1.雨上がりの冷たい空気
「トワイライト」 エドワード×ベラ

裸足でそっと踏みしめた地面は、水気を含んでしっとりとした柔らかさを持っていた。
昔はあんなに雨が嫌いだったのに、今ではそこまでの嫌悪感はない。むしろ、家で静かに過ごせるしいいか、くらいの気持ちでいる。
寒さに凍えることもなくなり、フォークスの天気にイライラすることもなくなった。
完璧。その言葉ほど適切に今を示すものはない。
あたしは曇り空を見つめて、軽く微笑んだ。全くもって、世界は素晴らしい方向へ動いている。
でも、エドワードにとってはそうでもなかったらしい。
一文字に結んだ口元からそれが分かって、あたしは軽く首をかしげて訊ねた。
「どうかした?」
心地よい鈴の音のような声が出て、自分でも嬉しくなる。
「別に大したことじゃないよ。ベラの気持ちが分かったらなって思っただけ」
ほんの少し申し訳なさそうな顔をして微笑んだエドワードに、あたしはドキドキした。
今でもこうやってエドワードにときめくことができるのは、本当に幸運だったと思う。あたしにとって、これはなくてはならないものだから。たとえ短期間の間でも離したくない。
吸血鬼になってからも、エドワードの魅力は衰えることなく、そして同時にあたしは強く美しくなった。
全ては初めから決まっていたパズルのピースがはまったかのように。
そして今、あたしはこの世界で一番幸せな気分に浸っているNO.1のはずだ。
「教えてあげる」
ささやいて、ぎゅっと力を入れると、エドワードはいつものように感嘆に満ちた眼差しであたしを見つめた。溢れんばかりの幸せが、あたしからエドワードのもとへと注ぎ込まれてゆく様子は、見ているだけでも笑みがこぼれる。
「・・・しあわせ、なの」
指先でエドワードの頬をなぞりながら、あたしは途切れそうになる想いを必死でつなぎながらつぶやいた。いまだにまだこのシールドの逆作用の力を操るのには慣れておらず、気力をしっかり保たないといけないのにはウンザリする。もちろん時間は無限だから気にすることはないのだけれど。
唇にキスが降ってきて、想いは突然パッと途切れた。
人間だった頃なら間違いなく息が続かないような、長い長いキスを終えて、それでもまだ足りないと言わんばかりに抱きしめられる。力強い腕の中で―――もうあたしを粉々にする心配をしなくていいから、エドワードもきっとそこまで手加減はしていないはず―――あたしは夢見心地だった。
こんなに幸せな日々が永遠に続くなんて。
やっぱり吸血鬼になるために、あたしは生まれてきたんだと思う。まさにぴったりだもの。
しばらくして身体を離すと、エドワードはあたしの手を握って走り出した。
森の中を翔ける感覚は思っていた以上に素敵で、あたしの新しい運動神経もかなり活躍している。
さらさらと駆け抜ける風を切って、あたしたちはひたすら走った。
無限の大地を走っているような心地でトントンとリズミカルに枝の上をジャンプしていると、突然遠くにきゃっきゃという明るい笑い声が響いて、あたしは喜びに胸を膨らませた。
レネズミ。あたしとエドワードの大切な娘。
隣でエドワードがうんざりしたようなため息をつくのが聞こえて、あたしは身体を強張らせた。
全てが順調なはず。でもまた問題なことがあったの?
今ではあたしも同じ色になったゴールドの瞳をのぞきこむと、エドワードは少し呆れたような顔をして息を吐いた。
「何でもない。ジェイコブだよ」
「また一緒に遊んでるの?」
こくりと頷いたエドワードにならって、あたしもため息を一つついた。
ジェイコブがレネズミのことを心から愛しているのは本当だけれど、その分あたしたちは少しだけイライラする。娘とふれあうのは親として当たり前だというのに、ジェイコブはいつも彼女から引き離されると不満顔になるから。人間のように長時間眠る必要がないから、遊び相手をするのにもキリがないし。
まぁもっとも、レネズミは眠るからそのときに一緒に眠るのかもしれないけど。


