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ホームへ 目次の分離 更新情報 (最終更新日:2013/04/23 )


  1. 下層無 DV(ドメスティックバイオレンス)の知られざる恐るべき実態
     ドメスティックバイオレンスの知られざる恐るべき実態を暴露。
  2. 下層無 建設業の恐るべき実態
     建設業界の恐るべき実態を暴露。
  3. 下層無 耐震強度偽装問題
     耐震強度偽装について解説。
  4. 下層無 アメリカの陰謀
     無責任で低レベルな陰謀論を批評する。
  5. 下層無 労働問題
     弱者を無視した独善的な運動を批判。
  6. 開閉 的外れな対米追従(従属)批判
     対米追従(或いは従属)なるものに対する批判が何十年も前から行われているが、その愚かさを説明する。
  7. 開閉 トヨタ自動車の環境破壊
     愛知県で環境問題に取り組む関口修氏によるトヨタ自動車テストコースにおける環境破壊の報告文
  8. 開閉 日米安保の検証
     沖縄をダシに使う怪しげな反安保論を検証する。
  9. 開閉 民主党政権の通信簿
     遂に政権を獲得した民主党内閣に対する独断と偏見の評価を行う。
  10. 開閉 広島・長崎の原爆投下は特別か
     日本では人類史上最大の暴挙とも言われる広島・長崎に対する原爆投下だが、アメリカのみならず世界各国の見方は様々だ。
  11. 開閉 独り歩きする言葉
     「DV」をはじめ近年流行した言葉には本来の定義とかけ離れたものや趣旨を取り違えたものが少なくないが、用語を具体的に検証する。
  12. 開閉 嫌煙権について考える
  13. 開閉 何故いけないのか
     談合、官僚の天下りなどの不正は何故悪いのか大人でも案外分りにくいものです。「なぜいけないのか」今更聞けないような不正について分かり易く解説しました。
  14. 開閉 常識を疑う
     世間一般に言われている常識に対する疑問です。
  15. 開閉 日本国憲法改正問題
  16. 開閉 人物評
     有名人に対する私の評価です。

DVの知られざる恐るべき実態(他ページ)

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建設業の恐るべき実態(他ページ)

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耐震強度偽装問題(他ページ)

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アメリカの陰謀に関する検証(他ページ)

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労働問題(他ページ)

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的外れな対米追従(従属)批判

 長年に渡り聞かされてきた対米追従批判の愚かさを具体的に指摘する。

本当に対米追従しているか

 対米追従或いは対米追随、対米従属などの言葉をよく聞かされるが、私は本当に日本が対米追従してきたか疑問を持っている。

 そもそも日本が素直に従ってきたのは殆ど軍事分野だけだ。
 在日米軍やベトナム戦争、イラク戦争などに関する米国の要求に対して日本政府は殆ど逆らわずに便宜を図ってきたのに対して経済分野では米国の対日要求に対して日本政府はほぼ毎回「ノー」から返事が始まって頑強に拒む事が多い。
 昨今の例ではTPPなどがあるし、米国産牛肉についても「全頭検査をしていない」という欧米にはない日本特有の偏った理屈で輸入を長く拒んできた。
 何と言っても酷いのは建設市場が外国企業に殆ど開放されていない事だ。地震国という特殊な事情があるにせよ米国だって地震国なのだから当然耐震技術はあるにも関わらずだ。

 軍事で米国に便宜を図る見返りとして日本は対米貿易黒字など経済面で様々な恩恵を受けてきた(これは韓国やドイツなどについても同じ事が言える)。
 軍事についても日本では保守的な立場にある自民党政治家の中には自衛隊の海外派遣など軍事面の積極的な伸長を念願してきた人も少なくない訳で、対米追従してきたとは一概に言えない。

敵の思う壺

 前項でも触れたが、日本の保守派政治家の中には中曽根康弘元首相などをはじめとして米国からの軍事要請をむしろ積極的に利用した人も少なくない。
 対米追従批判の歴史は長く、私は少なくとも中曽根康弘首相の頃から聞いている。
 中曽根康弘元首相に対する左翼陣営の対米追従批判について間抜けた印象を受けた。
 そもそも中曽根氏の建前は平和主義者であり、軍事活動を積極化したがっているとは思われたくなかった。
 アメリカからの要請で仕方なく軍事協力している形をとりたがっているのに「対米追従は情けない」と言ってみても中曽根氏の思う壺で彼にとっては内心笑いが止まらなかっただろう。
 外圧を巧みに利用しようとした中曽根氏の策略に見事に引っかかった間抜け過ぎる左翼陣営という見方も出来る。

単なる揚げ足取り

 最近では対米追従批判の間抜け具合は更に進展した感があるが、比較的最近の例として小泉純一郎元首相に対する対米追従批判を検証する。
 私は自民党に投票した事は一度もないし、首相時代の小泉純一郎氏は口先だけで中身がないと思っていた。
 前任者の森善朗元首相が失言を連発し「史上最低の首相」と馬鹿にされ続けた事もあり小泉氏が素晴らしく見えただけだ。
 小泉氏はやたら目立つだけで実際には殆ど何も見るべき政策を打ち出していないのだが、これと言った欠点がほとんど見当たらない「そつの無さでは天才的」な首相だった。
 批判する側としては捉え所の無さすぎる小泉氏を批判するこれと言ったネタが見当たらず、無い知恵を絞って打ち出したのが「対米追従は情けない」という批判ではそれこそ情けな過ぎる。
 そもそも小泉氏は社民党や共産党と比べると元々タカ派であり米国からの強要とされる郵政民営化も首相就任以前から唱えていた。
 批判するネタに乏しい際に安易に使われる昨今の傾向はまるで小学生並みであり対米追従批判の更なるレベル低下を感じる。

トヨタ自動車の環境破壊

 環境問題に取り組む松本市の関口修氏による告発。

関口氏のメール(愛知県トヨタ自動車はなぜ地球を滅ぼそうとするのでしょうか)

 トヨタ自動車に関する下記のメールを関口修氏から頂きました。
 愛知万博にてどれだけ多くの市民が海上の森が破壊されることを憂い会場の変更を訴えても愛知県は会場を変更しようとはしませんでした。
 愛知県が会場を変更したのは自然が大切だと考えたわけでもオオタカを守ろうと思ったわけでもなく万博本部(BIE)からの勧告があったからです。
 愛知県には自然環境や生態系を守ろうという気持ちはありません。愛知県とはトヨタ自動車の下請けの造成会社でしかないのように私には感じます。今回もトヨタ自動車のテストコースを作るために絶滅危惧種一種のサシバの生息する生物相 豊かな森 田園をトヨタ自動車に代わり造成するのです。サシバだけではありません。オオタカ ハチクマ ミソゴイなど貴重種が豊富に生息する一級の自然を本来なら開発をしないように行政指導しなければならない愛知県がサシバ オオタカ ハチクマ ミソゴイ ブッポウソウが生息していても関係ない。自然保護よりトヨタ様のためと造成します。その愛知県豊田市下山地区旧下山村の開発予定地を6月7日「21世紀の巨大開発を考える会」の織田様の案内でくまなく視察してきました。現地を見て思ったことは、これは里山でもありますが、奥山 山の中 山地という印象をうけました。谷津田から少し入るとそこはうっそうとした広葉樹の森でありオゾンを感じながら山間地をハイキングしているような気持ちになりました。奥山の森林浴の気分そのものです。絶えず小鳥の鳴き声がして 生物相が豊かだということが わかります。 これだけの奥山を造成すれば生態系破壊だけでなく必ず人間社会にも水害、地すべり、地震などの災害をもたらすと私は考えます。ここは里山でもありますが 山間地というイメージです。鹿 いのししなどの大型鳥獣の生息地にもなっています。日本リスもこの目で見ました。多くの哺乳類が生息している森なのです。ここを造成するということは凄いことで地球を滅ぼす行為です。必ず災害を誘発すると思います。また谷津田はすべて圃場整理されており山間地の割には田んぼの一枚の面積も大きく。機械も入ります。税金、補助金で圃場整備がしっかりできている田圃をなぜ愛知県トヨタ自動車は破壊できるのでしょうか? 補助金 税金を投入して米を生産するために圃場整備したのではないでしょうか? テストコースを作るために補助金 税金を投入して圃場整備したのではないでしょう。
 以前に 朝日新聞の論説で里山は人の手が入らず荒れていると書いてありました。それは間違えです。山の奥の奥の棚田は植林地に代わり杉の林になっておりますが 谷津田はとても美しく ちゃんと耕作もなされています。杉の植林地も下草刈りなどの手入れがされて明るい日差しも入っています。森を抜けると谷津田が広がり田圃を耕作している農家の方にお話しをお聞きすることもできました。残念ながら土地を売ってしまい11月までしか耕作できないとのことです。残念ですけど子供の代では農業では食べていけないからということでした。この美しい谷津田で 米を生産できなくなることを とても残念がっておりました。でもまだ 圃場整備にかかった費用を回収していないそうです。とてもきれいな田圃であり水面は絶えず水の輪を作っておりカエル オタマジャクシ やごなが豊富に生息していることがわかります。小鳥の鳴き声が響き、蛙が鳴き 生物多様性の豊かさを感じた視察でした。開発予定地の土地は97%愛知県が取得しており、 いつでも破壊できる状態です。風前の灯 座して死を待つ状況です。アセスが終わってない土地を買収し、代金70%支払っています。どのようなアセスの結果が出ようが土地代金を払った以上愛知県は強硬にこの生態系を破壊するでしょう。アセスなどは自然保護には全く役にたたないように思えます。
 環境万博をおこなった愛知県とエコカーを前面に出すトヨタ自動車が今人類にとって一番大切な生態系を生物多様性を破壊する大規模な計画を実行しようとしています。愛知県環境保全局は全く動かず環境庁も動かない。大手自然保護団体も今のところうごきません。マスコミも報道しない。愛知県に正義はあるのでしょうか? 環境庁にもマスコミにも正義はあるのでしょうか? たとえ世界のトヨタ自動車でも悪いことは悪い。してはいけないことはしてはいけないのです。私のような一市民ではなく行政・マスコミがはっきり言っていただかないと本当に資金力豊かな私企業のエゴのために私達の住む地球は滅ぼされてしまいます。地球を守るために常識ある多くの人、行政、マスコミが悪いことは悪い、してはいけないことはしてはいけないと声をあげてください。お願いします。

松本市 関口 修

 21世紀の巨大開発のホームページからダイレクトに愛知県に意見書が出せます。愛知県に無謀な自然破壊をやめるように一言お願いいたします。
また どなたかホームページなどの英訳をボランテアでしてくださる方がおりましたらご協力をお願いします。

開発の問題点(関口氏の指摘)

優良農地が消滅します

 政府は、「農林漁業の再生の基本方針」において食料自給率を50%の目標にしています。
 また、豊田市においても耕作放棄地再生事業に取り組んでいます。
 平成2年には、「生産基盤を整備し、生産性の向上を図り農村の環境条件を整備するために県営圃場整備事業が実施され整備された優良農地」が開発地の中にあります。
 農地法では農家しか買えないと規制している農地を一企業の開発のために企業庁が購入しているのです。
 しかも、そこは税金を投入して整備した優良農地なのです。

里山の維持管理は、出来るのでしょうか?

 開発計画では森林や水田を改変しない地帯をもうけて環境の保全、生態系の創出・向上に勤めるとしていますが、里山は住民が日々の生活に利用し育てこつこつと労働を重ねて数百年と言う長い時が作ってきた所です。
 利益優先の企業が山林や田畑をどの様に維持できるのでしょうか。

開発計画地には、保安林があります

 保安林は、水源涵養、土砂流出、風水害防止、温暖化防止、生活環境保全などの機能があり、大切に守られてきました。
 保安林は災害から国民の生命財産を守ってくれている緑のダムであり大切な財産です。
 開発地には43.7781haもの保安林がありますが、解除され、樹木が伐採されようとしています。

巴川の下流域は水害の危険が大きくなります

 開発地に降り注いだ雨は郡界川から巴川へと流れて岡崎市へ流れて行きます。
 長雨やゲリラ豪雨による土石流や洪水が各地で多発していますが、緑のダムの機能を持つ268haもの森林や水田の消滅は、下流域の人々の生命、財産を脅かす原因となります。
 268haは豊田市にあるサッカースタジアムの66個分に相当します。

周辺住民の生活環境が悪化します

 3700台もの車の進入は大気汚染、水質悪化、生態系破壊、騒音や振動の増加、温暖化、景観悪化などを招き下山の自然豊かな生活環境が悪化します。
「3850人の社員の通勤は環境に配慮してパーク・アンド・ライド方式の他、公共交通機関やシャトルバスの出勤を徹底する」としていますが、ならば3700台も収容する駐車場の建設は、なぜ必要でしょうか。

環境影響評価準備書に対して提出された市民の意見は、反映されるのでしょうか

 トヨタ自動車の見解や審査会の答申、知事意見、岡崎市長、豊田市長の意見は事業者優先であり、環境保全についての住民意見は十分に反映されてません。
 平成24年3月頃には評価書が完成し、1ヶ月の縦覧期間が終われば環境影響評価は終了します。
 市民意見が反映されているいないに関わらず、事業の許可や認可を受けて24年度より事業が実施されます。

日米安保の検証

日米安保の後

的外れな対米追従論

 政府の対米政策に対して「対米追従(あるいは対米従属)は情けない」という声が社会民主党や共産党などの野党議員や左翼文化人のみならず保守派からもよく聞かれる。
 さて、対米追従の定義は具体的にどのようなものなのかwikipediaから抜粋した。
国家・政府・議会・国民が、自立や自己決定の意思を持たず、自分の認識や意見を持たず、自分の認識や意見に基づく判断や言動をせず、アメリカ合衆国議会・政府、アメリカ合衆国企業、アメリカ合衆国民に対して隷属・服従し、内政も外交も、その他あらゆる物事も、アメリカ合衆国の言いなりになって言動することである。
 私は社会民主党や共産党などに投票した事はあるが、自由民主党が嫌いなので一度も投票した事はないし庇う気もないが、上記の対米追従に関しては全く的外れな批判だ。
 そもそも貿易や産業など日米の利害が対立した時に日本が一度でも米国に従った事があったか。自動車を嵐の様に米国に輸出しておいて米の輸入は「米は日本の文化だから輸入できない」などと頑なに拒んできた。
 調査捕鯨と称して南極付近まで遠征して鯨を捕りまくっている日本の態度に米国からクレームが来ても、これまた文化と称し素直に聞き入れない。
 日本国内の建設工事には米国からの再三の要請にも拘らず米国企業は全く入り込めない。

 この様に日本は経済に関しては言うべき事だけでなく言わなくてよい事までアメリカに主張してきた。米国の膨大な対日赤字を見て分る通り圧倒的に得してきたのは日本の方だ。

 日本がアメリカの言いなりと言われる事は殆ど軍事絡みだ。

沖縄米軍基地問題

安保の是非が先決

 日米安全保障条約の是非に関する論議について沖縄問題と絡めて渾然一体の主張をする人が多い。
 沖縄の在日米軍基地問題を捉える事情は人それぞれだろう。例えば「安保は必要だが、沖縄に在日米軍の75%が集中しているのは不公平だから分散させるべきだ」と言う人や「日米安全保障条約自体が日本にとって役立たない(あるいは不要)」と言う人もいるだろう。
 そもそも後者の「日米安保自体が必要ない」なら、その時点で沖縄に在日米軍基地を存続させる必要もなくなるから自動的に問題は解決する。

