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  押戸石の丘   


  一村一博自由塾研究員)     入口紀男(熊本大学名誉教授)

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要約

 熊本県阿蘇郡南小国(みなみおぐに)町に「押戸石(押戸ノ石、おしといし、おしとのいし、おしどいし)」と呼ばれる巨石群の丘がある。この丘は、阿蘇が造った自然の美しい造形である。遠くにひろがる景観も美しい。
 巨石群は、その配置から自然に配置されたものである。人工的な列石遺構(ストン・サークル)ではない。
 巨石の表面には無数の亀裂模様や浸食模様が見られる。人為的なペトログラフ(岩刻文字)は、この押戸石の丘のどこにも刻まれていない。


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Google 地図 (Google.com)の 押戸石の丘
所在地と石群の航空写真を表示 (クリック ↑)



写真1


【図 1】押戸石の巨石群
周囲が15メートルを超えるものもある。
 


【趣旨】

 熊本県阿蘇郡南小国(みなみおぐに)町の森の奥に「押戸石(押戸石、おしとのいし、おしどいし)」の丘(標高845メートル)がある。この丘の頂上付近にその巨石群がある。「鬼あるいはおしと(おしひと、巨人)が夜な夜ないしなご(お手玉)をして遊んだ」という言い伝えがある。最大の石は「太陽石」と呼ばれ、周囲が約15メートルである。この丘の巨石群は、その巨石の配置が直線状に並ぶなど、大変美しい。【図 1】と【図 2】などがその写真である。
 どの大岩にも約4,000年前のシュメール文字などのペトログラフ(岩刻文字)は刻まれていない。日本ペトログラフ協会も、この丘のどこにも約4,000年前のシュメール文字などを発見できていない。

【所在地】

 押戸石の丘は、熊本県阿蘇郡南小国町大字中原地区にある。
写真2


【図 2】直線状に並ぶ巨石群



 阿蘇のカルデラの中を東西に走る国道57号線から国道212号線に入る。約10キロメートル北上すると、標高936メートルの「大観峰(だいかんぼう)」の近くに至る。そこからさらに6キロメートル北上して左折し、南小国のマゼノミステリーロードを西へ約2キロメートル進むと、阿蘇郡南小国町大字中原地区のマゼノ渓谷のあたりの左手に押戸石へ向かう小道が見える。車一台がやっと進める細い山道である。1.5キロメートルほど進むと小さな広場で行き止まる。右の背後に見える小高い山が押戸石の丘である。
 押戸石の丘は、車止めのふもとから普通に歩いて登れる距離にある。登り始めてやがて数分で押戸石の巨石群が見え始める。

【周囲の景観は美しい】

 この丘から遠くにひろがる360度のパノラマは、まさに絶景である。北東の遠くに標高1,791メートルの「九重中岳」や1,787メートルの「九重山」、またその西側に「小国富士」としてそびえる「湧蓋山」(わいたさん)、南の遠くに阿蘇の「外輪山」や「根子岳」が望まれ、本当に美しい。近くにはマゼノ渓谷がある。一枚岩の上を清流が流れ、中原川の源流となっている。

