピツタリとマツチして文化を観念的に引っ張り、容易に生活に入り込んでしまうような、ごく微妙なすき間をごく簡単にするっと通り抜けてしまうカを持っている。蕎麦はそれを代表できるだけの素質を備えている食べ物だと思っている。職人達の持つ高い感性が、蕎麦に反映され文化に影響を与えてきた。それを改めて考えてみると、当然ながら蕎麦だけで築いてきたものでない事がわかる。蕎麦の名脇役が主役を引っ張ってきた。

 塩にはタンパクの変性作用があって活性の変化があらわれる。浸透圧が上昇して微生物が押しつぶされる殺菌効果もあり、貯蔵性も向上する。うどんやそうめんに見られるように、特に関西方面で古くから小麦粉には広く使用されてきた。しかし乾麺と湯で麺の製造を除いて、一般に蕎麦では嫌って使用されていない。お米と塩はご飯の味を引き出す点では効果があるとされている。それと全く同じ理由で、蕎麦と塩との相性の良さを汁が担っている。

 縄文時代、海浜地区にすんでいた民族が土器に海水を煮沸して塩を産出してきた事が、土器の亀裂や壁に残した結晶などにより証明されている。それから何年もたち江戸中期以後、下総銚子の醤油醸造していた家に江戸湾岸で産出される地塩だけでは満たされず、「下り塩」として瀬戸内海から運ばれていた。1801年以降、千葉県銚子の一工場だけでも、毎年赤穂塩を2200〜2500俵買い入れている。開府当初には江戸前、つまり今の東京湾で取れた地塩だけで事足りていた塩が、醤油の製造量が増えて品薄になった。中期にすでにこの食物が庶民に普及していた。この消費変貌の事情に江戸での蕎麦の普及があげられる。

 蕎麦の味と汁の味は、相乗して織り成す夫婦のようなものといわている。蕎麦はつゆにしか合わないが、醤油は蕎麦が無くても刺身や寿司などで発展していたに違いない。江戸蕎麦を庶民にまでならしめた張本人は醤油にある。せいろ蕎麦にその他の具を必要としないのも、完壁なる調味料となった穀物で出来た醤油、穀醤(コクショウ)である。

 穀醤は元々大豆の発酵調味料として開発され、中国では6世紀初頭の書に詳しい記載が載っており、奈良時代には市売までされていたという。醤油の親は味噌である。味噌の製造過程で底に沈んで溜まった液体が珍重され醤油となった。
 醤油の素となる醤(ひしお〉という発想はアジアのものである。東南アジアなどでの醤は魚から取ってあるのが有名で、これは魚醤(ギョショウ)という。

 江戸前期の醤油は堺、大阪などのいわゆる上方の方が質が良いとされ、下り塩と同じ意味合いで「下り醤油」として珍重せれていた。ところが醤油問屋行事が江戸町年寄りlこ提出した上申書によると、1726年に24%だった地の醤油が、江戸後期にあたる1821年に江戸に搬入された年間1800万リットル中、下り醤油はわずかに1、6%で、あと残りの98.4%は上総、下総その他関東域からのものだった。

 今までと違う醤油の製法がこの時代に関発されたのだった。小麦を使用した「濃い口醤油」の誕生だ。小麦パワーの発揮である。見方を変えれば、せいろ蕎麦の汁を探求してきた江戸の職人が、濃い口醤油を生み出したとも言えるかもしれない。需要が先か供給か先か、今風に言えばニーズか、はたまたシーズに答えるのが先かということになるだろうか?銚子周辺ではその頃小麦栽培が盛んであった。

 蕎麦と小麦の両者ほど、どこまでも付きまとう食品素材の組み合わせはめずらしい。小麦デンプンから糖に分解して、酵母菌によってアルコール反応と褐変反応より強い香りと甘味が生まれる。小麦タンバクの窒素含量が重要な要素で、酵素といっしょに醸造に影響を及ぼし芳醇な味覚を醸し出す。

 これが今では日本料理を代表する味であり、寿司、豆腐、そして蕎麦・うどんの引き立て役として素の味を引き出す。イタリアではトマト、チーズ、フランスのソース、中国の香幸科。すべてその国々の料理に、これらの素材を抜いたならば、世界の3大料理はなくなってしまうほどぴったりと合った味の調和を引きだしている。

 お蕎麦には冷たいものと温かいものがある。前者を「辛汁」と、後者を「甘汁」と称している。辛汁の方が甘汁よりも砂緒や味醂の割合が多いが、実際の味覚上では温かな種物の汁よりも、冷たいもり蕎麦の方がしょっ辛く感じる。そして醤油においても、濃い口醤油の方がその名の通り濃いように感じるが、塩分だけを見てみると薄口醤油の方が濃い。これは汁の温度や色や香りで脳が瞬時に判断してしまうもので、心理的要素が強く支配している。店の造りや雰囲気、音、匂い、照明などの環境でも蕎麦の味覚さえ微妙に変化を与えてしまう。

 その他にも名脇役たちがしっかりと、蕎麦を蕎麦以上に引き立てている味のハーモニーを奏でていると思う。