強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂、窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領被告事件  [狭山事件]

(東京高等裁判所昭和三九年(う)第八六一号 同四九年一〇月三一日第四刑事部判決 破棄自判・上告)

 

 東京高等裁判所 第二審判決                                    [寺尾判決]  

         裁判長裁判官 寺尾 正二、 裁判官 丸山 喜左エ門、 裁判官 和田 啓一    

 

 

 【控訴人】  被告人

 【被告人】  石川一雄  弁護人  中田直人 外八五名

 【検察官】  大槻一雄  外一名

 【第一審】  浦和地方裁判所

 

       ○  判示事項

 

 いわゆる別件逮捕・拘留中の余罪の取調べが違法でないとされた事例

 

       ○  判決要旨

 

 甲事実について逮捕・勾留の理由と必要とが存在する限り、同事実について逮捕・拘留中の被疑者を、同事実について取り調べるとともに、これに付随して同事実と密接な関係(判例文参照)のある乙事実について取り調べても、違法とはいえない。

 

 

              ○  主    文 

  原判決を破棄する。

  被告人を無期懲役に処する。

  押収の身分証明書一通、万年筆一本及び腕時計一個(昭和四一年押第一八七号の二、四二及び六一)は、いずれも被害者上田善江(仮名)の相続人に還付する。

 

          ○  理    由

 はじめに

  本件控訴の趣意は、弁護人中田直人、同石田享及び同橋本紀徳が連名で提出した控訴趣意書(ただし、「第六、量刑不当」の部分は、昭和四八年一一月二七日弁論を更新するに当たり、これを陳述しないと述べた。)のとおりであり、これに対する答弁は、昭和三九年九月一〇日の当審第一回公判期日に、検察官から、論旨は理由がないと陳述し、同年一二月二六日検察官吉川正次名義の右答弁を補充する書面が提出されているので、いずれもこれを引用する。また、右第一回公判期日に弁護人から右控訴趣意書に基づいて弁論があった後、被告人から特に発言を求め、第一審においては訴因事実をすべて認めてきたのを翻して、「お手数をかけて申し訳ないが、私は善江(仮名)さんを殺してはいない。このことは弁護士にも話していない。」と述べたことを転機として、控訴審の審理は、控訴趣意の本来の内容を大きくはみ出し、多岐にわたる事項について詳細な主張がなされ、そのため事実の取調べが長期間にわたって行われるという異常な様相を現出し、その間数次にわたり裁判官が更迭したこともあって、弁護人から、昭和四五年四月三〇日付更新手続における証拠に関する意見、昭和四七年七月二七日付証拠調請求についての意見陳述及び昭和四八年一二月八日付更新に当たっての弁論要旨等の意見陳述がなされたのであるが、これらは当審における事実の取調べの結果を織り込んだ新たな主張を含むものであるから、本来の控訴趣意書として取り扱うべきものとはいえないけれども、要するに、本来の控訴趣意の内容を補充し敷えんする性質をもっていると考えられる。そして、これらに対応して検察官からも、昭和四五年六月一七日付の事実取調請求に対する意見書や同四九年二月七日付の意見書に基づいて意見の陳述があり、当裁判所としてみても、事案の重大性にかんがみ、自らも控訴趣意書に含まれない事項についてまで審理を進めてきたという現実を自ら否定するわけにはいかない筋合であるから、本来の控訴趣意書の内容をはみ出す部分についても事実の取調べをした結果を参酌して、順次判断を加えることとする。

 そこで、論旨を論理的順序に整理したうえで判断をしていくことにするが、それに先立ち、本被告事件における原審及び当審における審理経過の概要(捜査の経過を含む。)に触れておくことが、便宜であろうと思われる。

 