 従って日本人がまず最初に考えるべき事は日米安保の是非だ。沖縄問題はそれに付随する問題に過ぎない。

米兵の犯罪は本当に多いか

 在日米軍・沖縄駐留米軍の犯罪率を考えるというブログで在日米兵の犯罪に関する興味深い数字が掲載されていた。
 警察白書などを情報源としているようだが、詳しい情報源を知りたい方は上記サイトをご覧頂きたい。
平成18年の犯罪発生率
日本全体0.30%刑法犯検挙人員/人口(千人単位*1000)の%表示 外国人犯罪含む 都道府県別だと0.19〜0.46
沖縄県(米軍以外)0.30%刑法犯検挙人員/人口(千人単位*1000)の%表示
米軍 in 沖縄0.14%刑法検挙人員/滞在数
来日中国人1.57%刑法検挙人員/対象母数 (登録者-永住者+短期旅行者/日数)
来日韓国・朝鮮人1.94%同上
来日ブラジル人0.52%同上
 マスコミや安保反対運動家などに大騒ぎされる在日米兵による犯罪数はこうしてみると非常に少ないと思う。
 上記サイトのコメント欄に下記の記述があったが、全く同感だ。
こうやって見ると、「犯罪をおかすから米軍は出て行け」などという論法を取ると、他の外国人も全部出て行ってもらわなきゃいけなくなりますね…… それよりも米軍の倍の犯罪率の日本人までこの国から出て行かなければならなくなりますね……
 これについて「米兵の犯罪件数が特に少ない年を意図的に選んだのではないか」とか「アメリカ側に都合の良い情報操作によって事実が歪められているからデータ自体があてにならない」などの異論があるかもしれない。
 まず前者についてだが、この年に米兵の犯罪が特別少なかった訳ではない。後者については可能性が無い訳ではないが、それなら在日米兵の犯罪の多さを強調する人たちのデータも情報操作された可能性があり公式な数値が信じられないのなら結局何も信頼できなくなる。

 今まで米兵の犯罪について「少女を強姦するなんて許せない」とか「沖縄県民は米兵の犯罪に怯えている」などの感情論だけで具体的な数値が殆ど示されていなかった。
 百%信頼できるかどうかはともかく、少なくとも具体的数値を出して検証した点である程度評価できる。

米軍の事故は多いか

 社会民主党で活躍している保坂展人氏の保坂展人のどこどこ日記というブログに沖縄の在日米軍の事件や事故に関するデータの記述があった。
 ここでのテーマは訓練などによる事故についてなので保坂氏のサイトで紹介された事例から交通事故や犯罪などの事例を除いて列挙する。
2004年
 6月15日北谷村の民家の庭 (※所属・米海兵隊) 米軍機F/A18からの部品の一部が落下。
 8月13日沖縄国際大構内 (普天間) 米軍ヘリ(CH-53D)が墜落。
2005年
 4月27日伊江村 (トリイ) メインパラシュートが提供施設外に落下。
 6月 6日宜野座村 (キャンプ・シュワブ) 水陸両用車が高架橋の側壁及び上部フェンスに衝突。
 6月 9日キャンプ・シュワブ水域内 (キャンプ・シュワブ) 水陸両用車が沈没。
2006年
 3月30日嘉手納上空 (嘉手納) 米軍機(F-15)からパイロットのミスにより訓練用照明弾を発射。
 8月25日陸軍貯油施設(桑江第2タンクファーム) (嘉手納) 米軍機(F-15)からパイロットの不注意により訓練用照明弾を発射。
12月13日トリイ通信施設沖の海上 (海兵隊) 米軍ヘリ(CH-53D)が車両吊り下げ中、乱気流を受け、安全のため同車両を海上に投下。
2007年
 1月 5日北部訓練場(福地ダム・新川ダム) 米軍のものと思われるペイント弾、照明弾等がダム湖から多数発見。
2008年
 4月 9日鳥島村射撃場付近提供海域 (海兵隊) 米軍機が訓練中に実弾をターゲットから外れて誤投下。
10月24日名護市 (嘉手納エアロクラブ) 嘉手納エアロクラブ所属のセスナ機が墜落。

 多いか少ないかは主観の問題なので何かと比べないと客観的評価はできないが、私は「軍隊の活動にはもともと事故が付き物だが、それにしては随分少ない」と思う。
 住民などの死傷に関する情報が何ら述べられていないが、恐らく殆ど死傷者はいなかったのではないだろうか。もし沖縄県民に死傷者が出ていれば米軍反対派が大騒ぎして明記している筈だ。
 潜水艦を漁船に衝突させて死傷者を発生させたり自衛艦による当て逃げなどによるお粗末な事故を頻発させる自衛隊とは雲泥の差だ。
 確率的に見ると沖縄県民が米軍の事故で死傷する可能性が特別高いとは思えない。
 住民の安全のために少しでも事故を減らしたくて基地の移転を求めるのは構わないが、事故を理由に沖縄の米軍を危険な存在として過度に糾弾するのは的外れだ。

沖縄の異様な人口密度(全国平均の2倍)

 日本の人口密度は2005年で343人(平方キロメートル辺り)だが、沖縄の人口密度は609人(2009年10月1日)となっている。
 沖縄の人口密度は日本全体の実に2倍近い高さになっている。県別順位では東京、大阪、神奈川、埼玉、愛知、千葉、兵庫という大都市圏に続いて9位に入っている。
 ちなみに四国の人口密度は217人(2005年10月1日)で九州の人口密度は328人(2010年9月1日)だ。

 本土から遠く離れた離島で、これといった主要な産業のない沖縄県が京都府を上回り大都市圏並みの人口密度があるのは異様だ。
 観光という重要な産業があるとはいえ観光だけでは通常はそんなに人口密度が高くなるわけではない。
 北海道同様に自然を売り物にした観光地が京都より人口密度が上なのは観光地という特性によるものではないと思われる。

 亜熱帯で暑く雨の多い気候は農業には適しているが、普通、農業地帯はそんなに人口が高くならないものだ。

 そう考えると考え得る選択肢の内、残りは在日米軍基地の存在だけとなる。
 基地があるからこそ人が集まったのであり、強力な基盤産業のない沖縄から米軍基地が無くなれば日本全体の2倍もの人口密度にも達する人口を養う事はとても出来なくなるだろう。
 普天間基地の周辺に住宅が密集している写真がよく見せつけられるが、そんな保障問題が厄介な場所に政府や米軍が無理矢理基地を持ってくる訳がないのであって当然、最初の内は周辺に住宅地など殆ど存在しなかった。

 そういう事情があるので私は沖縄県民に必ずしも同情的ではないが、かと言って「沖縄県民はわがままだ。我慢しろ」とも言わない。
 基地はやはり周辺住民が快く受け入れる場所に置くべきで米軍基地を歓迎する街はたくさんあるのだから、そこに持っていくべきだ。
 但し、当然、今まで沖縄に注ぎ込まれていた補助金などはやめてもらうことになる。


民主党政権の通信簿

嘘つき仙谷由人

 仙谷由人官房長官は1999年1月16日(土)阿波観光ホテルで「日本と女性」というテーマで公演をしているが一部を抜粋する。
 あと30〜40年経ちますと、働く人々と、お子さんや65歳以上の高齢者の比率が約10対8くらいになる(これは大変な状況です)といわれています。そのくらい子供の出生率が少ないということです。
 これはもちろん、これまでの日本の企業社会や、あるいは「それを支えるのは俺たちだけだ」と思ってきた男性の側に、責任があるわけです。男性が自分の社会的地位を、有能優秀な女性、あるいはやる気のある女性に譲ろうとしない…。そのことが未だに蔓延している。ある意味では社会常識の上でも、女性を粗末にしてきた咎科(とが)がいま日本に降りかかっている最大の災難(厄災といってもいいのかな)だと私は思っているわけです。
 海外は日本人のしっかりした女性が元気はつらつと活躍しています。アジアのホテルに行って、私どもの前へさっと寄ってきて、説明をし、案内してくれるのは、英語とフランス語と中国語の出来る日本人の女性であります。
 彼女たちは、働く場所がない日本に簡単に見切りを付けて、アジアやヨーロッパに行っているわけです。今の日本の女性は、未だに男性上位の日本社会を捨てて海外へ進出しております。男性はといいますと、ウジウジと名誉や権力にしがみつき、日本から離れられないという様な、極端に言いますとそういう状況が生まれているわけです。
 女性が優秀と言いながら2011年1月現在、女性閣僚は蓮舫氏と岡崎トミ子氏しかいない。
 しかもスーパーコンピューター事業は蓮舫氏の仕分けで凍結されたにも拘らず仙谷由人らの指示で復活した。もし仙谷由人が正しいとすれば蓮舫氏が無能という事にならないか?
 尖閣諸島での中国漁船衝突事件で全くお粗末な対応しか出来なかった仙谷由人はどう見ても有能とは言い難い。かつて自民党に見られた調整型政治家でしかない。
 そんなに民主党には有能な女性が少ないのか?
 仙谷由人は無能な癖にウジウジと名誉や権力にしがみついていないで自分の発言通り有能な女性に地位を譲るべきだ。

日米安保を巡る迷走

 発足以来不安定な運営を続ける鳩山内閣だが、抱える難問の一つに日米安保問題がある。
 沖縄の在日米軍基地移設を公約として掲げてきた民主党であったが、交渉が遅々として進まず今後の見通しも立たない状況だ。

 一つの大きな要因として鳩山首相自身が日米安保の意味合いを理解していない点にある。
 そもそも現在の日米安保は戦後アメリカの占領政策の延長として行われている訳ではない。日米共に大きなメリットがあるから条約を締結しているのだ。日本以外にも韓国やドイツなどが米軍の駐留を受け入れているが、それらの国は米国に占領されている訳でも属国として仕方なく朝貢している訳でもない。軍事や経済に対して多大なメリットがあるからこそ軍事同盟を結んでいるのだ。日本、ドイツ、韓国はいずれも第二次世界大戦後、経済的に大発展している。その一因が米国との同盟にある事は間違いない。

 沖縄に米軍基地がある事にも大きな意味がある。この場所が作戦や訓練の上でアジアの中で位置的にも気候的にも好ましいから基地の中核的存在として選ばれているわけだ。もちろんアメリカの都合ではあるが、必然的に日本の都合という事になってくる。なぜなら日米安保はアメリカが日本を守るためにあるのだから当然の事ながらアメリカの活動し易い場所に基地を置かないと効力を発揮しづらい。「グアムやテニアンに基地を移設しろ」というのでは日米安保の意味が無い。

 但し、日米安保には沖縄県民に偏った負担を強いているという問題がある。これは日本国民としては考えなければならない事ではあるが、今説明した様に日米安保は日米共に大きなメリットがあるからこそ結んでいるのにアメリカの一方的な都合で押し付けているかのように言われるからアメリカ側が当然の事ながら反発してくるわけである。
 沖縄の基地問題はアメリカの責任ではなく日本国内の不平等をどうするかは日本人の責任である。アメリカとしてみれば、「嫌ならいつでも出て行ってやるよ。米軍の駐留を受け入れたい国は他に幾らでもあるのだから。態度をはっきりしてくれ」という感じだろう。
 アメリカ側には米兵による犯罪など様々な問題はあるが、大局的に見ると基本的に落ち度は無い。アメリカとしては条約で決められた場所と期限を忠実に守っているだけであり日本から文句を言われる筋合いは無い。

 果たして沖縄県民に負担と苦痛を強いてまで日米安保を継続する必要があるか。無いと思うのならやめればよいのだし、「日本全体としては大きなメリットがあるのだから沖縄県民が我慢すればよい」と考えるのであれば継続すればよい。
 これは日本人が選択すべきことであり日本国の首脳はアメリカに責任を転嫁せず意思をはっきりさせるべきだ。

一連の疑惑問題

小沢氏と検察の説明責任

 2009年から2010年初頭にかけて鳩山由紀夫首相の献金疑惑と小沢一郎幹事長の土地取引疑惑という民主党の両巨頭による疑惑は民主党政権の根幹を揺るがし兼ねない事態となっている。
 国会では小沢一郎氏に説明を求める動きも見られるが、私としては素朴な疑問を感じる。
 まず小沢氏の件に関しては不起訴処分になっている。要するに大した証拠がなかったという事だ。本人が積極的に関与していない可能性も高く、同じ様な事は自民党の政治家もしている。
 逆の見方をすると検察による恣意的な狙い撃ちではないかという意見も穿ち過ぎとは言えないのではないだろうか。思い起こされるのは2002年3月11日第154回国会予算委員会証人喚問で社会民主党の辻本清美議員が鈴木宗男議員を証人喚問した事だ。大手ゼネコン鴻池組のアフリカにおける400億円のダム建設に関する疑惑だったが、なぜか直後に辻本議員と鈴木議員が共に検挙されている。辻本議員に至っては秘書給与疑惑という実に詰まらない内容で逮捕されている。
 自民党が窮地に陥ると颯爽と現れるタイミングはどういうものなのか検察にこそ説明して頂きたいものだ。
 小沢氏に説明を求めるのは構わないが、検察や小沢氏と同様な疑惑のある自民党議員についてもついでに説明してもらった方がよいのではないだろうか。
「巨悪は眠らせない」と発言した検事がいて名言とされてきたが、その一方で「一罰百戒」という言葉もよく使われる。検察が一罰百戒という方針で動いているのであれば「巨悪は眠らせない」というのは名言どころか大嘘であり迷言と言うべきではないか。
 週刊朝日や週刊ポストでも検察の捜査に対する疑問が指摘されているが、例えば週刊朝日2月12日号では、「検察暴走! 子ども”人質“に女性秘書「恫喝」10時間」というタイトルで検察の捜査を批判している。検察自身が「自民党の子分疑惑」を払拭するように努めるべきではないのだろうか。

蓮舫議員の正論

スーパーコンピューターは不要(対売国的科学者)

 行政刷新会議での仕分け事業に対して蓮舫議員による次の発言が物議を醸している。
(コンピューター性能で)世界一を目指す理由は何か。2位ではだめなのか
 これに対して「科学技術が全く分かっていないヒステリー馬鹿女」という感じの意見が多く見受けられた。
 しかし、結論から言うと彼女の疑問こそが正しいのであり世界一になる必要など全くないし、そもそもスーパーコンピューターの技術など全く必要ない。
 スーパーコンピューターの技術はもはやハイテクでも何でもなく、金さえあればちょっとパソコンに詳しい人であれば誰でも出来るのだ。
「そんな筈無いだろう」と言う人もいるだろうが、嘘ではないし、私でも出来る。
 それではどうやって作るか説明しよう。かなり以前から複数のパソコンを並列に繋いで高性能コンピューターとして使用する技術が確立している。これは技術的には難しくも何とも無く、よく使われる方法だ。理論的にはスーパーコンピューターを凌げるし実際にスーパーコンピューター並みの性能を出した例はある。
「スーパーコンピューターの技術が必要ないと言うのなら一体何のためにスーパーコンピューターが使われているのか。必要があるからこそ存在するし高い金を払って買う人がいるのだろう」と言う方がおられるかもしれないが、上記のパソコンを接続する方式と比べると同じ金を使った場合にはスーパーコンピューターの方が安いしスペースも少なくて済むし電気代も安くて済むという事だ。
 要するに「無いよりは、あった方がまし」という程度の技術に過ぎない。世界一高性能のスーパーコンピューターを作ろうと思えば韓国の技術でも中国の技術でも出来る。でもあまり意味が無いからしていないだけだ。
 世界一の技術を持っていなくても世界一の国から買えばよいだけの話だ。世界一の国が売ってくれなければ世界第二の国から買えばよいだけだ。どこも売ってくれなければパソコンを使えばよいだけの話だ。
 蓮舫議員がコンピューターについて無知なのかどうかは知らないが、結果的には上記の発言は正しい。むしろ、必要ないことが当然分かっていながら必要性を訴える技術官僚の方がよほどたちが悪い。

 下記のサイトで西和彦氏による蓮舫議員批判があった。一部を抜粋する。
http://agora-web.jp/archives/802222.html

【何も知らない議員が、歴史も、経緯も、何も考えないで決めていいのか】
1967年生まれの蓮舫議員は1995年に台湾からの帰化日本人である。 1997年に双子の子供を生んだときには、日本の国籍になったにも拘わらず、中国風の名前をお付けになっている。家庭的には感覚は中国のひとなのであろう。私はそうは思わないけど、日本のスーパーコンピューターをつぶすために、蓮法議員のバックは誰で、その生まれた国の意向があるのかなあと思う人もいる。もし、そうだったらビックリだけど・・・。蓮舫議員の問題は、あの席で、大蔵省の生意気な主計官をはるかに超えた、麻生前総理大臣のいう「公開処刑」の検察官のような口のきき方をしたことではないであろうか。蓮法議員は勘違いしているのではないか。
 技術論に対する批判だけならともかく国籍までも批判の対象にされるのはいかなものであろうか。どうでもよい技術のためにそこまで日本を陥れる国があるのか疑問だ。本気で言っているのだとすればIT技術者としての見識を疑ってしまう発言だ。

