八丈島 芸術(絵画、建築、織物、史跡、写真等) 

          当サイトへおいで頂き有難う御座います。

八丈島の芸術に付いて掲載致しますが皆様のお知りになった八丈島芸術について何か御座いましたら、下記メールで情報をお知らせ願えれば幸いです。

○皆様のお力をお借りし充実したものへさせて行きたい所存です。

○順次当サイトに於いて絵画等の販売も手がけて行きたいと思います。

 

1   ここに、江戸期絵師八丈島風物を描いたが載ります

 

 江戸期浮世絵の時代にカラー岩絵の具描き、巧みな線描で、

 近代日本画がの走りを見るようだ。

 保存状況は非常に良かった。  (一部引用)

 

            2 建築

        

 

     見晴らしの湯温泉(木造集成材)

○かつて、横山大観の師匠でもある近代日本画と称される、岡倉天心が この洞

 輪沢の断層の上に立ち、ここに芸術の村を作りたいと言ったという、以後、天心をおそった

 不幸な境遇により実現できなかった。

 夕日の綺麗な、茨城の五浦に六角堂を建て 日本美術院を写したのも 美しい自然の

 景観が好きな岡倉天心師匠の心の現われと思われます。

 (一部引用)

 

  師の人物概暦

    

 日本美術院創立当時の岡倉天心

 

岡倉天心(1862−1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。その活動には、日本画改革運動古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、目を見張るものがあります。また、天心は自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本)』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。

また、天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活することになります。

 

岡倉天心本名岡倉覚三(かくぞう)は江戸幕末の文久2年(1862)、元越前福井藩士で生糸の輸出を生業とする石川屋岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれました。文明開化という時代、海外に開かれた開港地横浜で、天心はジェイムズ・バラの塾等で英語を学ぶなど、後年の国際的な活躍の素地が磨かれていきました。
 明治8年(1875)、東京開成学校に入学し、同10年(1877)には同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移し、お雇い外国人教師アーネスト・フェノロサ(1853−1908)に政治学、理財学(経済学)を学びます。
 天心は、日本美術に傾倒したフェノロサの通訳として、行動を共にするようになり古美術への関心を深めます。

 

明治13年(1880)東京大学を卒業した天心は、文部省へ就職し草創期の美術行政に携わることになります。同16年(1883)頃から文部少輔九鬼隆一(くきりゅういち)に従い本格的に全国の古社寺調査を行った天心は、日本美術の優秀性を認識すると共に、伝統的日本美術を守っていこうとする眼が開かれていきます。  同19年(1886)フェノロサとともに美術取調委員として欧米各国の美術教育情勢を視察するために出張しました。帰国後の天心は、図画取調掛委員として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校準備に奔走します。開校後の同23年(1890)、わずか27歳の若さで同校二代目の校長になった天心は、近代国家にふさわしい新しい絵画の創造をめざし、横山大観下村観山菱田春草ら気鋭の作家を育てていきました。

急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになります。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、明治31年(1898)校長の職を退いた天心は、その半年後彼に付き従った橋本雅邦(がほう)をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設しました。


 その院舎はアメリカ人ビゲローなどから資金援助を得て、東京上野谷中初音(やなかはつね)町に建設され、美術の研究、制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めました。
 横山大観下村観山菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのです。その創立展には、大観「屈原(くつげん)」、観山「闍維(じゃい)」、春草「武蔵野(むさしの)」などの話題作が出品されました。

 

天心の指導を受けた大観や春草ら日本美術院の作家達は、大胆な没線(もっせん)描法を推し進めましたが、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」「化物絵」などと激しい非難を浴び、次第に世間には受け入れられなくなりました。こうした中で、院の経営は行き詰まりをみせ、天心の目は次第に海外へと向けられていきます。
 明治34年(1901)、インドに渡った天心はヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863−1902)を訪ね、東洋宗教会議について話し合いますが実現には至らず、彼の紹介で出会った詩人ラビンドラナート・タゴール(1861−1941)やその一族と親交を深めました。また、インド各地の仏教遺跡などを巡り、東洋文化の源流を自ら確かめた天心は、滞在中に『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げています。
 同37年(1904)、アメリカに渡った天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理や目録作成を行い、また、ボストン社交界のクイーンと呼ばれた、大富豪イザベラ・ガードナー夫人と親交を深めることになります。一方天心に従って渡航した横山大観菱田春草らは、ニューヨークをはじめ各地で展覧会を開き好評を博しました。また、天心は講演会や英文の著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して日本や東洋の文化を欧米に紹介しました。その後、天心は五浦とボストンを往復する生活を送ることになりました。

