2011/8/17 改訂
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        絵本 徒然草(えほん つれづれぐさ) 三巻 一册

                       
 Ehon tsurezuregusa
          Ehon tsureduregusa [picture book]

     
吉田兼好 著  西川祐信 画
       元文三年序(1738年)


            原データ 東北大学 狩野文庫画像データベース
        

                              

                             解説
兼好法師の「徒然草」全二百四十三段の中から五十二話を取上げて各段に西村祐信の美しい挿絵をそれぞれに添えた墨摺絵本。

 序文と挿絵は西川祐信(すけのぶ)(1671~1750)による。西川祐信は江戸中期の浮世絵師。西川派の始祖。号は自得叟(じとくそう)、文華堂とも。京都の人。狩野永納、土佐光祐に学び、江戸浮世絵の影響を受けながら、京畿の風俗や美人を典雅な様式で描き出し、京都における浮世絵を発達させた。また絵本「百人女郎品定(しなさだめ)」ほか浮世草子、教訓本、往来物等約170冊の絵本の挿絵を制作した。

 兼好法師(1283頃~1352以後)は鎌倉末期の歌人。俗名、卜部兼好(うらべのかねよし)。先祖が京都吉田神社の社家であったから、後世、吉田兼好ともいう。初め堀川家の家司、のち後二条天皇(1285~1308)に仕えて左兵衛佐に至ったが天皇崩御後、三十歳の半ば頃に出家し以後隠遁生活を送った。観応元年(1350年)六十八歳で死んだとも伝えられているがそれも定かでない。徒然草は兼好が出家した頃から書きはじめ、完成まで約二十数年を費やしたと言われている。また若い頃より歌道に親しんでいたが、青年時代二条為世の門に入り、四十歳頃には和歌の四天王(頓阿・慶運・浄弁・兼好)の一と言われた。

 徒然草の内容は、仏教観・無常観・人生観・教養・芸術・読書・和歌・漢学・音楽・花鳥風月・医学・有職故実・噂話・処世術・等々、兼好の旺盛な知的好奇心の赴くままに多方面に渡っている。
 ここで紹介する絵本徒然草は流布本からの一部抜粋であって原文そのままではないが、有名な章段は網羅されていて、徒然草の概略が分かるようになっている。

 この絵本徒然草のほかに伊勢物語・源氏物語・などの古典絵入本は、近世以前の絵巻・絵本を引き継いだ伝統的なもので、手軽な教養本として各種出版され、近世においては古典の普及にも大きな役割を果たした。

                        (凡例)
1 原データ見開き54枚すべての翻刻文掲載。
2 翻刻文は底本表記に従った。読み易くするため適宜句読点を追加、平仮名は適宜( )に漢字 
  を記入した。会話は「 」で記した。片仮名表記は底本の通りにした。
3 底本で脱字と思われる個所、あるいは必要とされる個所に[]で脱字、欠字を補った。
4 注釈は見開きの下に記した。
5 「絵本徒然草」は章段の記載はないが、便宜上章段を記載した。
  章段は次の2冊に従った。
 ◎「方丈記 徒然草」 新日本古典文学大系 久保田淳校注(岩波書店)底本は正徹本。
 ◎「徒然草」川瀬一馬校注(講談社文庫本) 底本は慶長初年刊雲母摺古活字本、補訂に嵯峨  
  本。
6 章段によっては省略された個所の文章を注に補った。
7 画像の右側に翻刻文、画像の下左側に注、画像の右側下に現代語訳を記した。

 翻刻文


    現代語訳   

8 ページの区切りは *** *** を入れた。
9 末尾にWedの「徒然草」のサイトを紹介。 
  
翻刻に際しては古文書研究家一青氏にご協力を頂きました。厚く御礼申し上げます。 




                       (1) 西川祐信絵



*** ***


  絵本徒然草序

つれ/\なるまゝに、()(くら)(すゞり)にむかひて
彼法師(かのほうし)の古ことを、そこはかとなく絵に
うつせば、あやしうこそぐるおしけれ。
いでや此世のことども絵にかゝざるハなし。
(まづ)神さびたる九重の御景色、ゆゝし
げに
舎人なんどつれ給ひたる御形勢(ミありさま)
それより下つかたハ程につけつゝ、時に






   
徒然草」冒頭「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向ひて
 に映りゆくよしなしごとを
そこはかとなく書きつくれば、あやし
 うこそ物狂ほしけれ
」から引用。
第一段「いでや、この世に生れては、願はしかるべきことこそ
 多かめれ。
」の文頭を引用。
神々(こうごう)しい禁中。
 第二十三段
 「衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神(かむ) さびたる
 有様こそ、世づかずめでたきものなれ
。」
第一段
 「舎人などたまはるきはは、ゆゝしと見ゆ。その子、孫までは、
 はふれにたれど
(落ちぶれていても)なほなまめかし。それ
 より下つ方は、ほどにつけつゝ、時にあひ、したり顔
(得意顔)
 なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いと口惜し。」

  現代語訳 

  絵本徒然草序
  なにもすることもなくて、ものさびしいので一日中硯に向かって、彼の法師(吉田
 兼好)の古い話を、わけもなくあれこれと絵にして描き写していると、妙に気が変に
 なってきた。
  さてまあ、この世のことなど絵に描かないものはない。
 先ず神々しい九重(宮中)の御景色、素晴らしげに舎人などお連れなさる御様子、
 それより下の身分のものは、家柄に応じてよい時機に


*** ***

(3)
あひて、さま/\の世の(わざ)目につゞきて、
(あした)、雨の夜、
灯火((ともしひ))のもとに是をひろげて
は、誠に見ぬ世の人を友とする心地
すると書つゞくれバ、
源氏物語の絵合(えあハせ)
なんどに事ふり似たれど、同じこと今更
書ましきにあらず。
無下(むげ)にいやしき今様の
絵なれバかいやり捨べきことにて、人の見るべ
くもあらずと、(ひとり)(もてあそ)びぬるを菊秀軒(きくしうけん)

(ぬし)、ひたすらに求めて初心の絵本に便(たより)
せんとて終にゆるさず。よつて三巻となして
其侭(そのまゝ)絵本徒然草と名づけ、かの(ことば)
はし/\書ちらして(あづさ)になすも世の人の
(わらひ)を招くわざならんかし。
元文戊午のとし冬
      洛陽
文花堂書
「徒然草」第三十一段「雪の面白う降りたりし朝」
第十三段「ひとり燈火のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするこそ、こよなうなぐさむわざなれ。
「徒然草」第十九段
 言ひつゞくれば、
みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらずおぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。
(元文三年)(1738年)
絵師西川祐信の号、文華堂とも。
*序文と挿絵は文花堂(文華堂)こと、西川祐信による。
西川祐信は、兼好の流布本「徒然草」から、多くの文言を断片的に、巧みに引用しながら、自分の絵を卑下して、謙辞の序章としている。
  現代語訳

 
あって、様々の世の業に目がとまり、雪の朝、雨の夜、灯火のもとに、このような本
 を広げる度に、本当に昔の人を友とする心地がする、と書き続ければ源氏物語の
 絵合などに、言い古された事に似ているけれど、同じ事を今更書かないと云うの
 ではない。

  ひどく卑しく今風の絵だから、払いのけて捨てるべきことで、とても人の見るよう
 なものでないと、自分ひとりの慰みとしていたのを、菊秀軒の主がただもう一途に
 請い、初めに思い立った絵本で都合がよいからと云ってとうとう許してくれず、よっ
 てここに三巻として、そのまま「絵本徒然草」と名付けて、かの(兼好法師の)詞の
 端々を書き散らして出版することになったのだが、世の人の笑いを招くことになる
 だろう。
    元文戊午(三年)の年 冬  洛陽 文花堂書



*** ***

(4) (第一段)
いで
や、この世に
       生れてハ
ねがハしかるべき
        事こそ
  多かめれ。
みかどの
  御くらゐハ、
いとも かしこし。
 
竹のそのふの

  
 2すへ葉まで
 
人間のたねならぬぞ
    やんごとなき。







竹の園生 皇族の雅称。竹園。
子孫。
 天皇と皇族方は人間界の血筋ではないので(天照大神の子孫なので)きわめて尊い。
(以下の文が続く)
 摂政・関白の身分の方は言うまでもない。公家でも舎人などの身分を賜る方は優雅で高貴である。その子・孫まで
官位が低くなってもまだ品がある。それ以下の者は、家柄に応じ時流に乗り、うまく出世して、得意顔であるのも、自分でも偉いと思っているのだろうが、まことに情けない。
 僧侶くらい羨ましくない者はいない。「人からは木の端のようなものに思われている」とあの清少納言が枕草子に書いたが、全くそのように思える。僧侶が権勢のあるままに威張り散らすのも立派とは思えない。増賀聖(ぞうがひじり)が言うように、世間の名声は僧侶にとっては煩悩となるので心苦しく、仏の御教えとは違っているように思われる。(世間に交われば、心はほかの塵に汚されるものだから)一途に修業している世捨人を見れば、かえって、そうありたいという気もするであろう。(中略)
 
身分や容貌というようなものは生まれついたものであろうが心は修養次第で、賢いが上にも更に賢い方へ移そうとすれば、移らないことがあろうか。容貌や気立てのよい者でも、才能がないとなると、人品も下り、容貌の醜いような人と一緒になって、そんな人々にさえ何の価値も認められず、圧倒されてしまうのは残念なことだ。
 人は,、できれば正式な学問を学び、漢詩文を作り、和歌、管弦の道に通じて、また朝廷の有職故実に通じ、政務、儀式で人の手本になるというのがなにより優れて立派なことである。また
筆跡なども下手でなく、すらすらと走り書きをして、声面白く拍子を取り、(お酒をすすめられると)痛み入って遠慮しながらも、下戸ではないのが、男としてはよいのある。

*要するに、自分の才能を磨き高める努力は素晴らしいが、他人との比較や競争で、その才能を誇示する事は醜い。
他人と競わず、さりげなく身を処して、自然と醸し出される人柄の良さというものが奥ゆかしくて素晴らしいという考えのが兼好の考えのようである。
 現代語訳 (第一段)理想的な人間像。

  さてまあ、この世に生れたからには、誰しもこうありたいと願うことは多いだろう。
 (みかど)の御位(を望むということ)は大変に恐れ多い。
 皇族方の末々まで並の人間とは生まれが違っているのでまことに高貴で尊いことだ。


*** ***

(5) (第三段)
よろづにいみじくとも、
色このまざらん男は
いとさう/\しく、玉の
(さかつき)の底なき心地(こゝち)
     こそすべき。
露霜にしほたれて、
 所さだめず
  まどひありき、
  ひとりね
      がちに、
  まどろむ
   夜なきこそ