国立女性教育会館(対姑息なフェミニスト)

 国立女性教育会館の事業仕分けを担当した蓮舫議員に対してexciteニュースの中に「女性に苦虫をかみ潰させる、"バリキャリ"の亡霊・蓮舫議員」(2009年11月20日 11時45分)という的外れな記述を見かけた。
 内容は下記の通りだが、長いので途中を一部省略した。
 2010年度予算概算要求の無駄を洗い出す「事業仕分け」で「仕分け人」を務める民主党の蓮舫参院議員(41)。行政刷新会議の初日11日に、独立行政法人「国立女性教育会館」の神田道子理事長(74)に噛みつかれバトルを展開した。
 東洋大学初の女性学長でもある神田氏は、長年、民間で男女共同参画を訴え体現してきた人物。彼女からすればテレビタレント出身でぽっと出の蓮舫に、長い時間かけて積み上げてきた大事な施設の予算を削られたんじゃ、たまったもんじゃないのである。
 同会館の事業(DV被害から女性を守ったり、子育てのワークショップなどを展開)について、自分が説明している最中に蓮舫議員に「稼働率は?」などと質問をかぶせられ、カチンと来た神田氏が、「私の話も聞いてください。一方的にただ質問に答えろというのは心外だ」と、声を荒らげる場面も。
          ・・・中略・・・
 有名大学を卒業しても女性の就職先がほとんどなかった時代、それまで軽視され続けて来た女性の地位を確率し、努力してきた神田道子氏に比べたら、ただのバブルのハリボテでしかない蓮舫議員。政界に君臨する「なまいきな女の子」も、神田氏の地道な努力が無ければありえなかったはず。たとえ埼玉の奥地にあって利用が困難な施設でも、国立女性教育会館をつついては本末転倒。それこそ環境や福祉、建設など天下りが常習化している独立行政法人なんて他にもいっぱいあるだろうに......。"分かっているフリ"をほどほどにしないと、世の女性たちの支持は得られないかもしれない。
(森タマソー)
 まず話の特徴としては二人のキャリアの違いをやたらと強調している。神田道子氏が東洋大学初の女性学長であり長年に渡り男女共同参画を訴えていようと、それは話の本質と何の関係も無い。
 予算が適正であるかどうかが大事であり「DV被害から女性を守ったり、子育てのワークショップなどを展開」する事が目的であるにせよ費用対効果に見合わないものであれば意味が無い。
 稼働率を聞くのは当然ではないか。役に立たなければ施設の予算を削減されて当然だ。
 蓮舫氏が議員になれたのが神田道子氏のおかげだとして、だからといって神田道子氏を批判できないのであれば、それこそ本末転倒だろう。
 他にも天下りが常習化している独立行政法人が多いからといって同会館の予算が正当化される理由には全くならない。「皆がしているから自分も万引きして構わない」訳ではない。

 これこそがよくある姑息なフェミニストの本質だ。女性の視点と言いながら保守オヤジと何ら違わない。
「俺たちは何十年も前から会社を支えてきたんだ」と言って若手男性社員を苛めるオヤジ共と何が違うのだろうか。
 この手の施設は男女共同参画と一体何の関係があるのか分からない使われ方をしている例が多い。実態は単なる公民館である場合が殆どだ。大型で極めて贅沢な設備を有する男女共同参画施設が多いにも拘らず男女共同参画のイベント会場に何故か、どこにあるのだか分からないような知名度の低く不便な施設が使われる事が多い。
 超豪華な施設が男女共同参画に繋がらないのであれば廃止も当然視野に入れるべきだ。

 それにしても蓮舫氏の正論に対する言葉が「生意気だ」とか、年の功を持ち出してみたり、他に何か言う事が無いのだろうか?
 蓮舫氏の発言が正論だからこそ、こういう答えしか返ってこないのだろう。
 中には蓮舫氏の若い頃のヌード写真をブログに貼り付けたフェミニストもいたが、刑事事件で起訴された前科がある訳でもなく過去に裸になった事を持ち出すのはやり方が姑息だ。

 私もこの手のフェミニストにはよく苛められた事がある。「私たちは何十年も女性のための運動をしてきたのだから、あんたもちゃんと実績を残してから言いな」と言われた事もある。
 一般の女性の意見などろくに聞きもしないのに自分がいかにも女性代表であるかのような態度を取る。これもよくありがちなパターンだ。

 最近騒がれているDVにしても、そういう機関が女性に対してやっている事は「危険だからそんな男とはさっさと別れなさい」とただ脅すだけというのが実態のようだ。「それなら小学生だって言えるよね」と女性からも評判が芳しくない。

 蓮舫氏に反発する人たちは年功序列と感情論だけを喚き散らすのではなく、なぜその施設が必要なのか、その予算が必要なのかきちんと理論武装しておくべきだろう。そうでないとそれこそ世の女性たちからの支持は得られないだろう。

りっくんランドの無駄

 埼玉県朝霞市にある陸上自衛隊の広報施設「りっくんランド」は戦車や戦闘ヘリコプターなどの兵器が多数展示され、射撃シミュレーターやフライトシミュレーターなどが体験出来る無料の施設だ。
 インターネットのFNNニュースにに関する下記のニュースがあった(11/25 02:08)。
仕分け人の蓮舫議員は、23日の陸上自衛隊広報センター「りっくんランド」の視察で、自衛隊の仕事に感心した様子で、「すごい! すごくリアルだね」と話していた。 しかし、蓮舫議員は「きのう(23日)、『りっくんランド』に行かせていただいたんですけれども」と話し、一転、24日は、こうした施設や催しが無料であることと、自衛官の募集効果を疑問視した。 防衛省は36億円を要求していて、防衛省担当者が「有料化っていうのは、非常に抵抗がございます」と述べると、蓮舫議員は「有料にしたらお客さんが来なくなるというのは、本当にそうなんだろうかと。例えば、例えば有名なテーマパークは、家族4人で行ったら数万円を超えても、お客さんが、リピーターがあとを絶たない。それが何なんだろうか? それはやはり努力であり、見せ方であり」と答えた。 防衛省担当者は「われわれは努力が足りません。さらにいっそう、おっしゃるような努力しなきゃいけないと思います」と話した。 これに対し、蓮舫議員が「先ほど、『努力が足りない』とおっしゃってましたが、足りない部分をどうやってこの予算で埋めていこうとされているのか?」と質問すると、防衛省担当者は「維持経費、来年度(2010年度)からゼロだと言われると、私ども、ちょっと立ち行かなくなるということだけ、ご理解いただきたいと思います」と苦笑いした。 すると、蓮舫議員は「大変申し訳ないんですけど、笑って終わる話では、実はないんですよね」と述べ、「この施設に関しては『予算削減』をお願いしたいと思ってます」と続けた。
 この事もまた蓮舫議員が「何様」、「生意気」と言われる一つの理由になっているようだが、蓮舫議員の主張は正論以外の何者でもないと私は思う。
 そもそも陸上自衛隊は何を訴えたいのだろうか。私の自宅の近くにそういう無料の施設があれば是非、行ってみたいとは思うが、楽しいレジャーランドという以外に防衛上の何か重要な意味があるのだろうか。それが自衛隊に対する理解にどう繋がるのか分からないし、広報が目的ならもっと他に効率的な手段があるのではないだろうか。
 有料化すべきという意見は妥当だと思う。何でも民営化の昨今、これこそ民営化して一向に構わない施設ではないのか。こんな物を作るのなら戦車の一台でも作ったらどうか。
「蓮舫ごとき防衛の素人に何が分かるか」という意見もあるが、りっくんランドに関しては素人だって分かるだろうし、蓮舫議員だって国防に全く理解を示していないわけではない。仕切り人が社会民主党の女性議員であれば感情論で押し通してもっと話が通じなかった可能性も高い。

ヒステリーはどっち

 仕分け人を務める蓮舫議員に対する「何様」、「生意気」といった言葉が的外れである事については少し述べたが、「ヒステリー」についても私にはむしろ正反対に見える。
 例えば国立女性教育会館(対姑息なフェミニスト)でも書いたが、蓮舫議員が国立女性教育会館の神田道子理事長と対談した際に時間が限られているにも拘わらず神田氏の前置きがやたらと長いので「稼働率は?」などと質問を始めた際に逆切れして「私の話も聞いてください。一方的にただ質問に答えろというのは心外だ」と声を荒らげたのは村田氏の方だ。
 他にも日本科学未来館館長の毛利衛氏と対した際には毛利衛氏の方がかなり興奮して怒りを露にしていたが一方の蓮舫議員は冷静で礼儀正しく接していたように見えた。
 ヒステリーあるいは生意気は一体どっちなのか。そもそも国民の税金から自分たちに多額の金が支給される事が当たり前と考える方がよほど生意気ではないのか。蓮舫議員の正論に逆切れした人たちに対して彼女もやむを得ず大声で対応しただけに見えるのだが、そういう経緯を無視して蓮舫議員が叫んでいるように見える部分だけをやたらと強調するのは悪質だ。
 11月2日放送のクローズアップ現代では比較的公平な立場からの報道であり仕分け人に対しても一定の評価がなされていた。この番組の蓮舫議員の場面ではとても穏やかで礼儀正しく話しておりヒステリーな部分は全く見受けられなかった。
 ヒステリーは主観的なものだから彼女がヒステリーであると感じても責める事は出来ないが、誰かが意図的にヒステリーに見える部分だけを抜き出して編集し強調していると考えるのは穿ちすぎだろうか。
 また、私はやたらと陰謀論を唱えるタイプではないが、自分の管轄を減額された官僚によるイメージ操作の陰謀と考えるのは妄想だろうか。あり得ない話ではないと思うのだが。

抜群のバランス感覚

 蓮舫議員の特長は頭の良さもそうだが、何と言っても抜群のバランス感覚が挙げられる。
 男も女も右も左も関係なく切りまくる。これはごく当たり前で簡単そうに見えるが、実際にやっている議員は殆どいない。
 しがらみのない蓮舫議員だからこそ出来る芸当だ。例えば「りっくんランド」については福島瑞穂大臣も仕切り人を担当すれば同じ様な事を言ったかもしれないが、「国立女性教育会館」に関してはあのような厳しい発言はしなかっただろう。
 現実問題として特定の思想や人脈などに依拠しない言動は本来公平であるべき議員にとって実際には極めて難しい。多くの分野から平等に嫌われる態度と言うのは強固な支持基盤がどこにもないという状況を生み易いので誰からも支持を得られず孤立する可能性も高いので躊躇する人が多い。
 相手のキャリアがどんなに立派であろうと容赦しない態度が「何様」、「生意気」と言われる所以だが、本来議員が持つべき態度を体現したに過ぎない。むしろ立派な態度と褒めるべきだろう。
 国立女性教育会館(対姑息なフェミニスト)でも述べたが、特筆すべき点として女性議員にありがちなフェミニズム的な変な偏りが無いという事がある。「私たち女性はぁ、女性の視点でぇ〜」などと何が言いたいのか主張が今一つ分からず女性からさえも支持が得られない女性議員が多い中で中立的な態度は好感が持てる。デビュー時に国会で猪口大臣に質問した際にも女性だから甘くするという事が一切無く、切れ味も鋭かった。男性議員についても「女の子を苛めるのは気が引ける」とか「女性に嫌われたくない(女性票を失いたくない)」といった嫌らしいオヤジ的魂胆から女性に甘くなりがちであるが、彼女にはそんな嫌らしさはない。
 私としては、生意気、何様と思われるような態度を権威や性別に関係なく公平に貫き通してほしい。

DVは聖域か?(福島瑞穂大臣の矛盾)

 民主党を主体とする新政権では無駄な事業削減に対する取り組みにおいて蓮舫氏の活躍が際立っているが、その一方で矛盾も見られる。
 福島瑞穂消費者・少子化担当相によるコメントは下記の様なものであった。
 私が担当するのは自殺対策、地方消費者行政の強化、ドメスティック・バイオレンスに関する支援。新政権は命を大事にする政治を実現をしようとしているので、 基本的に削らない
 聖域なき構造改革ではなかったのか? 例外があるなら聖域なきとは言えまい。「命の拘わる事業は削れない」というのは下手な言い訳だ。そもそも命を守るという大義名分論はダム建設など土建工事における公共事業枠を守る際に自民党は常々「命を守る事業だから削れない。土砂崩れでも起きて人が死んだらどう責任をとるのか」と恫喝してきた。広い意味で命に拘わらない政策などどれだけあるだろうか。
 それでは命に直接かかわらない政策。例えば観光や教育や科学技術振興などへの支出は全廃しても構わないという事なのだろうか。
 例え福島瑞穂大臣の管轄する事業を総額で削らない(或いは増額する)事になったとしても個々の内容については厳しく吟味する必要がある。例えば男女共同参画については保守派の一部から無駄の多さを盛んに指摘されてきた。保守派だから男女共同参画事業に反感を持つ事を割り引くにしても実際に無駄が多く男女共同参画と関係ない使われ方をしている場合も少なくない。
 例えばDV相談と言っても相談を受けに来た女性に対して経済力の有無など状況に拘わらず「それはDVです。そんな危険な男と一緒にいるのは危険です。直に別れなさい!」と一律に言うだけで、離婚後の職業を世話してくれる訳でもなく実効性が低いと言うより害にすらなっている。「そんな話なら小学生でも出来るよね」と言う女性も少なからず存在し、もはや建前だけの存在でしかないのが実態だ。

 社会民主党は新政権入閣以前にはもはや風前の灯であり男女共同参画や護憲派くらいしか支持母体が無かった。しがらみを捨てられないのであれば規模の違いこそあれ本質的には自民党政権と同じ事になってしまう。
 過去のしがらみを捨て、真の意味での聖域無き構造改革が出来るかどうかに民主党政権の命運がかかっている。

亀井静香 郵政・金融担当相の狂気

 亀井静香 郵政・金融担当大臣の発言が話題になっている。
 まず「家族間の殺人が増えている責任は大企業にある」という発言がある。何の根拠があって言っているのか分からないが、この程度なら許せる。今まで大企業の経営者や保守派の議員などによって犯罪など社会の風潮について自分勝手な決め付けが行われてきたし、多くの場合に責任を弱者に求めるものも多かった。
 しかし次の大企業批判についてはかなり問題がある。
私が言ったからといって、株が下がるほど脆弱な銀行は、銀行業を営む資格がない
 これはテレビ番組の中でモラトリアムを推し進めようとする亀井静香大臣の発言が銀行株の大幅下落をもたらしているとの指摘に対する発言だが、素人目にも幼稚過ぎる発言だ。
 根も葉もない単なる噂でも金融業者が大きな打撃を受ける事はある。まして金融担当大臣の発言となると尚更だ。大臣が不用意な発言をして実際に大銀行が潰れた例もある。自分の言葉の重みが分かっておられないのではないか。

更に犯罪と言っても過言ではない、とんでもない言動がある。
中小企業が助け合う『良い談合』を推奨する」 とかねてから主張している亀井静香金融相が、公正取引委員会の竹島一彦委員長らを金融庁に呼び出し、説得しようとした。
 そもそも、所管大臣のいない公取委の幹部が大臣に呼び出されるのは異例な事らしい。
 そこで下記の様なやりとりがあった。

竹島:良い談合、悪い談合というものはありません。談合はだめです
亀井:日本の生活文化の中で、適正な受発注が行われるわけで、それを考えてくれ
 どう考えても竹島氏の発言が正論であり亀井氏の主張が通るわけがない。
 百歩譲って仮に良い談合なるものがあるとしよう。現状では談合は違法なのだから法律を改正して許される談合を明文化する必要がある。例えば、「地方」とか「中小」といった抽象的な概念では取り締まる側によって恣意的に決められてしまう可能性もあり、それこそ不正の温床になるだろう。
 特に最後に紹介した談合に関する発言についてはとても大臣の器ではないと思う。

