自 然 科 学 と 技 術

ホームへ 目次の分離 更新情報 (最終更新日:2012/04/17 )


  1. 下層無 建設業の恐るべき実態
    日本の建設技術の実態を解説。
  2. 下層無 耐震強度偽装問題
    耐震強度偽装や耐震技術などについて解説。
  3. 下層無 原発不要論
    原発推進派の嘘と詭弁を暴く。
  4. 開閉 ピラミッドの謎を解く
    世界七不思議の一つである古代建造物ピラミッド。建設会社元社員の知識で謎を明かす。
    1. 下層無 仁徳天皇陵との比較
    2. 下層無 何が謎なのか
    3. 下層無 四角錐の意味(世界各地にピラミッドがあるのはなぜ)
    4. 下層無 ピラミッドの作り方
    5. 下層無 ピラミッドパワーは存在するか
  5. 開閉 技術亡国
    日本の科学技術が「技術立国」ならぬ「技術亡国」だという恐るべき実態を暴いた衝撃作
    1. 開閉 理念なき宇宙開発
      1. 開閉 競争力で劣る要因
        1. 下層無 非軍事の原則
        2. 下層無 高過ぎる射場の緯度
        3. 下層無 単独開発による過度な負担
      2. 下層無 乏しいリターン
      3. 下層無 中途半端な研究開発費
      4. 下層無 規模のメリット
      5. 下層無 不明確な目的意識
      6. 下層無 各国の思惑と日本の取るべき道
    2. 開閉 東京スカイツリーの無意味な高さ
      1. 下層無 世界一が目的か
      2. 下層無 高さは性能ではない
      3. 下層無 嘘臭い世界一
      4. 下層無 高さのための高さ
      5. 下層無 技術の限界と実用の限界
    3. 開閉 島国の鉄道技術
      1. 下層無 世界で苦戦する日本の鉄道技術
      2. 下層無 ガラパゴス技術
      3. 下層無 軌間論争の停滞
      4. 下層無 新幹線は無事故で当たり前
      5. 下層無 北海道新幹線の課題
    4. 開閉 日本の技術が過大評価される理由
    5. 開閉 夢想家と御用学者
    6. 開閉 脱工業化

建設業の恐るべき実態(他ページ)

 上記タイトルをクリックすると当サイト内の「建設業の恐るべき実態」のページに飛びます。

耐震強度偽装問題(他ページ)

 上記タイトルをクリックすると当サイト内の「耐震強度偽装問題」のページに飛びます。

原発不要論(他ページ)

 上記タイトルをクリックすると当サイト内の「原発不要論」のページに飛びます。

ピラミッドの謎を解く

仁徳天皇陵との比較

 秦の始皇帝の墓、ピラミッド、仁徳陵古墳(大仙古墳)が世界三大墳墓とされる
 教科書で仁徳天皇陵とピラミッドを比較した図を見た人は多いだろう。平面では仁徳天皇陵の方が広いが、立体的に見るとどうか。堺市のデジタル古墳百科に分かり易い三次元表示がある。
三次元表示による三大墳墓の比較
仁徳天皇陵140万m3高さ35m
クフ王ピラミッド260万m3高さ146.6m
秦始皇帝墓300万m3高さ76m
 仁徳天皇陵については中央本体、水面上の体積を表示している。
 単に土を盛っただけの高さ35m程度しかない仁徳天皇陵に対して巨石を積み上げた高さ146.6mのクフ王ピラミッドではまるで話にならない。
 しかも仁徳天皇陵の建造時期が5世紀前半と考えられるが、クフ王ピラミッドの建造時期は約4千年前と考えられており、大きさも古さも全く違う。  

何が謎なのか

 エジプトのピラミッドは紀元前数千年前に建造され、大きい物で高さ百数十メートルもある巨大建造物だ。
 世界の七不思議の一つとされているが、世界の七不思議という言葉の本来の意味は「とても素晴らしい」というような意味であり「当時の科学技術では建設不可能」という意味ではない。
 この建造物の何を不思議と感じるかは人によるだろうが、大きく分けて次の三つが多いようだ。

@数千年も前の古い年代に百数十mもあるような巨大建造物をどうやって建設できたのか。
Aエジプトのピラミッドは一体何の目的で作られたのか。
Bビラミッドは世界各地で発見されピラミッドパワーなるものが宣伝された事もあるが、各地のピラミッドの関連性とピラミッドパワーの是非。

 このうち@とBを中心に謎を解いていく。

四角錐の意味(世界各地にピラミッドがあるのはなぜ)

 ピラミッドの様な四角錐状の建造物はエジプトや中南米をはじめ世界各地に存在する。
 これを根拠に、エジプト文明以前から存在する超古代の超ハイテク技術を持った文明を起源とする人々により 大西洋を挟みエジプトとアメリカ大陸の両方に高度な文明が伝えられたという説が一時流行した。
 また、「ピラミッドには特別な力がある。だから世界各地でピラミッド状の建造物が発見される」という意見もある。

 これに対する答えは実に簡単で、四角錐状にした理由は恐らく高い物を造りたかったのだろう。
 当時の技術では四角錐の建造物が最も造り易くて安定していた。四角錐の体積は同じ底面を持った直方体の三分の一だ。材料は直方体の三分の一で済む。上に行くほど小さくなるので労力は直方体を作る場合の三分の一よりずっと少なくて済む。
 素人目にも分かるだろうが鉛直の壁を持った同じ高さの構造物より上に行くほど小さくなる方が安定する。

 構造力学的には最良の形ではない。同じ底面と同じ高さであれば円錐形の方が安定する。またエッフェル塔の様に鋼材をリベットで固定する方式では上に行くほど傾斜が急になり材料は節約できる。
 但し、単なる石積みなので当時の技術では円錐形に施工するの困難だっただろうし、まして上に行くほど急傾斜にするのは材料を節約できるにしても構造的に難が発生し易い。

 ピラミッドといってもエジプトでも中南米の階段ピラミッド、屈折ピラミッド、ほぼ正確な四角錐ピラミッドなどがあり傾斜も様式も様々だ。

 結論としては四角錐になったのは特に誰かを真似た訳でも形に信仰があった訳でもなく、たまたま当時の技術で合理的に高層建築を建てると同じ様な形になっただけだろう。

ピラミッドの作り方

 恐らくピラミッドの原点はマスタバというほぼ直方体(壁に急な傾斜があり正確に言うと直方体ではない)の墓だ。高さは10m程度だが、これなら古代技術でも造れる。マスタバの上に少し面積が小さいマスタバを建てるのはさほど難しくない。一回り面積が小さいマスタバを繰り返して出来たのが階段ピラミッドだ。
 1段を無理のない高さに設定して、積み上げていけば古代の技術でも高い物を作る事自体はさほど難しくない。木造の場合はそうはいかないが、石の場合ただひたすら積み重ねていけばよいだけなので手間と金さえかければ幾らでもと言うと語弊があるが、古代の技術でも相当高い物を造る事は可能だ。
 ちなみに今の技術なら千m位は問題なく造れるし、2千mも恐らく可能だ。
 古代技術でも高さ150m近いピラミッド建設が可能な事は分かったと思うが、これで技術的問題が解決という訳ではない。1辺数メートルの巨石をどう運んだのか。
 この答えは下記のサイトにある。
手作りの世界史実物教材 クレードル(ピラミッドの石を運ぶ道具)
クレードル模型 クレードルのセット クレードルでの運搬
 左上の図にある円弧と直線で囲まれたソリみたいな形の物体はピラミッドの石の運搬に使ったクレードルという道具だ。一つが円周の四分の一になっている。
 これを石の四辺に取り付けて囲み接地面を円形にして転がした。
 古代人の知恵には脱帽するが、この様に案外素朴で簡単な方法の積み重ねで効率よく建設したのだろう。

 という訳で超古代のハイテク文明説や異星人飛来説に頼る必要は全くない。ごく自然のありふれた原理を使ったと思われる。

ピラミッドパワーは存在するか

 ピラミッドの形状には特殊な力が宿るという説がある。四辺を東西南北正確に揃えると効果が大きいとも言われる。エジプトのピラミッド内で動物の死体が腐り難い傾向が発見された事が発端らしい。ピラミッドパワーなるものが存在するのか検証する。
 実際にエジプトのピラミッドには体内を活性化させたり精神に影響を与えたりする作用があるらしい。
 しかし、この形状が特殊なパワーをもたらすのかは疑わしい。今のところ確かな実証実験は行われていないようだ。
 早稲田大学の吉村作治氏によると、ピラミッドパワーはピラミッドに使われている石が磁性体であるために磁場が生じて起こる現象であり四角錐の形状には関係ないそうだ。他にも巨大な建造物の重量により重力に局地的な歪が生じた結果だかという説もある。あるいは気候などが関係しているのかもしれない。

 私の個人的見解としては既に述べた通り四角錐という形状は当時の技術で建て易かっただけで特に意味はないと思うが、効果がないと決め付けるのも夢がないので興味のある方は実際にピラミッド型の模型を作って実験してみてはいかがか。単に軸組みだけでも良いらしい。
 数万円もする商材を買って試すのはもったいないので、紙で作った模型に食品を入れておくとか、棒状の物を組み合わせてピラミッドの骨格を作り中で瞑想してみてもよいかと思う。


技術亡国

 日本を技術立国や技術王国などと称して得意になっている日本人が少なからず存在するが、愚かな幻想に過ぎず実態は物真似立国または技術亡国とでも呼ぶのが相応しい。
 これに対して、「お前はそれでも日本人か」と激怒する人がいるかもしれないが、私は日本が憎くて言っているのではない。日本の科学技術のお粗末な実態を知らないと日本人が困る。巨大橋の建設や宇宙開発の莫大な費用は韓国人や中国人が負担してくれる訳ではない。無駄な技術開発は国家の滅亡に繋がりかねない。
 教育も基礎研究の分野で力を発揮できる人材を作り出せないシステムになっている。応用技術が優れているといっても、所詮は基礎研究がお粗末なので欧米の物真似に過ぎない。過去の成功に安住してしまい、独創的で個性的な人材を輩出しようとしない。
 また、原子力発電などの巨大技術は一歩間違うと日本だけでなく世界を吹き飛ばしかねない。
 逆に、食品や工業製品などの危険を強調する人の中には、大した根拠も無く危険性を感情的に煽り立てる人や騒ぐ事で利益を得ようとしているのではないかと思われる人も見受けられる。日本の技術を低く評価したり貶したりする人が偉い訳でも無い。
 とにかく、日本では、ただ誉めるだけ、ただ貶すだけといった客観性に乏しい感情論が台頭しがちだ。どちらがよりましという事はなく、どちらも好ましくない。
 本書は、日本の科学技術に対して感情を一切排除して、客観的判断を行う。

理念なき宇宙開発

競争力で劣る要因

●非軍事の原則
 ロケットの歴史は古く元の時代には既にモンゴル軍が兵器として使っていた。
 宇宙開発の歴史も軍事が起源だ。宇宙ロケットは戦前、既にナチスドイツが打ち上げに成功し、第二次世界大戦中にドイツは大陸間弾道弾を英国に打ち込んだ。
 現在でも軍事が多くの国で最も関心の高い分野だからこそ、米国、ロシア、欧州諸国のみならず、中国、韓国、更にはインドなどアジアの発展途上国や経済的困窮状態にある北朝鮮までが続々と宇宙開発事業に取り組んでいる。
 その点、建前として宇宙開発を(原則として)軍事利用しない方針の日本の宇宙開発は非常に苦しい。
 過去も現在もそうだが、宇宙開発に取り組んでいる各国が極めて過酷な負担に耐えられるのは国土の防衛に使われているという安心感があるからだ。
 また、NASAなどの団体が軍事技術に貢献すると同時にその団体も例えば空軍による機材回収など軍の援助を受けられるため互いの負担を減らせる相乗効果がある。
 軍事と切り離した時点で日本の宇宙開発は他国と比べて競争力が劣り存在意義が著しく低くならざるを得ない。
●高過ぎる射場の緯度
 日本のロケット発射台は北緯30°の種子島にある。
 ロケットの種類にもよるが、例えば衛星は赤道上に打ち上げるので赤道直下から打ち上げた方が効率的だ。
 欧州やロシアの発射台は赤道上にある。
 種子島に射場のある日本はコストが1.5倍にもなるという報告がある。
 これで外国との競争に勝てる訳がない。
 それにしても日本国内でさえ種子島より緯度の低い場所は例えば沖縄など幾らでもある。
 射場が建設された頃は沖縄が返還されていなかったという事情があるにせよ返還されたのは1972年で随分前なのに、なぜ種子島にこだわるのだろうか。
 また、何か変な利権でもあるのだろうか。
●単独開発による過度な負担
「細切れ」、「ばら撒き」、「縦割り行政」などの弊害は日本の研究開発によくみられるが、宇宙開発がその典型だ。
 かつては文部省と科学技術庁で別々に宇宙開発を進め互いの連携もないという非常に無駄な事をしていた。さすがにこれは改められ文部科学省に管轄が統合されたが、国際的な連携についてはまだまだ不十分だ。
 現在、日本はほぼ単独で宇宙開発を進めている。
 欧州連合の宇宙開発費は日本の約2倍と言われるが、17か国が共同で出資しているので一国辺りの負担は日本の十分の一程度に過ぎない。(費用については後で詳しく述べる)
 エアバスの例でもわかる通り今やドイツ、イギリス、フランスなど欧州を代表する先進国でさえ航空宇宙分野での単独開発は困難だ。
 単独で開発競争に耐えうるのは米国だけだ。
 日本も他国と共同開発する必要がある。

乏しいリターン

 日本の宇宙開発は直接的なリターンが現状では殆どないという大きなハンディがある。

「競争力で劣る要因」で説明した通り、日本では宇宙開発は軍事抜きが建前だ。従って日本の宇宙開発は軍事(航空自衛隊)に貢献しない。 軍事を宇宙開発の最大の目的とする国が多い中で、これは極めて不利な条件だ。

 次に商業的なリターンだが、これも日本の現状を考えると極めて難しい。
 繰り返しになるが、各国が空軍との協力で開発するのに対して航空自衛隊による協力がない日本は苦しい。

