ラズロ・クバラ
Laszlo Kubala |
 |
フルネーム |
ラズロ・クバラ・シュテツ
Laszlo Kubara Stecz |
| ニックネーム |
ラッシ,ラディスラオ(スペイン名) |
| 国籍 |
ハンガリー,チェコスロバキア,スペイン |
| 生年月日 |
1927/6/10 - 2002/5/14 |
| 出身地 |
プダペスト |
| ポジション |
FW(ST),MF(OH) |
| 身長 |
176cm |
| 体重 |
82kg |
| 代表デビュー |
1946/10/27(通算28試合,15得点) |
| 管理人評価 |
SS |
| 所属クラブ |
| 1939-44 |
ガンツ |
| 1944-46 |
フェレンツバロシュ |
| 1946-48 |
スロバン・ブラチスラバ(チェコスロバキア) |
| 1948-49 |
バサス・ブダペスト |
| 1951-61 |
バルセロナ(スペイン) |
| 1963-65 |
エスパニョール(スペイン) |
| 1965-67 |
FCチューリッヒ(スイス) |
| 1967-69 |
トロント・ファルコンズ(カナダ) |
| 主なタイトル |
| - |
- |
| コメント |
ラズロ・クバラは1927年にハンガリーのブダペストで生まれ、1950年代に活躍した選手だが、一世を風靡したマジック・マジャールの一員ではない。ハンガリー代表が隆盛を極めた時代、彼はバルセロナで王国を築いていた。若くして祖国を放れチェコスロバキアへと生活の拠点を移し、故郷への郷愁が募れば帰郷。そして再び国外へと、自由奔放な生き方を実践した。キャリアの終末にはアメリカ大陸へと渡っている。
1939年、クバラはガンツというクラブと契約を交わした。彼は弱冠12歳の少年で、身分証明書の偽造によってこの契約にこぎつけた。しかしクバラにとって年齢的なハンデなど皆無に等しかった。デビュー戦で5ゴールを挙げすぐさまチームの中心にまで上り詰め、17歳にして名門フェレンツェ・バロシュに入団。レギュラーポジションを掴む。
父が亡くなった1944年、家族と共にチェコスロバキアへと移住。スロバン・ブラチスラバと契約を交わし、チェコスロバキア代表としてのデビューを飾る。彼にとって2つ目の祖国だった。しかし、ここでの生活は長くは続かなかった。1947年にハンガリーのバサス・ブダペストからのオファーを受け再び生まれ故郷の地を踏み、同クラブをリーグ優勝に導く。クバラはハンガリーサッカー界の英雄だったが、ハンガリー政府からすると心地よい存在ではなかった。共産党主義が支配するハンガリーでは、自由を求めるクバラは異分子だったのだ。
やがて1つ目の祖国との決別の時がやってくる。クバラはある日の夜、難民用のトラックに乗り込み、妻と子供の待つオーストリアへと脱出。そして紆余曲折を経てスペインのバルセロナへと移籍した。クバラはようやく安住の地を見つけ出したのだ。バルセロナはクバラの入団と共に新スタジアムの建設を発表。後にカンプ・ノウと名付けられるこのスタジアムで、クバラは絶対的なリーダーとして君臨した。1953年にはスペイン代表としてもデビューし、イベリア半島の大国が3つ目の祖国となった。スペイン代表としては19試合に出場、11得点を挙げている。
クバラは自らの活躍で4回のリーグ優勝、5回のスペイン国王杯優勝、そしてUEFAカップの前身であるフェアーズカップで1回の優勝をバルセロナにもたらした。ずっとクバラの天下が続くものと思っていた。しかしアルゼンチン人監督エレニオ・エレラがバルセロナによってやってくると、事態は急変する。エレラは自分以上に影響力のある存在を認めず、若き日のルイス・スアレスをチームの中心として据えた。出場機会の激減したクバラは他チームへの移籍を余儀なくされ、エスパニョールへと移った。
同クラブで中心選手として活躍した後、スイスのFCチューリッヒへと移籍。キャリアの最後はカナダのトロント・ファルコンズで迎え、1969年に現役生活を終えた。その直後にスペイン代表監督に就任し、1980年まで10年以上もの間、同国代表監督を務める。その後はバルセロナのフロントに就き、病気で職を辞する1999年まで愛するクラブを支え続けた。 |
|