 第一 本被告事件における公判の審理経過の特異性について。 

 一件記録によれば次の事実が認められる。

 昭和三八年五月二二日(以下、年度を省略した場合は昭和三八年を指す。)被告人を被疑者とする窃盗・暴行・恐喝未遂被疑事件について逮捕状が発せられ、その翌二三日右逮捕状によって被告人が逮捕され、同月二五日同罪名によって勾留状が発付、執行され、あわせて接見禁止の決定がなされ、六月三日勾留期間が延長されて同月一三日に窃盗・森林窃盗・傷害・暴行・横領の罪名で浦和地方裁判所川越支部に公訴が提起され、同日いわゆる求令状により前記勾留状に記載されていない訴因事実すなわち窃盗・森林窃盗・傷害・暴行・横領被告事件についても勾留状が発せられた。続いて同月一六日強盗強姦殺人・死体遺棄被疑事件について逮捕状が発せられ、前記公訴を提起された窃盗等被告事件についてその翌一七日に保釈の決定がなされ身柄が釈放されるや否や、その場で前記逮捕状によって被告人は再び逮捕され、同月二〇日同罪名によって勾留状が発布・執行され、併せて接見禁止の決定がなされ、同月二九日勾留期間が七月九日まで延長されて、同日浦和地方裁判所に強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄(以下これを「本件」という。)及び恐喝未遂(これを含む前記第一次逮捕・勾留にかかる事実を以下「別件」という。)の罪名によって公訴が提起された。言い換えると、既に前記川越支部に起訴されている窃盗等被告事件を含め、捜査にかかるすべての被疑事実について公訴が提起され、弁論が浦和地方裁判所に併合されて九月四日第一回公判が開かれた。この事件においては被告人が逮捕されるや、公訴提起前である五月二八日に窃盗等被疑事件につき中田直人及び橋本紀徳の、また、六月一四日に暴行・窃盗等被告事件につき石田享の各弁護人が選任され、更に、六月一九日に「本件」被疑事件につき橋本紀徳、中田直人及び石田享の各弁護人が選任され、被告人の捜査段階における人権擁護のための活発な弁護活動(保釈請求、勾留取消請求、勾留理由開示の請求、警察官の接見禁止処分に対する準抗告の申立、勾留中の被告人とのしばしばの接見交通等)が行われてきたことが一つの特色であるといえる。右第一回公判期日におけるいわゆる冒頭認否において、被告人は「事実はいずれもそのとおり間違いありません」と述べたのに対して、弁護人らはいわゆる別件逮捕・勾留・再逮捕その他捜査手続の違法を主張し、被告人の捜査段階における供述調書の任意性を争い、証拠調べに入るや、検察官が「本件」及び恐喝未遂被告事件について取調べを請求した三四二点にのぼる書証や証拠物のうちわずか五点の書証についてこれを証拠とすることに同意し、一点の書証について意見を留保したほか、その余の書証はすべて証拠とすることには不同意と陳述し、恐喝未遂を除く「別件」の書証についてはすべて意見を留保したのであるが、この点も他の刑事被告事件にはあまりみられない一つの特異点である。そこで、検察官は不同意の書証を撤回して、証人五名の尋問と現場の検証とを請求し、裁判所はこれらを採用する決定をしたのであるが、右公判期日において被告人は「現場検証には立ち会いたくありません。」と述べた。このようにして、原審の審理は、被告人を立ち会わせて指示説明をさせるなどのことがないまま現場を検証することから始まり、第八回公判期日までに被告人の捜査段階における供述調書を含む検察官請求の証拠が取り調べられてから、弁護人の反証段階に入り(この点、争いのある被告事件では、通常、罪体に関する反証の取調べが終わった後に、被告人の捜査段階における供述調書の取調べや被告人質問が行われることからすると、やや異例であると思われるが、記録を見ても、この点につき弁護人から格別異議の申立もなされていない。)、同年一一月二五日付の書面で、弁護人から、被告人の性格特に精神病又は精神病質の有無について被告人の精神鑑定の、本件捜査の経過、被告人の自白の経過を立証するための証人として各司法警察員(以下単に員ということがある。)山下了一、諏訪部正司、清水利一、青木一夫、関源三及び長谷部梅吉の、また、五月一日、同二日の被告人の行動並びに被告人の性格や生活態度一切を立証するための証人として、石川富蔵、石川リイ、石川六助(仮名)、石川雪(仮名)、石川毅(仮名)及び町村佐智子(仮名)の各請求がなされたのに対し、原審は、鑑定並びに、捜査の経過等の証人は全部請求を却下し、五月一日、同二日の行動等につき石川リイと石川富蔵の二名を採用して取り調べた。更に弁護人は、同年一二月二六日付書面で、検証(本件各現場相互間の距離並びに徒歩又は自転車での所要時間)、自白の真実性に疑いがあるとして証人五十嵐勝爾、長野勝弘、岸田政治、長谷部梅吉、諏訪部正司、清水利一、青木一夫及び小島朝政の、五月一日午後の気象状況について中川雅男(仮名)の、同日午後四時過ぎころ被告人を自宅で見かけたという証人として魚住石斐子(仮名)、増田三郎(仮名)の、また、右アリバイ関係のほか手拭関係、山田明義(仮名)方をやめさせた事情、オートバイの債務の処理の状況について石川六助(仮名)、石川富蔵の、手拭・タオル・アリバイ関係で石川リイを、手拭・タオル関係で石川仙介(仮名)を、被告人の生活態度その他情状に関する事実につき石川毅(仮名)、被告人の性格等情状に関し被告人の隣人で幼友達である木村正男(仮名)、被告人の親戚で以前の使用者として情状につき小川智(仮名)、被告人との交際、同人の性格、態度、最初に自白したときの状況、その後現在まで被告人と面会した際の状況と被告人の心境につき関源三並びに被告人の犯行時及び現在の精神状態につき重ねて精神鑑定の各請求がなされたのに対し、原審は、証人木村正男(仮名)、小川智(仮名)及び関源三のみを採用して後二者を取り調べた木村正男(仮名)については、弁護人において請求を撤回した。)。 被告人質問は、原審第七ないし第一〇回公判において行われたのであるが、被告人は「捜査段階で三人でやったといったのは全部嘘です。その後述べたのが本当です。」と終始単独犯行を認め、事件の概要についても供述しており、審理を終結するに当たっても、検察官の死刑の求刑意見に対し「言いたいことは別にありません。」と述べた。かようにして、原審においては昭和三九年三月一一日死刑の判決が言い渡され、その翌一二日被告人から控訴の申立がなされたのであるが、同年四月二〇日付当裁判所裁判長あて上申書においても「私は狭山の女子高校生殺しの大罪を犯し三月一一日浦和の裁判所で死刑を言い渡されました石川一雄でございますつきましては次の事情で一日も早く東京へ移送して下されたく上申いたします云々」と述べている。また、弁護人らの控訴趣意書においても、原判決の事実の誤認、本件捜査の違法性と自白、自白と信憑性、法令適用の誤りのほか、量刑不当の主張も含まれていたのである。しかるところ、昭和三九年九月一〇日に開かれた当審第一回公判期日において(記録一二〇丁・二五七八丁・二五八二丁各参照)、弁護人の控訴趣意書に基づいて弁論がなされたのち、被告人は、自ら発言を求め「お手教をかけて申し訳ないが、私は善江(仮名)さんを殺してはいない。このことは弁護士にも話していない。」と述べて、ここに初めて被告人は「本件」につき全く無実であると主張するに至った。