 また、「射場の緯度が高過ぎる」で述べた様に種子島では赤道の1.5倍のコストがかかってしまう。

 更に「単独開発による過度な負担」で述べた様に国際協力が殆どない日本は一国で研究開発費をしているためコスト高になる。

 この様に軍用と商用共にリターンがない事は研究開発費に利益をつぎ込める国と比べて当然ながら不利な要因となる。

中途半端な研究開発費

 Wikipediaによると「宇宙航空研究開発機構(JAXA)の年間予算は2010年に1800億円、人員は約1600名であり、アメリカ航空宇宙局(NASA)の約10分の1、欧州宇宙機関(ESA)の2分の1以下である」。
 これを見ると日本の予算が随分少なく感じるかもしれないが、まずESA参加国は約20か国なので一国辺りの負担は単純に計算すると約10分の1だ。
 NASAの予算がJAXAの十倍近いと言っても米国の経済規模は日本の数倍あるので国家予算に対する負担の割合はせいぜい日本の3倍程度に過ぎない。
 既に述べた通り海外の宇宙開発は軍事と関連が深く防衛も兼ねているので、その分で負担は軽減される。
 また商業的リターンについても既に述べたが欧米では商業分野での運用が実用化しているので商用で稼いだ利益による研究開発の大幅な負担軽減が見込まれる。従って利益をつぎ込める拡大再生産的研究開発が可能だ。
 この様に軍用と商用での大きなリターンが期待される欧米と比べると日本では軍事、商用共にリターンが殆どないので、今後経済が徐々に縮小していく日本は言わば縮小再生産的研究開発を余儀なくされる。
 そもそも宇宙開発予算が日本以上の国は米国だけであり上記の事情を考えると現状の研究開発費の負担は日本にとって決して軽くはない。
 米国に全く勝ち目がないし、欧州と比べると負担が重過ぎる。予算としては最も中途半端で、いかにも日本らしい設定になっている。

規模のメリット

 宇宙開発は既に戦前から実用化されており、とっくに基礎研究ではなくなっている。
 典型的な「経験産業」であり多くのロケットを打ち上げる事が研究上大切でありコスト削減に繋がる。
 しかし、「競争力で劣る要因」で示した3つの要因(「非軍事の原則」、「射場の緯度が高い」、「単独開発による過度な負担」)がいずれもコスト高を招く要因となり外国からの発注がなかなか来ない。
 日本国内の商業的需要は年に数回程度と限られている。
 欧米に対して規模で劣っている日本は規模のメリットが享受できないという悪い循環に陥っている。

不明確な目的意識

 日本の宇宙開発技術の世界一を上げるとすれば「目的意識が最も不明確」という点だ。
 各国が宇宙開発に取り組む主な目的には「軍事」、「商用」、「科学技術の振興」などがある。

 まず軍事についてだが、日本の宇宙開発は軍事に使わないのが原則とされてきたが、2008年には宇宙基本法を成立させ、防衛目的に限り宇宙の軍事利用が行われるようになった。
 私は宇宙技術を軍事に使うのは構わないと思うが、中途半端に認めるのではなく宇宙開発を防衛省の管轄として一元化した方がよいと思う。

 商用については軍事に使わないなら普通はこれが主な目的になりそうな気もするが、日本政府や企業の真剣さが全く伝わらない。
 今まで説明してきた様な事情で欧米には技術で勝てそうな要素はない。インドや中国についても人件費で適わないので負ける可能性もある。
「この程度の研究費にしてはよくやっている」という国内での言い訳にしかならない様な特徴しかない日本の技術を使ってくれる奇特な国や企業はなかなかないだろう。

 それでは科学技術の振興についてはどうか。
 例えば、アポロ計画については素材の技術が「焦げ付かないフライパン」の発明に繋がるという波及効果があった点が強調される。
 しかし、単に科学技術の振興であれば宇宙開発でなくても一向に構わない筈だ。宇宙産業は典型的な経験産業で実用化が進み基礎研究ではなくなっている。単に「焦げ付かないフライパン」を開発するのであればアポロ計画など無くても出来ただろうし、素材の研究に同じ額を使えば遥かに優れた製品が出来ただろう。

各国の思惑と日本の取るべき道

 既に述べた通り世界各国が無理してでもこぞって宇宙開発に精を出すのは軍事が絡んでいるからだ。
 つまり各国の思惑としては「出来るだけ宇宙技術は外国に依存したくない」のだ。
 よほど大きなメリットがない限り日本製のロケットや人工衛星を使わないだろう。

 また商用ロケットに関しても軍事と切り離して考えられない。「軍事的な部門の負担を出来るだけ軽減したい」という軍事の補助的側面もある。という事は商業衛星などの打ち上げにしても研究・実験的な意味合いもあるので大幅な黒字である必要はなく場合によっては多少赤字でも構わない国も多い。
 先進国から北朝鮮、インドまで競争相手が多く言わば過当競争とも言える状況で利益を出す事は極めて難しい。
 商業的運営にしても特に信頼性が高いとか際立って安いなどの特徴がない限り日本製を使ってくれる国はなかなか現れないだろう。

 結論としては軍事が全く絡まないのであれば宇宙開発に取り組む意味がないので即刻撤退すべきだ。
 商用だけに注目し上記の状況を逆に考えると「売りたくて仕方ない国が多いダンピング状態」なので買い手側としては技術がなくても困る事はない。

東京スカイツリーの無意味な高さ

 大学の建築工学科で構造力学を専攻しゼネコンで構造計算を担当した観点から、自立式電波塔として世界一の高さを誇る東京スカイツリーの愚かさを語る。

世界一が目的か

 技術世界一を誇る「お国自慢」は様々な場面で見受けられる。

「中国の超高速鉄道は営業速度世界一」、「日本のスーパーコンピューター『京』は計算速度世界一」などがあるが、私はどちらも高く評価しない。
 まず中国の高速鉄道だが、安全性が低く死傷者が続出している。
 日本のスーパーコンピューター「京」は伝統的な古いソフトで計測した結果が世界一というだけで互換性、汎用性、運用コスト、需要などが省みられていない。
 いずれも速度に関する世界一だが、単に概念が分かり易いというだけだ。

 様々な要素を総合的に勘案した結果として数値が世界一になったのなら評価できるが、最初から面子をかけて素人にも分かり易い部分だけ強調しただけでは誉める気にはならない。

高さは性能ではない

 建物の高さを自慢するのは更に馬鹿らしい。なぜなら、そもそも高さは性能ではないからだ。
 安全性などを犠牲にしたにせよ、鉄道の営業速度や計算機の計算速度などは速いに越した事はないので多少評価できるが、建物が高い事自体にメリットがある訳ではなく、むしろ周辺環境の悪化などデメリットが多い。
 工業製品の大きさ、高さ、重さ、長さといった要素は同じ性能なら出来るだけ小さくしようとするのが普通だ。橋を架けるのに「出来るだけスパンを長くしよう」と考える技術者がいたら愚かだ。
 古い時代に商人などのために高いランドマークタワーを建てたとか権威を示すため高層建築を建てた以外に建造物の極端な高さの実用的意味は乏しくなっている。
 もちろん電波塔は高さが重要だが、あくまで周囲の建物より高い事に実用的意味があるのであって高ければ偉い訳では決してない。
 最も高いビルでも高さ250m程度でしかない東京に世界一高い電波塔が果たして必要なのだろうか。 

嘘臭い世界一

 自立式電波塔世界一なる言葉の「自立式電波塔」の意味は何か。
 わざわざ自立式電波塔という言葉を付けたのは普通のビルと比べて技術的に高くするのが難しいからなのかというと全く逆だ。
 そもそも電波塔というのは高くする事を目的としているので通常の鉄筋(鉄骨)コンクリートビルと比べて高くするのが遥かに容易だ。
 アラブ首長国連邦ドバイにある世界一高い超高層ビル「ブルジュ・ハリーファ」は高さ828.0 mで東京スカイツリーより200m近く高い。
 しつこいようだが、既に述べた通り同じ程度の高さならビルより鉄塔の方が遥かに建築が容易だ。Wikipediaによると建築物としての高さは470.97mに過ぎない。
 巨大電波塔に頼らずとも山の上や衛星から電波を発信する方法もあるし、今ではインターネット放送もある。
 必要性が低下した上に高層化が容易な電波塔という部門で世界一を強調するのは如何わしい気がする。

高さのための高さ

 実用性を求めた結果、高さ世界一になったのなら評価できるが東京スカイツリーのサイトで世界一を狙って無理に高くした事が明かされている。
東京スカイツリーの高さについては、プロジェクト当初から「約610m」としておりましたが、当初から自立式電波塔世界一を検討しており、世界一を目指した範囲を想定して構造等の対応を行ってまいりました。その結果、世界各地で高層建造物が計画、建設されている中で、自立式電波塔として高さ世界一を目指し検討を重ね、634mに最終決定しました。
 当初の610m自体が記録狙いの様だが、計画変更して更に24mも高くした事になる。
 工業製品において「高さ」、「重さ」、「長さ」、「体積」などは出来るだけ小さくするのが常識だ。
 例えば世界最大の旅客機とされるエアバスA380は大型化が目的ではなく多くの旅客を運ぼうとした結果最大になっただけだ。設計者とすれば同じ旅客を運べるのならむしろ小さくしたかっただろう。
 これは我が国における長巨大な橋やトンネルなどについても同じ事が言える。例えば青函トンネルにしても明石海峡大橋にしても「出来るだけ最短ルートにしようと試みたが結果的に世界最大の建造物になってしまった」のであり、もし最初から世界一を狙って意図的に大きくしたのなら愚か過ぎる。

技術の限界と実用の限界

 さて現在の技術ではどの程度の高さまで建てられるのか。
 大手ゼネコン関係者は「2千m程度は可能」と言っているようだが、元ゼネコン社員である私も千mは間違いなく建設できるだろうし2千m級も不可能ではないと見る。
 超高層建築の上位はほぼアジアに集中しているが、それらのビルには空き室率の高い物も目立つ。
 それに対して欧州では経済大国が多く地震が少ないにも関わらず2百mを超す建築は殆どない。景観重視もあるだろうが、高過ぎるとも却って無駄が多いからだろう。
 大都市で高層ビルが多いのは容積率を高めて土地を有効に利用しようとするからだが、あまり高過ぎてもエネルギーや維持補修費などで却って無駄になる。
 大都市においては高さ何百mもの建築がぽつんとあるより2百m前後のビルを多くした方が実用性が高い。

 この様に技術の限界より遥か以前にとっくに実用的限界に達してしまった昨今、やたらと高さを競い合う意識を捨てないと国を滅ぼす事になり兼ねない。

島国の鉄道技術

 新幹線など自慢の鉄道技術を擁しながら国際競争で苦戦する日本。北海道新幹線など国内問題と共に日本の鉄道技術の課題について軌間問題に重点を置き検証する。

世界で苦戦する日本の鉄道技術

 世界各地の高速鉄道計画に対して日本、フランス、ドイツ、中国などによる激しい商戦が展開されているが、日本は大苦戦している。
 日本が受注にこぎつけたのは台湾や英国など一部に限られ、良い所はフランスやドイツに持って行かれる有様だ。
 それどころか日本人が技術的に格下と思い込んでいる中国にさえ受注合戦で苦戦している。 

 技術自体は文句が付け様のないほど素晴らしいが、売り込みが下手なのか。
 それとも実は技術自体に根本的欠陥があるのか検証を進めてみよう。

ガラパゴス技術

 日本の鉄道技術について中国の関係者は「中国の技術は日本の様な島国の技術とは訳が違う」と揶揄する。
 実際、日本が鉄道開発で受注したのは英国や台湾の様な島国が多い。陸地に占める島国の面積は狭いので不利な要素だ。

 これについては不可抗力的要素とも言えるが、地理条件などと無関係に日本人の偏屈さによる面も多分にある。
 後で述べる軌間問題などが典型だ。日本では日本特有の狭軌と世界的標準の標準軌を併用している。このため相互乗り入れが出来ないのだが、その点が大きなハンディとなっている。
 また、新幹線の精密すぎるダイヤや極端に安全性を強調する点も外国の乗客からすると「もっと大雑把でも構わない」のだ。

 世界標準を意識せずユーザーを無視した独善的技術という点では没落しつつある電機業界や建設業界と似たガラパゴス的性質を備えている。

軌間論争の停滞


 軌間(レール幅)については前項で軽く触れたが重要なので特に詳しく検証するが、既に述べた様に世界標準は標準軌の1435mmで大半を占める。
 軌間が共通している方が何かと便利だが、日本で2通りの軌間がある理由は要するに明治政府の中枢が軌間問題をよく理解していなかったため日本特有の狭軌を採用したためだ。
 それについては当時の人が素人だったので仕方ないが、その後、改軌論争が度々発生するものの立ち消えになっている。
 要するに「既に多くの鉄道で導入したので変えるのは面倒だ」という日本的発想だ。
 最近では更に内向きになって軌間問題など全く話題にもならない。それが国内での高コストに繋がると共に前項で述べた様に外国にも進出しづらい大きな要因となっている。

新幹線は無事故で当たり前

 新幹線の売りの一つが安全性だ。「開業以来重大な事故が発生していない」と言われる。
 ただ、とんでもない死亡事故が頻発する中国の鉄道と比べると自慢になるかもしれないが、フランスのTGVやドイツのICEと比べた場合には必ずしも自慢にはならない。
 なぜなら、フランスのTGVなどは専用路線だけでなく一般の鉄道車両と混在して走行する路線もあるからだ。TGVの大事故はいずれも専用路線以外で発生している。
 従って在来線が完全に分離されている環境の新幹線とは状況が全く違う。日本でも新幹線以外の鉄道事故はしばしば発生している。既に述べた様に超高速鉄道を単独で運営したいという国は少ないので鉄道全体として安全かどうかを見なければ無意味だ。