写真3


【図 3】各巨石の層理はおよそ一致する。 



【自然の造形である】

「阿蘇火山」とは、現在も噴火を続ける中岳だけでなく、広大なカルデラと外輪山を含む全体の総称である。過去30万年の間に4回の巨大噴火を起こしている。特に約9万年前の最後(第4回目)の巨大噴火は最大規模であり、それによって現在に近いカルデラが形成された。阿蘇火山の噴火は、より古くは豊後(ぶんご)火山活動といって、主に現在の阿蘇の東側で粘度の高い流紋岩(りゅうもんがん)という岩質のマグマを放出していた。更に古くは豊肥(ほうひ)火山活動といって国東半島から島原半島までの広い地域で主に安山岩(あんざんがん)という岩質のマグマを放出していた。豊後火山活動と豊肥火山活動は総称して先阿蘇(せんあそ)火山活動と呼ばれる。
 現在の外輪山と、カルデラを見下ろす大観峰など、その周辺に露出して見られる岩石は、主に先阿蘇火山活動でできた安山岩と、その後のカルデラ噴火によって堆積した凝灰岩あるいは溶結凝灰岩でできている。約9万年前の最後の巨大噴火のとき、火山灰は朝鮮半島・北海道・サハリンに達した。そのとき溶結凝灰岩に覆われた地域は、溶岩台地となって現在も九州の半分近くに分布している。
 押戸石の巨石群も、前記先阿蘇火山活動で放出された安山岩でできている。安山岩のマグマはやや粘度が高く、溶岩流は層状にゆっくりと流れたものと考えられる。
 先阿蘇火山活動でできた安山岩の広大な台地は、その後のカルデラ噴火によって凝灰岩や溶結凝灰岩に広く覆われたが、凝灰岩や溶結凝灰岩は、安山岩よりも早く風化侵食されやすく、礫、砂、泥などの粒子となり、南小国を含む九州中央部の広範囲にわたって現在の豊かな地表を形成している。
 押戸石の丘の巨石群も、安山岩のマグマがゆっくりと流れてできたものである。広大な安山岩の台地は、その上に凝灰岩や溶結凝灰岩が堆積したが、押戸石の巨石群は、造山活動に伴う強大な褶曲作用によって岩盤が傾いたり、強く押し上げられるなどして割れ目を生じ、凝灰岩や溶結凝灰岩が早く風化侵食されて行く中で、地下の比較的硬質の安山岩がその姿を地表に現わしたものである。そのとき安山岩は直線状に並んだり、環状に並んだりしやすい。
 すなわち、広大な岩盤が褶曲作用の局所的な力によって山上で二枚に割れると、地中の安山岩の層はその割れ目に沿って直線状に近い形で地上に露出する。また、岩盤が一点で鋭く押し上げられたり一点で鋭く陥没したりすると、地中の安山岩はその一点の周囲に環状に近い形で地上に露出する。押戸石の巨石群は、そのようにして比較的硬質の安山岩がその姿をやや直線状に、あるいはやや環状に地上に露出し、風化浸食を経て現在に姿を残したものである。
 押戸石の巨石群は、いずれの巨石も安山岩の層(レイヤー)の構造(層理)が詳細に見て取れる。その層理は比較的に規則正しく、これはマグマの流れがゆっくりと冷えて層状構造をなしたものである。【図 3】に示すように、直線状に並ぶ巨石群はレイヤー面の方向がいずれの巨石もおよそ一致している。これも、地中の安山岩が岩盤の割れ目に沿って直線状に地表に露出し、風化浸食の中でその姿を現在に残したためである。
 以上申し述べたように、この巨石群は、造山活動に伴う褶曲作用の強大な力によって地中の安山岩の層が直線状に近い形状で地表に露出され、あるいは局所的には環状に近い形状で地表に露出され、長い年月をかけて風化浸食されてその姿を現在に残したものである。
 押戸石の巨石群について、それを人工的な環状列石遺構(ストン・サークル)とする科学的な根拠は存在しない。仮に人工的であると証明するには、たとえば英国の「ストーンヘンジ」のように、「自然には配置され得ない」ことが科学的に証明されなければならないからである。押戸石を先史時代の人々が祭祀の対象とし得たことは想像することができる。しかし、巨石群が人工的に配置されたことの根拠はない。
 ユネスコや、アメリカやカナダの学会が、この巨石群があたかも先史時代の巨石文化遺跡であるかのように認証した事実はない。ニューヨーク州立大学にライル・ボルストという原子炉物理学者は在籍していたが(Lyle B. Borst 1912生‐2002没)、その原子炉物理学者も、この巨石群についてあたかも人工的に配置された遺構であると確認したかのような学術論文を何ら残していない。
 押戸石の丘の巨石群は、これまで述べたように、阿蘇の豊かな自然がつくった、また阿蘇の過酷な自然がつくった美しい造形である。

【古代人のペトログラフ(岩刻文字)は刻まれていない】

 結論を先に言うと、押戸石の巨石表面の浸食模様は、すべて野ざらし雨ざらしの中で数年のうちに浸食されて変化し、出来たり消えたりしているので、「平成」以降にできたことが証明される。古代人が彫った絵文字ではない。まして約4,000年前のシュメル文字などのペトログラフ(岩刻文字)は、この押戸石の丘のどこにも刻まれていない。
 一般に文字は絵文字から発展したものと信じられているが、世界で最初に文字が発明されたメソポタミアでは事情はやや異なっていた。今から約6,000年前の古代メソポタミアには「トークン」(token)と呼ばれる1~3センチの硬い粘土片があった。


約4,000年前のシュメル文字とは

ワイン  karanu (ワイン) 
リング  unqu (指輪) 
南小国

みなみおぐにまち
(現代の日本語を楔形文字で記したもの)