 さて、当審は右の第一回公判以来、昭和四三年一一月一四日の第三〇回公判までに、事実の取調べとして、四回に及ぶ現場検証、三件の鑑定、証人三〇名の尋問を実施した。右四回の現場検証のうちの第一ないし第三回は「本件及び恐喝未遂被告事件」に関係ありとされる場所(検証現場は被告人宅を含めて一八箇所の現場とこれらを結ぶ経路)を三回に分けて順次検証したものであり、第四回目の検証は右検証現場全部(経路を含む。)と被告人が主張する事件発生当日におけるアリバイに関する場所(検証現場二箇所とこれを結ぶ経路)を、また、三件の鑑定中二件は「本件及び恐喝未遂被告事件」の脅迫状と封筒の各筆跡についての鑑定であり、他の一件は、被告人の血液型の鑑定である。かようにして昭和四三年一一月一四日の第三〇回公判期日には、事実の取調べを終了し、次回以降は弁護人の最終弁論を予定する運びとなっていたのであるが、弁護人は右公判期日において、被告人質問を求め、その結果、被告人の司法警察員に対する供述調書(以下員調書という。)に添付の被告人作成の図面の成立経過に疑いがあると主張し、当裁判所は職権によって証人遠藤三及び青木一夫を次回に取り調べる旨決定し、第三一回公判期日にこれを施行したのであるが、更に弁護人らは右図面の成立経過について検証並びに鑑定を請求するに至った。その趣旨は要するに、被告人の員調書中一八通に添付されている犯行当日における被告人の行動経路、被害者の所持品を投棄した位置等を藁半紙に図示した図面には、黒鉛筆書きによる図示のほか、これとほぼ重複する状態に、骨筆ようのもので画かれた無色の線状の痕跡がある(以下これを筆圧痕という。)、これは、被告人の取調べにあたった司法警察員が予め藁半紙へ骨筆ようのもので下図を画いておき、後に被告人に黒鉛筆でその筆圧痕をなぞらせて被告人作成の図面とした疑いがある、したがって、右各図面は、被告人が自己の記憶に基づき真正に作成したものであるかどうか疑わしく、ひいては、被告人の自白そのものの真実性を疑わせるものである、というのである。そこで当裁判所は、右検証並びに鑑定の請求を容れ、昭和四三年一一月二六日及び同四四年三月一八日の二回にわたり図面の検証を実施した(当審第五、第六回検証)。右のうち第五回検証においては、前記一八通の供述調書に添付の図面三七枚全部について、筆圧痕の存在が認められるかどうかを検証したものであり、その結果、うち二八枚について、筆圧痕が一応認められた。なお、右二八枚のうち五枚については、裏面に、黒色カーボンを当てて筆圧を加えたために生じたもののように見受けられるかなり明瞭な線があることも併せて認められた。第六回検証においては、埼玉県警察本部(以下県警本部という。)と埼玉県狭山警察署(以下狭山署という。)から取り寄せた被告人の員調書の謄本又は写に添付されている図面中に、前記記録中の被告人の員調書に添付の図面(三七枚)と同種のものがあるかどうか、ある場合は、双方の図面が合致するかどうかを検証した。その結果、右取寄せ書類中には、記録中の員調書一八通(以下原本という。)のすべてについて、これと謄本又は写の関係にあると認められるものが存在すること及び原本添付の図面と同種の図面がこれに相応する謄本又は写にも添付されていること、更にその中のあるものは添付図面と合致すること、並びに前記カーボンの線についても合致するものがあることが明らかとなった。鑑定については、当事者双方の意見を徴したうえ、前記第五回検証において、一応筆圧痕が認められた二八枚の図面中から一五枚を抽出して、筆圧痕と鉛筆書きの線のいずれが先に印象されたものであるかを鑑定すること、この鑑定は、同一事項を各別に二名の鑑定人に命じて実施することとし、ひとまず、千葉大学法医学教室の宮内義之助教授に鑑定を命じた。その後右鑑定未了の間に裁判官の更迭があり、更に弁護人から現場検証の請求がなされた。宮内鑑定は予想外に日数を要する見込みとなったため、当裁判所は右鑑定の結果を待たずに審理を進めることとし、昭和四五年四月中三期日をかけて公判手続を更新し、更に、弁護人の検証請求を採用して、昭和四五年五月八・九の両日当審第七回目の検証を実施した。右検証に際しては、当審第四回検証の対象となった全範囲のほかに被害者の腕時計が発見されたとされる場所及びその付近の検証並びに証人二名の尋問が行われた。その後昭和四七年九月一九日第六八回公判に至るまでの間更に証人四六名の尋問が行われたほか、宮内鑑定人による鑑定の終了後、上野正吉東京大学名誉教授に命じて、宮内鑑定と同一の検体、同一の鑑定事項による鑑定を実施した。右両鑑定の結果は、いずれも、検体一五枚のうち一枚(両鑑定とも同一)の検体につき、筆圧痕の存する部分が少ないため判定不能とされたほか、その余の一四検体につき、おおむね弁護人の主張ないし疑念を否定する結論に達した。

