長崎街道(長崎から俵坂)
全行程 約59.7キロメートル
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↓街道の各場所へジャンプします。
長崎 本河内 日見峠 日見1 日見2 矢上 古賀 井樋尾 久山 貝津 諫早 破篭井
鈴田 大村 松並 竹松 郡川 松原  江の串 千綿 彼杵1 彼杵2 俵坂


 長崎県内における長崎街道の測量は矢上の領境柱から始められました。
長崎市から街道歩きを始められる方には日記が前後しますし、逆に測量していますので読みにくいと思います。

測量順路でご覧になる場合は 
 日見2 → 矢上 → 古賀 → 井樋尾 → 久山 → 貝津 → 諫早 → 破篭井 → 鈴田 → 大村 →
 松並 → 竹松 → 郡川 → 松原 →  江の串 → 千綿 → 彼杵1 → 日見1 → 日見峠 → 本河内 →
 長崎 → 彼杵2 → 俵坂 です。

 正確な地図を残していますので、現在の1万分の1の地形図にコンピューターに落としても
ズレが少ないのには驚かされます。
井樋尾峠で1ヶ所だけ東と南との方向間違いがありましたが、
忠敬さんも、200年後にコンピューターで調べられるとは想像していなかったでしょう。

 長崎県内における長崎街道は、日野峠(鈴田峠)付近を除いて、家族連れでも充分歩けると思います。
松原から彼杵までは街道と海岸線が近く、両用しているので道が不明瞭な部分がありましたが、
他の古地図から補いました。

 大村市街については、元禄国絵図によると、旧長崎街道は富松神社前を通っていたようです。
いつから南へ移されたのか、その理由は?今後の研究課題です。旧道も是非歩いてみてください。

『大村郷村記』から書き出した地名等・・・日野峠(鈴田峠・硯石)から俵坂まで
伊能測量順路に合わせています。



日見2
伊能忠敬測量日記より

文化九年 十一月二十二日
(1812年12月25日) 冬至。曇天。

 手分けして先手は六っ前
(午前7時前)に、後手六っ後に矢上宿又町を出立した。後手は我等(われ。伊能忠敬)・今泉・尾形・箱田・甚七。

 矢上村。長崎街道の御料所日見村と佐嘉領矢上村の界の御料所界杭より初める。矢上村枝鳥合場。枝五次郎。枝東房
(東望)









背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日

矢上
昨日海辺から打ち出した印に繋げる。1十二町九間一尺(1,326m)

 目鑑橋
(番所橋。当時は眼鏡橋であった)を渡り七間(12.7m)。枝矢上駅問屋場。二町二十六間(265m)。左に二町(218m)程引き込んで大王権現社(矢上神社)。左に二町(218m)ばかり引き込んで一向宗教宗寺(シーボルトの江戸参府紀行によると、オランダ人達はここで昼食を摂るのが通例であった)。字馬場、又は平野という。八竜川(八郎川)巾一十二間(21.8m)。枝平野。枝藤ノ尾。








昭和57年の大水害で川筋が変わり、街道も分かりづらくなってしまいました。
川筋はそれ以前の航空写真からトレースしています。























背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日

古賀
楠川(八郎川の中流域の名)巾九間(16.39m)、中央が界(川の中央が境で、天領と佐賀領との境)。高来郡御料所古賀村字広ガリ(広刈)。楠川を斜めに渡り一十二間(21.82m)。字洗切。字松原。字田畑(田端)。字向名。字遠干田(トボシダのルビあり・唐干田)。土橋三間(5.45m)。左に一向宗福瑞寺。字太刀(立館)。字軣。右は諫早へ出る近道で三里(約12q)という。枝田ノ頭。枝垂山(樽山)。鎧川三間(5.45m)。杭ノ平。字中野。字平松。立場。











背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日

井樋尾
背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日

字ツキモウシ。字平木場。枝長里名。彼杵郡佐嘉領井樋尾
(イビノヲのルビあり)村。井樋尾峠で先手が初めに残した印に繋げる。一里三十一町五十四間五尺(7,409m)。総測二里十町三十間(9,000m)。それより先は測らない。小船越村(諫早市小船越町)へ八っ半頃(午後2時半頃)に着く。本陣は庄屋の卯兵衛宅(現在の小船越町800番地付近と推定)、別宿は貞右衛門宅。当村詰で郡方の立川喜右衛門が出て来た。

 
(手分け)坂部・永井・門谷・保木・佐助は彼杵郡佐嘉領井樋尾村の井樋尾峠に印を付けて初めた。高来郡久山村(諫早市久山町)枝茶屋分。久山川巾三間(5.5m)。久山村で中食。

