喩えるならば木漏れ日のような
ふと気づけば彼女は大学生で、子供ではなくなっていた。
もう幼い頃の言い訳は通用しない。そう頭では分かっているはずなのに、なぜか言い訳を考えている自分がいる。"近所のお兄ちゃん"としてのポジションを失いつつある俺は、どうすればいい?
でもあのときそのポジションを失くした俺は、今もっと近い存在になっていられる。
そう信じていたはずだった。
だけど。9歳差なんて、なかったかのように。自分がどれだけ彼女に惚れこんでいるかなんて、わかっていたつもりなのに。必死で隠していただけだったのだ。
せめて大人の意地で、全く平気なフリをしているけれど。
だけどいつだって君が恋しくなる。いつだって会いたくて、ふれたくて。
そうやって俺は君に何度も何度も確かめずにはいられないんだ。
俺の気持ちと君の気持ちがあるべきところに収まって、きちんと寄り添っているかどうか。


野外訓練を終え、疲れた体を動かし館内業務の準備に入る。
さすがにもう若造でもないので、そこまで疲れが溜まるわけではないが、冬場の寒さは身に堪えた。
かじかんだ指先をしっかりと握り締め、少しでも温もりをとどめようとする。
そのとき、少し離れた位置からかすかにつぶやいたような声が届いた。
「・・・いいなぁ」
同じ班の班長であり、親友でもある堂上篤が今最も大切に思っているであろう、そして一番気にかけている相手であるだろう笠原郁が、そこには佇んでいる。
何事かと思い彼女が見ている方向に顔を向けると、すっかり葉が散った桜の大木の下にはカップルで来たらしき利用者の姿。
彼氏の方が、彼女の耳元で何かささやいて、彼女の方がくすくすと笑う。
優しい空気がそこには流れていて、こちらまであたたかい気持ちになるような、そんなカップルだった。こんな冬の寒さなんて、どうってことないと思わせてくれるような、そんな雰囲気。
なるほどね、と納得しつつも思わず苦笑が漏れる。
自分の表情が内心駄々漏れだと気づかないのは、この部下の特徴でもある。
最も、それも堂上にとってはかわいらしい一面に映るのだろうが。
それはそうと、ここであのカップルをじろじろ見たりしたら、せっかくの雰囲気が台無しになってしまうかもしれない。小牧は静かに館内へと足を向けた。


暖房の効いた館内に入って、小牧はほっと息をついた。
気づかぬ間に、身体はずいぶん強張っていたようだ。肩の力がだいぶ抜ける。
ついさっきの郁のつぶやき。
「俺だって十分そう思ってるんだけどなぁ」
毬江と最後に会ったのは、もう一ヶ月も前になる。
彼女の大学の試験もあったし、自分の仕事もちょうど忙しくなってしまい、全く会える時間が取れなかったのだ。彼女の母親からの情報だと、毬江の方も最近はわりとこまめに図書館に来てくれているらしいが、全く会えた試しがないのが皮肉だ。野外訓練がこのところ多くて、館内業務は久しぶりだった。
ついぼやいてしまい、小牧はいけないいけないと頭を振った。
もしかしたら、いるかもしれない。会えるかもしれないという希望が胸を焦がす。
その熱くて切ない想いに、いったい俺は何歳のガキだと小牧は自分で呆れた。
彼女が、今日に限って来ているという保証はない。
そう自分に言い聞かせつつ、小牧は今日のバディである堂上のもとへと向かうと、彼はもうすでに準備万端で小牧を待っていた。
「ごめん、遅れたかな」
その言葉に、腕時計をちらっと見た堂上は首を横に振った。
「まだ大丈夫だ。俺も今着いたばかりだしな」
「笠原さんと一緒にいてあげたの?」
思わず悪戯心が湧いてそう訊ねると、友人の顔は瞬く間にぎくっと固まった。そういう表情を見るのがこっちの楽しみって、いい加減気づけばいいのになぁと、ちょっとだけ意地悪な気持ちで笑顔を浮かべる。
「お前に関係あるかっ」
「うんうん、分かってるよー。まぁあの笠原さんじゃ放っておけないよね」
そう言った途端に、堂上が真面目な顔になる。
「お前、笠原に会ったのか?」
「会ったっていうか、見かけただけ。さっき野外訓練終わったときに館内入ろうとしたら、入り口のところで立ってたから。何か、捨てられた子犬みたいな顔だったよ」
問いに答えると、少しおもしろがって付け加える。
「それにしても、堂上は笠原さんにぞっこんだね。俺がいつ会ったかまで気になるなんて」
にやにやと笑いが止まらない俺に、堂上は怒ったような表情で黙り込んだ。
耳たぶが赤いのは、きっと照れてるからだなと見当をつけ、俺は堂上に言った。
「そろそろ仕事入った方がいいんじゃない?班長」
一階のフロアを見回った後、二階に移動しようと階段を登る途中、俺は見慣れたセミロングの彼女を日本文学コーナーの中に発見した。今すぐに駆け寄って話をしたい気持ちを抑えて、業務中だと言い聞かせる。幸いにも、堂上は気づかなかったようでそのままその文学コーナーを通り過ぎた。
ちらりと時計を確認すると、もう4時半を回っている。
これから二階を全部回ったら、きっと5時半頃かな。
そう思って、俺は深いため息をついた。多分、毬江に会うのは無理だろう。業務が終わるまではほとんど話せないし、終わったら彼女はすでに帰宅しているはずだ。
またお預けか。ちらとそんなことを思って、自分を嘲笑う。
こんなにも我慢が限界なんて。どれだけ飢えたる獣だ。まるで彼女が空気か何かのようで、彼女がいない世界はこんなにも色褪せてしまうなんて。
それでも、この業務の合間に一瞬でも会えないかと探っている自分がいる。
そんなこと無理に決まってるのに。呆れつつも、小牧は一度だけ彼女が消えた方向を振り向いていた。