 更に、当裁判所は秋谷七郎東京大学名誉教授に命じて本件脅迫状及び封筒の作成に用いられた筆記具、インクの各種類・性質の鑑定を実施したほか、三木敏行、大沢利昭両東京大学教授に命じて本件脅迫状の封緘のために用いられた接着剤の種類、性質及び右封緘のため唾液を付けたか否か、付けたとすればこれから血液型を検出することができるかどうかの鑑定を実施した。これを要するに、それまでに取り調べた証人は、原審で取り調べられた証拠及び取調べを請求して却下された証拠のほか、弁護人の請求にかかる証拠は、控訴審における事実の取調べの範囲に関する種々の考え方のうち、最も緩やかな方式を採用して取り調べ、しかも同一証人を何開廷にもわたって尋問するなどして延べ八〇名(うち検察官のみの請求にかかるもの三名)、実数六八名、実施した鑑定は六件八名、被告人質問一一回、実施した検証は七回に達した。その後裁判官の更迭により審理は再び中断し、再開後は昭和四八年一一月二七日第六九回公判から四期日をかけて公判手続を更新した後、第七三・七四回公判期日において双方から請求のあった証拠書類、証拠物、検証及び証人請求について証拠決定並びにその施行をし、昭和四九年五月二三日の第七五回公判期日に最終の被告人質問をもってすべての事実の取調べを終わり、その後同年九月三日以降六回に及ぶ弁論が行われて同年九月二六日をもって審理を終結し、本日の判決に到達するまで、控訴審だけで実に八二回、一〇年以上の歳月を経過した。以上がこの被告事件における審理経過の概要であり、特異性でもある。

 

 第二 いわゆる別件逮捕・勾留・再逮捕・勾留を含む捜査手続の違法・違憲を主張し、よって捜査段階における被告人の供述調書の証拠能力を否定し、自白の任意性を争い、原判決の審理不尽その他訴訟手続の法令違反を主張する点について。                                           

 一 本被告事件において、最初に窃盗・暴行・恐喝未遂被疑事件で逮捕・勾留が行われ、そのうち恐喝未遂以外の被疑事実について公訴が提起され、裁判官が保釈請求を容れて六月一七日に被告人を保釈するや、その前日強盗強姦殺人・死体遺棄を被疑事実として発付されていた逮捕状によってその場で被告人を逮捕・勾留したうえ捜査を進め、「本件」についても公訴が提起された経過については、第一の項において述べたとおりである。ところで、証拠収集の方法か違法であった場合にそれがどこまで証拠の証拠能力に影響を及ぼすかは、重要かつ困難な問題である。一般的にいうと、収集方法の違法が証拠能力に当然に影響があるものと考えることも、また、なんらの影響がないと考えることも、ともに妥当でない。違法な収集の弊害を防止する趣旨をも総合的に考えて個々の場合に解決しなければならない問題である。違法な捜査を抑制するためには、違法収集証拠の証拠能力を否定することが最も手っ取り早い強力な方策であることはもちろんであるが、それだけが唯一の防止方法ではない以上、その限界についてはやはり慎重な考慮が必要なのはもちろんのこと、他の弊害防止手段の実際上の効果の可能性をも併せて考えなければならない。しかし、この問題は、将来に向かっての弊害の防止という考慮だけによって解決されるべきではなく、いかにすれば当該事件の解決が最も妥当であるかということを中心に刑訴法一条の趣旨にのっとり解決すべき問題であると考える。さて、所論のいう別件逮捕はもともと法律上の概念ではなく、これを一義的に定義することは困難であって、事実の具体的状況を捨象して一般抽象的にその適法・違法を論じてみたところでほとんど意味がないと考えられる。

