イスラエル 聖書の舞台をゆく

撮影時期:2009年12月30日〜2010年1月2日


エルサレム

ダビデ王によって開かれて以来、3000年の歴史が折り重なる街。3大宗教の聖地として、 また大国の争奪の地として、破壊と創造を繰り返し、現在もイスラエルとパレスチナが各々その帰属を 主張する紛争の地。空の青、森の緑、建物の白のコントラストが美しい街。ユダヤ、アラブ、アルメニア、 ビザンチン、ギリシャ、そして十字軍以降の西欧の文化が交じり合うモザイク都市。 旧市街は世界遺産に指定されている。


オリーブ山より

旧市街全景。ケデロンの谷を挟んで向かいが旧市街の東壁、そのすぐ先には金のドームが 鮮やかな岩のドームが一際目を引く。西暦70年のローマ軍も、1967年の第3次中東戦争のイスラエル軍も、 エルサレム攻略にあたり、まず街が一望できるこの地を占領した。写真をクリックすると拡大します。


嘆きの壁@

改めて語るまでもないユダヤ教の聖地。かつてはこの地にユダヤ教の神殿があったが、 ローマ軍によって破壊され、その破壊を免れた西壁の一部がユダヤ教徒の祈りの場である。


嘆きの壁A

壁は下部がヘロデ大王時代の、その上がローマ時代の、 最上部がイスラム王朝マムルーク朝時代のものとなっており、それぞれ石の大きさや組み方が異なる。 なお、ヘロデ大王時代の下部2層は、第3次中東戦争後に掘り出されたものである。写真をクリックすると拡大します。


嘆きの壁B

嘆きの壁の前に掲揚されたイスラエル国旗。1967年の第3次中東戦争(6日間戦争)まで、 この地には主にイスラム教徒の住居があった。しかし、イスラエルによる占領後、いちはやく軍の工兵部隊により 住居は撤去され、現在の広場となった。広場に掲げられた”ダビデの星”は、この地がイスラエルのもので あることを主張している。


神殿の丘・アルアクサ・モスク

モロッコ門から神殿の丘に入ると最初に目を引くのはアルアクサ・モスク。この地を占領した イスラム教徒により715年に建立され、数度の改修を経て11世紀の大改修で500人が収容できるモスクとなった。 十字軍時代には聖ヨハネ騎士団の本部がここに置かれた。現在の建物のほとんどは14世紀と19世紀に作られたもの。


神殿の丘・岩のドーム@

内部にはアブラハムがその子イサクを神に捧げようとし、マホメットがそこから昇天したといわれる 岩がある。ユダヤ教の神殿はこの岩を中心に建てられていた。


神殿の丘・岩のドームA

イスラム王朝により691年の建立。地震による損壊・修復を経て十字軍時代には教会に改修された。 1187年のサラディンによる征服後は再びモスクとなり、オスマン朝のスレイマン1世の大改築により、 ほぼ現在の形になった。1964年にはヨルダン国王の寄進により、ドームが金メッキのアルミ板に葺き替えられた。 現在はイスラム教徒以外は中に入れない。写真をクリックすると拡大します。


ヴィア・ドロローサ@

ヴィア・ドロローサとはラテン語で”悲しみの道”の意味。 イエスが十字架刑を受けてから、十字架に架けられるまでの約500メートルの道のりに14のステーション が作られ、現在はキリスト教徒の巡礼路となっている。沿道には様々な商店や土産物屋があり、多くの人で 賑わっている。


ヴィア・ドロローサA

第2ステーションは、イエスが十字架を背負わされ鞭で打たれた場所。現在は教会が建っている。


ヴィア・ドロローサB

第4ステーションはイエスが聖母マリアと出合ったところ。


ヴィア・ドロローサC

途中、十字架を背負って巡礼する人と出会う。


ヴィア・ドロローサD

第9ステーションはイエスが3度目につまずいたところ。エチオピア・コプト教会の脇にあり、 聖墳墓教会も間近に望める。


聖墳墓教会@

イエスが磔刑に処せられたゴルゴダの丘とされる場所に建てられた教会。4世紀初めに ローマの神殿を取り壊して建立。その後増改築を繰り返し現在に至っている。 カトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教、シリア正教、コプト教の各聖堂がある。


