論評集
ある歌手のキャリアにおける
諸段階 1


ペーター・ホフマンという名の新人

 ペーター・ホフマンの舞台歴は、1972年、リューベックの「魔笛」でのタミーノではじまっている。この北ドイツでの2シーズンのあと、ヴッパータールで2年契約を結んだ。1974年に、ここで、初めてワーグナーを、彼を有名にすることになる役、「ワルキューレ」のジークムントを初めて歌っている。彼は注目され、『若い芸術家に対するノーザン・ウェストファーレン州奨励賞』を与えられている。「ペーター・ホフマンはすばらしい才能をもったヘルデン・テノール、そして、このめったにない声域の素質がある。みごとな発声技術が完璧にマスターされた役と結合し、歌唱的にも、演劇的にも、同じように 深い感銘を与える芸術的な表現を実現している。現在の業績は、芸術家としてのホフマン氏の成功ととりわけその声域における成長につながることに大きな期待がもたれることを証明している」 審査委員会の認定理由にはこのように書かれている。彼らははるかに先を見通していた。
 ジークムントとしてのペーター・ホフマンを、批評は歓呼してむかえた。「ワーグナー・テノール、ヴォルフガン・ヴィントガッセンの死の知らせの後、ヴィントガッセンの後継者たりうる者を観客は大喝采で賞賛した。ペーター・ホフマンという名の新人がヴッパータールでジークムントとしてみごとに受け入れられたのだ。上演予定案内には、まだ28歳のリリック・テノールが載っていた。だが、その声は、たくましい基礎を持ち、全声域において極めて安定しており、まさに鋼のようなほのかなきらめきを持ち、弱音部分において微妙なニュアンスに富んでいる故、彼の中に、すでに将来のジークフリート・テノールを見ることができる」(ライン・ポスト紙 1974年9月11日付)

 ペーター・ホフマン「今は、ジークフリート、あるいはタンホイザーを歌うことはないでしょう。理由はできないと思うからです。たとえば、ジークフリートとかを、ひょっとしたら、八年ぐらいのうちに、できればいいのですが、どうでしょう。ジークムントは、今、歌えます。自分の声のことは分かっていますから、危険を感じればすぐに止めます。ですから、それはつまり活動を控えめにするということです。公演を減らします。技術的な過誤に気がついたら、為すべきことはひとつしかありません。つまり、即座に修正することです」(オペラワールド誌 Opernwelt 1975年4月号)

 音楽評論家、ハンリッヒ・フォン・リュッツヴィッツ(ライン・ポスト紙 1974年9月11日付)は、ヴッパータールの「ワルキューレ」の後、すでにこのことについていろいろと考えを巡らせている。「若い人のこのような出演はその将来にひどい酷使をもたらし兼ねない。反論として挙げられるのは、ホフマンがその役の勉強に、並外れて慎重に、徹底的に取り組んできたにちがいないということだ」六年後、ホフマンはこの評論家の推測が正しいことを認めている。「初めて、ワルキューレのジークムントを歌う機会を得たときには、すでにその四年前にこの役の勉強をはじめており、繰り返し磨きをかけていました」
  1975年に、オペラワールド誌で、ケート・フラムが質問している。「オペラの舞台に立って三年で、このように注目されるのはどんな感じですか」 これに対する、ホフマンの答えはこうだ。「あまりにも性急にことが進むのは、ちょっと不安を感じます。時々目が覚めたら全部夢だったということになるのではないかと思います。学生時代シュツットガルト歌劇場の周りをぶらついたり、公演を見て、感動したりしたものです。いつかここで歌えたら!と思いました。いよいよそこでパルジファルに取り組むことになったわけです。パルジファルは私が希望した役です。それが現実になるなんて、すばらしことではありませんか」
 シュツットガルト歌劇場での「仕事初め」の前に、「魔笛」のタミーノとジークムントの他にも多数の様々な役を経験している。「ポッペアの戴冠」のネロ、「こうもり」のアルフレート、ファウスト、イドメネオ、「ヴォッツェック」の鼓手長、「フィデリオ」のフロレスタン、「カルメン」のドン・ホセ、「魔弾の射手」のマックス、「ラインの黄金」のローゲ。デュッセルドルフではじめてジークムントとして舞台に立ったときは、ウルスラ・シュレーダー・ファイネン、カール・リーダーブッシュという著名な歌手たちとの共演だった。その後、シュツットガルトでは同じ役でビルギット・ニルソンと共演した。「その時は興奮のあまり膝ががくがくしました!」
 膝ががくがくしていたにもかかわらず、その頃も、自分がやりたいことを正確に把握している。「舞台では演じなければならない。立って、歩いて、それ以外何もしない歌手は物凄く退屈だ。演出家が作品全体の正確なイメージを持っているのに加えて、歌手が役の正確なイメージをもっているときしか舞台はうまくいかない。だから、このイメージを一致させることが共同作業の課題だ」(オペラワールド誌 Opernwelt 1975年4月号)