久山
赤谷坂(赤松坂)。貝津村双原(サウハルのルビあり)(双場谷)

貝津
枝宿分。貝津川巾(東大川)五間(9m)印迄一里九町五十八間(5,015m)。これより海辺へ横切り津水村(諫早市津水町)を測るために印した。貝津川巾五間(9.09m)、小船越村。右諫早と左大村の追分け(現在、島原街道と長崎街道を記した新しい石柱が建っている)印を打って止める。四町一十六間(465m)、長崎街道が合計一里一十四町一十四間(5,480m)。・・略・・それより測らずに真崎村へ八っ半頃(午後2時半頃)に着く。止宿は百姓の六右衛門宅と吉右衛門宅。この夜は曇り晴れで、小船越村で観測(天文測量)する。

諫早
十一月二十三日

 曇り晴れ。後手は我等・今泉・尾形・箱田・甚七。六っ後
(午前7時過ぎ)小船越村を出立した。尾形と善蔵は又手分けをして諫早街道を測る。

 高来郡佐嘉領小船越村。大村街道と諫早街道の追分け
印から初める。大村街道
(長崎街道の一部。つまり大村への街道)を測る。止宿の入り口に印を残す。七町二十一間(802m)。測所へ打ち上げ一町五十四間(207m)。又、印より始めて栄田村枝栄昌駅(永昌。昔は重要な継ぎ場を駅といった)の大村と長崎街道の追分け。当二日に残して置いた印に繋げる。一十町二十六間二尺(1,139m)。野陣で小休止。

破篭井
大渡野(ヲワタノのルビあり)村。右に口留番所(大渡野番所)。破篭井村(諫早市破篭井町)

鈴田
日野峠(鈴田峠。『大村郷村記』では硯石峠)。野陣で小休止。高来郡佐賀領破篭井村と彼杵郡大村領鈴田村の界で先手が初めた印まで測る。一里二町五十九間五尺(4,254m)、通ばかりで一里二十町四十七間一尺(6195m)。止宿からの打ち上げが一町五十四間(207m)

 日野峠で小休止して別れた小手分け
(追分から諫早への街道を測量)と待ち合わせる。それより測らずに大村領彼杵郡鈴田村の庄屋尾崎覚右衛門宅で昼休み。大村城下へ八っ半頃(午後2時半頃)に着く。

 先手の坂部・永井・門谷・保木・佐助は高来郡破篭井村と彼杵郡鈴田村の界にを印してから測り初める。字釜坂。小松川
(内倉川)巾六間(11m)。字小松(古松)。鈴田川巾六間(11m)

『大村郷村記』に記された地名等
佐賀領諫早境硯石…鎌坂の辻…いこひ場の辻日焼の辻…陣の内郷境…古松川石橋・古松の宿…古松権現宮薗出口…壱里塚…舞木…鈴田本川石橋…白鳥川石橋…日置の坂峠…稲結川内川

大村
枝下鈴田の内、字岩松。鈴田番所。字針尾。針尾坂。針尾川巾三間(5.5m)。大村。荒川巾三間(5.5m)。荒川坂。字木場。字須田ノ木。字六本松。大村城下市中の入り口、田町通り諫早町の三辻に印に打止める。通ばかりで一里二十三町三十一間(6,493m)
 鈴田村の庄屋の尾崎覚右衛門宅で中食をとった。

 九ッ半(午後1時)頃に大村、大村上総介の城下に着く。止宿本町三丁目本陣 萬屋又太郎、別宿同断、日野屋勇右衛門、同じく森屋益三郎。着後に佐嘉の江頭伊平と荒木丈右衛門が来る。当町奉行の川勝六郎兵衛、市中見張の一瀬喜左衛門、町与力の佐藤仁助、下役の一瀬右兵衛、内海郡治が出て来る。大村侯(大村純昌)より使者の山口忠兵衛により肴を贈られた。この夜は曇りで少し観測した。

