<< 決定版!蒲田行進曲 >> TBS

日立テレビシティ

放送日: 1983年6月22日(前編)& 6月29日(後編)
共演者: 大原麗子 柄本明 萩原流行 小野武彦 野村昭子 美保純 他
沖さんの役名: 銀四郎
原作:「蒲田行進曲」つかこうへい 著

沖さんの亡くなる前と後で前後編が分かれてしまったため、前編と後編は全く違う目で観ることになった。私の手元のビデオでは、今も後編の冒頭に「この番組は6月5日に録画したものです。謹んで沖雅也さんの冥福をお祈り申し上げます」というテロップが流れる。

前編ではすっきりと痩せた沖さんが、髪もさっぱり切った姿で登場する。以前見慣れていた沖さんの顔が戻って来たようで、週刊誌などで伝えられていたノイローゼや胆石も快方に向かったかに見えた。
だが、カットが長いつかこうへい作品で、沖さんはあっという間に顔から胸まで滝のような汗を流し出し、声もかすれて来る。のちに沖さんの人生を顧みる番組(『驚きももの木20世紀』)で大山勝美プロデューサーは、つかこうへい氏がどうしても沖さんの銀四郎でやりたいと言ったので使ったが、力が入りすぎていたと回顧している。

つかこうへいさんは、その前年の暮れ、「つか版忠臣蔵」という番組に沖さんを抜擢したが、沖さんが自宅で昏倒して入院して降板するという事件があった。病室を見舞ったつか氏に詫びる沖さんに、つか氏は

「これじゃ君が余りにもかわいそうだ。最初は“下手だ!”と罵倒したけど、君の誠実で懸命なけいこぶりを見て、オレは沖雅也を再発見したよ。こんな素晴らしい素質を持った役者だと、これまで気がつかなかった。安心しろよ、沖。この無念さをこれからの俳優としてのバネにしなくちゃ沖雅也が泣くぞ。俺が近いうち絶対君のために、いい仕事をとってやるから安心しろよ」

と約束して、沖さんを泣かせたという。その約束がこの番組だった。

だが、映画が既にヒットして、風間杜夫氏のハチャメチャなキャラクターの銀ちゃんが世間的に定着していた後でのテレビ版だ。しかも、どんな役者でも得手不得手があるし、ハマる役とハマらない役がある。沖雅也という俳優の良さは、どんなに滅茶苦茶をやっても芯が通っている誠実なキャラクターで引き立つのではないだろうか。軽いキャラクターが得意でない沖さんに、銀ちゃんの破天荒なのに憎めない役は難しかったし、映画と違って小夏(大原麗子)とヤス(柄本明)の純愛物語として描かれているテレビ版では、銀ちゃんはそんな愛すべき男として脚本が作られてもいなかった。
つかこうへい氏は本当に沖雅也という俳優を引き立てようとしてくれていたのだろうか。映画版と比較してみたい。

映画の配役は小夏に松坂慶子さん。
彼女が銀ちゃんに惹かれながらも優しいヤスと家庭を持つようになり、それでも心変わりして小夏に求婚すると、「銀ちゃん、そんなこと言われると私帰りたくなっちゃうじゃない」と心の揺れを見せる。ヤスを本当に愛し始めながらも、銀ちゃんに対しても愛情を捨て切れない女。
これに対して大原麗子さんはきりりとした小夏。
銀ちゃんに「あばずれ」と呼ばれているが、これが似合わない。しっかり者に見えるし、一度ヤスと暮らすことを決めたら、銀ちゃんに心が揺れる隙を見せないのだ。

映画版の銀四郎は、この映画に出演するまで全くといって良いほど名前が知られていなかった風間杜夫氏だった。すねたりごねたり甘えたりと、全くもって自分勝手なのに、何故か皆が慕ってしまう落ち目のスターは正にハマリ役で、風間氏がその後スターとしての地歩を固めるのに十分だった。
それと比べて沖さんの銀四郎は、仕事で嫌なことがあったからと言って小屋に立てこもったりすることもないし、大部屋の者たちにたしなめられることはあっても、慕われる場面はない。小夏は未練に苦しむというより、銀ちゃんを気の毒がっているように見えるだけだ。

