教育原論

第1設題「ペスタロッチーの教育学(直感の原理など)について考察せよ。」

 授業を大きく2つに分けるとしたならば、「教師主導の授業」と「児童・生徒主導の授業」とに分けることができると私は考える。ペスタロッチの教育に対す る考え方を分類すると、後者になるのではないかと私は思う。なぜならば、ペスタロッチは自分の教育思想を主に体験によって基礎づけ、「人間の知・徳・体の 諸能力の調和的発展の基本は、家庭および万人就学の小学校での基礎陶冶にあるとし、その方法は直感・自発活動・作業と学習の結合に基づく」と主張している からだ。ここに出てきた知・徳・体は、知は頭を指し、知的な教育。徳は胸を指し、道徳的教育や宗教的教育。体は体を指し、身体的教育で、技術力も重視して いた。ペスタロッチは、これら知・徳・体という生まれつきに身についている能力と考えていた。それら知・徳・体を鍛えていく中で、ペスタロッチは直観教授 という方法で行った。直観教授、名前だけを聞くと難しそうである。しかし、直観は直観であり、難しく考える必要はない。つまりは、見たままに感じるという ことだ。言葉よりも事物によって常に教える。つまり観察を全ての教授の基盤としている。どういうことかというと、まず事物を提示することによって事物の名 前を教える。次に、その事物の名前を知る。名前を知ると、その事物の性質を知る。性質が分かったら、他の事物との比較を行う。これは英語教育の入門期にお ける学習に似ている。英語教育の入門期では、インプットを先に学習させるのではなく、アウトプットを先に学習させることで、知識の定着を狙っているのだ。 この直観教授は何も英語教育の入門期だけにあてはまらない。他の教科でも言える。つまりは、「習うより慣れろ」という言葉があるように、教師が言葉で何回 も言うよりは、実際に児童・生徒が直観を大切にすることで、少し難しい文字の理解・操作に及ぼしていくのだ。すると、本の内容が分かる。文字を目で見て、 知覚して、理解するのだ。それは、概念的なものを理解する行為といえる。簡単なものから始まって、難しい概念の理解へと進んでいくことができる。もともと 子どもはこうした能力が備わっているとペスタロッチは考えているのだ。
 この直観教授を行う際にペスタロッチは数形語の三要素に注目し、特にそれらに関する訓練に配慮した。この数形語の三要素とは、先に述べた知・徳・体の知 にあたる。数形語の三要素とは、数は計算・数学を表し、形は図画・習字・測量を表し、語は読み方・話し方・文法などを指している。なぜこれらに注目したの だろうか。それは生活に直結するからではないだろうか。生きていく上で学問は大切である。だからこそ、数形語の三要素に重きを置いて直観教授を行っていた のではないだろうか。また、ペスタロッチの教育は、現在の「自ら学び自ら考える力の育成」や「基礎的・基本的な内容の確実な定着を」共通する部分が多いと 思う。
 最後に、私はペスタロッチの直観教授という考え方を次のように捉える。「落ちこぼれ」というのは「教師のよる落ちこぼし」ではないかと。生まれてくると きの能力が同じで、その後に差が出てくるなら、それは教える教師の責任ではないかと。もちろん、能力の大小はあるけれども、簡単に「落ちこぼれ」と決め付 けないようにと、ペスタロッチは暗に言いたいのではないだろうか。



第2設題「ジョン・ロックにおける子どもの教育論、特に習慣形成や賞罰法を中心に述べよ。」

 ジョン・ロックについて調べていると“紳士教育”という言葉を頻繁に目にした。しかし、私はそういったものを見ていく中で、ジョン・ロックについての1 つのキーワードを導き出した。それは「欲望」という言葉だ。
 人間というのは不思議な生き物だ。最初は小さな欲望しかないが、その欲望が叶ってしまうと、次の欲望が出てくる。その欲望というのは以前の欲望よりも大 きい。欲望を重ねていくうちに、欲望というのはとても大きなものになる。その欲望が良い方向に進めば良いのだが、中には悪い方向へ進んでいく人もいる。 ジョン・ロックは欲望の手綱を握ることを目標にしていたのではないだろうか。テキストのP.44にも「単に良い行為に褒美を与え、悪い行為に罰は与えるの は良くない。というのは褒美を与えることによって、逆に褒美をもらうこと自体が目的化する恐れがある」と書かれている。欲望を全面に押し出すことにより、 欲望が本来の目的とは違った方向に、つまりは悪い方向へ進んでいってしまうことをジョン・ロックは懸念しているのではないだろうか。
 では、ジョン・ロックは「欲望」に何を求めていたのだろうか。それは、「欲望を得るため」ではなく「何かのため」ではないだろうか。何かを行動するとき には、欲望のことを一番に考えて行動するということは少ない。仕事であれば「会社のため」、勉強であれば「自分のため」を一番に考えて行動している場合が ほとんどだろう。そして、「何かのため」に行動するとき、自主的・自発的に行動ができ、それが常態化するようにジョン・ロックは求めていた。そこには「欲 望」というものは存在しない。「欲望」が絡むと自主的・自発的ではなく、「欲望」という要因によって行動させられるからだ。ジョン・ロックは、きちんと 「欲望」を抑制し、自主的・自発的な行動が常態化できるように望んだのではないだろうか。
 ジョン・ロックは自主的・自発的な行動を行うときに、強制や威圧があってはいけないと言っている。強制や威圧は、自主的・自発的という言葉とは明らかに かけ離れている。また、強制や威圧は反発を抱くからだ。子どもであれ、大人であれ、無理矢理だと良い気はしないだろう。無理矢理させられたことを、その後 も自主的・自発的に行い、なおかつ常態化するというのは苦痛であろう。仕事であれば仕方ないが、無理矢理の歪みは必ずどこかに生まれてくる。だから、強制 や威圧があってはいけないのだろう。反発を抱かないためにも、「なぜさせるのか」ということを、理性的に論理的に説くように言わなければならない。
 近年、「褒めて児童・生徒の可能性を伸ばしなさい」というようなことを頻繁に聞く。もちろん、悪いことは叱ること・怒ることが大切だ。私は上手に褒める ことはできないけれども、「褒める」という行為に関しては賛成だ。また、有森裕子や高橋尚子などを指導した小出義雄監督も「褒める」ということで選手の可 能性を引き出している。しかし、ジョン・ロックについて調べていると、「褒められるため」ということになってはいけないということを認識した。それは、大 人の顔色を見て過ごすということだ。小さな子どもに、大人の顔色を見て過ごさせるということは苦痛なことだ。決してそんなことさせてはいけない。私はこの レポートとジョン・ロックを通して、「褒める」という行為の難しさをきちんと学んだように思う。