0

Chacha's family forever skiing


『SKI is my life! スキーこそ人生』といえるくらいスキーにのめり込み
スキー中心にしか考えないわがままな私とその家族の道程をまとめてみました。
けっして過去のことではなく、これからも続くスキー行の記録です。
現在のあなた、そして未来のあなたへの指針になれば幸いです。
けっして真似などしないように、くれぐれも自己責任でお願いします。

第T章

スキーなんて・・・と思っていたのに。
第U章 自信過剰。誰か止めて。

第V章 

出会いと転機。ますます熱中。誰か止めて。

第W章

神の贈り物。スピード狂。
第X章 続 神の贈り物。慎重派。
第Y章 モーグルに目覚める。
モーグルって何よ? THE 基礎スキー

MIDI音量に注意です     
スキーエッセー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






























































<=BACK

第T章
スキーなんて・・・と思っていたのに。

 昔から寒いところが大嫌い、冬は大嫌いの人間でした。その頃大学生の私は当然のように車に没頭し、アルバイトで稼いだ金をほとんど車に費していました。もちろんドライブは大好きで、いくら長距離でも苦にならなかったし、雪道なんて最高に楽しんでいました。当時モンテカルロラリーを制した名車ブルーバード510(ごういちまる)の後継者として誕生した610(日産のブルーバード1800SSS-E)に乗っており、機械式のキャブレターが普通であった時代にEGI(電子制御)で燃料を噴射し、馬力が高かったのが魅力でした。ラリー仕様でフロントグリルをくりぬいてフォグライトを埋め込んであり、ロールバーとLSDも装備。でも、車体重量の重さであまり速くはなかったんです。(笑)

 そんな私をスキーに連れ出したのは高校の友達であったYOでした。彼は高校時代からスキーをやっていたらしくマイスキー持参でうまかった。スキー行は当時彼が入信していた宗教関係の仲間が一緒であり、彼はこの交遊を機に私も入信させようと思っていたかどうかは疑問ですが、その後何回か教えの会にも招かれました。彼の策略がとんだ方向に私の人生を変えてしまったことには違いありません。

 初めてのスキー行は、小学生時代からホッケー用のアイススケート靴で遊んでいた私にとって滑る感覚は慣れたもので、最初からハの字で滑るプルークボーゲンは簡単にできました。止まり方もアイススケートで両足揃えて横に止まるブレーキは普通であるので、少し慣れればできるようになりました。それよりスケートは自分の力で蹴って滑らなければならないのに、スキーは勝手に滑り出してくれます。そして白銀の大自然の中で戯れる楽しさは、一度やったら病み付きでした。転んでも転んでも楽しかった。よく初めての時に天候が悪かったからスキーがいやになったと聞きますが、私にとってどんな条件でも全然関係なかったようです。このスピード感と両足を揃えてかっこよく滑れるようになりたいという欲望で、一発で虜です。後から発見したのが、親指の爪が紫色になってうっ血していたのでかなりの後傾で滑っていたと推測できます。そんな痛さも忘れるほど没頭していたようでした。

 そのシーズンが終わるまでにスキー用具を一式揃えています。(いつも道具から入ってしまう私にとってこの時の選択は無謀にも超上級者用の長い板です。今から考えても無駄なこと。2年後10cm短くて扱いやすい板に変更するまで、無理に回そうとする癖が付いていました。)そして、スキー雑誌で知識を詰め込み、学生最後の年を迎えたのです。 最初に買った専門書は「THE SKI 
パーフェクトなスキーを目指せ」ジョルジョ・ジュベール著 菱沼信夫訳 実業之日本社です。読んでからわかったことはフランススキーをベースにしたチェックとローテーション技術を解説してあったと記憶しています。(最初からこんなマニアックな本を読むなんて私らしいといえば私らしいのですが、当時の真剣さがよくわかります。なんせ書店で取り寄せてもらったんですから)

