746年(天平18年)、
家持が越中に国守としていた頃は
どんな時代だったのだろうか、
天皇(当時は聖武天皇)を中心とする律令体制が整うと共に,国家の力は北は東北地方から九州南端にまで及び,都を中心に唐文化の影響が強い,仏教色の濃い天平文化が栄えた。しかし,一方で墾田永年私財法に見られるように,律令制度の公地公民の大原則がくずれた。貴族達の大土地所有が認められ東大寺には4000町の広大な私有地が認められたようです、合わせて東大寺墾田の拡大も越中でも盛んに行われた。東大寺の大仏鋳造も調度この頃であった。
農民の生活も苦しく,藤原氏を中心とする貴族の対立が激しい時代でもあったようです。そんな中で
天孫降臨以来の名族大伴一族も勢力争いに敗れ。
大伴家も家持を最後に表舞台から消えたようですが。
最後に万葉集の編集という素晴らしい文化遺産を現在に残してくれました。


家持はその68年の生涯のうち25年近くを都を離れて越中、大宰府因幡、薩摩、相模、伊勢、陸奥の地方官生活でした。
今のサラリーマン社会で言えば左遷だったのでしようか。
いやいや、その頃の越中は。。。。。
都から派遣された4等官(守、介、じょう、目)が赴任していた、当時では大国扱いであったようです。