週刊金曜日の大研究

ホームへ 目次の分離 更新情報 (最終更新日:2012/05/23 )


 週刊金曜日は天皇制・皇室、トヨタ自動車、右翼、百人斬り、「買ってはいけない」などタブーに挑む週刊誌。
  1. 下層無 百人斬り・刃毀れ伝説と南京大虐殺
    「2、3人斬れば刃毀れする日本刀で百人斬れる訳が無い」と言う人もいるが、物理的可能性を含め百人斬りを検証する。
  2. 開閉 大企業批判
    トヨタ、東京電力、JR、セブンーイレブン、パナソニックなど大企業を容赦なく叩く姿勢について。
    1. 下層無 トヨタ自動車
    2. 下層無 NTT
    3. 下層無 パナソニック
    4. 下層無 東京電力
  3. 開閉 週刊金曜日と天皇制
    かつて痛烈に天皇制を批判した週刊金曜日だが・・・
    1. 下層無 フェミニズム臭が漂う天皇制批判(辛淑玉)
    2. 下層無 護憲と反天皇制の矛盾
    3. 下層無 皇室を揶揄する集会
    4. 下層無 北村肇元編集長の妄言
  4. 開閉 週刊金曜日と差別語狩り
  5. 開閉 週刊金曜日まいど!電脳読者会の怪
    週刊金曜日まいど!電脳読者会の奇行。勝手に関西支局を自称するなど奇怪極まりない心理の謎に迫る。
  6. 開閉 扇動する者たち
    健全な社会批評から逸脱した扇動的話題も見受けられるが一つ一つ検証する。
  7. 開閉 「週刊金曜日 買ってはいけない」論争
  8. 開閉 9.11同時多発テロ陰謀説
  9. 開閉 週刊金曜日編集委員に対する評価
  10. 開閉 集会での対話に関するルール

百人斬り・刃こぼれ伝説と南京大虐殺(他ページ)

上記タイトルをクリックすると当サイト内の「軍事の独創的検証」のページの「百人斬り・刃こぼれ伝説と南京大虐殺」に飛びます。

大企業批判

トヨタ自動車

 週刊金曜日の大企業批判の中でも秀逸なのがトヨタ自動車批判だ。
 トヨタ自動車は数十年間日本一の経営実績と規模を誇りそのトヨタ自動車と真っ向から対決するマスコミは殆ど存在しなかった。なぜなら大手新聞やテレビ局などをはじめトヨタ自動車からの巨額な広告料収入は貴重だったからだ。
 2009年に世界中で大騒ぎされたリコール騒動で明らかになったが、トヨタ車の品質は必ずしも高くない。また製造現場での過酷で危険な労働ついても週刊金曜日以外は殆ど問題にしなかった。
「巨額の広告による批判封じ」説が単なる思い付きや噂ではなさそうだと多くの人に気付かれた契機が、奥田発言だ。厚労省批判を展開するマスコミに対して広告費の引き上げを仄めかす態度は一種の恫喝に見えた。
 実際には広告費引き上げはトヨタ自身の業績悪化も理由らしいが、いずれにせよ見苦しさを国民が目の当たりにした。
 広告費削減と欠陥発覚などで日本のマスコミに叩かれたのはトヨタ自動車にとっては自業自得だが、今までまともにトヨタ自動車批判しなかったマスコミが急に方針転換するのも格好悪かった。

 様々な問題を抱える週刊金曜日だが、トヨタ自動車批判に関しては賞賛に値する。

NTT

 週刊金曜日ニュースに「NTTと“取引き”してきた男性が逮捕――背景にNTTとの不可解な関係か」という下記の記事がある。
 NTTドコモを恐喝したとして元暴力団幹部で経営コンサルタントの鴻池宗一容疑者が逮捕された。だが実は、ドコモは昨年まで鴻池容疑者が関係する企業と巨額の取引きをしており、両者は良好な関係にあった。事件の背後にNTTの「闇」が透けてみえる。

 報道によれば、鴻池容疑者は九月にドコモを訪れ、過去の不祥事を明らかにすることをほのめかして金品を要求した容疑がかけられているが、本人は「会社には行ったが脅していないし、金も要求していない」と否認しているという。

 実は、鴻池容疑者は逮捕前、「真実を報じてほしい」と、こんな話を筆者に打ち明けていた。

「ドコモなどNTTグループから、私が仲介して外部の企業に出ていた“仕事”の総額は一〇〇億円以上になる。私はその何パーセントかを受け取っていた」

 調査によると、鴻池容疑者が業務委託契約を結ぶ広告代理店などに、NTTグループから億単位の発注があったことは間違いない。

 それが昨年夏、鴻池容疑者はNTTと関係の深いビックカメラでテレビを購入した際、詳しい説明もないままにNTT関連の複数の契約を結ばされているという事態に陥った。そのためビックカメラやNTTコミュニケーションズなどに「不適切な営業はやめろ」と抗議。だが、NTT側から「問題はなかった」と突っぱねられたため、昨年末からはNTTとの仕事上の関係を自ら絶って抗議を続けてきたという。

 調査したところ、ビックカメラとの問題は鴻池容疑者に限らず、ほかにも多数の顧客が同様なトラブルに巻き込まれていることが分かった(本誌九月二日号参照)。つまり鴻池容疑者の抗議は、根も葉もない「脅し」ではなかった。

 ビックカメラは、NTTの元社長で今もNTT特別顧問の児島仁氏を社外取締役とするなど、NTTとの関係が深く、両者が問題を黙殺しているようにもみえる。

 一方、鴻池容疑者とドコモとの接点は一〇年以上前に遡り、以前の関係者などにも取材をすると、ドコモはかつて鴻池容疑者に、表沙汰にしにくいトラブルの処理などを依頼し、その見返りに「仕事を出した」(ドコモ関係者)ことがあったという。

 鴻池容疑者は約二〇年前に暴力団を辞めているが、「自分のような人間がこんなことをしていると、普通は逮捕されないことで逮捕される可能性もある」とも話していた。実際、二〇〇八年にも別の企業から金を脅し取ろうとしたとして逮捕されたが、その事件は結局、被害者の言い分がでたらめで、鴻池容疑者は嫌疑不十分で釈放されている。

 別の見方をすると、三年前にも暴力団関係者として逮捕された鴻池容疑者に、ドコモは以後も仕事を出していた。ドコモは鴻池容疑者を、まともなビジネスパートナーとして高く評価していたのか、それともよほどの弱みを握られているのか……。

 そして、「私はウソで(NTTに)言うことを聞かせようとはしていない」と訴えていた鴻池容疑者の行動は、自分とNTTとの関係が、協力や信頼で成り立ってきたのか、NTTが問題を隠すためのものだったのか、明確にさせようとしているようにもみえる。

 NTT各社は、鴻池容疑者との関係を問うと「個別の取引きについてお答えできない」などと説明を避けていたが、両者の関係は、さらに過去へと遡り、不可解な部分も多い。

 今回の逮捕が、単純な恐喝事件でないことは間違いなく、捜査の行方によってはNTTの闇が、さらに明らかになる可能性がある。

(杉原章一・ジャーナリスト、12月23日号)

 要するにNTTと商売関係にあった元暴力団幹部がビックカメラでテレビの購入を巡りNTTとトラブルを起こしたという事らしい。
 裁判で判決が確定した訳ではないらしいので断言できないが、私の経験からするとNTTの際どいセールスに問題がある気がする。

 例えば私の自宅にNTT関連会社から「基本料金500円(税込525円)のプランがありますが」という電話がよくかかる。
 もちろん、そんな筈はないが、要するに「(インターネット回線サービスの)フレッツ光に加入していれば電話の基本料金としては500円だけで済む」という事だ。
 私はITや通信に詳しいから直ぐ想像が付くが、素人なら勘違いし兼ねない。
 意図的かどうか知らないが、殆ど詐欺行為だ。

 ご存じの人も多いだろうが、よく電機店などでNTTのフレッツ光に契約すると電気製品の割引きなどの特典を抱き合わせるセールスが行われている。
 詳しい事が書かれていないので想像だが、恐らく暴力団元幹部はビックカメラで嘘臭いセールスに遭遇したのではないだろうか。
 何を要求したのか詳しく書かれていないので確信的な事は言えないが、少なくとも抗議の動機については消費者として真っ当であるように思える。

 もし、週刊金曜日の記事が全て正しいのなら鴻池宗一容疑者とNTTの一体どちらが暴力団なのか分からないような酷い話だ。

パナソニック

 週刊金曜日722号(2008年10月10日)から「パナソニックの正体」という連載が始まった。
 週刊金曜日が言う通り日本ではマスコミなどが大企業に対して及び腰だが、その典型がパナソニックに対するものだ。
 内容的には見応えがある。パワーハラスメントなどマスコミが書きそうもないパナソニックの内情を具体的に踏み込んで掲載している。

 パナソニックの偽装請負については一部のマスコミも一応取り上げたが、週刊金曜日の様に特に厳しく糾弾するでもなく「一応書きました」的な中途半端な態度だった。
 その点で踏み込んだ週刊金曜日のパナソニック批判は評価できる。

東京電力

 福島原発事故発生により信頼が地に落ちた今ではマスコミによる東京電力批判は当たり前の様に行われているが、事故以前には週刊金曜日以外で東京電力を批判するマスコミは本当に少なかった。
 理系の超優良企業として高い技術力と経営の絶対的な安定性が信じ込まれていた事もあるが、週刊金曜日が指摘するように潤沢な広告費のばら撒きにマスコミが沈黙した面もありそうだ。
 電力会社が有名人に金を出して宣伝等として利用する手法は盛んに行われてきたが、批判してきたのは週刊金曜日位のものだ。
 金を貰って原発推進の一翼を担ってきた文化人を一刀両断する週刊金曜日の姿勢には胸がすく。
 正に週刊金曜日の面目躍如といったところだ。

週刊金曜日と天皇制

フェミニズム臭が漂う天皇制批判(辛淑玉)

 週刊金曜日2010年4月30日(797号)で「暮らしにひそむ天皇制」という大特集が組まれた。
「個人の尊厳・両性の平等と天皇制−24条が届かない(齊藤 笑美子)」や 「グー・チョキ・パーのてんのう制(辛淑玉)」など独特のフェミニズム的批評が多いが、辛淑玉(シン・スゴ)氏による批評の一部を記す。
育児休暇を設定しながら「とれない空気」があるため男性が取得できない企業。 正社員男性の既得権を守るために女性や非正規労働者を調整弁にして恥じない組合。 決断力がなく言動が一致しない政治家たち。この国を覆う無責任と権威主義、 そして正義が育たない社会は、天皇というタブーの存在と密接な関係がある。
 天皇制を批判するのにいちいち「育児休業を取得できない男性」や「女性を調整弁にして恥じない組合」を引き合いに出す必要があるのか。
 これ以外にも「DVオヤジ」という言葉も出てくるが、なぜ天皇制を論じるのにDVオヤジが必要なのか。

 もともと少ないと言われる天皇制反対論者の中で更に支持者を失うような行為を敢えてする訳が謎だが、「性差別さえなければ天皇制はあっても構わない」のだろうか。
 それなら枡添要一氏の様な保守オヤジと大差ないし、フェミニズム的天皇批判は苦しいので勘弁願いたい。

護憲と反天皇制の矛盾

 メディアが天皇制に反対するのは自由だし、殆どのメディアが天皇賛美で社会民主党や共産党の様に本来は反天皇の政党ですら天皇制を声高に訴えない昨今、週刊金曜日は希少な存在だ。

 但し、週刊金曜日の反天皇論には一部の左翼思想家からも疑問の声がある。それは天皇を日本国の象徴と規定している日本国憲法を頑なに守る事が天皇制反対と矛盾するという指摘だ。
 もっともな意見だが、これに対して週刊金曜日からまともな返答があった試しは私が知っている限りではない。
 今まで私が左翼活動家などから聞いた話から勝手に纏めるとつまりこういう事らしい。