 1975年以降、ワーグナーが彼のレパートリーの中心になる。以下は、ケート・フラムによる記事。「パルジファル、いつもパルジファル。何よりもワーグナー。彼はワーグナーが気に入っている。ローエングリンの話に熱中し、シュトルツィングをやりたいと望んでいる。イタリア物はなし? 彼はイタリア物はあまり好きじゃない。そして、彼を刺激することができるものは、『ひょっとして、カルロス(*ドン・カルロ?)』だが、目下、かかわっている役のことを考えると、今は歌いたくない。経験の浅い歌手はさまざまな役をあれこれ歌うべきではないからというのがその理由だ。それに、原則的に、『私はどっちみちイタリアン・テノールではない』ということだ。彼はドイツのテノールだから、ワーグナーのほかには、フロレスタンマックス、ボヘミアのハンス(*?)、ファウスト(たとえフランス人でも)、イドメネオといった役に、律儀に留まっている。バッカスはやりたいと思っているし、クレーベの「真の勇者」は楽しみにしている。そして、タミーノ役に対しては、居心地がよくて特に好きだという気持ちを持ち続けている。『その通りです。タミーノは、また歌いたいと思っています。タミーノは声のためにいいのです!』」
 ドルトムントでの最初のローゲはこの頃だ。オペラワールド誌に、女性批評家が意見を述べている。「この『ラインの黄金』のローゲには驚かされた。ペーター・ホフマンは言ってみれば一夜にして翌日のセンセーションを巻き起こせた。雄大な声と輝かしいテクニック(わずか30歳にして、ローゲとしては初舞台)をもったユーゲントリッヒャー・ヘルデンテノールである彼はこわいほどの悠然とした態度と抜け目のなさを備えたこの役を究極の微妙なニュアンスをもって演じきった」
 シュツットガルト歌劇場の五年契約の申し出は、すでに机の上に置かれていた。とりあえず、客演のジークムントとして、彼の将来の観客に紹介されている。シュツットガルト・ニュースの批評(1975年9月30日)には次のように書かれている。「次のシーズンの開始と共に、ここで、ドラマティック・テノール、つまり、主としてワーグナー・テノールとして専属契約を結んだペーター・ホフマンは、シュツットガルトではまだ未知の人だった。彼のこの地でのジークムントとしてのデビューは非常にすばらしかったので、彼が徐々にヴォルフガング・ヴィントガッセンの遺産を引き継ぐことができるだろうという期待は的外れではない」 クルト・ホノルカは「ワルキューレ」の公演後、理由を次のように述べている。「すらりとした体格、陸上競技で鍛えたたくましさ、見れば若い英雄であると信じることができる。彼は40年代のヴォルフガング・ヴィントガッセンを彷佛とさせるが、かつての偉大な先輩より、今日すでに、演技的な動きははるかに達者である。彼のテノールとしての声はまぶしいほどの輝きはないが、声域のバランスとその暗く低く柔らかい響きは抜きん出ている。これはワーグナー歌手にとっては非常に重要である。彼の初パルジファルに加えて、次の3月にここでまた同じ役を歌うことになっているが、今から楽しみである。 そして今度は、アンサンブルの中にまさに生まれながらのマックスがそこいるわけだ。『魔弾の射手』もまたいつか劇場のレパートリーに入れるべきときが来ることが期待される」