 そこで、この事件の事実関係に即して具体的に考察するに、一件記録によれば、被告人に対する五月二二日付(以下五・二二ということがある。)逮捕状請求書に記載の被疑事実の要旨は、(一)二月一九日の竹田賢一(仮名) に対する暴行、(二)三月七日 石橋一平(仮名) 所有の作業衣一着の窃盗、(三)五月一日の上田栄治(仮名)に対する金二〇万円の身の代金の恐喝未遂であり、その疎明資料として、(一)については、竹田賢一(仮名) の被害上申書と同人の供述調書及び目撃者二名の供述調書、(二)については、被害者石橋一平(仮名) の被害上申書、(三)については、被害者上田栄治(仮名)の届書と同人の供述調書二通、員作成の実況見分調書二通、上田富美恵(仮名)の供述調書、被疑者自筆の上申書とその筆跡鑑定書並びに被疑者の行動状況報告書であって、これらを資料として審査した結果、請求通りの被疑事実によって逮捕状が発せられ、これにより五月二三日午前四時四五分被告人が逮捕されたことが認められる。そして、これらによると、被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があり、しかも明らかに逮捕の必要がないと認められる場合であるとはいえないから、右逮捕は適法で、その後の捜査の状況をも考え合わせると、同月二五日に令状が発付され同日執行された勾留の処分も、刑訴法六〇条の要件を充たす適法なものであったと認められる。なかでも恐喝未遂の被疑事実は、五月一日午後七時三〇分ころ被害者上田栄治(仮名)方の玄関に娘善江(仮名)の身分証明書が同封されている脅迫状が差し込まれ、善江(仮名)の通学用自転車が邸内に差し置かれてあって、これが間もなく家人によって発見されたのであるが、脅迫状の文面によると、金二〇万円を五月二日の夜一二時に指定された佐野屋の門に女の人が持参しろ、警察や近所の者には知らすな、さもないと誘拐した娘を殺すという趣旨のものであり、その後右指定の日時・場所に右金員を喝取する目的で犯人とおぼしい者が現れて善江(仮名)の姉上田富美恵(仮名)と数分間言葉を交したのであるが、同人において、富美恵(仮名)のほかに人がいることに気付いて金員の喝取をあきらめ逃走したという重大事件であること、県警は事犯の重大性にかんがみ五月三日狭山市堀兼の現地に特別捜査本部を設けていわゆる公開捜査を開始したこと、詳細は後述するところに譲るが、同日佐野屋の東南約一四〇米に当たる同市大字堀兼字芳野X番地所在の横川為一(仮名)所有の馬鈴薯畑内において、司法巡査飯野源治・同小川実が農業横瀬喜世(仮名)立会いのもとに犯人の足跡とおぼしい三個の足跡を石膏で採取し、これを被告人方から五月二三日に押収した地下足袋一足(当庁昭和四一年押第一八七号の二八の一)とともに即日鑑定に回付したこと、五月三日警察官・消防団員多数によって山狩りを行ったところ、被害者善江(仮名)が乗っていた自転車の荷掛用ゴム紐が発見されたこと、翌四日午前一〇時三〇分ころ、農道に埋められていた善江(仮名)の死体が発見・発掘されるや、死体の状況等からしていかにも強盗強姦殺人・死体遺棄・恐喝未遂事件であることを推測させるものがあったので、捜査当局としては、即日死体を解剖して死因が扼殺による窒息死で、姦淫されて死亡するに至ったものであること、膣内の精液から姦淫をした者の血液型がB型であることが判明したこと、死体の足首に巻かれていた木綿細引紐の結び目にビニール風呂敷の隅の部分の断片が残っていたこと、ビニール風呂敷の他の部分は死体を発掘した農道から二〇米余り離れたさつまいも貯蔵穴(以下これを芋穴という。)から発見されたこと、この風呂敷は上田富美恵(仮名)によって被害者善江(仮名)の所持品であることが判明したこと、死体は手拭で両手を後ろ手に縛られ、タオルで目かくしされていたこと、犯人は音声その他諸般の状況からして土地勘のある地元の者であると判断されたところから、捜査当局は地元を中心とした聞込み捜査を実施し、右手拭・タオルの出所その他証拠の発見に努める過程において、五月六日ころ地元の養豚業者である山田明義(仮名)経営の豚舎内から飼料撹拌用のスコップ一丁が事件発生当日の五月一日の夕方から翌二日の朝までの間に盗難にあったことが判明する一方、その後間もない五月一一日にはスコップが被害者の死体埋没箇所に程近い麦畑に遺留されているのが発見されたこと、しかも右豚舎には豚の盗難防止のため番犬がいて、この犬が吠えれば少し離れた山田明義(仮名)方居宅からも数匹の犬が駆けつけてくるようになっていることから、犯人は山田明義(仮名)方に出入りの者であると推認されたこと、言い換えると、右豚舎内に置いてある右スコップを夜間周囲の者に察知されないで持ち出すことができるのは、山田(仮名)方の家族かその使用人ないしは元使用人であった者、その他山田(仮名)方に出入りの業者らに限られると推認されたので、それらの者約二十数名について、事件発生当時の行動状況を調査し、上申書と唾液とを任意に提供させて筆跡と血液型とを検査する等重点的に捜査を進めた結果、被告人の事件当時のアリバイがはっきりしないうえに、脅迫状の筆跡が被告人の筆跡と類似若しくは同一であると認められたこと等が主な理由となって、山田(仮名)方の元使用人である被告人が有力な容疑者であるとして捜査線上に浮かび前記第一次逮捕(いわゆる「別件」逮捕)・勾留が行われた経過であることが認められる。

 以上の次第で、事件発生以来行われてきた捜査は、強盗強姦殺人・死体遺棄・恐喝未遂という一連の被疑事実についての総合的な捜査であると認められ、いわゆる「別件」逮捕の時点においても、捜査官が被告人に強盗強姦殺人・死体遺棄の嫌疑を抱いていたことは否定することができない。このことは、当審で取り調べた五月二三日付と同月二九日付の被告人のポリグラフ検査の承諾書に「私はただいま云はれましたような女の人を殺したことなどは知りませんから本日ポリグラフ検査(ウソ発見器)をすることを承諾致します。」とか「私は上田善江(仮名)さんの事件で疑われて今警察におりますが私はこの事件には本当に関係ありませんからポリグラフ(ウソ発見器)にかけて貰ってけっこうです。」とかという記載があること及び六・六県警本部刑事部鑑識課警部補森祐造作成の「ポリグラフ検査結果の確認について」と題する書面に徴しても明らかである。

