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「ありがとね、シスター」 全ての音を掻き消す雪に溶けていく笑顔と足跡。向けられた優しい言葉があるから、私はまだ生きていられる。 神がお許し下さっていると、それを信じていいのだと思える。 冷気で凍る指先に吐息を吹きかけて、数少ない私物を古いボストンバッグに詰め込んでいく。衣類はこの寒さをしのぐために数枚あれば十分だし、もともと化粧などしないのだから化粧品は化粧水だけあれば事足りた。それらを仕舞い込んで一つ息を吐く。それからあどけない笑みで私を取り囲む子ども達の写真を衣類に挟み、割れないよう汚れないよう慎重に仕舞う。その上に指の脂が染み込みボロボロになった聖書と、毎晩時間を掛けて丹念に磨いているロザリオを置いて、それらを巻き込まないようにボストンの口を閉めた。立ち上がり、正方形に作られた部屋をぐるりと見回す。 ここは、私の部屋だった。私の存在が許された、小さな部屋だった。感傷に浸りかけて、慌てて首を振る。全てを捨てなければならなくなったあの日から、私はもう振り返らないと決めたのだ。この命はまだ許しを乞う旅の途中にあるのだから、振り返ってはならない。後悔は無い。また新たな旅に出るだけなのだ。 コツコツ。 薄い木戸を叩く音に驚いて顔を上げる。まだこの部屋を訪れてくれる様な人間が居るとは、思ってもみなかった。 「シスター?」 例えるなら道端に綻んだ小花の様な可憐さ。あどけないとさえ言えるかも知れない、聞き慣れてしまった声だ。普段ならノックが聞こえるとすぐに扉を開けていたので、その声の主はいつまでたっても反応が無い事に訝ってまたノックを繰り返す。開けても、良いのだろうか。強い逡巡が脳裏を走るが、やがて握り締めたボストンの持ち手を離し立ち上がった。深呼吸を一度二度と繰り返し、漸く心が決まって扉のノブに手をかけ引き開ける。必要以上にゆっくりした速度で扉が開くと、少女は愛らしい大きな瞳を瞬かせた。私の肩越しに片付いた部屋を見詰め床に置かれたままのボストンに気付き、驚いた様子で私の顔に目を戻す。私は目を細めてその動作を見守っていた。昨夜からしんしんと降り続いた雪は教会の外れに作られたこの部屋へと続く道を覆い隠していて、陽光が反射してこの目を射る。それが眩しかったのだと、心の中で言い訳をしながら。 真っ直ぐに切りそろえられた少女の腰に届く黒髪が、雪原を渡ってきた風に揺られる。 「シスター、行ってしまうの? ……どうして?」 曇りの無い強い瞳が私を迷い無く見詰めてくる。答えあぐねて言葉を探し、けれど何を言えばいいのか見付からず溜め息を吐いてしまう。 だって、初めてだったの。私が去る事に疑問を抱いてくれた人なんて。皆私が去る事を願っていて、理由なんて分かり切っているから絶対に問うてはこなくて。この子以外に、居なかった。居なくて当然だと知っていた。 雪の温度の風が二人を包む。少女をがらんとした部屋に招き入れ、私は扉を閉めた。雪明りに眩んだ視界が、薄闇の中で上手く機能しない。目を凝らしてボストンを見詰めた。その中にある、十字架を。 「どうしてって……知ってるでしょう。私はここに居てはいけない人間だからよ。私は旅を続けなくてはならないの。貴女だって誰かから聞いたでしょう? 少女は不思議そうに私を見上げてくる。その瞳の真っ直ぐさに私は耐え切れず、視線を逸らせながらそうとだけ答えた。けれどそれが真実なのだ。この命はまだ旅の途中。だから、そう、私は立ち止まらない。それだけの事だ。 納得できない、という風に口をへの字に曲げた少女の髪を凍えて赤くなったこの指で撫で、問う様に首を傾げてみせる。少女は不承不承ながらも私の視線の意味を読み解き、溜め息を吐き返して来訪の理由を告げた。 「あのね、 「あぁ……」 その少年の名前は忘れてしまっていたが、その顔は覚えていた。吊り気味の二重の瞳、常に笑った様な口元に鋭く尖った顎の線。驚く程、あの人によく似ていたから。 半端な答えを返すと、少女──天霧はその細い指で額に落ちる髪を払った。落ち着かないその動作に、今度は私が彼女を凝視する。