蕎麦から絵が見える

 蕎麦が描いた絵を見よう。手打ち麺と機械製麺組織。石臼とロール製粉による粉形状の差異は結果である。麺であれば組織のベクトルが、手打ち麺では多方向であるのに対し、機械製麺では一方向である。粉であれば、石臼粉の混成、ねじり痕、ロール製粉の緻密カット痕などは作り出すものでなく、すでに与えられたものである。

 自然を眺めてみよう。雲や海岸線、動植物の持つ曲線、川の流れなど全くでたらめに見えていたものは、すべて秩序あるフラクタルという図形を描いている。これらに共通することは、みな動きがある。見つめたその時には、もうすでに結果をだしている。蕎麦粉のフラクタクルは、タンパク比の多さによってその次元が高くなる。フラクタクル次元というのは、1次元の線とか2次元の面、そして3次元の立体という様な整数ではなく、たとえば2.16とか2.85次元のような割り切れない分数的な次元である。粉の一粒一粒の次元がどれをとっても一様なものがないため、全く明確とならない理由となっている。一般的に粘性を示す物質は、あからさまなズレを示す粒子に比して、フラクタル次元が高い。

 具体的にタンパク質はデンプン質のそれよりも分子構造からも、より複雑でフラクタクル次元が高く、それゆえ物理、化学現象、例えば温度、湿度、時間、圧カや各反応やその相乗などの条件変化に於いて、より敏感である。

 ムンクの「叫び」。この線の表現はじつは1次元ではない。絵筆のタッチがそれを可能にした。
 筆を使う東洋の芸術には、いつまで経っても答えが無い。神秘さはそこにひそむ。
 目に見えるものの中に潜む、見えないものの、表現力である。それを見つめることは、穏やかな精神状態でなければ不可能である。しかし描くには、それ以上の穏やかさが必要だということに、気が付かねばならない。この世に必要なのはそこである。このような絵の叫びは、人を呼びさます。
 戦時中のヒットラー建築に見える直線的な建造物よりも、ナポレオンが好きだったとされる馬蹄形階段の方が、そして定規とコンパスで作り出された図面よりも、ムンクやゴッホが晩期に描いた絵の方が次元が高い。彼ら天才画家は、時計の針も植物も建物も、もっと抽象的な色でさえも、更に時間でさえも常道とされてしまう、2次元の絵画の枠内に収める事はしなかった。そしてスペインにおけるガウディにも常識的な建築3次元から外れようとする偉才をみる。うなるような曲線を多用した造形迫求からそれを感じる。彼らが共通して求めてきた線は一次元ではない。

 もう少し突っ込んで放っておくと益々高次元となり、しまいには崩れ去ったり、流れを食い止められたりしてくる。これは自然現象の道理である事を付け加えておきたい。たとえ、人間が作った直線で描かれた建造物であったとしても、時がたつとともに部分的に崩れたり、腐敗し高次元となる。

 人間の織りなす社会構造には、折り目正しい、たった一本の蕎麦麺と比べてみても、その整然さからはまだまだ及びもしない事がある。人為的にぶち壊し行動におよぶ行為は愚の骨頂である。そして混乱を招こうとする者は、単なる破壊者か、直視させようとしない何かをもっている。そこに歴史がからんでいれば又、悪夢の繰り返しである。無垢な生命をどう見る。もっともっと互いを見つめよ。機械文明が非常に高いレベルになった現在、より生活しやすい世界を築くために、ますますの慎重と冷静さを期せねばならない理由である。将来像はもっと複雑になる事が見えている。蕎麦を見て、平和を勝ち取るが為の武器の使用という、大いなる矛盾に気がつくのは誰であろう。