「連邦パルジファル」

 パルジファル、「連邦パルジファル」、彼のことを、同僚がふざけてこう呼び、そしてすぐにマスコミもまたこう呼んだ通りだった。彼は、六週間の間に、三つの「パルジファル」新演出初日をやり遂げた。ヴッパータール、ハンブルク、そしてシュツットガルト。続いて、バイロイトで「パルジファル」を五回。1976年は、彼にとって、飛躍の年になった。シェローのジークムント、ウィーンのローゲの大成功、カバンの中には、所属劇場シュツットガルトのローエングリン出演契約。「パルジファルとして三つの新演出初日、これは、ただ単に異なるオペラハウスへの三回の出演というだけではなく、様式の異なる三つのリハーサル過程を、歌手は引き受けなければならないということだ。三人の異なる演出家、三つのコンセプト、三度の新たな共演者とその他諸々の状況等々、これをどうやって処理するのか。ペーター・ホフマンとしては、無責任な答えは憚られるところだ。だが、彼が、異なる演出を識別する本質的な特徴を概観的に述べるとき、彼にとって劇場の仕事とは、演出指示にただ従うことでもなく、それを丸暗記することでもないということ、シュツットガルトとハンブルクの違いは単に異なる登場と退場という問題ではないということがわかる。<今、パルジファル役で、三回、舞台にかかわっていますが、三つの演出うちのどれかが私には易しいなどという根拠は見当たらない> ということだ。専門誌『オルフェウス』は、昨年、ペーター・ホフマンに、『若手として最高の業績のある者』という評価を与え、『ほとんど空席状態のワーグナー・テノールの専門領域を担う運命』をあてがうことを正当化した。こういう予言を成就するのは、困難な道ではあっても、ペーター・ホフマンはとるべき道を間違っていないと思う」(ルドルフ・スパーリング、1976年4月20日付けヴッパータール舞台新聞)

 「それはペーター・ホフマンの、全く初めてのパルジファルだった。まさに唖然とするほどに迫ってくる充実感」と、シュツットガルトのゲッツ・フリードリヒ演出について、クルト・ホノルカは書いた。「ホフマンはゲッツ・フリードリヒの演出概念を間違いなく満たしており、演出に合わせた動きと高い集中度は、先輩をしのいでいた。(ハンブルグで同時に全く別の演出のパルジファルを演じたホフマンは、フリードリヒとは少ししか練習できなかっただけになおさら驚かされる。このことは彼の役者としての天分を明らかに証明している)彼は目に見える、正真正銘の若々しいパルジファルだ。その衝動的な、それにもかかわらず、コントロールされていないのではない、とっさの動きにも説得力があった。そのうえ、歌もまた、若さにあふれ、習熟されたものだった。その声は、まだ完成の域には達していないものの、今日すでに、まれにみる暗く低く柔らかい、ワーグナー・テノールへと運命づける響きにおいて傑出している。ホフマンはシルヴィオ・バルヴィーゾにも間違いなく感謝してよいところだ。彼は、最高の専門家たちの中、バルヴィーゾの下で大切に扱われた。聡明な音楽家はそれ程多くのリハーサルをせずともとにかく理解し合えるものだ」(1976年3月16日付け、シュツットガルト・ニュース)

 ハンブルクでは、新演出初日(プレミエ)の後、次のように書かれている。「ペーター・ホフマンのパルジファル・デビューは、興奮でわくわくさせられた。ジークフリートのような体型、丈の短い革のシャツを着て、素足、すらりとしていて、金髪、スポーツマンらしく柔軟な動き。彼の少年らしい素朴さ、知的な反応力と心を奪う輝きは、まさに、だれもがこの役に対して夢見るタイプだ。叙情的な色合いを持つ暗いテノールの音色は申し分のない輝きがあるが、声のバランスに関しては、まだ難しさが存在する。ペーター・ホフマン自身が、まだどれ程多くを学ばなければならないかということを一番良く知っている。しかし、彼のワーグナー・テノールとしてこわいもの知らずのキャリアはもはや止められない。大オペラ劇場が31歳の歌手を争って手に入れようとしている。来シーズンは、パリ、ロンドン、サンフランシスコ、夏はバイロイトに客演することになっている。他の人が十年かけてやり遂げることを、彼は一年半で実現してしまった。そして、荷が重すぎると感じれば、何度でも否と言うだけの賢明さを充分に備えている」(1976年4月20日付け、ハンブルクの夕刊)


