赤いカスコ(兜)の美学
悲劇の武将真田幸村
2007年9月9日号





 スペインでも大ヒットした映画「ラスト・サムライ」。この映画の中で主役のトム・クルーズが身に付け鎧兜はそれはそれは見事な赤。監督のローランド・エメリッヒはこう語っていた。
 「とにかく出来るだけサムライの世界を忠実に再現しようとしました。でも赤の鎧兜はイレギュラーなものだと私たち自身分かっています。敵に対して存在を見せ付けますから大将がこれをかぶることは危険だったのです。でもトム・クルーズにはこれを着てもらいました。なぜかと言うと最初に通常タイプの黒い鎧兜でカメラテストを行ったのですが、カメラテストの映像を見てみると戦争シーンではトム・クルーズの姿が群衆の中に沈んで見つけることがとても難しかったので、彼を目立たせる必要があったからです。」

 だが戦国の時代が終わろうとしているときにこの赤い鎧兜を正々堂々愛用している武将がいた。真田幸村。本名は真田信繁。

 彼のことをはじめて知ったのは子供の頃テレビのアニメでよく見た猿飛佐助である。だがそのころは佐助の繰出す忍術に見とれ、どこにいる子供のように佐助の真似をしていただけである。おそらく今の若い人にはもう猿飛佐助や霧隠才蔵の名前を言ってもぴんとこないんだろうなぁ、と思う。彼らは真田十勇士のメンバーで真田幸村の元で働いた。

 といっても2人は架空の人物。モデルになった人物は存在したものの、ストーリーは立川文庫の創作である。そしてなにより真田幸村、実はこの名前が歴史上には存在しない名前であることをつい最近知った。幸村という名前は江戸時代ごろから盛んに講談に使われていた名前だそうだ。

 そして真田幸村の名前がグッと身近になったのは私の敬愛する小説家、池波正太郎の小説「真田太平記」からであった。名将の誉れ高い真田昌幸の下に生まれ、よく出来たいつでも冷静沈着、周囲に対しいつも思いやりで当たる兄の信之、明朗快活、いつでもエネルギーいっぱいの幸村、それに幸村にままならぬ恋を抱いているらしい女忍者お江、全ての登場人物が彼らの成長とともに生き生きと描かれていて、柴田錬三郎を始めさまざまな作家が挑戦した「真田幸村」というテーマに決着を付けた。


 写真1 大阪城本丸
 大阪夏の冬・夏の陣の舞台となった大阪城。内部が博物館になっています。

 写真2 中には豊臣秀吉の生涯を再現ドラマでしのぶ仕掛けが

 彼の作品で印象的だったのは大阪夏の陣。幸村は後藤基次などの豊臣方の度重なる主だった武将の死に、意気消沈した武将たちを鼓舞するため豊臣秀頼自身の出陣を要請する淀の方に阻まれる。このときお江は幸村に進言する。
 「彼女が全ての問題なのです。彼女を殺してしまいましょう。」
 だが幸村は全てを悟りきった表情でその進言を却下する。敗者の運命を悟っていたのであろうか。こうして幸村はこのままでは死ぬことを知りつつ、その運命に向かっていくのである。

 この運命を受け入れていく姿が日本人の哲学、道徳観にぴったりマッチして、それが後世の真田幸村の数々の伝説につながるのであろう。スペインでも最近「カピタン・アラテュリステ」シリーズがベストセラーとなり、なぜかアメリカ人のビゴ・モーテンセン主演で映画化されたことは記憶に新しい。小説は読んでいないが、映画の中では彼もまた、真田幸村と同様数多くの功績をたてながら、政治の前に実力を無駄遣いし、戦場で死んでいった。なお、このアラテュリステ、まごうことなき実在の人物である

 ちなみにアラテュリステの活躍した時代は私の研究対象でもある「びっくりしちゃった王様」と同時期、どちらの映画にもコンデ・デュケ・デ・オリバレスが出てくる。フェリペ4世のもとで活躍した政治家で、彼が登場する以前にすでにフェリペ4世の治世は魑魅魍魎の世界であったため、どうしても彼には悪い印象が付きまとう。だがここで詳しくは説明しないが彼は当時としては革新的な政治家であったことは付け加えておこう。

 では、実際の真田幸村は・・・?兄の信之の言葉によると、彼こそ温和を絵に描いたような人物で、われわれのイメージとはかけ離れたものであったようだ。得てしてそんなものである。

 この真田幸村がその名を本当に天下に知らしめるのはあの有名な方広寺事件をきっかけに起こった大阪冬の陣(1614年)。信繁は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし彼の策は取り入れられず、籠城が決まると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に新たに出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方の攻撃を一身に受けて奮戦した。これが世に言う出城が真田丸である。

 大阪方の武将はこの真田丸を徳川方へ寝返る準備ではないか、と当初は疑ってかかったが、実際にはこの真田丸を利用して、真田幸村は徳川方をこてんぱんに蹴散らして見せる。真田幸村(歴史的には“信繁”)の名が名実ともに一武将として世に認められた瞬間である。このご徳川家康は大阪方と和睦した際、真っ先にこの真田丸を取り壊してしまう。