 そして、シーズン早々にお世話になったのは志賀高原一ノ瀬にあるNAISG(ナイスク)オーストリアスキー教室です。講師と同じ宿で夜も技術指導してくれる密度の濃さと、一人でも参加できますが売りでした。自己申告と講習前の班分けで3班です。中級クラスです。同じ班の人は2級を目指していると言っていたので滑走日数4・5日のわりにうまかったと思います。ここで3日間お世話になったのが後にSIAデモンストレーターになった柴崎正弘先生で、外足荷重と外向傾姿勢を徹底的に教わりました。付いたあだ名が「暴走族」です。当時の滑りを物語る的を射たあだ名です。このときは一人でスキーバスを申し込み、始めて行った信州のスキー場でした。早朝にバスの車窓からみた真っ白な雪景色。たっぷり積もったパウダースノー。ゲレンデめぐりをしても覚えきれない大きなゲレンデ。スキーにますますのめりこむきっかけは十分すぎるほどです。

 (技術的な話をすればこの当時フランスとオーストリアのスキー技術はローテーション(内向)とアンギュレーション(外向)で相反する主張をしており、専門書で得た知識と実践で教えてもらった技術は当然違っていました。そんなこともわからずによく飛び込んだものですね。)

 この学生最後の年は幸運にも就職先が早く決まり、毎週神鍋高原(兵庫県)や箱館山(滋賀県)など近場のスキー場に通います。当然真っ黒な顔をして卒業式と入社式を迎えました。就職すると遊んでばかりはいられないと肝に銘じて悔いなく滑り倒したシーズンであった。はず・・・・・。


 これが永いスキー人生の単なる始まりの年になるとは・・・
















































































<=BACK

第U章
自信過剰。誰か止めて。

 就職して10か月程経ったある夕方、新人の常であるが湯沸室で職場のかたづけをしていると同フロアの先輩から「職場のスキーツアーがあるけどいきません、明日から。」と唐突に声をかけられ、二つ返事で即答したのが職場のスキー部との出逢いでした。
 
 翌々日の朝にはあの武者修行をした志賀高原一ノ瀬のゲレンデに立っていました。生まれて二回目の信州です。講習会の始まりはいつも班分けですが緩斜面のスロープを4・50メートル滑らされ、決められた班が1班。一番上の上級者班です。スキーをがむしゃらに1年やっただけで。自分でも何がなんだかわからなかった。レッスンを受けたのは1シーズン前のあのオーストリアスキー教室だけで、そしてあの外足荷重と外向傾姿勢だけを注意すればパラレルターンは何とかできていたと思いますが・・・1班とは驚きです。この時の先生がスキー部の代表をしていたYAさんで退職された今でもいっしょに滑ることがあります。講習に入るとウェーデルンの集中レッスン。講習中にはたびたび尾根線づたいの深雪に入って練習しました。自己中心的な欲望のままの講習でしたが、付いていかざるえない者としては横に逃げる幅もない、そこそこ急な斜面、滑ったこともない深雪と悪条件がトリプルで重なり、習いたてのウェーデルンで滑れと言う。当然、転倒雪まみれandゴーグル使用不可能andスキー板探しという結果になりました。95%の惨めさのなかにふかふかで冷たい雪の感触があり、すこし気持ちいいなという5%の気持ちもあったようです。何回も何回も繰り返される練習の中で、ウェーデルンらしきものはできるようになりました。この体験以降深雪で、あれほど惨めな気持ちを持った記憶がありません。いつから深雪に目覚めたのかも記憶がないので、深雪の魅力を教えてもらったのはその時でしょうか。自分が講習を持つようになってからもこんな条件のときはレベルに関係なく深雪に足を運ぶようにしています。(YAさんと同じ自己満足が優先です。笑)

 話は前後しましたが、スキー部に入部することになり、はめられたように幹事をすることになりました。講習も持つようになります。会社で言うなら入社すぐ幹部になったようなもので、それだけ小さい組織でした。今から考えても一番効果があったのは資格に関係なく教える経験を積んだことです。当時スキー部に有資格者はいなく、所持級にもこだわっていなかったので1・2級所持の上級者を中心に何も持っていない私も教える方にまわります。スキーにのめり込んでからは知識先行の理論派を自認していましたから教えることは苦にならなかったようです。立場上クラブの上級者からいろいろ教えてもらう機会も多かったし、切磋琢磨する仲間がいたので刺激がありました。いっしょに通う仲間ができ、休みのたびに車を走らせます。行き先は毎週箱館山(滋賀県)。年間滑走日数30日をキープしていました。今で言うバラサイトシングルで、給料は全てスキーにつぎ込んでいました。