息をのむほどの掘り出し物:1976年 ジークムント

  1976年バイロイトの夏が迫っていた。そして、それは若い歌手にとっては大事件になった。1976年のバイロイト百年記念音楽祭に際して、彼はパトリス・シェローの百年記念『リング』のジークムントとして、そしてまた、パルジファルとして、マスコミと観客に歓呼して迎えられた。かつてこの緑の丘で、新人がこのような歓迎を受けることはなんとも珍しいことだっだ。(世界 die Welt 誌) そして、およそ評論家という評論家が、彼を唯一無二の掘り出し物として賞賛した。1976年バイロイトの夏のドイツ連邦共和国のマスコミは、なんとも珍しいことに、彼については意見が一致していた。

 「・・・そして、我々は圧倒的に同意してそれを受け入れる。なぜなら、若く、美しいジークムントのペーター・ホフマンは、第一幕ではかなりおぼつかない発声(初日の気後れか?)だったものの、その後は、格段に改善され、一段と説得力あふれ、輝かしく、力強かったからだ」(南ドイツ新聞)

 「歌手の水準に関しては、何も言うことはない。『ワルキューレ』の最もうれしい驚きは、31歳の若手テノール、ジークムントのペーター・ホフマンだった。すばらしい外見が、大きく豊かなテノールの声と緊密に結びついている・・・ ヴェルゼへの呼び掛けが上昇していく様は、あたかもホフマンは苦もなく5度上の音でも歌えるかのようだった。水準を同じ高さに保つためには、いっそうの声の節約管理を要するだろうということはその後の経過の中で明らかになったにすぎない。バイロイトにとって新たな劇場付きのテノールがここに確保できたと言えよう」(ニュルンベルク新聞)

 「ジークリンデのハネローレ・ボーデとジークムントのバイロイトの新人、ペーター・ホフマンが、感動的な激しさのウェルズング・ペアを演じている。ホフマンの、大きく、バリトン的で、土台がしっかりした、輝かしく、強靱で力強い、テノールは、アンサンブルにとって、まさに掘り出し物である」(北バイエルン・クリーア バイロイト)
 「演出家に加えて、彼と同い年、31歳のテノール、ペーター・ホフマンが、かたくなに強情を張る若い反逆者としてのジークムント役で息をのむようなバイロイト・デビューをしている」(ドイツ通信社 dpa)
 「非常に若い、挑発的で軽率で熱しやすいジークムントとジークリンデは反対の性格だ。(ペーター・ホフマンは、そのそれ自体バリトン的だがよく補強されたテノールをさえ、非常に慎重さを欠いた扱いをしている。愛の二重唱で、その将来が不安になるほどに、絶頂に達している)」(tz ミュンヘン)

 「比類ないハネローレ・ボーデ、そして、とりわけ、新たなジークムント、ペーター・ホフマンは納得できた。まばゆいばかりにみえる若い男性の中に、暗い音色の金属的な重量級の声の、知的な演奏振りと強烈な存在感を放つ、真のワーグナー・テノールを見いだした。ホフマンはまさにこの公演の掘り出し物だった。だれもがついに再び若い英雄を目の当たりにしている。そして、それは単なる英雄の代用品ではないのだ」(ウィーン・クリーエ)

 「ペーター・ホフマン、若いドイツ人歌手、真のヘルデンテノールとしての百年記念音楽祭の掘り出し物は、暗い音色、極めて充実し、安定した中音域を備えた非常に理想的なジークムントである。今後さらに響きを洗練し、伸ばすべき自然の声だ」(北バイエルン・ニュース)