 自分たちは天皇制を認める条項などを含む現憲法が絶対的な存在とは思わない。部分的には直すべき所もある。
 しかし現時点で保守と比べて力が圧倒的に弱いので、下手に改憲を唱え気に食わない条項を変えようとしても、こちらの主張は殆ど通らず保守派にばかり都合の良い憲法に改悪される恐れが強い。
 だから改憲には反対する。
 憲法改正には衆議院と参議院でそれぞれ三分の二以上の賛成が必要だ。つまり反対派の一票は賛成派の二票に相当する。力関係で劣る野党勢力が与党の目論見を一時的に阻止するには有効だが、単なる「反対のための反対」ではアンフェアだ。
 百歩譲って「よりましな選択」という作戦を認めるとする。ならば日本国憲法とほぼ同時期に米国によってセットで導入された日米安保についても現状を維持すべきではないか。米軍を日本から追い出したとして日本人の殆どが「非武装中立」を選択するとは思えない。それより保守派の唱える「防衛力強化による自主防衛」を選択する人の方が恐らく多いだろう。ならば「よりましな選択」として日米安保堅持の方が現実的ではないか。

 そういう矛盾に対する指摘に対してまともに答えられるような理論武装を週刊金曜日はしておくべきだ。

皇室を揶揄する集会

 2006年11月19日に日比谷公会堂で教育基本法改正反対などを訴える集会「ちょっと待った! 教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」という集会が開催された。本多勝一、佐高信、永六輔、中山千夏、矢崎泰久、石倉直樹(劇団「他言無用」団員)などの週刊金曜日関係者が参加した。
 この集会で皇室を揶揄したと思われる演劇が行われたため週刊新潮などで大々的に報道され注目を浴びた。下記はwikipediaの記述だ。
この集会の司会を務めた佐高は、このコントについて『週刊新潮』の取材に対し、「劇中で『皇室』なんて一言も言っていない」「それは受け取る側の見方だからこちらがコメントする理由はない」と述べている。しかし劇中、皇后美智子と思しき女性に扮した劇団「他言無用」団員の石倉を「この会場のすぐ近く、千代田区1丁目1番地(=皇居)にお住まいの方」と佐高自身が紹介しており、また石倉扮するこの女性が皇室典範の話題を取り上げて悠仁親王について触れていることから、このコントが出演者を皇室の人間に見立てて演じられたものであるとの指摘が多かった。後日、この劇団は多くの批判を受け、ホームページ上に「皇室をパロディーとした寸劇を上演」したことに対する謝罪文を掲載していることから、皇室をコントのネタに使ったことが明らかとなった。もっとも、皇室あるいは王室をネタにしたパロディやコントはイギリスのモンティ・パイソンなど、国によってはかなりおおっぴらに行われているところもあるが、他人の子供を「こんな子供はいらない」と投げ捨てたり、猿にさせたり、病気を揶揄するという行為そのものが、皇室であるかどうかにかかわらず、日頃から「人権」を唱えている人々の集まりでありながら、矛盾した行為を行った点について作曲家のすぎやまこういちなど識者から批判の声があがった。
 人権侵害という見方は間違いではないが、週刊金曜日においてこの程度は日常茶飯事なので、これ自体について私は特に何とも思わなかった。
 週刊金曜日の人権侵害や週刊金曜日編集長の無礼な態度に慣れている私は人権感覚が麻痺しており「またか」という程度の感想しか持たなかった。

 だが、これに怒った保守派の猛抗議が週刊金曜日の根幹を揺るがす事になる。保守思想を標榜するインターネット・メディアの日本文化チャンネル桜から三輪和夫氏が当時の北村肇週刊金曜日編集長に直撃インタビューを敢行した。
 これが北村肇編集長の天皇制擁護への変節と驚くべき妄言を誘発する。

北村肇元編集長の妄言

 前述の三輪和夫氏は言葉遣いこそ丁寧だが、態度に迫力があり完全に怯えた北村肇編集長。
 雰囲気に押されて心ここに非ずという態度で180°あっさり思想転換した北村はとんでもない事を口走る。
(ちなみに三輪和夫氏の態度は強硬ではあるが言論の自由の範囲内に収まっていたと私は思う)

 週刊金曜日サイトの2010年4月30日の編集長ブログ「暮らしにひそむ天皇制」を見て見ぬふりの「反天皇制運動」ではだめだ で見苦しい言い訳を始める。
 冒頭に下記の説明がある。

 たまたま「ウィキペディア」で『週刊金曜日』の項をみていたら、私が「天皇制を容認した」ことに批判があると書かれていた。おそらく、チャンネル桜の番組で、「なぜこれだけ長く天皇制が続いているのか、そのことを考えなくてはならない」と発言したことを指しているのだろう。そもそも、「右翼的」とされる同局に出ること自体に、「仲間」の陣営から批判を受けてきた。書き込んだ人も同様の立場と思う。「菊タブー」は左翼・革新側にもあることを改めて感じる。
 天皇制容認とされた事に対する反論が一切ない事を見ると本人も事実と認めたのだろう。読み続けると更に妙な記述がある。
 天皇制について語るとき、「直ちに廃止すべき」「昭和天皇の戦争責任を許さない」と主張していれば文句を言われることはない。だが、そこにとどまる限り廃止への道は遠い。
 2000年の重みをもっと深刻に考えるべきだ。
 もし「まったく意味のない制度」と市民が考えていたなら、とうに消えているはずである。政治利用された時代も、天皇制の歴史の中でそう長くはない。むしろ、明治時代以降の天皇制が異質なのだ。天皇は「日本人」の精神に深く染み込んでしまっている――この事実を冷静に見据え、解釈しなければ何も始まらない。
「天皇制を直ちに廃止すべき」「昭和天皇の戦争責任を許さない」と主張していれば文句を言われる事はないか? これは左翼内部の話だろうか。そうでないと辻褄が合わない。
 そして、「2000年の重みを考えるべきだ」?。しかし、長いほど重みが増すのなら天皇制誕生後2010年なら更に重くなるし2020年なら更に重くなる。そう考えると天皇制を廃止するなら時が経つほど難しくなるから出来るだけ早く廃止、すなわち直ちに廃止すべきとならないか?

 それから、これは天皇制擁護者週刊金曜日編集長の「反天皇制運動」への忠言というサイトでも似た指摘があったが、市民が天皇制に意見出来るようになったのは戦後の事であり殆どの時期において市民の意思など関係ない。
 天皇の側近や諸侯のレベルでは天皇制存続に関係してきた可能性はある。歴代天皇の人格が優れているために譜代の家臣が忠誠を貫いた或いは頭脳明晰だったため謀反出来なかった可能性はある。
 しかし繰り返すが、一般大衆のレベルでそんな事はあり得ない。義務教育が広く普及した現在でさえ政治家の名前を満足に知らない人がいるのだから、江戸時代以前に天皇家の存在を知らない人は多かった筈だ。

 更に北村は妙な事を言い続ける。
「居間で上座に座るのはお父さん」という家庭があれば、そこにはすでに天皇制が浸潤している。混合名簿を使っていない学校は天皇制を包含している。「委員長の言葉は絶対」という労働組合は天皇制そのもの。「慈父賢母」の根底にあるのは天皇制。そういうことなのだ。そして、多くの市民がそれらを受け入れている現実――。
 一体それが天皇制と何の関係があるのかと思う事ばかりだが、特に混合名簿(男女混合名簿の事か?)と天皇制にどんな関係があるのだろうか。
 仮に全て天皇制によるものだとしよう。だったら尚更、根本となっている天皇制をさっさと廃止すべきではないのか?
 枝葉末節にいちいち取り組まなければ天皇制を批判する資格はないと言うのか? そんな事、今時右翼だって言わないだろう。
 このような実証的研究はさまざまに行なわれてきた。だが、反天皇制の運動は、どちらかというと「昭和天皇の戦争責任」にせばめられてきた感がある。だから、昭和が終わった時点で、運動の高揚感が薄れたかのような印象が社会を覆った。一方で、直接、戦争責任を負わない立場にいる「平成の天皇」のもと、ますます天皇制はじんわりと社会に染み込んでいった。
「最近の若者は天皇制や皇室に対する支持率が低くなっている」かのようなTV報道を2011年頃に見たが、そんなに天皇制が染み込んでいると思う根拠は何なのだろう。
(ちなみに私は昭和天皇の戦争責任にはあまり興味がない)
 政治性を帯びた天皇制に焦点をあわせるばかりで、暮らしにひそむそれを見て見ぬふりの「反天皇制運動」は、空念仏に終わってしまう可能性がある。
 大きなお世話であり、チャンネル桜で発言したように天皇制が大好きな北村君が天皇制反対派の拙劣さを心配してあげる必要など全くない。

 まとめると北村週刊金曜日編集長が自身の天皇制に対する支持を意図的に不明確にした事が悪い。
 週刊金曜日編集長が天皇制を支持しようとすまいと自由であり、嫌だと思う人は週刊金曜日読者をやめれば良いだけなのだから。
 自分たちが人権侵害と言われても仕方ない反天皇演劇を催し、それに対して右翼からの抗議を受けると非礼を詫びるだけならともかく思想までころっと正反対に変節するのは節操がない。
 いちいち強烈な嫌味を使わないと批評出来ないから、こういう事になるのだろう。
 そして右翼に対して何一つ文句を言えない腹いせを身内に向けられたのではかなわない。
「節操がなく申し訳ない」ではなく開き直って反天皇論者に嫌味を言う神経はいかなものか。

 私はフェミニズム臭が漂う天皇制批判(辛淑玉)の項で的外れな天皇制批評をいぶかしんだが、よく見ると辛淑玉らの意見を集めた大特集は暮らしにひそむそれを見て見ぬふりの「反天皇制運動」というタイトルが付いており、要するに下手を打った北村による苦しい弁解の一環だと後で気付いた。

週刊金曜日と差別語狩り

恐怖の差別語狩り

 私は週刊金曜日読者会の会報で「ちび」、「でぶ」、「はげ」という言葉を使った。すると年配女性から差別用語だと抗議されたので謝罪したが、許してもらえず「ジャーナリストの癖にそんな事も知らないでどうする。ちゃんと調べなさい」と計6通も抗議が来た。
 市民活動家の教条的差別語狩りに嫌な思いをした人は少なくないし、市民運動の士気を著しく下げる要因になっている。
 人の嫌がる言葉は極力使うべきではないが、教条的差別語狩りは弱者のためになるどころか弱い者苛めになりかねない。それについて考察する。

差別語とは何か

 差別語とされる代表的な言葉に「ちびくろさんぼ」、「ホモ」、「オカマ」、「ちび」、「でぶ」、「はげ」、「きちがい」、「シナ(中国)」などがある。
 大部分は日常生活に密着した言葉や馴染みの深い言葉だが、誰がどう決めたのかという素朴な疑問がある。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に下記の解説がある。
差別用語(さべつようご)とは、特定の属性(例:少数民族、被差別階級、性別、同性愛者、障害者、特定疾患の罹患者職業)を持つ人々に対する差別を目的として使用されている俗語(蔑称を含む)を指す用語。明確な基準があるわけではなく、何をもって「差別用語」とするかは個々の主観や時代、地域に大きく左右される。
 このように実は明確な基準はない。総務省や文部科学省が有識者を召集して決めたわけではない。つまり主観で決められている。
 単に「皆が差別用語と認めているから差別用語だ」という感じに過ぎない。

差別語狩りこそ差別的

 差別用語は本来弱者のために決められた筈なのだが、実際に弱者の意見が反映される事は殆ど無い。なぜなら金も力もない弱者には自分たちが不快に思う言葉を広く社会に訴える術が無いからだ。
 例えば家が無く野宿している人が「ホームレス」という言葉を差別的と感じても、なかなか社会に伝わらない。

 差別用語は誰がどのように決めているのか知らないが、一般的にはテレビ局が自粛のために決めたとか有名な学者や市民活動家が好ましくないとする言葉を差別語とする事が多い。
「無職や訳の分からない主婦の決めた言葉など参考にならない」というのであれば、それこそ本末転倒だ。権威主義的で差別的な態度と見る事もできる。

 また、差別用語とされる言葉をよく使う人は必ずしも保守派の差別オヤジに多い訳ではない。実はそういう人たちは案外そういう知識に詳しく処世術を心得ているので失言は必ずしも多くない。
 むしろ知的障害者や情報から隔絶された高齢者や低収入のため新聞を取る事が出来ず新しい知識が入り難い人などの情報弱者が差別擁護をうっかり使う場合が少なくない。