 

【要旨】 

元来、ある被疑事実について逮捕・勾留中の被疑者を、当該逮捕・勾留の基礎となった被疑事実以外の事実について取り調べることは、法が被疑者の身柄拘束について各事件ごとの司法審査を要求する建前をとっていること(いわゆる事件単位の原則)を考慮しても、それが一般的に禁止されているわけではなく、また、取り調べようとする事実ごとに新たに裁判官の許可を得なければ取調べをすることができないものでもなく、逮捕・勾留の基礎となった被疑事実について逮捕・勾留の理由と必要とが存在する限り、右事実について取り調べるとともに、これに付随して他の事実について取り調べても、右の取調べが令状主義に反するものということはできない。殊に本事件のように、後者と前者とが社会的事実として一連の密接な関連があり、後者の発展ないしは、成り行きとして前者が往々にして生起すると考えられるような場合には、前者について逮捕・勾留の理由と必要とが存在する限り、後者について取り調べたからといって別段違法な取調べであるとは解されない。

 これを本事件に即して具体的にいうと、筆跡鑑定の結果脅迫状の筆跡が被告人のそれと類似若しくは同一であると認められた以上、右脅迫状がいつどこでどのようにして作成されたかについて取り調べるのは当然であり、しかもその文面たるや後記のように上田栄治(仮名)方に到達した当時、上田善江(仮名)が殺害の危険にさらされていることが明らかなものであり、現実にも同女が死体となって発見され、解剖の結果同女の膣内精液から検出された血液型がB型で被告人のそれと符合したとあってみれば、「別件」の取調べに際しても上田善江(仮名)に対する「本件」との関連性を調べる必要があるのは明らかである。「別件」と「本件」とは、上田善江(仮名)が行方不明となった時期、死体解剖の結果判明した死後の経過時間などから、その発生時期もほぼ対応することが推認される状況であつたことからすれば、事件当時の被告人の行動状況を取り調べることは、一面においてそれが「別件」の捜査であると同時に、他面において必然的に「本件」の捜査ともなるものと解される。「別件」の逮捕・勾留中に作成された被告人の供述調書には、事件発生の当日である五月一日、二日及びその前後にまたがる被告人の行動状況につき、再三にわたって取調べが行われたことが窺われるが、それは専ら「本件」のためにする取調べというべきではなく、「別件」についても当然しなければならない取調べをしたものにほかならない。そして「別件」すなわち恐喝未遂等被疑事件と「本件」すなわち強盗強姦殺人・死体遺棄被疑事件とは社会的事実としては一連の密接な関連があり、「本件」の発展ないし成り行きとして「別件」が後発すると通常考えられる関係にあるとはいえ、法律上は両者は併合罪の関係にあり、互に余罪の関係にあるこというまでもない。先に述べたように逮捕・勾留は原則として事件ごとになされるべきであるから、例えば、「別件」と「本件」とについて同時捜査が可能であって、一個の逮捕ないし勾留の被疑事実に含ませることができるにもかかわらず、専ら逮捕・勾留の期間の制限を潜脱するため罪名を小出しにして逮捕・勾留を繰り返すとか、「別件」による身柄拘束中に「本件」により既に逮捕状を得ていながら逮捕を殊更に遅らせ、別件の釈放を待って「本件」の逮捕に踏み切るなど逮捕権が著しく濫用されていると認められる場合、及び「別件」の勾留中に捜査の重点が専ら「本件」に向けられ、「本件」の被疑事実が当初から逮捕・勾留の基礎に掲げられていたのと実質的に差異がないような場合等特殊の例外を除いては、既に身柄を拘束されている同一被疑者(被告人)について、これと併合罪の関係にある余罪により再度逮捕・勾留することは許されるとしなければならない。