 「ジークムントとしてペーター・ホフマンのデビューを体験して、なんという陶酔感を味わっていることか。すらりとした若者、オペラ界のジェームズ・ディーン、彼こそは、極めて入念に訓練された声帯によって八十年代のジークフリートになり得る」(夕刊)

 「この掘り出し物は、ペーター・ホフマンといい、まだ32歳になったばかりだ。その嵐のように激しく、若々しい柔軟性、そのバリトン的色彩に彩られた声の力、そして、その演劇的存在感は、ジークムント役に新たな興味と関心を喚起させた。この深い感銘を与える歌役者は観客の熱狂的な賞賛を受けた」(ハノーヴァー・アルゲマイン紙)

 「このプレミエは、デビューした新しい若いテノール、ペーター・ホフマンにとって、大勝利となった。熟練の極みの完全無欠ではなく、感情を込めて歌われた新鮮なジークムントに、この公演の最長の拍手喝采が与えられた」(シュツットガルト新聞)  「とりわけ、ジークリンデとジークムントの、ハネローレ・ボーデと32歳のバイロイトの新人、ペーター・ホフマンが熱狂的に迎えられた。少年のような輝きと完全に自由な情熱を持つ人間的な英雄」(新フランクフルト新聞)

 ここに引用した抜粋はたまたま目について集めたものであるが、1976年に、いかに論争のない熱狂的な声が評論界全体に渡って、鳴り響いていたかということを証明している。更に、外国のマスコミでも同時に同様な歓声が聞かれる。
 この成功の波によって、新聞・雑誌界は、このテノールの私生活に対する興味をも持つようになる。観客は、このホフマンとは実際のところどんな人なのか知りたがる。インタビューはまずは捕らえどころのない玉虫色の結果をもたらし、大衆紙の市場は急速な出世という事実に注目をあつめるセンセーショナルな出来事のにおいをかぎつける。
 例えば、「世界」の記事。すでに最初の行が、俗受けする見出しで、大上段に構えている。「すらりとした、金髪碧眼の、ペーター・ホフマンは、観客を魅了した。かつてパルジファルは十種競技におけるヘッセン州記録保持者だった」という具合だ。インタビューアーは、オペラでにしろ、自宅でにしろ、舞台裏で起こっていることを知りたがる。そして、はじめから、だれもが「これこそホフマン」と呼べる、つくろわないありのままの答えを手に入れる。すなわち、次のような記事がそれだ。「復活祭の月曜日にハンブルクで普段通りの高性能を維持できず、二幕は最高ではなかったことをホフマンは自覚している。彼はこう言った。<言い訳をするつもりはありませんが、一幕の後、ひどく空腹だったので、しこたま食べたところ、今度は物凄い腹痛に襲われたのです> パルジファルも、みなさんや私と同じ人間なのだ」(世界 Die Welt 1976年4月21日付け)

 世間は声だけでなく、もっと多くの事を知りたがる。軍隊時代、十種競技、ロックミュージック、妻のアンネカトリン、至る所で「すでに」と強調されているこの時には「すでに」十歳と十二歳だった二人の息子、等々が浮かび上がる。
 「はじめはジャズ・シンガー兼ギタリストだったワーグナー・テノールや、勉強資金を得るために、国防軍で七年間、落下傘部隊員兼十種競技選手として、頑張り抜いたワーグナー・テノールは、恐らく未だかつていなかっただろう」(同、世界 Die Welt)   ホフマンは、自分の声に関しては、金もうけの種にさせないという立場を守っている。

 「今や世界中がこの『重い』テノールの声域を持つ陸上競技選手を争って手に入れようとしている。劇場総監督たちは、仕事の申し出に際しては、トリスタンだろうが、タンホイザーだろうが、ひるみはしない。しかし、ペーター・ホフマンはスポーツの場合と同じように、そこで、自制する。<私は自分を酷使して消耗させることはしない> 彼は、ジークムント、パルジファル、ローゲ(彼の一番最近のウィーンで大成功の役)で<満足>している」(同上)
 だが、ペーター・ホフマンは気がついている。彼は言う、「良い成果をあげることだけでは充分ではないのです。どこへ行っても注目を集めるものとして売られ、世界的スター並みの存在でなくてはならないのです」(同上)

