いつか、この場所で
きっと、初めてだったのだ。他人に対して、こんな風に感じたのは。
だから、こんなにも新鮮な気持ちだった。たとえ、そばにいられなくてもその絆は切れることはない。きっと、そうだと信じている。
ありがとう。
ただそれだけを伝えたくて。


ある午後の昼下がり。
アシェンバード伯爵邸には、のどかな風景に似つかわしい、のんきな空気が流れていた。
リディアもエドガーもいない。エドガーが無理やりオペラ鑑賞にリディアを誘ったのだ。最初の頃は心配で、よくリディアにくっついていったものだったが、そのうちにエドガーには睨まれるし別に危ないことはないようなので(少なくとも命の危険についてはだ。リディアに襲い掛かる可能性が高いのはエドガーであり、それを防ぐ手段はニコにはない)今ではもう伯爵邸に残り、数少ない優雅なお茶の時間を楽しむことにしている。
レイヴンがゆっくりと紅茶のポットを傾けるのを見てから、こっそりとニコはテーブルの上に置いてある箱に手をのばした。きっと、この中にはリキュール入りのチョコレートが山ほど詰まっているはずなのだ。ニコの想像が正しければ。
レイヴンに分けるのは嫌だったので、できれば気づかないうちに食べてしまいたいという気持ちに焦がれる。
そおっと手を伸ばした瞬間、レイヴンが突然言葉を発した。
「ニコさん」
「なっ、何だよ。いきなり。俺はまだ何もしてないぞ」
慌てて伸ばした手を両手にあげ、降参のポーズをとると、なぜかレイヴンは不思議そうな顔をした。
「・・・ミルクをこぼしそうだっただけですが」
「え?」
ふと見ると、箱のすぐそばにミルクの入ったカップが置いてある。・・・これを倒しそうだったってことか。納得しつつ、ニコはレイヴンが怒っているわけではないらしいことに少し安心した。
何しろ、レイヴンはエドガーに仕える従者だ。
大抵の武器は使えるし、多分武器なんてなくても十分戦えるのだろう。
怒らせたら、どうなるかわかったもんじゃないぜと思いつつ、ニコは香りのよい紅茶に目を細めてそこから立ち上る湯気を見つめた。
ここ、アシェンバード伯爵邸で出される食事や飲み物は、すべてが洗練されて質がいいものばかりだ。
ロンドンに出てきてから初めて見るようなものもたくさんあって、流行を先どるのが好きなニコにとってはお気に入りのところだった。最も、リディアはそんなことを感じてはいないようだったが。
エドガーがリディアに婚約、結婚を認めさせてからだいぶたつ。
伯爵の口説き文句の数もますます増えて、リディアは困り果てるときもあるようだったが、大抵は幸せそうな顔をしている。だから、思ってしまうのだ。俺の役目もあと少しだろうか、と。
ぼーっとしていたせいか、近くにまだレイヴンが残っていたことに気づかなかった。
「ニコさん」
「え?あっ、あぁ何だ?」
「紅茶が冷めてしまいます」
「おっ、ホントだ。悪ぃ悪ぃ」
猫舌なので(まるで猫のようなので、本人は絶対に認めない)少し冷めた方がいいのだが、何となくレイヴンに悪いような気もして、ニコはふーふーと息を吹きかけて紅茶を冷ました。
ただ黙ってそばに立っているレイヴンをちらっと見て、ニコは首をかしげた。
普段なら、紅茶を入れてすぐに立ち去るのだ。なのに、今日はまだここにいる。
仕事がなくて暇なのだろうか。それともリキュール入りのチョコレートが食べたいのかなと思い、ニコは少し咳払いをした。
そんなに欲しいなら、少しだけ分けてやるよ。俺はこう見えても心が広いんだ。
そう言おうと口を開いた瞬間、レイヴンの声が響く。
「このリキュール入りのチョコレートの箱を、エドガーさまがニコさんにと言って置いていかれました」
たった今、喉もとまでせりあがっていた言葉を飲み込み、ニコは慌てたように頷いた。
「あっ、あぁそうか。そりゃありがたいぜ」
「お好きなだけお召し上がりください」
無表情なまま言われ、ニコはがくがくと頷いた。そうではないとわかってはいても、無表情なレイヴンは意外と怒っているようで怖いのだ。今までに彼が怒ったらどうなるかを思い知らされてきたからかもしれない。
「お、おぅ」


かすかにただようリキュールの香りと、甘い甘いチョコレートの香りに、ニコは鼻腔をくすぐられた。
いつ食べても、このチョコレートに勝るものはないと思う。ほのかに苦味のある甘さは、ニコの好みにぴったり一致していた。
なみなみとつがれた紅茶のティーカップを丁寧に指で握ると、唐突に声がした。
「ニコさんは紅茶のカップを握れるんですね」
感心したようにしみじみとつぶやくレイヴンに、ニコはぎくっと固まった。
人間の前では、一応猫のように振舞っているつもりなのだ。けれど、ここではわりと人目を気にしていなかったような気もする。
何しろ、主人であるエドガーが妖精の存在を否定しているようではなかったから。妖精博士であるリディアに惚れたらしいあの男は、きっと妖精がいてもいなくても気にしないのだろう。妖精はリディアの瞳に映るものだから。自分も同じように妖精が見えたらと、いつか言っていたのをニコは思い出した。
あんな風に言う人間は、久しぶりだった。
昔はそう言う奴もわりといたのだ。いつからだったのだろう、現実の世界に妖精の居場所が禁じられるようになったのは。今の人間は、夢を見ることさえする者は少なくなってきている。
変わったやつだと思いつつも、そういう人間じゃないとリディアのそばにはいられないのかもしれないと思う。ありのままのリディアを心から認めたのは、両親を除いた人間ではエドガーが初めてなのではないだろうか。
だから、何だかんだ言ってもリディアはエドガーから離れられないのかもしれないとも、思う。
好きじゃないと言いつつも、心のどこかでつなぎとめておきたいと願っているのだ。きっと。
だから、エドガーと共にいることはリディアにとっても、きっと不幸なことではない。そう信じたから、カールトンも二人の結婚を了承したのではないかと、ニコは思う。
まさかこんなに早く婚約することになるとは、誰も予想していなかっただろうけれど。