広島・長崎の原爆投下は特別か

森岡正博大阪府立大学教授の素朴な疑問

 森岡正博大阪府立大学教授のブログに興味深い投稿があったので紹介する。

感じない男ブログ(2008-08-10)より

■[雑記]ヒロシマは特別なのか?という問い

なんか、ずっと気になっているので、簡単に書いておきたい。ちょっとまえに、広島で行なわれた某国際会議で、戦争について議論していたときに、あるアラブ系の国から来た学者が、「広島はほんとうに特別なのか?」と発言した。「広島では数多くの人々が死んだというが、ドレスデン空襲で、その他の都市で、同じかそれ以上の人々が死んだ。広島のことを特別視する傾向があるが、どこが特別なのか」と。その後、会合はちょっと荒れたが、しかしこの問いへの正面からの答えはなかった。私の頭には、被爆後遺症の問題、環境汚染の問題、核戦争への扉を開いたという問題、などが浮かんだが、しかし前2者は他の空爆その他の被害者についても言えることだろうし、最後のものは、象徴的な問題に過ぎないようにも思える(最初の核爆弾攻撃と、最初の空爆と、どっちが特別なのか。一瞬で、と、一晩でと、どっちが特別なのか)。被爆による遺伝子へのダメージが子孫に引き継がれていくかもしれないという点は、空爆一般とは違うように思ったが、しかし広島の特別性というのはそれだけなのだろうか? この問いはいままでも繰り返されてきたもののように思うが、でもどう考えればいいのだろうか。またそれについて、日本現代史を知らない外国人にどうやって伝えたらいいのだろうか。「どこが特別なのか」という問いの立て方それ自体が問題なのだ、というような学者然として答え方で、伝わっていくものなのだろうか。
 森岡正博大阪府立大学教授のジェンダー論などは私から見ると思い込みが激しく偏りがあるので好きではないが、上記の投稿には私が持っていた疑問と通じるものがあった。
 広島・長崎に対する原爆投下が許されざる暴挙として正当化するアメリカ人が糾弾されてきたが、感情論で語られる事が多く論点が明確にされてこなかった。
 広島・長崎に対する原爆投下は間違っていたのか。間違っていたのなら一体何が間違っていたのか具体的に検証を進めていく。

原爆の残虐性

 原爆投下を糾弾する理由としてよく使われるのが原子爆弾の残虐性だが、原子爆弾は特別残虐な兵器なのだろうか。
 なぜ多くの日本人が原爆を残虐な兵器と考えるのか。恐らく、原爆資料館をはじめとする展示や図書館の書物などによる写真を見て被害者の悲惨な姿に衝撃を受けるのではないだろうか。
 残虐というのは主観であり客観的な答えは出ないだろうが、どちらかと言うと私は原爆が残虐な兵器だと思う。しかし、最も残虐な兵器かというとそうは思わない。個人的には火炎放射器辺りが一番残虐な兵器ではないかと思う。焼夷弾や火炎放射器による被害者は楽に死ねる訳では決して無い。生きたまま手足が千切れ全身が焼かれる苦しみは通常兵器でもごく普通に体験される光景だ。我々は通常兵器による惨たらしい被害者の姿をあまり見ていない(或いは意図的にあまり見せられていない)から残虐さに気づいていないだけではないのか。
 強いて違いを述べるなら被爆者には放射能による長期の苦痛があるが、一時的な苦痛については原爆が特別残虐とは思えないのだが、特に原爆が残虐だという証拠でもあるのだろうか。

原爆の製造責任

 別の面から考えよう。原爆投下が悪いと仮定した場合、核兵器の製造自体を悪とするのか或いは使わなければ問題無しと考えるのか。
「原爆自体は持っていても構わないが、使わなければ良い。原爆を持っていれば使わずとも抑止力としての意味がある」という考え方もあるだろう。
 もし原爆製造自体が悪なら日本も偉そうに言えない。完成しなかったが、日本も第二次世界大戦前から原爆の研究に着手していた。陸軍は仁科芳雄研究室、海軍は荒勝文策研究室に依頼しそれぞれ研究していた。ただでさえ経済的に貧しい日本が海軍と陸軍で別々に研究した事がいかにも日本らしいが、ウランの入手が困難とか電力不足など様々な要因で失敗した。
 原爆が完成したら使ったかどうかは分からないが、使える状況であれば使っただろう。
 原爆を作らなかったのは日本人が人道的だからではなく単に技術などの要素で作れなかっただけの話だ。

使用方法の問題

 それでは原爆の使い方に問題があったのだろうか。
 例えば海上や砂漠など殆ど人のいない所で威力を示して威嚇するだけなら良かったのか。或いは軍事施設や艦隊などの軍事目標や軍人に被害がほぼ限定するなら問題無しとするのか。それも一理あるだろう。
 大都市に対する無差別爆撃による大虐殺である点を非難するのなら、森岡正博大阪府立大学教授の素朴な疑問でも述べた通り東京空襲やドレスデン空襲では広島の死傷者と同等或いはそれ以上の犠牲者が出たし、原爆の残虐性でも述べた様に残虐さにおいて原爆が特に酷い訳でもない。

 そう考えると一般市民の大量虐殺を問題視するなら戦略爆撃自体が問題であり、使用したのが原爆か通常爆弾であるかは罪の重さと関係ない気がする。
 前者と後者の違いは原爆なら少数の飛行機で一往復すれば済むが、後者であれば多くの機体を使い何度も反復攻撃が必要というだけの事だ。
 要するに通常兵器では攻撃する側の手間と被害が大きくなるというだけの事で攻撃される側にとってはどちらだろうと悲惨さに違いは無い。
 そもそも後遺症は生き残った人に対する問題であり、直ぐに死んだ人についてはあまり関係ないような気もする。

 そもそも一般市民を巻き込んで大都市に対する大規模な戦略爆撃を行った元祖が他ならぬ日本なのだ。原爆投下の罪を詰れば詰るほど結局、日本自身に跳ね返ってくる。

放射能の問題

 広島・長崎の原爆投下について糾弾する意見の中には放射能による後遺症について非難する意見もしばしば見受けられる。
 原爆投下が特別罪悪視されるのは放射能の問題があるからなのだろうか。
 原爆の残虐性でも多少述べたが、残虐性については焼夷弾による被災者も手足を吹っ飛ばされるなどの耐え難い苦しみを味わった人が多いし、それ自体が後遺症として苦しむ要因となっている。
 或いは遺伝子に異常を与えた事が悪だとしているのだろうか。それならば、被爆者がいっそ死んでしまって子孫を残しさえすれば問題が無いのだろうか。
 更に素朴な問題として、放射能汚染の被害が比較的少ない中性子爆弾なら問題なかったのだろうか、という事があげられる。

 放射能の問題についても森岡正博大阪府立大学教授が指摘するように何かすっきりしない点があるように思う。

早期戦争終結論の真偽

 原爆投下に関する米国の「原爆は戦争を早期に終結し犠牲を回避するための選択」という主張に対して否定的な日本人は多い。
原爆を投下しなくても趨勢は決まっていたのであり、いずれは降伏していた」という意見が少なくない。
 米側の主張は恐らく本音だろう。軍需関係者の中には戦争が長引けば儲かるので嬉しいと思っている人はいたかもしれないが、「戦争が早く終わって兵士の犠牲を少しでも減らしたい」というのが多くの米国人の願いだっただろう。
 原爆一発分の爆撃を通常爆弾によって行うとB29で延べ3千機の出撃が必要だったと言われている。日本軍によるB29の撃墜は容易ではないが出撃したB29は1%以上の割合で撃墜されていたようだし、護衛の戦闘機もつけなければならない。また日本軍の捕虜になると命の保証がないという点も考えると米兵の死傷者がかなり減った事は間違いない。

 ただ、これは米兵の側に立った考え方であり、そのために日本の一般市民を虐殺してもよいかというと別の話da が、結果的には戦争が早く終結し日米双方の犠牲が著しく減った事は間違いない。
「もっと、日本がさっさと降伏していればこんなに多くの犠牲者を出さなくて済んだ」という意見がよく聞かれるが、そもそも降伏を決定する権限のある人たちは米軍に捕まれば死刑になる事がほぼ間違いない連中なので簡単に降伏する筈がない。
 日本より人口がずっと少ないドイツは6百万人と日本の倍近い戦死者を出している。ドイツが降伏はヒトラーが自殺してから漸く決定している。
 日本にはまだ余力があったので通常兵器による戦闘だけではだらだらと戦争が続いていた事はまず間違いない。


独り歩きする言葉

男女共同参画編

ドメスティックバイオレンス(DV)

 ドメスティックバイオレンスの本来の英語の意味は直訳すると家庭内暴力である。しかし、マスコミや行政などでは「夫や恋人などによる男性から女性への暴力」とされる事が多い。ドメスティックバイオレンス防止法(正式には「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」)によると妻から夫への暴力も含めた夫婦間暴力という事になっている。

 私が知っているだけでも上記の3通りの定義がある。それがこの言葉を分かりにくくしている。なぜこのような事になっているかというと運動家が意図的に分かりづらくしているのではないかと思われる。要するにDVに関わる運動をしている人たちは女性だけを救済する運動をしたかったらしいが、女性だけを救済の対象にするのは憲法違反になるらしく、それでDV法では双方向的な内容にせざるを得なかったと言われている。

 よく言われる説明として「妻への暴力の方が圧倒的に多い」という事がある。しかし、実際には夫婦間暴力の中で夫に対する暴力も警察や行政の調査では1〜2割程度存在しており、決して無視できる数字ではない。また、男性の場合被害を受けていても通報しない或いは通報しても取り合ってくれない場合も少なくないと思われるので実態は更に多いのではないだろうか。そもそも件数が少なければ無視して構わないのであれば、そもそも家庭内暴力全体の内の夫から妻への暴力自体がそれほど高い比率ではないのだから無視して構わないという事になってしまう。
 女性対する暴力だけを救済する運動があっても構わない。どんな運動をしようと個人の自由である。しかし、それであれば、場合や都合によって定義を使い分けるという姑息な手段を使わずに堂々と「ハズバンドバイオレンス」などの分かり易い明確な定義をすれば済むことだ。
 既に述べた通り辞書を引いて直訳すれば「家庭内暴力」になるし、実際にその訳は必ずしも間違っている訳ではない。わざわざ誤解を招くような言葉を使うべきではない。
性差別が根底にある暴力を指す言葉としてジェンダーバイオレンス(gender violence)という言葉があるので、男女間暴力について強調したいのであればドメスティックバイオレンスではなくジェンダーバイオレンスを使うべきだ。

ジェンダーフリー

ウィキペデアによるジェンダーフリーの説明としては下記のようなものがある。
「社会的文化的性差からの自由」を目指す考え方であり、「社会的文化的性差である(とされる)ジェンダーにとらわれず、個々人それぞれが自分らしく個人としての資質に基づいて果たすべき役割を自己決定出来るようにしようという考え方、運動である」
 この運動の最大の問題はドメスティックバイオレンス以上に定義が曖昧であることだ。男女差を完全に無視してしまうというのなら分かり易いが、現実には運動家の中でそういう主張をしている人は少数派であるようだ。どの部分でどの程度男女の差異を考慮するか。これは人によってまちまちであり、かなりの差がある事が少なくない。
 ジェンダーフリーの主要な勢力としてはウーマンリブ系や性的少数者の解放運動系などがある。数的には女性解放運動系が多いようだが、性的少数者の運動もインターネット上などで頑張っているので力関係からすると決して侮れない勢力である。
 左翼系の女性が多いジェンダーフリー団体の会合で「この活動はウーマンリブと一体何が違うのか」と質問した事があるが、「女性が被害者の場合が多いのだから女性解放中心の運動で構わないのだ」という答えが返ってきた。この理屈からすると男性が被害者と考える人にとってはジェンダーフリーとは男性解放運動という事になってしまう事になる。結局、明確な定義を打ち出さずに意図的に曖昧にしておいて個々の活動家が自分の好きな方向に強引に運動を持っていこうとした事が最近ジェンダーフリー運動が低調になった理由であろう。
ある掲示板で下記のような意見が投稿されていた。
「万人が明確に意味を理解できない用語また自分の都合で好き勝手に誤読できる用語」という意味で、『ジェンダーフリー』という言葉自体に大きな疑問を感じています。
これはまさにジェンダーフリーの現状を言い当てている。
 やたらと新しい外来語を使う事により自分が進んでいるかのようなアピールをする人は多い。しかし、そういう言葉は一過性のブームとして飽きられてしまいがちだ。定着させるには分かり易く明確な説明を粘り強くする必要がある。

若者の生態編

フリーアルバイター

 フリーアルバイターなる言葉を考えた人は恐らく「正社員になりたくない自由気ままな人」という意味で使ったのだろうが、定義を明確化しなかったために様々な問題が生じた。

 フリーターの捉え方については、厚生労働省の定義は「フリーターという立場を選択している人(正社員になりたくない人)」、内閣府の定義は「フリーターにならざるを得ない立場の人(正社員になれない人)を含む」という違いがある。これは大きな違いだ。
 内閣府によると派遣・契約社員なども含めた非正社員の総称ということになっている。これではアルバイトとフリーアルバイターの一体何が違うのか分からない。
 厚生労働省の定義は更に分かり辛い。厚生労働省の調査では15〜34歳の男女で、パートかアルバイト待遇の雇用者(男子は継続就業年数5年未満、女子は未婚)、および現在無職でパートかアルバイトを希望する人を対象としている。何故15〜34歳まで、しかも性別による規定の差があるのか分からない。
 このようにアルバイトとフリーアルバイターの違い、または正社員に対する志向の違いなどと定義の関係が明確化されていない。

 なぜこの様な言葉が出来たのか、その理由は恐らく「今の若者は自由気ままに生きて我慢が足りない」と言いたかったのではないだろうか。
 しかしフリーアルバイターと言われても、雇用期間なのか職種なのか意識なのか一体何によって決められるのか分からないのでは決めようがないではないか。
 無責任なのはむしろ、この言葉を作った者ではないのだろうか。

パラサイトシングル

 パラサイトシングルの定義は命名者である山田昌弘・東京学芸大学助教授によれば、『学卒後もなお親と同居し、基礎的生活条件を親に依存している未婚者』を指す。
 一見すると如何にも学術的にしっかりとした明確な説明である印象を受けるが、実は学卒後の未婚者である事以外は不明確或いは意味のない部分を含む定義だ。
 まず同居についてだが、親と同居しているかどうかは必ずしもパラサイトシングルの要件とはならないという意見もある。一人暮らししているが、家賃など生活費を親に負担させたり車を買わせる者もいるようだ。そういう者より親と同居して質素な生活をする人の方がよほどましだと思う。
 基礎的生活条件を親に依存しているかどうかの判定も現実には難しい。例えば、部屋代や光熱費などの生活費を子が親に払っているとすれば、たまたま家主が親であるとも考えられるし、払い方によっては親もかなり助かる場合もあるだろう。単純に「何円払えばよい」という明確なラインはない。
 また、基礎的な生活条件の中に家事を入れるかどうか、また家事をどの位手伝っているかは更に評価が難しい。
 私は20代社長が経営する会社でアルバイトをした事があった。職場は彼のアパートであり、彼は母親と同居していた。事情が分からない人から見ると彼はパラサイトシングルに見えたかもしれない。

 これもまた明確な基準を定めようのない大して意味のない言葉だ。

ニート(NEET)