1回だけ許す

 それでは一般市民は差別用語に対してどういう態度をとればよいか考える。
 前項でも多少触れたが、中には差別用語と知らないで何気なく使う人もいる。勿論、人の嫌がる言葉は極力使うべきではないが、一回目については大目に見て注意程度で済ませるべきだと思う。相手が嫌がる言葉を故意に使ったのなら問題はあるが、知らない人が弱者である場合も少なくない。

 私の祖母は中国人が嫌うとされている「シナ」という言葉を使う。今でこそ差別用語とされてているが、もともとは秦が語源ではないかと言われており、英語の「チャイナ」も同じ系統の発音だ。日本が中国を支配していた頃から差別語であるという認識が高まっていったようだ。「日本」の「本」と「支那」の「支」が本店と支店の関係を連想させるのかもしれません。「シナ」という言葉を使う人の中には情報から隔絶された老人や知的障害者が多く含まれている可能性が多分に考えられる。「シナ」という言葉を狩る事は下手をすると弱い者苛めになりかねない。
 但し、石原慎太郎氏が「シナ」を連発した際には意図的である事がほぼ明白だったので、私は拙著で糾弾した。

 市民活動家と接しているとやたら差別用語に厳しい人が多いが、些細な事でうるさく言われると地雷原を歩く様な戦々恐々とした気分になってしまい興醒めだし、差別語を注意する人の方がよほど差別的ではないかと感じる事も多い。
「オカマ」という言葉は差別用語だそうだが、これを掲示板でうっかり使用して差別語であると厳しい叱責を受けた。「知性も強要もない〇〇〇(私のハンドルネーム)なら、分からなくても無理はないが」という様な屈辱的な事を書かれた。そっちの方がよほど差別的ではないかと思う事がしばしばある。

週刊金曜日の差別発言

 週刊金曜日2010年8月6日/810号に掲載された美輪明宏氏と佐高信氏の対談の中に美輪氏による恐るべき差別発言があったので紹介する。
 対談のタイトルは、「美」と対極にあるもの それが「戦争」です
私はアングロサクソンって大嫌いなんです。もともと海賊ですからね。英国とアメリカの歴史は他人の土地を乗っ取って殺人して、略奪して。ろくでもない奴らですよ。悪魔ですよ。
 社会的弱者とされる人(例えば女性、性的少数者、在日朝鮮人など)に対しては徹底的に甘く、強者とされる人たちについては徹底的に厳しい週刊金曜日らしい討論だ。

 まず歴史に無知な点が問題だ。アングロサクソンはもちろん海賊ばかりではなかった。日本人だって倭寇がしばしば中国などを侵攻している。
 また、他人の土地の略奪や先住民の殺害はインド、モンゴル、中国など世界中の殆どの国が行っておりアイヌの土地を侵略してきた我が日本も例外ではない。

 相手が白人なら何を言っても問題にならないのだろうか。
 そもそも原爆投下に対する批評がテーマなのに全く的外れな感情論が先行し、それこそ「美と対極にある美しくない」咆哮だ。 

伝説のオカマ論争

「伝説のオカマ論争」は週刊金曜日の不毛な言葉狩りを象徴する事件だ。
 週刊金曜日2001年6月15日号掲載記事「伝説のオカマ 愛欲と反逆にもえたぎる」が物議を醸した。
 男性同性愛問題に取り組む団体「すこたん企画」が週刊金曜日に対して「オカマ」の使用を抗議した。

辛淑玉氏の発言

 週刊金曜日2001年7月6日号で編集委員の辛淑玉(シン・スゴ)氏が下記の発言をした。
▼6月15日号の「シリーズ個に生きる」を読んで愕然とした。「オカマ」という差別語が堂々とタイトルになっていたからだ。

 5月30日、編集部は、伊藤悟氏が主宰するすこたん企画の方々を招いて、セクシャルマイノリティに関して研修会を開いたという。そこでは「オカマ」という差別語が社会でどのように機能しているのか、また、同じ差別語でも、当事者が使う場合と、力関係の違う圧倒的強者(マスコミ)が使う場合では意味が違うと、すこたん企画の方々は懇切丁寧に語られたという。しかし、その数日後、編集部はタイトルにこの言葉を使用した。確信犯というほかない。

 6月27日、私はこの件に関して編集会議で編集部と話し合った。どうしても伝えたい内容があったから使ったと編集部はいうが、表現者として配慮が欠けていたとしか言いようがない。すこたん企画から抗議を受けても、相手がなぜ抗議しているのかわからず、それを理解しようとせず、反対に自分たちの思いを理解してくれと、弁明にやっきになる。そして、自分たちと同じ意見のマイノリティの言葉を持ってきて、ほら、この人たちも自分たちを「オカマ」といってるじゃないかと論理のすり替えをする。

 差別される側は、いつも決して一様ではないという当たり前の事実すらわかっていない。少数者(弱者)の生き方を尊重する意識のない者が、どうやって権力とたたかえるのだ?

 メディアは差別をする権力になりうる。その自覚が必要だ。一人一人はいい人であっても、集団になったら自らの責任で何もなしえず、結果として権力を行使してしまうほど怖いことはない。

 編集部に言いたい。

 自分たちが変われなくて、どうやって社会を変えていくのだ?

 弱者を観察対象にし、味方のフリをしておとしめるようなら、いっそ、本誌を廃刊した方がいいと私は思っている。

 この如何にも辛淑玉氏らしい教条主義的発言で一時は週刊金曜日が存亡の危機に立たされた。

週刊金曜日の対応

 本多勝一編集委員は「差別を目的とした『確信犯』的なものでは全くない」としている。
 もちろん、そんな弁明がなくても性的少数者を貶める為の記事ではない事は週刊金曜日の性格から容易に想像は付くが、それにしては抗議を突っぱねるでも全面的謝罪するでもない中途半端な対応に終始した。
 週刊金曜日の貴重なページを多くの弁明と一部の性的少数者の主張のために裂くのは事なかれ主義に映った。
 週刊金曜日自体が教条主義的な差別語狩りをしてきたから悪意がない(と言うよりむしろ性的少数者への理解を高めようとしたのだろうが)のに強烈なしっぺ返しを食ってしまった。
 文脈を見ず単に「オカマ」という言葉だけで責め立てるのはおかしいというのは確かに正論だが、それなら週刊金曜日自身のルールを根本的に変える必要があるだろう。

週刊金曜日まいど!電脳読者会の怪

 週刊金曜日読者会は週刊金曜日を象徴する独特の存在だが、週刊金曜日まいど!電脳読者会の奇行を検証する。

タブーのない雑誌?

 週刊金曜日は運営が広告に依存していない点が他のマスコミと異なるが、これについて週刊金曜日まいど!電脳読者会のHPに下記の珍解説がある。
広告に依存しない運営。
つまり、誰の顔色を伺う必要もないということ。運営を広告による収入に依存しない『週刊金曜日』は話題性だけを重視した「売らんかな」の商業主義に左右されることなく、「いま、何を伝えるべきか」「何が重要なのか」を読者とともに考え、こだわり続けていきます。
 一見もっともらしいが、大きな勘違いだ。
 確かに週刊金曜日は広告に頼らないのでスポンサーの顔色を伺う必要はない。週刊金曜日はNTTなど大企業を盛んに批判するが、大手新聞には難しい。
 しかし、週刊金曜日は購読料を主な運営費としているので、週刊金曜日読者そのものがタブーだ。
 週刊金曜日読者会では差別用語を使おうものなら大騒ぎになる事もある。かつて週刊金曜日がオカマという表現を使って読者から痛烈な批判を受けた。辛淑玉(シンスゴ)編集委員は「いっそ廃刊にした方がいい」と述べた。
 差別用語など週刊金曜日読者の意向に逆らうとまずいが、その他にも読者に飽きられても困る訳で、陰謀論や「週刊金曜日 買ってはいけない」など煽る話題が増える傾向がある。
 むしろ購読料に依存している点が「読者」というタブーを深刻にする要因だ。

いつの間に関西支局に?

 タブーがない雑誌と勘違いする程度なら笑い話で済むが、笑えない話もある。
「るいネット」なる市民活動系らしきサイトのリンクのコーナーに下記の記述がある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=500&o=10525&p=0
● まいど!電脳(はいぱー)読者会 〔 会議室 〕  社会統合

「週刊金曜日」を支えるべく集まった関西支局のサイト。限定された地域での情報交換、情報発信に留まらず門戸を広げた姿勢は、仲間の輪が広がる可能性を感じさせる。最新の話題で盛り上がる掲示板にも注目。
 いつの間にまいど!電脳読者会が週刊金曜日関西支局になったのか週刊金曜日に電話で問い合わせると、「週刊金曜日には関西支局なるものは存在しない」そうだ。
 まいど!電脳読者会のサイトに、「ニセモノが『週金』に寄生する理由。それは幼稚な自己顕示欲」 とあるが、週刊金曜日まいど!電脳読者会自体が週刊金曜日に寄生する偽者ではないのか。

ウィキペディアへの執拗なリンク

 フリー百科事典Wikipediaの「週刊金曜日」の外部リンクに「usausausamayu」なる者が週刊金曜日まいど!電脳読者会のリンクを何度も貼っている。
 これについてWikipediaの編集に関する討議場である「ノート」 というコーナーで「あるふぁるふぁ」なる方から下記の意見が出た。
「まいど!電脳読者会」への外部リンクが何度も掲載されていますが、株式会社金曜日とは関係なく読者が自発的に開いている多数の読書会の中の一つに過ぎずWikipedia:外部リンクの選び方で「掲載すべきでない」とされている私的ファンサイト以上のものではないようです。その外部リンク先を参照することが記事の理解にどのように役立つのでしょうか?私には読書会の宣伝に見えますが、いかがでしょうか?--あるふぁるふぁ 2009年9月24日 (木) 04:09 (UTC)
「あるふぁるふぁ」氏による上記の説はもっともだが、これに対して「usausausamayu」は下記の様な訳の分からない返答をした。
「読書会の宣伝」とおっしゃっていますが、非営利のページであっても株式会社金曜日の営利に結びつく宣伝行為である、という多数の合意がなされるのであればリンクの追加は差し控えましょう。いずれにせよ、私としてはこの項目を利用する方々の便宜を考慮してのリンク貼りですので、wiki利用者による「不要」との判断が形成されるのであれば、それはそれでよいと思います。特に私が「まいど!」サイトのみリンクを追加した理由は私自身がこの読者会に参加した直接経験があること、および全国の読者会をネットワーク化しようというコンセプトで運営されている読者会であるからです。ただし以下の理由により「読者会」というものを参照しないこの項目についての理解はwiki利用者によって不十分なものになる可能性があります。週刊金曜日という雑誌はその立ち上げの際に株式会社金曜日が読者の有志(いまの読者会の原型にあたる)とともに協力体制を維持しながら発行していくことを確認し合ったという経緯がありました。なので創刊当初から関わる私たちのような読者からすれば、読者会はこの雑誌の意義や性質を理解するために不可欠な要素であると認識しています。なお編集長が変わるたびに読者会重視、軽視と、方針が何度が変遷してきたという経緯があります。読者会が雑誌に対する圧力団体になることを懸念して意図的に読者会の存在を軽視しようとする編集部内部の事情もあるようです。読者会を運営している側から言わせていただければ、または創刊当初からの読者から言わせていただければ、創刊当初に編集部と読者との双方により確認しあった協力体制を、編集部により一方的に無視されているともいえる訳ですが、読者会は雑誌の記事や編集方針を議論するために編集部の人間を招いての会合なども開催しているのですから、読者会はたしかに「自発的に開いている」ものではありますが、雑誌の編集に少なからぬ影響を及ぼすファクターであるとも言えると思います。---usausausamayu
 そもそもWikipediaは週刊金曜日や週刊金曜日読者会の理念を社会に伝える事が目的ではないし、週刊金曜日や読者会が如何に素晴らしくてもそれらの広報サイトではない。
『週刊金曜日』 は「市民の視点」を重視し、「論争」を喚起する週刊誌です、とか「広告に依存しない運営」など週刊金曜日公式サイトを丸ごと引用した様な解説ばかりだ。
 無理にバランスを取る必要は無いので肯定的なサイトだけリンクしても構わないが、異なる視点で同調しなければ敢えてリンクする意味がない。
「あるふぁるふぁ」氏が言う様に読者会の一つに過ぎない電脳読者会のリンクを掲載しなければならない理由が不明だ。