北海道新幹線の課題

 私の地元の北海道にも新幹線が通る計画になっているが、北海道民から積極的な賛成意見を聞いた事が殆どない。
 北海道新幹線については賛成か反対かという単純な二極分化議論になっている。これは多くの事象で見られる日本的対立の構図ではあるが、北海道新幹線問題についてはそれ以外に軌間が重要な意味を持つ。
 人口が5百万人程度に過ぎない北海道に新幹線という超高速鉄道と在来線という妙な呼び方をされる従来の鉄道が配置される事になる。
 同じ種類の乗物でありながら軌間が違うために原理は殆ど同じであるにも関わらず全く別の乗り物として扱わざるを得ない。
「何が何でも北海道新幹線を開通させる」というならせめてこれを機に軌間を統一しようという機運が高まってくれれば良いのだが、そんな雰囲気は全くない。
 青函トンネル内に関しては「軌間論争の停滞」のイラストの様な三線軌条が使われるが、これにしても軌間を統一していれば函館まではとっくに開通出来ただろう。
 新幹線は超高速なので電源方式や路盤の強度や曲率半径などの点で在来鉄道と全く同じ線路を走らせる事は困難だろうが、軌間を揃えていれば特に都市周辺などで大幅なコスト節減が見込めるだけに軌間論争が出てこないのは残念だ。

 結局無駄な事業となってゼネコンを儲けさせるだけではないかと思う。

日本の技術が過大評価される理由

 日本人の中には自国の技術に自惚れる人が多い。その理由について、検証する。

自国の技術に対する自信

 一九九九年九月三十日、茨城県東海村にあるJCOのウラン再転換施設で臨界事故という原子力関連施設としては致命的大事故が発生した。従業員が作業手順を勝手に変更して、手作業による手抜き工事をした事が事故の原因だ。この事故は原子力発電関係の事故としては旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で発生した事故やアメリカのスリーマイル島の原子力発電所事故に次ぐ事故と位置付けられた。
 これまで日本では原子力関連施設の安全性がやたらと喧伝されていた。原子力の危険性を訴える人は非現実的な夢想家として散々馬鹿にされてきたが、現実はこの様にお粗末な有様だ。日本の原子力施設の安全管理体制が低いレベルにある事が白日の下に晒された。
 この事故に対してイギリス人やフランス人からは、「信じられない様なお粗末な事故であり、厳重に管理されている我が国ではこの様な事態は考えられない」という様なコメントがあった。確かに欧米の検査体制は建設工事をはじめ日本より遥かに厳しいようだが、イギリスやフランスの原子力関連施設が絶対に安全だと言い切れるのだろうか。これは自国の技術に対する驕りではないのだろうか。
 実はイギリスでも英国原子燃料会社(BNFL)のセラフィールド事業所で原子力燃料の杜撰な管理が行われていた。朝日新聞社系の週刊誌AERAの2000年4月24日号によると、BNFLのセラフィールド事業所でのMOX燃料工程で抜き取り検査データが捏造されていたそうだ。下手をすると原子力発電所の重大な事故に繋がりかねない致命的なミスが発生していた。この時に製造されていたMOX燃料は三菱重工から発注されていたのだが、このミスは日本側に対してだけではなく、BNFLの社長にすら秘密にされていた可能性があるようだ。
 似たような事は阪神大震災が発生する一年前の日本にもあった。一九九四年一月十六日、ロサンゼルスで大地震が発生し、高速道路の高架橋が落下するなど建造物が大きな被害を受けた。この時、日本の建設関係者たちはアメリカの建設費が安い点を指摘し、そのために安全性が犠牲になっていると説明した。そして、日本ではこの様な事はあり得ないと断言し、アメリカの建設工事や行政が如何にお粗末であるかを強調した。日本の報道陣も専門家の発言を鵜呑みにし、アメリカの建設工事が欠陥だらけという報道を繰り返した。
 ところが、ロサンゼルスの地震からほぼ一年が経過した一九九五年一月十七日に発生した阪神大震災では、前年に発生したロサンゼルスの地震より揺れが小さかったにも関わらず、遥かに多くの犠牲者を出してしまった。専門家の中には「直下型で縦揺れの激しい特殊な地震」などという言い訳をした人もいたが、直下型の地震は今まで何度も経験しているので、必ずしも珍しいタイプの地震では無かった。この地震により日本の建造物の耐久性が極めて低く、如何に日本の建設工事がお粗末であるかが明らかになった。阪神大震災で破壊された建造物からは手抜き工事や欠陥工事が行われた証拠が嫌というほど発見された。ところが、こんな事があっても、多くの日本人は未だに日本の耐震技術が万全で構造物が地震に強いと思い込んでいる。
 戦闘機のように性能を数字で表しやすくて優劣が比較的明確である工業製品ですら、必ずしも客観的評価がされていない場合が少なくない。自国が開発した戦闘機に対して甘いと思われるような評価がなされている場合が少なくないのだ。例えば第二次世界大戦で活躍した日本海軍の零式艦上戦闘機とバトル・オブ・ブリティンでドイツ空軍相手に大活躍したイギリスの名戦闘機スピットファイアの優劣に関する評価は様々な文献によると日本人とイギリス人で大きく異なっている事例がある。日本海軍航空隊のエースとして活躍した坂井三郎氏の証言によると、スピットファイアは零戦に比べると性能的に大した事のない格下の戦闘機という印象を受ける。
 しかし、イギリス側の記録を読むとスピットファイアの方が優秀であり、零戦こそ凡作という印象を受ける文献もある。戦闘機は優美さや精神性を競い合うものではない。幾ら機体が美しく芸術的でも性能が悪ければ価値はない。空中戦の勝敗が戦闘機の数や燃料の質やパイロットの優劣やどちらが先に発見したかなどの諸条件に左右されるという問題はあるにせよ、戦闘機の性能は誰から見ても客観的かつ明確に優劣がほぼ決まりそうなものだ。それにも関わらず何故このように評価の大きな差が生じたのだろうか。

 この様に自国の技術や検査体制に対する過大評価は日本人に限らず世界中に見られるが、特に日本人にはその傾向が強い。それは何故なのか詳細に検討する。

技術ナショナリズム

 日本の工業製品に対する日本人の評価は過大な事が多いが、理由を自動車の例で説明する。
 日本人の中には日本車の品質や生産システムが世界最高だと思う人が多いし、日本車がアメリカ製自動車より優秀だから日米貿易摩擦が生じたと認識している人が少なくない。
 しかし、中国人によって著されて評判になった反米、反日的な著作「ノーと言える中国」には韓国製自動車についての次の記述がある。
 ある中国の記者が韓国を訪問した際、首都ソウルの街を走っているのがほとんど国産車ばかりで、輸入車が少ないことに驚かされた。韓国では、個人が車を買うときに国産車を選ぶのは、別に政府に強制されたわけではなく、個々人の愛国心のあらわれである。だからこそ、アメリカ人が一心に韓国の自動車市場を開放させようとしているにもかかわらず、いまだに韓国におけるアメリカ車の販売台数は年間二〇〇〇台強にしかならない。多くの韓国人は、アメリカに移住してさえもアメリカ車を買おうとせず、韓国車が世界一だという誇りをもっている。
 これと同じ事はフランス製品についても言える。フランス人はフランス製の自動車こそが世界最高と思っているようだ。この様に各国民が自国の製品を最優秀であると思い込む大きな理由の一つとして、技術ナショナリズムが挙げられる。自国の製品が優秀だと思いたいという意識が働くのだろう。
 どこの国でもそうかもしれないが、我こそ世界最優秀民族と思いたがる日本人は少なくない。特に科学技術では、その傾向が強い。技術に対する思い入れの強さは日本をはじめ世界中の多くの国に見られる。オペラと歌舞伎とどちらが優秀かと言われても、これらは精神性や芸術性を表現するものなので比較が難しい。決着をつけようにも水掛け論になるだろう。それに対してスポーツや科学技術はオペラや歌舞伎などの伝統文化や精神文化などと比べると数字で比較しやすいし優劣が分かり易いので、民族の優劣意識と繋がり易いのだろう。これらの分野ではつい競争に熱狂しがちだ。オリンピックが開催されると、多くの人が自国の選手を応援する。
 また、科学技術というのは高度なイメージがあるから、この分野が得意な国民は優秀民族という感覚を持ってしまいがちだ。特にこの分野では外国に負けていると認めたくない意識が強く働きがちだ。これは世界中の多くの国で見られる傾向だ。オリンピックに対する熱狂を責める気は無いが、科学技術についてはオリンピックと同じ感覚を持つべきではない。自国の文化や歴史に誇りを持つのは一向に構わないが、科学技術のナショナリズムは大きな危険性を孕んでいる。
 過度のナショナリズムが、国家の破滅を招いた例は枚挙に暇が無い。太平洋戦争では日本軍が中国やアメリカなど敵国の戦闘能力を侮り、彼らの士気を過小評価した事が敗北に繋がった。旧日本海軍は大和という最強の戦艦を有していたが、日本が誇るこの巨大戦艦は海戦で殆ど活躍する事無く、アメリカ軍の空襲で沈没した。自分たちが劣っていると認めたくないという意識があったのだろう。
 巨大化した現在の技術の危険性は核兵器のような軍事部門だけでなく、平和目的の技術についても注意が必要になった。ダイオキシン、高速鉄道の事故などは社会に甚大な被害をもたらす恐れがある。原子力発電所の事故は、日本全土を吹き飛ばしてしまう可能性がある。場合によっては、世界を破滅させてしまう可能性すらある。
 日本の技術が本当に優秀なのか徹底的に検証してみる必要がある。

 技術ナショナリズムが国家の崩壊に繋がった典型が米ソ間で国家の威信をかけて行われた宇宙開発競争だ。それがソ連の崩壊を招いた大きな要因の一つだ。宇宙開発は科学技術の発展に大きく貢献すると言われているが、ソ連がアメリカと張り合っていたのは実用的な意味だけでなく、技術的な優劣が比較的分かり易い分野でアメリカに勝ちたいという幼稚な意識があったようだ。競争自体が宇宙開発技術の存在目的となった。
 大して意味の無い愚かな競争により、軍事など多くの分野で世界第一級の科学技術を有していた超大国ソ連はあっけなく崩壊した。

 そもそも、技術の優劣と民族の優劣は全く関係ない。自国に優秀な人材がいなければ移民を受け入れればいい。アメリカの技術が優秀なのは、ロケット工学のフォン・ブラウンや化学者のフェルミなどの天才的外国人を積極的に受け入れてきた事が一因だ。
 現在の技術では、高さ千メートル以上の建造物を建設する事はさほど難しい事ではない。また、ひたすら速度を追求すれば時速千キロ以上で走行する列車を作る事も恐らく可能だろう。しかし、これらは採算や実用性を考えると必要性が低い。「高さのための高さ」、「速度のための速度」を追求しても無意味だ。
 日本には世界最大の橋、世界最速の列車など世界一が多いが、これらは日本人の優秀性を示すものではなく愚かさを示すものでしかない。

日本市場の閉鎖性

 日米貿易摩擦が発生した原因についてアメリカから「日本市場の閉鎖性」が盛んに指摘されてきたが、アメリカの対日貿易赤字の全てが日本市場の閉鎖性によるものではない。例えば、自動車の場合、アメリカ製自動車は大型で燃費が悪い製品が多かった事が日本であまり売れなかった理由の一つだ。しかし、アメリカの主張する通り、貿易不均衡が生じたのは日本市場がアメリカより閉鎖的である事が大きな理由の一つである事は事実だ。
 東京都知事である作家の石原慎太郎氏は、かつて如何に日本市場が開放的であるかをやたらと強調した。石原慎太郎氏が主張するように、工業製品に対する関税率など表面的な数字だけを見れば日本市場は極めて開放的であり、超優等生とさえ言えるかもしれない。しかし、系列企業間の取引や株式の持ち合いや談合などをはじめ日本特有の様々な閉鎖的慣習が非関税障壁として外国製の工業製品や建設会社の参入を阻んできたのも事実だ。

 例えば、私の努めていた準大手ゼネコンの(株)鴻池組では、業務用パソコンとして日本電気のPC98シリーズを購入する事が推奨されていた。(株)鴻池組が日本電気製のパソコンを優先的に購入した理由の一つとして、メインバンクであった住友銀行の系列企業である日本電気の製品を義理で優先的に購入しようという意図があったようだ。このような系列間取引を重視する姿勢は日本企業にはよくある。パソコンのパワーユーザーにとって特に高性能でもなく値段も高く互換性に難のある旧規格のPC98をあまり使いたくない人が少なくなかった。しかし、外国製パソコンの購入を希望しても、会社から許可が降りない事がよくあった。

 日本市場の閉鎖性の象徴が公共工事における建設業界の談合だ。ゼネコン社員は一人でできる事を二十人でやっていると言われるように日本の建設会社は優秀ではないのだが、閉鎖的慣行のため外国の建設会社が日本の建設工事を受注出来ないでいる。外国の建設会社が日本で工事を発注できないのは必ずしも日本のゼネコンが優秀だからという訳ではないのだ。外国から談合を排除するように要請された事に対して、日本側からは、「内政干渉だ。提訴してやる」などと息巻くという的外れな態度さえある。

 このような数字に表れにくい非関税障壁は日本社会の随所に存在する。アメリカが、「日本の市場は閉鎖的だから、アメリカ製品が日本ではなかなか売れない」と主張しているのは全くの言い掛かりではない。しかし、「工業製品の貿易不均衡は、日本製品がアメリカ製品より優秀である事とアメリカ人がアメリカ製品の売り込みに対する努力を怠っている事が原因である」と思い込んでいる日本人が少なくない。
 日本だって中国の日本に対するダンピングや日本製品に対する著作権侵害などにクレームをつけているが、それは殆ど注目されない。アメリカからの市場開放に関する対日要求だけをマスコミが好んでニュースとして取り上げるから、アメリカの態度が横暴と感じるのだ。アメリカの軍事行動についてはとにかく、日米の経済関係についてはアメリカの対日要求はさほど横暴ではない。
 ただ、日本市場が閉鎖的であると言っても、あくまで欧米と比べての話であり、アジアやアフリカ諸国などと比べると日本市場の方が開放的だ。建設業のような極端な例を除いて、世界平均から見るとむしろ日本市場は開放的な方だと思われる。あくまでアメリカとの間で市場の開放性に差があるから、日米貿易摩擦が生じている。特に日本の農業は閉鎖的と思われているようだが、意外に開放的だ。「米は一粒たりとも輸入しない」という極端な話を聞くからそう思うのであって、農業全体では必ずしも閉鎖的ではない。