「ハイ、ジェイコブ」
案の定、ジェイコブは笑顔を浮かべた後にちょっと不安げな顔をした。いつものことだ。
「いいでしょ、ちょっとぐらい。あたしたちにもレネズミの世話をする権利と義務があるのよ」
「今はぼくたちの時間だ」
「うん、まぁ分かってるけどさ」
威圧的なエドワードに降参したのか、ジェイコブはおとなしく引き下がった。
抱っこしていたレネズミをそっと降ろし、その手をあたしの手に預ける。
「じゃあ俺はちょっと眠らせてもらう。どうせ家まで帰ってくるんだろ?」
「あぁ、そのつもりだ」
短い会話の途中すらも、レネズミは退屈そうに遊ぼうとあたしの手を揺さぶってくる。
背丈もだいぶ伸びて、今ではあたしの腰より高くなった。
あたしは微笑んで、レネズミを抱き上げる。吸血鬼になって良かったと思えるのは、相当大きくなっても娘を軽々と抱き上げられることだ。人間ならこんなに成長した子供はとても無理だもの。
ジェイコブが交代を終えて去ると、レネズミはちょっぴり寂しそうな顔をした。
ジェイコブ、眠るの?
「そうよ。彼にもあなたと同じで休憩が必要なの」
頬に触れられた手から伝わってきた思いに答えると、レネズミは少し考える仕草をして頷いた。
ならいいや。ママとパパとお散歩する。
「そうね。今日は何がしたい?」
「駆けっこ!!」
わざわざ声に出すほどの勢いで、彼女は言った。エドワードがくすくすと笑う。
「ぼくと競争したいらしいよ。ベラが味方についた方が絶対に勝てると思ってるんだ」
こっそりと耳打ちされた言葉に、あたしは思わず笑みをこぼした。確かに新生者だから、少し期間はたっているとしてもまだあたしの方が速いだろう。
「じゃあパパと競争する?」
「うん」
楽しそうに笑う娘を見て、あたしとエドワードは顔を見合わせて幸せを噛みしめた。
こんな風な穏やかな毎日が、いつまでも続けばいい。どれほど年月がたっても、きっとあたしはこの幸福の価値を、素晴らしさを忘れはしない。
エドワードの手に軽くふれて、あたしは息を吸った。エドワードが頷く。
「行くわよ」
レネズミを胸に抱いて、あたしは勢いよく森の中へと飛び出していった。


2.眠れなかった夜明け
「守り人」バルサ×タンダ

ひんやりとした空気にふれた頬は、まるで何かにつつかれたように張った。
鼻の奥がつんとなるくらい冷えた空気に、幼いバルサは深く息をついた。
今日でここは去らなければいけない。
追っ手の情報を、昨日ジグロが酒場で掴んだのだ。幸いなことに、追っ手にはいまだ自分たちの居場所を掴めてはいないようだが、用心するに越したことはない。
それに、ここに長くいたことが分かれば、トロガイとタンダにも迷惑がかかることは分かりきっている。この世界では、"知らない"ことが最も重要な意味を持つのだ。
「・・・バルサ」
背後から近づいてくる足音が聞こえてはいたが、どうにも顔を合わせる気分ではなくて、バルサは黙って背を向け続けた。声が掠れないよう、深く息を吸って答える。
「何か用か、タンダ」
彼は自分とは世界が違う。誰かに命を狙われているわけでもなく、追われているわけでもない。
父を殺されてから今まで、信頼できる人間となんて出会ったことがなかったのに、なぜだか不思議とタンダには警戒心は起きなかった。
ジグロがトロガイを信用していたからだろうか。でも微妙に違う気もした。
「ここを・・・出て行くんだってな」
「・・・」
肯定の意味で黙っていると、突然タンダが腕をつかんだ。
「何でだよ!ここにいるのがバレたわけじゃないんだろ?だったらここにいろよ。ちゃんと匿って」
「そういうことじゃない」
彼が最後まで言い切らないうちに強い口調で切り込むと、タンダは瞳を見開いてバルサを凝視した。
違う、ともう一度つぶやいて、バルサは息をついた。
「見つかる見つからないじゃないんだ。匿ってもらったとしたって、ここにいればいつかはバレる。お前やトロガイ婆さんの命だって危ないんだぞ。それを承知で私たちをここに引き止めることができるのか?!」
「バルサ!」
「私たちは追われる身だってことを忘れるな。一所に留まることはできない」
自分で言った言葉なのに、なぜか自分の身体が深く切り裂かれた気がして、顔がゆがんだ。
自分は他の人と違うのだということを、改めて突きつけられた気がした。


