「まほろば大分」のChizukoさんは古い布などを使ったアート作品のお店のオーナー。なんと沖雅也さんの幼なじみです。今回、ファンのために貴重な思い出話を、小学校入学の日の晴れがましそうな沖さん、いえ楠城児クンのお写真と一緒に寄稿して下さいました。

沖雅也(楠城児)さんは、ファンの皆様の期待を裏切らない、想像通りの少年でした。

*沖さんと並んだChizukoさんはとても小柄に見えますが
実は女子では学年で一・二を争うほど背が高かったとのこと。
沖さんが子供の頃からずば抜けて長身だったことがわかります

<来歴のこと>
楠家は、本来的には福岡県久留米市にある楠病院(当時は医院だったかも知れない)の次男坊の家系です。何の理由があって山深い日田市に来たのかは今ではわかりません。
日田駅近くの国道沿いでガソリンスタンドを経営していました。家庭には家政婦さんまでいるようなお家でした。上にお姉さん、下に妹がいました。

<父親のこと>
城児さんの父親は、とっても背が高く、身長が180cmくらいはあったと思っています。
細おもての男前で、鼻が高くて、スターで誰に似てるともいえませんが、岡田英二さんをずーっと細身にした感じでしょうか。ハンフリー・ボガード似っていう人もいます。それ位、バタ臭い感じの人で、恰好そのものが外国映画に出てくるような人でした。


<母親のこと>
お母さんも美人で、目立って人目を惹きました。イタリア映画の「マレーネ」というのがあるでしょう。あんな感じです。
顔立ちが日本人離れして、目が大きくて女優さんに喩えると、岡田茉莉子さんのようなイメージが残っています。
外出する時も意識していたのでしょうね。オードリー・ヘップバーンのようなつば広帽をかぶり、街を闊歩して歩く位のすごい人でした。今思い出すと吹き出してしまいますが、皇室や昔のグレース・ケリーがかぶるような帽子にネットが付いて、目隠しをするようなファッションがあるでしょう。その恰好をして、真っ赤な口紅をつけていたのが鮮烈な思い出に残っています。今でも健在でいると聞いています。
城児さんはどちらかというと、顔立ちは母親似のようですね。
<城児くんのこと>
こんな両親の間に生まれた子供ですから、スターになるような運命を持って生まれてきたようなものだと思っています。
小さい時から写真のように身長がずば抜けて高く、頭もとっても良かったんです。運動神経も抜群でした。
心もいや味がなく、とってもやさしい、大人のようなさめた感じでした。あまり同年代の子供達の中に、自分から入るようでなく、小さい時から大人のような不思議な記憶が残っています。声の感じも、子供なのに大人のようなしゃがれた声でした。
私の家が隣り同士でしたから、私は彼のことを“George君”といい、彼は私のことを“Chicoちゃん”と呼んで、思い切り遊びまわっていました。

<ただ一度の再会>
大きくなって19歳の時、私は学生で東京にいました。あるイベント会場で、大きくなった“George君”に一度だけ再会したことがあります。思わず目が合って、彼はすぐに私がわかり、“あっ!Chicoちゃん”といつもの指をピストルのようにする仕草をして、私を見ました。
マネージャーがすぐにそれに気づき、もう普通の人じゃないんだというそぶりで、他の場所に引っぱっていきました。その時私は、ずいぶん大人になったな・・・もう別の世界の人間なんだ、とつくづく感じました。

管理人さまから、今回何か思い出を書いて欲しいとのご依頼でしたが、私が沖雅也(楠城児)さんといっしょにいたのは、幼児の時代から小学3年生の頃のことです。
当時のことですから、恋愛感情などあるはずもなく、ただ子犬がじゃれあうように遊びまわったり、机を並べて宿題やお勉強を一緒にした記憶がわずかに残っているだけです。

※ Chizukoさん、面識もない者からの依頼を快く引き受けて寄稿して下さり、本当にありがとうございました。子供の頃からハンサムで優しい城児少年の姿が瞼に浮かぶようです。
ここを読んで下さったファンの皆様、「まほろば大分」さんはとても素敵なホームページを運営していらっしゃいます。どうぞご覧になって、掲示板などにおのおの感想を書いて下さいね!