   おかしけれ。






玉の盃底無きが如し」 
 外見はよいが、使用に堪えないもののたとえ。また、すぐれたものに一つの欠点があって物足りないことのたとえ。
(以下の文が続く)
さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれむこそ、あらまほしかるべき業なれ。
(そうだからといって、ひたむきに好色にふけるという風ではなくて、女性に軽々しくないと男と思われるように、また慕われるように心掛けることが望ましい。

次の段にも同じような考えが語られている。
百七段すべて男は女に笑はれぬ樣に生(おほ)し立つべしとぞ。

(すべて男は女に笑われないように育て上げるべきということだ)
色好みとは男女の性的関係を意味するものでない。平安貴族の美意識そのままに、恋愛の洗練された雰囲気を、美的に愉しむことを至上とするのである。鎌倉末期に生きた吉田兼好は若い頃、後二条天皇の仕え、左兵衛佐であった。歌人でもあり、古き世を憧憬する兼好の色好みは、平安貴族の美意識を継襲していたと思われる。女の魅力・色好みについては次の段にも記述が見られる。
(8)八段 久米の仙人
(9)九段 女の髪
(16)三十二段 奥ゆかしい女
(45)百三十七段 花は盛りに
しかし、その恋愛の継続性には重きを置かないようだ。
この絵本徒然草には載っていないが、次のふたつの段には兼好の女性観、家庭観が論じられていて面白い。
百七段女の性は皆ひがめり。人我(にんが)の相深く、貪欲甚だしく、物の理(ことわり)を知らず。
百九十段妻(め)というものこそ、男の持つまじきものなれ。
 現代語訳 (第三段)恋愛。
  容貌や全ての芸能に優れていても、恋愛の情趣を嗜まない男は何かもの
 足りなく、玉の盃に底が無いような気持ちがする。
 (好きな女のことを想って)夜の露・霜に雫が垂れるほど濡れ、気落ちして当ても
 なくさまよい歩き、独り寝がちに、少しの間も眠る夜もないようなことが、却って楽
 しいのである。


*** ***

(6) (第五段)
あるかなきかに
  
(かど)さしこめて、
 待こともなく
 
(あか)しくらしたる、
  さるかたに
   あらまほし

顕基(あきもと)中納言の
        いひけん
配所の月
  つミなくて
   見んこと
   さも
   覚えぬべし。





文頭に以下の文が省略されている。
不幸に憂(うれ)へに沈める人の、頭(かしら)おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで
源顕基(あきもと)中納言 (1047年)四十八歳没。無実の罪で流罪になった。
「罪無くして配所の月を見る」
 罪人として眺める配所の月はわびしいが、罪のない身で閑寂な辺土の月を眺めたら物のあわれも深かろうの意。


不遇に陥り、憂いに沈んでいる人が、頭を剃って出家しようなどと思い軽はずみに決めてしまうのではなくて、門を閉ざして家に籠もり、世間に何の期待をしないで、悲しいままに明け暮らすというのが、世捨人としてありたい身の処し方である。閑居の暮らしの中に、その人の心の有りようが見えてくるものだ。

「徒然草諸抄大成」 (貞享5 刊 )の注釈によれば、兼好の願う理想の閑居というものは、以下の歌で表されている。
  山里の心静かに住み佳きは問ふ人もなし待つ人もなし
             (玉葉集巻十六 雑三)
  柴の戸に明暮れかゝる白雲をいつ紫の色と見なさん
            (法然上人 玉葉集 巻十九 釈教)

 現代語訳  (第五段)隠遁の肯定。
 居るか、居ないか分からないように門を閉めて、家の中に閉じ籠もり、世間に望み
 をかけるのでなく、明し暮らしている。そういう風にありたいものだ。
  (みなもとの)顕基(あきもと)中納言が「(罪人として眺める配所の月はわびしいが)罪のない身で、
 辺地の月を眺め、流罪になった人の心を偲べば、もののあわれも深かろう。」と
 云ったが、なるほどと思われる。



*** ***

(7) (第七段)
世は定めなきこそ いみじけれ。
 命ある物を見るに、
人ばかり久しきハなし。
 かげろふの
(ゆふへ)を待、
夏の蝉の
 春秋を知らぬもあるぞかし。
住はてぬ世に
 見にくき姿を 待えて


何かはせん。

 その程を過ぬれバ、
かたち(容貌)をはづる心もなく、
(ゆふへ)の日に
子孫を愛して、
さかゆく末を
  ミんまでの
命を

 
あらまし。





 文頭に以下の文が省略されている。
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからむ。

(あだし野の墓地に置く露は、はかなく消えてしまうものであり、また鳥部山墓地の火葬の煙は忽ちに立ち去ってしまうものであるけれど、)もし、あだし野の露が消えることなく、また鳥部山の煙が立ち去ることもなくて、この世に人がいつまでも住み果せるという慣わしであるならば、きっと物のあわれというものは存在しないことであろう。)
次の文が続く。
 
命長ければ恥おほし。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なむこそ、めやすかるべけれ。
 (長生きすれば何かと恥をさらすことが多い。長くとも四十歳に足らない位で、死ぬのが、見苦しくないというものだろう。)
次の文が続く。
 
ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなむ、あさましき。
 (ひたすら現世の欲をむさぼり、もののあわれも知らずになってゆくのは、まったく情けないことである。)

*病、天災、飢饉、戦争等で生きることの困難なこの時代に、四十歳という年齢は肉体的にも精神的にも大きな節目と考えられたかも知れない。これを書いたのは四十歳より以前と考えられるから、三十歳半ば頃に出家して、そう遠くない時期に書き記したのであろうか。
 無常観を肯定する兼好だが、一方では年寄りの我執貪欲を厳しくこき下ろしている。青年兼好の純粋、潔癖な仏教観が表れていると解釈したらよいのだろうか。
「命長ければ恥多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なむこそ」と述べる兼好自身は当時としては長命で、六十八歳くらいまで生きたと伝えられている。
 現代語訳 (第七段)命の無常と執着への慨嘆。
 この世は無常であることがよいのだ。命あるものを見るに、人間ほど寿命が長い
 ものはない。蜻蛉(かげろう)は(朝に生れて)夕べに死ぬものなのに、また夏の蝉は春秋の
 時季を知らないものもあるのだ。
 どうせ生き通せない世に、見苦しい姿を待ち得て何になろうか。
 ある程度歳を取ると、人はもはや容貌(かたち)を恥じる心も無くなって、夕日の沈むような
 年をして、子孫を可愛がって栄える末を見届けるまでの寿命を願うものだ。



*** ***


(8) (第八段)
世の人の心まど(惑)ハす事、色欲にハ
しかず。

久米の仙人の、物あらふ
 女のはぎ(脛)の白きを見て、
  
(つう)をうしなひけんハ、
まことに手足はだへ(膚)なんどの、
きよらに、
(こゑ)あぶらづきたらんハ、
外の色ならねバ、
さもあらんかし。







以下の文が省略されている
人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。
(人の心は愚かなものだ。「匂い」など仮のものであるのに、一時的に衣裳に香をたきこめたものであるのを知りながら、何とも云われぬ香りには、必ず心がときめくものだ。)

久米の仙人 俗に久米寺の開祖と伝える人。大和国吉野郡竜門寺に籠り、仙人となったが、飛行中吉野川に衣を洗う若い女の脛(はぎ)を見て通力を失い、墜落した。都造りの材木運びに通力を取り戻し、賞に免田三十町を得て久米寺を建てたという。
 現代語訳  (第八段)色欲
  世の人の心を惑わすこと、色欲にまさるものはない。
 久米の仙人が、物洗う若い女のすねの白いのを見て、神通力を失ったというが、
 本当に女の手足肌などが清らに肥えて脂がのってつやつやしているというのは、
 つけ加えた色でないので、いかにも尤もなことだ。


*** ***

(9) (第九段)
女ハ髪のめでたからんこそ、
 人の目たつへかめれ。
ひとの心ばへなどハ、
 物いひたる
  けはひこそ、
 ものごしにも、
 しらるれ。


されバ
女の
 はける あしだにて
作れる笛には、
 秋の鹿
かならず よるとぞ、
 いひつたへ侍る。






以下の文が省略されている。
(女は、何かにつけて、ちょっとの様子でも男の心を惑わすものだ。大体
女はうち解けても寝入りもせず、身を惜しいとも思わず、とても堪えられそうもないことにも我慢出来るのは、ただただ自分を美しく思わせたいからである。
 
本当に愛着(あいじゃく)の根は深遠ではかり知られない。すべての官能の楽しみは多いとはいっても、修業により皆捨て去ることも出来よう。だがひとつ、色欲の悩みだけは、捨てることができない。老いも若きも、知恵ある人も愚かな人も、それは変わるところがないと見える。)
「女の足駄にて造れる笛には秋の鹿寄る」
 女の色香に男は迷いやすいことのたとえ。
次の文が続く。
 
身づから戒めて恐るべく、慎むべきはこのまどひなり。 
 現代語訳  (第九段)色欲の自戒。
  女の髪が美事であるということは、大変に人の目を惹くものだ。
 女の気立てや、もの言う気配などは、几帳や簾ごしでもよく分かる。

 それゆえ、女が履いた下駄で作った笛を吹くと、秋の妻恋う鹿が必ず寄ってくると
 言い伝えがある。



*** ***

(10) (第十段)
後徳大寺(ごとくだいじ)2大臣(おとゞ)の寝殿に
(とび)居させじとて、
      なわをはられ
たりけるを
西行(さいぎよう)が見て、
「とびのゐたらんハ
 何かはくるしかるべき。
此殿の御心
   さバかりにこそ」とて、
そのゝちハ参らざりけると
  聞侍るに。