◎本隊
十一月二十四日 晴れ曇り。

 大きく手分けする。坂部・永井・門谷・保木・甚七は同所を出立して佐嘉領
(諫早市大村湾沿岸部)を測る(この後、西彼杵郡長与町・同 時津町・長崎市琴海町・西海市と大村湾の向かいの沿岸を測量し、佐世保で伊能忠敬の本隊と出会う)。我等・今泉・尾形・箱田・佐助は同所(大村)に逗留する。彼杵郡大村石橋(大上戸橋)より初める。即ち長崎街道の木戸を入ると大村城下市中水主(カコのルビあり)(大村市水主町二丁目)。石橋巾二間(3.6m)。木戸がある。本町四丁目。測所前で二町五十七間(322m)。本町三丁目。左の高札の前に印を残す。一町四十一間(184m)。・・略・・又印より始める。本町二丁目。これより海辺と街道を両用する。左は八幡横町で二町(218m)ばかり引き込んだ所に八幡宮がある。本町一丁目。海辺と街道の追分けに印を残す。二町二十五間(264m)。街道と海岸の両用が三尺(0.9m)。長崎街道を測る。諫早横町で昨日先手が打止めた印に繋げる。一町五十三間四尺五寸(207m)。街道が合計六町一尺六寸(655m)。又、印より初める。海辺と街道を両用して市中を測る。・・略・・総測二里四町四十九間五尺(8,381.5m)。それ(鈴田村)より乗船して大村城下へ七っ後に宿へ帰る。この夜晴れ曇り。晴れ間に観測する。・・略・・

『大村郷村記』に記された地名等
稲結川内川…荘屋門前…番所並びに制札場…岩松大権現…岩松坂…針尾川石橋…蕨の尾峠…荒河石橋荒河の坂…三天社鳥居…たりかと川六本松の墓吹上追分道西念川…千手観音堂・春日大明神
芭蕉塚…円融寺草場川石橋裏町出口角…諌早町入口


松並
十一月二十六日 曇天で烈風。(十一月二十五日は鈴田村を佐賀領境まで測る)

 同所に逗留して測る。六っ後
(午前7時過ぎ)に出立した。二十四日に市中で測り初めた大村石橋より初める。長崎街道を上へ(北へ)向かって測る。大村川(大上戸川)石橋(大上戸橋)十間(18m)。右に彦山社(観音寺跡)。枝池田分の内、字久出津(クイデツのルビあり・杭出津)。左に一向宗千年山正法寺。同上字前原口。字放虎ノ新町、又は桜ノ馬場という(付近を放虎原という)。街道の真ん中に桜の並木がある。総数二百三十五本あるという。花盛りには長崎やその他の見物人が群集まるという。小休止。










『大村郷村記』に記された地名等
諫早町通横丁…大神宮…本陣…高札場及び駅場…本町出口石橋…水主町出口…諸藤川石橋…大上戸川石橋…彦山大権現の社及び観音寺…正法寺…杭出津馬場曲り目石橋…原小路口傍示石(現存)藤崎出口…左右並木の古松数千株…大曲り…往昔の往還道は大曲りより聖宝寺境内山門へ通る…小曲り並木の松…銭壷小橋並木の桜百弐拾余株

竹松
放大術小頭の千葉茂(千葉卜枕)が植えた木。左に祇園社(八坂神社)と名松がある。放虎ノ松という。左に一町(109m)ばかり引き込んだ所に真言宗金元山聖宝寺、領は十二石。郡村枝後原口。枝竹松。松野屋惣右衛門宅で昼休み






『大村郷村記』に記された地名等
千葉土佐之助屋敷…祇園の社ニ重馬場外れ…聖宝寺山札の本郡村の内、原口村境金元山聖宝寺)鳥居の前壱里塚・駕立場…幸天社鳥居前…荘屋門前宮小路家外れ石橋高崎川石橋福重村境沖田下井手土橋

郡川
枝皆同。郡川を飛び石で四十五間(82m)渡る。枝福重。枝松原の人家入り口に打ち止めて印を残す。通ばかりで一里三十二町五十三間(7,514.5m)。八っ半後(午後2時半過ぎ)に宿へ帰る。この夜は晴天で観測する。

(二十七日、二十八日、二十九日は大村湾沿海を測る)


十一月晦日
(1813年1月2日) 終日曇天。

 朝六っ後
(午前7時過ぎ)松原馬場を出立した。同所の印より初めて長崎街道を測る。測所迄四十五間(82m)




『大村郷村記』に記された地名等
福重村境沖田下井手土橋…高尾坂…郡川…荘屋物成札場…堀池出口…松原村境三角田…松原川石橋…荘屋門前観音堂…八幡社前

松原
字松原浜、海辺へ出て昨日打ち止めた印に繋げる。測所より六町四十六間五尺(740m)。これより街道と海辺を両用して測る。鹿島への渡り口に印を残す。三町三十間(381.82m)。瀬戸続きを鹿島へ渡り巾三十間(55m)。片打ち一町十八間(142m)