 上記の解説によると週刊金曜日編集部にとって週刊金曜日読者会は週刊金曜日読者が勝手に作った会に過ぎない。
読者会が雑誌に対する圧力団体になることを懸念して意図的に読者会の存在を軽視しようとする編集部内部の事情もあるようです」や「編集部により一方的に無視されているともいえる訳です」という文を読むと週刊金曜日にとって必ずしも有難くないようだ。
 週刊金曜日を盛り上げる事を建前としながら悪口とも取れる批判をするのは矛盾している。

 更に他の投稿者から週刊金曜日読者会と週刊金曜日編集部の関係について下記の投稿がある。
まず,議論が行われている項目ですので,合意が出来るまで対象箇所の編集はお控えいただけたらと思います。合意が出来るまで差し戻しなどはしませんが,その点ご留意下さい。 私は当該リンクの加筆は不要と考えます。Usausausamayu さんは,前述のコメントを拝見しますと,読者会に関係したご経験のある方とお見受けしました。読者会の側に立場を置く方の加筆となりますと,直接ガイドラインに違反したというわけではないにしても,ウィキペディアにおいては中立的観点から問題が生じる可能性があります。 また,読者会と編集部の関係については,もし特筆性があるとするならばリンクを張るより先に記事内でその説明,加筆を行うべきだと思います。なぜならば,Usausausamayu さんの説明を拝見するかぎりでは読書会は単なるファングループ以上の当事者性を持つと考えるからです。記事を充実させるような特筆性があるのであれば,中立第三者の論評などを引いて記事内に項目を立てるべきです。そのような関係性を説明せずに,一方の当事者によるリンクを並立することはよくありません。--Zyugem 2009年9月24日 (木) 08:22 (UTC)誤記訂正--Zyugem 2009年9月24日 (木) 08:35 (UTC)
特筆性があるとするならばリンクを張るより先に記事内でその説明,加筆を行うべき」というのはもっともだ。

 但し、私は「Wikipediaに週刊金曜日読者会の迷惑リンクを貼るな」とも言わない。
 週刊金曜日読者会に関する解説が本文中に無いのに何の脈絡も無く週刊金曜日読者会サイトをリンクした事が問題だ。
「週刊金曜日読者会」という項目を新たに作るか「週刊金曜日」の項目に読者会の解説を加筆するかどちらかにすれば問題ない。

よくある手口

 週刊金曜日まいど!電脳読者会サイトで私に対する非難と質問があった。
 意図的なのか教条主義的な活動家によくある思い込みに過ぎないのかどうかはともかく2chでよく使われる騙しの手法と酷似している。

 私は数年前に2chで本の宣伝をした事があり管理者により記録された。2chなどで私を非難する際によく用いられるのが、最初にそのIPアドレスやリモートホストなどを私がした悪事の証拠として強調する事だ。
 私は2chでの宣伝行為を認めているし、殆ど効果無かったので直ぐにやめたにも関わらず「嘘つき」、「宣伝をやめろ」など私に対する攻撃を続ける者がいる。
 また、私がしたとされる投稿も実際は他人の投稿なのに私の仕業と決め付け執拗に責める。他人の行為まで私の行為であると混同させようとするのだ。要するにそれ自体には興味が無く非難する口実が欲しいだけなのだ。

 私が何をしたかよく注意して頂きたい。週刊金曜日まいど!電脳読者会のサイトに書かれた行為の一部は事実だ。
 例えば前述のUsausausamayuがした外部リンクを削除したのは事実だが、5回だけだ。
 それに対してUsausausamayuは私が確認しただけでも9回はwikipediaに電脳読者会のリンクを貼り付けている。多分かなり前からリンクを貼り続けていたのだろう。

 また、wikipedia「週刊金曜日」の外部リンクにあった「週刊金曜日ホームページ」を削除して私のサイト(当時の名称は「週刊金曜日」)をリンクした人がいるが、大した根拠もなく偽装工作と決め付けている。
 確かに名称が紛らわしいので「週刊金曜日の大研究」に変えたが、電脳読者会関係者が私の掲示板で「・・・「大研究」と銘打つくらいなら、それくらいのことはできなきゃ・・・」とケチを付けた。
 私としては中研究でも小研究でも何なら極小研究でもよいのだが、要するに名称が何だろうと結局言い掛かりを付けるのだ。

 私は当ページで週刊金曜日電脳読者会を批判する際に飽くまで週刊金曜日と関係する事象に限定している。
 週刊金曜日電脳読者会の私に対する批判には単なる個人的怨恨らしき内容も少なくない。
そもそもWikipediaは百科事典であって、あなたの個人的な意見を広報するページのリンクを掲載しなければならない特別な理由が見当たらないと思いますけど。どうでしょうね、古舘さん? ね? どうなんでしょうね?
 これもWikipediaが何たるか全く理解していない。
 個人のサイトでも言葉の理解に役立つならリンクしてもよいと思うが、気に食わなければWikipediaに通報すればよいだけだ。本当はWikipediaの秩序を考えたのではなく、私を攻撃する口実が欲しいだけだろう。
 繰り返すが、私がusausausamayuが貼った外部リンクを削除したのは本文中に週刊金曜日読者会の記述が殆ど無いにも拘らず、何の脈絡も無く強引にリンクしたからだ。
 私的な読者会のリンク自体がいけないとは思わない。私欲が無かろうと辞書なのだから何ら理解に繋がらないならリンクすべきではないという当然の事を述べただけだ。
「週刊金曜日読者会」の項目を作るか項目「週刊金曜日」に週刊金曜日読者会の解説が詳述しているのなら私は電脳読者会のサイトがリンクされても削除しない。

「参考資料となるリンク集」として私に対する批判的なサイトを列挙しているが、「色の黒い人や鼻の低い人を嫌うのは・・・」をはじめ週刊金曜日と無関係で私怨としか思えない。「皆が奴を悪く言っている」と言いたいのか。
「森岡正博さんの講演のログ」については下記のコメントがある。

森岡正博さんのこの講演そのものが私怨による欠席裁判のようでひじょうに問題があるように見受けられるが(個人情報への配慮に注意しても趣旨を変えずに講演は成立したはずだろう)
 その通りだが、それなら何故そんなリンクを貼ったのだろうか(彼の発言には私がしていない言動が含まれており事実関係を確認しておらず私の反論も聞かれず実名で公表された。抗議を受け後日、名前が伏せられページも削除された)。

 嘘はいけないが、週刊金曜日電脳読者会はその禁を破ってしまった。既に削除されたが「ある作家」について「親の年金で食わせてもらっているなんて恥ずかしい(「情けない」だったかもしれない)」という様な事が書かれていた。
 私は親の年金を頼って生活している訳ではないので「ある作家」というのは別の作家の事だろうか? それならそうと紛らわしいので明記すべきだ。

悪質な嫌がらせ投稿

 私の掲示板に対して2009年9月29日から「(・∀・)」という絵文字の投稿名による奇妙で執拗な投稿が続いた。(下記が過去ログ)

  週刊金曜日まいど電脳読者会による嫌がらせ投稿の過去ログ

「(・∀・)」なる者の殆どの投稿に週刊金曜日電脳読者会のサイトのリンクが貼ってあったが、下記が最初の投稿だ。
一生懸命リンクを貼ってますねえ 投稿者:(・∀・) 投稿日:2009年 9月29日(火)14時06分36秒
き じ も な か ず ば
う た れ ー ま ー い ー
http://www.geocities.jp/dokusyakai/
 3度目のタイトルは「結論。コイツ、ほっといても大丈夫だわ」( 投稿者:(・∀・) 投稿日:2009年10月 7日(水)04時34分2秒)だった。(私はこの時点で一切反論していない)

 幾ら週刊金曜日電脳読者会が非常識とはいえ、ここまで酷い事をするとは思わなかったので、私は最初2chの常連などによるからかいだと思った。
 ところが週刊金曜日電脳読者会のサイトを見ると週刊金曜日電脳読者会関係者の投稿だと明記してあったので驚いた。
 しかも、この投稿者は何度も「さようなら」を述べながら執拗に投稿を繰り返し結局12回も投稿を続けた。
 私の掲示板では宣伝禁止ではないが、自分たちが他人の宣伝行為を咎めていながら他人の掲示板で図々しく宣伝し続けた。

 私は無意味と思いつつも誠意を持って返答し続けたものの全く努力の甲斐がないと思い、罵詈雑言を繰り返す「(・∀・)」を投稿禁止処分にし下品な一部の投稿は教育上好ましくないと判断し削除した。
 そもそも投稿名を絵文字にする時点でおかしいと感じるのは私が古いのだろうか。

wikipediaの偽装

 週刊金曜日まいど!電脳読者会サイトに「雑音対策のための研究事例:アーデルハイト」というページがある。
 その冒頭に「ご注意! ウィキペディアに週刊金曜日の公式サイトを装って私設サイトのアドレスを書き込む人物がいます。みなさん注意してください。」という注意書きがある。
手口は悪質です。わざわざ、もとからある公式サイトのリンクを削除し、ある私設サイトのリンクを上書きしています。あたかも新しく貼付けたリンク(私設サイトへジャンプします)が公式サイトであるかのように、です。リンクの説明が「週刊金曜日ホームページ」だったのを、「ホームページ」の文字だけを消して、「週刊金曜日」の文字だけ残しています。「ホームページ」の文字を消したから、公式を装っているのではない、という言い訳のためでしょうか。こんなことをしても偽装にはかわりありません。実際、わたしたちがこの偽装工作に気づくのにはしばらく時間がかかりました。だって、先日までそのページの同じ場所には、確かに公式サイトのリンクがあったのですし、まさか誰かの私設サイトへのリンクにすり替えられているとは、思いもよりませんでした。この偽装工作により迷惑を被った人もいるかもしれません。当サイト管理人室、または株式会社金曜日までご連絡ください。
 更に読み進めるとIPアドレスにより私の犯行と断定しているが、この疑惑について解説する。
 指摘を受けたwikipediaに関する編集については覚えがある。私の行為を客観的に記す。

 @週刊金曜日の理解にあまり繋がらないと思われるサイトを削除した。
 A週刊金曜日の理解に繋がるような具体的批評が整理されているサイトをリンクした。

 @のサイトとして「週刊金曜日まいど!電脳読者会」のサイトなどを削除した。詳しく覚えていないが、その中に週刊金曜日公式サイトもあったと思う。
 私は週刊金曜日公式サイトであろうと言葉の理解に繋がらなければ削除すべきと考える。特に「週刊金曜日まいど!電脳読者会」は「週刊金曜日読者会の関西支局構想」など週刊金曜日の理解に繋がらない内容が多いので真っ先に消した。

 Aのサイトとしては自分のサイトが最も客観的でよく纏まっていると思ったので自らリンクした。(但しこれが誤解を招く行為であり自分のサイトを客観的に判断できるかという問題は確かにある)

 まず気になったのは、私は偽装工作などしていないのに偽装と決め付けたのはなぜか。
「週刊金曜日まいど!電脳読者会」の根拠は要するに当ページの旧名「週刊金曜日」が週刊金曜日公式サイトと混同され易い名称da という事らしい。
 確かに紛らわしいが、「週刊金曜日」という名称の個人サイトは多数ありYAHOOで少し調べただけで7件も見つかったが、全て偽装なのか?
 偽装の可能性がない訳でもないが、これだけで偽装と決め付けるのもどうか。大した根拠もなく同時多発テロを米国の陰謀と決め付ける週刊金曜日読者会らしい。
 自分でも芸のないサイト名だと思ったが、私のサイトに多数あるページの一つに過ぎずアクセス少ない方なので深く考えなかっただけだ。

 誤解を解くためタイトルを「週刊金曜日の大研究」にすると「週刊金曜日まいど!電脳読者会」メンバーが私の掲示板で・・・「大研究」と銘打つくらいなら・・・」と文句をつけた。(私としては「中研究」でも「小研究」でも何なら「極小研究」でも構わないのだが)
 偽装とされたからタイトルを変更したのに結局何をしようとケチをつける人は果てしなく文句を言うが、下記が矛盾の典型だ。

ウィキペディアの複数の項目にご自身の私設サイト「ある作家のホームページ」へのリンクを繰り返し、繰り返し、それはもう繰り返し書き込んでいるのは、「執拗」な行為とは言わないのでしょうか?? どうでしょうね、古舘さん?
 そこで私がwikipediaの「週刊金曜日」に関する自身の書き込み回数を調べると6回だった。という事は書き直しは5回だけだ(電脳読者会風に言うとそれでも編集合戦なのか?)。
 ウィキペディアへの執拗なリンクでも書いた通り「週刊金曜日まいど!電脳読者会」のメンバーは迷惑とされる投稿を最少でも9回はしている。
 という事は執拗な編集合戦とされる行為については「週刊金曜日まいど!電脳読者会」は確認した限りでも私の2倍近くしている事になるが・・・。
 私は「自分の倍やっている奴がいるから許される」と言わないが、もし正しい事が書いてあれば自らのリンクが許されるのなら、サイトの社会性を問えば良いのであって自分のサイトをリンクした行為自体は問題ないという事にならないか?