後徳大寺実定 藤原実定の通称。平安末期の歌人。(1139~1191)
西行 平安末・鎌倉初期の歌僧。鳥羽上皇に仕えて北面の武士。二三歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。新古今集には九四首の最多歌数採録。家集「山家集」。(1118~1190)
後日談が続く。
(ところが、綾小路宮がいらっしゃる小坂殿の屋根に、いつだったか縄をお引きになっていたので、あの徳大寺の例を思い出されたところ、「本当に、烏の群れて池の蛙を捕るのを御覧になって、可哀相にお思いになられて」とある人が話したが、それは結構な事と感じた。あの徳大寺の場合でも、なにか深い理由があったのかも知れない。)
 現代語訳 (第十段)無風流な住まいと西行の逸話
 後徳大寺の大臣(おとゞ)が、寝殿の屋根に鳶がとまらないようにと縄を張られたの
 を
西行法師が見て、「鳶がいることに何か不都合があるのか。この殿の御心は
 その程度であったか。」と云って、その後は伺わなかったという話を聞いている。
文頭に以下の文が省略されている
 (住居
の調和がとれているのは、この世を仮の宿りとは思いながらも、面白みを感じるものである
 。ある上品な人が閑かに住んでいる所は、差し込んでいる月の光も、ひときわしみじみと感じられる。
 今風で派手ではないけれど、木立の古びて、わざとらしくない庭の草も、趣ある様に、簀の子・透垣
 なども使いよくして、家にある調度品も昔のように落ち着いていてわざとらしく凝ってないことこそ、
 奥ゆかしく思われる。
 大勢の大工が心を尽くして立派に造り上げた家、そこに唐製だの、日本製だのと、珍しい調度を並
 べて置き、前栽の草木まで、手を加えてあるのは、見た目もうるさく、とてもつまらなく思われる。
 (中略)大方は住居を見れば、その家の主(あるじ)の心のほどはわかるというものだ。)


*** ***



(11) (第十一段)
(かけひ)の雫ならでハ露
をとなふものなし。あか(閼伽)棚
に菊、紅葉など、折ちらし
たる、さすがに
     住人のあれバ成べし。
か(斯)くてもあられけるよ
        と
(あはれ)
見るほどに、かなたの庭に大き成
柑子(かうじ)の木の枝もたわゝになり
たるが、まハりをきびしくかこひ
たりしこそ、此木なからまし
かハと少[し]ことさめて
         覚えしか。





文頭に次の文章が省略されている
神無月(十月)の頃、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遙かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉にうづもるゝ


 現代語訳 (第十一段)風流な住まいへの共感と、俗情への失望
 (木の葉に埋もれている)懸樋(かけひ)の雫の音以外には何も音を立てるものもない。
 水屋に菊、紅葉など折り散らし挿してあるのは、やはり住む人があるからであろう。
 さすがに、こうして住んでいられることよと、感じ入って見てみると、向こうの庭に、
 大きなる柑子(蜜柑)の木の枝がたわゝになっっているが、(実が盗まれないように)
 周りを厳重に囲んであるのを見て、この木がなかったならばなあと、少し興醒めして
 思われた。


*** ***


(12) (第十三段)
ひとり、
(ともしび)のもとに
(ふミ)をひろげて、
 
ミぬ世の人を
 友とするこそ、
  こよなふ
   なぐさむ
    わざなれ。










昔のひと。古人。
以下の文が続く
文(ふみ)は文選(もんぜん)のあはれなる卷々、白氏文集、老子のことば、南華の篇、この国の博士どもの書ける物も、いにしへのはあはれなる事多かり。

(その書物としては文選の情趣の深い巻々、白氏文集、老子の言葉、荘周著の「荘子」、この国の学者達が書いた書物も昔のものは情趣深いことが多い。)
*枕草子に「文は文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。願文。表。博士の申文」とあり、これらを念頭に置いたものか。
 現代語訳  (第十三段)読書論
  ひとり、灯火のもとで書物をひろげて、昔の人を友とすることこそ、格別に慰められ 
 るものである。


*** ***


(13) (第十四段)
和歌こそ猶おかしき
物なれ。あやしの
 しづ(賤)、山
(がつ)の  
     しわざも
いひ
(いづ)れバ
  おもしろく
おそろしき
(いのしゝ)
 ふすゐ(臥猪)の
  
(とこ)といへば
 やさしく成ぬ。







以下の文が続く。
(この頃の歌は、一節(ひとふし)くらいは面白く表現していると見えるものもあるが、古い歌などのように、どういう訳か、言外にしみじみとした情趣を感じさせるようなものはない。
(中略)
「(何事も衰え行くものだけれど)和歌の道だけは昔と変わらない」などと言う人もいるが 、さあ、どうだろうか。今でも昔と同じような言葉や歌の名所を詠んでいるが、昔の人の歌と同じものではない。昔の歌はやさしく素直で歌の姿も清らかで情趣も深く思える。
梁塵秘抄の
郢曲などもまた情趣深いものが多い。昔の人はちょっと詠み捨てたような言い方でも、私にはみな素晴らしく思われるようだ。)
*八雲御抄に「寂蓮法師がいひけるは、歌のやうにいみじき物なし、猪などいふ恐ろしきものも、臥す猪の床など言ひつれば、やさしきなり。」とある。兼好は寂連のこの詞を念頭に置いたと思われる。「徒然草諸抄大成」(貞享5 刊)
 現代語訳  (第十四段)和歌
  和歌こそ、何と言っても趣が深いものだ。
 身分の低い者や山家者(やまがもの)(木こりや猟師)などのしわざも、歌に詠むと面白い。
 恐ろしい猪も、「ふすゐの(とこ)」と言えば優しくなる。


*** ***





(14) (第十六段)
1神楽(かぐら)こそなまめかしく
  おもしろけれ。
   おほかたの
 ものゝ
()には
  ふえ、
   ひちりき、

  
琵琶(びわ)
   
和琴(わごん)






1神楽こそなまめかし
枕草子「なほめでたきこと、御神楽などにこそなぐさめらるれ」「ひきものは、琵琶。筝のこと」「笛は横笛いみじうをかし
以下の文章が省略されている。
「つねに聞き度は」

*この段は晴(ハレ)と褻(ケ)の音楽についてと思われる。晴の神楽の管弦の奏は大方笛・ひちりきの音が面白く、褻のふだんに聞きたいのは琵琶・和琴の音が素晴らしい。
 現代語訳 (第十六段)音楽と楽器
 神楽こそ奥ゆかしく優雅で面白い。
 大体の楽器は笛・ひちりき。(いつも聞きたいのは)琵琶・和琴。


*** ***


(15) (第十八段)
昔より賢人のとめるは
まれなり。もろこしに
許由(きよゆう)
といひける人ハ、更に身に
したがへるたくハへもなく、
水をも、手してさゝげて飲
けるを見て、なりひさごと
いふものを、人のえさせたり
  けれバ、あるとき木の枝に
かけたりけるが
   風に吹れて鳴けるを、
 かしましとて
(すて)つ。
  又手にむすびてぞ

  水も
    のミける。






文頭に次ぎの文が省略されている。
 人はをのれをつゞまやかにし、驕りを退けて、財(たくわえ)を持たず、世を貪さぼらんぞ、いみじかるべき。
(人は自身の生活を質素にして、贅沢を退けて、財産を持たず、俗世間の欲をむさぼらずに生活することが大切なことだ。)
許由(きょゆう) 中国の古伝説上の賢人・高士。帝尭が天下をゆずろうというと、汚れたことを聴いたと潁川(えいせん)で耳を洗い、箕山(きざん)にかくれたという。
以下の文が続く
 いかばかり心のうち涼しかりけん。
(以下省略)
 (どれほど心がさわやかであったことか。)
 現代語訳 (第十八段)清貧な生活
  昔から賢い人で富める人は稀である。
 唐土の許由(きょゆう)という人は、さらに、身に貯へもなく、水を飲むのも手ですくって飲んで
 いたが、ある人がこれを見て、瓢箪(ひょうたん)というものをくれたので、ある時これを
 木の枝にかけていたが、風に吹れて鳴るのを、やかましいといって捨てて、又手
 ですくって水を飲んでいた。


*** ***


(16) (第三二段)
 九月廿日のころ、
  ある人にさそハれ
        奉りて、
  明るまで月見
   ありく事侍しに、
おぼし出る所有て、
 
案内(あない)せさせて 
      入給ひぬ。

あれたる庭の
露しげきに、
  
わざとならぬ
 匂ひ、しめやかに
  打かほり。






わざとならぬ匂い 特別に気を遣ってわざわざ香をたくという訳でないが、常の嗜みの香の匂いが。
2次の文が続く。 
 忍びたるけはひ、いと物あはれなり。
 よきほどにて出で給ひぬれど、猶ことざまの優に覚えて、物のかくれよりしばし見居たるに、妻戸を今少しおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ籠らましかば、口惜しからまし。あとまで見る人ありとは如何でか知らむ。かやうの事は、たゞ朝夕の心づかひによるべし。その人程なく亡せにけりと聞き侍りし。
 (世を忍んで住んでいる様子が大層しみじみと情趣がある。ほどなくその方は出ていらしたが、自分はそのあたりの様子が優雅に思われて、なお物陰からしばらく見ていたが、女性はこの客人を送り出した妻戸を少しあけて、月見る様子で見送っている。もし客人を見送るなりすぐに、奥に入ってしまったとしたら、どんなに情けなく思われたであろうか。帰る人を見送った後まで、こうして見ている人があるとは、どうして知り得ようか。このようなことは平素の奥ゆかしい心遣いによることだろう。その女性はほどなく亡くなったと聞いた。)
 現代語訳 (第三十二段)奥ゆかしい女の住まい
  九月二十日の頃、ある方にお誘いを受けて、夜が明けるまで、月を見て歩き回っ 
 たことがあったが、(誘ってくれた方が)思い出すところがあって、案内させて、お入
 りになった。(自分は外で待っていて、その家の様子を見てみると)秋草の荒れ寂れた露繁き庭に、常の嗜みの香の匂いがひっそりと漂ってきて、


*** ***

(17) (第四一段)
五月五日、賀茂の
くらべ馬を見侍りしに、
車のまへに
雑人(ざうにん)
立へだて見えざりしかバ、
(おの/\)おりて
    
(らち)のきハに
よりたれど、ことに
人おほく立こみて、
分入ぬべきやうもなし。
かかる折にむかひ
なる
あふち(樗)の
木に法師の上りて、木の

   またに
 ついゐて
     物見るあり。






おうち(楝・樗) センダンの古名。
以下の文が続く)
 法師は木の枝につかまりながら、ひどく居眠りをして、今にも落ちそうになると、何度も目をさました。これを見ていた人は驚きあきれて、「本当に大馬鹿者だ。このように危ない枝の上で、よくも安心して寝られるものだ」と言うから、それを聞いて自分がふと思い付くがままに、「我等が死の到来はただ今かもしれない。それを忘れて物見て日を暮らす。その愚かなことはあれ以上のものだ。」と言ったところ、前の人達が「本当にその通り。全く愚かなことです」と言って、皆後ろをふり返って、「こちらへお入りなさい」と言って場所を譲ってくれた。
 これくらいの道理は誰でも気がつかないはずはないけれど、折りからの特別の日だったので、思いがけない心地がしてはっと胸に響いたのであろう。
こうした何かの場合には、ひとは物に感じることがないわけでもないので、「人は木石に非ず。 皆情有り。 」という白氏文集の一節の意味を初めて得心したことだった。
 現代語訳 (第四十一段)祭りで見た、印象的な場面
  五月(さつき)五日(いつか)、賀茂神社の競馬(くらべうま)を見に行った折り、車の前に雑人衆が立っていて
 見えなかったので、各々車からおりて、馬場の柵によったのだが、とても人が多く
 て、割り込めそうもなかった。
 こうした際に、向か側にある(おうち)の木に、法師が登り、木の股に座り込んで見物して
 いた。







