ゲルニカが死んだ日
2004年8月14日号





 今年の春のことだった。享年146歳だった。ゲルニカが死んだ。
 正確に言えば、ゲルニカの象徴的存在だったあの樫の木が死
んだのだ。

 時はさかのぼり、1937年、時はスペイン市民戦争真っ只中。
 4月26日、ドイツ・コンドル部隊が、突如、北はバスクの古都ゲルニカに現れた。午後4時半、サンタマリア教会の鐘が警報代わりに空襲を知らせる。そして『ゲルニカ、バスクで最も古く、またバスクの文化的伝統の中心であったこの町は、反乱軍の飛行機によって完全に破壊された。前線からはるか後方にあるこの無防備都市は、ちょうどユンカース爆撃機、ハインケル爆撃機、それにハインケル戦闘機からなる強力なドイツ軍の空襲を受けた。その間500キロにも及ぶ爆撃や、いくつかの証言によればアルミニウム製の1キロの焼夷弾300発を雨と降らせた。その間、戦闘機は町の中心から遠く離れた野原でも、逃げる人々に機銃掃射を浴びせた(『タイムズ』1937年4月28日付の記事・相倉康夫『ゲルニカの帰郷 − ピカソの祈り』より)。

 反乱軍とはフランコ軍であり、あたかもフランコ軍がヒットラーに協力をしてもらってゲルニカを襲ったような印象を受けるが、実のところなぜヒトラーがゲルニカを襲ったのかは詳しいことはいまだ研究中である。
 ただイギリス系の新聞がナチス・ドイツの影におびえ、また新たに現れたフランコというファシズムを前にして、このように書き立てるのは当時の現状から仕方のないところであろう。

 このゲルニカ襲撃になぜか奇跡的に助かったのが国会議事堂とそしてゲルニカの樫の木。町の人はどんな気持ちなのだろう。この樫の木はバスコの歴史をいつも目の当たりにしてきた。

 正確にはゲルニカの樫の木は3本あり、今回死んでしまったのが3番目、1番目は“お父さん”と呼ばれ14世紀に植えられ、450年生きた。次の樫の木は“ご老体”とあだ名され、1742年から1892年まで生き、現在でも化石状態でバスク総評議会の庭に保存されている。北はバスコの領主たち (ナバラ・カスティージャ・アラゴン等)はこの聖なる樫の木の下で法を守る宣誓をしなければならなかったという。スペイン自治の、いや自
由そのものの象徴こそ、この樫の木なのだ。

 だが3代目が見たものは見るも無残な空襲撃。この木の前で幾人もの人が死に、それをきっかけにピカソの『ゲルニカ』が生まれたその反面、今ではこの木は図らずも“バスク祖国と自由”、いわゆるETAの象徴にもなっているのである。思い残すことが山ほどあったに違いない死となった。

 バスク総評議会は現在4代目の植樹を検討中だ。今回の3代目の死が、木を蝕むきのこの発生によることから、しっかり土地の浄化から始めるという。

 だがやはり3代目は北の人達には特別な存在であったはずだ。

 ゲルニカの木は
 祝福されている
 バスク人の間で
 あまねく愛されている
 汝の実を世界に与え 広めよ
 われらは汝をたたえる
 聖なる木よ

        − 歌「ゲルニカの木」より
           作詞作曲 イバレギーレ
           約 下宮 忠雄
                       

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