 そもそも、日米貿易摩擦の原因はアメリカ製品が劣っているとかアメリカ人が怠惰だからという事ではない。むしろ、先進国を相手にした方が工業製品を売り易い傾向がある。市場を閉ざしている国には幾ら優秀な製品でも売る事ができない。また、需要や金がない国にも製品を輸出する事はできない。アメリカは中国や韓国などとの貿易摩擦でも苦しんでいるが、アメリカの製造技術の方が韓国や中国より高いと思う人の方が多いだろう。このように工業製品の貿易収支に関しては先進国が発展途上型工業国に苦しめられる場合が少なくない。だから、むしろ日本が発展途上段階にあった事が日米貿易摩擦の原因だったのであり、その点を多くの日本人が、「日本の工業製品はアメリカの工業製品より遥かに優秀だから、貿易摩擦が生じているのだ。日本の技術は既にアメリカを凌駕した。もう、アメリカに学ぶ事は何もない」と勘違いしてしまった。

地元のメリット

 自国で生産された製品が国際競争をする上で持つ様々なメリットも、日本の工業製品が多くの日本人から実際の品質以上に高く評価される理由の一つだ。工業製品や農産物などの競争力については、地元で作られた製品の方が輸入品より有利になり易い傾向がある。
 自動車を例に国産製品と輸入品の品質の違いについて考える。品質を競う場合に一番有利なのが、その国で生産された自動車である場合が少なくない。生産する自動車のうちの輸出にまわす割合にもよるが、自動車は普通、その国の風土に合わせて作られる場合が多い。気候や舗装率などの道路状況やガソリン代の高低などの自動車をとりまく環境に関する諸条件は国によって大きく異なる。
 例えばタイのような熱帯で使用する自動車では冷房がないと不便だが、寒冷地用の装備はあまり必要ない。タイではヒーターがない自動車が売られている。同様に日本製自動車は日本の風土に合わせて作られている事が多い。アメリカ車はアメリカの風土に合わせて作られる事が多い。アメリカの自動車は一般に日本製自動車より大きくて燃費が良くない 。道路が狭く、ガソリン代がアメリカより遥かに高い日本ではやたらと大きくて燃費の悪いアメリカ製の自動車はあまり人気が無かった。そのせいもあり、アメリカ製自動車の日本での販売は振るわなかった。
 これは、必ずしもアメリカ製の自動車が日本製の自動車に比べて劣っている証明にはならない。その証拠に、北米やアジアやヨーロッパをはじめとして、ゼネラル・モータースやフォードなどをはじめとするアメリカ製自動車は世界中で一番良く売れている。道路や駐車場が日本より広くてガソリンなどの燃料代が安いアメリカでは、車体の大きさや燃費の悪さはドライバーにとって大してデメリットにならないので、アメリカで使う限り必ずしも致命的な欠点とは言えない。
 性能や品質以外についても様々な面で、国産製品が競争で輸入品より有利になり易い事が、国産製品が外国製品より優秀だと思われがちな大きな理由の一つだ。輸入品については国産品に比べて、関税や輸送コストなどの余分なコストや時間がかかる場合が多い。その分、輸入品は価格競争力が劣り、新製品の投入時期も遅れてしまうなど様々な面で国産製品より不利になりがちだ。サービス面でも、外国製品は国産製品のようにサポートセンターが十分整備されていない場合が少なくない。外国車は国産車と比べて、サービスステーションやショウルームなどが少ない場合が多い。説明書がその国の言葉でないと消費者には分かり難い事が多い。社員の質という点でも言葉や生活習慣などの違いなどが外国企業や外国製品にとって国内の企業や国産品と比べて不利になり易い条件だ。そういう余分な手間が輸入品にとって非関税障壁となりがちだ。
 このように地元製品の持つ様々なメリットが日本人にとって日本製品を過大に評価させる一因となっている。これは日本以外の多くの国についても言える事だし、日本特有のアンフェアな慣習とは必ずしも関係ないが、しっかり認識しておく必要がある。

 日本の工業製品が外国の工業製品より優秀と思われがちな別の大きな理由として、輸出品と国内で販売する製品に品質の差がある事が指摘されている。
 また、「ノーと言える中国」からの引用になるが、アメリカに留学したある中国人留学生によると中国にある日本製自動車の品質はアメリカで売られている同型車に遥かに及ばないそうだ。
 彼の持っていた日産自動車の車は、アメリカで一一年間風雨にさらされてきたが、車体の塗装はいまでも鏡のようにピカピカだそうだ。だが、中国の道路を走っているブルーバードにはそんなものは一台もないそうだ。
 彼は日産自動車のある幹部社員と話をした感想を次の様に述べた。

日本人は一流品は欧米に輸出し、二流品は自分のものにし、三流品を中国人に売りつける。
 本当かどうか確かめていないので分からないが、多いにありそうな話で、似た様な話はよく耳にする。日本の自動車メーカーは日本より衝突安全基準の厳しい欧米に輸出する自動車にはドアに補強用のサイドビームを入れるが、日本車には入れていない事がテレビで放送されて話題になった。
 これは自動車以外の製品についても同じ様な事が言える。以上のような理由で、日本製品は輸入製品より優秀と思う日本人がいるのだろう。

御用学者が多い

 科学技術に対する評価は、専門家による評価が最も正解に近いと思われがちだ。工学部教授などの学者は理屈を良く知っているし技術者は製造現場をよく知っている人が多い。学者や技術者による技術評価はとても重要だ。
 しかし、企業の技術者や工学部教授などによる技術評価は様々な問題を孕んでいる。その一つは、技術を評価する立場の組織や人物が企業に対して公平でも中立でも無い場合が少なくない事だ。メーカーやゼネコンの社員による技術的な説明は会社の宣伝を含む可能性も当然有る。例えば、石原慎太郎氏の著書『「NO」と言える日本』では、彼の友人である三菱重工の技師長が設計したとされている次期支援戦闘機の優秀性が強調されている。その性能についての解説は社員によって三菱重工に有利な説明がなされた可能性がある。
 日本の技術を高く評価している研究機関として、PHP研究所や三菱総合研究所などがある。これらの研究機関はどちらも大手メーカーの御用機関だ。PHP研究所は松下電器産業と、三菱総合研究所は三菱グループと深い関係がある。特にPHP研究所の息のかかった技術評論家や技術評論関係の著作は数が多い。
 代表的な技術評論家としては唐津一氏や牧野昇氏がいる。唐津一氏はPHP研究所と、牧野昇氏は三菱総合研究所と関係が深い。
 もちろん、工学部教授や技術評論家の中には企業の手先ではない良心的な人もいる。決して、御用評論家ばかりではないし、客観的で洞察力を持つ人もいる。例えば、コンクリート工学の権威であり著書に「コンクリートが危ない」(岩波新書)がある小林一輔千葉工業大学教授は建設業者の手抜き工事を盛んに糾弾している。しかし、企業や官僚に媚びない人たちは資金面をはじめとして様々な面で苦労しがちだ。技術の危険性など企業に不利な情報についての本を出す場合には、自分で資金を調達しなければならない。新聞や雑誌などで好んで使われるコメントは日本の技術を褒め称える御用学者によるものが圧倒的に多い。良心的な評論家は、企業の後押しがある御用評論家にはなかなか勝てない。企業や政府の御用評論家でないとなかなか有名にはなれない。技術評論家については、「悪貨は良貨を駆逐する」という感じなのだ。
 工学部教授による技術の評価というのはどうだろうか。これも技術評論家と同様に中立的立場に無い場合が多い。そもそも、技術評論家には工学部教授が多いので技術評論家との共通点も多い。必ずしも、全ての工学部教授が企業から賄賂を貰っていると言っている訳ではない。しかし、直接的に企業から金を貰っていないにしても、メーカーやゼネコンの援助なしでは研究開発を続ける事が困難な状況だ。また、学生の就職に関してもメーカーやゼネコンに世話になる。工学部教授は、メーカーやゼネコンに対して悪口は言いづらい立場にある。また、東海大学教授の唐津一氏をはじめとして、技術評論家には工学部教授が少なくない。
 一九九五年一月十七日に発生した阪神大震災では手抜き工事や欠陥工事が多数、発覚した。建設関係者は日本の耐震技術の高さを誇っていたが、建造物が極めて地震に脆い事が露呈した。阪神大震災の約一年前にロサンゼルスで地震が発生して建造物が大被害を受けた際に「日本ではこんな事はあり得ない」と大見得を切っていた学者やゼネコンなどの建設関係者たちは苦しい言い逃れをした。
 阪神大震災発生後の建設関係者の話は、「地震力は通常、横方向に働くものだ。今回は縦方向の揺れが強い特殊な地震だったので被害が大きかった」とか「千年に一度起きるかどうかというような巨大な地震が起こったのだから、被害はある程度仕方ない。全ての建物を巨大地震に絶えられる構造にするのは不経済だ。これだけ地震の規模が大きければ、被害はやむを得ない。地震後の迅速な救助活動で被害者を減らすしかない」あるいは、「倒壊したのは、木造や古い基準の建造物であり、新しい基準の建造物は殆ど被害を受けていない」などと言い訳をしている。
 この話は一見、もっともらしく聞こえるが、そうではない。実際には「新耐震」の建物でも大きな被害を受けた例は少なくない。阪神大震災は被害が大きかったから凄い地震だというイメージがあるが、揺れを示す数値galを比べると約一年前にロサンゼルスで起こった地震より弱かった。地震の水平力だけに気を取られていたのは、研究の未熟さを示すものだし、千年に一度の頻度で発生する大地震のために建物を強化するのは不経済だという説明は自分勝手な言い訳でしかない。高架橋が倒れた直ぐ傍で旧式の木造建築や地震に弱いとされるブロック塀が殆ど被害を受けずに残った例も見受けられた。
 このように工学部教授や技術評論家の中にはメーカーやゼネコンの手先のような人がたくさんいる。専門家に「日本の技術は素晴らしい」と言われれば、どうしても素人は信じ込んでしまいがちだ。日本に企業や政府の御用学者が多いという事が、日本の技術が過大評価される一因となっている。

GDPが大きい

 東海大学総合科学技術研究所の唐津一教授は、日本のGDP(国内総生産額)は年間約五百兆円で、イギリスとドイツとフランスのGDPの合計額より大きい事を盛んに自慢している。そして、年間約五百兆円という巨大なGDPを稼いでいる主役が製造業や建設業などの物作り産業だ。
 日本人の中にはGNPやGDPあるいは一人あたりのGNPやGDPの額が大きい事を誇らしく思う人が少なくないようだが、実は必ずしも自慢にはならないのだ。GDPは、その国の経済状況を示す一つの重要な指標ではあるが、GDPを大きくする事が国家の最終的な目標ではない。GDPを増やす事だけに徹底すれば、GDPの額を倍増させる事も、技術的には、それほど難しい事ではない。しかし、単にGDPの額だけを無理に膨らませても、あまり意味が無い。
 GDPというのは、企業の経営で例えると売上高のようなものだ。企業の最終的な目標は利益をあげる事であって、売上高はその過程に過ぎない。例えば、大手スーパーの代表格であるダイエーとイトーヨーカドーの業績を比較すると、売上ではイトーヨーカドーはダイエーより遥かに少ない。しかし、利益の額では、イトーヨーカドーの方がダイエーを上回っている。企業にとって大事なのは、収益性だ。これは国家についても似たような事が言える。
 日本は加工貿易を得意とする工業国なので、石油や鉄やアルミニウムなどの工業用資源を大量に輸入しなければならない。ゼネコンやメーカーの中には、利益率が一割にも満たないような企業が少なくない。利益率が一%を割っている会社すら存在する。製造業の場合、売上は大きくても、原料の購入費や工場などの設備にかかる費用など途中の経費もまた大きいので、手元に残る金額は大幅に目減りしてしまう。NECをはじめとする日本の大手電機メーカーは、売上では格下であるアメリカのマイクロソフト社に収益性では遥かに及ばないし、力関係ではマイクロソフトの方が上にある。企業の業績については、売上高など見掛けの規模だけでなく、収益性についても注意しなければならない。
 日本には青函トンネルや明石海峡大橋や東京湾アクアラインなどの殆ど使われない超巨大施設の建設といった無駄な公共事業が多過ぎるという事も、日本経済の実態よりGDPを大幅に膨らます結果に繋がっている。日本の建設投資額はGDPの二割程度を占めている。これは欧米諸国の数倍にも達する異常な割合だ。その大半が無駄な投資である事を考慮すると、無駄な建設投資額はGDPの一割を超える額になってしまう。国の実力としては、GDPからこの無駄な建設投資の分を割り引いて考える必要がある。
 工業部門で費やされる原料費や工場に対する投資などの途中経費や、公共事業の無駄の分を割り引いて考えると、最終的に手元に残る金額は五百兆円より遥かに少ない額になってしまう。
 かつてはGNPやGDPの大きさが国家の実力を示していると考えられていた時期があった。特に戦争中は生産力が勝敗を決める重要な要素になる。従来はGDPが大きいという事は、生産性や産業の効率が高い事を示していた。しかし、冷戦が終了し物が余っている現在では必ずしもGDPの大きさが国家の実力を示す有効な指標ではなくなってきている。
 豊かになった現代社会では物があり余っている状態だ。無駄な生産を繰り返している国や環境保護やリサイクルの事を全く考えない国の方がGDPの大きな国になりやすい事になる。車を平均して十五年間使う国と五年で廃車にする国では後者の方がGDPは大きくなり易い事になる。このように、長持ちする製品を作るとメーカーの売上が減るから、GDPの減少に繋がり易い。GDPが大きいという事は、別の見方をすると無駄が多い国であるというふうに考えられない事もない。
 イギリスのように社会資本がほぼ整備された国では、橋や道路などの新規建設はもうあまり必要ない。ドイツなどをはじめとして物を大事に使って長持ちさせようという傾向が先進国に拡がっている。そういった事はGDPを縮小させる方向に向かわせる要因だ。次々に新しい物を作りまくって、使い捨てにする国の方がGDPが大きくなり易いという傾向がある。
 このようにGDPが大きいという事は必ずしも自慢にはならない。GDPは単に分かり易いというだけで、必ずしもその国の豊かさや進歩の度合いを示すものではない。GDPで比較すると実質的な豊かさが日本と同じ国よりも日本の方が大国に見えてしまいがちだ。そして、その見せかけだけの大きさであるGDPを支えてきたのが製造業や建設業だ。日本経済は言わば、張子の虎のようなものだ。それが技術立国という幻想を生んだ一因である。