 週刊金曜日まいど!電脳読者会は一体何を騒いでいるのだろうか?

リンク集に関する説明

週刊金曜日まいど!電脳読者会」サイトでは半分近くのスペースを私に対する批評にあてているが、中に「参考資料となるリンク集」というコーナーがある。
 そこに意図的かどうか知らないが、誤解を招く様な事や事実と著しく異なる事が書いてある。

AURORA BBS

AURORA BBS 番外 とっても面白いキャラクタ専用板」という掲示板の過去ログのアーカイブが「週刊金曜日まいど!電脳読者会」の「参考資料となるリンク集」にリンクされている。
「AURORA BBS」なる掲示板は有名であり保守派からも盛んに書き込みがあった。私はDVに関する投稿をした事がある。
週刊金曜日まいど!電脳読者会」は「リンクの説明」として「AURORA BBS」冒頭の文章と投稿文から一部を抜粋している。
【リンク先の説明】このBBSについてはBBS冒頭に書かれている説明をそのまま抜粋して紹介するのがよいだろう。以下、抜粋。
「AURORA BBSに現われたとっても面白いキャラクタ、古舘真さんと、古舘さんのお相手をしてあげたい人のための専用BBSです。(中略)なお、ふつうのアンチ-フェミニストの方々のためにはアンチ-フェミニズム掲示板を設けていますので、そちらへの書込みをお願いします。」
もうひとつ。投稿文より。
「古舘さんが今からでも反省し、ネット市民としてきちんと自己責任を取れる主体になっていただけることにわずかな願いをかける一心からのことで、どうぞこの先べつの場所でべつの方々と同じようなトラブルを引き起こさないことを願うばかりです。」
 こう書かれていたからと言って、これを読んだだけでは私とAURORA BBSのどちらが悪いか分からない。掲示板の管理人は所定の手続きを踏めば誰でもなれる。
 当該掲示板の過去ログは削除されている。(想像だが恐らく評判が悪過ぎたので管理人が閉鎖したのだろう)
 この「AURORA BBS 番外─とっても面白いキャラクタ専用板」の経緯を知るのはとても面倒だ。なぜなら、この掲示板は元々分家であり更に過去ログは細切れになっている(何十あるか分からない。理由は不明だが、PCの性能が悪かったのか何かの作戦か?)。
週刊金曜日まいど!電脳読者会」が貼ったリンクはその内の一つだけで、それも最終ページだけだ。
 全部貼るのが面倒なので一つだけ貼ったのだとしても普通は先頭のファイルを貼るだろう。

 私にはなぜ週刊金曜日まいど!電脳読者会がそうしたのか見当がつく。
 最初から読めば分かるが私はAURORA BBSで紳士的な投稿をしていたが、途中から「通行人」なる投稿者が無礼な誹謗中傷を執拗に続け本来のテーマであるフェミニズムと関係ない話題にそらし続けた(例えば建設関係の話を強引に持ち込み、勝手に自分で「勝った。勝った」と勝利宣言をした)。
 そういう煽りに耐えられなくなり途中から罵倒合戦になってしまった。これは掲示板荒らしがよく使う手で途中から見た閲覧者にはどちらが先に荒らしたのか分かり難い。
 週刊金曜日まいど!電脳読者会のサイトでは意図的に紛らわしくするため最終ファイルだけをリンクしたのではないか。
 週刊金曜日まいど!電脳読者会が最終ファイルのアーカイブを探し当てられたのなら他のファイルのアドレスを探し当てるのは大して難しくない筈だ。

 そこに週刊金曜日まいど!電脳読者会の狡猾さを感じる。

「謎の作家」批評

 某「謎の作家」氏の行状と偽者騒動「ジェンダー論」をめぐる、某「謎の作家」氏との対話 という「謎の作家」を含んだタイトルの2サイトが紹介されている。
 共に高橋亨という人物の同一HPに含まれているが、「だから何だ」という様な内容だ。

 特にジェンダー論について私は「差別がなかった結果として女性知事が選ばれなかったのなら、何ら問題は無いでしょう。男女比を気にする事は全くありません」と述べたが、これのどこがいけないのか全く理解できない。
 積極的男女共同参画と称して女性を優先的に採用したり強制的に女性枠を作る昨今の手法に私は強烈に反発している。

 結果の平等論を否定する私の意見には欠点が全くない訳ではないから、結果の平等論を極端で頭のおかしい人たちの主張と退ける気はないが、この程度で差別男と決め付けられてしまうのは極端だ。
 一部の極端な人の意見を持ち出して、それに反する者は全て保守反動勢力と決め付けてしまう態度は左翼活動家にありがちだが、このサイトを使って私を評価する週刊金曜日の姿勢は正にその典型だろう。 

はてな「裏」人物事典(古舘真)

「参考資料となるリンク集」というコーナーの中に「はてな「裏」人物事典 id:fghi6789」というリンクが貼ってあるが、この「はてな「裏」人物事典 id:fghi6789」には私の事が書かれている。
 これについて週刊金曜日まいど!電脳読者会のサイトに下記の記述がある。
「ある作家(アルサッカ)」古舘真さんといえばウィキペディアや はてな で自分のことを記事にしようとしたりする人で有名。
 上述の「はてな「裏」人物事典 id:fghi6789」については確かに私が編集したし、それを隠す気はない。
 但し、最初に私の事を書いたのは私自身ではなく、何者かが勝手に私の名を出して項目を作り悪口を書いた。
 例えば私が一級建築士を詐称したかの様な記述があったが、私は自分が勤めていた会社の総務部などから尋ねられた場合や履歴書に資格を記述した以外には保有する資格に関して一切他人に教えた事はない。
 嘘が書かれたので上述のサイトを削除しようとしたが、慣れないので方法がよく分からなかったため編集して内容を変えた。
 結果的に自分で自分の事を書く事になったが、元々は宣伝が目的ではない。
 上述の「はてな「裏」人物事典」以外のサイトでも勝手に名前を出されて悪口を書かれたサイトで削除の仕方が分からないので仕方なく編集して結果的に自分自身の事を書いた事がある。 

 週刊金曜日関係者には思い込みの激しい人が多いから、週刊金曜日まいど!電脳読者会が必ずしも嘘をついた訳ではなく勘違いした可能性もあるが、週刊金曜日まいど!電脳読者会の説明に事実と大きく異なる面がある事をはっきり述べておく。

ある作家さんの奇妙な情熱。

 順番が前後するが、「ある作家さんの奇妙な情熱。」というブログへのリンクがある。ネット上での編集合戦に私が熱心である事を強調している。
 なぜ順番を前後させたかと言うと上記の「はてな「裏」人物事典(古舘真)」を先に読んで頂いた方が事情が分かって頂き易いと思ったからだ。
 主としてこの様な理由で編集合戦に参加しているという事で「ある作家さんの奇妙な情熱。」で指摘された編集合戦についても事情は同じだ。
 事情がよく分からない人には奇妙なのかもしれないが、事情がよく分かれば奇妙でも何でもなく、ごく自然な行為だという事がお分かりになるだろう。

色の黒い人や鼻の低い人を嫌うのは全ての人種に共通したことです。

 タイトルはメーリングリストの会話の一部だが、週刊金曜日まいど電脳読者会はこの部分だけを恣意的に強調して私がいかにも差別的失言をしたかのように決め付ける。
 しかし、前項の「おかま論争」に見られるように文脈を見ずに一部だけ見て差別と決め付けるのは早計だ。
 リンク先をよく読めば分かる事だが、白人の差別性をやたらと強調する人がいたからたしなめただけだ。

 人種差別は日本でも古くから存在した。例えば長崎の出島では日本人と異人種の性交は厳しく制限されてきた。
 それでも白人は遊女との性交を認められていたが、黒人は日本人女性との性交を一切認められなかった。
 そういった史実をメーリングリストで示す事によって偏った差別感を改めるように促しただけだ。

 それをいかにも私が差別主義者であるかのように決め付けるのは悪質極まりない。
 しつこいようだが、週刊金曜日まいど電脳読者会のサイトから上記リンクを辿って文脈をよく理解すれば私の発言に差別性などない事がよく分かる筈だ。

森岡正博大阪府立大学教授の行状

「参考資料となるリンク集」というコーナーの「森岡正博大阪府立大学教授の行状」というリンクが貼ってあり同タイトルで書いた私のページに飛ぶ筈なのだが、別のページが開いてしまい紛らわしい。
 私が書いた本当のページのリンクは下記の通りなので事実を確認したい人は下記サイトにアクセスして頂きたい。
 森岡正博大阪府立大学教授が千葉大学で恐るべき発言
 これについては他の項目で既に述べた通り森岡教授の講演における発言内容には間違いが多かった。
 繰り返しになるが、週刊金曜日まいど電脳読者会から下記のコメントがある。
森岡正博さんのこの講演そのものが私怨による欠席裁判のようでひじょうに問題があるように見受けられるが(個人情報への配慮に注意しても趣旨を変えずに講演は成立したはずだろう)
 その通りだが、それなら何故そんなリンクを貼ったのだろうか(彼の発言には私がしていない言動が含まれており事実関係を確認しておらず本人の反論も聞かれず実名で多数に公表されていた。抗議を受け後日、名前が伏せられページも削除された)
 有名教授の権威を借りて個人攻撃に利用しようとする週刊金曜日まいど電脳読者会の浅ましい意図が見て取れる。 

扇動する者たち

原発の西暦2000年問題

 私が週刊金曜日読者会に参加して間もない頃、原子力発電所の西暦2000年問題が週刊金曜日や読者会で盛んに話題になっていた。

 原発の西暦2000年問題を簡単に説明する。
 かつてコンピューターは性能が貧弱だったので少しでも日付処理の負担を減らすため年号を2桁で表示していた。(例えば西暦1975は下二桁をとって「75」となる)
 これに危機を唱えた人がいた。「西暦2000になったら機械が1900と誤認識してとんでもない誤動作を始める可能性がある。事前に原発を停止しておくべきだ」と。

 週刊金曜日札幌読者会では40代の男性が「専門家によると今から技術的に対処しようとしてもとても間に合わないそうだ。原発を止めるしか方法がないそうだ」と得意顔で解説した。
 その時は不審に思わず、私は彼の知識に感動すら覚えた。週刊金曜日や週刊金曜日読者会メンバーは「原発を止めろ」と叫んでいたのだが、いざその時になると原発が停止されなかったにも関わらず起こる筈の重大な事態は何も起こらなかった。
 これが週刊金曜日に対して私が不信感を持つきっかけだった。原発2000年問題で騒いだ有名人が謝罪したという話は聞かない。この事で直接大きな被害を受けた人はあまりいないと思う。どこに逃げても同じだから家を手放した人もいないだろう。
 せいぜい危機に備えて非常用品を買った程度で他にも使えるから金銭的負担自体は大した事がなかったが、煽っていた週刊金曜日読者たちに全く反省が無く開き直った態度をとった事に不快感を持った。
 ただ、この事は自分自身を含めた人間の意識の脆さについて気づくきっかけともなった。そもそも私が前述の40代男性を信じたのは「専門家がそう言った」と自信を持って言われたからだ。彼は「俺はコンピューターなんて使った事が無い」と言った事からも明らかだが、彼も単に人の話を鵜呑みにしただけだ。