 「今やスポーツをする時間も本を読む時間もないということは、突然の名声や度を越した要求ほどには、彼の気を滅入らせてはいない」とレポーターは思っている。

 ホフマンの最初のバイロイト年は、もちろんワーグナー年だったのだが、それでも、バイロイトでの夏の後は、再び、モーツァルトがプログラムに載った。「悪い蛇がなかなか現れないので、タミーノが死にもの狂いで助けを呼んでいる理由が初めはわからないが、そのあと、三人の婦人が悠々と怪物を片付ける。この際、ペーター・ホフマンはそのことについて責任がない。こういう古色蒼然の『魔笛』では、すでにずいぶん長い間、演出はもはや行われていないので、だれもが自分でとにかくなんとかするしかない。ペーター・ホフマンはこれをその生来の演技力と少年のような魅力でやり遂げる。そして、一幕のフィナーレで、動きの重い宮廷歌手ではなく、モーツァルトを貫く愛のモチーフによって互いに引かれ合う美しい若い二人(パミーナのノルマ・シャープと)を見るのは、オペラではめったにない一服の清涼剤であるのは間違いのないところだ」(1976年11月15日付け シュツットガルト・ニュース)

 シュツットガルトのヘルデンテノールは、モーツァルト歌手としても賞賛されている。「彼は、そこでは、ヴォルフガング・ヴィントガッセンの後継者でもある。ヴィントガッセンはすでに非常に有名なトリスタンやジークフリートだった頃、少なくとも最初に、タミーノで、彼の喉が充分な柔軟性を保っているかどうかを検証していた。ペーター・ホフマンもそうなのだ・・・ モーツァルト歌手としても、ホフマンは精神的表現と身体的表現の一致と調和で人を魅了する。そして、もうひとつ、彼がやはりヴィントガッセンの足跡を追っていることがある。つまり、いつか喜劇的な役で、彼を見、聴くことができたら、どんなにすばらしいだろうということだ。ひょっとしたら、こういう配役の回り道は、やはりまた『こうもり』の舞台で、起こるのではないだろうか」(同上)

 パリでの二つのインタビューは、歌手自身が、その成功、シェローの演出、自分の職業などについてどう思っているかを明らかにしている。
 1975年にすでに、ルーアンでのジークムントとしての客演後、ある評論家はもうだいぶ前から各音符、各音節を、同程度以上の強度で、やり遂げる歌手を聴いたことがないとオーロラ誌に書いた。パリでのジークムント・デビューの前、1976年12月に、この新聞が彼にインタビューした。歌手は他のテノール声との関わりを説明した。
 「私の声はルートヴィッヒ・ズートハウスの声に少し似ていると言われます。でも、他の声と比較したいとは思わないし、ましてや、だれかの声をまねしたいとは思いません。ある役を勉強するときには、ワーグナーのレコードは聴きません。けれど、私が好きな声は、暗い声です。私にとって、明るいテノール声はそれ自体何かあまりにも女性的すぎるものがあります」
 ペーター・ホフマンは、フランスの雑誌、リリカで、ジークムント役について語った。シェローのコンセプトに同意するかどうかという質問に対して、非常に同感であると答えた。

 「シェローによって、私がこれまでに演じてきたジークムントのうちで、最高のジークムントを演じることが出来ました。『ワルキューレ』は、バイロイト以前にもう40回も歌っていたのです。でも、あのときは、すべてが違っていました。衣装からして初めてでした。ジークムントの死の残酷さを測り知れないほど効果的なものにするには、彼をできるだけ感じ良く見せるべきだというシェローの考えは、完全に成功しました。フンディングが私を武器で傷つけた瞬間、人々が叫び声を上げたのが聞こえました」  1977年、ミュンヘンで、彼はウィーンでのローゲの成功を繰り返した。「ペーター・ホフマンは最高のすばらしい成果をあげた。彼のローゲは、ヴォータンの宮廷の、皮肉でよそよそしいアウトサイダー、道化である。注目すべき役者としての才能に加えて、この若い歌手は、高音では輝かしい響きを持つ暗い音色の力強い声という、極上のヘルデンテノールの素質を備えている。最良の昔ながらの指導による、彼のレガートでなめらかに歌う技術は感嘆すべきだ」(1977年1月6日付け ミュンヘン・メルクーア)