*** ***

(18) (第四十四段)

あやしの竹のあミ
戸のうちより、いと
若き男の、月影に
色あひさだかならねど、
つやゝかなるが狩衣
にこき 
さしぬきいと
ゆへつきたるさまにて、
さゝやかなる童ひとり
 具してはるか
(なる)、田の
 中のほそ道を、いな
 葉の露に
そぼちつゝ
 
分行(わけゆく)ほど笛をえならず
 吹すさひたる、
(あハれ)ときゝ
  しるべき人もあらじと思ふに、


 ゆかんかた
 しらまほしくて見送りつゝ
  ゆけバ、笛をふきやみて、
  山のきハに
  
惣門のあるうちに入ぬ。






粗末な。
指貫 布袴(ほうこ)・衣冠または直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)の時に着用する袴。
ゆえづく(故付く) わけがありそうで。
そぼ・つ(濡つ) ぬれる。
総門 外構えの大門。総構えの正門。
 現代語訳 (第四十四段)若い男が奏でる笛の音に誘われてあとを追った話
  粗末な竹の編戸の中から、若い男が、月の光りで色合いははっきりしないけ
 れど、つやのよい狩衣に濃い指貫を召して、たいそうわけがありそうな様子で、わ
 ずか召使いの童ひとりを連れて、はるか彼方、田なかの細道を、稲葉の露に濡れ
 ながら分行くほどに、笛を何とも言えずよい音色に吹き遊んでいる。その音色をあ
 われと聞き知るべき人もいないと思ふと、行先が知りたくて、見送りつゝ行くと、笛
 を吹き終えて山の際の総門のある邸に入った。



*** ***

(19) (第四十七段)
或人
清水(きよミづ)
     参りけるに、
(おひ)たる尼の
  ゆ(行)きつれたりけるが、
 みちすがら
 「
くさめ/\」といひもて
     行けれバ、
 「あま
御前(こぜ)
  何事をかくハ
   のたまふぞ」と

 とひけれ共、
 いら(答)へもせず、
  なをいひやまざりける。







京都東山の清水寺。
くさめ/\ くしゃみが出たとき唱えるまじないの語。休息万病(くそくまんびよう)を早口に言ったものという。
以下の文が続く。
 
を度々とはれて、うち腹だちて、「やら、鼻ひたる時、かく呪(まじな)はねば死ぬる」と申せば、 養ひ君の、比叡山に児にておはします、たゞ今もや鼻ひ給ふらんと思へば、かく申すぞかし」と言ひける。わりなき心ざしなりけむかし。
 (何度も聞かれて、腹立てて、「ええ。くしゃみをした時は、このようにおまじないをしないと、死ぬと言われるので。養い君(育てた御子)が比叡山で稚児でおられますが、ただ今も、くしゃみをなさっていないかと思って、こう言うのです。」と言った。一通りでない真心である)

*兼好判也。かの尼が仕業(しわざ)は愚痴なるに似たれど実(まこと)は有難き志なるべし。(中略)平生の意入(こころいれ)の第一をあらはせり。此の尼は愚なる心からも、常々怠らず、斯様に思ふことは有難き志なりと也。「徒然草諸抄大成」(貞享5 刊)
 現代語訳 第四十七段)養い君のことを、常に案じる老いた尼の話
  或人が清水寺へ参詣したところ、老いた尼と道連れなったが、その尼が歩きな
 がら「くさめ。くさめ」と言い続けてたので、「尼御前、何でそのようにおっしゃるの
 ですか」と尋ねたけれど、答へもせず、なお言うのを止めなかった。


*** ***

(20) (第九十段)

 大納言法印のめしつかひ
 し
乙鶴丸(おとづるまる)、やすら殿
 といふ者をしりて、つねに
 行かよひしに、ある時出て
 かへり来たるを法印「いづ
 くへ行きつるぞ」ととひし
 かバ「
やすら殿のがりまかり
 て候」 と言ふ。「そのやすら殿ハ
 2男か、法師か」と又とハはれて、
 袖かき合て「いかゞ候らん
 頭(かしら)をバ見候ハず」と
     こたへ申しき。


    
(第九三段)

 「牛を売る者あり。
  買ふ人、明日その
 あたひ(価)をやりて、牛を
  とらん」といふ。夜の間に
 牛死ぬ。かハんとする人
  利あり。うらんとする人
    損あり」とかたる。
3





(第九十段)
やすら殿のところへ出掛けておりました。
在俗の男。出家せぬ男。
乙鶴丸とやすら殿の交友については 喜多村筠庭(きたむら いんてい)曰く、「僧家は勿論、俗間には、(中略)わきて甚だしくて、彼の桃を分ち袖を断けん事は物かは、家を亡ぼし身を失へる類、種々の草子共に多くみえたり」とある。
[嬉遊笑覧 喜多村筠庭著(文政13年自序)]

(第九三段)以下の文が続く。
(中略)「されば、人死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び日々に楽しまざらむや。愚かなる人この楽しみを忘れて、いたづがはしく外の楽しみを求め、この宝を忘れて、危(あやふ)く他の宝を貪るに、心ざし満つる事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた生死(しゃうじ)の相にあづからずといはば、まことの利を得たりといふべし。」といふに、人いよ\/嘲(あざけ)る。
 現代語訳 (第九十段) 主に交遊相手を尋ねられた稚児が滑稽な答えをした話        
  大納言法印の召使っていた乙鶴丸が、やすら殿という者と知りあって、いつも行 
 き来していたが、ある時出かけて帰ってり来たのを、法印が「どこへ行って来たか。」
 と、尋ねたところ、「やすら殿のところへ出掛けておりました。」 と言ふ。「そのやすら
 殿は俗人か、法師か。」と又尋ねられて、袖打ち合わせてかしこまり、「さあどうだった
 でしょう。頭は見ません」と答えた。
(どうして頭だけが見えなかったのだろうか)
   
  
 
        (第九三段) 牛の売買を例えにして命の無常を説く
  「牛を売る者ある。買う人が明日その代金を払って、牛を引き取ると言う。夜の間に
 牛死んでしまった。買おうとした人は利あり。売ろうとする人は損あり。」と語った。


*** ***

(21) (第五一段)

亀山殿御池(ミいけ)
 大井川の水を
  
まか(引)せられんとて、
おほゐ(大井)川の土民に仰て
 水
(くるま)を作らせられけり。
 
日数にいとなミいだして
 かけたりけるに、大かためぐらず。
 さて、宇治里人をめして
 こしらへさせられけるが、
 思ふやうにめぐりて、
 水を汲入る事、
  めでたかりけり。






亀山殿 京都市右京区の小倉山南東部にある丘。大堰川(おおいがわ)に臨み、嵐山に対する。後嵯峨天皇がここに離宮を建て、亀山殿という。
まか・す(引す) 田・池などに水を引く
日数をかけて念入り作らせた。

 
 現代語訳 (第五一段)水車を例えにその道の専門家に対する賞賛
  亀山殿の御池に、大井川の水を引かれようとして、大井の土地の民に仰せつけ
 て、水車を作らせになさった。日数かけて念入りに作らせたが、全然回らなかった。
 それで、(水車に慣れている)宇治の里人を召して作らせなさったが、思い通り回っ
 て、水を汲み入れる事、見事であった。
(万事、その道に詳しいものは貴重である)


*** ***


(22) (第五十三段




仁和寺の[法師]、(わらは)[の]法師にならんとする
名残とて
(をの/\)あそぶ事有けるに、
(ゑひ)(けう)に入、
   3
あしがなへ(足鼎)を取て、
かしらにかづ(被)き、つまるやうに
するを、鼻ををしひら
めて、かほをさしいれ
 舞出たるに、満座
 
(けう)に入ること
  かぎりなし。






仁和寺 京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派の総本山。光孝天皇の勅願により888年(仁和四)宇多天皇が創建し、落飾後住居としたため御室御所と称した。
稚児姿の少年が剃髪して僧になる時、そのなごりを惜しむ宴。
足鼎 足が三本ついた釜。
結局抜けなくなってしまい、医者に行くが、手の施しようがなくなり、無理矢理引き抜くと耳も鼻も・・・

 現代語訳 (第五十三段)ある法師の失敗談一
  仁和寺の法師。、稚児が髪を剃って僧になるときに、名残に皆集まって遊ぶ
 ことがあったが、酔って興に入り、足鼎(あしながえ)(足つきの釜)を取って、頭にかづき、つまり
 そうなのを、鼻を押し広げて、顔を差入れ、舞い出したのだが、満座興に入ること限
 りなしであった。


*** ***


(23) (第五四段)
風流の
わりご(破籠)やうの物、
箱ふぜい(風情)に入れ、
 
並岡(ならびおか)に埋ミ
をきて、児をそゝのかし
出にけり。うれしとこゝかしこ
遊びめぐりて、彼
(しるし)あらん
僧たち、
(いのり)見られよりて
うづミ岡たる木のもとに
むきて、
数珠(ずず)もり、(いん)
こと/\しくふるまひて、
ほ(掘)らバとて木葉かき
のけたれど、
 
つや/\物も見えず。





破籠(割子・割籠とも書く) ヒノキの薄い白木で折箱のように造り、内部に仕切りを設けて、かぶせぶたにした弁当箱。
並岡 双岡 仁和寺付近にある小丘。
印  両手の指をさまざまに組み合せて宗教的理念を象徴的に表現すること。印を結ぶ。
つやつや  少しも。
この章の最後は。
 
「あまりに興あらんとすることは、必ずあひなきものなり」
 (あまりに面白くしようと、凝った策をめぐらすことは、必ず失敗するものだ。)

 現代語訳 (第五四段)ある法師の失敗談二
  風流な破籠(わりご)のような物を、箱に入れ、仁和寺近くの並岡に埋めておいて、稚児
 を誘い出した。うれしくなって、ここ彼処、遊び回って、あの霊験あらたかな僧達に
 「お祈りをやってごらん」といって、埋づみ岡の木のもとに向かって、数珠をもみ、印
 形を大げさに結んでから、(隠した埋めて置いたものを)掘ろうとして、木葉を掻き退
 けたけれど、少しも見つからなかった。