 それ以前にも「週刊金曜日 買ってはいけない」にいかがわしさを感じる事はあったが、間違いである事が私にとって最初に明らかになった点で印象的な出来事だった。

携帯電話の電磁波

 携帯電話は今や大人だけでなく子供にとっても必須のアイテムとなった。
 携帯電話の発する電磁波が人体に及ぼす悪影響については週刊金曜日で盛んに取り上げられてきた。
 私はどちらが正しいのか分からない。事業者の側としては当然、害の少なさを強調するが、私は信用はしていない。

 但し、週刊金曜日や週刊金曜日読者が「携帯電話の電磁波は危険だ」と騒ぐのには如何わしさを感じる。
 もしかすると本当に危険なのかもしれないが、本人たちがちゃんと分かって正しく批評しているようには見えない。
「何でも騒ぎ立てる事が趣味の人たちが、今度もまた大した根拠も無く騒ぎ立てている」としか映らない。

 週刊金曜日読者会の二次会が行われた居酒屋で「携帯電話ってそんなに危険なんですか」と聞くと「お前そんな事も知らないのか(馬鹿じゃないの)」みたいな反応があった。
 奇異に思ったのは週刊金曜日読者にも携帯電話を使う人が少なくなかった事だ。
 当時、私は携帯電話を持っていなかったが、携帯電話を使っている人が危険性を声高に訴えても説得力が乏しい。
 私としては狭い室内で携帯電話を使われて私の体の中も電磁波が通り抜けている筈だから愉快ではなく、平気で携帯電話を使う神経が理解できなかった。

週刊金曜日 買ってはいけない

 私が週刊金曜日を読み始めてから同誌の扇動ジャーナリズムとしての体質の一端を最初に感じたのが大ヒットとなった「週刊金曜日 買ってはいけない」だが、当ページの「週刊金曜日 買ってはいけない」論争」で詳しく論評しているのでそちらも参照して頂きたい。
 天皇制や無駄な公共事業などの社会問題を提起する雑誌として高く評価していたが、その一方で「買ってはいけない」については単なる商業主義と思った。古参の読者の中からは反発の声もかなりあったようだが、煽り立てる事が好きな人たちからは熱狂的な支持を受けた。
 こうなった理由の一つとして週刊金曜日の予定調和的性格があると私は見ている。まじめな議論にだんだん飽きてくる人が出てきたのだろう。
 大きな話題となり一時的には盛り上がった様に見えたが、それによって読者が固定するという期待された効果はなかった。
 後に現れる「9.11同時多発テロ陰謀説」の大々的なキャンペーンと比べるとまだましという見方も出来るが、扇動ジャーナリズムとしての端緒となった「週刊金曜日 買ってはいけない」は週刊金曜日の運命を決定付けたような気がする。

9.11同時多発テロ陰謀論

 週刊金曜日における扇動的報道の最たるものが「9.11同時多発テロ陰謀論」だろう。この話題が出て行きつくところまで行ってしまった気がする。
 携帯電話の電磁波の危険に関しては全く根拠が無い訳でもなく、「買ってはいけない」については内容的に疑問はあっても目くじら立てるほどのものでもなく、この程度なら許せない事もない。
 しかし、アメリカで発生した9.11同時多発テロがアメリカによる自作自演の陰謀という話になってくると、見過ごす訳にはいかない。
 週刊金曜日における9.11同時多発テロ陰謀論に関する具体的な批評については当ページの9.11同時多発テロ陰謀説の項目で解説している。
 そこでも述べたが、やはり週刊金曜日を読み続けていると同じ様な内容に飽きて、より強烈な刺激を求めるようになるというのが扇動的報道の背景だと思う。

「週刊金曜日 買ってはいけない」論争について

「週刊金曜日 買ってはいけない」に対する所感

「週刊金曜日 買ってはいけない」は1999年頃大ヒットし、ベストセラーになった。反論本も売れまくり、「週刊金曜日 買ってはいけない」論争が社会現象となった。「週刊金曜日 買ってはいけない」は食品などをはじめとする商品を名指しで批判する本だ。
「週刊金曜日 買ってはいけない」は週刊金曜日の連載をブックレットにしたものだ。週刊金曜日は従軍慰安婦問題や差別問題など社会の歪や矛盾を厳しく追及する雑誌であり社会科学の面では評価できるが、「週刊金曜日 買ってはいけない」は自然科学の分野に属する。
 企業の悪行を追及するのは結構だが、ここまで個々の製品について危険と断言するのは、勇気とは違うと思う。もちろん、危険な商品を消費者に売りつける企業は厳しく断罪されなければならないが、疑わしきは罰するではなく厳密な科学的根拠が必要だ。
 また、いきなり自社製品を予告もなく糾弾された企業としては寝耳に水だろう。こういう手法が本当に消費者にとって良いのか疑問だ。
 私は一九九九年四月から週刊金曜日を不定期に購入している読者だが、この本に対してはあまり高い評価をしていない。「週刊金曜日 買ってはいけない」の連載については、「妙なコーナーがあるな」という程度で殆ど読んでいなかったし、製品購入の参考にする気も全然なかった。最初は、「ああ、そうなのかな」とあまり疑問を持たなかった。しかし、毎回違う商品が攻撃されるのを見て、「なぜ、こんなに次々ネタが出てくるのだろう」と疑問を感じはじめた。
 個々の記述に対してはそれなりの根拠はあるようなので、全くのインチキ本だとは思わないが、絶賛できるような内容ではない。

「週刊金曜日 買ってはいけない」反論本に対する所感

 これに対して反論本も多くだされたが、これらも殆どが非科学的で出鱈目で感情的であり客観性に欠ける著作が多かったし、「反論のための反論」と言われても仕方ないようなお粗末な物が殆どだった。特にジャーナリストの日垣隆氏は、「彼らは北朝鮮のような社会を目指している」という訳の分らない論理を展開した。大月隆寛氏に至っては「著者の目がイッちゃってるから信用できない」などと科学評論とは全く関係のない低次元の批評をした。
 反論本は裏に企業がいるようにも見えるし、「週刊金曜日 買ってはいけない」の執筆陣は反論本の著者を企業の手先と決め付けている。確かに、反論本のヒステリーな内容や執筆者に企業や権力の御用評論家が多い事から、その可能性は十分ある。
 しかし、反論本の執筆者たちは必ずしも企業の側からの中傷誹謗ではない可能性がある。恐らく、日垣隆をはじめとする反論本の執筆者たちは「週刊金曜日 買ってはいけない」に対する素朴な疑問から書いたが、科学技術に関する素人であるため結果的に出鱈目になったのだろう。
 拙著に「『NOと言える日本』への反論」(明窓出版)がある。これは石原慎太郎氏の『NOと言える日本』シリーズへの反論本だ。この本を書く上で苦労したのは、どうやって字数を稼ぐかだった。最初は『NOと言える日本』の技術的内容だけに限定しようと考えた。技術評論については自分でもうまく書けたと思う。しかし、『NOと言える日本』に対する反論だけではせいぜい数十ページにしかならなかった。一冊の本とするには二百ページくらいは必要なので、とても一冊の本になりそうもなかった。そこで『NOと言える日本』だけでなく、「『断固「NO」と言える日本』」、「それでも『NOと言える日本』」、「NOと言えるアジア」、「『宣戦布告「NO」と言える日本経済』」の「NOと言える」シリーズに対する批判に変更した。更に歴史、経済、外交関係など得意でない分野まで拡張せざるを得なかった。それで、ようやく一冊の本として完成した。  技術評論家でさえ一冊の本に対して反論本を書き上げるのは極めて困難だ。まして素人が大急ぎで書いた本の質が悪くて当然だ。恐らく、最初は純粋に義憤にかられて書いたのだろう。週刊金曜日の読者でさえ疑問を感じるのだから、保守的な人間が反論本を書きたくなるのは当然だ。しかし、著者が下手だったので結果的に「反論のための反論」となってしまった。
 反論側の主張で特に間抜けなのがサンハウスの「あんしん君」に対する解説だ。これは携帯電話用電磁波防護シールだ。「週刊金曜日 買ってはいけない」では「あんしん君」は全く効果がないとしているし、その事は反論本でさえ認めている。これに対して幾つかの反論本は、「知的障害者を雇う零細企業を攻撃するのは卑怯だ」としている。しかし、問題は品質に欠陥があるかどうかであり、零細企業だろうと知的障害者を雇っていようと言い訳にはならない。そもそも、大企業が販売している製品にしても実際に作るのは中小企業だ。従って、大企業を攻撃した方が中小企業に対する影響はむしろ大きい場合が多い。反論側は科学技術の素人だから、そんな簡単な事にさえ気付かなかった。「あんしん君」に関しては「週刊金曜日 買ってはいけない」に分がある。

だしにされた企業と消費者

 反論本は企業の御用ライターや御用雑誌などによる悪意に満ちた物が多かったが、「週刊金曜日 買ってはいけない」を厳しく批判をしたのは右翼系のライターや雑誌だけではななかった。週刊金曜日と並ぶ反権力系雑誌「噂の眞相」にも批判がある。週刊朝日でもかなり厳しく書かれていたが、週刊朝日は特別保守的でも右寄りという訳でもない。
「週刊金曜日 買ってはいけない」執筆陣は、「週刊金曜日 買ってはいけない」が消費者を守るために書かれた事を強調している。反論側の筆頭である日垣隆氏は企業を悪質な市民運動家から守るという大義名分を掲げている。
 しかし、両者とも単に自分のためにやっているというふうにしか思えない。本当は企業のためでも消費者のためでもないのに、両者によって企業対消費者、あるいは企業対市民運動家という構図が無理やり作られたようにも思える。「週刊金曜日 買ってはいけない」執筆陣は週刊金曜日や市民運動を利用しているだけのような気もするし、市民運動よりもむしろ資本家の側に近いようにも思える。
 反論側についても、企業を守るという大義名分を掲げた売名行為としか思えないものが目立った。「週刊金曜日 買ってはいけない」執筆陣は日垣隆氏や文藝春秋の背後に企業がいるように考えているようだが、企業が果たして日垣隆氏や文藝春秋のような科学技術の全くの素人にそんな事を依頼するだろうか。したとすれば、間抜けとしか言いようがない。
 日垣隆氏の行動については、彼のような素人に弁護されても企業としては迷惑なだけではないのか。日垣隆氏は企業の手先ではない事を強調するために幾つかの商品を批判している。「ヤマザキパンは添加物が多いから、なるべく食べないようにしている」という具合だ。何の根拠があってそんな事を言っているだうか。ヤマザキパンが他の製品と比べてより有害であるという印象を与えかねない。これでは程度の差はあっても、彼が激しく批判している「週刊金曜日 買ってはいけない」の姿勢と大差ないではないか。
 私は数年前、日垣隆氏の「週刊金曜日 買ってはいけない」に対する札幌での講演会を聴講した。すると公安委員と称する中年の男性が挨拶に出てきて、「企業の悪口を言うのは間違っている。欠点を探すのではなく、長所を誉めるべきだ」と述べた。更に、コンサドーレ札幌の宣伝など企業の手先と思われても仕方ないような演説が延々と続いた。「日垣隆はやはり御用ライターだな」と言われても仕方ないような講演だった。こんな事をしているから、企業の手先と言われてしまうのだろう。また、「私は週刊金曜日読者だが、週刊金曜日読者には『週刊金曜日 買ってはいけない』に批判的な人は少なくない。一部の悪質な市民活動家を見て、全ての市民活動を悪と決め付けるのはおかしいのではないか」と質問すると「週刊金曜日には文藝春秋誌上で反論させたが、週刊金曜日は誌上で反論させなかった」という全く見当違いの答えが返ってきた。

二重にこけにされた週刊金曜日読者

 しかし、この論争で最も傷ついたのは恐らく週刊金曜日の読者だ。週刊金曜日には全国に読者会があり、新興宗教団体のような狂信的集団と思っている人もいる。ところが、個々の読者に尋ねてみると、「週刊金曜日 買ってはいけない」を冷ややかに見ている人が少なくなかった。むしろ、「週刊金曜日 買ってはいけない」論争を一番冷静に見ているのが週刊金曜日読者のようだ。知り合いの週刊金曜日読者に聞いてみると、「週刊金曜日 買ってはいけない」が好きでないという意見や「こんなもので盛り上がってほしくない」と言う人は少なくなかった。
 その点を反論本の著者達は完全に勘違いしている。そもそも、週刊金曜日の定期購読者は三万五千人と言われている。週刊金曜日読者が全員「週刊金曜日 買ってはいけない」を買ったとしても、二百万部近く売れた「週刊金曜日 買ってはいけない」の読者のうち週刊金曜日読者はせいぜい二%に過ぎない。週刊金曜日の読者と「週刊金曜日 買ってはいけない」の読者は全然別の人たちだ。
 ところが反論本には週刊金曜日読者をあたかも狂人のような書き方をしているものもある。仮に「週刊金曜日 買ってはいけない」が出鱈目で虚飾に満ちた本であろうと、執筆者と週刊金曜日の責任であり、読者には何の罪もない。週刊金曜日の読者を中傷する連中の感覚が理解できない。もし、週刊文春が出鱈目で煽動的な記事を書いたとしたら、週刊文春の読者も精神異常者という事になるのだろうか。