存在価値の低い技術

 技術に対する評価は必ずしも過大ではないが、その技術の存在価値自体があまり高くないというような技術が日本では少なくない。その代表的な例として液晶の製造技術と巨大橋建設技術について説明する。
 日本の液晶製造技術が抜群に優れているという話はよく聞く。東海大学の唐津一教授をはじめとして日本の液晶技術を絶賛する人は少なくない。果たして、日本の液晶製造技術の実態はどうなのだろうか。
 液晶表示技術を世界で初めて開発したのはアメリカのRCA社と言われている。しかし、液晶製造の主役は次第に日本に移り変わっていった。確かに、液晶の分野では日本は他の国と比べて抜け出た存在であるようだ。日本の液晶製造技術が優れている事はほぼ間違いないようだ。コンピュータのディスプレイはノートパソコンではもともと液晶が使われていたし、デスクトップ型のパソコンのディスプレイについても今まで主流だったCRTディスプレイから液晶ディスプレイに移行しつつある。将来的には液晶がコンピュータのディスプレイの主流になるという事は、別の画期的な技術が開発されない限り、ほぼ確実のように思われる。今日のOA化や情報化社会にとって液晶は欠かせない存在であり、今後ますます液晶の地位が高まっていきそうだという事は素人でもおよそ見当がつく。
 では、この極めて重要な液晶製造の分野を制した日本は、先端技術の世界で圧倒的な強さがあるのだろうか。私は日本が液晶技術で優れている事に対して、あまり大きな期待はしていない。日本が液晶を得意としている事は必ずしも日本の先端技術が飛びぬけているという事を意味しないし、実は、それほど自慢になることではない。
 日本が液晶を得意とする理由として、欧米諸国には日本ほど液晶に力を入れていない国が多いという事情がある。そもそも、液晶の製造というのは、非常に歩留まりが悪いと言われている。液晶ディスプレイは一つ一つの細かい粒から構成されており、非常に工作の手間がかかる。それにディスプレイのサイズが違うと同じラインでは作りにくいという事情もあるようだ。このような理由があり、液晶の製造というのは自動化が非常に難しい。そのため、あまり儲かりにくいと言われている。
 コンピュータの中心部であるCPU(中央演算装置)を製造しているアメリカのインテルは日本の電機メーカーや半導体メーカーと比べて極めて高い収益を上げているようだ。日本のメーカーだって、できればCPUのような儲けの大きい製品をたくさん作りたいというのが本音であろう。しかし、そういう収益性の高い分野は、殆どが欧米のメーカーによって占められている。
 要するに、日本のメーカーは収益性の高い分野を欧米に取られてしまったから、仕方なく液晶製造のような収益性の低い仕事をしているに過ぎないのだ。できれば、液晶製造などあまりやりたくないというメーカーがあっても何らおかしくない。アメリカをはじめとする外国の技術で日本製の液晶ほどではないにしても、必要最低限の性能を持った製品は作ろうと思えば作れるだろう。最近では、台湾、韓国などが量産体制に入りつつある。また、アメリカも液晶製造に力を入れ始めている様子だ。
 液晶自体は重要性が高いのだが、液晶製造技術については無くても、製品を外国から輸入すれば済む話だ。また、抜群な液晶技術があったからと言って、外国が日本に対して平身低頭する事もあまり考えられない。これは日本人が黄色人種だから馬鹿にされているのではなく、既に説明した通り、日本に売ってもらわなくても大して困らないからだ。
 液晶製造技術はあっても困らないし、それなりの存在意義はある技術だ。だが、巨大橋の建設技術となると何の意味も無い無駄な技術というだけでなく、ある事が社会にとってマイナスにさえなっている。
 例えば、青函トンネルのような巨大トンネルを建設して採算のあう場所は世界中捜しても見当たらない。ほぼ同じ規模で欧州の大都市を結ぶユーロトンネルでさえ、赤字なのだ。巨大土木建造物については後で詳しく説明するが、とにかく、こんな技術があるために、無駄な橋やトンネルを造らなければならないというのは馬鹿馬鹿しい限りだ。
 巨大橋の建設技術のように技術自体は確かに優秀だが、存在価値の低い技術の是非というのは専門家よりも素人の方がむしろ気付き易い事もある。
 実際には見かけほど重要でない技術や必要性が全くなくどうでもいいような技術が多いという事が日本の技術を過大評価させる一つの要因となっている。

夢想家と御用学者

 日本の著名人の中には科学技術に対する夢想家や的外れな言動をする人が往々にして見受けられる。ここでは、そのような例を幾つかあげてみる。

西澤潤一

 岩手県立大学学長の西澤潤一氏は半導体の権威と言われている。文化勲章の受賞者でもあり、輝かしい経歴の持ち主だ。
 西澤氏は一九九九年十月二八日の毎日新聞夕刊に『「人災」の責任転嫁』というタイトルで、新幹線のトンネルの壁の崩落と東海村の原子力事故と阪神大震災での高速道路の破損についてコメントしている。私はこの記事を読んで、「西澤氏は現場を全く分かっていない夢想家の学者なのではないか」という疑問を持った。
<阪神大震災では、高速道路の橋げたが折れました。これも、手抜き工事による人災説が強い。どうお考えです>
という質問に対して次のようにコメントしている。
 コンクリートは、表面活性剤を入れてセメントと鉄筋の付きをよくする。ところが、問題の高速道路には使われていないという情報があったので、私は「あっ、やはりきたか」と思いました。
 ただ、大震災の映像を見ていて終戦直後の日本を思い出した。日本中が、神戸のようだったのです。私は終戦のときに18歳でした。私の一つ上、二つ上の先輩はみんな戦争に行って、特別攻撃隊で死んでいった。世の中の楽しみを何も経験しないうちに死んでしまったんです。生き残った僕らは、彼らの犠牲の上に存在する。その人たちの分まで生きよう、社会を、国を良くしようと頑張ってきた。今でもそうです。しかし、今の日本にはそれがない。自分さえ良ければいいという風潮がまん延している。ここら辺で土俵を踏み固めないと、日本は大変なことになってしまうでしょう。
 私は建築の専門家であるが、これは素人が見ても明らかに出鱈目と分かるお粗末な内容だ。コンクリートが崩落した山陽新幹線のトンネルにしても阪神大震災で壊れた高速道路の高架橋にせよ、一年前に建設した建造物のコンクリートが崩壊したという訳ではない。高度経済成長の時期に造られた物であり、区間にもよるが、建設後数十年が経過している。当時横行した手抜き工事が最近の事故の原因となっているのだ。建設工事の責任者は三十代以上が中心となっている。そうすると、山陽新幹線トンネルや阪神大震災で倒壊した高架橋の建設工事責任者は西澤氏と同じ年代あるいは上の年代という事になる。阪神大震災で高架橋が倒壊した事や日本各地でコンクリートの崩壊が相次いでいる事は若者の責任ではない。少なくとも今の三十代以下の人たちは、建設当時は子供の頃か生まれていないから罪はない。自分たちの世代のエゴイズムによって、若い世代がつけを払わされて苦しむ事になるのだ。だから、西澤氏の解説は全く的外れと言わざるを得ない。悪質な冗談としか思えないのだが、本気で言っているのであろうか。本来なら、自分たちの世代の過ちを若者に謝るべきなのだが、全く正反対の行動に出ている。何故、毎日新聞ともあろうものがこのような記事を載せたのか全く理解に苦しんでしまう。本当に単純な足し算であり、勘の良い小学生なら見破れるような事柄だ。聞かれた以上は気の利いた答えをしなければならないと思い、知ったかぶって答えたのではないのか。恐らく、半導体の権威による解説という事でろくに検証もせずに掲載したのだろうが、それにしても安易過ぎる。
茨城県東海村で発生した原子力施設の事故に関しては次のようなコメントがある。
 現場で手順を変更するというのは、作業員3人だけでできることではありません。少なくとも、いま自分たちがやっているのがどういうことか分かる人間でなければ、変更などできない。作業員の上の監督者が変更に気付かないなど、あり得ない。あるとすれば、どうかしてますよね。JCOには原子力を扱うという責任感が足りない。
 建設工事現場で現場管理者として勤務してきた私の経験からすると、作業員3人だけで現場の手順を変更する事は十分可能だ。そういう事が本当にあったかどうかについては現場を見ていないから断言はできないが、あったとしても何ら不思議はない。建設工事にしても工業製品の製造にしても何でもそうだが、製造現場で実際に物を作っているのは下請の作業員だし、技術を持っているのは下請け企業だ。手抜きについて所長が気付いていない事は珍しくないし、現場を直接管理している監督者でさえ作業員の手抜きに気付かない事がよくある。私は決して企業を庇っている訳ではないが、手抜きに関しては下の者が勝手にやって、上の者が本当に知らない場合が少なくない。分業化が進んでくると、さらにその傾向が強くなってくる。原子力産業のような巨大プロジェクトになってくるとなおさらそうだ。もちろん、企業には下の者の不正に気付かなかった責任はあるだろう。しかし、毎日新聞がわざわざ西澤氏を指名したのはこんな陳腐な答えを聞きたかったからなのだろうか。事故を起こしたJCOが無責任だとは誰もが思っている事だろう。技術的には素人以下の解説だ。西澤氏は現場を全く分かっていないのではないだろうか。「あり得ない」と断言しておきながら、「あるとすれば」という仮定をもってくるのもおかしい。「あるとすれば、どうかしてますよね」という問いかけに対して私は「あなたの頭の方がどうかしてますよ」と言いたくなる。このように工学部教授には夢想家が少なくない。半導体の権威と言われる彼も例外ではないようだ。むしろ、地位が高い研究者こそ、現場の実態が分かっていない夢想家が多い。そのくせ、やたらと口を出したがる人が少なくない。
 この記事には何故か特攻隊の絵が添えられていて、「我等散りゆく後に“建国”あり」などと書かれている。こうなると完全に技術評論の域を超越した思想の問題であろう。彼は単に軍国主義の時代を懐かしんでいるだけの話ではないのだろうか。最近の毎日新聞は、曽野綾子氏や中西輝政氏など保守派の大物に占拠された感がある。技術評論には右も左もない。右寄りの人の中にも「日本の科学技術は欧米の物真似技術だ」などと低く評価する客観的な判断力の持ち主が少なくない。例え極右であろうと極左であろうと科学技術に対して客観的な判断のできる技術評論家に対して私は敬意を払う。しかし、このように技術評論とかけはなれた右寄りの思想が入り込んでくるとなると問題だ。

