フランツ・ベッケンバウアー
Franz Beckenbauer
フルネーム フランツ・アントン・ベッケンバウアー
Franz Anton Beckenbauer
ニックネーム デア・カイザー(皇帝)
国籍 西ドイツ
生年月日 1945/9/11
出身地 ジーギング(ミュンヘン)
ポジション MF(CH),DF(LSB,CB)
身長 181cm
体重 75kg
代表デビュー 1965/9/26vsSWE(通算103試合,14得点)
管理人評価 SSS
シーズン 所属クラブ 試合数 得点数
1954-58 西ドイツ SCミュンヘン06 - -
1958-65 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン - -
1965/66 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 33 4
1966/67 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 33 0
1967/68 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 28 4
1968/69 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 33 2
1969/70 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 34 6
1970/71 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 33 3
1971/72 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 34 6
1972/73 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 34 6
1973/74 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 34 4
1974/75 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 33 1
1975/76 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 34 5
1976/77 西ドイツ バイエルン・ミュンヘン 33 3
1977 アメリカ合衆国 ニューヨーク・コスモス 15 4
1978 アメリカ合衆国 ニューヨーク・コスモス 27 8
1979 アメリカ合衆国 ニューヨーク・コスモス 12 1
1980 アメリカ合衆国 ニューヨーク・コスモス 26 4
1980/81 西ドイツ ハンブルガーSV 18 0
1981/82 西ドイツ ハンブルガーSV 10 0
1983 アメリカ合衆国 ニューヨーク・コスモス 25 2
獲得タイトル
西ドイツ代表
1972 欧州選手権優勝
1974 ワールドカップ優勝
バイエルン・ミュンヘン
1965/66 西ドイツカップ優勝
1966/67 UEFAカップウィナーズカップ優勝
1966/67 西ドイツカップ優勝
1968/69 西ドイツリーグ優勝
1968/69 西ドイツカップ優勝
1970/71 西ドイツカップ優勝
1971/72 西ドイツリーグ優勝
1972/73 西ドイツリーグ優勝
1973/74 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1973/74 西ドイツリーグ優勝
1974/75 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1975/76 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1976 インターコンチネンタルカップ優勝
ニューヨーク・コスモス
1977 北米リーグ優勝
1978 北米リーグ優勝
1980 北米リーグ優勝
ハンブルガーSV
1981/82 西ドイツリーグ優勝
個人タイトル
1966 西ドイツ年間最優秀選手
1968 西ドイツ年間最優秀選手
1972 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1974 西ドイツ年間最優秀選手
1976 欧州年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
1976 西ドイツ年間最優秀選手
コメント
 フランツ・ベッケンバウアーは楽観主義者である。彼の周りの人間はそれを知っているし、彼自身もそれを自覚している。それでいて、その楽観主義者は数多くの栄光を手にしてきた。
 フランツ少年は第2次世界大戦終戦後、1945年9月11日にミュンヘンのジーギングに生まれた。戦争はドイツの敗戦をもって終了し、人々は敗戦のショックに打ちひしがれながらも、復興に向けて忙しい日々を送っていた。フランツの父は郵便局の局長という安定した職に就いていたので、簡素ながらも平和な少年時代を過ごす事が出来た。
 1954年、フランツ8歳の時、一つの転機が訪れる。1950年にブラジルで行われたワールドカップへの参加を認められなかった西ドイツが、そのわずか4年後にスイスで行われたワールドカップで優勝を果たしたのである。それも当時世界最強を誇ったハンガリー代表を下しての優勝だっただけに、西ドイツ国民はこの勝利に大いに勇気付けられた。フランツ少年はこの大会で活躍を見せた1.FCカイザースラウテルンのエースで自国代表のキャプテン、フリッツ・バルターに強い憧れを抱くようになる。後に「ベルンの奇跡」と称されたワールドカップ決勝戦の終了のホイッスルが鳴った直後、フランツはラジオの前から急いで立ち去り、友達と広場で決勝戦の再現をしたという。ジーギングのストリートサッカーでは、いつもフランツがフリッツ・バルターの役を演じていた。