「まほろば大分」トップへ

「沖雅也よ 永遠に」管理人注:
1.沖さんのお父様、楠宗生氏は、沖さんが「ふりむくな鶴吉」の撮影中に亡くなりました。詳しくは出演番組紹介の「ふりむくな鶴吉」参照のこと。
2.お母様は現在もご健在ですが、静かに暮らしていらっしゃるとのことですので、現住所やお写真などは公開しません。沖さんのご姉妹についても同様です。
3.お父様が石油の販売店を開くために、沖さんが小学校に上がる前に別府から日田市へ転居されたそうです。大分市へ転居したのは沖さんが小学校5年生の時。お父様が大分石油商業組合の常任理事に就任されたからとのことでした。


2009年3月1日 再びChizukoさんから想い出をいただきました。Chizukoさん、ありがとうございます!

以前、沖雅也さんの子供時代のなんでもよいから思い出に触れてみたいと投稿されていた方がありましたから、ご報告いたします。
わたしも、すっかりこのことは忘れていましたが、久しぶりに故郷に帰りまして、駅前を見ましたら、突然こんなものを発見しました。

これは、日田駅の正面を写してみたものです。下の横に長いのが、現在の駅です。その左端に、大きな椋かその種類の木が写っています。
この木は、もう相当以前からこの場所にあります。私たちは、子供時代ここの駅前が広場になっていましたから、ここで遊んだり、ラジオ体操をしていました。当時のことですから、朝のラジオ体操の時間になると子供や大人が、50人以上も集まって、一斉にラジオにあわせて体操をしました。もちろん沖さんも、私も一緒にこの木を見上げていました。木は、私たちを見下ろしていました。
沖さんの面影に何でもよいから触れてみたいとお思いでしたら、間違いなく沖雅也さんは、この木に触れています。男の子でしたから、登ったかもしれません。
以前お話したように、沖さんのガソリンスタンド店と私の家は、くっついていました。 駅前の木までは、200mくらいでしょう。子供の足で、5分もかからなかったと思います。
沖さんの家も、私のうちも、市街地の区画整理で現在はまったく存在しません。
私たちの家の横をきれいな小川が流れていました。私たちは、ここで川遊びやこひな(貝)取りや魚釣りなどいろいろなことをして遊びました。
道を隔てると、広場がありました。その先には、当時芸者さんの置屋がありました。この辺りは、とても賑やかでした。この広場は、多分現在は整形外科がある位置くらいです。 実は、その先に100mも行くと、ムツゴロウでおなじみの畑正憲さんのお父さんのかわいい医院がありました。正憲さんは、当時高校生か大学の初年ぐらいだったと思います。
訪ねて行ってみたいとお思いの方がありましたら、駅からスーパーダイエーを目指してください。現在は、位置関係から行くと、小川も何も残っていませんから、モチキチの辺りくらいというしかありません。 写真はちょっと不鮮明ですから、こんど良い写真を撮影してもう一回お送りいたしましょう。




2009年6月3日 Chizukoさんのお母様のアルバムから貴重なお写真をいただきました。大切になさっていらしたものを沖雅也ファンのために公開して下さったことに、深く感謝します。

これらの写真は、母の大切なアルバムの中に眠っていたものです。今回、偶然発見しましたから、お知らせします。
沖雅也さんは、子供のときどんなお家に住んでいたのでしょうか、それが思い出とともに出てきました。
もうこれらの写真に写っているものは、人物を除いて、すべてがこの世に無いものです。
1番左の写真が自宅です。
沖さんは、家族と一緒にこの木造モルタル2階建ての住居に暮らしていました。
2番目の集合写真のてっぺんに写っているのは、沖雅也さんです。たぶん、これは4歳くらいのころのものです。私が、その下にいます。
一番右の写真の、自動車の奥に丸善石油と書いたホーロー看板を貼り付けてあるのが、事務所になっていました。ここで、沖さんのお父さんがガソリンスタンドと石油会社の仕事をしていました。

映画・3丁目の夕日のように、もう再びよみがえることのない、ただなつかしいだけの思い出です。



















「まほろば大分」トップへ

「沖雅也よ 永遠に」トップへ