一進会について



Q 日韓合併の前夜、一進会という最大の親睦団体が積極的に合併に参加したことを見てもわかる通り、韓国民の多くは合併を望んでいた。

A 一進会は「百万会員は2千万臣民を代表」と枕詞を並べていますが、実際はそんなにいなかったみたいです。

合邦主唱者たるは一進会が実数4000人に満たざる会員を以て、みだりに100万と称するは虚勢も亦太甚だし。一進会員果たして100万なりとせんか老幼及び婦女を除くの外、殆ど韓民の総てを挙げて同会員たらざるべからざる筈なり。然るに事実際に於いて一部少数の同会員の言葉なれば、左まで政治的及社会的勢力を有するものに非ず。返って同会は予て韓民多数の排斥を受けてること事実なり。(内田良平『日韓合邦秘事』下巻)(姜在彦著「玄界灘に架けた歴史」より孫引き)

つまり韓国人を代表していたわけではない、極一部の会だったわけですね。

続けて引用します。

一進のこの宣言(引用者注:日本の指導保護を支持する宣言書)は、却って朝鮮人の反感を刺激し、一進会に反対の共進会、大韓自強会の如き排日団体を初め、朝鮮人側の各新聞は一斉に一進会を非難し、一進会員を以て売国奴とし、この2千万民を以て奴隷にせんとするものなりと論じ、その肉を裂き、その骨をくだくべしとまで痛言極論し、喧々囂々を極む。(釈尾東邦著『朝鮮併合史』)(前掲書から孫引き) 韓国人の圧倒的大多数が合併に反対だったことが見て取れます。

韓国内の識字率について



Q 植民地時代に総督府が韓国民の教育に力を入れていた。その証拠に韓国に帝国大学を作った。

A 1930年に行われた統計調査によると、文字理解者は22.3%となっています。あとの77.7%は文盲者です。とくに女性に関して言うのならば文盲率92%、男性の場合は63・9%。1936年の学齢児童の就学率は25%というデーターでています。(参考文献 姜在彦著「日本による朝鮮支配の40年」)とてもじゃないけど、威張れる数字じゃないですね。日本の植民地時代には義務教育が行われていませんでした。だから、教育に力を入れるはずはないです。さらに京城帝国大学は在留邦人のために作られたのであり、韓国人のために作られたのではない。
その証拠として、入試は日本語で行われたので韓国人にとって狭き門となった。 40万人いたと言われる居留民に310名、2000万人いると言われた韓国人はわずか190名しか、帝大予科に合格していません。これを見てもよく理解できると思います。

韓国内の衛生状態について



Q 植民地時代に総督府が衛生や医療面に力を入れましたか?

A(朝鮮において)伝染病死亡者の患者数に対する100分率はが37年度内地人13.3%に対し朝鮮人30.5%を示しているのは、衛生状態の格段の差を示している。(家永著「太平洋戦争」)

『一群平均一つにも満たない(1920年代朝鮮の府群島数は合計232)。医師不足も続き、1938年でも医師のいない面(日本の町村に相当)が3分の2にのぼり、都市部と農村部の格差も激しい。さらに健康保険制度がなく医療費が自己負担だったという経済的要因も作用して、都市部に住む中産階級以上でなければ、病院の利用は困難だった。

朝鮮総督府の統計資料

人口千人当たり、日本人が294人、朝鮮人の男性が8.03人、朝鮮人の女性4.36人。つまり、朝鮮人の全てが恩恵を受けていたわけでなく、民族格差、階級格差、都市・農村格差、男女格差が非常に大きかった。。(参考図書 水野直樹他とふたり編「日本の植民地支配」)』

ハングル文字の普及



Q 朝鮮総督府はハングル文字の普及等に力を入れていた。

A 矢内原忠雄著『植民地及び植民地政策』で「私は朝鮮普通学校の授業を参観し朝鮮人教師が朝鮮人の児童に対し日本語を以て日本歴史を教授するを見、心中涙を禁じえなかった」