*** ***


24) (第六十段)
真乗院(しんじようゐん)盛親(じやうしん)僧都(そうづ)とてやん
ごとなき智者ありけり。
いもがしら
といふものをこのみて、おほくくひ
けり。談義の座にても
おほきなる鉢にうづ
高くもりて、ひざもと
に置てくひな
がら文をも
よみけり。








真乗院(しんじようゐん) 仁和寺の院家(いんげ)。
芋頭 サトイモの、親いも。
 現代語訳 (第六十段)芋頭が大好物なある高僧の話
  仁和寺の真乗院に盛親僧都という尊い高僧があった。芋頭というものを好んで
 多く食べていた。説教の座でも、大きな鉢にうづ高く盛って、膝もとに置て食べなが
 ら講義した。


*** ***


(25)  (第六一段)
御産(ごさん)の時こしき(甑)
おとす事ハさだまれる
     ことにあらず。
胞衣(えな)とゞこほるときの
  まじなひなり。
とゞこほらせ
  給ハねバ
   此事なし。
 下ざまよりおこりて
  させる本説なし。
 大原の[里の]
 こしき(甑)を
  めすと也。







皇子皇女のご誕生の時。
こし(甑) 米などを蒸すのに用いる器。甑落し 皇子・皇女出産の時のまじないとして、御殿の棟から甑を落すこと。一説に 「甑」は「腰気」に通ずるゆえという。
胞衣(えな) 胎児を包んだ膜と胎盤。後産(あとざん)
 現代語訳 (第六一段) 宮中の御産の時のこしきの由来。
  (皇子ご誕生の)御産の時、こしき(蒸し器)を落とす事は決まったていること 
 ではない。
 後産が滞る時のおまじないであり、滞りなされないならば、このことはしない。
 下ざまより起こったことで、根拠となるべき説はない。大原の里のこしき(蒸し器)
 を取り寄せるとある。


*** ***

(26) (第八十七段)
下部(しもべ)に酒のまする事ハ
心すべきこと也。宇治に
住けるおのこ、京に
具覚房(ぐかくバう)とて、
      
遁世(とんせい)
の僧を(むかひ)に、馬を
つかハしたりけれバ、「口つきの
男に
(まづ)一度(ひとつ)せさせよ」
とて酒をいだしけるに、
さしうけ/\よくのミぬ。
木幡(こはた)のほどにて2奈良
法師にあひて「日暮に
たり、あやしきぞ」とて
刀ぬきけれバ、
   人々ゆるさず。
  具覚房、手を
  すりてわびぬ。





一杯飲ませよ
2奈良法師 奈良の東大寺や興福寺などの法師

 現代語訳 (第八十七段) 下部に酒を飲ませる事、注意が肝心
  下部(しもべ)に酒を飲ませる事は、気をつけなければならないことだ。
 宇治に住んでいた男が、京に具覚房(ぐかくぼう)という世捨ての僧を迎えに馬を遣わしたところ
 (具覚房は「この先道も長い、)口取りの男に先づ一杯飲ませよ」と言うので
 酒を出すと、差し受け/\よく飲んだ。(この口取り男は太刀をさして頼りになりそう
 だったので召し連れて行くと、)木幡(こはた)の辺で(大勢の兵士を従えた)奈良法師
 に出会った。この口取り男は「日暮れた中に、あやしいぞ。」と言って刀を引きぬい
 たので、(奈良法師の護衛の)人々これを許さず(皆太刀をぬき、矢をつがえた
 ので)、具覚房(ぐかくぼう)は手をすり合わせて(「正体なく酔っぱらった者で、どうかお許し
 下さい」といって)あやまった。
 (奈良法師の一行は皆々あざ笑って行ってしまった)


*** ***

(27) (第八十九段)
「奥山に
猫またあり有」と言、
「山ならねとも、これらにも
猫の
2へ(経)あかりて、人をとる
事ハあるや」をといふもの
有けるを、
何阿弥陀仏
とかや、れんか(連歌)しける
法師聞て、「ひとり
あり(歩)かん身ハこゝろ
すべき事にこそ」と
おもひ夜更て帰るに、
小川のはにて
 音に聞し
   猫またに
      あへり。





猫股・猫又 猫が年老いて尾が二つにわかれ、よく化けると
 いわれるもの。
年を経て、なりあがる。
人を取って食うことはあるという。
何阿弥陀仏と号して。 阿弥陀号 中世以降、浄土系の僧・仏工・画工・能役者・連歌師などの名の下に「阿弥陀仏」「阿弥」「阿」などとつけたもの。阿号。
以下の文が続く。
猫又が案に違わず、足の元へ、ふと寄ってきて、すぐに飛び付くなり、法師の首のあたりを喰いつこうとする。法師は仰天して肝をつぶして、防ごうとするが力もなく、足も立たず、小川へ転びこんで「助けて~猫又だ。おいおい。」と叫けべば、家々よりたいまつを持って走り来て見ると、この辺でみる僧である。これはどうしたと言って、川中より抱き起こせば、連歌の賞品の扇や小箱など、懐に入れていたのも水びたしになってしまった。九死に一生を得た心地で這うようにして家に帰った。実は猫又と思ったのは、法師の飼い犬が、暗いけれども飼い主と知って、飛びついたのだった。)

 現代語訳  (第八十九段) 飼い犬を猫股と間違えて、大騒ぎをした法師の話
 「奥山に猫又というものがいて人を食うそうだ」と誰かが言うと、「山でなくても、
 この辺にも猫のこうらを経たのが、人を食う事はあるそうだ」と言う者があったが、
 何阿弥陀仏とかいう号の連歌をやっている法師が聞いて、「一人歩きする者は気を
 つけなければならない」と思いながら夜更け(るまで連歌し)て帰る時に、小川のそば
 で、噂に聞いたあの「猫又」に出会った。


*** ***


(28) (第百四段)
荒れたる宿の人めなきに、
 女の
はゞかりことある頃にて、
   つれづれとこもり居たるを、
  或人とふらひ給ハんとて、
夕月夜のおぼつかなきに、
 忍びて尋おハしたるに、
  
犬のことごとしく
 とがむれバ、
   げす(下司)女の出て
 「いづくより」といふに
  やがて案内
   せさせて
    入給ひぬ。







憚り事 遠慮すること。慎むこと。例えば服喪中など。
犬が大層吠えたので。

 現代語訳 (第百四段) ある人が、馴染みの女を訪れた時の様子
  荒れはている屋敷の人目のないところに、女が慎み事がある頃で、一人寂しく
 籠もっていたのを、或人が訪ねようと、夕月夜のほの暗さに、こっそりお訪ねた
 ところ、犬が激しく吠え立てると、下女が出てきて「どちらから」というのに、すぐに
 案内させてお入りになった。 


*** ***

(29) (第百六段)
高野(こうや)証空(しやうくう)上人
 京へのぼりけるに、細道にて
  馬に乗りたる女の
 行きあひたりけるが、
  口引ける男あしく
       ひきて、
ひじりを堀へ
   おとしてけり。
  
(ひじり)いと
    はらあしく
  とがめて
  いさかひに
    なり侍ぬ。






 現代語訳 (第百六段) 高野山の聖が(馬の)口取男と言い争いをした話。
  高野山の証空上人が京へ上った折りに、細道で馬に乗った女に行き会ったが、
 馬の口を引く男が引き損なって、聖を堀へ落としてしまった。聖は大変意地悪く、と
 がめて言い争いになった。

*** ***

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(30) (第百七段)
亀山院の御時、
しれたる女房ども若き
男たちのまいらるゝごとに、
郭公(ほとゝぎす)や聞給へる」ととひて
心みられけるを、何がしの
大納言とかやハ
数ならぬ身ハ、え
きゝ候ハず」と答へ
られけり。
 
堀川内大臣どのハ
  「
岩倉(いはくら)にて
   聞
(さうら)
    しやらん」と
     仰られたる。







亀山院 亀山天皇。元寇の際、身を以て国難に代ろうと伊勢神宮に祈願。後宇多天皇に譲位後1287年(弘安10)まで院政。(在位1259~1274)(1249~1305) 
しれるたる(痴れたる) いたずらを好む。
「音せぬは待つ人からか郭公たれ教へけむ数ならぬ身を」
 源俊頼『続古今集』(巻17雑上)を引用しての返答。
堀川内大臣 源具守。
岩倉 もと京都府愛宕(おたぎ)郡岩倉村。今、京都市左京区に属する。(歌枕)
以下の文が続く。
 
「これは難なし。数ならぬ身むつかし」などさだめあはれけり。すべて男は女に笑はれぬ樣に生したつべしとぞ。
 (女房達は「堀川内大臣の答えは無難ね。「数ならぬ身」は答え方が嫌味だわ。」など批評し合った。すべて男は女に笑われないように育て上げるべきであるということだ。)

 現代語訳 (第百七段) 女のもの言いに当意即妙に答えられる男はめったにいない
  亀山院の御時、いたづら好きな女房どもが、若い殿上人達が参内する毎に、「ほと
 とぎすをお聞きになりましたか」と尋ねて試されたのを、何がしの大納言とかは、
 「数ならぬ身は、とても聞きません」と答えられた。堀川内大臣殿は「岩倉にて聞
 いたようです」と仰られた。


*** ***

(31) (第百九段)

高名の木のぼりと
 いひしおのこ、
人を
をきて(掟)ゝ、
 高き木に
のぼせて、
(こすゑ)
 きらせしに、
いとあやしく見えし程ハ
 いふこともなくて、
 おるゝ時に、軒たけ
  ばかりににて、
  「あやまちすな。
 心しておりよ」と
  ことばをかけ侍りし。







次の文が続く
 「かばかりになりては、飛び降るゝともおりなむ。如何にかくいふぞ。」と申し侍りしかば、「その事に候。目くるめき枝危きほどは、おのれがおそれ侍れば申さず。あやまちは安き所になりて、必ず仕ることに候」といふ。あやしき下臈なれども、聖人のいましめにかなへり。
(「このよう低い所では飛び下りたとしても下りられるでしょうに。どうしてこのように注意されるのですか」と私は尋ねた。木登り名人は「そのことでございます。高くて目が回り、枝が危ないときは、当人が警戒しているので注意はしません。怪我は安全な所になって、必ず起きるものです」という。身分の低い者であるが、聖人の戒めにも適っていることだ)
現代語訳 (第百九段) 高名な木登り名人をたとえに、油断大敵を説く
  木登り名人として有名な男が、人を指図して、高き木にのぼせて、梢を切らせ
 た時、大変危険と思われる間は何も言わなくて、仕事が済んで降りる時に、もう軒 
 丈ばかりになって、「あやまるなよ。注意して降りろ」と言葉をかけた。