唐津一

 東海大学教授の唐津一氏は、日本の製造技術を褒め称える製造業至上主義者の代表的存在だ。この老人はテレビや毎日新聞などに盛んに登場し著作も多い代表的な技術評論家だが、ハードウェア偏重の時代遅れの技術者だ。如何に日本の技術が優れているかをやたらと強調しているが、その内容は眉唾ものが多い。製造業を重視する評論家は日本では非常に多いが、その根拠は極めて薄弱だ。農業だって「物づくり産業」だし、サービス業だって社会にとって必要だ。楽をしたくて消防士になる人は多分いないだろう。製造業重視の姿勢は、単に昔を懐かしんでいるだけだったり、日本メーカーの権益を擁護しているという場合が少なくない。唐津氏は典型的な企業の御用学者でもある。
 これは唐津氏に限らず、あらゆる技術評論家や工学部教授について言えることだが、どんな天才でも専門的な知識を持っている範囲というのは、科学技術全体から見ると極めて狭い範囲だ。例えば、土木工学についても、電子工学についても、医学についても、機械工学についても一流だという人は恐らくいないだろう。例えば、唐津一氏は東急建設が研究している大深度地下の技術についても称賛している。ユーロトンネルや東京湾アクアラインを掘った日本の建設技術についても解説しているが、少なくとも土木・建築の分野に関しては建築工学科出身である私の方が遥かに詳しいだろう。
 唐津氏の言っている事を良く聞いていると小学生程度でも言えるようなレベルの低いことばかりであり、実際には現場をよく知らない評論家とも言われている。しかし、新聞や雑誌などのメディアは有り難がって、彼に意見を聞いている。これは話の内容が優れているからではなく、東京大学工学部卒業という高学歴と大学工学部教授という立派な肩書きによるものだろう。
 唐津氏による非常に奇妙な主張の一つとしてアメリカの対日貿易赤字が発生する原因についての解説が有る。「日米とも一人当たり四百ドルずつ買っている」として、渡部昇一氏との共著である「アメリカの“皆の衆”に告ぐ」(致知出版)の中で次のような奇妙な説明をしている。
貿易相手国から一年間に国民一人当たりいくら買っているかは、相手国からの輸入額を人口で割ることで計算できます。アメリカの日本からの輸入額を人口で割ると、四百十七ドルになります。同様に、日本のアメリカからの輸入額を人口で割ると、四百四十五ドルです。アメリカ人ひとりが日本から四百十七ドルずつ買い、日本人ひとりもアメリカから四百四十五ドルずつ買っている、ということになります。
 日本もアメリカも相手から同じ額だけ買っている。つまり、一人当たりでは均衡がとれているのです。
 ただ、アメリカの人口は約二億五千万人弱で、日本は一億二千万人余です。アメリカの人口は日本のほぼ倍で、約一億二千万人おおいのです。この人口差に四百ドルを掛けた額、約五百億ドルがアメリカの対日赤字になっているというわけです。
 五百億ドルの対日赤字は不均衡だから、これをゼロにもっていって日米経済の均衡を図るというなら、日本人ひとりがいまの倍のアメリカ製品を買わなければならない、ということになります。
 この説明は一見もっともらしいのだが、この理屈が成り立つには大きな前提が必要となる。それは、「日本とアメリカの貿易は日米間のみで一対一の取引をし、日本の消費者は全ての製品をアメリカから買い、アメリカの消費者は全ての製品を日本から買う」という事だ。どう考えても、これは極めて不自然な話だ。貿易は二国間だけで行っているわけではないし、日本の消費者は国産製品も買うし、アメリカ製品以外の輸入品も買う。それはアメリカにしても同じ事が言える。唐津氏の説明が正しいとすると、二国間の貿易収支は人口の多い国の方が常に赤字になってしまう事になる。これは全くおかしな話だ。
 事故と故障に対する認識にも疑問がある。これも「アメリカの“皆の衆”に告ぐ」の中で次のような記述がある。
 よく新聞に、「××原子力発電で事故発生」といった記事が載ります。放射能が漏れて汚染が漏れて汚染が広がり、被害が出たのか、と思ってしまいます。だが、よく読んでみると、一部の部品が破損して運転が止まったといった類です。これは事故とはいいません。こういうのは故障というのです。事故と故障の区別がついていないのです。
 原子力発電でのトラブルに対する新聞の報道が大袈裟かどうかはとにかくとして、この認識は素人くさいと思う。必ずしも故障が事故よりましとは限らないのだ。原子力発電内で人が滑って転んで骨折しても事故と言えない事も無い。原子力発電の極めて重要な部分が故障しても、たまたま、事故に繋がらない事もあり得る。 車のブレーキが故障で全く動作しなくても、事故にならない場合もある。逆に、車が軽く電柱を擦ったとしても、一応、事故という言い方ができる。この場合、結果的には後者の方が被害は大きい事になるが、どちらがより深刻かと言うと、前者の方だろう。新聞の原子力発電報道が大袈裟かどうかはとにかくとして、事故と故障の違いにこだわるのは大して意味の無いような気もする。
 ハードウェアにやたらとこだわるのもこの人の癖だ。工業製品の耐久性と生産性が高まった結果、需要が減り、供給過剰に陥っている。脱工業化は先進国として当然の流れで、義務と言っても過言ではない。唐津氏が製造業にこだわっているのは、感覚の古さと工学部教授でありメーカーと関係の深い自分の権益を守るためではないのか。このような古い感覚の人が多いために、日本ではソフト化に遅れてしまい、情報化産業などは致命的に遅れをとってしまった。理工系の学生が製造業を離れて金融業界になびく事を嘆いているが、製造業の健全な発展のためには金融業界に科学技術に詳しい優秀な技術者が行く事が必須であり、むしろ、金融業界に積極的に理工系の学生を送り込むべきなのだ。
 唐津氏は日本の技術の優秀さを絶賛しているが、そもそも、日本の技術の優秀さというのは、「世界最大の橋を造った」、「世界最速の列車」、「精度が極めて高い」といった数値的に分かり易い特徴が多い。数字的に見ると極めて優秀な印象を受けるが果たしてそのような技術が必要なのかと疑問に思うようなものも少なくない。例えば人が殆ど通らないような所に巨大橋をかける。それだけの金があるのなら、普通はハブ空港の建設に投資するものだ。日本の技術を見ていると「消費者のニーズを完全に無視した技術」、「技術のための技術」といった感じがする。技術者の自己満足に過ぎないものが多い。日本製品は数字的には優秀に見えるかもしれないが、実用性では発展途上国と大して変わらないというのが現状だ。

石原慎太郎

 日本の製造業や科学技術をやたらと褒め称える文化人の中で代表的な存在が、現在、東京都知事を務めている作家の石原慎太郎氏だ。彼はベストセラーとなった「『NO』と言える日本」シリーズなどをはじめとして、著作やテレビで如何に日本の技術が優秀であるかを説明して得意になっている。
 日本の科学技術に対する石原氏の偏った評価が、単に素人の無知によるものなのか、あるいはメーカーやゼネコンなどとの利権によるものなのかについて、私は確信を持てない。彼の発言は素人くさい感じもするし、政治的手腕はお世辞にも優秀と言えないから、全く裏は無く単純に本心を語っているとしても不思議は無い。
 しかし、彼が運輸大臣の時にリニアモーターカーの実験線を山梨に誘致しているのだが、その事に対して自民党の重鎮だった金丸信氏から「石原君ありがとう」と礼を言われている。山梨は金丸信氏のお膝元であった。利権とは関係なくたまたまリニア実験線が山梨に誘致されただけという可能性もあるが、裏に利権が絡んでいたとしても何ら不思議は無い。
 或いは無知と利権の両方が絡んでいるという可能性もある。いずれにせよ、日本にとって好ましくない事だ。
 日本の科学技術に対する石原氏の過大評価が勘違いによるものなのか利権によるものなのか、はっきりしないが、ここでは彼の勘違いによるものと仮定して話を進めていく。
 石原氏の勘違いについては既に多くの著名人から指摘を受けている。自由党の党首である小沢一郎氏も石原氏の科学技術に対する評価について否定的な考えを持っているようだ。小沢氏は思想的には石原氏に負けないくらいのタカ派だ。しかし、技術評論については右も左もないので小沢氏の思想や信条についてここでは一切コメントしない。小沢氏と石原氏はテレビ朝日系のテレビ番組の「サンデープロジェクト」で対談し、日本の科学技術のあり方について論争になった。小沢氏は「日本の技術は基礎技術の分野で遅れている」などと物真似中心の日本の技術の欠点を指摘した。それに対して石原氏は日本の応用技術の素晴らしさを絶賛し、「必ずしも基礎技術が優れている必要は無く、応用技術であろうと貢献できれば良い」というような事を自信に満ちた強い調子で答えた。小沢氏は石原氏の主張に不満気であった。彼の表情からすると「日本が今のような物真似技術を続けているようでは駄目だ」と内心思っているように見えた。しかし、小沢氏は石原氏の気迫に押されてしまったようだ。私の評価では小沢氏の意見の方が絶対に正しいと思う。しかし、小沢氏は石原氏の輝かしい経歴や年齢などに遠慮したのかもしれないが、あまり強い態度をとらず簡単に沈黙してしまった。
 評論家の堀紘一氏との討論でも同じ様な場面があった。テレビ朝日の「朝まで生テレビ」だったと思うが、石原氏が「日本の技術があれば、世界最高の戦闘機を作るのは簡単だ」というような主張をした。それに対して堀紘一氏は「馬鹿な事を言う奴だ」というような反応を示した。堀氏は石原氏に対してはっきりと馬鹿とは言わなかったが、口の動きからして「ばか」と言いかけたのを押しとどめたように私には見えた。彼も石原氏の主張するような技術評価に対して懐疑的であるようだ。
 確かに日本が他の技術開発を全て放棄して戦闘機の開発に対して徹底的に力を注げば、世界最強の戦闘機を作るのは不可能ではないかもしれない。しかし、そんな事をして何の意味があるのだろうか。戦闘機の性能は最近あまり変わっていない。これは今以上に優秀な戦闘機があまり必要では無くなっている事が大きな理由の一つだと思われる。ミサイルが主流の時代になってくると、戦闘機は単なるミサイルの発射台に過ぎないという意見もある。もちろん、戦闘機の性能が優秀であるに越した事はないだろう。しかし、戦闘機の価格はどんどん高くなっている。戦闘機は質だけでなくある程度の数を揃える事も必要だ。あまり優秀な物を作っても値段が高過ぎるのでは、購入してくれる国はなかなか無いだろう。アメリカだって、徹底的に質だけにこだわれば、F15を遥かに凌ぐ戦闘機を作る事は恐らく可能だろう。戦闘機というのは単に高性能であれば良いというものではない。生産性が重要になる。太平洋戦争でのアメリカの戦闘機は第二次世界大戦で最優秀の戦闘機と言われたP51マスタングの直線的な翼に見られるように、日本の零戦と比べると一般的に生産性が高い形状になっていた。P51の翼を最適の形状にしていれば、更に優秀な性能を持つ戦闘機にする事ができたと思われる。しかし、そうすると生産数が落ちるので、そうしなかったのだろう。
「『NO』と言える日本」(光文社)などに見られる石原慎太郎氏の論理には経済摩擦をはじめとする欧米の日本に対するクレームを全て白人の人種差別意識とひがみとして片付けてしまう単純さがある。運輸大臣や環境庁長官をはじめとする政府の要職を勤めてきた人物としては、あまりに甘えた態度だ。石原氏の科学技術に対する評論に対しては左翼文化人よりむしろ保守派の人からの批判が強いように思われる。意外に右翼からの批判が強いのが実態だ。白人に対する強硬な態度は劣等感の現れに過ぎないと見抜いている右翼文化人もいる。
 石原氏は外形標準課税の導入で評判になった。しかし、経済の専門家の間では石原氏の提唱する外形標準課税を高く評価する人は一人も見当たらない。石原氏は科学技術や経済に関しては全くの素人である事は明白だ。

長谷川慶太郎

 長谷川慶太郎氏は、経済の予想が当たらないと評判の評論家だ。出鱈目を言っている割には知名度が高く、一流の評論家というふうに思われている。彼の著書も良く売れているようだ。彼の存在は、日本での評論家に対する評価が如何にいい加減であるかを如実に示していると言えよう。
 彼の著作「世紀が見えた 1996年 長谷川慶太郎の世界はこう変わる」(徳間書店)に次のような記述がある。
 阪神大震災で、従来工法の日本建築は地震に極めて弱いことが立証された。重い瓦屋根は頭でっかちで、直下型地震の震動に耐えられなかった。プレハブ工法の家屋は、地震の直接の被害がほとんどなかった。
 もう一つの違いは、メンテナンス。本格的な日本建築ほど、大工が絶えず補修し続けることを前提にしている。そういう手間をかけないと、外から見てなんともなくても、根太が腐るとか白蟻に食われたとかの被害を防げない。プレハブ工法は、部材の工場生産の段階でそういうことへの対策を講じているから、いわばメンテナンス・フリー。人件費の高い日本で、この差は大きい。
 プレハブ住宅ではほとんど補修の必要がない。だから忙しいのは外装のペンキを塗り替える塗装工と配管の補修をする配管工だけ。これは住宅の概念を大きく変えてしまった。住宅もテレビや自動車並みになった。
 実は鉄筋コンクリートのビルもそうだということが、逆に、今度の地震で分かった。
 壊れたビルのぜんぶが修理できる。二度と使えないと思われたビルが、実はぜんぶ直して元通りに使える。建て替える必要などない。
 そんな技術が日本にあることを、震災が起こるまで誰も知らなかった。
 そんな技術が日本にあることを誰も知らなかったのは当たり前なのだ。そもそも、そんな技術などどこにも存在しないのだから。阪神大震災で山陽新幹線や阪神高速道路の高架橋が横倒しになったりスラブが落下したしたりした例が多数あったが、補修工事の中には落下したスラブをそのまま再使用しているものもあった。落下したスラブは当然、大きな衝撃を受けている筈だ。耐久性が大きく低下している可能性が大いにある。関係者の間では、「落下したスラブを使うのは問題があるのではないか」という疑問を唱える人が少なくない。これは専門家で無くても、なんとなく危ないというのは直感的に理解できるのではないかと思う。私も建築が専門分野の技術評論家だが、阪神大震災後に行われた建造物の補修作業を見ていると、実にいい加減だなという印象を受けた。
 そもそも、阪神大震災で多くの建造物が大きな被害を受けたのは、手抜き工事や欠陥工事によるところが大きい。手抜き工事や欠陥工事の恐るべき実態が阪神大震災後に明らかになった。その一年前にロサンゼルスで地震が発生し、高速道路が落下するなどの大きな被害を受けている。このとき、日本の建設関係者たちは、日本ではこのようなことはあり得ないと断言し、アメリカの建設工事や行政が如何にお粗末であるかを強調していた。しかし、それは全くの出鱈目であった。長谷川氏は、それでもまだ、建設業者の言う説明を全面的に信じるというのだろうか。如何にも典型的な企業の御用学者が書いた感じのする文章だ。
 従来工法の日本建築とプレハブ住宅との性能の対比についても、プレハブ住宅の宣伝と言われても仕方がないような内容だ。確かに建築の専門家である私の感覚からしても従来工法の日本建築は地震に弱いような気はする。何故、従来工法の木造建築が地震に弱かったのかというと、開口部が多いからだ。高温多湿な日本では、開口部が少ないと、部屋中カビだらけになってしまう可能性がある。北海道や東北のような寒冷地は別として一般的に、居住性では日本建築、耐震性では欧米の木造住宅の方が良いという事になる。居住性と耐震性を簡単に比較する事はできない。だから、単純にプレハブが良いとは言えない。ただ、今の時代、エアコンが普及しているから、南国で北欧式の住宅を建てたとしても、居住性についても特に問題は無いかもしれないが。
 建築の専門家でも無いのに知ったかぶっているという事が明らかな文章だ。彼もまた日本の技術をやたらと褒め称えて、詳しく知っているようなふりをしているが、他の技術に対しても大体こんなものだ。
 他の例としては、長谷川氏は巨大橋の建設技術を「日本だけにしかない技術」として褒め称えている。しかし、四国と本州の間に大して人が通らないにも関わらず、なぜ、三本も橋が必要なのかという疑問を持つ人は少なくない。この事については後で詳しく説明するが、長谷川氏は技術だけに気を取られていて、費用対効果を完全に見落としている。