ぎゅっと握った拳を持て余しながら、バルサは急ぎ足でその場を離れると、村人が入ってこないような森の奥にまで突き進んで行った。
涼やかな風が一つに縛った髪を揺らすたびに、思わず胸が痛くなる。
明日には発たなければならない。そう分かっていたからこそ、タンダには礼こそ言うべきだったもののあんな喧嘩みたいなことにはなってはいけなかった。
好意で言ってくれた言葉をあんな言い方で打ち消した自分に対する評価は、最悪だ。
いくら人を憎まないタンダだって、むっとするに違いなかった。
そのことに気づいて、傷ついている自分がいることに、バルサは唖然とした。傷つくのは彼であって、自分ではない。自分が傷つく理由など、どこにもないのに―――。
行くあてもなく歩いたせいで、辺りは夜のように暗かった。
身体の中で荒れ狂っていた嵐がぱたりとおさまったかのように、バルサは歩みを止めた。
謝らなくちゃいけない。
頭の中ではそう分かっていても、何もする気になれず、バルサは途方に暮れた。
ずるずると木の根元に腰を下ろし、手の届くすぐそばを流れている小川の水に手を浸す。
春になったとはいえまだまだ水は冷たく、バルサの手はかじかんだ。
そしてじーんとしびれたようになるまで、手をつけたままバルサはうずくまっていた。
そうすることでしか、この罪悪感とどうしようもない寂しさをかき消すことはできない気がして。


何時間もたったように感じたけれど、実際はもっと短時間だったのだろうか。
暗闇の中にいたバルサには、時間の感覚がよくわからなかった。
突然、これ以上濃くなれないような影がバルサのもとに落ちた。
「・・・こんなところで何やってるんだよ」
驚いて見上げれば、すぐ目の前に差し出された手。
黙ってそのまま固まっていると、呆れたようなため息が頭上で聞こえ、すぐにその手が自分の冷たい手をぎゅっと握り締めた。そのまま、勢いよく引っ張られる。
「タンダ・・・」
さっきはすまない。そう言おうとしたのに、なぜだか喉の奥が詰まって何も言葉が出てこなかった。
その代わりにぽんと軽く背中を叩かれ、バルサは深い息をついた。
「お前、いろいろ考えすぎなんだよ」
「え?」
「とにかく。明日出発なんだろ?こんなところで油売ってないで、さっさと寝るなり準備するなりしろよ」
「あぁ・・・そうだな」
分かった、と思った。
タンダは、他人のようにバルサを扱わない。女の子がこんなことをして、と軽蔑した視線を送ったりしない。ただ、バルサがそうしなければならない理由を、少し強情に飲み込んだ上で理解してくれている。
バルサがこんな風に生きていること、そしてこれからもそう生きていくことを。
だから、ほっとしているのだ。
諦めながらも、心のどこかで人とのふれあいをここまで求めていたのかと、バルサは自分自身に驚いた。あの全てが変わってしまった日から、そんなものを必要としたことなんてないと思っていたのに。
「タンダ」
「んー?」
幼い頃のように手をつなぎながらの帰り道、バルサはつぶやいた。
「また、戻ってきたときはよろしくな」
「まかせとけ」
でも、傷つくことを恐れ続けるよりも、こうして希望をつなぎながら会いたいと思える人がいるのもいいかもしれない。
ここに帰ってくること。
ただそれだけで生きてゆく力となるだろうから。