聖墳墓教会A

ギリシャ正教の祭壇。磔になったイエスの十字架が建てられたところとされる。 ここがヴィア・ドロローサの第12ステーションにあたる。


聖墳墓教会B

十字架から降ろされたイエスの体に香油を塗った場所とされる大理石。


聖墳墓教会C

イエスが十字架から降ろされる場面を描いたフレスコ画。


聖墳墓教会D

イエスの墓があったとされるところ。


ダマスカス門

8つある城門の中で最も立派で美しいと言われている。一歩城内へ入ればそこはバザール。 生活必需品を求める人々で賑わっている。


糞門

南壁に開かれた門。嘆きの壁にも近い。


ライオン門

東壁に開かれた門。門の左右に彫られたライオンの浮き彫りから ライオン門と言われる。門を出ればゲッセマネの園と万国民の教会はすぐ近く。


エルサレム考古学公園@

神殿の丘の南側には、紀元前1000年頃からの遺構が残されており、考古学公園として 公開されている。上方のドームは神殿の丘にあるアル・アクサモスク。


エルサレム考古学公園A

ここにはヘロデ大王時代に神殿に通じる門があったが、後に塞がれてしまった。


ロビンソン・アーチ

神殿の西南の角には、ヘロデ大王時代、神殿と街をつなぐアーチがあった。 現在は崩落したアーチの残骸と崩落時にできたくぼみが見られる。名前は、このアーチの存在を唱えた 考古学者の名前に由来する。


オリーブ山全景

旧市街の東側正面にあるのがオリーブ山。麓には万国民の教会やゲッセマネの園が、 中腹にはロシア正教のマグダラのマリア教会が建っている。写真をクリックすると拡大します。


ゲッセマネの園

弟子たちと最後の晩餐を終えたイエスが祈った場所。園内には8本のオリーブの老木がある。 イエスの時代からこの地にはオリーブ畑があったが、ローマ軍の侵攻により切り払われ、現在の木は その後に植えられたものと考えられている。


万国民の教会

イエスが祈りながら最後の夜を過ごした場所に建てられた教会。現在の建物は、4世紀に 建てられた教会跡に1919年再建されたもの。


ダビデ王の墓@

城壁の南、シオンの丘には、イスラエル王国の黄金期を築き上げたダビデ王が眠る。


ダビデ王の墓A

ダビデ王の棺。棺の前ではユダヤ教徒たちが祈りを捧げていた。


最後の晩餐の部屋

イエスが弟子たちとともに最後の晩餐を行ったとされる場所。しかし、この建物は十字軍時代 に建てられたもので当時のものではない。オスマン朝時代にはイスラム寺院とされており、コーランの一説が今も 壁に残っている。


マリア永眠教会@

1900年から10年の歳月をかけて建てられたエルサレム最大の教会。


マリア永眠教会A

内部のフレスコ画や床のモザイクが美しい。


園の墓@

イエスが十字架に架けられたゴルゴダの丘は、一般的には聖墳墓教会のある場所とされているが、 ここにある岩がゴルゴダ(=しゃれこうべ)に似ていることから、ここがゴルゴダではないかとする説がある。


園の墓A

園内にはイエスが一時葬られたとされる墳墓がある。


ヤド・ヴァシム

ユダヤ人に対する迫害や、ナチスドイツによる大量虐殺の犠牲者を記憶するために作られた博物館 。入り口から順に見ていくと、ヨーロッパで平和に暮らしていたユダヤ人たちが次第に迫害を受け、ホロコーストへと エスカレートしていく様子が理解できる。