明治36年(1903)茨城県北茨城出身の日本画家飛田周山の案内により五浦を訪れた天心は、太平洋に臨む人里離れた景勝地を気に入り、土地と家屋を買い求めました。同38年六角堂と邸宅を新築、拡張するなど、以後五浦を本拠地とします。
 一方、
日本美術院は、天心横山大観など主要作家の海外旅行による長期不在が重なるなどにより経営難に陥り、その活動も衰退したため、同39年(1906)、天心は日本美術院の再建を図りました。それまでの美術院を改組し、その第一部(絵画)を五浦に移転しました。天心はここを「東洋のバルビゾン」と称して新しい日本画の創造をめざし、横山大観下村観山菱田春草木村武山を呼び寄せました。
 生活上の苦境に耐えながらも大観ら
五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、同40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表していきました。 (茨城県五浦天心記念美術館資料より一部引用)

 

 

  

八丈島の最南端集落、末吉にあり 洞輪沢という100メートルを超える稀有な断層

 下の岡上にあるので 景色は良いが、建物のけいじょうは木造で 広い空間を支える

 ため 集成材は使われている、この集成材が使われ始めたのは つい近年の事で

 材木の合理的な利用、つまり 不要部分を減らし歩留まりを上がる、乾燥後の収縮、

 曲がりが出づらい、という木材の欠点をカバーできるからです。

 

      

○観測等 (八丈島測候所の観測塔です)、六角形で美しい住居用のデザインに応用したい。

 

      

 

○大賀郷I氏の建物 (木造平屋

急傾斜で沢の下がった部分を造成し建てられたもので、地形を極限までうまく利用し、

風の害にも配慮した自然美と建物が調和した美しい建物だ。

非常に海に近く、直下が海だが崖の上で潮の吹きつけが強くない、

夏場の海の色は格別で 沖合いを50〜60頭のイルカの群れが良く通り 楽しまれているよう。

(一部引用)

 

      

八丈富士牧場展望台  

 夏場は涼しい このアングルからみると、構造物として面白く美しい

     

○総コンクリート ラーメン式 (大賀郷)

 美観を考え 雨どいを建物のコンクリート内に埋め込み外側から見えない。

 開放部が非常に多く 日当たりが良く内部が明るい。

 地下部が ビルを載せても良いほどのコンクリートの量で、震度8〜9の地震

 に対応できるよう。

  庭は開放感を考え殆ど何も植えない、建物内部も同様で単調な建築美

 今のトレンデイな風潮だ。

(一部引用)

 

 

 

旧ロイヤルホテル、ご存知 ルネッサンス3大様式の一つで、ロココ式 ルネッサンス時代の建築はローマンコンクリートでできているが こちらは現代の鉄筋コンクリートで耐震性もあり丈夫だが、なにせ古い建物だ、しかし諸外国ではこの程度を古いと言わない、日本の建設技術の向上が必要だ。

(一部引用)

    

漁師小屋

天草、トコブシ、海ノリ等の解禁日 乃至日常の漁師の溜まり場として広く利用されている、

住宅ではないが 正に、ここに島という地域に、また生活に根ざした建物だ。

 

 

 

八丈島に於いては、土地建物の利用と自然環境を一体のものとみなし行政が進められなければならない。エコロジーが叫ばれている昨今だから、という意味合いのほかに、もっと大所から見て、人と住みかと自然は、元々一体であらねばならないからです。