3.世界の境界線は全部灰色だ
「伯爵と妖精」エドガー×リディア

本当のことを白状すれば、彼女を失うことができるわけもなかった。
長い年月(エドガーにしてみれば、女性を口説き落とすのにここまで時間がかかったことはないわけで、これはとてつもなく長い年月に相当する)をかけて、やっと相思相愛になれたのに彼女をハイそうですかと、簡単に手放せるわけもなく。
けれど、少し自信を失くしていた。
自分がプリンスの記憶を持ってしまった今、リディアを無事に一生愛し守れるかどうか不安になった。
だからリディアの気持ちを知って、自分を愛してくれているのならと決心したのだ。
彼女の身を危険にさらしてまで価値のあることなどないと分かったから。
なのに。
別れのときが近づくほど、胸はズキズキと痛みを増し収まる気配はない。
永遠だと信じたものなどなかったはずなのに、いつの間にか彼女を永遠だと信じていた。リディアがいれば、どんなことも乗り越えられる気がしていたから、そんな甘い幻想も打ち砕かれずに抱き続けられた。
ありがとう。
その言葉を、飲み込まずに吐き出すのにこんなに苦労するなんて。
儚げに微笑んだリディアの表情が、狂おしいほど近くに感じられて、エドガーは泣きそうになった。
リディア、と小さくつぶやく。
ずっと離れていなければならない苦しみを味わった後の抱擁は、こんなにもじんわりと心を温めてくれるものだったのかと、初めて知った。腕の中にすっぽりとおさまってしまうほどの華奢な身体をしっかりと抱きしめ、エドガーはカモミールの香りに酔った。


少し怒ったような顔が、いつもの照れ隠しには見えなくて、エドガーはあせった。
幸せにすると誓った言葉をもう自分はやぶりはじめている。
どこがデッドラインなのか、ときたま分からなくなる彼女を愛しているのは本当で、でもときどき自分と彼女は"他人"なのだと妙に自覚してしまうことが悲しくて。もっとも、リディアにしてみたら別人なのは当たり前のことで別に悲しいことではないらしいが。
結婚だってそうだ。貴族と中流階級の身分。
そんなものクソくらえと思ってはみても、実際世間の目は厳しく、リディアを守ることだって苦労する。
でも、こうして彼女の指に再びムーンストーンをはめこんだことで、エドガーはなぜか妙に安心感を覚えた。もう離れていなくていいという証だからだろうか?
もう手放せない、リディアのぬくもりがそばにあることで、エドガーはずいぶん安心していた。
記憶にはない、母親に抱かれているような感覚。
そんなことはほとんどなかったはずなのに、なぜか思い浮かべてしまう自分がおかしくて、エドガーは不思議なものだと目の前のキャラメル色を眺めた。
「・・・リディア」
結末をやっとのことで飲み込んでいるようなリディアに、そっと確認するようつぶやくと、彼女は少し距離を取ってこちらを見上げた。
「なあに?エドガー」
「どこにも、行かないでくれるね」
もう手放したくない、手放せないということが分かっているから。
死が二人を分かつまでということは言えない。死なんて、どこにでも転がっているのだから。
ただ、永遠を信じられなくても、彼女をそれでも離したくなくて。
突然の言葉に驚いただろうが、そんな素振りは一切見せず、リディアは微笑んだ。
「当たり前よ。それに、あなたもね」
すとんと言葉が胸に落ちた気がした。
あぁ、そうか。ぼくは。がむしゃらに守るのではなく、共に守りつつ生きていくんだなと思う。
たったの一言で、ぼくをこんなに力強く支えてくれる君は、なんて偉大なんだろう。
エドガーは力が抜けたように、突然部屋のベッドの上に座りこんだ。
「リディア、ありがとう」
たとえ何もない灰色の世界にたどり着いたとしても、ぼくは大丈夫だよ。
そう心の中でつぶやくと、彼女はまるでその声が聞こえたかのように首をかしげ外へと出て行った。


彼女とぼくだけを乗せたメリーゴーランド。
それはどんな風に回って、どこへ連れてってくれるのだろうか。
それは、他の誰をも邪魔をしない、優しい世界だったらいい。
そんなことを考えるくらいには、疲れていたのだろう。ゆっくりと閉じられたまぶたは、もう限界だと訴えている。少しだけ、夢を見るのも悪くはない。
願わくば、目覚めのときには彼女を瞳の中に映すことができますように。
エドガーは、そのままベッドに倒れこむと同時に眠りの世界に誘われていった。