 1977年はペーター・ホフマンにとって、歌手としては短い年になった。だが、彼のオートバイによる大事故はセンセーションを熱望する人々を勢いづけた。負傷、手術、事故の経緯などは驚くほど変化に富んだ伝えられ方をした。今度は、人の心を引き付ける魅力的な悲劇性がテノールを包むことになる。ペーター・ホフマンは、翌1978年に、タミーノ、マックス、パルジファル、ローエングリン、そしてジークムントとして舞台に復帰しているが、彼は、「なお一層の仕事への愛着」を持って戻ることを宣言し、ヴォーグ誌のロンドン版で、「ドイツ最愛のヘルデンテノール」と呼ばれているが、これによって、ホフマンのイメージははっきりとした形をとりはじめる。そして、それは、白い絹のマフラーをして、いつも軽く咳払いしている、そして、どんなものであれ別の音楽には目もくれないオペラ歌手のイメージではないという点においてのみということなら、全く正しい。

 「彼の予定表が推測させるほどに、また、彼に熱烈なラブレターを書く各年齢層の婦人たちが思っているほどには、ホフマンは個人的に、徹頭徹尾オペラに捕われているわけでは決してない。彼は、<私としては、『ノルマ』のような、古色蒼然とした大舞台より、ウード・リンデンベルクのコンサートへ行くほうが好きです>と、正直に告白している。彼はオットーとウードに魅了されており、<ウードは創造的です。私たちは彼を追いかけて創作するだけです> と語る。しかし、ハンブルクの『こうもり』の新演出初日後、『燕尾服を着込んだ』オペラに関して、このパニック・ロッカーがある娯楽雑誌で発言したことに、ペーター・ホフマンは同意しない。ウード・リンデンベルクは、自分のコラムで、今どき、だれもオペラの登場人物に惚れたりしないだろうと気の毒がった。ペーター・ホフマンに言わせれば、<ウードは、『こうもり』の三幕のうち一幕ではなくて、さっさと二幕に行ったらいいと思う。そうすれば、オルロフスキーに惚れ込んでしまったはずだから>ということだ。ペーター・ホフマンは、オルロフスキーを食事をしないで待たせるなどということをしないために、急いでいるわけだが、それはひとえにこういった愛のせいなのだ」(1978年6月16日付け 世界 Die Welt)


強制休暇のあと・・・

 ・・・も、シェローのジークムントに対する熱狂の嵐はやまない。
 「ほとんどヒステリー状態にまで高まった、この大喝采を受けたのはペーター・ホフマンだった。これは決して不当ではない。同じように感動的で夢中にさせるジークムントに出くわすためには、バイロイト音楽祭の歴史をおそらくはるかにさかのぼらなければならない。このジークムントは、演出家の配役実行のおかげで、ホフマンによって、血と肉から成る現実の、まさに映画的な、人を魅了する身体、死の場面で俳優の究極的可能性を発揮させた身体を得たのだった」(オルフェウス 1978年10月号)

 「ホフマンのジークムントは、これまでに見ることが出来たワーグナーの舞台で、最高にすばらしいもののひとつだ。愛の場面を演じるジークムントとジークリンデの自然さは、彼らのロマンチックな雰囲気を高めている。頭韻詩は自然な表現手段になっている。つまり、ひとつひとつの言葉が重要な意味を持つようになり、長く抑圧されてきたあらゆる感情が、言葉と音によって突然あらわになり、ついには情熱的な愛へと高揚する。第一幕は観客の叫び声のうちに終了した。ブリュンヒルデが死を告げに彼の前に現れるとき、このジークムントは、なんと男らしく、抑制が効いていることかと、だれもが唖然とした。そして、その後に、その場にいた人なら、誰一人決して忘れることはないであろう、短いけれども精神が集中する場面になる。すなわち、死の場面だ」(Der Merker 1979年 8月号)



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