空は、嫌味なまでに明るかった。
雲間からさす陽光を頬に受け、レイヴンは数回まばたきをした。
「おれは、この結果を見届ける勇気はないよ。だからレイヴン、あんたともお別れだ」
胸の奥に何かがつかえたような苦しみを感じて、レイヴンは眉をしかめて別れ、とつぶやいた。
まるで麻酔のように、何かを言いたいのに、言えなくてただ苦しくて。
どうしていいかわからなくて、まるで迷子の子供になった気分で。
こんなにも自分の感情を伝えられないことを悔やんだのは、きっと初めてだった。
「リディアには以前に話してある。顔を見たらつらいから、このまま行くよ」
どこへと訊ねれば、この島のどこか、人のいないところという答えが返ってきて、レイヴンは沈黙した。
きっと、このままでは二度と出会えない。
ここに来ることもなく、再会することもなく、自分の人生もニコの人生も進んでゆくのだろうか。
ずっと、共にいるんだと、心のどこかで思っていた。
エドガーとリディアが結婚すれば、必然的にニコも屋敷にいることになるのだと、決めていた。
なのに、ニコはハイランドに残ると言う。
止めなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。
黙ったままのレイヴンに、ニコは足を止めずに歩き続ける。
「じゃあな」
あげられた手をぼんやりと見つめながら、レイヴンはただ立ち尽くしていた。
どうして、こんな風になってしまうのだろう。
いつだって、周りの人間たちはレイヴンを残して去ってゆく。共にエドガーに仕えた仲間たちは、戦いの中で敗れ死んでいき、最後まで一緒だと信じた姉は、エドガーを裏切る形で離れていった。
こんな風じゃなかったはずなのに。少しでも大切に思う人は、そばにはもういない。
いつかエドガーまでが消えてしまわないかと、時たま不安になる。
ポールと知り合った頃に殺されかけたとき、レイヴンは本気で彼を失うことになると覚悟していた。毒が使われて、本当にエドガーが死んでしまうように思えて、どうしようもない気持ちになった。
自分の命を差し出しても救えないことが、無性に悔しくて、苦しくて。
絶望を通り越したそんな気持ちを、リディアが救ってくれたのだ。エドガーの命を救うと共に、そのことはレイヴンにとって初めてエドガー以外の"他人"を意識したことだった。
もしも彼女がいなかったら、きっとエドガーはこの世にはいない。
そんな恐ろしい未来を考えることさえも、レイヴンにはできなくて。だから、ほっとしたのだ。
なのに、そのリディアはエドガーがそばにいるだけでも苦しんでいる。
どうしていいかわからなくて、それだけでもつらいのに、またしてもニコが離れていく。
初めて自分のことを「友達」だと言ってくれたのに。
まだ何一つ大切なことを言えていない。ありがとう、友達になれて幸せでした。そう伝えたいのに。
兵器のようなレイヴンのことを、他人と違いなく接してくれたのは、エドガーや姉以外にはいなかったから。たとえ妖精でも、確かに友達だった。
いつも紅茶をおいしそうに飲んで、他愛もない話を何度もしてくれた。
リキュール入りのチョコレートが好物で、よく箱入りのを食べていた。
他人に興味がないと自分でも思っていたのに、数え切れないくらいの思い出が、そこにはあった。それくらい、ニコのそばで短かったけれど長い時間を、過ごしていたのだ。
苦い思いが胸の奥でくすぶり、レイヴンは黙って手をぎゅっと握り締めた。
手のひらに爪が食い込み、レイヴンはかすかに顔をしかめた。少し血が滲んでいる。
エドガーが現れて、レイヴンは慌てて手をゆるめた。
エドガーに、自分のことで一切煩わせない。レイヴンが決めたことだった。
ポケットに手を突っ込むと、かすかな感触が指先に伝わり、レイヴンはそれを取り出した。
球状に磨かれた、小さなブラッドストーン。
雑木林で拾ったまま、返しそびれてしまったのだと気づくのに数秒かかった。
明るい光沢を放つブラッドストーンを見つめると、かつての持ち主の笑顔が見えるような気がした。
もしかしたら、これを持っていればいつかは再会できるかもしれない。ふとそんな思いが浮かんだ。
このハイランドの地を踏むことがあるのなら―――。
いつか、この場所で会いたい。
そして、最大級の「ありがとう」を、このブラッドストーンと共に。


あとがき
初・ニコ+レイヴン。このコンビ、もう大好きすぎて愛が止まらないよぉお><だけど、うちのニコはやけに食い意地が張ってるような気がする(汗