*** ***

(32) (第百十段)

双六(すころく)の上手と
   いひし人に、
そのてだて(手立)を
 とひ侍りしかバ、
「かたんと
 うつべからず。
 まけじと
    うつべきなり。
いづれの手か、
 とく負ぬべきと
  あんじて、
    をそく
    ま(負)くべき
手につくべし」といふ。







以下の文が続く。
 
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。
 (その道を知っている者の教えは、身を修め、国を統治する
 道も、また同じである。)
 現代語訳 (第百十段) 勝利の心得は守備にある
  双六の上手と言われた人に、その勝つ方法を尋ねたところ、「勝とうと思って打って
 はだめだ。負けないと思って打つのだ。どの手が早く負けるかを考えて、少しでも遅く
 負けるように手を尽くすべきだ」と言う。


*** ***


(33) (第百十三段)

四十(よそじ)にもあまりぬる人の、
 
色めきたるかた、
    をのづから
 
忍びてあらんハ
   いかゞせん。
 
事にうち出て
   
 男女(をとこおんな)のこと
人のうへをも
  いひたハ(戯)るゝこそ 
 
にげな(似気無)く、
   見ぐるしけれ。






艶っぽい方面
ひそかに内々であるのハ
口に出して公に。
似つかわしくない。
 現代語訳 (第百十三段) 情事の話はみっともない
  四十を過ぎた人で、色っぽい方面は、おのずから内々であることは、やむを得
 ない。
 口に出して公然と、情事のことや、人の身の上のことなどを、言いふざけること
 こそ、ふさわしくないことで、見苦しいことだ。


*** ***

(34) (第百十四段)

今出川のおほい(大)殿、
           
嵯峨(さが)
おハしけるに、ありす(有栖)川の
 渡りに水の流たる所にて
さい(賽)王丸、御牛を
  追ひたりけれバ、
 あが(足掻)きの水
   前板まで
さゝとかゝりけるを、
  
為則(ためのり)御車の
    しりに候ひけるが
 
希有(けう)の童かな」と
   いひたりけれバ、
 おほい(大)殿
  御
気色(けしき)
 あし(悪)く成ぬ。






西園寺(藤原)公相。実氏の子。
西園寺家に仕えた牛飼童。
とんでもない童かな。牛車(ぎつしや)の牛を駆使する者は成年でも童髪で、狩衣を着るので牛飼童という。牛童。

 現代語訳 (第百十四段) 今出川の大臣殿は自分の牛飼いをかばった
  今出川の大殿が嵯峨へお出でになった折りに、有栖川の渡し場で、(牛飼の)
 賽王丸が御牛を急がせたので、足掻きの水が牛車の前板までざーとかかり、為
 則が御車の後ろに控えて添い乗りをしていたが、「とんでもない牛飼だ。(このよう
 な所で御牛を追ってもよいものか。)」と言ったので、大殿は御機嫌が悪くなった。


*** ***

(35) (第百十五段)

宿河原(しゆくがハら)といふ所にて
      
ぼろ/\
おほくあつまりて、
九品(くほん)
念仏を申けるに。外より入来る
 ぼろ/\に「
(もし)此中に
 いろをし坊と申ぼろや
おハします。」と尋けれバ
 其中より「いろをし
 爰に候。 かくのたまふハ
たそ」と
(こたふ)れバ
 「しら
梵字(ぼんじ)と申者也。
をのれが師、何がしと申
人、東国にていろをしに
ころされけりと
承りしかバ其
(うらミ)
 申さバや」といふ。





ぼろ(梵論・暮露) 虚無僧(こむそう)の旧称。深い編笠を
 かぶり、尺八を吹きつつ人の門戸に物を乞う修行者。
 ぼろぼろ。
九品念仏 九品浄土に往生しようと願って念仏すること。
 また、念仏称名の調子を九通りに変えて唱えること。
 以下の文が続く。
(中略)
二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり
(その後、二人は河原へ出会って、互いに心ゆくまで刺しちがえて共に死んだという。)

 現代語訳 (第百十五段) ぼろぼろ同士の決闘
  宿河原という所でぼろぼろが多く集まって、九品浄土の念仏を唱えていると、
 外から来た一人のぼろぼろに「もしこの中にいろおし坊というぼろがいますか。」
 と尋ねた。
 大勢の中から「いろおしはここにおります。そのようにおっしゃるのはどちらか。」
 と答えると、「しら梵字と申す者です。自分の師、何某と申す人が東国でいろおし
 に殺されたと承わったので、そのうらみを申したい。」という。


*** ***

(36) (第百十七段)
友とする人に
 わろきもの七つあり。
一には高くやんごとなき人。
二にハわかき人。
三つには病なく身つよき人。
四つにハ酒をこのむ人。
五には
 
(たけ)
 いさめる
(つハもの)
六にハ
 
空言(そらごと)する人。
七つにハよくふかき人。

よき友三つあり。
一には物くるゝ友。
二にハくすし。
三には智恵ある友。







 現代語訳 (第百十七段) 悪友と良友の見解
  友とするのに悪いものが七つある。
 一は身分の高い人
 二は若い人 
 三は病なく頑強な人
 四は酒を好む人
 五は猛く勇ましい兵
 六はうそをつく人
 七は欲深い人。
 
  よき友には三つあり。
 一は物をくれる友
 二は医者 
 三は智恵ある友。


*** ***


(37) (第百五十八段)
「盃のそこを
(すつ)ることハ
 いかゞ心得たる」と
  或人の尋させ給ひしに
凝当(ぎようだう)と申侍れハ、
  そこにごりたるを
 すつるにや候らん」と
      申侍しかば
「さにハあらず。
     
魚道(ぎよどう)なり。
(ながれ)をのこして、
 口のつきたる所を
    すゝぐなり」とそ。

     
(百十九段)
鎌倉の海に、
 かつほ(鰹)といふ魚ハ、
   かの
さかひ(境)には
さうなき物にて、
  此頃もてはやすもの也。
それはかまくらの
年寄の申侍しハ、
 「此魚をのれら
若かりし世までハ
 
はか/\しき人の
  前へ出づる事侍らざりき」




凝当・凝濁(ぎょう‐どう) (「魚道」とも表記) 杯に残った
 酒で口を付けた箇所をすすぎ流すこと。
 また、杯の底に残った酒を捨てること。
土地
立派で、れっきとした地位にある。


現代語訳 (第百五十八段) 杯に残った酒を捨てる呼び名と作法     
  「盃の底に残った酒を捨てる事はどのように考えますか。」と、或人がお尋ねにな
 ったのに際して、「凝当と申しますのは、底にたまった酒を捨てるという意味でしょ
 うか。」と申したところ「そうではない。それは魚道である。
 流れを残して、口のついた所をすゝぐのである。」といわれた。
     
      (第百十九段) 鰹

   鎌倉の海にいる鰹と言う魚は、かの土地ではこの上ない物として、此頃もて
 はやしているものである。
 その鰹は鎌倉の年寄の言うには「此魚は俺ら若い頃までは、立派な地位のある方
 の前にお出しすることはなかった。」


*** ***


(38) (第百二十段)
唐物(からもの)
   薬の外ハなくとも
 ことかくまじ。書どもは
此国におほくひろまりぬれバ
かきもうつしてん。
 もろこし(唐土)舟の
たやすからぬミちに
 無用の物どものミ
       とりつ(取積)みて
所せくわたしもて来る。
   いとおろかなり。









 現代語訳 (第百二十段) 舶来品は薬以外不要。
  唐物は、薬の外はなくとも何の不足を感じない。
 書物などは此国に多く広まっているから、それを書き写しても済む。唐土の船の
 容易でない航路に、無駄な物ばかり沢山積んで来る。大変愚かなことだ。


*** ***



(39) (第百二十一段)
やしなひ、か(飼)ふ物には
 馬、牛、つなぎ苦しむるこそ
いたましけれど、
 なくてかなはぬ物なれバ
   いかゞハせん。
犬ハまもりふせぐつとめ、
 人にもまさりたれバ、
   かならず有べし。






1次の文が続く
されど家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなむ。その外の鳥獣(とりけだもの)、すべて用なきものなり。走る獣は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠(こ)に入れられて、雲を恋野山を思ふ愁へやむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くば、心あらむ人これを楽しまむや。
(以下省略)
 現代語訳 (第百二十一段) 家畜への愛護
  家畜には、馬、牛。つなぎ苦しめるのも可哀相だけれど、なくてはならないものだ
 から、仕方がない。犬は家を守り防ぐ務めが、人にもまさっているから、たしかに
 飼ってもよいだろう。
1


*** ***


(40) (第百二十二段)
人の才能ハ、
(ふミ)あきらかにして、
(ひじり)(をしへ)をしれるを第一とす。
 次にハ手か(書)く事、
むねと
  する事ハなくとも、
これを習ふべし。学問に
 
便(たより)あらんため也。
次に医術をならふべし。







専門とする。
 現代語訳 (第百二十二段) 必要な能力
  人の才能は書籍に精通して、聖賢人の教えを知ることを第一とする。
 次は、字を書く事を、専門とする事はなくとも、これを習っておくのがよい。
 学問をする上で都合がよいからである。次に医術を習うのがよい。


*** ***




(41) (第百二十三段)
無益(むやく)のことをなして、時を
 うつすを、愚かなる人とも
僻事(ひがごと)共いふべし。国の
  ため、君のため、
 やむことを
   得ずして
  なすべき事おほし。

第一に食物、
  第二にき(着)る物、
   第三に
居所(きよしよ)
 人間の大事
   此三つには
(すぎ)ず。






僻事(ひがごと) 道理にはずれた事柄。心得ちがいの事。
以下の文が続く。
 「飢ゑず寒からず、風雨におかされずして、しづかに過(すぐ)すを楽しみとす。ただし、人皆病あり。病におかされぬれば、その愁へ忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つのこと、求め得ざるを貧しとす。この四欠けざるを富めりとす。この四のほかを求め営むをおごりとす。四のこと倹約ならば、誰人か足らずとせん。」
 (飢えず、寒からず、風雨におかされないで、静かに暮らすことを楽しみとする。ただし人には皆病気の時がある。病におかされると、その苦しみは堪え難い。医療を忘れてはならない。薬を加えて四つである。
このうち一つでも欠けるを「貧」と言い、この四つの欠けていないのを「富」という。四つのほかを求めるのを「おごり」という。この四つのことが慎ましくも足りているならば、どんな人でも不足ということはないであろう。)
 現代語訳 (第百二十三段)世俗の大事は衣食住の三つ
  役に立たないことして時間を費やすのを、愚かな人とも、心得違いの人とも言う。
 国のため、君のため、やむ得ずにしなければならない事は多い。
 (その残りの暇はいくらもないのだ。生きるために大事なことは)
 第一に食物、
 第二に着る物、
 第三に住居である。
 人間の大事はこの三つに過ぎない。