「週刊金曜日 買ってはいけない」論争に対する判決

 この論争に対する私の独断的な判決を下す。まず、「週刊金曜日 買ってはいけない」については無罪とする。「週刊金曜日 買ってはいけない」には粗雑な記述が目立つが、それによって損失を蒙る人がいるとすれば、読者と槍玉にあげられた企業くらいのものだ。
「買ってはいけない」の内容は全くの出鱈目ではなく、多くの記述に関してはそれなりの根拠がある。メーカーがいかにいい加減な事をやっているかが分かるし、それなりの役には立つ本だ。少なくとも記述の半分以上は正しいようだ。だから、消費者がこれを信じきったとしても、大して損失は無い。仮に九割以上が間違いだとしても、「危険な物は買うな」という事がこの本の趣旨だから、指示を忠実に守った事により消費者が危険に晒されるという恐れは無い。だから、いずれにせよ読者は大して損はしない。
 問題があるとすれば、大して危険な製品でないにも関わらず製品を中傷された企業があった場合だ。そういう場合があるとすれば確かに悪質と言える。しかし、その場合は企業が週刊金曜日を訴えればいい事であり、私がどうこう言う事ではない。日垣隆氏や文藝春秋が騒ぐような事ではない。槍玉にあげられた企業は殆どが大企業だ。自分で何とかするだろう。中にはサンハウスのような零細企業もあるが、サンハウスの「あんしん君」が電磁波防護効果がない事は既に述べた。刑事事件ではないのだから、裁判にすれば済む事だ。
 それに対して反論本側は様々な罪を犯している。
 まず、「『買ってはいけない』は買ってはいけない」だが、これは題名と装丁ともに「週刊金曜日 買ってはいけない」と類似している。著作権侵害と言われても仕方ないだろう。
 また、反論本の中には何の関係もない市民運動家や週刊金曜日の読者を不当に中傷したものが少なくない。「買ってはいけないは嘘である」、「『買ってはいけない』は買ってはいけない」、「『買ってはいけない』大論争〜ほめる人、けなす人」などがそうだ。週刊金曜日を批判するのは一向に構わないのだが、市民運動家や週刊金曜日の読者を侮辱した罪は大きい。反論本側は彼らに対して謝罪すべきだ。

週刊金曜日の課題

 ここで私が言いたかったのは、「科学評論や技術評論には右も左もない。好き嫌いとは関係なく、科学的、客観的に判断すべきだ」という事だ。
 週刊金曜日が「買ってはいけない」を出した事は犯罪でも何でもない。まして、日垣隆氏の企業テロというような性格のものとは全く違う。間違いがあったにしても、企業が裁判に訴えれば済む事だ。だから、私は無罪と考えている。
 しかし、週刊金曜日読者としては「週刊金曜日 買ってはいけない」に傾倒する週刊金曜日の在り方がこれでいいのかという疑問がある。「週刊金曜日 買ってはいけない」景気によって、週刊金曜日は潤った。知名度が低かった週刊金曜日の存在に気付く読者も増えたようだ。
 だが、失ったものも多い。古参の読者の中には最近の週刊金曜日に嫌気がさして、読者をやめてしまった人が少なくない。読者が固定的である週刊金曜日が熱心な読者を失う事の痛手は大きい。「週刊金曜日 買ってはいけない」のせいでかけがえのない信頼を失う事になっては困る。
 私は週刊金曜日の経営者でも編集長でもないので、「週刊金曜日 買ってはいけない」をどうこうしろとは一切言わない。ただ、私の直感からすると、続編を出したところで今回ほどは売れないのではないかと思っている。二匹目のドジョウはないと思った方がいい。

9.11同時多発テロ陰謀説

9.11同時多発テロ陰謀説の嘘(他ページ)

 上記タイトルをクリックすると当サイト内の「アメリカの陰謀に関する検証」のページに飛びます。
「9.11同時多発テロはアメリカの陰謀だ」という主張は週刊金曜日関係者に限らず左右双方に広く存在しますが、背景に差はあれど根拠自体は似たり寄ったりなので根拠に対する(主として科学的な)検証はそのページで一括して行います。

週刊金曜日的背景

 これについても「アメリカの陰謀に関する検証」のページで左翼全般の大雑把な説明はありますが、ここでは陰謀論を唱える週刊金曜日の背景や事情を更に詳しく解説します。

反日的反米論

 同時多発テロに関しては左右双方に「アメリカによる陰謀」と考える陰謀論者が多く、思想的にも左右双方の陰謀論者の根底には反米思想が存在する事が少なくない。
 但し、反米と言っても右翼の側が愛国思想に基づく親日的反米論なのに対して週刊金曜日などが反日的反米論である点が思想的動機として大きく異なる。
 日米という対立の構図に関する陰謀論については週刊金曜日は必ずしもアメリカを悪者にせず日本側の非を唱える場合が少なくない。具体的には「真珠湾攻撃陰謀論」や「トヨタ自動車リコールのアメリカ陰謀説」などが挙げられる。この二つの陰謀説について週刊金曜日で肯定的な記事を見た事が無い。

 この様に陰謀論を唱える思想的背景や目的は右翼と週刊金曜日で大きく違うが、証拠に関する主張自体は大差ない。陰謀だとする科学的根拠自体(とても科学的とは言い難いが)は双方の言説に大差無い。

飽きてきた読者

 過激な話題が好まれる様になった背景には週刊金曜日読者が代わり映えのしない週刊金曜日の記事に飽きてきたからだと私は考えている。
 天皇制、従軍慰安婦、日本軍の侵略行為などを扱う週刊金曜日の記事は「予定調和的」とよく言われるが、大体こんな記事になると見当が付く内容が多かった。真面目な本なので仕方ないのだが、一週間に一回刊行される雑誌としてはなかなか読者の興味が続きにくい欠点がある。
 卵が先か鶏が先か分からないが、週刊金曜日読者も週刊金曜日編集部も刺激を好む性格に変わる傾向が見られた。その典型が「週刊金曜日 買ってはいけない」だ。この辺りから誌面に煽動的話題が増え始めたが、週刊金曜日読者会でも同時多発テロ以前から刺激を求める話題が増えていた。
 週刊金曜日読者会のメンバーの中には田中角栄問題や教育をはじめ多くの分野で政府の陰謀が存在すると噂している者も少なからず存在した。
 その行き着いた先が9.11同時多発テロ陰謀論だ。週刊金曜日編集部は扇動的話題を好みだした読者をなだめるどころか更に煽り立てために、ますます刺激を好む性格に歯止めがかからなくなっている。

週刊金曜日編集委員に対する評価

如何にも週刊金曜日的編集委員

本多勝一(ほんだかついち)

 本多勝一氏は何と言っても週刊金曜日の象徴的存在でありミスター週刊金曜日とでも呼ぶべき人物である。週刊金曜日の創刊時から現在に至るまで常に同誌の中心的存在であった。教条主義的で強引な主張という点で如何にも週刊金曜日的な性格の編集委員である。
 週刊金曜日的な我の強い人は他の編集委員と軋轢を起こし易く元編集委員だった辛淑玉(シン・スゴ)氏のように争いを起こして去っていく場合が少なくないのだが、彼ぐらい強固な地位を占める存在となるとそういう圧力をものともせず居座り続ける事が可能なのかもしれない。
 過激な発言や裁判沙汰が多いが、私が彼の言動で気になるのはやたらと反米的な態度だ。英語を「家畜語」などと発言する態度はいかなるものであろうか。私からするとどう考えても差別的発言としか思えないのだが。「やたらと外来語を使うべきではない」というのであればその通りであり、格好良さを追求するために英語を使うのは不純だが、それならば週刊金曜日だって「DV」や「ジェンダーフリー」などという意味の不明確な外来語をやたらと使っているではないか。「白人や欧米に対してこれだけ強い態度を取れるぞ」という点を強調したいのかもしれないが、ある面で劣等感の裏返しにも見える。これは彼が嫌っている石原慎太郎氏と似ていると言えない事もない。
 週刊金曜日に新しい個性が芽生えない限り本多勝一氏が君臨し続ける事になりそうだが、週刊金曜日において新しい個性が芽生える事はまず考えられないので恐らく年老いた彼がこれからもずっと週刊金曜日を背負う事になるのではないかと私は思う。

辛淑玉(シン・スゴ)

 教条主義的左翼思想の持ち主で寛容さを持ち合わせず自分の意見を押し通すという点で、元編集委員の辛淑玉(シン・スゴ)氏は如何にも週刊金曜日編集委員的な人だった。
 日本社会において弱者や被差別者とされる人たち、例えば在日朝鮮人や女性(果たして女性が被差別者かどうか私自身は疑問に思うが)や同性愛者をはじめとする性的少数者などは週刊金曜日においては逆に強者である場合が少なくない。
 在日朝鮮人の女性である辛淑玉氏は教条主義的な市民活動においては腫れ物にでも触る存在或いはアンタッチャブルとでも呼べようか。これに同性愛者という条件が加われば更に立場が強くなっていたかもしれない。
 彼女の如何にも教条主義的な側面が、前述の辛淑玉氏の発言伝説のオカマ論争)に現れている。
 彼女は思想的には典型的な週刊金曜日的タイプであるがために受け入れられず去っていくはめになった。市民活動にはよくあることなので特に不思議な感覚は無かった。
 本多勝一氏に見られる教条主義的な態度に加え、やたらと被差別者としての立場を強調する傲慢な態度は見苦しかった。「オカマ」発言位に目くじらを立てずに少しは妥協できなかったのだろうか。
 彼女にそんな要求をする方が無理なのかもしれない。こんな人がいなくなった事は大正解だと思う。

石坂啓(いしざか けい)

 彼女は思想的には典型的な週刊金曜日タイプではあるが、私個人としては本多勝一氏や辛淑玉氏のような嫌らしさを感じない。雑誌などに書かれるコメントを読んでも真っ当なものが多かったと思う。
 ただ、インターネットで調べてみると息子に対する行為に関する衝撃的な報告が幾つか見つかった。「息子を12歳で去勢させる計画」や「息子に対するフェラチオ体験」などだ。2ch掲示板の投稿などはガセネタが多く当てにならないがwikipediaにも書かれている所を見ると本当にそういうことはあったらしい(去勢は実際には行っていないらしいが)。
 但し、フェラチオに関しては赤ん坊の頃の息子がかわいくて性器をちょっと咥えたというだけのようだ。確かにフェラチオではあるが言葉だけ聞くと一見近親相姦を連想してしまうが、そういう濃密な肉体関係ではないようだ。
 中学生の息子と全裸で抱き合ったというのならともかく、その程度であれば騒ぐほどの事もないような気もする。
 かなり変わった人ではあるが、辛淑玉氏ほどのとげとげしさがないので、これからも週刊金曜日編集委員として活躍を期待したい。

なぜこの人が?的週刊金曜日編集委員

椎名誠(しいなまこと)

 椎名誠氏は2007年12月14号を最後に週刊金曜日編集委員を退任したが、長きに渡り同誌の編集委員を務めた。表紙の写真とコメントが印象的だったが、それ以外にあまり印象が無い。本人も「連載を担当していたほかは実質的な仕事をしていない」としている。彼の著書からも週刊金曜日との接点が見出しにくく、週刊金曜日読者などから「なぜこの人が週刊金曜日編集委員なのか」と噂される筆頭の一人だったが、「なぜこのひとが?」というような週刊金曜日編集委員はこれまで意外に多く存在した。
 そういう人たちの存在理由はあまりよく分からないが、一つには広告塔としても意味があるのだろうか。その事に関しては週刊金曜日の本音はよく分からない。
 もう一つの理由として考えられるのは、やたら攻撃的で自己主張の強い如何にも週刊金曜日的編集委員ばかり集めるとギスギスした雰囲気で内紛が絶えないから、言わば緩衝材としての意味があるのかもしれない。これは就任後直ぐに辞めてしまった辛淑玉(シン・スゴ)氏などの挙動を見ているとそんな気がする。
 週刊金曜日編集部内で彼の立場や評判が一体どうだったのかよく分からないが、意外に彼には合っていたのかもしれない。