満月の様な丸い大きな瞳は緑がかった金色で、きゅっと引き締まった唇は意志の強さと真っ直ぐさな性情を如実に表している。まだ十代の前半でありながら、整った凛々しい顔立ちだ。寒さに赤くなった鼻だけが、その大人びた雰囲気を和らげている。天霧はしばらく視線を泳がせた後、私を再び見上げて視線を固定した。 「好きだって、言われたの。学友としてではなく、一人の女の子として見ているって。大切なんだって」 彼女は心底困惑した様子で、篝という少年の言葉を繰り返した。その間もその指は髪をいじってみたりスカートの裾を握ってみたりと、随分落ち着かない。名前を聞かされ触発されその篝という少年が彼女と共に礼拝に来た日の事を思い出していた私は、逆に不思議に思って内心で首を傾げた。事情も全く知らない、人に深入りする事を避けたがる自分でさえ見ていてすぐに分かった少年の気持ちに、彼女は気付いていなかったのだろうか。 「そう、なの。それで、そう言われて貴女はどうしたの? 天霧」 いつまで経っても彼女は次の言葉を紡がず、この告白の意図が掴めなかった私は下世話な事を承知でそう尋ねた。少女は「うん……」と煮え切らない返事をし、またひとしきり視線を泳がせてから口を開く。 「何も、言ってない。だって分からないんだもの」 「分からないって……何が?」 訝る私に、彼女は真摯な瞳で答えた。 「ねぇシスター、恋って何? “好き”ってどういう事? 神様はどうお考えなの? 愛と恋は何が違うの? 篝の私への気持ちと、私の篝への気持ちは同じなの?」 矢継ぎ早の問いに、私はただ息を呑む。沈黙する私の様子に気付かずに、天霧はただ真っ直ぐな瞳で私を見上げている。 「教えて、シスター」 愛と、恋。 思いと、思い。 そこに違いはあるのだろうか。それは何が違うのだろうか。 心に風が吹き荒れる。一陣の風の中で、微笑む人の懐かしい姿を見た気がした。 「……天霧は、主の事を思う時、どんな気持ちになる?」 まだまだ成長途中の少女は、やはり相応に背が低い。視線の高さを合わせる為に膝に手を突き、金に緑を溶かした不思議な瞳を覗き込んだ。少女は右の人差し指を軽く曲げて唇に当ててしばらく考えた後、慎重に言葉を選ぶ。 「とても、暖かで強い気持ちになるわ。主の為なら、主の思し召す事なら何でも受け入れようと。主の為に何かをしたい、私は何も得られなくても全く構わない。ううん、何かを欲しいとも思わない。主が私に望む私でいられる様、頑張ろうと。そう、思います」 大人と子どもの狭間にいるからこそ、強さと純粋さを共に持てる少女。真っ直ぐな瞳、真っ直ぐな言葉。私はにこりと微笑みかけた。 「恋とはきっと、“自分がこうしたい”と感じる気持ちの事。傍に居たい、居て欲しい。抱きしめたい、抱きしめて欲しい。触れてみたい、触れて欲しい。見も蓋も無い言い方だけれど、そこには、……性的な充足感を埋めたいという願いも確かに込めれられてる。これは主の仰る“愛”とは確かに違う気持ちね」 「……じゃあ、愛は?」 澄んだ瞳は湖面、凪いでどこまでも静かに佇む。この瞳の色をきっと人は“無垢”と名付けるのだろう。そこに自分の中で渦巻く気持ちを映し、私はそっと瞳を閉じた。見果てぬ道先に待つ物への畏怖、ただ脅える私に世界の優しさを教えてくれた人がいる。貴方への気持ちに名前を付けるなら、どちらなのだろうか。 貴方と出逢えて良かった。心からそう思ったあの気持ちに、名前を付けるならば。 「──そう、ね。さっき貴女に尋ねた主への思い、それがきっと愛の形の一つだわ。愛とはきっと、“誰かの為に何かをしたい。その誰かが幸福でいられるなら、自分はそれだけでもう十分だ”って思える気持ちの事だと、思う。……自分が何かをしたいと思って充足感を得るなら、恋と同じじゃないかと言う人も居るわ。確かに結論を見ればそうだけど、けれどそれは根本的に違う。恋は報われたいの、報われたいと願って行動して悩むの。愛はそうじゃない、報われなくていいの。神への気持ち、親と子どもの気持ち、師と生徒の気持ち。愛という気持ちの形は無数にある。何でも出来るって無条件に受け入れる思いもそう。そうしてはこの人の為にはならない、そう感じて行動する時の気持ちも、そう。真っ直ぐにそう思える気持ちも、一人よがりの歪んだ気持ちでも。