*** ***

(42) (第百二十九段)
顔回(がんくわい)ハ、
    こゝろざし人に
労をほどこ(施)ざじとなり。
 すべて人をくるしめ、
 ものを
 しへた(虐)ぐる事
(いや)しき民の志をも、
 うバふべからず。
又いとけなき子を
  すかしおどし
  いひはづかし(辱)めて
  興する事あり。
  せまじきこと也。






顔回 春秋時代、魯の人。字あざなは子淵シエン、顔淵とも呼ばれる。孔子の第一の弟子。非常に貧しかったが、学問を好み、一を聞いて十を知り、怒りをうつさず、同じあやまちを二度とくりかえさないといわれ、孔子の門人の中で徳行第一とされていた。(前514~前483)
しえた・ぐ 虐ぐ
次の文が省略されている。
大人しき人は、まことならねば事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥しく、あさましき思ひ、誠に切なるべし。これを惱して興ずる事、慈悲の心にあらず。
(以下省略)
(大人はうそということを知っているから問題にもならないけれど、幼い心には、身にしみて恐ろしくも思い、また恥ずかしく、情けなく思う気持は誠に痛切である。このような子供を困らせて面白がることは無慈悲なことである。)

現代語訳 (第百二十九段) 無慈悲なことはしてはならない
  顔回が心掛けていることは、他人に苦労を押しつけないことであった。
 すべて、人を苦しめ、むごい仕打ちをすることはしてはならない。どんなに賤しい
 民でも、その欲する意志を奪ってはならない。
 又幼い子をだまし、脅し、いじめて面白がることがある。
 (人として)してはならないないことである。


*** ***


(43) (第百三十段)
物にあらそハず、
をのれを
まげて人に
したがひ、わが身を後
にして、人を先にする
にはしかず。よろず
の遊にも勝負を
このむ人ハかちて
興あらんためなり。
をのれが芸のまさ
りたる事をよろこぶハ
 ま(負)けて興なく
  おぼゆべき事、
    又しられたり。







まげて(枉げて)(曲げる)意志や欲望などをおさえつける。

以下の文が続く
 (中略)人に勝らむことを思はば、たゞ学問をして、その智を人に勝らむと思ふべし。道を学ぶとならば、善に誇らず、ともがらに爭ふべからずといふ事を知るべきゆゑなり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、たゞ学問の力なり。

 現代語訳 (第百三十段) 勝負の弊害
  物事を人と争うわず、自分を抑えて人に従い、自分のことを後にして、人を先に
 するに越したことはない。
 よろずの遊びにも勝負を好む人は、勝つことが面白いためである。
 自分の芸のまさっていることを喜ぶ。
 それ故、負けて面白くなく覚えることは、よく知られていることだ。


*** ***


(44) (第百三十五段)
資季(すけすゑ)大納言入道
      とかや聞えける人
具氏(ともうじ)宰相中将に逢て、
「わぬしのとハれん程の事、何事
なりとも答申さゞらんや」
        といはれ
けれバ、具氏
 「
いかゞ侍らん」と申され
けるを、「さらバ、

      2
あらがひたまへ」 と
いはれて、「
はか/\敷ことハ
     かたハし(片端)も
まね(学)びしか侍らねバ、
         何となき
そゞろ事の中に
        おぼつかなき事
  とひ奉らめ」と
   申されけり。







さあどうでございましょうかね。
あらそい。勝負。
はかばかしい(捗捗しい) しっかりしたこと。
そぞろごと(漫ろ言) つまらぬこと。くだらぬ事。

具氏の宰相が
 
「むまのきつりやうきつにのをか中くぼれいりくれんどう」
 の意味を質問したが、資季の大納言は答えられずに具氏の
 宰相にご馳走することになった。
 (この文言の意味は不詳。)

現代語訳 (第百三十五段) 知ったかぶりの恥じ掻き
  資季の大納言入道という人が、具氏の宰相中将に会って、「そなたの尋ねるくら
 いの事は、何事なりとも答えて見せましょう。」と言われたので、具氏「さあどうでご
 ざいましょうかね。」と申されたのを、「では勝負されますか。」 と言われて、「しっか
 りした事は少しも学んでないので、何となくつまらないことの中の、あやふやで不
 確かなことをお尋ねしましょう。」と申された。


*** ***

(45) (第百三十七段)
花ハさかりに、
 月ハくまなきをのミ
  見るものかハ。
 雨にむかひて
  月をこひ、
たれこめて
 春の行ゑを
   しらぬも、猶あはれに
    情ふかし。









第百三十七段は徒然草の下巻の最初に出てくる文章である。
古今集巻二春の歌 藤原因香(ふじわらのよるか)の次の歌をふまえる。「たれこめて 春のゆくへも しらぬまに まちし桜も うつろひにけり」 
次の文が続く
咲きぬべきほどの梢、散り敷をれたる庭などこそ見どころおほけれ。(中略)万の事も始め終りこそをかしけれ。男女(をとこをみな)の情(なさけ)も、偏に逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さをおもひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲居を思ひやり、淺茅が宿に昔を忍ぶこそ、色好むとはいはめ。
(今にも咲きそうになっている梢、花が散って一面に散らばる庭などの趣は、真っ盛りの花よりもかえって見所が多いのである。(中略)月や花に限らず、何事でも、事の始めと終わりが特に趣があるものだ。
 男女の恋心も、ただ一途に自由に親しく逢うのをいうものであろうか。心に思いつつも、恋人と逢うことなしに終わった時のつらさを思い、はかない恋の契りを嘆き、長き夜をひとり待ち明かし、はるか離れている恋人を想いやり、或いは荒れ果てた宿で、恋人に逢った昔を懐かしく思い出すというのが、恋の情(なさけ)を解すると言うのものだろう。

 現代語訳 (第百三十七段) 自然への美意識
  桜の花は真っ盛り、月は曇りない明月の時だけを愛でるものだろうか。いや、
 そうではない。雨の夜に見えぬ名月を慕い、簾などを下ろして家の内に籠っていて、
 過ぎて行く春の様子を知らないでいるのも、猶しみじみと情趣が深いものだ。


*** ***

(46) (第百三十七段)
さやうの人の祭見しさま、
いとめづらかなり。「見もの、いと
をそし。其程ハ桟敷不用
なり」とて、奥なる屋 にて酒のミ、
囲碁、双六など遊びて、
  「
わたりさふらふ」と
いふ時、をの/\
   きもつぶるゝやうに
あらそひ、はしりのぼりて、
       落ぬべき
まで
(すだれ)はり出て、
      をしあひつゝ、一
事も見もらさじとまもり、「
とあり
かゝり」と物ごとにいひて
わたりすぎぬれバ、
「またわたらんまで」と
いひておりぬ。







祭り行列が前を通りますよ。
こうだ、ああだと。


現代語訳 (第百三十七段) 田舎人のおかしな祭り見物
  そのような田舎人が賀茂の祭を見物している様子は、大変めづらしかった。
 「見もの、来るのがとても遅い。それほど遅いのなら桟敷は不用だ。」と言って、奥の
 部屋で酒を飲み、囲碁、双六など遊んで、「祭り行列が前を通りますよ」という時、
 それぞれが肝潰れるように争って桟敷に走り昇って、落ちそうになるほど、簾を押
 して、押し合いしながら、ひとことも見のがさないと見守り、「こうだ、ああだ」と見る
 ごとに言い、渡り過ぎれば、「また渡るまで」と言って桟敷を降りてしまった。


*** ***

(47) (第百三十九段)
家に有たき木ハ松、桜。
松ハ五葉もよし。花ハひとへ
なるよし。八重さくらハ、ならの
都にのミ有けるを、此ころそ
世におほく成侍るなり。吉野
の花、
左近のさくら、皆ひとへ
にてこそあれ。八重さくらハ
ことやう(異様)の物なり。
       いと
こちたく
ねぢけたり。うへずともあり
なん。おそさくら又すさまじ。

虫の付たるもむつかし。
柳又をかし。卯月
はかりの若かえで、
すべてよろづの花
もみち(紅葉)にもまされり。

草ハ山吹、藤、
 かきつバた。 池には
 
(はちす)。秋の草ハ
 きちかう(桔梗)、萩、
 
女郎花(をみなへし)、かるかや(刈萱)
 りんだう(リンドウ)、菊、黄きく
 つた、くず、朝がほ
 
垣にしげからぬ、よし。


左近の桜  平安以降、紫宸殿の南階下の東方に植えられた
 山桜。
こちたし コト(言・事)イタ(痛)シの約)たくさんあってうるさい。
以下の文が省略されている。
 いづれもいと高からず、さゝやかなる




 現代語訳 (第百三十九段) 家に植えたい草木
 家に植えておきたい木は松、桜。松は五葉もよい。桜は一重がよい。
 八重桜は奈良の都にだけ有ったが、この頃は、世間に多くなったものである。
 吉野の花、左近の桜。これらは皆一重である。八重桜は普通の種ではない。
 大変沢山あって、うるさく曲がりくねっている。植えずともよい。
 遅桜は又面白くない。虫の付いたのも風情がなくむさくるしい。
 柳はまた風情がある。
 四月頃の若楓はすべて様々の花紅葉にも増して優れている。
 草は山吹、藤、かきつばた。池には 蓮。秋の草は桔梗(ききょう)、萩、女郎花(おみなえし)刈萱(かるかや)
 りんどう、菊、黄菊、つた、くず、朝顔、(何れもそんなに高くなく、ささやかに、)
 垣に繁り過ぎないのがよい。


*** ***


(48) (第百四十二段)
心なしと見ゆるものも、
 よき一言はいふものなり。
ある
あらゑびす(荒夷)の
 おそろしげなるが、
  
かたへにあひて、
「御子ハおハすや」ととひしに
 「ひとりももち侍らず」と
こたへしかバ、
 「さてハ物のあはれハ
  しり給ハじ。
 情なき御心にぞ。
       子ゆへにこそ
  よろづのあはれハ
   思ひしらるれ」と
      いひたりし。