かように考えてくると、問題はむしろ、端的に「本件」について罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由と逮捕ないしは勾留の必要性とがあるかどうかという点に絞られてくるわけである。そこでこの点を証拠について具体的に検討すると、「別件」による逮捕・勾留中にも、「本件」について相当多くの有力な証拠を収集したことは右に見てきたところであるが、これに加えて前記地下足袋一足を含め被告人方から押収した地下足袋計五足はいずれも被告人の兄六助(仮名)の所有にかかるものであるが、被告人もこれらの地下足袋を兄から借り受けて履いたことがある旨を取調べの際自認したこと、水田幸三(仮名)に面通しをさせた結果、容貌・身長等から五月一日午後七時過ぎころ水田(仮名)方で同人に上田栄治(仮名)方の所在を尋ねた犯人と思われる男は被告人であると認められたこと、加えて、これは当審に至って捜査の経過を明らかにする趣旨のもとに取り調べられたもので、しかも供述者である被告人の署名・押印を欠く供述調書ではあるが(なお、被告人は弁護人と接見した際、弁護人から供述調書に署名・押印を拒むことができることを教えられた事実がある。)、被告人が六月一一日検察官河本仁之に対し、「本件」の各犯行を被告人がほか二名の者と共謀して犯したことを窺わせる供述をした調書があること、これも署名・押印を拒んだのであるが、その翌一二日官員清水利一に対して、脅迫状の筆跡は自分の筆跡であることを自認する趣旨の供述をした調書があることがそれぞれ認められる。とはいえ、捜査官としては事案の重大性と証拠関係が複雑に入り組んでいること等の事情から、ひとまず問題のない窃盗・暴行・森林窃盗・傷害・横領被告事件について延長された勾留期間の最終日である六月一三日に公訴を提起した後、「本件」及び「別件」中の恐喝未遂被疑事件については収集済みの証拠を整理するとともに、念のため更に煙草吸殻一個と唾液若干とを資料として、科学警察研究所警察技官渡辺孚に鑑定をさせた結果、六月一四日付の鑑定書で被告人の血液型がやはりB型と出たことをも合わせて検討した結果、六月一六日「本件」についても裁判官に逮捕状を請求し、司法審査を経たうえこれを得て、その翌一七日午後三時一五分右逮捕状によって被告人を逮捕し、同月二〇日同様の被疑事実によって勾留をし、更に捜査を進めた後七月九日強盗殺人・強盗強姦・死体遺棄・恐喝未遂被告事件として訴因を構成し公訴を提起したものであると判断される(判例によれば、強盗強姦罪と強盗殺人罪とは観念的競合で、これと死体遺棄罪及び恐喝未遂罪とは併合罪の関係にあることはいうまでもない。)。

 以上の次第で、当裁判所としても、前記の恐喝未遂・暴行・窃盗を被疑事実とする逮捕・勾留に始まり、恐喝未遂を除くその余の訴因に基づく第一次の公訴の提起とその関係について保釈、「本件」を被疑事実とする逮捕・勾留から「本件」及び恐喝未遂を訴因とする第二次の公訴の提起という一連の捜査手続と身柄の拘束とは適法かつ有効であるとする原判決の判断は正当として肯認することができる。本被告事件の場合は、かのいわゆる仁保事件などとは異なり、いわゆる「別件」による起訴後の勾留期間を利用し、長期間連続・集中して多数回にわたり「本件」につき被告人の取調べをし、「別件」勾留による身柄の拘束が余罪の取調べのためのみに利用されたというような関係は認められず、「本件」について、その時点までに収集した資料によって逮捕及び勾留の理由と必要とを疎明して裁判官による司法審査を経たうえで逮捕・勾留が行われているのであるから、違法・不当のかどは存しないというべきである。したがって、本被告事件の逮捕・勾留の違法・違憲であることを前提として被告人の捜査段階における供述調書及びこれによって得られた他の証拠の証拠能力を否定する所論は、その前提を欠き採用することができない。