船井幸雄

 船井総合研究所の会長である船井幸雄氏もまた唐津一氏などと共に製造業至上主義でハードウェア偏重の時代遅れの論客の一人だ。オカルトがかっているところが彼の特徴でもある。
 船井氏は次の様に金融業や情報産業を虚業と決め付けるような発言をしている。
 今のアメリカの好景気は、実態をともなったものではなく、見せかけのものである。アメリカは金融戦略と情報戦略で無理矢理に世界から金を集め、好景気を演出しているといってよい。だから、アメリカの好景気は長続きしないと思う
 どうしてアメリカの好景気が長続きしないかというと、情報や金融というのは、いわば、虚業だからだ。虚業は、実業があってこそ成り立つ。もし実業のほうが倒れてしまえば、いくら金融のシステムが好調であっても、経済は破綻してしまうのである
 この点、アメリカの実業は、以前から叫ばれているように、産業の空洞化が進行していて、気になる状態である。だから、バブリーなアメリカ経済はいつ潰れてもおかしくない状態にあると断言できるわけだ。
 私はアメリカが素晴らしいとも正義だとも思わないが、必ずしもアメリカが金融戦略と情報戦略で無理矢理に世界から金を集めたとは思わない。金融や情報の分野でアメリカが世界を制したのは、それらの分野にアメリカが積極的に力を注いで優秀な技術を擁していたという事が大きな理由の一つだ。その点は素直に認めなければならない。コンピュータ・ソフトの性能にしてもソフトウェアに対する社会の受け入れ態勢にしても日本などよりよほど優れているのは紛れも無い事実だ。多少の押し付けはあったかもしれないが、インターネットをはじめとしてアメリカの規格や製品は便利で優秀だから、ユーザーが自主的に選んでいるような場合も決して少なくない。コンピュータのパワーユーザーとしては国産のソフトに適当なものがないので、優秀なアメリカ製品を使わざるを得ない場合が少なくない。
 また、情報や金融が虚業などというのはとんでもない発言だ。これらについては後でまた詳しく説明するが、情報産業も金融業も立派な産業であり、社会にとって絶対に必要な産業だ。むしろ、製造業に偏重した産業構造から、これらの産業に対して積極的にシフトすべきなのだ。産業というのは互いに支えあっている。どちらがより重要か比較しても意味が無い。製造業もサービス業も社会にとって必要な産業だからだ。「空洞化」という表現には情報産業や金融業が実体の無い虚業で、製造業が社会にとって有益な実業であるという事が前提としてある訳だ。従って、この前提が間違いである事から、製造業を放棄した状態を空洞化と呼ぶのは間違っている事になる。
 彼は日本の製造業が国際的に高い水準にあることについて、次のように民族としての製造能力の高さが理由であるというような説明をしている。
 資本というのは、いちばん効率的に拡大をはかれる方法を選ぶが、その資本の意志からいえば、日本は物を作らせたら世界最高水準ともいえるくらい優秀な民族である。つまり、日本は、世界でも稀なほど極めて優秀な生産工場なのである。
 しかし、この優秀な生産工場には、マネジメントや金融が下手で、発展を邪魔している。
 似たような事を唐津一教授も言っているが、私は日本人が製造業を得意とする民族だとは全く思わない。昔から日本の工業は世界のトップレベルにあった訳ではない。今から僅か半世紀ほど前には、日本製品は粗悪品の代名詞であった。日本製品が高品質と言われるようになったのは歴史的に見るとごく最近の事である。製造業が優秀でマネジメントや金融が下手な理由は、単に日本人が製造業を重視して金融を軽視してきたからに過ぎない。製造業だけに力を注いでいれば、ものづくりが得意になるに決まっている。大して自慢にならないし、科学技術に民族主義が入り込むのは危険な傾向だ。
 韓国や台湾をはじめとするアジア諸国は実用的には日本製品の品質と大差ないレベルで、工業製品を生産することができる。船井氏の意見は単なる思い上がりに過ぎない。

脱工業化

需要と供給の逆転

 技術評論家として有名な東海大学の唐津一教授は平成不況を招いた原因はマスコミにもあるとして、著書「アメリカの“皆の衆”に告ぐ」(致知出版)の中で次のような説明をしている。
 新聞もテレビもこぞって、不況不況と盛んにあおり立てました。あれだけ危機感をあおられたら、心理的に萎縮するのは当然です。経済のメカニズムは心理的作用が実に大きく、そこが経済の面白いところなのですが、心理的な萎縮が個人消費を動かなくし、不況感を深くしたことはいなめません。
 しかし、今日の深刻な不況を招いた原因として、消費者の心理的な萎縮というのはあまり関係ないように思われる。日本経済の将来に不安があろうとなかろうと、消費者は必要があれば物を買うし、必要性が無ければ物を買わないだろう。
 例えば、タバコのような嗜好品の場合は買わなくても生きていく事ができるのだが、食料品のような生活必需品は不況だからあるいは貧乏だからといって買わないという訳にはいかない。不況になったら高価な肉や果物はあまり売れないというような傾向はあるかもしれないが、食料品の売れる量自体は景気とあまり関係ないような気もする。エンゲル係数という数字をご存知の方は多いだろうが、低所得者ほど収入に占める食料費の負担が大きくなる傾向がある。収入が十倍になったからといって、通常は十倍食べる訳ではない。
 工業製品の需要が減っているのは、日本経済の将来に対する不安が少しは関係しているかもしれない。しかし、工業製品の需要が減った事のもっと大きな理由としては、日本の消費者にとってもう欲しい物があまり無くなったという事が大きいと考えられる。現在の日本が深刻な不況であるという意識が工業製品の大幅な需要減を生んだのではなく、工業製品の需要が減少した事が今日の不況を招いていると考えるべきではないだろうか。工業製品の消費についても食料品の場合ほどには顕著でないにせよ、エンゲル係数と似たような傾向が出てくる。
 例えば、電気掃除機を購入する場合について考えてみよう。ある家庭で平均的な家庭と比べて十倍の収入があったからといって、掃除機に一般家庭の十倍の金をかけるという人はあまりいないのではないだろうか。いくら高性能の掃除機でも家庭用で数十万円するような電気掃除機は見た事がない。実際に調べた訳ではないが、恐らく低収入者の方が収入に占める掃除機の購入費用の負担が大きいものと思われる。
 自動車について考えると、一度購入したらカーマニアか車が大破でもしない限り、数年間は同じ車に乗り続ける場合が多い。また、普通は自動車のオーナーは一人が一台を所有するのが一般的で、一人で何台も自家用車を持っている人は少ない。車の耐久性や道路の舗装率が高まった事により、車の寿命は著しく延びている。外国では何十年も前に製造されたと思われるような車をよく見かけるが、大事に乗れば、数十年に渡って使う事も可能だ。景気が完全に回復し、日本経済に安心感が戻ってきたとしても、車を購入したばかりの人は、簡単には新しい車を買おうとは思わないだろう。
 終戦直後の復興期には、日本の国土が焼け野原となり物が極端に欠乏していた。また、朝鮮戦争やベトナム戦争などの特需によるものなど、かつては工業製品の需要は幾らでもあるという時期があり、作ればいくらでも売れる状態だった。注文に対して製造が追いつかないという時期があった。しかし、日本の経済が焼け野原の状態から復興し、冷戦も終了すると、工業製品は消費者にほぼ行き渡ってしまった。道路も橋も必要な施設の建設が一通り行われた状態だ。
 また、工業製品の生産性は厳しい競争と生産者によるたゆまぬ努力のために著しく向上している。しかも、東南アジアや中国や韓国や南米をはじめとして発展途上国や中進国が工業製品の生産に続々と参入している。その性能は日本製と比べて実用性では大差ないレベルにまで向上している。
 こうして、工業製品の需要と供給の関係は今や完全に逆転してしまった。その結果、今日では物余り現象が見られるようになっていった。これは当然の帰結であり、消費者の心理状態がどうだろうと、物はあまり売れない状態である事は致し方ない事だ。製造業や建設業以外の分野での需要を増やしていく必要がある。
 今日の不況は新聞やテレビが煽った事によって生じたものではなく、旧式な日本の社会構造に原因があって生じたものだ。「日本には優秀な製造業があるから、大丈夫だ。製造業が健在な限り日本の経済は必ず復活する」と触れ回っていれば、自然に日本の経済が復活するという訳では決してないのだ。

ハードウェア至上主義

 日本では、ソフトウェアよりハードウェアを重視する傾向がある。大学の工学部教授の中には、「ソフトウェアよりハードウェアの方が重要だ。ソフトウェアはハードウェアが無ければ動かない。ハードウェアが基本だ。ヴァーチャル・リアリティーなどにうつつを抜かしていてはいけない」などと言って、ハードウェアの方がソフトウェアより重要だと決め付ける人が少なくない。
 近年、工業製品の優劣に対する判定が難しくなる傾向がある。これは、工業製品の性能が著しく高まり、性能的には、ほぼ需要の限界に達してしまったからだ。例えば、パソコンの性能は著しく向上している。CPUのクロック数やハードディスクの容量などの数値は指数関数的に増大している。では、性能に比例して、パソコンを使った仕事の能率や成果も向上したかというと必ずしもそうではない。どのような事に使うかによっても違ってくるが、ワープロや表計算ソフトのようなシステムを使う限りは、例え機械の性能が倍になったとしても、業務能率が著しく上がったという実感が殆ど沸かない場合が多い。
 自動車の性能も著しく向上している。十年前に生産された車と今の車とでは、性能的には大きな差がある。しかし、車を単に移動手段の道具であると考える人にとっては、十年前の車も今の車も大差ないと感じるかもしれない。車の最高速度がいくら上がったところで、日本では時速百キロメートル以上で走行してはいけない事になっているから、法律を忠実に守る人は性能の向上を実感できないだろう。むしろ、安くて高性能な車が簡単に手に入るようになったため、道路に車があふれ、却って移動しにくくなった場合も少なくない。
 このように、工業製品の性能に関しては、実用的にはどれも大差が無いという状況になりつつある。日本と韓国の工業製品を比較すると数値的には、大きな差があるように見えても、実際には殆ど差が無いというような事例も少なくない。
 製品が故障した場合についても、故障率の差が数字ほど大きな意味を持たなくなってくるだろう。例えば、韓国製のパソコンが百年に一度、日本製が千年に一度の割合で故障する場合について考える。故障率からすると韓国製は日本製の十倍という事になるが、実用性からすると両者には殆ど差が無い。従って、軍事用の工業製品のように極限まで性能を追求される物を除いては、実用的な差は縮まる傾向がある。
 本来、ハードとソフトのどちらが重要かという事は簡単に決められないし、あまり意味が無い。どちらも社会にとって必要なのであって、比較する事自体がおかしい。「医者と大工とどちらが社会にとって重要か」と聞かれても、異質なものだから比較のしようがない。日本では、「頭と体とどちらが大切か」というような無意味で馬鹿げた比較をする人が多い。最近の自動車や電機製品はコンピュータを搭載している物が多い。コンピュータにはソフトウェアが必要だ。
 ハイテク機器で発生する故障や欠陥については、ソフトウェアの欠陥によるものかハードウェアの欠陥によるものなのか原因の特定が難しい場合が少なくない。例えば、オートマチック車の暴走事故は、搭載したコンピュータのトラブルが原因である場合が少なくない。コンピュータのハードウェアに欠陥があろうとコンピュータのプログラムに欠陥があろうと、ユーザーにとっては欠陥車である事に変わりはない。仮にプログラムに欠陥があって、そのプログラムがソフトウェア会社に外注して作成させたものだったとしても、メーカーの責任は免れない。ハイテクを使った冷蔵庫や自動車のトラブルについては、ユーザーがマイクロソフトやIBMの社員だろうとソフトとハードのどちらに問題があるのか見抜く事は難しい。このようにソフトウェアとハードウェアを分けて考えるのはあまり意味が無い。
 ソフトウェアが重要であるにも関わらず、これまで日本で軽視されてきた原因は、ハードウェアは形があるから優劣や概念が分かり易いのに対し、ソフトウェアは形が無いから重要性や優劣や概念が分かり難いためだ。単に分かり易さだけで評価されている。
 コンピュータ・ソフトの場合、数値的に明確な性能の基準が無い場合が多い。初期の頃は、コンピュータの計算速度が遅かったので、計算時間が短いのが良いプログラムと考えられていた時期もあった。しかし、最近では、コンピュータの性能は格段に向上しているので、一般的な用途に使う場合には、待ち時間はさほど気にならなくなった。そうなると使い易さが重要になってくる。しかし、使い易さというのは主観的な面が多いので、優劣の判定が難しい。
 素人にも分かり易い分野の代表が製造業だ。ロケットやリニアモーターカーなど形のある物は、科学的に高度な知識が無くても、なんとなく理解できる場合が多い。例えば、日本のリニアモーターカーの場合、超伝導という難しい理論を応用している。その原理が理解できなかったとしても、非常に高速な列車であるという事が小学生でも直感的に理解できるだろう。明石海峡大橋の場合、世界一大きな吊り橋であるという非常に分かり易い特徴を持っている。
 それに対して、例えば、ファジー理論の場合、理屈を説明されても素人には分かりにくい。素人には、ファジー洗濯機のような具体的な形となって現れることにより、ようやく意味が理解できるようになる。
 研究開発費の配分を担当する役人は、必ずしも科学や技術について詳しく理解している人物が就任するとは限らない。かつて「主婦の感覚」を強調していた科学技術庁長官がいたが、科学技術に関して全くの素人が科学技術庁長官を担当する事例も少なからず存在する。そのため、社会にとって有益であり重要性の高い分野より、単に見た目が分かり易い分野に研究開発費が重点的に配分される傾向がある。
 以上のような理由で、ソフトウェアに対する知識の乏しい素人は、ハードウェアの品質に注目しがちだ。その事が、製造業を得意としている日本の技術に対する評価が高くなりがちという結果に繋がっている。