 何年か経ち、周りの上級者を見ていて自然と1級が目標となり、1級取得を密かに計画しました。その頃、あの最初のツアーに誘ってくれた同フロアの先輩(女性である)が先に1級をとっており相談すると年末年始に10日間野沢温泉(長野県)に入って練習している。バッジテストもあると言う願ってもないことで同行をお願いしました。それが年末に2級合格。新年に1級合格。オプションで準指導員受験を命じられました。スキーを始めて5年後。滑走日数にして100日程でした。勢いと言うか何も考えていないと言うか、そのうえ翌年には惰性で受験した準指導員に一発合格します。そう私に教えてくれていたYAさんや上級者の先輩たちは1級のままですのでスキー部で始めての有資格者になりました。新米部員が唯一の有資格者になってしまったのです。晴天の霹靂とでも言うか、これに刺激を受けたYAさんも翌年には準指導員になりました。それだけの実力は当然あったのです。この頃私は教える楽しさにどっぷり浸かり部内の技術指導部長になっていました。

 スキー産業真っ盛りでどこのゲレンデも賑わいをみせ、リフト待ちが当然のようにあった時代。「私をスキーに連れてって」の映画がヒットしていた。











































































<=BACK

第V章 
出会いと転機、ますます熱中。誰か止めて。

 スキーしか見えない私の周りに女性は寄ってこなかった。(あたりまえかもしれません)もちろん回りに女性がいなかったのではなく、スキー部にもきれいで素敵な女性がたくさんいました。でも、部員同士でスキーにいくので恋愛の対象には全然ならなかったんです。だから、周りの友人は私が結婚を考えるなんて絶対無いと思っていたみたいです。しかし、私自身は30歳になるまでには結婚しようと漠然と考え、結婚するならスキーをする人。いっしょにスキーがしたい。願わくば考え方の合う人。(人生は楽しまなけりゃだめだ。やりたい事をやる。ちゃらんぽらんな私の考えについてこれる人。)なんてぼやーと考えていました。

 彼女(現在の妻)に出逢った時に愛のキューピットが矢を放ったようです。話をしたら『親にスキーの話はするな』と止められていると正直に話をしてくれました。横浜のスキーのクラブに入っていて年に何回も家を空けるので、そんな話をしたらびっくりされると止められていたようです。1級を持っていて、国体選手と競い合ってポールの練習をしているとのこと。海外へも何度も訪れ、女性3人で「地球の歩き方」を手本にバックパッカーしていたようで、公園の野宿や、知り合ったばかりの人の家に泊めてもらったりと、なんとはちゃめちゃな女性でしょうか。そりゃ正直にそんな話をしたら世の男性は逃げていくと親が思うのも無理はありません。やりたい事をやりすぎるくらいやってきた女性でした。波長が合うと言うか、価値観が同じと言うか、ちゃらんぽらんな男に、はちゃめちゃな女性が来たので打ち解けるのに時間はかからなかった。シーズンともなるとこちらのクラブに合流していっしょにスキーに行ったし、別行動で横浜のクラブにも顔を出していた。滑走日数が減るどころか増えたくらいです。類は類を呼ぶが如く私のクラブでもすぐ打ち解けてくれました。きれいな滑りが私で、豪快で強い滑りが彼女だと評判になりました。事実スピードに強く、女性の滑りではなかった。
 
 結婚を転機にして滑走日数が増えました。クラブの行事
プラスプライベートのスキーです。年末は二人でスキー。年始は家族で過ごす事がパターンになります。彼女は私の立場をよく理解して、クラブの行事に優先的に参加させてくれました。彼女が今まで教えてもらったスキーの恩師を指導者の基準にしていたのでしょうか。私が指導員を受験したときもよき理解者でした。年齢と共に固くなった記憶力で受験勉強するのは大変でしたが、腹にいる子供のためにも「今から落ち癖をつけたらあかん」と問題を出して覚える協力してくれました。だから落ちるわけにはいかないと必死になって勉強しました。幸い一発合格でき、クラブ内で始めての指導員になりました。今まで以上に重責で、やめるわけにはいかなくなりました。