杉原千畝記念樹

「ヤド・ヴァシム」の庭園には、杉原千畝をはじめ当時のユダヤ人の命を救った人たちの記念樹がある。 写真をクリックすると拡大します。


エルサレム郊外

ヤド・ヴァシムのテラスからの眺め。写真をクリックすると拡大します。

死海西岸

死海はエルサレムの東30キロに位置する塩水湖。塩分濃度は海水の10倍にも上る。 湖水面は海面下420メートル。沿岸は世界一低い地表面である。周辺は全く緑のない乾ききった岩山ばかりのうえ、 唯一死海に流れ込むヨルダン川の水が灌漑などで減っているため、水位は現在も下がり続けている。


一路死海へ

標高800メートルのエルサレムから−400メートルの死海までわずか30キロ。 ハイウェイで一気に下る。緑豊かなエルサレムから少し下ると景色は劇的に変わり、全く緑のない岩山だらけの 世界となる。途中、標高0メートルのモニュメントが右手にある。


死海

沿岸に全く人の気配はなく、湖面には一艘の船すら浮かんでいない。やはりここは生命の息吹 が全く感じられない死の海だ。対岸はヨルダン。


死海浮遊

この日は年に2〜3日しか降らない雨。おまけに着いたときはすでに夕方。 湖に入るにはかなり寒いが、せっかくここまで来た以上は覚悟を決めて入水。少しはコツがいるのかと思いきや、 仰向けになると簡単に浮いた。


塩の岬

湖岸から延びる塩で真っ白な岬に登る。手に持っているのは塩の塊。 後方は、エン・ボケックのリゾートホテル街


朝の死海

ようやく雲が切れて光が差す。そんな景色までどこか神々しく見えるのは気のせいか。


ロトの妻の塩柱

神に滅ぼされることとなったソドムの町より一家で逃れてきたロトの妻が、 神との約束を破り振り返ったために塩柱になってしまったという創世記の記述から、その名がついた岩。


マサダ@

地肌がむき出しの岩山のひとつに忽然と築かれたマサダ。もとは紀元前100年頃、 要塞として築かれたものを、ヘロデ大王が大改造を施し冬の離宮とした。その後、 ローマ軍に対する抵抗の最後の根拠地として、1万人ものローマ兵を相手にわずか1000名あまりのユダヤ人が 2年間も立てこもり、最後は集団自決を遂げるという悲劇の舞台となる。


マサダA

麓から要塞までは標高差290メートルの断崖。現在はロープウェイで登ることが可能。 世界遺産にも指定されていることから、このロープウェイで次から次へと観光客がやってくる。 麓の四角形の形はローマ軍の陣地跡。写真をクリックすると拡大します。


マサダB

ロープウェイの駅近くに掘られた貯水槽跡。要塞内には数ヶ所に貯水槽があり、 ローマ軍に対する長期の抵抗を可能にした。マサダ陥落時に貯水槽に隠れて唯一生き残った2人の女性と5人の子供は、 ローマ軍の攻略ルートとは反対側にあたるこの貯水槽で身を隠していたと推測する人もいる。


マサダC

ヘロデ大王が築いた王宮の壮麗さを僅かに伝える床面のモザイク。


マサダD

下から攻め上がってくるローマ軍に対し、上からこのような石を落として抵抗した。


マサダE

ローマ軍が土を積み上げて築いた攻撃ルート。西側は東側ほどの標高差がないため、ローマ軍は こちら側から土を積み上げて攻撃ルートを作った。しかし、実際に作業にあたったのはローマ軍に捕らえられた ユダヤ人だったため、ユダヤ人同志が殺し合うという惨状を呈した。


