粉雪
ロンドンに、今年も冬がやってきた。
ちょうど深夜2時にはらはらと落ち始めた雪にすぐに気づいたのは、寒い歩道を歩いている数少ない人たちだけである。だから、ゆっくりと静かに積もってゆく雪の中で、ぽつんとある小さくキラリと輝く指輪に気づく人も当然いるはずもなく。
ほんのりと光を放つその指輪は、寂しく冷たい路上に転がっていた。


「どうしよう・・・ムーンストーンの指輪、ここにもないわ」
あせったようにつぶやく少女は、リディア・カールトン。
婚約指輪のムーンストーンをなくしてしまったらしいことに動揺している彼女は、慌てて机上の物をひっくり返しては元に戻す作業を、さきほどから何回も繰り返している。
「リディア、家のどっかにあるんじゃねーの」
「そんなわけないわ。昨日あれだけ探したんだもの!」
あせったようにつぶやくリディアに、ニコは軽くふんぞり返って偉そうに言った。
「そんなこと言ったって、お前昔から失くし物多いじゃないか。どうせどこか見忘れてるところがあるんだよ。あとは妖精に隠されたのかもな。こないだもブラウニーをガミガミしかってたし」
「あれはあの子たちがクッキーを勝手に盗み食いしちゃうからよ・・・!」
あせったように言い訳するリディアを、ニコは呆れたような目で眺めてふんぞり返った。
「探してやらなくもないけどさぁ。でもリディア、昨日はあんなにこんな指輪なんかとか言って怒ってたじゃねーかよ」
「そ、それは・・・」
目線を泳がせたリディアは、諦めたようにため息を一つついた。
「怒ってたのはエドガーに対してで、ムーンストーンには何の罪もないもの」
「ふーん。コブラナイに文句でも言われたか?」
「ちっ違うわよ!」
"ボウを粗末に扱ったりされませんよう、お妃さま"とか言われてそうだよなーと、無責任にも考えているニコの内心は知らず、リディアはまだ困ったように辺りを探していた。
ムーンストーンの指輪をなくしたのは、昨日だ。
いつものことと言われるかもしれないけれど、エドガーのことを好きだったらしき女性がまたもや屋敷に押しかけてきて泣いているのを見てしまったのだ。
今はもう、エドガーは自分のことを愛してくれていると分かっている。というより、信じていると言うべきか。けれど、そんな風景を見るたびにやっぱり心は多少なりとも痛むのだ。
だから、エドガーのぞんざいな態度にイライラしてしまって。
一回口を開けば、あとはもう大喧嘩だ。お互い傷ついて疲れるまで。
「どうかなされましたか?」
いきなり背後から声をかけられ、リディアは驚いてぐるっと後ろを向いた。
「・・・レイヴン」
「よーレイヴン!いいところに来たな。ちょうど手伝ってほし」
「なっ、何でもないのよレイヴン!!
突然ニコを抱き上げて口をふさいだリディアの行動は明らかに怪しいものだったが、レイヴンは気づいていないのか何も言わなかった。リディアは笑みを浮かべつつ、言葉を続ける。
「とっところで、何か用でもあった?エドガーはいないみたいだけど」
悪気はないのだろうが、ジーーっと鋭い目で見られると緊張して、リディアは内心で冷や汗をかいた。
まさかムーンストーンの指輪をなくしたとか言って、殺されることはないわよね・・・。
「・・・あの」
「何?!」
「ニコさんを、離してあげてもらえませんか?」
「あっあら。ごめんなさい」
慌てて謝ると、リディアはニコの耳元に黙っててよと釘を刺して彼を床に下ろした。
ニコは不満そうな顔をしつつもリディアの言うことに従う気になったようで、ふんぞり返って二本足で立つと、レイヴンの方へとことこと歩いた。
「まったくよー。リディアは扱いが乱暴で困るぜ。そうだレイヴン、もうちょっと紅茶に入れるミルクを多くしてくれないか?」
首元のネクタイを自慢気にいじりながらニコが言うと、レイヴンはかしこまりました、とその場を去った。
「何でレイヴンに黙ってるんだよ」
ほっと息をつくリディアに、ニコが鋭い言葉をかけると、リディアは軽く肩を強張らせた。
「レイヴンに言ったら、エドガーに伝わっちゃうじゃない」