【図 4】このようなシュメル文字はどこにも刻まれていない。


 トークンは一定の形をした印鑑のようなもので、それを柔らかい粘土板に押し付けると文字ができる。粘土はメソポタミア地方で豊富に採れた。そのようにして古代メソポタミアではトークンが文明の記録を担っていた。その形をまねて柔らかい粘土板に刻んだものが絵文字に近い「古拙(こせつ)ウルク文字」であった。古拙ウルク文字が使われたのは今から約5,200年前のことであった。
 葦の硬い茎を削って先端を柔らかい粘土板に斜めに押し付けると、その跡の一つひとつはくさび(楔)の形になる。シュメル人によってその楔形を用いて今から約4,700年前に「楔形文字(せっけいもじ)」が発明された(【図 4】)。くさび(楔)の形をした一つ一つの要素は、漢字の画(かく)に当たる。楔形文字の方が古拙ウルク文字よりも書くのにはるかに容易であった。当時の楔形文字は約600文字しかなく(現代日本の漢字の数よりも少なくて)学びやすく、そのようにして今から約4,400年前のシュメルの都市国家では、完成した楔形文字が使われていた。シュメルの楔形文字は、約4,300年前にオリエント世界の共通文字として使われるようになり、パレスチナや遠くエジプトにまで広まった。シュメルには楔形文字の読み書きなどを教える学校や図書館もあった。楔形文字は日本語によく似ていて、漢字のように意味を表す表意文字や、かなのように発音を表す表音文字もある。漢字かな交じりのように混ぜて用いられた。音読みと訓読みがあって送りがなもふられた。シュメルはウル第3王朝(BC 2,113-BC 2,006)の興隆期を最後に滅亡した。今から約4,000年前のことであった。

写真5


【図 5】「鏡石」にも浸食痕が多い。 



 筆者らは押戸石の丘を訪ねるたびに、何かペトログラフらしいものはないかと毎回探した。その理由は、この押戸石の丘に古代の楔形文字や古拙ウルク文字など、何か古代文字と関連があるものが見つかるほうが、夢とロマンがあるからであった。しかし、すべての浸食模様がここ数年で消えてしまった。また、別の箇所に、これといった説明のつかない浸食模様が新しくできたが、それらも消えてしまった。
 巨石群の中に「鏡石」と呼ばれる巨石がある。その西南面に、牛の頭部のような浸食模様がある。写真【図 5】と【図 6】、【図 7】がその巨石である。その模様のすぐ傍に蛇のような浸食模様もある。いずれも、自然の浸食痕であろうと思われるが、「平成」になってから人為的に彫られたという風説も存在しており、その真偽のほどは分からない。

写真6


【図 6】「鏡石」の模様の位置 



【図 6】の写真は、その位置を特定するための写真である。【図 7】は、2007年(平成19年)9月に撮影した写真である。筆者らは2015年(平成27年)10月にも現地で確認したが、数年でそれらの模様もほとんど消えかかっていた。それらも、浸食痕であれ、人為的なものであれ、「平成」になってからできたものと断定される。
 押戸石の巨石表面の浸食模様は、すべて野ざらし雨ざらしの中で数年のうちに浸食されて変化し、出来たり消えたりしているので、「平成」以降にできたことが証明される。古代人が彫った絵文字ではない。まして約4,000年前のシュメル文字などのペトログラフ(岩刻文字)は、前記の鏡石にもまたこの押戸石の丘のどこにも刻まれていない。


写真7


【図 7】「鏡石」の模様
(2007年9月撮影)
 


 押戸石の巨石群は、風化侵食作用によって表面はぼろぼろに粗く、脆弱である。いずれの巨岩も1,000年を超えて現在の形を正確にとどめるものではない。


写真8


【図 8】安山岩のかけらが無数に散らばる。 


 特に表面に近い部分はもろくて風化が早い。表面には、亀裂や、酸性雨による酸化や溶解、暴風雨、乾燥、夏の強い日照り、紫外線、吹雪、0℃以下の氷結による急激な体積の膨張と破砕、日中の解凍、砂塵、日夜と夏冬の激しい温度差、頻繁な落雷などによって無数の浸食模様がある。表面の侵食摸様は、とても100年にわたってその形を正確にとどめるものではない。
 押戸石の巨石群の周辺には、【図 8】の写真に示すように安山岩が壊れたかけらが無数に散らばり、埋もれている。それらは、おそらくある時期までは一定の形状の巨石をなしていたであろう。それらのかけらを幾つか拾い上げてみると、岩石というにはややもろく、指で壊れることがあり、また両手で持って打つとたやすく破砕されてしまう。自然の力は、これを恐るべし。仮にこの丘全体が風雨によって 1 年間にわずか 5 ミリずつ侵食されるとしても、4,000年の間には20メートルも侵食されてしまう。  