 それから10年が経ち、所属する県連から全日本の技術員に推薦するので受けないかと打診があり、仕事や家庭の事で躊躇している私に、「前厄やし、厄払いもしたので、こんな役ならもらったらいい」と厄と役のかけ言葉で返してくるとは太っ腹な女性です。(本心は反対しても言う事を聞かないし・・・?)そんな始まりから技術員の後に県連の理事を受けたりで10年近くは冬になると家を空けることが多く、彼女は我が家の冬は母子家庭とよく言っていました。年間滑走日数は毎年30日を超えていました。

 一人で滑っていても飽きてしまうが、仲間と一緒に滑る事で意欲は増します。
 上達だけを考えていても諦めてしまうが、指導をする事で技術は理解を増します。

 私にとって長いスキー歴になってきましたが、今でも自分は下手だと思います。けっして私にスキーの才能があったわけでもなく、「継続は力なり」を信じてやってきました。唯一自慢できることは、いつまでもスキーが好きで、長く興味を持続できる事でしょうか。こんな環境を作ってくれる妻にも感謝です。



































































<=BACK

第W章
神の贈り物。スピード狂。

 平成1年4月1日、第1子の誕生です。親馬鹿は自分たちがやっていたものを波状攻撃のごとく小さい頃から教えました。ピアノ、油絵、テニス、スイミング、フィッシング、キャンプ、そして忘れてならないスキーとアイススケート。ざっと挙げただけでこれだけあります。趣味の百貨店ですね(笑)親が遊び好きなもんで何でもOKです。2歳からローラースケートと自転車を乗りこなしました。当然スキーにも0歳から連れて行き、2歳から滑り始めました。両親の血の滲むような努力の甲斐あって(ただ親が滑れるので止まる時は捕まえて止めました。なんか雪の上で鬼ごっこをしていた感じです。)3歳になるとひとりで滑れるようになりましたが、周りの人は「かえるの子はかえるやね。」と一言で終わりです。子供にとっては物心が付いたときには滑っていたと言う感じです。だから、理屈ではなく体で覚えてます。

 息子の場合スピードに強かったので、結構早く両足は平行になりました。そして両足荷重で曲がってきます。曲がる方に倒れ、ターン内側の足に乗る。昔なら内傾、内足荷重は矯正される欠点の一番です。でも我が家では何も矯正しませんでした。だから器用に内足に乗ってもバランスを保ちます。常に両足に荷重しているようなので深雪なんて得意です。雪が深くなると両足がどこを向いているかわからなくなります。片足ずつ荷重しようものなら両足がばらばらに違う方を向いて撃沈してしまいます。

 いまさらながら子供と一緒にスキーを楽しむことができて幸せを感じます。親の威厳が通用するのもスキーだけかもしれませんが、親父に一目置いています。親父はスキーの事しか考えてないとよく分かっていますし、「おとうはそうでなくっちゃ」と言ってます。子供にも感謝。

(補足ですが、最近の教え方に内向&内足主導の滑り方なんて出てきました。もちろん道具の性能がよくなって最近のカービングスキーはエッジを傾けるとすぐ曲がってきますので、内足荷重が人間の骨格上ずれの少ないターンをするのに大事なポイントになってきたのです。)



 (ちょこっとその頃の教え方です。)
5・6歳になるまでストックはなしです。両足をワイドに開き、両腕を横に水平に広げ、ヤジロベエのように傾かせます。当然荷重と外傾ができるので傾いた反対側に曲がっていきます。これに慣れてきたら両足をワイドなハの字にして今度は両手を両膝に乗せてます。滑り出したら左右に膝を押してみましょう。これも押した膝の反対側に曲がります。今度はスピードを殺したターンができるようになります。最初はほとんど平らな斜面から始めることがよいと思います。でも幼稚園の頃は脚力がないのでハの字を保つコツがわかるまでどうしても我慢できません。怖がって後傾になるとなおさらスピードがでて難しくなるので、少し前につんのめるくらい板のトップの方に傾かせてみましょう。あくまで楽しく遊ぶ気持ちでやる方がいいと思います。木の枝やストックを立ててそこを曲がるようなコースを造ってもよいと思いますし、我が家でやっていた鬼ごっこも楽しく自然に上達します。(今度は私が鬼で追いかけさせます。わざと凹凸のある場所や木立の中など変化のある斜面に誘い込みます。)こんな遊びしかしていません。スピードに慣れてくるとスキー板はハの字から平行になってきます。当然スタンスの幅もワイドから自然な間隔(肩幅くらい)になって行きますので、余り両足はくっつかさない方がいいでしょう。この頃になると片足(外足)から片足(外足)への乗換えから両足にのったまま両足で曲がるという感覚に変わっていきます。それはほとんどパラレルターンです。



