 又、
印から始めて裸鼻。片打ち三十間
(55m)。無留路川尻(武留路川)は巾五間(9m)。江ノ串村枝無留路。才貫田川尻巾三間(5.5m)。枝才貫田。


『大村郷村記』に記された地名等
宿出口…変配川石橋…無量寺…壱里塚…鹿の嶋弁財天前…さやの御前…餅の濱川石橋…駄口坂道…才貫田川石橋

江の串
字江串の里。庄屋の峯治蔵(現在は国道から一段下がった場所に庄屋宅跡の石碑がある。三根治蔵では)宅で小休止。街道と海辺の追分けの印迄、二十七町四十八間(3,033m)。合わせて三十一町十八間(3,414.6m)

 これより小さく手分けして、街道を我等・今泉。街道と海辺の両用と海辺を尾形・箱田・佐助。江ノ串川尻巾三十間
(54.5m)。字串ノ鼻(串島ノ鼻)。千綿(チワタのルビあり)村枝平原。字駄地。街道の測量分と合流して測る印迄、一十八町四十八間四尺(2,052m)

『大村郷村記』に記された地名等
小谷川土橋荘屋古屋敷跡…清水小坂下…六地蔵千部塔…江串川土橋千綿村境串川石橋…饂飩坂…駕立場…平原壱里塚安養寺…柴取石…橋の浦川石橋

千綿
直ぐに又小さく手分けして、字瀬戸。右に浜宮社(水神宮)がある。千綿川尻を渡り三十二間三尺(59m)。街道と海辺を合わせて測り、一十三町二間三尺(1,423m)。沿海合計一里二十七町九間一尺(6,889m)、横に二町一十八間(251m)、街道は七町三十一間五尺(821.5m)
 小さく手分けして街道を測るのは我等・今泉・嘉平治・善蔵。江ノ串村の海辺の
印より初める。千綿村枝平原。字駄地。海辺で手分けした組と合流して測る印迄、一十六町一十八間
(1,778m)。

 直ぐに又手分けして、枝峯ノ平
(東彼杵町瀬戸郷)。千綿川巾一十七間(31m)、枝千綿浦。又町とも。町並は人家が百四十五軒。海辺へ横切り二十七間(49m)。合流して測る印迄、一十三町三十九間(1489m)。手分けした街道の合計が二十九町五十七間(3,267m)。両方の総測二里三十町五十六間(11,229m)。それより七、八町(800m位)戻って、千綿村の庄屋の田中清太夫宅で昼休み。それより乗船して彼杵(ソノキのルビあり)村へ七っ半頃(午後4時頃)に着く。止宿は本陣が庄屋の山道住右衛門宅、別宿が三木屋又右衛門宅。この夜は大曇天で測れない。当町の乙名辻源左衛門、年寄の渡辺才七、別当の佐藤常治が出て来る。


十二月朔日
(1日) 曇天で微雨。

 午後は晴れ。朝六っ頃
(午前7時頃)に彼杵村を出立した。乗船して千綿浦の印より初めて、沿海を測る。街道も同じなので両用する。

『大村郷村記』に記された地名等
瀬戸郷六地蔵の本…傍示石
(龍頭泉道石柱)千綿川…町入り口角川石橋…制礼…萬部塔…町出口田尻川石橋

彼杵1
彼杵村ゲントウ川尻(江頭川)巾三間(5.5m)。彼杵川尻を渡り巾三十間(54.6m)印まで二十三町四十八間(2,596m)、それより長崎街道へ横切り、彼杵町の四辻にある制札場の石垣の角へ繋ぎ五十八間(105.45m)。即ち明けて酉年(文化10年)の嬉野街道(嬉野への街道、つまり長崎街道の一部)を残す。又、海辺の印より初める。右に祇園社。船入の小さい入江は巾十五間(27m)・・略・・

(この後は川棚から佐世保へ向かって測量する)

『大村郷村記』に記された地名等
彼杵村境田尻菜切(名切)千綿村境田尻…小濱川石橋…高磯川石橋古金屋川石橋…壱里塚…げんとふ川石橋…本町川(彼杵川)石橋千部塔(本町万部塔)本町堀川石橋(思案橋?)