見回りも八割方終わった5時過ぎ。
何かに耐えかねたような堂上が、一度軽いため息をついた。
「小牧」
「ん?」
何かイラつかせるようなことをしでかしただろうか。少なくとも、仕事はきっちりこなしたはずだった。まして、今日は毬江のことで心が乱れたから、そのせいで業務が滞らないように十分気をつけていた。
「もうお前は抜けて構わん。俺一人でも十分だ。ほとんど残ってないしな」
「急にどうしたんだよ?」
「あのなぁ・・・俺もお前のことはちょっと観察してりゃ大抵のことが分かるくらい長い間そばにいたんだ。・・・行ってやれよ、早く。きっと待ってる」
「堂上」
「こっちは適当にやっとくから。お前はいつも仕事に忠実すぎる。たまには息抜きしてこい」
小牧は思わず噴き出した。
「それ、堂上にだけは言われたくないなー」
「うっさい。早く行かないと閉館になっちまうから、ほら」
少しだけあせったような友人の言葉に、小牧は苦笑いした。いつだって敵わないなぁと思うのは、こんなときだ。まるで自分のことよりも大事のように、当たり前のように背中を押してくれる。
「悪い。恩に着るよ」
小牧は身体を翻しまっすぐ毬江のもとへ走った。今度は一度も振り返らず。


彼女は、まるでずっとそこにいたかのように座っていた。
凛と伸びた背筋に、こちらの気持ちもしゃんとして、俺は少しの間息をつけるようになるまで黙ってそこに佇んだ。走って乱れた鼓動が落ち着くのを待ってから、ようやく声をかける。
「・・・毬江ちゃん」
その名を―――幼い頃からずっと大事に壊れぬよう慈しんできた名を、力強く呼ぶ。
彼女が振り向いた。
驚いたような表情に笑顔で応えると、すぐに彼女の顔にもまぶしいほどの笑顔が浮かんだ。
立ち上がってこちらに伸ばす手をそっと掴んで、ぎゅっと胸に抱き寄せると、まるでパズルのピースのように優しい存在がすっぽりとおさまる。久しぶりの感覚に、小牧の少しの間酔いしれた。
「久しぶり」
「うん。会いたかった」
コーナーには人気があまりなかったせいか、毬江もケータイでの文字打ちではなかった。
それに、久しぶりの再会に言葉で直接伝えられないのはもどかしすぎる。
「俺も会いたかったよ。ごめん、なかなか会いに行けなくて」
「大丈夫、気にしてないから。もう子供じゃないし」
その言葉に苦笑して、優しくキスを贈ると毬江はかすかに頬を上気させた。
「本はもう借りた?」
「うん。小牧さんのオススメ待ちだけど、それは次回に回してもいいかな」
お互い、今はただそばで時間を過ごしたいという思いが強かった。
「じゃぁ帰り道、送ってくよ」
「ホント?!」
キラキラと目を輝かせる毬江に、微笑んで頷く。
「うん」
「でも・・・お仕事は?まだ終わってないんじゃ・・・」
「大丈夫。もうほとんど終わりだから。図書館も閉館だしね」
「やったー!」
子供の頃のように喜ぶ毬江を見つめて、小牧は笑顔を浮かべた。


家までの道のりを、わざとゆっくり歩くと寒さがこたえる。
けれど、黙って隣を歩いているだけでこんなにもあたたかいのだと知った。
綺麗なクリスマスのイルミネーションを見て、毬江がはしゃいだ声を出す。
人がたくさんいる場所で声を出すこと自体が珍しい彼女のそんな様子に、思わず笑みが漏れた。
数時間前に感じたはずの焦燥感、羨ましさはもうどこかへ飛んでしまっていた。
その途端につないでいた手がするりと離れ、一瞬で巨大なクリスマスツリーのもとへとその身体が向かってしまう。
「小牧さん!」
彼女が自分を呼ぶ声。それは、喩えるならば木漏れ日のような。
無条件で降り注ぐ太陽の光と同じように、君は俺にとってかけがえのない宝物なんだ。
だからお願いだ、どこにも行かないで。
こんな風に懇願するしか、自分には術がないのだとつくづく思い知っているから。
俺の手を離さないでずっと握っていて欲しいんだ。
ただその言葉を紡ぐ代わりに、俺は黙って微笑んだ。そして彼女のかすかにぬくもりを持った右手をぎゅっと握る。
驚いたように見開かれるその瞳を覗き込んで、そっとその優しさと愛を確かめるんだ。
「つかまーえた」
おどけたように言って、握った手を自分の右手ごとコートのポケットに入れると、彼女はおかしそうにくすくすと笑った。その笑い声だけで、たった今の切ない気持ちは消えてしまう。
君が笑っているだけで、俺の世界は輝くんだよ。
そんな言葉が胸の奥を滑ってゆく。
でも、それは今は言わずにおく。今この瞬間の甘い空気より大事なものはないから。


あとがき
図書館企画「秋風ノート」さんに投稿させて頂いた小説です。初・小毬(と言っていいのかわからないほど小牧と毬江のシーンが少ない・・・orz)初めて企画にお邪魔したのですが、貴重な経験になりました。楽しかったなぁー!お題元はリライトさんより。