 




















<=BACK

第X章
続 神の贈り物。慎重派。

 平成6年3月6日、第2子の誕生です。

 私たちは、出産においてできる限り自然でありたいと望みました。分娩においても、出産後においても。分娩においてはへその緒をつけたままおなかの上においてもらいました。本能的にしがみつく子供は、静かに、力強く、そして永いやすらぎを感じているようでした。出産後はできるだけ添い寝をするべきだと思いました。そして子供の寝息が聞こえる距離を保ちました。私たちは母乳で育てるべきだと思いました。子供の要求を感じて、母乳を与える努力をしました。そして私たちは信じています。子育ては夫婦二人で行うものだと。                            2子の出産日記より

 こうして育った娘は大変慎重派でした。第1子と同じように2歳でスキーを始めましたが、いつも私と手をつないでしか滑りませんでした。やっと一人で滑ってくれたのは、一緒に行ったお友達が一人で滑っているのを見て刺激を受けてからです。(お友達は同学年ですが、誕生日が1年近く早いのでしっかり滑っていました。)

 何とか一人で滑れるようになっても、今度はなかなかハの字スタンスが消えません。息子のときは曲がるよりもまっすぐ滑っていくほうが多かったのですが、娘はハの字スタンスできれいにターンをしてきます。どんな斜面でもまっすぐは行きません。怖がりで几帳面ですから、必ず安全なスピードで降りてきます。でも私の経験から言えば少しずつ階段を登っていけば大丈夫です。私もけっこう怖がりで、スピードに弱いですから(笑)
以前私たち夫婦の滑りの違いを書きましたが、豪快でスピードに強い息子は母親似で、慎重にゆっくりが父親似です。(普通は反対ですね。笑)

 だからこれからも私を追って滑ってきてくれるでしょう。(甘い期待?)いつでも親の事を考えてくれる娘です。いつまでも一緒に滑っていたいと思います。親馬鹿ですね。

























































<=BACK
第Y章
モーグルに目覚める。

 40歳をはるかに超えてからモーグルに目覚めました。体力や技術なんか関係無しでモーグルが楽しいと思います。長野オリンピックで里谷多英ちゃんが金メダルを取ったときには白馬でアルペン競技を見ていました。(今から思えば飯綱でモーグル見たかったな・・・・残念) この年齢で、モーグルの神様と呼ばれたエドガーグロスビロンやジャン・リュック・ブラッサールも第一次モーグルブームも知りません。そんな私が、モーグルと出逢ったのは2002年ワールドカップ斑尾大会を見てからです。過激とファンタステックが入り混じった興奮。憧れから挑戦が始まりました。けっして見るスポーツだと思いません。やってみてもっと興奮しました。2003年には草大会デビュー。エアーなんてスプレッドしかできないのにツイスターもやって転倒。でも、すっごく満足感があった。後悔と開き直りの繰り返しですが、いつまでもモーグルを続けたいと思っています。

 モーグルをやりだしてからあまりサイドカーブのきついカービングスキーに乗らなくなりました。当然サイドカーブがあまりないモーグル用の板を履くことが多いのですが、昔のように長い板ではありません。性能の向上と人工コブの普及によってピッチの細かいコブが主流になってきたから男子でも170cmが主流です。(昔はモーグルの競技規則に長さ規制があって男子190cm以上でしたから、ずいぶん短くなりました。慣れとは怖いもので、昔の長い板にはもう乗れませ〜ん。)ストックも基礎スキーをやってるときは120cmを使っていましたが,現在は100cmを使ってます。みんな道具は短くなっているのに、ウェアは年齢も考えないで流行のダボダボです。ズボンなんて長すぎて引きずって履いてますよ。
(>_<")
それに定番はニット帽(ヘルメット)にゴーグルですね。基礎スキーのときは野球帽にサングラス使用です。昔はイカ帽(先の尖ったニット帽)にゴーグルが基礎のスタイルでした。懐かし〜。

 同じスキーでも志向によってこんなに変わってしまいます。年甲斐もなく、若者のスタイルにかっこよさを感じる今日この頃です。