マサダF

シナゴーグ跡では、ユダヤ系アメリカ人の若者たちがガイドからここで起こった悲劇について 説明を受けていた。ユダヤ人にとってマサダ陥落は民族離散と数々の苦難の象徴となる出来事である。 今もイスラエル兵が入隊する際には、この場で「ノーモアー、マサダ」と誓うそうである。


クムラン@

クムランには、紀元前2世紀頃よりエッセネ派ユダヤ教徒が共同生活を送った跡という遺跡が 残る。


クムランA

この地を有名にしたのは、周辺の洞穴から旧約聖書や聖書外典文書などの巻物、いわゆる 「死海写本」が発見されたことによる。写真はその洞穴のひとつ。


クムランB

死海写本は洞穴の中でこのような壷に入って発見された。ベドウィンが投げた石が たまたまこの壷に当たり、発見につながった。写真は当時の様子を復元した博物館の展示。

ナザレ

ナザレは、ベツレヘムで生まれたイエスがヨセフとマリアともに幼・少年期を過ごした町。 しかし、後にイエスが教えを説くため訪れたときには、この地ではほとんど受け入れられることなく立ち去っている。 現在はイスラム教徒が多く住む。


受胎告知教会@

マリアが受胎告知を受けた洞窟の上に建てられた教会。最初に教会が建てられたのは、 ローマ帝国のコンスタンティヌス帝の時代。現在の教会は1969年に建てられたもの。


受胎告知教会A

教会中央には、マリアが天使のお告げを受けたとされる洞窟がある。


受胎告知教会B

壁面には世界各地から贈られた聖母子像の絵画が飾られている。写真左端の絵は、日本人、 長谷川路可の作とされる「華の聖母子」。実際には長谷川路可は下絵の段階で亡くなったため、完成は弟子たち の手による。マリアのモデルは細川ガラシャ夫人をイメージしたもの。写真をクリックすると拡大します。


聖ヨセフ教会@

受胎告知教会の隣には、ヨセフが大工の仕事をしていたとされる場所の上に建てられた、 聖ヨセフ教会がある。教会の下には発掘されたビザンチン時代の礼拝所などがあり、覗き見ることができる。


聖ヨセフ教会A

教会内部。


聖ヨセフ教会B

マリアを離縁すべきか否か悩むヨセフに、天使が「マリアを恐れず迎え入れなさい・・・」 と告げる場面をあらわしたステンドグラス。


聖ヨセフ教会C

教会正面に置かれたヨセフ、マリア、イエスの像。

ガリラヤ湖畔

イスラエル北東部に位置するガリラヤ湖。標高は−200メートル。ここより南の死海地方とは異なり雨も 降るため、周辺では亜熱帯の果実園も見られる。この地でイエスは伝道を開始し、山上の垂訓に代表される 教えを遺したほか病人を癒したり、湖の上を歩いたり数々の奇跡を起こした。 また、ペテロ、アンデレをはじめとする弟子たちの多くはこの地の出身である。


ガリラヤ湖

周囲166キロほどの淡水湖。死海とは異なり、沿岸には随所に集落があり、湖では漁をしたり 観光客を乗せて遊覧する船も見られる。


セント・ピーターズ・フィッシュ

東岸のエンゲブ・キブツのレストランでは、セント・ピーターズ・フィッシュを食した。 ペテロがイエスの指示により釣った魚の口から銀貨が見つかったという聖書の記述にちなみ、こう呼ばれる。 正式にはティラピアという魚。味のほうは癖がなくあっさり。


ヨルダン川

ガリラヤ湖の上流部のヨルダン川。見た目はどこにでもありそうな川だが、イエスが洗礼者ヨハネから 洗礼を受けた聖なる川として、今でも洗礼を受ける人の姿が見られる。


カペナウム@

ペテロの住居跡とされる場所。その規模から、この地では有力者であったと推測されている。


カペナウムA

カペナウムに残るシナゴーグ跡。イエスもこの場所で説教したと考えられるが、当時のものは 現在残るシナゴーグの下に埋まっている。


ペテロ首位権教会

イエスがペテロ、アンデレ兄弟と出会い、弟子にしたとされる場所に建てられた教会。 教会の名前は、ペテロが弟子たちの中でリーダー的存在であったことに由来する。 この地はまた復活したイエスが弟子たちと食事をした場所ともされている。