そして、一番違いがあるのがヤス。
「蒲田行進曲」はある意味ヤスが主役といっても良い。平田満氏の頼りなくて優しすぎる弟分キャラが、この物語の要になる。
平田氏のヤスは何があっても銀ちゃんを慕っている。それが如実に表れるのが、ハイライトの「階段落ち」シーンだ。銀ちゃんのために高い階段から落ちる役を引き受け、銀ちゃんに斬られて転がり落ちる。手を差し伸べた銀ちゃんに向かって這い上がろうとするが力尽き、「銀ちゃんカッコイイ〜!」と叫びながらズルズルと落ちて行くのだ。ここで銀ちゃんとヤスの不思議な愛情が表現が完結する。
これに対して沖さんの銀四郎を殺してしまったのが柄本明氏のヤス。柄本氏のせいではなく、脚本がヤスのキャラを柄本氏に合わせて変えてあるのだ。銀四郎のキャラはほとんど手付かず、いや、むしろ粗雑に変えてあるのに、だ。階段を落ちたヤスは、上に向かって這い上がろうとするが、その目の中に銀ちゃんに対する憧憬はない。「上がって来い!」と手を伸ばす銀ちゃんに何も言葉を返さずに力尽きるだけだ。
次の病室のシーンでは、小夏に「こんなろくでなしに、おれらの大事な赤ん坊を触わらせるな!」とエラソーに言っており、小夏も「ハイ!」と、嬉しそうに返事をする。銀ちゃんは気にせずに赤ちゃんをあやしているというラスト。一体誰が銀四郎を想ってくれるのか。奇妙な三角関係を描いた映画とは、主眼点が違う作品なのだ。

沖さんが最期まで尊敬し、葬儀の際には葬儀委員長まで勤めて下さったつか氏だが、私にはどうしてもこの脚本に納得が行かない。
とりあえず劇中劇で近藤勇(あるいは土方歳三か)の扮装姿が美しい沖さんが拝めるのが救いか。

余談だが、沖さんはつかこうへい氏の結婚式にスタッフの一人として出席している。日景忠男氏によれば、沖さんは「つかボケというか、つか信者というか」というほどつか氏に傾倒していて、亡くなる数日前にホテルにチェックインした際にも、名前の上に“つか”とルビをふっている。つか氏も、それについて「信頼の証だったんじゃないかな」と答えていた。

結婚式では沖さんにレポーターの「次は沖さん?」という質問が寄せられ、マイクが集まった。沖さんは
「はい、そろそろ身を固めようと思っています」
と満面の笑顔で答えており、「見合いが希望なので、見合いで」と、確実なアテはないことを強調していたが、つかこうへい氏について、興味ある発言をしている。

「本当はモラリストなんじゃないかなと思います」

この劇中でも、銀ちゃんは小夏に
「そうやって腹にドテッと体重を乗せるな」「尻をかくな」「鼻から声を抜くな。かわいぶって絵になるのは21、2まで」と矢継ぎ早に常識的な台詞を吐く。常識的な発想があって初めて破天荒が生きることをつか氏はうまく演出していたと思う。
小夏に結婚を迫られた銀ちゃんは「30過ぎた女が」と、樋口恵子さんに怒られそうな台詞を次々と口にし、今の芸能界の批判も銀ちゃんに言わせる。つか氏は「つか版忠臣蔵」での沖さんの稽古の様子を「テレビの人だからどうかなあと思ってたんだけど、やってみたら、これがいいんだよね」と回想していた。「蒲田行進曲」の最初には銀ちゃんが「テレビ上がりがよぅ」と、共演スター俳優にいびられるシーンがあるが、これもつか流のニヒリズムだろう。

銀四郎:「ベクターからレコードも出すんだよ」
小夏: 「銀ちゃん、歌ヘタじゃない」
銀四郎:「バカ!あんなもんは顔で歌うんだよ!ミュージカルも決まってんだよ」
小夏: 「銀ちゃん踊れないじゃない」
銀四郎:「ミュージカルスターが踊れるようになっちゃおしまいよ」

このあたりのテンポはつか作品独特で楽しいし、「つか哲学」がよくわかる。


<< つかこうへいのかけおち’83 >> NHK

銀河テレビ小説

放送日: 1983年7月25-29日(5夜連続)
共演者: 大竹しのぶ 長谷川康夫 北村和夫 平田満 萩原流行 他
沖さんの役名: 萩原

「蒲田行進曲」の後、「小さな役だが出てくれないか」と言われた沖さんが恩返しに出演した作品だが、役名からわかるように、当初はつかこうへい劇団の萩原流行氏が演じる予定だったとされる。沖さんの登場で脇役に回された萩原流行氏が自殺を考えた時間が、ちょうど沖さんが亡くなった時間と一緒だった、と萩原氏は「徹子の部屋」で語っていた。

セツ子は五年間一緒に暮らしているプー太郎の康夫(長谷川康夫)と正式に結婚することにしたが、そんな時高校生の時にセツ子を見初めていたという会社社長・萩原(沖さん)と遊び感覚でお見合いをしてしまう。どうせろくな奴じゃないとタカをくくっていたセツ子だが、お見合いの帰りに目に涙を浮かべて告白する萩原に、養子で苦しんできた父親(北村和夫)と共に惚れ込んでしまう。萩原に心を奪われながら養子を承諾してくれた康夫も捨てられないセツ子は、京都へのかけおちを康夫に持ちかける。