 NEETという言葉が立法・行政・マスメディアなどで話題になっている。
 ウィキペディアによる定義は「無業者。雇用されておらず、学業もしておらず、職業訓練も受けておらず、求職もしていない無業者のこと」だ。これが英語を直訳した本来の意味だが、人により解釈が微妙に違う。
 日本の行政機関などによる定義は上の定義に加えて若者である事が条件に入っている場合が多いようだ。「職に就いていず、学校機関に所属もしていず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない若者」という意味合いで語られる。
 更に違う解釈として「無気力な若者」という意味で使う人が少なくない。
 無気力とか若者という条件は本来の意味には全く含まれていなかった。それが何故この様に変化したのか背景を考える。理由としては想像力の欠如が考えられる。まず、働いていない事は怠け者の条件とは言えない。意欲や能力があっても職に就けない人はいつの時代にも、どの国にも存在する。これはむしろ政府の無策でそうなっている場合も少なくない。
 それでは「仕事をしていないで暇なら学校で勉強しろ」と考える人もいるだろう。しかし、学校で勉強するのは金がかかる。授業料など多額の費用が必要だ。そもそも仕事をしていないで収入がなければ学費を払うのは困難だ。親が裕福で幾らでも金を出せるのならともかく、自分で学費を捻出しなければならない人もいる訳で、そういう人が学校に行かないことを責められない。

 また、職業訓練が役に立たなかったという証言は少なくない。必ずしも役に立つかどうか分からない職業訓練のために多額の金を出す事に躊躇する人もいるだろう。更に勉強するのは必ずしも学校に行かなくても出来る。逆に言うと何十年も前から日本に存在した「遊びたいから大学に行く。働きたくないから学校に行く」という学生の方が国費の無駄遣いである事を考えるとよほど質が悪いのではないか。
 つまり「○○大学の学生」という世間体を気にした形だけが問題になっているのだ。更に行政による最近の定義では「学籍はあるが学校に行かない人」も含む動きがあるようだが、これにより更に話がややこしくなっている。

「求職していない」という条件については、ニートとされる人がどういう状況でそうなっているのか、またどういう調査をして統計を出したのかが気になる。と言うのは就職したくても仕事がなかなか見つからないと求職をあきらめる事は少なくないからだ。また、「求職していない」という調査結果は本人に直接アンケートをとって聞いたのかどうかによっても変わってくる。というのは、現代社会では様々な求職方法がある。インターネットで調べる方法もあるが、行政の調査では例えば「職業安定所」の求職だけをカウントしている可能性もある。その場合インターネットで会社を調べている人は求職者としてカウントされない。
 もともと失業者の定義と正確な数値を把握するのは困難だった。穿った見方をすれば、実は表向きは景気回復という事になっているが失業者が増大している事実を政府が隠すためにニートという言葉の定義を曖昧にして事実を歪めてしまったと考える事も出来る。
 最近の若者の無気力(果たしてそうなのかどうか分からないが)な風潮を批判したいのならニートという馴染みのない外来語を無理して使わずに怠け者という日本語を使えばよいだけの話だ。

嫌煙権について考える

 嫌煙権運動については小さな事で騒ぎ立てる我儘な奴という見方も少なくない。ここではその誤解を解き、嫌煙運動を進めるための手助けをする。

公害との無意味な比較

 喫煙者の中には「煙草の煙が有害だと喚く連中がいるが自動車の排ガスや工場の排煙と比べると大した事はなく騒ぎ過ぎだ」という様に主張する人がいる。
 確かに排出されたガスの毒性や量を単純に比較すれば煙草の煙など取るに足らないものだろうが、前者と後者の有害性は全然状況が違う。
 まず、我々は自動車から大きな恩恵を受けている。車を持っていない人や運転しない人或いは公共交通機関すら使わない人でも、郵便配達車や救急車や消防車など必要ないという人は殆どいないだろう。暴走族の車は別として、自動車の排ガスや工場の排煙は産業社会の恩恵を受けている以上ある程度は仕方ない。それに対して煙草の煙は個人の嗜好によるもので、非喫煙者にとって何の意味も無い全く必要の無い我慢を強いられる一方的な公害だ。
 また有害性においても量や毒性だけを単純に比較出来ない。自動車の排ガスや工場の排煙は通常、屋外に放出されるし、人が吸引し難いように様々な配慮がなされている。実際に人がそれらを吸う量はそんなに多くない。それに対して煙草は室内で吸われる事が少なくない。だから煙がこもり易いし、人が煙を吸い込む割合は遥かに多い。体内に吸い込んだ分についてどちらがより有害かを単純に決められない。
 そもそも自動車や工場の公害についても放置されてきた訳ではなく、厳しい規制が定められているし、公害反対運動も存在した。公害除去技術が高まり排ガスや工場の排煙の害が著しく低下しつつある状況では、相対的に煙草の害が高まるだろう。

嫌煙家はわがままか

 煙草の煙を嫌がる人が我侭でヒステリーに騒いでいるのかというと決してそんな事はない。むしろ、喫煙者の横暴に泣かされている事の方が多い。
 例えば換気が非常によくて体育館くらいの広い部屋で一日1本だけ煙草を吸う人に対して騒ぐつもりはない。喫煙者は多くの本数を吸うのであって1日1本だけという人は見た事が無い。喫煙者の中には1日中煙草を吸っている人が少なくない。
 換気の悪い狭い部屋の中で引っ切り無しに煙草を吸われたら煙幕を張られた様な状態になる。私が勤めていた会社の上司には禁煙タイムすら守らない人もいた。隣に座っていた上司がヘビースモーカーで気流によっては煙が私を直撃した。そのため喉を痛めて夜も眠れないほど酷く苦しんだ事があった。見ていると煙草を吸わないで手に挟んでいたり灰皿に置いているだけの時間も多い。それを消すだけでもかなり状況は変わってくるのだが。
 彼は何の配慮もしないだけでなく、「自分で金を出すから空気清浄機を置かせてほしい」という私の申し出さえも拒んでいる。あくまで自分の経験によるものだが下らない意地を張っているのはむしろ喫煙者の方だと思う。

煙草に一利あるか

 煙草については嫌煙者から「煙草は百害あって一利なし」とよく言われるが喫煙者から反発の声が多い。喫煙者によると「喫煙によってリラックスできる」とか「税収によって貢献している」などの利があるそうだ。
 これに対して私は喫煙者であるが、「煙草は百害あって一利なし」という意見を支持しない。当然何らかの利があるからこそ存在するのであって少なくとも喫煙者にとって楽しいという利がある事は間違いない。
 強引に一利を求めようとすれば麻薬、暴走族、暴力団など何にでも利がある事になる。麻薬は末期患者を楽にするし暴走族のおかげで自動車産業は儲かる。

 ここで大事なのは利を受けているのは一体誰なのかだ。それはあくまで喫煙者に限定されるのではないか。税収については他の項で述べるが、煙草税による収入より煙草によってかかる金(例えば分煙設備の設置や医療費など)の方が遥かに高い。結局、非喫煙者にとっては何のメリットも無い。

 喫煙者の側の快楽をもって社会に利があるとするのは「強姦によって強姦者が楽しむ事ができるので、強姦にも一利ある」という意見と同じであまりにも図々しい態度だ。

税金を払っているという言い訳

 喫煙を正当化する理由としてタバコ税を払っている事を挙げる人が少なくない。「俺は税金を払っているんだ。社会に貢献しているのだ。だから堂々とタバコを吸う権利があるのだ」と。
 しかし、税金はタバコ税だけではない。殆どの商品に関して何らかの物品税がかけられている。消費税だって税金なのだから、子供だって税金を払っている事になる。また、煙草自体がさほど高くないので、税額は大した負担ではない。
 あまりにも幼稚過ぎる言い訳であり、喫煙を正当化する理由には全然ならない。
 いつも不思議に思うのは喫煙者から「税金を払っているから」という意見が出る一方で一体どの程度税収で貢献しているのか具体的な説明が一切無い事だ。それでは具体的に検証してみよう。

 まず国家の税収だが、最近の実績では年間約50兆円程度だ。そして煙草税による税収を調べると1兆円程度とも2兆円程度とも言われているが、大体この範囲らしい。高めに設定して2兆円としてみよう。
 煙草の税収の比率は4%に過ぎない事になる。これは国家財政を支えるという規模では到底無い。
 そして煙草による公共的な支出や損失を考えなければならない。例えば分煙設備の設置や啓蒙活動や医療費などがあり、それらは約7兆円になるそうだ。つまり完全に赤字だ。従って「税金を払っているから」という言い訳は全く成り立たないどころか、喫煙者が国民に税負担を強いているのだ。
 しかも、それ以外にも火災などによる損失の額を加えなければならないので更に国民の負担は大きい。

 このように煙草は経済的には何ら貢献していない。

煙草の特性

害の分かり難さ

 日本において煙草は伝統的にあまり厳しい規制を受けてこなかった。
 これについて考えられる理由としては一服あたりの害が比較的小さいと思われているからではないだろうか。

 まず精神を錯乱させる作用についてだが、麻薬や酒などは摂取すると直ちに覚醒や酩酊など精神不安定状態の発生がよくあるが、これらと比べると煙草のそういう作用は比較的弱い。

 また、体に対するダメージについては麻薬は比較的早い日数で体調の変化が現れるし飲酒の場合は顔が赤くなったり気分が悪くなったり酒の弱い人のみならず強い人でも短時間で現れる事が少なくない。
 それに対して煙草は一本吸ったからといって肺に対して直ちに強力なダメージを与える訳では必ずしもないし、かなり長期間吸い続けても顕著な症状が現れない場合も少なくない。
 この様に長年にかけて少しずつ体の内部に溜まる害なので自覚も難しいが、医師などの専門家でも外から見ただけは分かり辛いのが実態だった。

 しかし、近年内視鏡カメラのような特殊な機材が発達し、長年煙草を吸い続けた人の肺が真っ黒になっている写真を見る事ができるようになった。
 そういう写真を見ると煙害の恐ろしさに慄然としてしまう。 

 煙草の害が酒や麻薬などに劣らない事が明らかになった以上、煙草に厳しくなるのはやむを得ないと思う。


何故いけないのか

 世の中には建設業界の公共工事における談合、贈収賄、官僚の天下り、インサイダー取引など「やってはいけない」とされている不正が溢れています。
 では、これらが「なぜいけないのか?」と聞かれると大人でもなかなかうまく答えられない事が多いのではないでしょうか。逆に大人であるために今更「なぜ悪いのか」聞けない場合もあると思います。
 そこでこれらの不正についてなぜ悪いのか分かり易い説明を試みました。

談合

 建設業界の公共工事における談合について建設業者から下記の様な説明がなされる事がよくある。
 零細業者の多いこの業界では自由競争を導入すると過当競争になり、競争力の弱い業者が淘汰されてしまう。赤字になると手抜き工事が発生し、発注者も損害を受ける事になる。談合は弱者に配慮した話し合いであり必要悪だ
 この説明は大きな間違いだ。そもそも自由競争と言っても入札というのは工事額に上限と下限が決められており、単に低い金額を書けば落札できる訳ではない。過当競争を防ぐため極端な赤字工事とならない様に下限が予め設定されている。極端な話をすると、1円では入札できず失格になってしまう。
 この様にダンピングに関する対策は完璧かどうかはともかくとして一応立てられてはいる。役所の見積もりが大幅に下の方に狂って赤字になる可能性が全くない訳ではないが、見積もりが間違いなければ基本的に工事を担当する業者は極端な赤字にはならない筈なのだ。
 落札できるかどうかは、業者の規模の大小よりも下限の金額をどこまで正確に予想できるかで決まる。金で情報を買う業者もあるようだから、その点で大手が有利と言えない事もないが、入札に不正が全くないとすれば大手だからといって特に有利にはならない筈だ。
 そもそも、この話し合いのどこが悪いのかを簡単に言うと、話し合いが業者だけによるものであり消費者(この場合、国民や県民や市民などという事になる)が加えられていない事だ。消費者の中にも弱者はたくさんいるにも関わらず彼らに対する配慮は何も無い。
 建設業界が自由競争に向いていないという説には疑問があるが、仮にそれが正しいとすれば、全ての建設会社を統合して国営の建設会社一本にまとめてしまえばよいのだ。
 もし、談合が社会にとって絶対必要だと主張するのなら独占禁止法を改正するような改正してから、堂々と行うべきだ。
「弱者への配慮」というご立派な大義名分を掲げているが、彼らの弁明は業界の利益のための下手な言い訳に過ぎない。

天下り

 天下りとは三省堂の新明解国語辞典によると「退職した高級官僚が、関連のある民間会社に転職すること」とある。これの一体どこが悪いのか、公務員が民間企業に再就職して何が悪いのか? その様な疑問を持った人は多いのではないだろうか。
 公務員が純粋に現役時代の能力を生かして民間企業に再就職する事は必ずしも悪い事ではない。例えば、元刑事が知識と経験を生かして警備員として再就職する事に関しては必ずしも間違っているとは言えない。
 しかし、元高級官僚としての経歴を生かして一般人にはなかなか知りえない様な情報、例えば建設関連の元官僚が建設工事の入札に有利になる情報などを手土産にゼネコンなどの建設関連企業に再就職するとなるとフェアではない。そういう知識というのは本人の能力や努力とは直接関係の無い知識だからだ。
 また、警察など企業を監督する官庁から高級官僚が再就職する場合には、企業と警察ぐるみの一種の贈収賄の様な状況になり兼ねない。つまり、「お前の所で、警察官OBを〇名受け入れろ。その代わり総会屋への利益供与などの不正は大目に見てやる」というように互いに見返りを求める癒着の構造になり易い。
 元警視監の松橋忠光氏は天下りについてこう述べている(週刊現代1997.4.26)。
 元警察官が現職時代の"顔"を生かして企業に入り込もうとする。あるいは企業も何か起きればモミ消してもらおうと警察官OBを受け入れる。いずれにせよ、その両者の発想はどちらも許しがたいことといわねばなりません。
 特に警察の場合、警察官OBを受け入れる会社と受け入れない会社で保安上の差が出てくるというのは全くもっておかしい。本来、警察は金持ちに対しても貧乏人に対しても等しく奉仕すべき存在だ。警察が企業の相談にちゃんと応じているのなら、わざわざ高い給料を払って警察官OBなど受け入れる必要は全く無い筈だ。
 このように本人の能力や経験や努力とは無関係に元高級官僚としての立場を悪用する、あるいは企業の側が政治的な裏情報の入手や自社の不正の揉み消しなどの見返りを期待して天下りを受け入れる、などといった事を無くすために、天下りに対して何らかの規制をする必要があるのだ。

インサイダー取り引き

 インサイダー取り引きを岩波書店の広辞苑の第五版でひくと下記の様な説明がある。
有価証券を発行する会社の役員や大株主などが、一般には未公開の内部情報を利用して行う証券取引。不公正取引として規制されている。内部者取引。
 インサイダー取り引きについては私も恥ずかしながら30歳近くになるまで、言葉すら知らなかった。耳慣れない英語でもあり、なぜ悪いかという以前の問題として意味自体を知らない人も多いのではないだろうか。
 株で儲ける事自体は資本主義社会においては保証される権利であり何ら悪い事でも恥ずべき事でもない。株式というのは株主があって成り立つのだし、株の保有や売買は金儲けが目的であるのだから、投資は国民の正当な権利だ。
 投資家は株価の変動を予測する。底値で買って、上値で売るのが理想的だ。様々な情報を元に将来の変動を予測する訳だ。新聞やHPなどを使って情報を収拾分析するのは一向に構わない。ただ、情報の活用はフェアでなければならない。証券会社の役員などが、一般には未公開の内部情報を利用して証券取引を行えば容易に金儲けが出来るからだ。それは本人の才能や洞察力や努力といったものとは無関係だ。
 この様な理由で自分の地位や立場を悪用した不正な取り引きであるインサイダー取り引きが規制されている。

マルチ商法、ねずみ講

 マルチ商法とねずみ講は微妙に違うが基本的な仕組みはほぼ同じである。より下位の会員ほど数が多いピラミッド構造になっている。
 マルチ商法の代表的な手口としてはこんな感じだ。まず儲け話をもちかけて会員にさせる。会員になる際には高価な機材を買わされるなどして、金銭などの負担を必要とする。しかし、誰かを勧誘して会員にすればその手数料をもらえると言われる。元を取るためには当然の事ながら複数の新規会員を加入させなければならない。
 組織が成長していく過程では会員を増やしていけば自分の払った分の元を取る事は可能であるし、下位の会員を多数増やしていけば十分な利益を上げる事も可能である。だから、必ずしも詐欺にあったという実感がわかない人もいるかもしれない。
 この方式の何が問題かと言うと、会員を増やしていかないと会を維持できないという事だ。下位の者ほど数の多いピラミッド構成を維持するために会員は指数関数的にどんどん増えていく訳で、人口がそれを上回るペースで増える必要がある。しかし、当然ながら人口は有限であるから、いつか必ず破綻してしまう。
 という訳で、ねずみ講については違法とされており、マルチ商法にも法律的に制約がある。

 マルチ商法などの説明については上記の様になるのだが、このような考え方も出来る。「日本式経営や公共事業漬けの日本社会自体がマルチ商法のようなものである」。終身雇用、年功序列は社員が増え続ける状況においては数が多い下位の者ほど給料が安いので極めて合理的なシステムであった。しかし、いつか成長は止まる筈だ。そして、とばっちりを受けているのが今の若者であるが、被害者であるにも関わらず、「今の若い者は駄目だ」と言われている。


常識を疑う

日本人は農耕民族で欧米人は狩猟民族か?

