ヨハン・クライフ
Johan Cruijff
フルネーム ヘンドリク・ヨハネス・クライフ
Hendrik Johannes Cruijff
ニックネーム フライングダッチマン,ジーザス
国籍 オランダ
生年月日 1947/4/25
出身地 ヘームステーデ(アムステルダム)
ポジション FW(CF),MF(OH)
身長 176cm
体重 67kg
代表デビュー 1966/9/7vsHUN(通算48試合,33得点)
管理人評価 SSS
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1957-64 オランダ アヤックス - -
1964/65 オランダ アヤックス 10 4
1965/66 オランダ アヤックス 19 16
1966/67 オランダ アヤックス 30 33
1967/68 オランダ アヤックス 33 25
1968/69 オランダ アヤックス 29 24
1969/70 オランダ アヤックス 33 23
1970/71 オランダ アヤックス 25 21
1971/72 オランダ アヤックス 32 25
1972/73 オランダ アヤックス 26 16
1973/74 オランダ アヤックス 2 3
スペイン バルセロナ 26 16
1974/75 スペイン バルセロナ 30 7
1975/76 スペイン バルセロナ 29 6
1976/77 スペイン バルセロナ 30 14
1977/78 スペイン バルセロナ 28 5
1979 アメリカ合衆国 ロサンゼルス・アズテックス 27 14
1980 アメリカ合衆国 ワシントン・ディプロマッツ 27 10
1981 アメリカ合衆国 ワシントン・ディプロマッツ 5 2
1980/81 スペイン レバンテ 10 2
1981/82 オランダ アヤックス 15 7
1982/83 オランダ アヤックス 21 7
1983/84 オランダ フェイエノールト 33 11
獲得タイトル
アヤックス
1965/66 オランダリーグ優勝
1966/67 オランダリーグ優勝
1966/67 オランダカップ優勝
1966/67 オランダリーグ得点王
1967/68 オランダリーグ優勝
1969/70 オランダリーグ優勝
1969/70 オランダカップ優勝
1970/71 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1970/71 オランダカップ優勝
1971/72 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1971/72 オランダリーグ優勝
1971/72 オランダカップ優勝
1971/72 オランダリーグ得点王
1972 UEFAスーパーカップ優勝
1972 インターコンチネンタルカップ優勝
1972/73 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1972/73 オランダリーグ優勝
1973 UEFAスーパーカップ優勝
1981/82 オランダリーグ優勝
1982/83 オランダリーグ優勝
1982/83 オランダカップ優勝
バルセロナ
1973/74 スペインリーグ優勝
1977/78 スペインカップ優勝
フェイエノールト
1983/84 オランダリーグ優勝
個人タイトル
1971 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1973 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1974 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1999 欧州20世紀最優秀選手(IFFHS)
コメント
 奇妙なオランダ語とスペイン語を操るこの稀代の天才は、大変失礼な事にも変人と目される事もしばしばである。我々には考えの及ばない摩訶不思議な方程式が彼の頭の中を支配している。ちなみにレオナルド・ダ・ビンチやアルベルト・アインシュタイン、パブロ・ピカソも大変な変人だったそうだ。彼らを変人と呼ぶのは決まって凡人なのだが…。
 ヨハン・クライフは1947年4月25日、オランダの首都アムステルダムはヘームステーデに住居を構えるヘニー・クライフの次男として生を受けた。家は青果店を営んでおり食べるものには困らなかったが、少年時代のクライフはとにかくやせ細っていた。周りの大人は皆「この子は結核ではないか」と心配したそうだ。しかしヨハン少年にしてみればどこ吹く風。元気にストリートでサッカーにいそしんだ。
 10歳で地元クラブのアヤックスに入団し、めきめきと頭角をあらわすと、1964/65シーズンに17歳にしてデビュー。やはりデビュー当時もやせ細っており兵役も免除されたほどだったが、ことピッチにおいてはしなやかで力強く、体格的なハンデなど微塵も感じさせなかった。加えてどんな巨漢DFにぶつかっても、酷いファールを受けても、大きな怪我をしたことなど一度も無かった。クライフ曰く「ストリートで転び方を学んだ」成果だった。
 アヤックスで目覚しい活躍を見せるクライフの名はすぐさまスカウト達のノートに記され、バルセロナが彼を獲得せんと積極的な動きを見せた。1970年には入団直前まで交渉が進み、このままバルセロナへ移籍するかと思われたが、レアル・マドリードの意中にあったスペインサッカー連盟が外国人選手に関する規定を急遽改定。強引に割り込み両者の仲を切り裂いた。当時のクライフはまだ期待の若手に過ぎず、バルセロナもカタルーニャの誇りのため、潔くクライフをあきらめた。
 移籍交渉が破談となりオランダに留まったクライフだったが、彼はアヤックスで信じられないような栄光の時代を築く。名称リヌス・ミケルスの下、トータルフットボールの完成に至ったアヤックスは、1970/71シーズンから1972/73シーズンまでUEFAチャンピオンズカップ3連覇を達成。1971/72シーズンには3冠の偉業を成し遂げ世界にヨハン・クライフの名を知らしめると、1973年にバルセロナが200万ドルもの移籍金を支払い遂にクライフを獲得。この金額は当時としては異例の金額であり、3年前にバルセロナがアヤックスに提示した額の約13倍にも昇る。クライフの加入したバルセロナは22戦連続無敗の快進撃を続け、1974年2月のクラシコではサンチャゴ・ベルナベウでレアル・マドリードを5-0で粉砕。圧倒的な強さを見せ付け、1973/74シーズンのリーグチャンピオンに輝いた。
 1974年には西ドイツで行われたワールドカップでオレンジ旋風を巻き起こす。グループリーグから他を寄せ付けない力量を見せつけると、準決勝のブラジル戦では前大会王者をまるで問題にしない素晴らしいパフォーマンスを披露。クライフはこの試合で見事なボレーシュートを見せた。決勝の西ドイツ戦こそパウル・ブライトナーとゲルト・ミュラーのゴールの前に屈したが、ゲーム開始早々にクライフが見せたドリブル突破は、ウリ・ヘーネスのファウルを誘いPKによる得点を演出。同年のバロンドールも獲得し、後世まで名を残す偉大なフットボーラーとなった。
 しかし彼が名を残すのは何も選手としてだけではない。選手生活の晩年にはアメリカ大陸へと渡り1984年にフェイエノールトでキャリアを終えると、現役引退僅か2年後にアヤックスの監督に就任。1988年にはカンプ・ノウに再びその勇姿を見せた。クライフがバルセロナの監督に就任した当初は、結果が出ないこともありソシオからの反発も少なからず見られたが、選手がクライフのサッカーを理解した頃にはバルセロナはすっかり欧州最強のチームへと進化していた。ロマーリオやフリスト・ストイチコフといった一流の選手を揃えてはいたが、彼らが団結し力を発揮するにはクライフのコントロールとカリスマ性が不可欠だったのだ。バルセロナは1991/92シーズンに初めてUEFAチャンピオンズカップで優勝を果たし、クラブ史上初のリーグ4連覇も記録した。
 クライフは1991年に生死を彷徨うほどの重い心臓病を患った。1996年にバルセロナの監督を辞任して以降、監督業から身を引いているが、コメンテーターとして、オランダフットボールの父として、昔と変わらぬ存在感を堅持し、今でも彼は革命の象徴だ。クライフが世界を席巻した1970年代前半から既に30年余り。時代、いまだ彼に追いつけず。

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