「小さな役」と言われた通り、沖さんの出演はごく僅かだ。だが、本来ならつかこうへい流ギャグであるお見合いの席での大見得は、沖さんが亡くなってから日の浅いうちの放映だったため、笑いどころか今でも涙なしには観られない。

「ひとつひとつが私のかけがえのない想い出です。ひとつひとつが私の命でした」

そっくりそのまま沖さんに返したい言葉だ。

レストランをいくつも経営するセツ子の家は、ひとり娘のために養子に入ってくれる男を必要としていた。倒産寸前だった父親の会社を年商30億にまで大きくした萩原は、養子に入ることが出来ない。プロポーズを断られた萩原の台詞は「台詞が沖雅也の実生活とダブる」とガイド誌に書かれた。沖さんの死のニュースがまだワイドショーを賑わせていた頃の放映だから仕方ない。

「・・・この十年間、私は一体何のために働いて来たんだ!好きな女一人奪うことができないで、私は一体何のために働いて来たんだ!」

十六歳で何も知らずに芸能界に飛び込んだ沖さんは、幾多の不遇な俳優希望者から見ればかなり恵まれたデビューを飾り、その後もアクシデントがあったにしろ、俳優としての地場を確実に固めて来た。俳優学校に通ったわけでも、正式に発声の訓練をしたわけでもない沖さんだったので、厳しく指導してくれる師と仰ぐべき人がいなかったという。そして病気、事故。

そんな時、沖さんを厳しく指導してくれたのがつかこうへい氏だった。沖さんが「つか信者」になっても無理はない。ドラマが終れば会わなくなってしまう人間関係が常であるこの世界で、「仲間」としてつか劇団に受け止めてもらったことも嬉しかったらしい。一緒にいて嬉しそうにニコニコしていた、と萩原流行氏が「徹子の部屋」で回想されていたが、その姿を想像するだけで沖雅也という人が一層いとおしくなる。一部の番組で、「蒲田行進曲」の前編のオンエアーをつかこうへい氏や出演者と一緒に観ていた沖さんは、突然つか氏に激しく叱責されたために自殺への助走を始めたという風に説明していたが、それは違うのではないだろうか。物がどんどん飛んできて、役者の過去や人間性まで否定してかかる厳しい稽古を、沖さんはむしろ心地よく受けていたのだろう。自分を気にかけてくれる人をみつければ、誰だって嬉しいから、厳しい叱責も激励として受け止められる。ただし、年中叱責されていたというつか劇団の長谷川康夫氏は「もうね、稽古に行くのがやなの。辛いとか苦しいじゃなくて、もうただただやなの」と、その頃を回想していた。(ちなみに長谷川氏は現在は脚本家として活躍中)

沖さんがそこまで慕ったつかこうへい氏。私もその「ナマつか」を近くで見て、少しでもそのオーラの正体を見たいと思って、ある大学の講演会に出かけた。
ナマつかは意外にもシャイな目線の人だった。口調はべらんめえだが、何とか会場の雰囲気をこちらに振り向かせようとして饒舌になり、サービス満点で話は進められた。観客の気持ちが壇上に惹きつけたと思ったその瞬間、急につか氏はオーラを発し始めた。とうとうと流れるようにシュールなギャグを連発するつか氏。こうなればもう私も「つか信者」の仲間入りだ。「決定版!蒲田行進曲」に文句たらたらの私が、講演が終った時には抱きついてお礼を言いたい気分になっていた。

最後に、つかこうへい氏が沖さんの没後出版(昭和59年3月5日初版発行)されたエッセーの中から、沖さんについて語っている部分を一部書き出す。
「…演技なんてのを知らず、オレがちっとばっかり教えてやると感激して尊敬し、遺書にオレの名前まで残しやがんの。(中略)オレは物書きだから決して感傷的にはなるまいと思っていたが、ついついさみしくなる。あの男が不憫でならない。あわれでならない。あいつはもともとソウウツ病で、医者に聞くとソウウツ病というのは、ウツの状態で「死ぬ、自殺する」とわめいてる時は危険はなく、治りかけのトンネルを抜ける瞬間が危ないという。その典型的な例という。」
「皆様方、だれもが醜く生きのびようとするこの時代、ひとりの人間が自ら命を絶つに至るには、よほどの覚悟があったと思われます。私は、それを勇気ある行動として、いまは安らかな眠りを祈りとうございます。(中略)たとえその過去がどのようなものであれ、私は彼を友としてもったことを誇りと思っております」

つかさん、ありがとうございます。