そんな気持ち達を、まとめて“愛”と呼ぶんだと思う。他者との関係の中で生じた気持ちが違っても、相手の事を思って何かを願うなら、そこには愛や恋が確かに存在するのよ。同じじゃなくても良いの、重要なのは何かを願う事。恋も愛も寂しがりな私達が生きていくのに必要な、大切な気持ちなのよ」 いつだってそう、人は名前を欲する。個人を識別し、一つ一つの目に見える物見えない物を認識し、知り、思い、抱え、愛でる為に。篝という名の少年が彼女との関係に新しい名前を付けようとしたのは、きっと天霧という名の存在への思いに気付いたからだ。彼女の気持ちに名前を付けるとしたら、それは何になるのだろうか。名前を付ける事に意味があるかどうかは、恐らく我らが主のみがご存知の事だろう。けれど、私達が生きていく為に、意味は無くても必要はあるのだ。 だからこそ、私は今彼女に問う。旅の途中で知り合った彼女に、こんな私を「シスター」と呼んで慕ってくれた彼女に、何かを返したいと願うから。仕える事をお許し下さった主の思いに答えたいと願うから。 「貴女は、篝を大切だと思う? 篝の為に、自分の為に何かを願える? 天霧」 思案する為に俯くと、少女の肩口からするりと髪が零れ落ちた。 この街に居たのはどれぐらいだったろう。朝の祈りを済ませた後はずっと隣の寂れた、けれどステンドグラスの美しい教会で過ごした日々。そこにやって来た人々との触れ合い、向けられた優しい心。流れる時間を芽吹き枯れていく草花に感じた日々。人一人が眠るのがやっとの小さなベッド、聖書と嗜好として読んでいた数冊の本や着替えを仕舞ったらもう一杯になってしまう小さな棚。それ以外に何も無い、否、それ以外の物を置くと身動きが取れくなる様な小さな部屋だった。教会で毎日会う毎に少しずつ言葉を交わし、親しくなり、そんな部屋へ上げてしまったのは彼女が初めてだった。屈託の無い笑顔に、どんなに傷付いても世界への変わらぬ思い。隠し切れない寂しさから目を背けようとしていた私の心に気付いた、年に似合わぬ寛容さ。いつも真っ直ぐな瞳で世界と向き合うこの少女は、かの少年への気持ちにどう名前を付けるのだろうか。 「……きっと、名前は分からない。愛かも知れない、篝が私に対して抱いてくれてる“恋”の仲間の気持ちなのかも知れない。分からない、けど」 そこに確かに、思いはあるのだ。 考えて考えて、ようやくそう言い切った少女は、笑った。真夏に咲き誇る大輪の花の様でも、棘で相手を威嚇する強くも悲しい花の様でも、春に人々の目を和ませるピンクの花の様でもない。例えるならば雪の花。真冬の雪原にひっそりと、けれど強かに咲く白と黄色のスノードロップ。力強く芯の通った笑顔だった。 「……ありがとね、シスター」 そうとだけ言って、彼女はいつもの笑顔を残して雪原に踏み出していった。さよならとは敢えて言わなかった。終わりを告げる言葉じゃなく、いつもの続きを待つ言葉が良いと。 枯れ木に積もった雪が風に吹かれて滑り落ち、その根元にうず高い山を築いていく。何も無い真っ白な所に誰かとの関わりによって溜まっていく記憶、言葉、願い。私はその枯れ木の根元に、誰かと共有する不確かな物がある事の倖せを見た気がした。 吐いた息が白く立ち昇る。その軌跡を一瞥し、私もまたボストンバッグを手に部屋を出た。一歩、二歩と少女の足跡の隣に自分のそれを刻んで進む。天霧が訪れた時より幾分西に傾いた太陽は、相変わらず少し眩い。目を細めて前を見据える私に、不意に背後から強い風が吹き付ける。 ──行ってらっしゃい。 懐かしい声が聞こえた気がして、私は思わず後にした部屋を振り返った。けれど、それは勿論ただの気のせい。視線を落とすと、先程の風で少女の軌跡も自分の軌跡も消えてしまっていた。私はそれでも前を向く。前を見て、少女の足跡からゆっくり離れていく。 大丈夫。目に見える物が消えてしまっても、私の中に確かに残るものがある。貴女との記憶が貴方への思いが、この心を後押ししてくれる。 ALONE EN LA VIDA 07/12/02 抽象的な描写や台詞が多いので、いつかはこのシスターが一所に留まらない──留まれない理由も書きたいです。 08/01/24 この作品を「言葉ざわり」様に登録させて頂きました。 |