「東亜日報」が1927年2月8〜11日に連載した金振国「普通教育の内容」

「今日の普通学校は日語全盛、日語万能である。日語至尊によって朝鮮語を圧迫する、必ず日語を使わなければならない。質問も日語でなければならない。朝鮮人先生にも日語話さなければならない。甚だしい場合は、朝鮮語一回使えば、『罰金一銭也』の取締法を作る怪行も一再ならずある」(姜在彦著「日本による朝鮮支配の40年」)

植民地時代に学校の先生であった池田さんの証言(田中著「ドキュメンタリー昭和天皇」)

朝鮮語の授業は禁止されていました。朝鮮の子供たちでも朝鮮語を使うことは本当にありませんでした。ただ子供ですから、ついうっかりと使ってしまうということもありましたが、そういうときには、日本人の教師より朝鮮人の教師のほうが厳しく注意していたようです。それは朝鮮の子供たちを日本(人)から守るためだったんですね。撲る、なんていうことはそれは日常茶飯事でした。芳山のときは、朝鮮語を使ったときにはどうするかは各クラスにまかされていましたが、クラス全員が1週間、朝鮮語を使わなかったと朝礼で誉められたこともありました。

そして朝鮮総督府関係機関に勤務していた朝鮮人に家庭に帰っても日本語の使用を命じました。

1942年、朝鮮語学会事件がおこり、朝鮮語学会を日本警察が急襲し、朝鮮語辞書編纂のために原稿を全て没収しました。警察は学会は独立団体を偽装していたと難癖をつけたからです。 どうみても、日本が韓国にハングルを普及させたものではないですね。

1910年7月、日本の息がかかった官公立、81校、準公立が65校、私立、2259校、そのうち、ミッション系が813高。圧倒的に、私立が多いのを見ても分るとおり、ハングルが普及したのは草の根的な愛国啓蒙運動のおかげでしょう。

伊藤博文について



Q 伊藤博文は合併反対論者だったのに、安重根が暗殺をしたために、韓国が併合されてしまった。

A 『伊藤博文伝』によると、1909年4月10日、桂首相と小村外相が上京中の伊藤を訪れ、おそるおそる「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策がなかる事由を陳述」した。すると「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明した」。そればかりか、桂、小村が提示した「併合の方針」についても、「その大綱を是認」した、という。
 保護国論から併合論への改宗である。それから2週間後に東京上野の精養軒で開かれた、京城日報社主宰の韓国紳士日本観光団歓迎会での演説でも、伊藤は「今やまさに協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し、聴衆をおどろかさせた。
 併合論への飛躍は、3年半にわたって統監政治の失敗を自認することである。5月下旬、伊藤は統監の辞表を天皇に提出した。天皇は1度はこれを却下したが、桂首相の奏上をいれて聴許した。
 6月14日付けで4度目の枢密院議長に転じた伊藤は、事務をひきつぎのため、7月1日大磯の自宅を立ち韓国へ渡った。漢城滞在中、自ら指揮して「韓国司法及び監獄事務委託に関する覚書」調印(7月12日)と韓国軍部(軍事省)廃止勅令公布(7月31日)をおこなわせた。韓国の司法・監獄事務の日本への委託は、伊藤が韓国の法治国家化をめざすておこなってきた政策を放棄して、韓国の法権を奪うことを意味する。これにより韓国法部(法務省)は廃止され、かわってあらたに設置された統監府司法庁・裁判所・監獄が法権を行使することになる。また、軍隊解散によって皇居警衛の歩兵1個大隊、騎兵1個中隊しか現存しない韓国軍隊の現状からして不必要な軍部は廃止され、新衛府を新設された。
 こうして伊藤は、つみあげてきた保護国構想を自らの手で壊し、併合への道を掃き清めて韓国を去った。(海野福寿著「韓国併合」 P207〜8」)