他の産業との関わり

 既に何度も述べた通り日本の技術者の中には文科系より理工系、金融業や情報通信産業より製造業を重視する人が少なからず存在する。日本人の中には、製造業こそが産業の基本あるいは国家の根幹であると絶対に信じて疑わないような人がしばしば見受けられる。そもそも、なぜ製造業が産業の基本でなければいけないのかという疑問はある。恐らく、形があるものを作る産業であるという事で、やっている事が分かり易いというだけの事なのだろう。仮に製造業があらゆる産業の中で最も重要な産業であるとしても、金融業や流通業などどうでもよいと切り捨てて考える事には大きな無理がある。
 製造業やゼネコンや金融業や流通業などの業界はそれぞれが互いに深く関わりあっている。実際に日本の製造業を支えているのはトヨタ自動車や松下電器のような大手メーカーではなく、下請けの中小企業だ。物づくりの技術も発明も実際に担っているのは零細な中小企業が大半なのだ。大手メーカーやゼネコンは、いわば商社のようなものと考える事すらできる。
 物作りや技術開発には金がかかる。トヨタ自動車の場合はトヨタ銀行などと呼ばれているくらいで、その資金力は豊富だ。トヨタ自動車のような大手メーカーだと自分の力だけで、ある程度の資金は調達する事が可能な企業もある。しかし、日本の多くの中小メーカーは資金力に乏しい場合が圧倒的に多いので、操業資金の援助を銀行などをはじめとする金融機関に頼らざるを得ない。ところが、銀行をはじめとする日本の金融機関はメーカーの将来性や技術力や優秀な人材の有無など企業の中身を見て融資先を決めるのではなくて、融資しようとする企業が土地などの担保物件を持っているかどうかを融資の主な基準としているような場合が少なくない。このようなやり方では大手メーカーには気前良く金を貸すが、中小のメーカーに対しては貸し渋る事になりがちだ。先に説明した通り、実際に日本の製造業や建設業を支えているのは下請けの中小企業だ。そういった所に金が回らないのはいかにもまずい。
 日本の銀行が貸してくれないのなら、外国の銀行から借りれば良いと主張する技術評論家もいる。しかし、それだと製造業が稼いだ利益を外国に持っていかれてしまう事になる。非常に安易な考え方だ。そういう事をやっていると結果的には、日本の製造業が実質的に外国資本に支配されてしまう事になる。だから、銀行をはじめとする金融機関が駄目なら自然に製造業も駄目になってしまう。従って、製造業が銀行より大事だという考え方は矛盾している事になる。バブルの頃、理工系の学生がメーカーやゼネコンを敬遠し、銀行に就職する傾向がある事を嘆く声が盛んに聞かれたが、彼らは必ずしも楽をしたくて銀行への就職を選んだ訳ではない。むしろ、理工系の人材を積極的に銀行に送り込んで、見込みのあるメーカーに積極的に融資するような体制にしなければならない。
 金融業をギャンブル産業あるいは虚業のように言う人がいるが、投資をするというのは宝くじを買うのとは根本的に違う。宝くじや馬券を買う事は個々の人にとって損得はあっても社会全体にとってみれば、プラスにならない行為という事ができるかもしれない。しかし、将来性のある産業や社会性の高い団体や個人に対する投資は、立派な行為と言える。と言うより、そのような投資は社会にとって絶対に必要な事だ。
 流通業と製造業の間にも深い関係がある。日本の代表的な生産方式として、トヨタが生み出したカンバン方式がある。これは必要な時に必要最小限の物資を工場などに供給するシステムだ。交通渋滞や事故などのトラブルが発生した時の影響が大きいという欠点はあるが、在庫の無駄を極力減らす事ができる優れたシステムだ。この方式は品質を高めようというより、コストを低減する事に主眼が置かれている。言わば、自動車メーカーと部品メーカーなどのメーカー間による製造現場での流通システムだ。流通や交通が悪ければ、当然の事ながらメーカーの生産活動にも悪影響を与えてしまう。このようにカンバン方式というのは製造システムというよりむしろ流通システムに近い感じもする。それ自体は、製品の品質を高める事とは直接関係ない。
 工業製品は高品質であれば売れるというものではない。CPUの周波数やハードディスクの容量が他社製品の百倍だったとしても、価格が一千万円もするパソコンなら買う人は殆どいないだろう。私が建設工事現場にいた時の経験では、現場管理を担当する技術者は技術的な計算をする場合よりむしろ、金の計算をする事の方が多いくらいだった。
 このように個々の産業をばらばらに見るのではなく、産業全体としてバランスをとって見なければならない。製造業だけが優秀でも何の意味も無い。強いて、製造業と金融業のどちらが大事かを決めるとすれば、それは金融業の方だ。もし、金融機関が、どこのメーカーが優秀な技術を持っているかを正確に見極める事が出来るとすれば、優秀なメーカーを配下に置く事ができる。これからの日本社会では金融業の力を付ける事が肝要だ。

なぜ製造業が基本でなければいけないのか

 日本には製造業が産業の基本であると強く主張する評論家や経営者は少なくない。「ものづくりが産業の基本であり、サービス業は付属品に過ぎない」というような考え方をする人が日本には多いようだ。
 しかし、なぜ製造業が産業の基本でなければならないのだろうか。世界の中には農業国や商業国や観光国として成り立っている国がたくさんある。と言うより、製造業だけで成り立っているという国は殆ど無い。サービス業や農業が産業の中心になっても一向に構わないように思えるのだが。
 まず、サービス業について考えてみよう。自動車や半導体や鉄を作る技術が日本国内に全く無かったとしても、コンピュータ・ソフトを輸出する事によって外貨を稼いで、その金で工業製品を輸入するという手段もある。金融の分野で優秀な技術を保有して外国企業と提携するという手段も考えられる。自国で生産していない工業製品がなければ、輸入すればよいだけの話だ。
「サービス業より製造業の方が基本的な産業だから大切なのだ」という理屈からすると、農業は製造業よりもさらに基本的な産業という事になる筈で、矛盾した論理だ。人間は車やテレビなど無くても多少不便になるだけで生きていく事はできる。しかし、食糧がなければ人間は生きていく事ができない。日本が農業国であっても一向に構わない筈だ。そもそも「ものづくり産業が大切だ」というのなら、農業だってものづくり産業だ。しかも、最も人間の生活にとって基本的な食糧という製品を作る産業である。日本は主要先進国中で最も食糧自給率が低いが、農業を軽視している理由の一つには「農業は高度な頭脳を必要としない低レベルの肉体労働だ」という農業蔑視思想が根底にあるのではないだろうか。製造業には優秀な頭脳を必要とする最も高度で知的な産業というイメージがあるようだ。それに対して、「農業は馬鹿でもできる」というイメージを持っている人が多いのではないだろうか。実際には製造業というのは多くの場合、経験や体力が重視される単純労働に過ぎないのだが。特に製造現場ではその傾向が強い。
 製造業が大事とされているのは、単にメーカーの経営者やメーカーの御用評論家など製造業界で生きている人の都合に過ぎないのではないか。工業製品の中にはそんなものが無くても生きていけるような物がたくさんある。ゴルフのクラブやウォークマンなど生きていく上で無くたって全く困らないような製品だ。メーカーの経営者やメーカーの御用学者たちが自分たちの利益を考えて、「製造業が基本だ」と言っているだけの話だろう。
 このように製造業というのは実は最も中途半端な産業であるというのが実態なのだ。製造業は発展途上型の過渡的な産業であり、必ずしも最も高度な先端産業とは言えない。先進国と工業国は全く別のものだ。より高度な産業に移行する必要があるという事であれば、コンピュータ・ソフトの開発をはじめとするサービス業に移行すべきだ。逆により基本的な産業を重視すべきだというのなら、農業に重点を置くべきだ。「製造業が産業の基本である」という考え方は全くの出鱈目だ。
 日本人が製造業に対して強いこだわりを持っている事には様々な理由がありそうだ。その一つとして過去の栄光を懐かしんでいるという面があるのではないだろうか。中高年の経営者や労働者の中には製造業とともに歩んできた人が少なくない。戦後の日本経済は製造業によって大きく躍進してきた。GNPが世界第二位になったのは製造業をはじめとする工業のおかげだ。その栄光を忘れられないのではなだろうか。中高年にとって製造業は言わば青春の思い出でもある。経済大国と呼ばれるまでに日本を躍進させた産業を疎かにしてはいけないという意識が強いようだ。かつて社会の発展に大きく貢献したとしても、今役立っていなければ意味がない。いつまでも過去の功績と思い出を誇らしげに語られても困るのだ。
 戦後の日本は国土が焼け野原になり、貧しかったので、工業製品の需要は幾らでもあった。そういう時代には製造業が基本と考える事は至極当然だったのかもしれない。しかし、今では物はあり余っている。瀬戸内海の小島である豊島に年間五百万台の廃車が山積みにされ、毒ガスを発生している状況だ。日本はかつての花形産業だった石炭産業を放棄してしまったが、これは石油時代の到来を迎えてやむを得ない選択だった。製造業についても同様に、古いものから順に切り捨てていかざるを得ないだろう。そうしなければ、国家の崩壊に繋がりかねない。

ヴァーチャル・リアリティー

 下記のリンクをクリックすると当サイトの「社会科学」のページに飛びます。
 ヴァーチャル・リアリティー

農業

 日本の食料自給率は四割程度に過ぎないと言われている。食料安保の必要性については真剣に考える必要がある。異常気象などにより世界的な食糧危機が発生して、十分な量の食料を輸入する事が不可能になる場合もあり得る。現在のように、食料自給率が極めて低い状態では非常に危険だ。
「製造業で稼いだ金で食料を買えばいい。農業など無くても構わない」と思っている人がいるかもしれないが、とても安易な考えだ。「日本の製造技術が無ければ、世界の工場が止まってしまう。だから外国は必ず日本の工業製品を買ってくれる」という意見もあるが、それは日本人の思い上がりに過ぎない。仮に日本の製造技術がそこまで優秀であるとしても、工業製品は人間が生きていくために絶対必要な物ではない。
 メーカーの経営者や技術者の中には、製品の品質が優秀で価格が安ければ必ず売れるという確固たる信念を持っている人が少なくない。しかし、このような考え方は何の根拠もない幼稚で独善的な考え方だ。「工業製品の品質が優秀なら必ず買ってやる」とクリントン大統領が約束した訳ではない。必ずしも、外国が一定量を買ってくれるとは限らない。
 日本人が最善の方法だと思い込んでいる加工貿易という方法は、極めて危ない均衡の上に成り立っている。 加工貿易が成り立つためには、まず、工業資源の輸入が間違い無く継続される事が前提だ。中東からの石油などの燃料、オーストラリアからの鉄鉱石やボーキサイトなどの原料といった資源のうち、どれか一つでも入ってこない物があったとしても加工貿易の成立は困難になる。これら全ての工業資源について安定した供給を受けられるかどうかは、日本の技術力の優劣とはあまり関係ない。中東ではいつ戦争が起きるかわからないし、将来、資源が枯渇する可能性もある。食料、資源、燃料などの供給が全て安定して受けられるという保証は何もない。将来、食糧危機や戦争や資源枯渇などのトラブルが起こり、食料、資源、燃料などのうちどれかの輸入が順調に行かなくなる可能性がある。
 加工貿易が成り立つためのもう一つの条件は、製品が確実に売れるという事だ。工業製品が売れるかどうかは、単に性能や価格やサービスの優劣だけで決まる訳ではない。品質が優秀であるという事は、製品が売れるための必要最低条件に過ぎない。「品質が悪ければ売れない」という事は言えるかもしれないが、「品質が良ければ絶対売れる」という事は断言できない。いくら品質が良くても、必要性が無ければ売れないし、相手が金を持っていなければ買ってもらえない。又、相手国の市場が閉鎖的な場合も製品が売れない事がある。発展途上国は市場が閉鎖的である国が多く、特に工業製品に対して閉鎖的な国が多い。
 飢えで苦しんでいる人たちは、車やテレビなどの工業製品を欲しがるだろうか。そういう人たちにとって、工業製品など贅沢品に過ぎない。そんな物に目もくれず、水や食料を求めるだろう。金を十分持っている人でも、車や電機製品などは毎日、買い換える必要がある製品ではない。最近の自動車は耐久性が非常に高くなっている。耐久性が高いという事は品質の重要な要素であるが、耐久性が高まることによって、全体としてますます車は売れなくなる傾向がある。良い物をたくさん作る事によって、工業製品はますます売れ難い状況になっている。
 それに対して食料は生きていくために絶対必要な物だ。供給過剰になる事はあっても、需要が全く無くなる事はない。ハイテクだの技術立国といった言葉の聞こえはいいかもしれないが、そんな事のために国民が飢えで苦しむような状態に陥っては意味がない。
 しかし、農業関係者の側にも甘えは見られる。今の農政を見ていると、共産党にせよ社民党にせよ自民党農林族にせよ、農民の票が欲しいために米などの農産物輸入自由化に反対しているような印象を受ける。農民にしても、「食料自給率の低下を防ぐ」、「食の安全を守る」、「伝統文化を守る」、「環境保全や景観の保護」といった大義名分を掲げて輸入自由化に反対しているが、とってつけたような理由ばかりで、競争力の無さを他の理由でごまかしているようにしか思えない。
「食料自給率の低下を防ぐ」、「食の安全を守る」、「伝統文化を守る」、「環境保全や景観の保護」といった事はそれぞれ全く別の話しだ。
「輸入食品の安全性に不安がある」というのなら、税関で厳しくチェックすれば済む話しだ。検査体制がしっかりしていれば、税関を通す輸入食品の方が、むしろ安全なのではないだろうか。輸入食品が危険とすれば、国産食品の検査体制にだって欠陥がある可能性が出てくる。これは根底に、「日本製品は優秀」とか、「日本人は真面目で不正をしない」という思い上がりがあるのではないか。
「伝統文化を守る」といっていたら、製造業にせよ映画産業にせよ全て文化という事になってしまう。そうなると鎖国という事になってしまう。
「環境や景観の保護」という言い訳も非常に苦しい。そもそも、農業というのは環境保全どころか、環境破壊産業なのだ。製造業よりましかもしれないが、その影響は決して無視できるものではない。「水田はダムに匹敵する効果がある」などと言われているが、そもそも、ダム自体が無駄な物とされているのだから、全く理にかなっていない説明だ。仮に環境保全や景観の保護という効果があったとしても、それは本来の目的ではない。別途、金を出した方が効果的ではないのか。
 農産物の輸入自由化に反対する政治家にせよ農民にせよ、単に利権で動いているようにしか見えない。「瑞穂の国」とかいう訳のわからない説明をする人もいるが、「コメは伝統文化だというセンチメンタルな部分」は切り捨てて、市場開放していかなければならないだろう。
 日本の農業政策に対する最大の疑問は全国で画一的に行われているという事だ。特に米作については大きな疑問がある。米は本来、熱帯性作物だ。中国の雲南省、インド北部、東南アジアあたりが原産地と考えられている。いずれも高温多湿な地域だ。北海道や東北といった寒冷地が多い日本には必ずしも最適な作物とは言えない。 農産物は地域に適した物を栽培すべきだ。
ホームへ