パンと魚の奇跡教会@

イエスが5つのパンと2匹の魚をもって5000人の空腹を満たした奇跡にちなみ建てられた教会。


パンと魚の奇跡教会A

床にはビザンチン時代の見事なモザイクが残っている。


山上の垂訓教会

イエスの教えの中で重要な部分を占める山上の垂訓は、この教会の建つ山でなされたとされる。 この教会はその山の頂上に1930年に建てられた。


イエスが歩いた丘を下る@

山上の垂訓教会より少し離れたところから山道を下る。イエスも何度となく このあたりは歩いたはず。茜色の夕焼け、うっすら乳白色を帯びたガリラヤ湖、若草の緑、小鳥のさえずり。 心癒される散歩道である。


イエスが歩いた丘を下るA

中腹の開けた場所には、イエスが群集を前に教えを説いた場所として石碑が残されている。


街の灯

日が落ちて彼方の湖畔にはティベリヤの街の灯が浮かび上がる。

ベツレヘム

イエスが生まれた町、ベツレヘム。エルサレムの南10キロに位置するこの町は、 現在はパレスチナ自治区に含まれる。


聖誕教会@

住民登録のためベツレヘムを訪れていたヨセフとマリアは、宿を取ることができないまま馬小屋 でイエスを生んだ。この教会が建つ場所がその場所とされる。


聖誕教会A

この地に教会が建ったのは325年。十字軍時代にほぼ今の形になった。現在はギリシャ正教の 会堂となっている。


聖カテリーナ教会@

聖誕教会のすぐ隣には、フランシスコ派の聖カテリーナ教会がある。クリスマスイブのミサ が全世界に向かって中継されることで有名。


聖カテリーナ教会A

教会の前には、この教会の地下洞窟で聖書のラテン語訳に取り組んだヒエロニムスの像が 建っている。


羊飼いの野の教会@

フランシスコ派の教会として1954年に建立。形はベドウィンのテントの形を模したもの。


羊飼いの野の教会A

内部には、イエス降誕時のフレスコ画が描かれている。


分離壁

イスラエルとパレスチナを隔てるためにイスラエルが設置した壁。実際には、 パレスチナ領に大きく食い込む形で設置されている。パレスチナ側の壁には様々な書き込みがされている。

エン・カレム

エン・カレムはエルサレム西南の郊外の丘陵地に位置する町。 洗礼者ヨハネの父ザカリア、母エリザベツが暮らした地として、彼らゆかりの教会がある。


洗礼者ヨハネ誕生の教会@

洗礼者ヨハネが生まれた場所とされる場所に建てられた教会。現在の教会は1855年に 建てられたもの。大きな時計台が目を引く。


洗礼者ヨハネ誕生の教会A

教会内部。


洗礼者ヨハネ誕生の教会B

外部には、ヨハネの父ザカリアの祝福の言葉「ベネディクトス」が各国の言葉で記された モニュメントがある。


マリア訪問の教会@

ヨハネを身ごもったエリザベツを祝福すべく、はるかナザレより同じく身重のマリアが訪れたという 聖書の記述にちなみ建てられた教会。


マリア訪問の教会A

教会内部の祭壇。


マリア訪問の教会B

内部にはこのほか、様々な聖書の場面のフレスコ画が描かれている。


マリア訪問の教会C

マリアとエリザベツが出会った場面を表した銅像。このとき、エリザベツの胎内でヨハネが おどったという。銅像の背後には、天使によって身ごもったことを告げられたマリアが歌った賛歌 「マグニフィカト」を各国の言葉で表したパネルが収められている。


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