落合恵子(おちあいけいこ)

 落合恵子氏についても椎名誠氏と同様に週刊金曜日読者などから「何でこの人が週刊金曜日編集委員なの?」と聞かれる事が少なくなかった。
 彼女の日頃の仕事や活動では辛淑玉の様に主張をあまり強烈に前面に押し出さないので過激なフェミニストや極左活動家にはあまり見えないし、辛淑玉ほど強烈な性格ではなさそうだ。
 但し編集委員としての人選が的外れかというとそうでもなく彼女はフェミニストとも言われ、週刊金曜日の主張に大方で共感は持っているようである。例のオカマ論争でも辛淑玉ほど強烈に編集部批判はしなかったが、同性愛者に対する配慮に関して同様な不満は持っていたようだ。憲法問題にも関心はあるようだ。

 思想的に週刊金曜日に比較的合致し性格も辛淑玉氏のようにカリカリしていないので、週刊金曜日が潰れたり彼女が病気にでもならない限り比較的編集委員として長続きするのではないかと私は思っている。

雨宮処凛(あまみやかりん)

 週刊金曜日編集委員には「何故この人が編集委員に?」と思うような違和感のある人物が少なくないが、雨宮処凛氏は元右翼という点で他の「なぜこの人が?」的週刊金曜日編集員とは事情が著しく異なる。
 自身の生きづらさから「今の日本はおかしい」と疑問を感じロックバンドのボーカルを務めパンク・ファッションやミニスカ右翼として有名になるが、このように右翼としては従来の右翼からすると異色の存在である。
 それが、日本国憲法を読んだ事によって右翼活動に疑問を感じ一転して左派系との付き合いが増える。
 これが彼女の概略だ。
 左翼から右翼に転向した思想家は珍しくない。しかし、右翼から左翼に転向した例は終戦直後には多かったが、最近ではあまり例がない。そういう場合、左翼はあまりそういう人物を受け入れたがらないものだ。それについては一つの見方として左翼の度量が狭いからと考える事もできるが、左右をふらふらしている人が今一つ信用されないのはある面で当然だ。
 なぜ週刊金曜日が彼女を受け入れたのか本音はよく分からないが、好意的に受け止めると「その人の過去にこだわらず多様な個性を受け入れる方針に転換した」のかもしれない。穿った見方をすると「話題性があり特に若者からの人気があるので利用しよう」という事なのかもしれない。

 私からすると彼女は、思い込みが激しく信念が無く単にブームや話題性を追いかけているだけにしか見えない。右翼時代の言動についても単に目立ちたいから物珍しさを強調しただけという見方もある。
 右翼から一転して左翼に転向したのも本心からそうなったのであれば主体性が無いからと考える事もできるし、左翼活動をした方が目立つという損得勘定で動いたのであれば信念がないという事になる。いずれにせよ、ろくなものではない。

 最近、彼女が率先して行っている「格差社会」批判や「派遣切り」批判についても私にはブームに便乗した或いは話題性を追及したように見える。「格差社会」批判はともかく「派遣切り」については必ずしも違法でも反社会的行為でもない。「契約切り」の事例を非難するのであればともかく派遣労働の契約を更新しなかったからといって企業にとって責められる筋は何もない。そもそも派遣労働が無くなれば多くの派遣労働者が困る。労働者からも必要があるから、そういう労働形態が存在するのだ。
 彼女は単にブームに便乗しているだけで本当の弱者の姿を知らないから、そういう事情が分からないのではないか。

「派遣切り」や「格差社会」という象徴的な言葉に飽きられてくると流行に聡い彼女は全く別の事を始めるのではないだろうか。その点の才能はありそうな気はする。

集会での対話に関するルール

 私は様々な市民活動に関わってきましたが、集会における質疑応答やフリートーキングが円滑に進まなかったりマナーの悪さを目の当たりにする事がしばしばあります。
 私の体験に基づいて問題点を指摘し、解決策を提言します。

発言者のポイント

 1回であまり多くの種類の事を言わないのが発言のコツです。ポイントを絞って1つか2つ、どんなに多くてもせいぜい3つくらいの事柄に留めておきます。あまり多くの事柄について喋ると聞き手が飽きるだけでなく、本人自身も何を言っているのか分からなくなる事がよくあります。

発言の重複を避ける

 これは特に質問の際によく見られる傾向ですが、もう既に他人が自分の聞きたい事を質問したにも関わらず、似たような質問をする人がいます。議事の進行を妨げるような無駄な発言は極力しない事です。

無理に発言しようとしない

 折角来たので何か質問したいが、特に聞きたい事や良い質問が思いつかない事があります。そういう時には、無理に質問しようとしないで、次の機会を待ちましょう。

挑発に乗らない

 異論に対してわざとらしく大声で笑ってみせたりするなど幼稚な嫌がらせをする人を見かける事がありますが、そういう幼稚な人は自分自身の印象を悪くしています。結局、本人に跳ね返ってくるのだと考えて挑発には乗らないことが肝要です。

討論の状況による対応

フリートーキング編


では、どうしたらよいかというと思想統制にならない範囲で必要最低限の公平で簡潔で明確なルールを決める事です。必要最低限の公平で簡潔で明確なルールを作るのは、現実には簡単ではありません。良かれと思ったルールが思いがけないトラブルを起こす事があり、やってみなければ欠点に気付きにくいものです。
 私が考えたルールを説明します。

(1)人が話している時に割り込んだり、やじを飛ばすなどの邪魔をしない。
(2)手をあげて指名を受けてから発言する。
(3)発言者は1回の発言について、連続して長時間喋らない(3分とか5分とか主催者側が時間を設定する必要がある)。
(4)どんなに偏っていて差別的であろうと思想的な内容には介入しないようにする。
(5)手を上げている人が複数いる場合は原則として累計発言時間が短い方を優先する。

 (1)〜(3)までが一般参加者が守るべきルールで、(4)と(5)が司会側のルールです。

 (2)については、個々人が勝手に喋っていたのでは、多数の参加者がいる集会では収集がつかなくなります。ですから、司会が指名しない限り、発言したい人には手を上げて発言してもらいます。
 これは参加者が他の一般参加者から質問を受けた場合も同様です。質問を受けた人は答える場合にも手を上げて指名を受けてから、返答をしてもらいます。

 自分にとって興味のある話題が出た時に、その事について発言したくなる事があります。そういう時に相手が話し終わるまで待っていると、他人に発言権を取られてしまいそうで気が気でない人もいます。誰かが喋っている時に手をあげておけばその様な心配がいりません。
 (3)については、発言者が発言の邪魔されない権利を保障されるという事は逆に言うと責任が伴います。それは発言時間の著しい不均衡が生じない様にしなければならないという事で、1回の発言に置ける発言時間の上限を例えば5分間という様に決めておく必要があります。何時までも話してよいなら1時間でも話し続けてもよいという事になりますし、本当にそれくらい平気で喋り続ける人もいます。そして、時間が来たら一旦発言をやめてもらい、間を置きます。もし、他に誰も喋りたい人がいなくて、その発言者がもっと喋りたいという場合には、主催者が状況によって発言させるかどうかを決めます。
 (4)については原則として主催者は発言者の発言内容により制止するのは非民主的で思想統制に繋がりますから、しない事にします。但し、例外的に発言に介入できる場合もあります。例えば、「○○は強姦魔だ」などという噂話を持ち出して参加者を中傷誹謗した場合などです。悪質であろうとその人の考え方を示しており、少しでも思想や議題と関係のあるものなら許します。例えば、「女は劣った生き物だから、男に奴隷として尽くすべきだ」(私がそう思っている訳ではない)という様な発言です。これについては間違っていると思えば反論すれば良い訳ですから、倍以上にして反せる訳です。あくまで制止する条件としては議論にとって全く関係のない不要な中傷誹謗や確かめようのない事実などを言われた場合に限定します。
これも現実には微妙な事例が発生する可能性があり、判定に苦しむ場合があるかもしれません。
(5)についても原則であり例外的な事例もあります。
 例えば、発言し終わった人が他の一般参加者から質問を受けたとします。その時に今まで全く発言していない人と質問を受けている人が手を上げていた場合を考えます。この場合、原則としては全く発言していない人を優先的に発言権が与えられる事になっていますが、流れとしては質問を受けた人に当てた方が自然な場合も考えられます。その辺は司会者が臨機応変に考えて良いと思います。また、累計発言時間の多少の誤差は多めに見てもらいます。
 私は発言にはある程度の積極性は必要と考えます。何の意思表示もしなかった人は一言も話せなかったとしても仕方ないと思います。但し、他人が発言している時に割り込むような積極性では困ります。あくまでルールに則った積極性が必要です。
 司会者は手を上げなかった人に特に配慮する必要はありません。急に指名されても、「ここで当てられても・・・」と返答に困る事はよくありますし、却って迷惑な場合もあります。
 このルールが完璧だとは思いません。あくまで草案であり、実際の運用上で私が気付かない何らかの不具合を含んでいる可能性は十分あります。私が最初に考えたルールには思いがけない欠陥があったので、改良を加えたのが上記のルールです。
 また、これはある程度の人数が集まった場合を想定していますから、例えば、3、4人くらいの少人数でここまでやるべきかというとそれも疑問です。参加者の性格にもよるので単純に何人以上からとは言えません。
 発展途上段階のルールなので、やってみて不具合が見つかれば直していけばよいと思います。

質疑応答編

 市民活動や自治体などの集会における質疑応答に関しても、なかなか円滑で有意義に進まない事例をしばしば見受けます。
 質問者がだらだらと関係ない話をしたり、長時間に渡りだらだらと話し続ける人もいます。それでは、質疑応答を円滑に進めるためのポイントについて説明します。
 札幌市のある部長が、「市民参加の集会で会場の一般参加者の意見を聞いていると、この人には友達なんていないだろうなと思えるような人による発言が多い」というような事を述べていました。確かにその部長が言う通り、質疑応答の際には要領を得ない質問や意見が飛び出す事が少なくありません。
 これについての問題点は2つあります。一つは発言者自身の問題。もう一つは司会側の不手際。
 まず、発言者について述べます。自治体が市民の声を直接聞くような場面で発言しようとする人は必ずしも社会人としての自覚を備えた人ばかりではありません。会社でも家庭でも相手にされず、やたらと自己主張の強い我がままな人が勝手に市民の意見を代弁して、夢中になって語る事例が少なくありません。目立ちたい、知識をひけらかしたい、何か言いたくて仕方ないなど、とにかく当ててほしいので頭の整理がついていない段階で手を上げてしまう人もいます。
 既に延べた通り発言者はポイントを絞って、簡潔に話す事を心がけるべきです。あまり多くの事について語らず、せいぜい2つ程度、多くても3つ程度にポイントを絞ります。質問するのはどうしても聞きたい事があった場合に限定し、特に良い質問が思いつかなかった場合には無理に質問をしようとしない事です。
 但し、一般参加者の質問や意見の発言がうまくいかないのは、ある程度やむを得ない事情があります。まず、講演者は一般参加者より公の前で発言する練習機会が多い。また、講演者は話すテーマや時間を予め知っているから事前に十分練習できるし、得意な分野について長時間話ができるので、自分の意見をうまく表現しやすい。
 それに対して質問する側は、講話の具体的な内容を事前に知らない事が多く、質問の内容を即興で考えなければならない。また、発言の時間も限られているので、短時間で要領よく話をしなければならない。
 という訳で、良い質問をするというのは実は極めて難しい事です。予め喋る事が決まっている講演者の方がよほど簡単と言えない事もありません。
 そこで主催者がある程度方向性を与えてやる必要があります。

ルールの例

  1. 禁句などのルールを事前に明確にする。
  2. 1回の発言時間の上限を設定し、厳格に守らせる。
  3. 1回の発言で話すポイントを一つか二つ程度に留めさせる。
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