「別にそれはそれでいいだろ。一緒に探してもらえよ。何人も召使いがいるんだから早く見つかるぜ。それか新しいの作ってもらえばどうだ?別にあれじゃなくたって、どうせ結婚指輪を新しく作るんだろ」
何気ないニコの言葉がなぜかぐさっと胸に刺さって、リディアは俯いた。
確かにそうだ。探して見つからなければ、作ってもらえばいい。
完全に同じものは無理だろうが、きっと似たようなものなら作れるのだろう。ましてや、エドガーに頼めば張り切って作らせるかもしれない。お金など、エドガーには余るほどあるのだから。
でも、その事実にどこか後ろ向きな自分がいた。
嫌だ、あのムーンストーンじゃないと。あれはエドガーが自分にはめてくれた大切な婚約指輪なのに。
最初は嫌がって何度も外そうとしたけれど、やっぱりあれじゃないとだめなのだ。
他の指輪なんて、いらない。
そうはっきりと思える今があるから、やっぱり探して見つけたいのだ。
「ニコ、やっぱりあたし家に戻って一度探してみる」
「えー!まぁいいけどさ。俺はここにいるぜ。せっかくの午後のお茶を逃すわけにはいかねーよ」
ここの紅茶は絶品だし、チョコレートもあるしとつぶやくニコに、多少なりとも呆れつつ、リディアはえいっとソファから立ち上がった。大丈夫、ちゃんと見つかる。特に確証もないのにそんな風に思える自分がおかしくて、リディアは思わず微笑を浮かべた。


パカパカとリズミカルな音が響く中、エドガーは外出先から自分の屋敷へと戻る馬車の中にいた。
ぼんやりと窓の外を眺めながら、リディアのことを考える。
昨日は怒らせたまま帰らせてしまったなと、後悔が滲むように湧き出てエドガーは顔をしかめた。
本当は、きちんと謝りたかった。
今日だって、朝からちゃんと会いたかったのに、用事で屋敷にいられないことがわかっていたからこそ、レイヴンを残らせて様子を伺うように命じてきたのだ。出かけるときにレイヴンを連れていかないなんてことは、滅多にないのに。
傷つけたことくらい、分かっている。何気ない顔を装っていても、リディアは分かりやすいから尚更だ。
女性関係は、地道に清算してゆくしかない。そのことも痛いほどわかっているつもりだ。
過去のことはもう変えられないからこそ、今と未来を大切にするべきだということも。
ただ、ときどき自分にどれくらい時間があるのかを考えてしまって、不安になるだけだ。
リディアをちゃんと守ってゆけるか心配になって、ときどき素直になれなくなる。
今日は必ず謝ろう。ちゃんと話せばリディアも許してくれるだろう。
リディア。君との結婚前に、こんなくだらないことで揉めたくないんだ。ちゃんと幸せだって感じられるように。ぼくとの未来が間違ってなんかいないって思えるように。ただそれだけが望みなんだよ。
そう心の中でつぶやいたエドガーは、ふと一瞬で通り過ぎた景色に、我に返った。
「ちょ、ちょっと止めてくれ!」
確かにあれはリディアだった。キャラメル色の髪で、ちょっと不安そうな顔をして歩く少女。
急ブレーキをかけて止まった馬車から飛び降りると、エドガーは突然何かを踏んづけた。
「ん?」
慌てて足をどけると、どろどろに溶けて黒ずんだ雪の中に、小さく光る指輪が一つ落ちている。
「えっ・・・ムーンストーン?!」
よく見慣れた指輪に驚いて、エドガーはその小さくて美しい指輪を取り落としそうになった。
まさか、もうエドガーに愛想をつかして捨ててしまったのだろうか。だからリディアは、屋敷にいないでこんなところを歩いていたのか?もしそうだとすると、あの表情は不安だったのではなく怒っていたということになる。
リディアが、行ってしまう。手の届かない場所へ。
そう思った瞬間、エドガーは馬車を放置して走り出していた。
追いつかなくちゃ。彼女を引き止めて、ちゃんと謝る。彼女がぼくのそばにいてくれるなら何だってする。だから、行かないでくれ。信じていない神をもすがる気持ちで、エドガーは全速力で走った。
道行く人が何事かという目でこちらを見ていくが、全く気にならない。