アールヌーボーの創始者であり巨匠の アントニオ・ガウディ、或いは、かっての俳人・方丈記作者の鴨 長明の一節 “ゆくの流れは絶えずしてしかも元の水に有らず、よどみに浮かぶ泡沫は かつ消えかつ結びて久しく止まりたるためしなし、人と住ともまたかくのごとし”  などに叙述に現われている。

 

※ 鴨 長明(かもの ちょうめい、1155年(久寿2年) -1216年(健保4年))は、平安時代末期から鎌倉時代 にかけての日本の歌人、隋筆家である

 

アールヌーボーの アントニオ・ガウディ は、建築、芸術を一変させた。 直線的な創造物建築等)を否定し、樹木または生物のように曲線でなければならない事を示した。鴨 長明 に付いては、読んで字の如しです。

 

  

 

 

写真引用

ガウディの作品は芸術そのものであり、自然、生物 を建築のコンセプトとし、その概念が隅々まで行き届き、見る者に感動を与えます。真に自然と一体、自然が建物の中に溶け込んでますね、ガウディ以降の芸術家でガウディの影響を受けないものは無いとされて下ります。

 

※椅子も見てください、どれ一つ真っ直ぐな物が無いですね、建築学の奇跡、革命ですね。   偉大な芸術家であると共に建築学の天才で 曲がりくねった構造でも、しっかりした強度計算ができていて、強い地震に耐えられます。

 

※スペインのバルセロナに於いては、いたる所にガウディ他の著名な建築家の作品が見受けられます。その建物がアパートとして今でも利用され居住して居られる人も多く、羨ましい限りです。

 

  <室戸岬からの風景>

 

   ○景色に疎外感がありません

 

 

 

写真引用 ドイツ領内 : ライン川  

ライン川の淵が 切り立った断層になっておりその調和が素晴らしい、また、城の配下にある中世からの町並みが、簡素で時代錯誤を覚える、諸外国では このような環境、建物の保存を行政、住民が一体となり、ライフワークと位置づけている。

 

写真引用 : ローヌ氷河を源流としてアルプスを流れる河がいったん湖となり、ジュネーヴから再びローヌ河としてフランスに流れていきます。 湖の南岸はフランス領内

レマン湖の東、湖に突き出た小島に作られた古城、バイロンの詩「ションの囚人」で一躍有名となりました。まるで本当に湖に浮かんでいるかのよう、自然と人工美建築) の一体化ですね。

港町 ナポリのヌォーボォ城  地中海、サンタ・ルチア港をのぞむ戦いに備えた堅牢な城です。

これだけ自然を破壊しきって建設されているのに疎外感がありませんね、むしろ対岸の半島とも一体感をなして下ります。廃水処理に関しては、地下に中世よりの排水施設があり、それを尚且つ現代の処理技術でカバーし問題は無いようですね。

 

 八丈島 不動産 不動産芸術建築 1

不動産と自然環境芸術編 ; 八丈島に於いての不動産自然八丈島に於いての自然と建築八丈島に於いての建築芸術を語ります。

八丈島は人口八千強、面積は新宿区程度で 資源小国日本に例えれれます、そこで 不動産と自然建築物と自然環境建設物芸術性と建築物不動産)等に付いて調和有る町作りが、自然保護又は

環境そのものが “芸術” との認識の必要性から文化的側面、観光面の上で求められます。観光が 先にあり気 ではうまくい行きません、あくまで如何にして住みよい町づくりを、どうせ目指すなら 日本に2つと無い 自然と建築美の芸術的、理想的理念のコンセンサスを住民共通のものとし取り組めば、おのずと、観光経済面の活性化は付いてくれもので御座います。

○一つ例にとりますれば、聳え立つ廃屋の旧八丈島国際ホテルは如何すれば良いでしょう、この不の遺産の処遇ですね。

旧八丈島ローヤルホテル、こちら廃屋ではありませんが、国際ホテルほどの疎外感が有りませんね、それは 何故でしょう?