心なし 情趣を解さないこと。風流心のないこと。
あらゑびす(荒夷) 荒くれ武士。都の人が野蛮な東国人を指していった語。
かたわらの人に向かって。
以下の文が続く
 
(中略)世捨人で無一文の者が、大体足手まといの係累を多くもつ者が、何かにつけて人の機嫌を取ったり、欲深いであるのを見て、無下にそれを軽蔑するは間違いである。その人の身になってみると、まことに大切な親のため、妻子のためには、恥を忘れ盗みをもしてしまいそうな事である。
 それゆえ盗人を捕えて悪事を罰するよりは、世の人を飢えさせたりせず、凍えさせたりせしないように、世を治めて行きたいものである。人は一定の生業がない時は一定の善心なしという。人は貧に窮すと盗みをしてしまう。世が治まらないで、凍えたり、飢えたりの苦しみがあれば、罪人は絶えることがない。人を苦しめ、法を犯させて、それで罪に処すということは、まことに不憫である。
 さて、どのようにして人を恵むべきかというと、上の者が贅沢をやめ、民を慈しみ、農を奨励すれば、下の者に利あること疑いない。衣食が世間並に出来ていて、なお悪事を働く人を、まことの盗人というべきである。

 現代語訳 (第百四十二段) 子を持ってこそ、もののあわれを知る。
  無風流な無骨者にも、一言くらいはよいことを言うものだ。
 ある荒くれ武士の恐ろしそうなのが、そばの人に、「お子はおありですか。」と尋ねた
 ところに「一人も持っていません。」と答えたので、「それではあなたはもののあはれ
 は分りますまい。情のない、お心の方で恐ろしい。子ゆへにこそ、すべてのあわれが
 思い知られるものです。」と言った。


*** ***

(49) (百四十四段)
(とが)の尾の上人、
  道を過給ひけるに
河にて馬あらふおのこ、
「あし/\(足々)」と言ひけれハ
上人立止りて、「あなたうと(尊)や

 
宿執開発(しゆくしふかいはつ)の人かな
  
阿字(あじ)々々(あじ)
   となふるぞや
    いかなる人の

御馬ぞ。あまりに
  たうとくおぼゆるは」と
たづね玉ひけれバ
  「
府生(ふしやう)殿の
 御馬に候」と答へけり。







栂の尾上人 鎌倉前期の華厳宗の僧。明恵。紀伊の人。著に法然の浄土宗を批判した「摧邪輪」などがある。(1173~1232)
宿執開発 〔仏〕前世での善根功徳が因となり現世にあらわれて実を結ぶこと。
阿字 梵語の第一字母。密教で、「阿」字は万物の根源であり、不生不滅の原理を象徴的に表現するとされる。
府生 六衛府および検非違使(けびいし)の下級幹部。主典(さかん)の次位。
以下の文が続く。
 こはめでたきことかな。阿字本不生(あじほんふしゃう)にこそあなれ。うれしき結縁(けちえん)をもしつるかな。」とて、感涙を拭(のご)はれけるとぞ。
(「これはめでたいことかな。阿字は本不生であるのだ。嬉しい結縁に出合ったものじゃ」と嬉し涙をぬぐわれたことである。)
*阿字本不生 一切諸法の本源が不生不滅である、すなわち空(くう)であることを阿字が象徴しているという考え。密教の根本思想の一。

*明恵上人は、馬丁の言葉「足、足」を梵語の「阿字、阿字」に。また「府生」を密教の「阿字本不生」の「不生」と聞き間違えて、大いに感動したという話。
 現代語訳 (第百四十四段) 馬丁の言葉を仏教の言葉として聞き、感動した僧侶の話
  栂尾(とがのお)の(明恵)上人が道をお通りになったところ、河で馬を洗う男が、
 「足々」と言うのをお聞きになって「ああ尊いことだ。前世の善根功徳がこの世で
 実を結んだ人じゃ。阿字阿字(あじあじ)と唱えているとは。どのような方の御馬か。
 あまりに尊く思われる」とお尋ねされたので、馬を洗う男は「府生殿(ふしょうどの)の御馬で
 ございます。」と答えた。


*** ***


(50) (第百四十七段)
灸治(きうぢ)、あまた所に
   成ぬれば
 神事に
 けがれあり
」といふこと、
ちかく人の
 いひ出せるなり。
格式等にも
 見えずとぞ。


    
(百四十八段)
四十以後の人
  身に灸をくハへて
 
三里をやかざれバ
 
上気の事あり
 かならす灸すべし。







灸治は神事にけがれありという説は根拠がない。
三里 灸穴(きゆうけつ)の一。手と足にあり、足の三里は膝頭
 の下で外側の少しくぼんだ所。ここに灸をすると、万病にきくと
 いう。
のぼせて顔がほてること。血が頭に上って興奮し、とり乱すこと。

 現代語訳 (第百四十七段) 灸治一       
  「灸治のあとが沢山になると、神事を行うのに汚れあり」ということは、近頃、人が
 言い出したことである。格・式等にも見えないことだという。
       
         (第百四十八段) 灸治二

  四十以後の人が、身体に灸をすえたあと、三里を焼いておかないと、のぼせて顔
 がほてること事がある。必ず(三里に)灸をすえねばならない。


*** ***



(51) (百五十段)
(もう)をつ(付)がんとする人、
 「よくせざらんほどは
   なまじゐに
人にし(知)られし。
  うちうちよく習ひ得て、
 さし出でたらんこそ、
 いと心にくからめ」と
つねにいふめれど、
 かくいふ人、
  一芸もならひ
      うることなし。











芸能
以下の文が続く
 いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて、譏り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず妄りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、ならびなき名をうることなり。
 
(まだ芸が全く未熟の段階から、上手な人の中に混じって、けなされても笑われても、恥ずかしがらず、何を言われても気にしないで努力する人は、生まれつきの才能がないとしても、その芸が滞ることなく、いい加減にせず努力すれば、才能のあっても努力しない人よりは、結局上手になり、他人にも名人と評価されて、並ぶなき名声を得るのである。)
 
現代語訳 (第百五十段) 芸能の名手
  芸能を身につけようとする人は、「よく出来ないうちは、なまじっか人に知られない
 ようにして、内々よく稽古してうまくなってから、人前に出るもということこそ、大変に
 奥ゆかしいものだ。」と常にこのように言う人は、一つの芸も習い得ることが出来な
 いものだ。


*** ***

(52)(百五十三段)
為兼大納言入道めしとられて
 武士どもうちかこみて
      
 2六波羅(ろくはら)
  ゐ(率)て行けれハ、
資朝(すけとも)
 一条わたりにて
       これを見て
「あなうらやまし。
    世にあらん思出
 かくこそあらまほしけれ」とぞ
     いはれける。











京極為兼 鎌倉末期の歌人。藤原定家の曾孫。祖父為家に歌を学ぶ。伏見天皇に重用され、「玉葉集」を撰。革新的で、二条家の為世と抗争。正和四年(1315)、佐渡・土佐に流された。歌論書「為兼卿和歌抄」。(1254~1332) 京極為兼『ウィキペディア(Wikipedia)』
六波羅探題 鎌倉幕府の職名。朝廷の監視および尾張・加賀以西の諸国の政務・裁判を総轄するため、京都六波羅に南北に分れて駐在。
日野資朝(ひの‐すけとも)  鎌倉末期の廷臣。権大納言俊光の子。文章博士・参議・権中納言などを歴任。後醍醐天皇に抜擢され、北条氏討滅の企てに加わったが、1324年(正中一)発覚、佐渡に配流、殺された。(1290~1332)
京極為兼の連行を目撃した資朝は、この九年後に政治的闘争に巻き込まれ、佐渡に流され殺害された。
日野資朝 『ウィキペディア(Wikipedia)』
 現代語訳 (第百五十三段) 資朝卿が、連行されて行く京極為兼を見て羨望した話
  為兼大納言入道が召し捕られて、武士どもが打ち囲んで、六波羅探題へ連行
 したところ、資朝卿が一条辺でこれを見て、「ああ、うらやましい。
 この世に生きた証として、このようにありたいものだ」と言われた。


*** ***

(53) (第百五十七段)
筆をとれバ物かゝれ、
     楽器をとれバ
 音をたてんとおもふ。
    
(さかつき)をとれバ酒をおもひ、
 さい(賽)をとれハ
   
()うたんことを思ふ。
 心ハかならず
  事にふれてきたる。
かり(仮)にも
 不善のたはふ(戯)れを
   なすべからず。









攤(だ) 銭を使って行う賭事。
次の文が続く
 (ちょっと経典の一句を開けて見れば、何となく前後の文も目につく。ふっと、長年の間違いを改めることもある。もし仮にこの経文を広げて見なかったならば、このことに気が付かなかったかも知られない。これ即ち心が物に触れるところの利益である。
 気がすすまなくても、仏前にあって、数珠を取り、経文を手に取れば、怠りながらも自然に善根
が積まれて、心が乱れていても(坐禅の腰掛に座れば)知らず知らずに瞑想の境地に入るであろう。
 
事理(じり)(事は外に表れた所作・理は心の働き)とは元来別々の物ではない。外相(げそう)(外に現れた姿・現象)がもし仏道に背くものでないならば、内証(ないしょう)(内心の悟り)は必ず育ってくる。ことさら外相(げそう)を不信心というべきではない。これ(外相)を仰ぎ尊ぶべきである。)

現代語訳 (第百五十七段) 心は必ず何かの事柄に触れて起こる
  筆を取れば、ものを書こうと思い、楽器を手にとれば、音を出してみようと思う。
 盃を持てば酒が欲しくなり、さいころを持てば双六を打ちたいと思う。
 心は必ず事に触れて起こって来る。
 仮にも善くない戯れをしてはならない。


*** ***


(54)

皇都画工
   文華堂西川裕信

書籍
製本  兵庫県下神戸元町通五丁目
発売  弘文堂 船井政太郎
書林







リンク

祐信画鑑 絵本徒然草 
 
(国立国会図書館 近代デジタルライブラリ-)

 徒然草(江口聡氏ページ

  徒然草(Taiju's Notebook)

英訳 徒然草(William N. Porter氏の英訳)
Scanned whole book of English translation by William N. Porter (1914)

京都大学電子図書館貴重資料画像 徒然草
京都大学電子図書館では、次の5点の徒然草写本・刊本を公開しています。
[徒然草絵抄][寛文12年刊][菊亭家旧蔵本 写][菊亭家旧蔵本 刊][正保2年刊]

奈良女子大付属図書館 阪本龍門文庫善本電子画像集 徒然草
天正15年(1587)徳大寺公維の筆写本。

徒然草諸抄大成」浅加 久敬( あさか きゅうけい )
(貞享5 刊) 京都大学附属図書館所蔵 谷村文庫

嬉遊笑覧 ( きゆうしょうらん ), 喜多村 筠庭 ( きたむら いんてい )文政一三自序 岩波文庫 五冊

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2011/8/17 改訂