リディアが見えた方向へどんどん走ってるうちに、エドガーはカールトン家に近づいていることに気がついた。この辺りは、何度も通ったことがあるからすっかり道を覚えているのだ。
突然、少し先に見慣れた甘いキャラメル色の髪が視界に入り、エドガーは足を止めた。
気づいてくれと祈りながら、指輪を握り締めて呼ぶ。
「リディア!」
やわらかい猫のような髪の先がくるっと翻り、何でも見通してしまいそうな金緑の瞳がこちらを見て、それから驚いたように大きく見開かれた。
「・・・エドガー」
怯えさせないように、ゆっくりとした足取りで近づいてから、息を吸う。
「ごめん・・・君がそんなに傷ついてたなんて知らなくて。いや、分かってたけど気づかないフリをしていたのかもしれないな。でもリディア、だからってぼくは君を手放すことなんてできないよ。愛してるんだ、心から。絶対幸せにするって約束する。だからお願いだ、屋敷を出て行ったりしな」
「ちょ、ちょっと待って、エドガー!何の話をしているの?ただあたしは・・・」
エドガーの言葉を遮って、リディアは困ったような表情をした。
「何の話って、それは・・・君は昨日のことでぼくに怒っていて、それで婚約指輪を道端に捨てたんじゃないのか?」
「えっ?!」
本気で驚いたようなリディアに、こちらが驚きつつも、エドガーは手の中にあった指輪を見せた。
「たった今拾ったんだ。君を馬車の中で見かけて、その場でおりたら地面に落ちてた」
「ムーンストーン!!」
ぱっと顔を輝かせてそれを受け取るリディアに、どこかほっとしている自分がいて、エドガーは思わず苦笑しつつ口を開いた。
「そんなに探してたの?」
「じ、実は・・・昨日指輪をなくしちゃったみたいで。あたし、これを探すために家に戻るところだったの」
本当は黙って探すつもりだったのよ、と頬を赤らめながら言われて、エドガーは微笑んだ。
「ぼくはてっきり捨てられたのかと思って、ぞっとしたよ」
「そんなわけないでしょ!」
思いのほか強く否定されて、エドガーはますます笑みを浮かべた。
「良かった。それってつまり、君はぼくから離れる気がないって受け取っていいんだよね?」
突然不穏な空気が流れたのを察知したのか、リディアは急に真っ赤になった。
「そっ、それとこれとは別の話よ!・・・ムーンストーンは大事だもの」
ぎゅっと手の中に握り締めてつぶやくリディアがかわいくて、突然エドガーは彼女を抱きしめた。
「ちょっちょっと!何するのよ!!」
人がたくさんいるのにっ!とあたふたする彼女の温もりを一旦離し、エドガーは笑って言った。
「指輪、貸して?」
「別に、いいけど・・・」
何をするつもりなのかといぶかしむ彼女からムーンストーンを受け取り、エドガーは突然リディアの華奢な左手首をつかんで持ち上げた。
「ちょっと、エドガー?!」
いいから、と囁いてエドガーは微笑む。
驚いたようにこちらを見つめる瞳と目を合わせると、彼女は何が起こっているかわからないような素振りを見せながらも、遠慮がちに笑みを浮かべてくれた。
「リディア、君を愛してる。この先どんなことがあっても、君を幸せにすると誓うよ」
言いつつ、ゆっくりとその細い左手の薬指にムーンストーンを通すと、はっと息を呑む音がかすかに響いて、ムーンストーンの表面にエメラルドとアッシュモーヴがきらりと映った。
「とても綺麗だ」
「そうね・・・」
昨日の出来事なんて、もうどうでもよくなっていた。
だってほら、あんなに距離があった心が、今はこんなにそばにいると分かるから。
この先何かあっても、きっとぼくたちはまた一つになれるはずだよ。
昨日の夜に降った雪が、解けて今日の午後には解けて水となるように。
灰色の雲に覆われた空の下で、一旦はやんだはずの雪がまたはらはらと落ちはじめる頃になっても、二人はお互いの熱を感じながらずっと寄り添っていた。


あとがき
幸せエドリディに・・・なっているのかな?(なぜ疑問)自信ないです。うん、前半バラバラだし。きっとこの後ニコに冷たくなりつつ抱き合ってるところを発見されて、バカにされるんだと思います(ぇ