○旧太陽第一ホテルも同時に考えねばならないでしょうね、持ち主がいるものに対し、それは個人の物と決め付けない態度が大切ですね、皆で考えねば問題解決にはならないでしょう、行政は避けて通れません。

町役場庁舎も同じい意味合いに於いて考えたいです。46億円の建て替え費用で再建築が検討さりているようですが、どのようなものでしょうね?見えてきません、まず、皆の町役場なので、デザインモデルを島民から公募するべきでしょうね。 それから建築技術者の検討頂く、ただ庁舎ばかりが良くなってもしょうがないので、個々の民間施設をリホームして 数軒で一つの庁舎、 或いは もう業務を外注に出してしまい、庁舎を作らない。

様々な案が島民から出ることでしょう。               ※以下 資料です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧八丈島ローヤルホテル

 

ロココ式建築

ルネッサンス様式

言葉は悪いが、廃屋に近いので早急な手直しの必要なホテルですね、保存法は無いのでしょうか、八丈島の文化遺産の一つと考えた方が良いでしょうね、民間ばかりに押し付けない、行政の助けが必要な場合もあり、それがやがてが町に福をもたらします。

 

 

     

 

  

コンコルディア神殿(シチリア島アグリジェント

技法
列柱の上にリンテルという1本石を渡すので、列柱の間隔が狭くなる傾向。列柱の形状は次の3つに分類される。
・ドーリア式
・コリント式
・ドーリア式

           

 

 

      ギリシア様式     

 

    

 

 

 

   

 

   コッロセウム(ローマ)


 

 

 

 

 


技法
アーチ→ヴォールト→ドームの開発により、柱だらけの空間を免れる。いずれも重いリンテルは必要なく、レンガ様の石材で事足りる。

ヴォールトとはアーチの奥行きを長くして、3次元の空間を構成したもの。

                 

                     

 ローマ様式
サンマルコ寺院(ヴェネチア)


技法
アーチとドームを多用して正方形の平面上に、

大きな3次元空間を創出

 

 


ビザンティン様式

ロマネスク様式

ピサ大聖堂(ピサ)



技法
2本のヴォールトが直角に交わる「交差ヴォールト」という技法が一般的になるが、重みを支えるために、ぶ厚い石壁と小さな開口部とならざるを得ない。

開口部に半円アーチを採用しているところが、ゴシック様式との違い。

 


 

 

 


 

 ゴシック様式

ミラノ大聖堂(ミラノ)


技法
・尖頭アーチで視線を上に誘導
・リブヴォールト
・フライング・バットレス(外から壁を支えるつっかい棒)で、より広い開口部が得られるようになった

 

 

                           

 

バロック様式

サン・ピエトロ大聖堂(バチカン)



ルネッサンス様式同様、古典様式への回帰が見られるが、抑制的であった表現が装飾的で重厚なものに変化

技法
バロックというのは「歪んだ真珠」の意味。サン・ピエトロ大聖堂前の広場は正円ではなく楕円形。

まさに、「歪んだ真珠」の先駆ともいえる空間構成となっている。

                         


 ※上記写真文章一部引用    ロマネスク  ゴシック  バロック  等は所謂ルネッサンス様式です

 

 

 

 

 

 

Murotomisaki2 

 高知 室戸岬からの風景


あまり観光地っぽくない、風景を阻害する建物が

無いですね、自然と人間社会の一体化です。

 

 

 

 Mukaidaki3

 向瀧:会津の歴史的建造物旅館     背景と建築物が一体化です

歴史的建造物の旅館の中でも
記憶に残る一つ、福島県会津若松・東山温泉の向瀧。
登録有形文化財第1号ということもあり、その建物の放つ威光は全く違いましす。

 

増築を重ね、現在の形になったのが昭和の初めです。入母屋造りの建物を連続させることで、傾斜した土地をうまく
利用しています。回遊式の日本庭園もあじわいがあります。

 

 

Mukaidaki2_1

入母屋造り(いりもやづくり)-根上部を切妻造りとし、その四方に庇屋根をつけた屋根の形です。屋根職人もたいへんな技が必要と思えます。

 