写真9


【図 9】(引用写真)
吉田信啓著『ペトログラフ・ハンドブック』
(中央アート出版社)1994年初刊
 

 日本ペトログラフ協会の会長吉田信啓著『ペトログラフ・ハンドブック』(中央アート出版社)は1994年の初刊である。その中に押戸石巨石群について「(ケルトの)ベル神と弓を持つ人像」(引用写真【図 9】)が紹介されている。しかし、2007年にその現物である巨岩を微に入り細にわたって調べてみたが、【図 10】の写真に示すように、風化によってもうほとんど存在していなかった。わずか10年程度の侵食作用によってほとんど消えてしまったのである。筆者らは2015年(平成27年)10月に現地で再確認したが、完全に消えていた。

写真10


【図 10】吉田信啓の「ベル神と弓を持つ人像」は
風化されて2007年にはほとんど消失している。
 



 以上申し述べたように、押戸石の丘にペトログラフ(岩刻文字)は刻まれていない。



【巨石は落雷で着磁している】

 巨石の一つに「祭壇石」と呼ばれる岩がある(【図 11】)。「太陽石」と呼ばれる最大の石もそうであるが、ほとんどの岩は強く磁化されている。太陽石も祭壇石も表面に幾つものくぼみがあり、幾つもの亀裂が走る。方位磁石を表面に近づけると、場所によって磁針の振れが大きく変化する。それも決して神がかりな「磁気異常」などということではない。
 これらの石は、安山岩として比較的多くの酸化鉄(磁鉄鉱)を含み、強い磁性とやや導電性がある。このように高台に露出した岩石は避雷針のように落雷を受けやすく、落雷によって亀裂模様が刻まれたり磁化したりして当然である。


写真11


【図 11】落雷によって着磁した岩石 


 これらの石は、幾度となく落雷を受け、地中の正電荷がこの石から空中の負電荷に向けて大電流となって放たれることを繰り返したものである。表面の多くのくぼみや側面の多くの亀裂はその痕跡である。また、落雷時の大電流の周りにはアンペアの右ねじの法則にしたがって強大な磁界が出現し、酸化鉄の成分は、加熱された状態からキュリー点(磁化変性温度)を通過して冷却されるときに、磁化の方向が固定され、その結果、表面に磁気的なまだら模様ができたものである。

【最後に】

 地域の夢とロマンは大切にされなければならないが、約4,000年前のシュメール文字がないのに、町おこしや周囲の団体の利権に都合が良いからという理由で、実際それらがあるかのように偽装されると、せっかくの夢とロマンも台なしである。押戸石の丘を訪れる観光客や子どもたちはそれらの偽装の手から守られなければならないであろう。
 この押戸石の丘に古代のペトログラフ(岩刻文字)は存在しない。この押戸石の丘に人工の環状列石(ストン・サークル)は存在しない。
 この丘の周囲に住む人びとは、遠い昔からつつましく道徳的に生きてきた。この丘の巨石群は、阿蘇の豊かな自然が造った美しい造形である。そして阿蘇の過酷な自然が造った美しい造形である。遠くにひろがる景観も本当に美しい。ただそれだけで、世界に誇り得る優れた観光資源である。


結論

  1. 熊本県阿蘇郡南小国(みなみおぐに)町の森の奥に「押戸石」と呼ばれる巨石群の丘がある。
  2. 巨石群は、人工的に配置された列石遺構(ストン・サークル)ではない。
  3. 自然な亀裂や落雷痕、また、表面に平成以降にできたと思われる浸食模様は見られるが、4,000年前のシュメル文字などのペトログラフ(岩刻文字)は、楔形文字であれ古拙ウルク文字であれ、どこにも刻まれていない。
  4. 巨石群は落雷で至るところ着磁しており、それも神がかりな「磁気異常」などということではない。
  5. この丘は、阿蘇の豊かな自然が造った、そして過酷な自然が造った、美しい造形である。遠くにひろがる景観も本当に美しい。ただそれだけで、世界に誇り得る優れた観光資源である。