 日本人と欧米人の気質の違いの理由を説明する場合によく「日本人は農耕民族で和の精神が強い。欧米人は狩猟民族で個人主義と自己主張が強い」というような事が述べられる。
 これは多くの人によって何度も指摘されている事なのだが、農耕の始まりと長さについては、むしろヨーロッパの方が日本より遥かに早くから農耕が始まっており農耕の歴史もずっと長い。
 どこの国でも大体そうだが、狩猟採取の時期があって、その後に農耕社会がやってくる。だから、日本にしてもイギリスにしても農耕民族であるとも狩猟民族であるとも言える。
 何をもって「日本人が農耕民族で、欧米人が狩猟民族」と言うのか分からない。その国で最も長い歴史のある生活の形態を文化とするなら、日本では農耕主体の歴史より狩猟採取の時期が遥かに長いから、むしろ日本人は狩猟民族という方が自然な気もする。
 現在最も有力な産業の形態で決めるとすれば、日本は工業国だから「工業民族」という見方も出来るし、サービス業の就業者が最も多い事から「商業民族」と呼ぶ事もできる。
 また、チームワークという点に関しても、むしろ巨大で獰猛な獲物を集団で狩る場合には、狩猟民族の方が高いチームワークを必要とするのではないかという疑問もある。
 日本が農耕民族だと主張したがる人の中には「日本人が穏やかな性格の持主である」という事を強調したい人も少なくないようだが、これについても異論がある。研究者の報告によると狩猟採取の時代に戦争が行われた形跡は殆ど無く、戦争は農耕社会に入ってから激増しているそうだ。農耕民族だから穏やかという訳でもないようだ。

学力低下は本当か?

 学校が週休二日になり授業内容が減らされる事に対して「学力が低下する」という事が国を挙げて盛んに言われているが、私はこれに対して大きな疑問を持っている。
 そもそも、この説の前提として非常に重要な点が欠落しているのだ。それは従来の教育方式では落ちこぼれが非常に多かったという事だ。教育関係者によると生徒の理解度に対して、七五三という言葉が使われていた。つまり、小学生で授業を理解しているものは七割、中学生では五割、高校生では三割という訳だ。特に数学の場合、一度遅れをとったものはやる気を失う傾向が強い。学校で教える内容が高度であればあるほど国民の知的能力が高まっていく訳でもない。高度過ぎるとついて来られる者が少なくなり、却って平均値が落ちてしまうのだ。だからこそ、詰め込み教育の是正が何十年にも渡って唱えられてきた。だから、授業を減らしたり、教える内容を簡単にする事自体は何も間違っていないし、大正解なのだ。
 ところが、世間では学力低下あるいはそれに伴う国力低下を懸念する大合唱が聞こえる。この理由は何故なのか。
 一つには教える側がどうしてよいか分からないという事だろう。今まで画一的な人材ばかりを作ってきた教育者としては、「個性の教育、想像力、自主性」と言われてもどうして良いか分からないという戸惑いがある。
 また、塾などの受験産業界には、この動きに便乗しようとする者も当然いるだろう。親たちの不安を煽り立てて、塾に引き込もうと盛んに「学力低下」を唱えて宣伝に使っているのであろう。
 二極分化を心配する声もある。すなわち、出来る子と出来ない子の差が拡がって困るのではないかと言う懸念だ。これはある面では当たっている。恐らく予想通り二極分化していくだろう。だが、私は何ら困る事は無いと思う。そもそも能力を均等化させようという発想がおかしいのだ。人間の能力や意欲は人によって大きく違う。優秀な子はどんどん伸ばして飛び級させればよい。出来ない子は留年させてじっくり教え込めばよい。
 この様な事を言うと「差別だ」と怒る人もいる。しかしながら、平等を勘違いした教育こそが不幸のもとであった。数学の優劣と人間の価値とは何の関係も無い。勉強やスポーツというのは自分のためにやっているのであり、自分の金儲けのためにやっているのなら、偉くも何とも無い。教育者はそう教え込めばよいだけの話だったのだ。ところが、日本の教育者や親たちは成績の悪い子を人間の屑みたいに扱ってきた。
 従来の画一的な教育は結局、エリートにとっては退屈なだけだし落ちこぼれにとっては苦痛であり、誰にとっても有難くないものであった。
 ところで、最近の学力低下議論に不安を高める親や生徒などから盛んに「ゆとりの教育の実施によって、塾に行かなければならなくなるのではないか。それならば何がゆとりなのか分からない」という不安の声が聞かれる。答えは簡単だ、本人が塾に行きたくなければ塾に行かなければいいだけの話だ。
 そもそも、何のために塾に行くのか。良い大学を出て良い会社に入る事が目的なのだろうか。だとすれば、そんな事はとっくに意味がなくなっている。何十年も前から言われてきた事だが、費用対効果を考えた場合には東大をストレートで卒業でもしない限り生涯賃金において大卒が特に有利とは言えない。また今時、学歴にこだわる企業も少なくなっている。更に大企業に入社したところで終身雇用など保証されてはいない。最近では割り算も出来ない大学生がいるという話も聞くが、大卒にもはや大した価値は無い。という訳で、高収入や経済的安定を目指すのであれば、塾に行く意味は全く無い。
 良い大学に入って他人に自慢したい。或いは自分の子供を良い大学に入れて自慢したいというのであれば、少しは意味があるかもしれない。私はそれがいけないとは全く思わない。だが、その場合ですら、塾に行く事に大して意味があるとは思えない。なぜなら、塾に行ったからと行って成績が上がるとは限らないからだ。むしろ成績が落ちる子だって少なくない。塾が嫌いな子は塾に行っても大抵成績は伸びない。塾が好きな子ですら成績が伸びるとは限らない。本人の性格や適正を無視して他人の子がみな塾に行っているからといって真似して自分の子を塾に行かせる親がいるが実に愚かな事だ。成績を伸ばす事ではなく、無理やり塾に行かせる事が目的になっている。「自分はここまで子供のために尽くしてやった。だから感謝されて当然だ」という自己満足に過ぎない。
 という訳で、「学力低下」の大合唱など真に受ける必要など全く無いと思う。

製造業は3Kか?

 3Kという言葉が登場したのは確かバブルの初期の頃だったように思う。3Kとは「危険、きつい、汚い」の頭文字をとったものだ。当時、理工系の学生の製造業離れが問題になっていた。若者が製造現場を嫌うのは、危険、きつい、汚い、或いは給料が安いといった過酷な状況があるからだという社会一般の認識が形成されていった。
 しかし、製造現場の実態は本当に3Kなのかどうか私は疑問に思っている。「危険」という事に関しては、オフィスと比較した場合確かに事故の確率は製造現場の方が高いだろう。しかし、実際に現場で働いている人たちはそんなに危険と思っていないのではないか。危険と言っても、工場や工事現場で死ぬ確率は一般的に自動車事故の死亡率より低い。決死の覚悟で現場にいる人はあまりいないだろう。
「きつい」と言われている事に関しては、これは全くおかしな認識だと言わざるを得ない。頭脳労働と肉体労働のどちらがつらいとは一概に言えないだろう。「デスクワークより体を動かしている方が好きだ」と言う人も少なくないし、夜遅くまで年中無休でデスクワークをするのと五時で仕事が終わり、週休二日の肉体労働では後者の方が楽と考えるのが普通だ。頭脳労働者の過労死の話は良く聞くが、工場労働者の過労死の話はあまり聞いたことが無い。また、最近の工場では自動化や機械化が進んでいて、過酷な肉体労働は減っている。サービス業の中にも、労働条件が過酷な業種はたくさんあるし、製造業が特に「きつい」とは思わない。
「汚い」という事についても現実を正確に認識していないように思う。食品工場や半導体工場では、汚いどころか、逆に究極の清潔さが求められる。しかも、清潔さが求められる分野には先端産業が多いから、今後そのような工場が増える公算が高い。製造業が特に体が汚れる産業とは言えないように思う。
 工事現場や工場にはもともと、3Kという印象は一般的に持たれていなかった。むしろ、ボーと突っ立っている、或いは同じ事の繰り返しで退屈な仕事という印象が強かった。私は建築工事現場の現場監督をしていた事があるが、その事を言うと、「暇な仕事なんでしょう」と聞かれる事が多かった。当時の認識はむしろ、楽な仕事という印象があったように思う。
 私は若者が製造業や建設業を敬遠した最初の理由は3Kとはあまり関係無いと思っている。今の時代、物があふれているし、工業製品の耐久性も高くなっている。そのため需要が減ってきた。逆に供給能力については、生産性の目覚しい向上により著しく高くなっている。そのため、供給過剰に陥っている。これらの産業は落ち目の産業であり、その事を若者が敏感に察知したのだろう。また、工学部の学問は製造現場を想定していない場合が多い。だから、むしろ理工系の学生がゼネコンやメーカーに就職する事の方が不自然だったのだ。また、最近では業務のアウトソーシング(外注)が進む傾向がある。例えば、自動車の設計者について考えると、メーカーに所属していれば製造業従事者で設計事務所に所属していればサービス業の従事者という事になる。やっている仕事は同じでも分類上は違う業種という事になってしまう。そんな事にこだわるのは大して意味が無い。
 このように若者の製造業離れを招いた理由は3Kとはとあまり関係無かったのだが、誰かが「若者の製造業離れは3Kが原因だ」と言い出した事で、ますます製造業離れが進行してしまったのではないだろうか。

少年犯罪は増加しているか?

 少年犯罪が増加しているという話はよく耳にする。その一方で、少年犯罪は減少しているという意見もある。両者は全く正反対の意見なのだが、一体どちらが正しいのだろうか。
 実はどちらも間違ってはいないのだ。
 こんな事を書くと、「どちらも正しいなんて事が有る訳がないだろう。おかしいじゃないか。少年犯罪が増えていて、しかも減っているなんて事有るわけがないだろう。矛盾している」と疑問に思う人が多いだろう。そもそも、少年犯罪が増えているのか減っているのかを論ずる上で大きな前提が必要になる事が完全に忘れられているのだ。
 それは、現在の少年犯罪の発生件数がどの年代の少年犯罪と比べて増えているのか或いは減っているのかという点だ。日本における少年犯罪のピークの時期は終戦直後だ。ここ2、3年間だけの傾向として少年犯罪が激しく増加しているような場合には、少年犯罪の発生件数は終戦直後と比べると著しく少ないが一年前と比べると遥かに多いといった状況ができあがる事がよくある。この場合、少年犯罪は増えているとも減っているとも言えるわけだ。
 もう一つ、犯罪件数について注意しなければならないのは、発表される犯罪件数というのは公式に確認された犯罪に関する数字であるという事だ。悪事を働いても誰にも知られなければ犯罪としてカウントされる事はない。少年犯罪に限った事ではないが、科学捜査など捜査能力が劣っていた時代には例えば、放火の多くが原因不明の不審火として扱われていた。数値的な結果について見る場合には、犯罪数が同じ場合には捜査能力が高い方が犯罪数が多い事になってしまう。あるいは戦争や内乱状態など警察機能が十分に機能しない場合は、犯罪数が少なくカウントされ易いであろう。
 このように客観的に見ると、少年犯罪は特に増えているとは必ずしも言えないし、特に凶悪化したという根拠も乏しい。また、「貧しい中での殺人と、豊かな中での殺人では意味合いが違う」という意見もあるが、貧しいから人を殺してもいいという事にならないので、これも的外れな意見である。  結局、よく調べるほどに、少年犯罪は沈静化しているという印象を強く受けるようになる。

ヴァーチャル・リアリティーは有害か?

 作家の曽野綾子氏はヴァーチャル・リアリティーに対して毎日新聞紙上で否定的な見解を示している。彼女以外にも、テレビゲームをはじめとするヴァーチャル・リアリティーに対して、危険視する評論家は大勢存在する。
 ヴァーチャル・リアリティーを好ましくないとする根拠としてよくあげられるのは、「ヴァーチャル・リアリティーにより現実と空想の区別が付かなくなる可能性があり、殺人などの犯罪を犯す可能性が有り、危険だ」というようなものだ。
 しかし、ヴァーチャル・リアリティーが否定されるのは、必ずしもそのような理由だけによるものではなさそうだ。現実と空想の区別が付きにくいのは、映画や小説や教科書だって同じ事だ。例えば南京大虐殺の存在を肯定する映画と否定する映画がある。ここでは旧日本軍の行為の是非について述べる気はないが、少なくともどちらか一方が間違っていることになる。果たしてどちらが正しいのか判断するのは簡単ではない。
 それでは、ヴァーチャル・リアリティーに否定的な見解を示す人が多いのは何故なのだろうか。ヴァーチャル・リアリティーが完全に市民権を獲得していない理由として三つほど考えられる。
 一つは、その歴史が浅い事だ。何でもそうだが、新しいものは迫害される傾向がある。例えば、戦前の日本では「野球は教育上好ましく無い」と考える校長は多かった。ギターやロックンロールは不良の素とされた。小説も好ましく無いとされた時期があった。初期のプロレスは流血シーンが社会問題になった。現在のプロレスは遥かに過激であるにも関わらず、殆ど非難されていない。現在の例を挙げると「飛び級制は人格形成上好ましく無い」という意見が多い。要するに馴染みの無いものには違和感があって、好ましく無いと決め付けてしまう傾向が有る。
 二つ目は業界にカリスマがいない事だ。私が高校生の頃はバイクが教育上好ましく無いと盛んに槍玉に挙げられていた。むしろ、テレビゲームよりバイクに対する非難の方が強かったように思う。しかし、本田技研工業の経営者であった本田宗一郎氏が、「バイクを禁止するのではなく、ルールを教えてやれば良い」と一喝した事が、バイクに対する批判の激減に大きく繋がった。それに対して、テレビゲーム業界には本田宗一郎氏のような強烈な個性を持った経営者がいないということが不利な要因になっている。
 三つ目はテレビゲームをはじめとするヴァーチャル・リアリティーには強力な圧力団体が付いていないということだ。「バイクは暴走族の乗り物だから良くない」という印象があったが、それに対して、「暴走族が実際に乗っているのは二輪車よりも四輪車が多い」という指摘がなされた。そうなってくるとバイクに対する批判は自動車メーカーにとっても見過ごせないものとなっていった。国内最大級の産業である自動車業界が一丸となってバイクを擁護する主張を展開するようになったために、バイクに対する批判は急速に減っていった。最近ではバイクに対する批判を殆ど聞かなくなった。確かに「バイクを禁止するのではなく、ルールを教えてやれば良い」というのは正論だ。しかし、正論だから、その意見が社会に浸透したのではなく、業界の圧力に世論が屈しただけの話だ。
 大体、テレビゲームをやっていて現実との区別が付かなくなる人がいるのだろうか。それは余程、間抜けた幼稚な人だろう。
 曽野綾子氏とは対称的に、テレビゲームの人格に与える影響を高く評価する著名人も存在する。精神科医の香山リカ氏がその一人だ。香山リカ氏の診断では、テレビゲームをする事によってむしろ精神状態が良好になった例は少なくないようだ。
 仮にヴァーチャル・リアリティーが人格に有害な影響を与えるとしても、今の時代はヴァーチャル・リアリティーは無くてはならないものになっている。現代の技術は巨大化してしまったため、危険性というのは非常に大きくなっている。高速鉄道の事故、高層ビルディングの倒壊、航空機の事故などが起こったときの被害はとてつもなく大きい。特に原子力発電所での事故は地球全体を吹き飛ばしてしまう可能性が有る。これらの安全性については十分考慮する必要がある。しかし、これらの巨大技術の安全対策には大きな問題点が有る。それは実際に事故を起こして安全性を確認する訳にはいかないという事だ。高層ビルディングの場合、自動車の衝突安全テストのように、実際に建物全体を破壊する訳にはいかない。
 原発の是非についてはここでは述べないことにするが、原発が必要だとすると、安全性を確認するためにヴァーチャル・リアリティーが必要ということになってくる。曽野綾子氏は原発推進派だから、その主張は矛盾している。曽野氏は恐らくこの事に気付いていないのだろう。
 有益か無害かはとにかくとして、ヴァーチャル・リアリティーの持つ意味は非常に大きい。曽野綾子氏はヴァーチャル・リアリティーは麻薬のようなものだと主張している。もし、ヴァーチャル・リアリティーが社会にとって極めて有害で、「百害あって、一理なし」としたら、直ちに禁止すべきだ。逆に、「これこそ、日本の誇りうる最先端分野であり、構造的不況に陥った日本の救世主となり得る存在だ」という可能性も有る。そうだとしたら、国をあげて積極的に技術開発に取り組むべきだ。
 いずれにせよヴァーチャル・リアリティーが社会に与える意味を積極的に調査する必要がある。ヴァーチャル・リアリティーによる害と益については、憶測ではなく、科学的で具体的な研究が大至急必要だ。