 翌年の大阪夏の陣、豊臣軍の後藤基次や木村重成などの主だった武将が討死していく中、信繁は士気を高める最後の手段として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、淀君に阻まれ失敗する。豊臣氏の敗色が濃厚となる中、信繁は最後の作戦を立てた。それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利軍を茶臼山付近に陣取らせ、射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を急襲するというものだった。しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまった為、作戦を断念。そして正面からあの有名な徳川家康本陣めがけての決死の突撃を敢行することになるのである。

 打ち下ろした真田幸村の刀を徳川家康自身が受け止めたと言う話もあるが、それはさすがに伝説であろう。だが徳川軍の本陣の旗印が蹂躙されたのは本当のようだ。この後数で勝る徳川軍にさすがの真田幸村ももうなす術が無く、最終的には討ち死にすることとなった。だが真田幸村の侍としての本性を知った徳川家康は、大阪夏・冬の陣後も彼を心から尊敬し、徳川幕府は大阪夏の陣以降真田幸村のことを話し、悲劇のヒーロー扱いすることをあえて禁じなかったと言う。


 池波正太郎もこのときのことをこう書いている。手傷を負い疲れ果てた真田幸村を一兵士が見つける。その際、彼はこう言った。
 「討ち取って手柄にせよ。」
 ろくに戦いもせず簡単に幸村を討ち取ることに成功したこの兵士は真田幸村を討ち取った後、徳川家康の午前に召しだされ、真田幸村の最後を語るように命ぜられる。だがこの兵士は思わず、
 「頑強に抵抗する真田幸村であったが最後には討ち取れた。」
 と嘘をついてしまうが、家康はそれを聞くや否や嘘を看破し、一喝する。
 「真田幸村はお前と戦って討ち取られるような武将ではないわ!」
 このような壮絶な最期を遂げた真田幸村の兜が大阪城に飾られている。と言ってもレプリカ。これをかぶって記念写真をどうですか?と言う企画もののコーナーにあるのだ。なぁんだ、とがっかりしないようにしよう。昔をしのぶには十分だ。


 写真3 真田幸村の兜
 「赤構え」というので真っ赤を考えていましたが、オレンジのほうが近いか。

 写真4 色々な兜が並んでいますが全てレプリカです。
 よろいもありまして、色々試すことが出来ます。写真を撮っているのはフランシスコ君


 そしてこの真田幸村の兜、赤いのである。その赤い兜についている6つの銭形。これぞ真田の六文銭。

 時は1582年、天目山の戦い(織田信長が武田勝頼を滅ぼした戦い)に破れた武田軍の一員だった真田昌幸、彼は上田の城に引き返そうとするが途中で4万の北条軍に遭遇してしまう。真田昌幸軍は300。昌幸は悩む。そのとき幸村が進言する。

 「相手方の旗をつくり、裏切りを偽装しましょう。」 
 幸村はその旗に北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかける。北条方は松田が謀反を起こしたと勘違いして大混乱。それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着く。この功に際し昌幸が幸村に彼自身の旗印として六連銭を持つことを許す。これが真田の六連銭の始まりであった。

 六連銭、これは俗に六道戦を表すと言われている。ではその六道銭とは何か?これは驚く無かれ、お棺の中に入れる三途の川の渡し賃のことなのだ。つまりはいつでも死ねる覚悟があることを真田幸村は示したことになるのだろうか。まるで将来の幸村の運命を暗示しているかのような六問銭。真田幸村の本名「信繁」は兄武田信玄に生涯忠義を尽くした武田信繁にあやかって付けられたもの。家父長制で、長男が文句なしで一番偉かったこの時代、誰かに仕えて死んでいくのは次男以降の定め、とでも言うのだろうか。六問銭の旗印には「不借身命(ふしゃくみんしょう)」、仏法のために身命を捧げて惜しまないこと、の意味があるそうだが、やはり戦国武将が持つ旗印としては私には悲壮感が漂って見える。

 彼が前述の方広寺事件をきっかけに豊臣形につくことを決し、当時流されていた九度山を脱出、大阪城に入城したときには彼とその部下たちの鎧は全て赤で統一されていたと言う。人呼んで「真田の赤備え」。一見勇壮に見えるがその実なんとなくだが真田幸村は自分の運命を悟っていたような気がする。
 「もしお前たちの中に本当の侍がいるのならこの真田幸村が相手だ。」
 主人に忠義を尽くし、相手の注目を自分一手に引き受けてしまおう、そんな忠義な部下の悲壮な覚悟を感じるのだ。


 

 写真5 豊臣秀吉のど派手な兜


 例えば豊臣秀吉の兜は動だろう。色は黒で、頭からものすごい長さの刀の刃のようなものが何本もついている。とにかくど派手だ。今の日本人の感覚からいったらこれを使うには気後れするであろう。とにかくこれを付けた大将が直接戦場で戦うことには不向きな兜と言える。いかにも戦うことよりも趣向を凝らして相手に「負けました」を言わせることが大好きだった豊臣秀吉らしい兜だ。天下を統一したものにしか付けられない兜と言えるよう。

 真田幸村が後々今のように人気者となり、真田十勇士に見られるような数々の伝説を生むのはだからこそ、なのかもしれない。日本人の心を打つ、散り行く定めを受け入れた者の美学だ。


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