4.空は繋がってたんじゃないのかい
「十二国記」陽子+楽俊

穏やかな初夏の風が頬を撫で、景王陽子は目を細めた。
すっかり日は長くなり、今の季節は外にいて一番心地よいと思える時期だ。
やっと、慶は財政も立ち直ってきて、以前の貧しい日々はだんだんと収束に向かっている。これも景麒や浩瀚の支えがあってこそなのだが、周りはなぜか陽子のおかげだと言う。
「・・・私は大したことを何一つできていないのに」
ぽつりとつぶやいた声は独り言のつもりだったのだが、隣にいた楽俊はそうは思わなかったようだ。
「そんなことないさ。陽子は立派に王としての務めを果たしてるじゃないか」
「そうかな。でもいまだにわからないことばかりだよ、ここの世界は」
「それでも陽子は頑張ってる」
「・・・ありがとう」
ふ、と微笑むと、かすかに楽俊のひげが揺れた。
「そういえば、こないだこっそり下りて見てきたよ」
「またか?陽子、バレたらそのうち景麒に殺されるぞ」
そう言いつつ、どこか楽しそうな楽俊は、呆れたような表情で陽子を見た。
「心配ないよ。どうせ気づかれない。班渠には黙ってるように命じてあるし」
「お前って結構悪ガキだよなぁ」
「そりゃ、まだ子供みたいなものだし。いくら歳をとらないって言っても、もともとこっちに来たときから若かったからね。当時はまだ働く歳でもなかったんだから」
「まぁ景麒も大変だろうな」
「仕方ないさ。元から王様の器じゃないんだから」
慶の国民が聞いたら目を剥きそうな答えに、楽俊が苦笑した。
「陽子はいつもそう言うけどなぁ、お前さんはちゃんと王の器だよ。本当に王の器じゃなかったら、慶国をこんなに立て直せなかったさ」
「私の力じゃないもの」
「景麒たちの助けがあったとしても、傾いてぼろぼろになってた慶をここまで豊かにしたのは、陽子だ」
きっぱりと言い切った楽俊の言葉に、陽子は目を見開いて少し黙った。
「楽俊は人を励ますのが本当に上手いな」
「それはどうも」
くすくすと笑う楽俊と、こうやって他愛無い時間を過ごすのは、王になって何年も年月がたっても大切なことの一つだ。
こうやって、明るく笑いあえる未来がくるなんて、思ってもいなかった。


陽子と楽俊が初めて出会った日。もう何年も前のことだけれど、決して忘れたことはない。
あの頃の自分は、他人を信じられなくなって、どうやって欺きを見破ってしたたかに生きていくかばかり考えていた。どんなに人を傷つけて殺しても、気にすることもなくて、自分が生き延びるためなら何だってできた。
多分、"人"じゃなかったのだ。あの頃の陽子は。ささくれだった心を抱えて誰のことも信じられずにいるうちに、痛みや苦しみを感じる心が麻痺してしまった。
そんなときに出会った楽俊も、最初は信用していなかったしするつもりもなかった。
けれど、彼の心からの言葉や行為に心の傷を癒されて、少し信じてみようと思えたのだ。
もしも出会ったのが楽俊ではなかったら、今頃私はどうなっていたのだろうと陽子はふと思った。
少なくとも王にはなっていないだろうな、と考える。もしもあのとき楽俊に出会って、まともな心を取り戻さなければ、陽子はいまだ人ですらなかったかもしれない。
それが、彼に出会って、何が何だかわからないままに慶国の王になって。
今ではこんなに豊かな国になった。水田のまだ青い稲を見ながら、そんなことをぼんやりと思う。
この稲が枯れ果てることのないように、自分たちはこの国を守っていかなくてはいけないのだ、とも。
今までの道を思って、陽子は知らぬうちに長いため息をついた。
何と、長い道のりだったのだろう。仙籍に入っている身だから、実質的に歳をとることはないけれど、それでも長かったと思えるくらいの年月。そして、これからも時は流れてゆくのだ。自分がいつ死ぬのかはわからないけれど、それでも確かに慶の時間は流れてゆく。
もしも、自分が道を誤ったときには、今横にいる友が正してくれるといいなと願った。
「楽俊」
「ん?」
「これからもよろしく」
突然の言葉に戸惑ったような顔をした楽俊は、少しして微笑んだ。
「おう。こちらこそよろしくな」
見上げた空は、まるで透けるように綺麗で、どこまでも広がっていた。


あとがき
お題は全てラルゴポットさんの「クレパスに絡む七題」からお借りしました。