科学的思考ができない日本人





■科学的思考

 先に、日暮里・舎人ライナー及び里48における交通流動の変化に関する記事を書いて、改めて感じたことがある。それは、交通流動は科学として取り扱うことができる、という(筆者にとっては)当然すぎるほど当然の事実である。

 その一方で、今まで多くの先人から「日本人には科学的思考ができない」と指摘されている事実がある。そして、これについては筆者も深く同意せざるをえない。

 筆者の考える科学的思考法とは、以下の四種類のどれかに属している。

  1)演繹的手法
  2)帰納的手法
  3)分析的(統計的)手法
  4)実験的手法

 ほんらい敢えて解説するまでもない内容だが、論旨からすれば紙幅を割かなければなるまい。演繹的手法とは、堅固な原理・原則・法則を基礎として、実際の現象に臨む手法である。帰納的手法とは、一つの現象の確かさを固めたうえで、確かさを連鎖させる手法である。分析的(統計的)手法とは、原理・原則がわからず、確かさをまだ見通せない段階において、現象に関する統一的なデータを集め規則性・法則性などを見出そうとする手法である。実験的手法とは、同じく原理・原則が未確定な段階において、仮説を立て、実験を通じて規則性・法則性などを見出そうとする手法である。

 尤もらしく説明するのもばかばかしい素朴なことながら、これら科学的手法をまったくわきまえない輩が少なくないのには更に驚く。しかも、かような連中が弄玩する非科学的思考は、ほぼ一種類に集約することができてしまう。

  ◆御都合主義

 単純である。非科学的思考の人物にとって、答はまず先にある。所謂「答ありき」だ。その答を導くにあたり、データや理屈(原理・原則・法則でない点に要注意)を都合良く収集し、散りばめてしまう。データや理屈を使っているから科学的思考をしているのだ、と彼らがまったくの心得違いをしていることも多いから、さらに救いがたい。

 前漢の武帝劉徹に仕えた御史張湯がその典型例といえるが、残念なことに御都合主義の人物は枚挙に暇ないほど数多い。





■ゴマメの歯軋り

 御都合主義による議論は非科学的で知的水準が低いばかりでなく、ものごとを倒錯させ、因果をあやまたせるという観点で弊害が大きい。しかし、それでも御都合主義はこの世に蔓延している。その理由もまた単純だ。議論の根源となる力とは、正邪理非善悪によらず、知的水準によらず、科学的であるかどうかにもよらない。そんなことではなく、時機と声の大きさによる場合が多いからだ。

 時機を得て大声を出せば、たとえ正でなく邪であろうとも、たとえ理がなく非であろうとも、たとえ善でなく悪であろうとも、その議論は押し通ってしまう。小山軍議における福島正則の発言がまさにその典型例といえるだろう。この例でいえば、関ヶ原で徳川家康率いる東軍が勝利し、徳川幕府の樹立にまでつながっていくから、時機を得た大声は歴史を変えかねない、とすらいえる。

 これが人間の社会であり、文化であり、政治であり、歴史である、……と達観することもいちおう可能ではある。とはいえ、筆者は達観する前に不安を感じざるをえない。人間の社会は、少なくとも日本の社会は、科学的思考に基づく議論を展開できないばかりに、間違った方向に進んでいるのではないか、と。

 筆者がこの「以久科鉄道志学館」にて展開している交通論においても然り。震災復興と今後の防災対策についても然り。エネルギー問題(原発問題を含む)もまた然り。御都合主義で自分の正しさを主張する連中の多さには、まったくもって辟易する。マスメディアのワンフレーズ切り張りは、悪弊をさらに助長する。

 東日本大震災以降の議論と実行の迷走は、日本人的思考法の弱点の大露頭である。主観と感情が主、客観と理論が従というありさまは、大声ばかりが大勢を主導するという状況は、日本人には科学的思考法が存在しない、という巨大な例証にほかならない。結果的に正しい選択をできればよいとしても、科学的思考法なくば正しい選択肢の抽出すら困難というものではないか。



 ……

 もっとも、筆者は孤独な一匹狼のようなもので、なにを言ったところで単なる遠吠えにすぎない。だから愚痴をこぼしているようなものなのだが、書かずにはいられない心境だ。まさにゴマメの歯軋りである。

 そんなゴマメといえども、声高に主張せずにはいられない。日本人よ科学的思考を身に着けよ、と。





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