日本国憲法改正問題

 戦後60年以上も改正されない日本国憲法の問題は日本の社会を象徴している。なぜこのような状況が生まれたか、そして革新陣営はどうあるべきか、国民はどう対処すべきかを考える。

右翼=改憲、左翼=護憲のイメージ

 改憲派と護憲派の一般的なイメージについては、右翼=改憲、左翼=護憲というイメージを持っている人が多いと思う。
 しかし、日本国憲法第一条では天皇制の存在を象徴としてではあるが認めている。共産党や社民党は通常は君主制に対して否定的な立場をとるものである。
 また、世界中探しても非武装中立を唱える共産党や社会民主党(あるいは社会党)は私が知っている限りは見当たらない。この憲法は左翼的な色彩はそんなに強くない。アメリカでレッド・パージが吹き荒れていた時代にアメリカ人が草案したものだからむしろかなり右寄りと考えてもおかしくない。
 左翼的な運動をしている人たちに率直な意見を聞いてみると実は日本国憲法を絶賛している人は殆どいない。終戦直後の共産党は日本国憲法に反対していた。

よりましな選択

 それでは革新陣営が声高に憲法改正反対を唱えるのは何故なのか。
 革新勢力は憲法に不満はあるが数において保守勢力に劣るため改憲になると自分に都合の良い憲法になるどころかむしろ、より保守的な憲法になってしまう可能性が高い。それで革新陣営は「よりましな選択」として護憲を唱えていたのである。逆に社会党や共産党が議席数において保守を圧倒していれば革新の方が改憲で保守が護憲という構図になっていただろう。

惰性の運動

 かつては社会党の勢力が強く自民党に次ぐ第二党であり革新陣営の議席が三分の一以上を占めていた。この状況で憲法改正反対を唱えるのは実にうまい作戦という事も出来た。憲法改正に三分の二以上の賛成を必要とするため、反対派の一票は賛成派の二票に相当する。劣勢な革新陣営が一時的に保守勢力を阻止するためには後ろ向きではあるがある程度やむを得ない選択ではあった。
 しかし、共産党と社民党をあわせても議席の一割にも達しないのが現状で、逆に2005年の衆院選では与党が三分の二以上の圧倒的多数の議席を得てしまった。
 市民活動家の中にはそういう経緯を全く理解しないで「かけがえのない日本国憲法を守る」というふうに護憲自体が目的化してしまっている人も見受けられる。長年続いた護憲運動の流れに対して何も考えないで「運動のための運動」という感じでただ惰性でついて行くというのもある面で危険である。
 積極的に改憲を唱えられない状況が理解できないでもないが、この状況では逆に憲法改正試案くらいは考えておくべきだろう。

人物評

石原慎太郎

石原慎太郎の科学技術論
石原慎太郎の雑な経済感
 石原慎太郎:異様な感性 −『作家都知事の差別社会学』に関する補論−へのリンク
「『NO』と言える日本」への反論
 石原慎太郎氏の著書 『NO』と言える日本 に対する反論本の概要

小林よしのり

 ゴーマニズム宣言でお馴染みの漫画家である小林よしのりは今や飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子である。戦争論は公称五十万部という事になっている。多少の誇張があって組織買いなどがあったにしても、この数字は驚異的と言って過言ではない。今や小林の漫画は社会現象とも言える状態だ。
 自称天才漫画家である小林が、果たして天才であるかどうかはとにかくとして、その手法は独創的と言える。漫画家とはいえ影響力は非常に大きい。決して侮りがたい存在であり、その実力は認めなければならない。
 東京都知事になった石原慎太郎氏同様、著作の中でやたらと日本を褒め称え、愛国心を強調しているが、実際には彼は似非愛国者に過ぎない。愛国心の名の下に自分を語っているだけだ。
 ここでは小林よしのりの作品のどこがどのように間違っているのかを説明する。

特攻隊

 小林よしのりは「新ゴーマニズム宣言・戦争論」をはじめとする彼の著作などで、特攻隊を褒め称えている。太平洋戦争中に日本が行った玉砕や航空部隊による敵艦への体当たり攻撃を公のために自分を犠牲にした自己犠牲の精神であるとして、極めて高く評価している。
 小林によると、特攻隊は当時の若者が純粋に日本のために、あるいは愛する人を守るために自発的に出撃したという事になっている。しかし、旧日本海軍では決して最初から航空機による体当たり攻撃を高く評価していた訳ではない。むしろ、日本海軍は「体当たり攻撃のような方法は最低の方法である」と厳しく戒め、禁止していた時期さえあった。
 硫黄島やサイパンに上陸したアメリカ海兵隊の先発部隊は、大半が死亡している。ドイツ空襲を敢行した「空飛ぶ要塞」と呼ばれた四発の重爆撃機B17はドイツ空軍の激しい迎撃を受け、搭乗員の死亡率はかなり高かった。ミッドウェー海戦ではアメリカ海軍の雷撃機が戦闘機の護衛なしで日本の機動部隊に突っ込んでいる。これらの戦いではアメリカ兵の死傷率は百%に近い。数字を見ると殆ど特攻に近い状態だ。アメリカ兵だって勇敢さでは決して日本兵に負けていない。しかし、これらの戦闘と日本の特攻を比べた場合に根本的な違いがある。それは、アメリカ兵にはたとえごく僅かであろうと必ず生還の可能性を与えられた事だ。ドイツ空軍も一時期体当たり攻撃の導入を考えたことがあるようだが、ヒトラー総統の鶴の一声で中止が決定している。ヒトラーは、「たとえ1%でも将兵に生還の可能性を残しておかなければならない。百%の自己犠牲を強いる事は将兵の士気を下げる」と考えたようだ。ヒトラーのような冷酷で非常な独裁者でさえ、航空機による体当たり攻撃に反対しているのだ。完全に個人を犠牲にしてしまう特攻は国家にとっても決して上手な作戦ではなかった。
 特攻機の出撃の際には直掩機と称する戦闘機が同伴する事になっていた。直掩機の任務は、特攻機を敵機の攻撃から護衛する事と戦果の確認という事になっていた。しかし、戦果の確認の方はとにかくとして、特攻機の護衛の方は全くその任務を果たしていなかったというのが実情のようだ。直掩機の実際の任務は、特攻機の監視だったようだ。特攻機が逃げようとしたら撃ち落す役目を負っていたようだ。
 日本軍が特攻に踏み切ったのは、航空部隊の技量の低下と関係している。もし、敵艦に爆弾や魚雷を命中させて生還する事が出来るのなら、搭乗員が生還した方が国家にとっても遥かに有益だった。特攻によって確実に一機の航空機と一人の搭乗員が失われてしまう。搭乗員が一度きりの攻撃で死んでしまうのは国家にとって大きな損失だ。
 特攻が果たして有効だったかどうかについても疑問がある。特攻機は最終的には墜落するのだから、対空砲火による損失を減らせるし燃料も半分に減らせるという効果はあった。しかし、アメリカ艦隊は当然、厳重な警戒態勢を敷いている。特攻機は敵艦に辿り着く前に、敵の戦闘機部隊に遭遇するのが通常だった。既に説明した通り、護衛役の直掩機は特攻機を守る事は事実上不可能だった。だから、体当たりする前に大部分の特攻機が敵戦闘機によって撃墜されただろう。しかも、零式艦上戦闘機をはじめとする戦闘機はもともと爆撃用には作られていないから、急降下が難しい機体も多かった。爆撃機や練習機を特攻機として使うのはとにかく、戦闘機についてはもっと別の仕事、例えば重爆撃機であるB29の迎撃に使った方が効果的だったのではないだろうか。海軍や陸軍は、敵国の防衛圏内への侵入を許しておいて、何もしないという訳にいかないから、これだけ必死でやっているのだという事が分かり易い体当たり攻撃によって面目を保ったというだけの話ではないか。特攻の全てがそうではないにしても、航空機による体当たり作戦の中には橋梁を標的にするなど形式主義に過ぎない特攻攻撃計画も存在したようだ。

原子爆弾

 日本は太平洋戦争中に、アメリカ軍によって広島と長崎に原子爆弾を投下されている。第二次世界大戦中に、日本と共にアメリカと戦ったドイツには原子爆弾が投下されずに、日本にだけ原子爆弾が投下された。この事に対して、小林よしのりは新ゴーマニズム宣言・戦争論の中で、広島や長崎に対してアメリカが原子爆弾を投下したのは人種差別思想によるものであると決め付けている。しかも、「黄色い猿である日本人などといった極めて扇情的な言葉を使って、白人に人種差別意識があった事をやたらと強調している。
 しかし、実際には、日本人が黄色人種だから広島と長崎に原子爆弾が投下されたという証拠は何もない。
 なぜ、原子爆弾が日本にだけ投下されてドイツには投下されなかったのかというと、ドイツが日本より先に降伏したからだ。原子爆弾の製造がドイツの降伏までに間に合わなかったのだ。有りもしない原子爆弾をどうやって使いようがあるというのだろうか。ドイツ人が白人だから、ドイツに原子爆弾を投下しなかったという訳では決してない。
 日本人は太平洋戦争に対する被害者意識が非常に強いが、実際には日本よりドイツの方が戦争による被害は遥かに大きく、しかも連合国による極めて過酷な制裁を受けている。日本より遥かに人口が少ないドイツでは第二次世界大戦で約一千万人が戦死している。これは日本より遥かに高い割合で戦死している事になる。連合国は、ドイツに対して戦後の統治も極めて厳しく行った。しかも、ドイツは東西に分断されてしまった。連合国が、ここまでドイツに対して過酷な態度を取ったのは、第二次世界大戦で示されたドイツの恐るべき工業力と強力な戦闘能力を持つドイツ軍に味あわされた恐怖によるものだ。V2号ロケットや原子爆弾をはじめとして、ドイツの兵器は極めて高い水準にあり、日本はもちろん連合国も凌駕していた。連合軍はドイツを完膚なきまでに叩きのめす必要があった。第二次世界大戦での欧州戦線は連合国側の楽勝ではなく、極めて危ない均衡によって辛うじて勝敗が決定した。
 もし、ドイツが降伏するまでにアメリカ製の原子爆弾が実戦で使用できる状態になっていれば、アメリカは恐らく躊躇することなく原子爆弾をドイツに投下していただろう。
 石原慎太郎氏も著書「『NO』と言える日本」の中で、日本への原子爆弾の投下に対して似たような発言をしているが、仮に広島や長崎への原爆の投下が人種差別であったとしても確かな証拠が何も無い事で騒ぎ立てるのは逆効果だ。

精神で負けた日本

 小林よしのりは日本兵は極めて勇敢に戦ったが米英の圧倒的な物量に負けたという認識を持っているようだ。しかし、現在でこそアメリカ軍は世界最強というイメージがあるが、第二次世界大戦勃発時のアメリカは軍事小国であった。当時のアメリカは経済的にも安定せず、将兵の士気も錬度も低く、とても積極的に戦争できる状態ではなかった。当時の日本とアメリカの生産力の差が十倍以上あったという事が盛んに強調される事が多いが、アメリカは決して日本軍とだけ戦っていた訳ではない。
 日本は、広い国土と圧倒的な人口を持つ中国という強敵を相手に十年以上に渡り戦争をした。アメリカやイギリスとの戦争が始まってからも、やはり中国が重要な戦場の一つであった。日本は中国に負けたと言っても過言ではない。特に八路軍や新四軍をはじめとする中国共産党の部隊の活躍は目覚しかった。フィリピンの抗日レジスタンスであるフクバラハップの活躍も見逃せない。彼らのおかげで日本軍の行動が米軍に筒抜けとなり、米軍の行動が容易になった。
 米英の将兵にしても、太平洋戦争の初期の頃は勝ち目が無いとなると武器でも何でも置き去りにして逃げ出してしまったが、決して臆病だった訳ではない。ミッドウェー海戦では、日本海軍の情報がアメリカに筒抜けになっていたことが勝敗を分けたとされているが、戦闘機の護衛と爆撃機との連携なしで空母に突っ込んだアメリカ海軍雷撃機部隊の勇気も見逃せない。鈍重な艦上雷撃機は戦闘機の格好の餌食であり、護衛戦闘機なしで敵空母に突っ込むのは殆ど自殺行為と言われている。日本海軍の戦闘機に落とされても落とされても、次々と押し寄せるアメリカ海軍の雷撃機の攻撃に日本の戦闘機部隊が疲れ果てて、上空にいたアメリカ海軍急降下爆撃機の急降下を見逃す結果に繋がってしまった。日米合作の超大作映画「ミッドウェー」で機動部隊を指揮する南雲長官が、アメリカ海軍雷撃機部隊の攻撃に対して「我が方に劣らぬ勇敢さだ」と賞賛していたシーンが印象的だった。
 B29など米軍の戦略爆撃機にしても、命知らずのアメリカ海兵隊員が硫黄島やサイパンを捨て身の突撃で奪わなければ、日本本土の爆撃を敢行することはできなかった。第二次世界大戦では、「実際には、飛行機や戦車より、上陸用舟艇やジープの方が遥かに役に立った」と言われている。
 アメリカ軍では、兵隊より将校の死傷率が高かった。日本軍の死傷者はその全く逆になっている。イギリス軍にしても、命令に反して部下を退却させたが、卑怯者と思われるのが嫌で自分一人が残って戦い、戦死した陸軍大尉がいた。「兵の命は鴻毛よりも軽い」とされる軍隊が、兵隊より将校の死傷率が高い軍隊に負けたのは必然だ。
 小林が絶賛している旧日本軍の玉砕についても、ある連合軍将校から、「玉砕に対して勇気をもって当たれば、たとえ槓桿式の銃をもってしても、日本兵の大虐殺を行う事が可能だ」と言われている。玉砕のように集団で一斉に突撃するより、少人数でゲリラ戦を展開したほうが効果は遥かに高かっただろう。玉砕というのは勇気のある行為どころか、敵に対して自らの居場所を教え、敵の前にのこのこ現れて、殺してくれと言っているようなものだった。日本兵は一人で戦うのが怖かったから、集団で突撃したのだろう。
 あまり知られていない事だが、米は戦場に向いていない食料と言われている。炊飯するには水が必要だし、炊事の時には煙が発生してしまうので、敵に居場所を知られ易い。意外に知られていないが、戦場に米を持ち込んだ日本の軍人の脆い精神が敗北を招いた大きな原因の一つになっている。