日見1
文化十年九月十五日(1813年10月8日) 晴天。

 六っ時頃
(午前6時頃)に飯香浦名を出立した。・・略・・長崎街道へ出て、去る十一月二十二日に残した佐嘉領矢上村と御料所日見村の境にある御料所界杭へ繋げる。横に二町四十間三尺(292m)。これより長崎街道を測る。字腹切坂。右に馬頭観音がある。日見本村の人家、長崎街道駅日見宿。日見川の石橋(三国屋橋)八間(14.5m)。測所前に打ち止め。街道は六町三十三間(714.5m)沿海・街道・横物三っ合わせて総測一里二十四町六間四尺五寸(6,558m)。八っ時前(午後2時前)日見駅へ着く。本陣は馬駅(馬継ぎ場・現在は田川歯科)の伝兵衛宅。御用取次の松尾五郎七、外に文蔵、日見村浦見番の野上勝右衛門と橋爪七左衛門が出て来る。この夜は曇り晴れで、観測する。


九月十六日 曇り晴れ。

 六っ時後
(午前6時過ぎ)に高来郡日見村を出立した。総一手(合同で)で測る。同駅の測所から初めて、長崎街道を測る。字西ノ下。枝河内坂下郷の内、字岩間。字山口。字松尾。馬川(日見川の上流)巾五間(9m)。河内坂下郷字峠ノ下。








1/10000地形図に松浦史料博物館の伊能大図1/36000をかさねたもの。

背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日

日見峠
字梨木坂。字岩谷、字日見峠、茶屋の要右衛門宅で小休止。
 彼杵郡長崎村枝本河内郷字日見峠。字高野平
(現在の日見トンネル西口上)。
1/1000地形図にアメリカ議会図書館蔵の伊能大図1/36000をかさねたもの
1/10000地形図に松浦史料博物館の伊能大図1/36000をかさねたもの
背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日

本河内
背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日

二股川上
(現在の本河内高部水源地に流れる川)は巾一間(1.8m)ばかり。字御手水。字道幸(道光)、右の谷間を十四町五町(約1,600m)見渡せば放火山(峰火山)の中腹に秋葉大権現社がある。百姓の悦治郎宅で小休止。
 字綱切。右に大きなる宝篋塔
(本河内宝篋塔では?文化8年に建立されている)がある。右にばしょう塚がある。目にかかる雲やしばしの渡鳥(「この句碑は同じ年の6月に建立されているので、忠敬は真新しい句碑を見たことになる)

長崎
背景の地図は、長崎市長の承認を得て、同市発行の1万分の1地形図を複製したものです。※長崎市都市計画課承認番号 長都計第10号 平成21年4月9日

一ノ瀬川、一ノ瀬橋を渡り巾四間
(7m)。枝中川郷。字喰違。右に八幡宮社が三十間(54.6m)ばかり引き込んで有る。小川の石橋(古橋)巾四間(7m)ばかり。枝馬場郷の限り。長崎市中新大工町入り口の木戸、八月十九日の測り初めの印に繋げて終る。街道一里一十七町二間(5,785m)。長崎村の庄屋森田貞六宅(現在は桜馬場中学校)で昼休み。それより長崎炉糟町(長崎市炉粕町)大同庵へ九っ時頃(午後0時頃)に着く。

彼杵2
九月二十日 曇り晴れ。

 同所
(彼杵村。前日に時津より大村湾を船で渡っていた。夜に大村藩士の前で講演をおこなっている)に逗留して測る。仕残した大村領彼杵駅で申(昨年の文化九年)十二月朔日海辺を測って残した印から初める。制札の角迄五十七間五尺(105.15m)。申年も測ったので重ねて測ったことになる(昨年は五十八間としているので一尺(0.3m)の差)。これより長崎街道を測る。御茶屋の測所(現在は彼杵神社)前迄、四十五間(82m)。一ノ瀬川六間(11m)ばかり。枝滝河内。字松山。字三根。字上杉。字樋口。字谷口。二ノ瀬川は小流で巾三間(5.5m)ばかり。字四郎丸。



『大村郷村記』に記された地名等
町堀川石橋…脇本陣…制札場…茶屋…荘屋・横目役場…一の瀬川伝い石…柚の木町千部塔地楽天神虚空蔵鳥居…谷ロ小川石橋

俵坂
字二ノ瀬。字菅牟田(菅無田)。字坂本。字峠。大村領彼杵郡彼杵村と佐嘉領藤津郡丹生川村の界(県境)で打ち止め、一里二十二町二十一間(6,365m)。総測一里二十四町三間五尺(6,552m)。九っ時後(午後0時過ぎ)に宿へ帰る。この日松山惣右衛門、当所で昼休み。大村侯(大村純昌)より御使者の加藤左司馬が来る。一同へ肴を贈られる。品は別記。



『大村郷村記』に記された地名等
道租神の祠さやの御前)二の瀬川…大楠・千部塔…恵美須丸へ行く別れ道…鳥越の壱里塚…管牟田下千部塔…麻漬川石橋…坂本庵の谷溝川…俵坂下千部塔…釈迦堂…佐賀領嬉野境俵坂峠傍示石(国道の東に移設)