 やがて友達とのボール遊びだけでは満足できなくなったフランツは、街のクラブチームへの入団を決意する。その当時、ミュンヘンには2つのクラブがあった。1つは西ドイツ屈指の名門1860ミュンヘン、もう一つはミュンヘン第2のクラブ、バイエルン・ミュンヘン。当初は1860ミュンヘンの下部組織でプレーしていたが、1860ミュンヘンと行った練習試合でプロの選手達は乱暴なプレーを連発。それに嫌気が差したフランツは1958年にバイエルン・ミュンヘンのユニフォームに袖を通す。同時期に保険勧誘員の訓練生を辞め、プロサッカー選手としての将来を見出す。1963年に西ドイツのプロリーグ、ブンデスリーガが発足。「1つの街に1つのクラブを」という西ドイツサッカー協会の意向により、ミュンヘン市からは1860ミュンヘンが選ばれ、バイエルンは2部リーグからのスタートを余儀なくされる。だが、フランツ・ベッケンバウアー率いる完全無欠の集団はすぐさま1部リーグ昇格を決め、やがてバイエルンの黄金時代が到来する。
 プロのサッカー選手となったベッケンバウアーは1965年9月26日、弱冠20歳で西ドイツ代表としてデビューを飾る。卓越した技術力と強靭な肉体を併せ持つこの類稀な選手は、すぐさま欧州中にその名を轟かせ、この先十数年の間、世界最高の名手としてサッカー界に君臨することになる。翌年行われたイングランド・ワールドカップでは西ドイツのキーマンとして攻守に大活躍。スイス戦で2ゴール、ウルグアイ戦で1ゴール、そして準決勝のソ連戦で伝説のGKレフ・ヤシンを相手に20メートルのミドルシュートを叩き込む。ベッケンバウアーの活躍によって西ドイツは決勝まで勝ち進み、敗れはするものの決勝戦でイングランドのエース、ボビー・チャールトンをベッケンバウアーは完璧に押さえこんだ。クラブレベルでは1968/69シーズンに初めてのリーグ優勝を果たし、いよいよ皇帝と呼ばれる時期に差し掛かる。
 1970年ワールドカップ。ベッケンバウアー自身にとって、もっとも印象に残る試合がメキシコシティのアステカスタジアムで行われる。俗に「アステカの死闘」と呼ばれる準決勝イタリアvs西ドイツは、史上最もエキサイティングなシーソーゲームとして、今尚語り継がれている。後半ロスタイムに西ドイツが同点に追いつき、延長戦前半に勝ち越し。しかしその後、イタリアに2点を追加され再び逆転。西ドイツも1点を返し、また同点に追いつくという凄まじい試合だった。ベッケンバウアーは延長戦に入る直前に相手選手の悪質なタックルにより右肩を脱臼。ピッチの外に運び込まれ試合続行は困難と思われたが、肩をバンテージでぐるぐる巻きにし、無理やり固定して延長戦を戦い抜いた。西ドイツは同点に追いついた直後に再び勝ち越され準決勝で涙を飲んだが、ベッケンバウアーの気迫は世界中の人々に感動を与えた。
 2年後に行われた欧州選手権では西ドイツ史上最強との呼び声高いチームを創り上げ、ベッケンバウアーが概念を打ち立てたリベロの存在がクローズアップされる。攻撃に参加しゲームの指揮を執るDFは欧州選手権優勝を果たし同年のバロンドールを獲得。ピッチ上の全てのプレーヤーを意のままに操るその姿は「ピッチ上の最高権力者」、つまり「皇帝」と呼ばれるようになり、バイエルンでもUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たすまでに上り詰めた。母国西ドイツで行われたワールドカップではクラブレベルでもライバルだったヨハン・クライフと西ドイツ代表vsオランダ代表という形で激突。完璧な試合運びでクライフをゲームから消し、遂にベッケンバウアーのチームが世界一に輝く。フリッツ・バルターに憧れたあの日から、20年の歳月が経過していた。
 その後、バイエルンでUEFAチャンピオンズカップ3連覇を達成し、ヨーロッパで全てのタイトルを取り終えると、1977年にサッカー不毛の地アメリカのニューヨーク・コスモスへと旅立つ。ここで幸運にもブラジルの王様ペレとプレーする機会を得、ペレが同年にコスモスを去った後は新たなサッカーの伝道師として1980年までの4年間をアメリカで過ごす。ペレと共にプレーした1年間は、本人曰く、「最も凝縮された1年間」だったそうで、その後、ハンブルガーSVで2シーズン、再び戻ったコスモスで1シーズンを過ごし、1983年、栄光に包まれた現役生活を終えた。
 ピッチに別れを告げたベッケンバウアーだったが、彼の物語はまだまだ終わらない。現役引退後、今度は監督として非凡な才能を発揮し始める。1986年のワールドカップで西ドイツ代表を率い決勝進出を果たし、1990年には2度目のワールドカップ優勝を経験。ベッケンバウアーは本来は監督のライセンスを持っていなかったが、西ドイツサッカー協会はチームシェフという特別な役職を彼に与え、西ドイツ3度目となる世界制覇を成し遂げたのである。
 1990年に東西ドイツが併合したことにより、西ドイツ最後の代表監督となったベッケンバウアーは、その後、バイエルンの会長に就任。その他にもドイツサッカー協会副会長と、2006年ワールドカップ招致委員会会長を兼任し、1990年代前半には低迷していたバイエルンを再び世界屈指のクラブに押し上げ、ドイツサッカー界に確立されたユースシステムを導入。そしてかつての仲間達であるギュンター・ネッツァーやユルゲン・クリンスマンらと共に2006年のワールドカップ誘致に成功し、今度は大会組織委員長として、数え切れないほど多くの肩書きを背負い、多忙な、勝者の毎日を過ごしているのである。

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