日本軍の特殊性

 小林よしのりは日本兵の残虐性については過小評価する一方で、中国兵やアメリカ兵の残虐性をやたらと強調している。確かに、戦争に残虐行為やレイプは付き物だ。そのような行為は日本軍に限った事ではなく、程度の差はあれ多くの軍隊に見られる。
 しかし、日本兵やソ連兵の乱暴さはアメリカなどと比べた場合、際立っていた。その違いは何かと言うと上層部の風紀に対する考え方の違いにあった。兵士の強姦や強奪を厳しく禁じるなら、地元住民からは信頼と協力が得られる可能性が高い。しかし、風紀を厳正にする事は戦争に勝つためには必ずしも有利には働かない場合が少なくない。強姦や強奪は昔から兵士の数少ない楽しみであったからだ。
 アメリカ兵の場合日本兵と比べて短い期間、戦場に赴けば国に帰る事が出来た。体罰などが全く無かった訳ではないだろうが、日本軍と比べると人権はずっと保障されていた。基本的に生きて帰れるという事になっていたから、下手に強姦や略奪行為をして殺されるより、おとなしくしていた方が良いと考える兵士も多かった。
 それに対して日本兵は、一度戦場に派遣されたら帰れる保証は何も無いし、古参兵から徹底的に苛め抜かれた。「兵士の命は鴻毛より軽い」とされ、人権など無かった。兵士にとっては、強姦や略奪くらいしか楽しみが無かった。憲兵によって住民に対する犯罪を厳しく取り締まれば、士気が上がらず、中には反乱を起こす兵士が出てくる可能性もある。それで、住民に対する犯罪行為が野放しにされていたのだ。
 ソ連軍もまた日本軍同様に行儀の悪い軍隊だった。どちらかというとファシズム国家の軍隊は柄が悪いようだ。
 日本軍の残虐行為については過去のものとして片付ける事はできない。日本軍の性格は現在の日本企業にも多くがしっかり受け継がれている。例えば長期に渡る単身赴任は日本企業では一般的に見られる。日本人ビジネスマンが現地で売春婦を買おうとしてトラブルを起こす事が少なくない。
 欧米というとフリーセックスという印象があるが、アメリカのように意外に厳しい国が少なくない。そのため、日本人男性は異常性欲の持ち主であるという印象をもたれてしまう。個人を尊重しない風土を改めなければならない。

小池百合子

 小池百合子氏は所属する政党や会派を次々と鞍替えする節操のなさと政治に関する信念が伝わってこない事からから「権力と寝る女」などと言われているが、その事に関しては何度も多くの人から指摘されているのでここでは詳しく書かない。
 私は何かというと「女」を言い訳にする彼女の姿勢が好きになれない。アメリカのライス女史に引っ掛けて「私をマダム・スシと呼んで」などというのはジョークにしても品が無さ過ぎる。ライス氏とは格が違い過ぎる。
 女性である事に甘えている一つの例をあげよう。2005年に疲労が原因で入院したが、暫く表舞台に現れない時期があった。これはかなり話題になり週刊新潮の2006年4月6日号では「永田町では危篤説や自殺未遂説が流れている」と報じられたほどだった。復帰会見で「女性の場合、男性の10倍くらい結果を出さないとなかなか認められないから、つい、がんばりすぎちゃうんですよね」と発言している。自分の健康管理に問題があって国民に迷惑をかけたにも関わらず国会議員ともあろうものが、あたかも性差別が理由で休んだかのような言い訳をするのはどういうものだろうか。甘えるにもほどがある。性差別を受けたのが休養の理由であるというのなら具体的に証拠を明示すべきだ。
 安部晋太郎内閣の下では女性初の防衛相に任命されているが、この時の対応もお粗末過ぎて直ぐに解任されている。解任されたのは守屋次官の解任を巡る騒動が理由であった。守屋氏を解任する際に携帯電話で簡単に報告するという防衛相とは思えないお粗末な手法に守屋氏が反発した。後に守屋氏の不正が発覚し国会で追及されるが、小池百合子氏は図に乗ってやはり自分の手柄であるかのように自慢している。しかし、そういう結果になったのは偶然に過ぎず、「女子の本懐」などと「女性の嗅覚」を強調するのはいささか図に乗り過ぎだ。これは男女問題とは何の関係も無いからだ。
 更にこの騒動にかこつけて「嫉妬の女偏を男に変えてほしい」という主張も彼女の立場を考えるとレベルが低過ぎる。確かに嫉妬は女性だけがするものではないし、必ずしも女性の方が酷いとも言えないので、字を変えてほしいというなら、そういう運動があっても構わないのだが、男女共同参画とは何の関係も無く元防衛相としてはお粗末の一語に尽きる。
 彼女は政策に関して確固たる信念がある訳でもなく女性である以外に何も無い。むしろ女である事を武器にのし上がってきた人だし、そもそも女性から人気があるのかどうかすら疑わしい。このような人物に政治をかき回されるのはうんざりだ。

河上亮一

 河上亮一氏は現在、最も注目を浴びている中学校教師のひとりだ。彼の著書である「学校崩壊」は新聞紙上などで盛んに宣伝されている。彼はテレビや雑誌にも盛んに登場している。
 彼は完全に教育評論家気取りだが、その発言には眉唾ものが多い。彼が主張している主な内容は、「家庭のしつけが悪いから、学校教育がうまくいかない」、「子供の人権をマスコミが言い過ぎるから生徒が悪くなった」、「父権の復活が必要だ」、「学校教育の基本は押付けだ」などといった事だ。子供の人権を完全に無視した古典的な意見が目立つ。さながら明治の頑固親父といった感じだ。
 しかし、文芸春秋に掲載された彼自身の解説によると、若い頃の河上氏は金八先生のような教師であったそうだ。自由な発想の持ち主で生徒の自主性を尊重してベテラン教師と衝突する事が多かったそうだ。服装や髪型もラフなスタイルをしていたそうだ。しかし、生徒の自主性を尊重したことによって生徒から苛められたので、それではいかんと思いファシズム教育路線に転向したようだ。若い頃は散々体制に反発しておいて、年をとってからは若者を徹底的に非難する身勝手な人は多いが、彼はその典型だろう。
 彼の発言の内容を見ていると、学校以外のものに責任を転嫁するようなものが多く、極めて無責任だ。その無責任さを象徴する例として、人気テレビ番組の「ここが変だよ日本人」での日本人教師と在日外国人との討論が印象的だった。外国人と会話しようとしても殆ど使い物にならない英語や殆ど誰も使わないような数学のように、日本の学校教育の中には全く役に立たなくて実践的でないものが多い。その事が討論会で話題になり、日本人教師が外国人から激しく非難された。「日本の学校で習っている英語は使い物にならない。一体何のための英語教育か?」といった意見に対して、河上氏は極めて挑戦的な態度で、学校で習うのは知識だけではないという事を強調していた。「(学校で習うのは実用的な知識だけか?)それだけじゃないだろ?」を連発する河上氏の開き直った態度は傲慢で大変無礼であった。
「学校で習うのは知識だけでなく、我慢や規律も覚えさせるのだ」というように人格形成面をやたらと強調している。その意見が正しいかどうかはとにかくとして、学校で習っている知識が実践的でないという事は極めて大きな社会問題だ。教師の怠慢と言われても仕方ないだろう。授業中に生徒が騒ぐのは家庭の躾にも問題はあるかもしれないが、全ての生徒が真面目に授業を受けて教師に素直に従えば教育問題が全て解決するとは思えない。学校で習った英語や数学が実社会で全く何の役にも立っていないのは、親の責任ではなく明らかに学校の責任だ。そもそも明治の学校教育に数学が導入されたのは人格形成が目的ではないだろう。河上氏は人格形成というのを逃げ道にしている。「その知識自体が役に立たなくても構わない。結果なんかどうでもよい。教える過程が大事なのだ」などと言ったら、生徒がやる気を無くして、教師を馬鹿にするのは当然だろう。「教育のための教育」ではないのだから、「結果がどうでも良い」という考え方は通用しない。
 国際政治学者の舛添要一氏は保守的な思想の持ち主だが、その舛添氏から河上氏は日本の学校教育の問題点についてテレビ番組の中で指摘されている。舛添氏は、「予備校では学級が崩壊したという話は聞かないし、江戸時代の寺子屋は強制ではなかった。義務教育は必要ないのではないですか」というような質問を河上氏にしていた。それに対して、河上氏は何ら有効な反論をすることはできなかった。保守派の文化人から、考え方の古臭さを指摘されるようではどうしようもない。
 現在の学校体制を維持する必要があるというのは、教師のためでしかないようにも思える。無駄な公共事業でゼネコンを養っているように、現在の学校もまた、教師自身の失業対策のためにあるような存在に過ぎない。河上氏の主張は自らの権益を守るという事に過ぎない。
 そもそも、「プロ教師の会」という名称自体が妙だ。もともと教師はプロなのだからプロ教師などという言い方自体がおかしい。このことは識者によって既に指摘されているが、本人たちは一向に意に介していないようだ。全く滑稽な話だ。
 このような古臭くて、自分勝手な教師に教わる生徒がかわいそうでならない。

西尾幹二

 文芸評論家で電気通信大学教授の西尾幹二氏は保守派文化人の代表的存在だ。彼の主張の殆どが合理性に欠けており、間抜けているのだが、その中で代表的なものが二点ある。
 外国人の移民の受け入れに対して猛烈に反対している事と「日本軍はナチスよりましだった」という主張をしている事だ。
 外国人の単純労働者については、どこの国でもある程度の受け入れ制限が存在する。日本のような先進国で外国人を無制限に受け入れると人口がたちまち倍になってしまう可能性も有る。単純労働者の受け入れを拒む事については西尾幹二氏の主張が必ずしも間違っているとは思わない。しかし、日本の問題点は外国の優秀な頭脳労働者ですら受け入れない事だ。これは国家の秩序を守るためというより、好き嫌いや単なる外国人嫌い或いは優秀な外国人に自分のポストを奪われる事を恐れた保身行為に過ぎない。特に日本の大学ではそのような傾向が強い。西尾氏は日本の秩序が乱れることを恐れているのではなく、自分の地位が脅かされる事を恐れているに過ぎない。
「日本軍の行為はナチスよりましだった」という主張もまたおかしい。
 西尾幹二氏をはじめとして、日本軍の行為はナチスの行為と比べるとましだったと言う日本人は少なくないが、その根拠は極めて薄弱だ。ナチスはユダヤ人の大虐殺を行っているが、日本ではそのような民族大虐殺は行っていない。西尾氏はその事を根拠としているようだ。そのような主張をする人が多いが、その部分だけを比べるのは意味が無いし、フェアではない。捕虜の扱いに関しては日本軍の方がドイツ軍よりましだったとは言えないし、日本とドイツを天秤にかけて簡単にどちらがよりひどいと簡単に言える問題ではない。そもそも、当時の日本とドイツは同盟国であったし、日本はドイツ式の厳格な統制主義を好んで手本としていた。ナチスに対する批判は禁じられていたし、ヒトラーユーゲントは日本にやってきたが、極めて高い評価と称賛を受けていた。「日本の方がドイツと比べてましだった」などという比較はあまり意味がないし、卑怯な言い訳に過ぎない。ドイツが地上げ屋だとすると日本は地上げ屋に協力する銀行のようなものだ。どちらがよりましだとは言えないだろう。ソ連軍やジンギスカンが率いたモンゴル軍と比べてましだったと言うのなら、まだ話が分かるのだが、「ドイツと比べてましだった」と言うのは間抜けとしか言いようがない。
 東京大学出身の大学教授という超エリートであり、誇り高き文化人である西尾幹二氏は、今では極めて傲慢な漫画家である小林よしのりの手下になってしまった。実態は、その程度の存在に過ぎないのだ。彼の言っている事は小学生程度のレベルに過ぎないのが実態だ。

渡部昇一

 渡部昇一氏は保守派の文化人の中でも最右翼に属する人物だ。その思想は差別と偏見に満ちている。神がかっていて客観性に欠ける意見が多い。
 彼の主張は独断と偏見に満ちているのだが、その一例が「南京大虐殺は無かった」という意見だ。南京大虐殺の被害者数については諸説あって、定かではない。中国側の主張としては、三十万人というのが一般的だが、四十万人という意見もある。しかし、石原慎太郎氏のように「あったとしてもせいぜい二万数千人程度だろう」という意見もある。
 ここでは南京大虐殺の犠牲者数についてどちらが正しいかについて述べる気はない。中国側の主張する数字は必ずしも確かな証拠が有るわけではないし、私は中国側の数字を全面的に信じきっている訳でもない。
 渡部昇一氏は中国側の主張が間違っている事を、南京大虐殺肯定派の主張する証言の不審な例をあげて説明している。「当時の南京の人口などから考えて、そんなに殺せるはずが無い」というような例をあげている。確かに虐殺に関する個々の証言については不正確なものが多いのだが、南京大虐殺が無かったというのも言い過ぎだ。いい加減な証言が多いからといって南京大虐殺が無かったと決め付けるのもおかしい。
 人口というのは住民として登録された人の数をいうのであって、そこに存在する人の数をいっているのではない。例えば、観光客の人数は人口には入らない。南京に存在した人の数は住民登録した人の数より遥かに多かった可能性もある。よそから連れてきた捕虜を殺した可能性も有る。
 実際に南京で三十万人が殺されたかどうかは分からないが、その程度の犠牲者が出ていたとしても全く不思議は無い。理論的には日本軍が三十万人殺す事は可能だ。現に、人力だけという極めて原始的な方法で、一気に十万人の兵士を虐殺した例が中国にはある。
 中国で最初の統一国家である秦では、始皇帝の死後、各地で反乱が起こったが、中でも項羽が率いる楚の軍隊は強かった。楚軍の捕虜になった十万の秦軍の将兵が反乱を起こす恐れがあるという情報を掴んだ項羽は、捕虜を生かしておくことは危険だと思い、処置に困った末に皆殺しにする事にした。
 その手口は、周囲を楚軍に包囲させておき、一箇所だけ、逃げ道を空けておいた。突然、追い立てられた捕虜たちは大混乱を起こし、逃げ道に殺到した。そこが崖になっていて、秦軍の捕虜は折り重なり、下になった者は圧死した。楚軍は最後に、捕虜の上に土を被せた。これで、十万人の生き埋めが完成した。この方法は、捕虜の心理と力を巧みに利用し、殺す側は殆ど労力を使っていない。しかも、短時間で大量虐殺を完了させている。しかも、これは紀元前の話だ。二千年以上もたった日中戦争の時代で、近代兵器やトラックを使ったとなると更に大規模な虐殺も簡単にできてしまう。
 これ以外にも彼の意見は出鱈目が多く、とても理論と呼べる代物ではないが、大学教授などといった立派な肩書きがあるために、彼の持論は崇高な理論と思われてしまっている。
 また、彼には日本人の優秀さをやたらと強調する癖が有る。石原慎太郎氏と同様に、唐津一氏のような技術の専門家と称する如何わしい識者から日本の技術の優秀さについての話を聞かされると簡単に信じ込んでしまい、無邪気に喜んでいる。しかし、日本の技術の優秀さを確かめもせずに褒め称える態度は愛国心でも何でも無い。単なる愚か者だ。これは日本人に限った事ではないが、日本人なら誰だって、日本人が最優秀な民族であると信じたがるだろう。しかし、自国の実力を客観的に評価しないと、自国の崩壊に繋がりかねない。
 差別を糾弾する人に有りがちだが、渡部氏や石原慎太郎氏は自分が差別主義者であるにも関わらず、「白人は差別主義者である」と決め付けて糾弾している。「人のふり見て、我がふり直せ」とでも言ったところか。
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