 Noritake3  Noritake2

Noritake4   Noritake

ナリタケの森   名古屋

 食器メーカー、ノリタケの複合施設。1904年に建築の赤れんが
の工場がとてもいい雰囲気です。名古屋駅すぐそばにある。
日本の洋食器の歴史をつくってきたノリタケ。
オールドノリタケと呼ばれる戦前の陶磁器の名品をはじめ
美しい陶磁器を見学できます。

 

  連絡先 八丈島不動産事情事務局 04996-2-1801 or  04996-2-1345  担当 菊池

 

 

八丈島ギャラリー

写真 絵画 彫刻等 八丈島にちなんだ作家の作品を掲載して行きます。

 

                         居室 生活臭1

 

 M,Kikuchi      八丈島在住     平成 25.9.20 

  ※  作者の狙い ー 『混沌とした中の美』

 

 

 

                                    居室 生活臭2

 

 M,Kikuchi      八丈島在住     平成 25.9.20 

  ※  作者の狙い ー 『混沌とした中の美』

 

                                  階下3

 

  M,Kikuchi      八丈島在住     平成 25.9.20 

  ※  作者の狙い ー 『混沌とした中の美』

 

 

                            居室3

 

 M,Kikuchi      八丈島在住     平成 25.9.20 

  ※  作者の狙い ー 『混沌とした中の美』

 

 

 

                              エントランス5

                 平成25.9.20

 

 

                     荒れ地にけなげに咲く 1

 M,Kikuchi      八丈島在住     平成 25.9.21 

  ※  作者の狙い ー 『荒れ地の厳しい自然のように生きる』

 

 

                  荒れ地に生きる 1

 

 M,Kikuchi      八丈島在住     平成 25.9.21

  ※  作者の狙い ー 『荒れ地の厳しい自然』『自然の中の清楚なくらし』『宮沢賢治のように』

 

  

 次回は 恐れながらも かの有名な 『彼末 宏』 先生の作品を掲載して行く予定です。ご期待下さい。

彼末先生は 生前 八丈島で制作をなさって下られました。この事実をご存じない方が多いと思います。

八丈島ゆかりの画家と言えば第一にこの方が上げられると思います。

誰しも絶叫 絶句 感動の作品ですよ。

 

平成25.9..21

            作 彼末 宏                自画像

 

 

  作 彼末 宏  ※ 版画    ※額のガラスの反射光が出て下ります   

 

 拙宅に飾らせて頂いてります彼末先生の作品を掲載しました。25.9.21

 

次回も彼末先生の作品を掲載します。 

 

                   作 彼末 宏 

                                 

                    作 彼末 宏 

                            作 彼末 宏

                         作 彼末 宏

                                      作 彼末 宏

                    作 彼末 宏

                     作 彼末 宏

               作 彼末 宏

                   作 彼末 宏

                          作 彼末 宏

                        作 彼末 宏

            作 彼末 宏

彼末 宏 先生は生前八丈島で良く制作をなさって居られました。私もお側でお仕事を覗き見させて頂いたり、買い物をおおせ遣ったり

するような光栄を得ました。その時の体験は何物にも変え難く身に余る光栄を得た事を感謝申し上げて下ります。

                        平成25.1.5 ページ作者

 

彼末先生の作品を大分掲載させて頂きました、こんな立派なお仕事をなさった彼末先生を今更ながら尊敬して止まない私です。

この[八丈島の芸術]のHPをご覧の皆様に しばし目を休めて頂く為に 八丈島の土地の物件情報など 実用的なもの 地域情報

なども掲載させて頂きます。

 

 平成25.9月末日 当HP作者宅の近辺の道路を撮したものです。初秋ですのでハイビスカスが花ざかりです、この時期が八丈島は

 一番趣があり、過ごし安く綺麗な時期です。

この一角は八丈島でも景勝地の一つです。

この先に 不動産会社 「株式会社フレック」 の売り地の看板がございます。

この突き当りに 不動産会社 「株式会社フレック」 の看板がわずかに見えます。

写真上で目視できると思います。

売地のようですので 興味のある方は看板をご覧になりご連絡なさって頂くのも結構です。

25.10.5

この辺で本日の作業を終えます。次回おお楽しみに。

 

更新27.3.11