 二 次に、被告人の捜査段階における自白(事実の承認を含む。以下同じ。)の任意性について考察する。この点につきまず指摘しておかなければならない点は、一件記録を精査しこれを通観すると、本被告事件の捜査活動はとかく統一性を欠き、被告人の取調べに当たる捜査官に物的証拠その他のあらゆる情報を時々刻々に集中させる体制が不十分であったという点である。なるほど、捜査会議なるものは毎日のように開かれて情報の交換が行われていたことは事実であるけれども、被告人の取調べを主として直接担当していた員青木一夫らにおいて、時々刻々に集まってくる物的証拠、鑑定結果、押収捜索・検証・聞き込み等によって獲得された証拠や情報を集約し、これを精密に検討したうえで、被告人の取調べに臨み、被告人に証拠物等の客観性に富む証拠を示してその意見弁解を求めるという方式が採られた形跡を発見することは困難である。被告人の捜査段階における供述調書は、いわゆる「別件」と「本件」とを含め、五月二三日から七月六日までの間に員調書三二通、六月八日から七月八日までの間に検察官に対する供述調書(以下検調書という。)二二通の多きにのぼり、このほかに、当審になってから、捜査の経過を明らかにするという立証趣旨のもとに取り調べられた五月二四日から六月一八日までに作成された員調書一五通及び六月一日から七月八日までに作成された検調書六通とがあって、これらを合計すると実に七五通もの多きに及んでいるのである。しかも、被告人が自白するようになってからも、被告人を事件の関係現場に連れて行って直接指示させること、いわゆる引き当たりという捜査の常道に代え、取調室において関係現場を撮影した写真を被告人に示して供述を求めるという迂遠な方法を採ったことは、その間どのような障害があったにせよ、不十分な捜査といわざるを得ないのであって、このことが後日事件を紛糾させ訴訟遅延の原因となっていることは否定することができない。殊に最も重要と思われる脅迫状・封筒についてさえ、被告人に原物を示したことがあるのかどうか疑わしく、むしろその写真を常用していたことが窺われるのであり、そのため、当審に至って鑑定の結果明らかになった脅迫状等の訂正箇所の筆記用具はペン又は万年筆であって、被告人の自供するボールペンではなかったことにつき捜査官が気付いた形跡がないこと、そのため被告人のボールペンを使って訂正したという供述をうのみにし、このことがひいて犯行の手順に関する原判決の認定の誤りを導いているのである。更に、筆跡鑑定の結果、脅迫状の筆跡が被告人のそれと類似若しくは同一であると判定されていたのであるから、脅迫状に使用されている漢字等についても、被告人に脅迫状を示して逐語的に、この字は前から知っていた字であるかどうか、「りぼん」その他の本から拾い出して書いたものであるかどうか、若しくは被告人がテレビ番組を知るために買っていたという新聞のその欄から知るようになったものであるかどうか(当審における被告人質問の結果によると、昭和三八年四月当時「ライフルマン」・「アンタッチャブル」・「ララミー牧場」などを見ていたというのであるから、TBS《六チャンネル》の木曜日の午後八時から放映されていた「七人の刑事」なども見る機会があったことが推認され、問題の「刑札」の「刑」はこれで覚えた可能性も十分考えられる。そうでなくても簡単な字画であるから「刑」の字を以前から知っていたとしても別に不思議はない。)など綿密に質問すべきであったと思われるのに、極めて大雑把な質問応答に終始している。はなはだしいのは、同じ取調官が同じ日に二通も三通も調書を作成し、しかもそれらの調書の内容が食い違っていたり、翌日の調書の内容と食い違っている箇所が随所に散見されるのは、弁護人らが詳細に指摘しているところであって、このようなことからすると、取調べに当たった捜査官において事件の大筋についてはともかく、微細な点について果たしてどのような心証をもっていたかすらこれを推測することが困難な状況である。かように考えてくると、捜査官は、被告人がその場その場の調子で真偽を取り混ぜて供述するところをほとんど吟味しないでそのまま録取していったのではないかとすら推測されるのである。しかしながら、それだけに、その供述に所論のような強制・誘導・約束による影響等が加わった形跡は認められず、その供述の任意性に疑いをさしはさむ余地はむしろかえって存在しないと見ることができる。 なるほど、原審においても被告人質問はある程度は行われているが、本件の重大性と捜査段階における供述内容が微細な点で多くの食い違いがあることを考えると、もっと詳細な被告人質問をしておくべきであったと思われる。当審になって被告人が自白を翻し無実を主張するに至った現在から見ると、原審における被告人の公判供述が不十分であることは否めないが、当裁判所としてみれば、被告人が無実を主張している以上それらの点を確かめるすべがなく、前述の真偽取りまぜての供述の中から、被告人の供述心理を解明し、客観的証拠によって裏付けられた供述部分を中心に据えて真実の部分と虚偽の部分とを判別していくという困難な作業を行わざるを得ない立場にあるのである。要するに、本件の捜査の全般なかんずく被告人の捜査段階における供述調書からして窺い知ることのできる取調べは、拙劣かつ冗漫で矛盾に満ち要点の押さえを欠いていることは確かであるけれども、それだけにかえって、供述の任意性に疑いがあるとは認められない。また、所論の作為性があるとも認められない。弁護人は、鞄類・万年筆・腕時計・足跡等の物証の発見経過について、いずれも捜査官の作為があると総花的に主張している。当裁判所は、いやしくも捜査官において所論のうち重要な証拠収集過程においてその一つについてでも、弁護人が主張するような作為ないし証拠の偽造が行われたことが確証されるならば、それだけでこの事件はきわめて疑わしくなってくると考えて、この点については十分な検討を加えた。しかしながら、当裁判所は、事実の取調べとして、当時直接・間接に証拠の収集に携わった多数の捜査官を証人として取り調べたが、その結果を合わせ考えても、結論として、これらの点に関する弁護人の主張は一つとして成功しなかったと認めざるを得ない。その詳細については別に論点ごとに考察するであろう。 ただここでは、被告人の取調べを主として担当し、最も数多くの供述調書を作成している員青木一夫が当審において証人として、自分は、平素から供述調書というものは被疑者の言うとおりをそのまま録取するものだと考えているし、それを実践してきたと証言していることを指摘しておくにとどめる。また、弁護人らは、最終弁論において、被告人の六・二三員青木調書に添付の被告人作成の図面二枚(七冊二〇四九丁・二〇五〇丁)は、あらかじめ付けられた筆圧痕を被告人がなぞって書いたものであると主張し、その根拠として、上野鑑定中「本資料では表面には骨筆(あるいは使い古しのボールペン)による溝があるのに裏面にはこれがうつし出されていない部分が多数カ所でみられる。これは強いて考えれば三度目の複写で片面カーボンを用いたためという考え方も成り立つが、同じ結果はまず被告人以外のものが骨筆の類で筆圧痕をつくり、この後に被告人をして鉛筆でその後をたどらせるというやり方もまた考え得られる。本資料の図は相当精巧であるのに最初から下にカーボン紙を敷き書き損じもなく仕上げていることは後段の疑を濃厚にさせるものである」とある部分(三〇冊六八三一丁)を援用する。ところで、右上野鑑定は「本資料の裏面をみるに図および字のほとんどすべて(緑色線をのぞく)が黒色カーボンでうつし出されている。これらのうち図の線のほとんど全部、説明字句の半数は二重に画(書)かれてある。これより本資料の下に両面カーボンを置いて調書の上を骨筆の類でなぞって別の紙に写しとったものと考えられるが、二重にカーボンどりされてあるうちの一本は完全に鉛筆跡の線と一致しており、一部としてこれらの軌道から外れることはない。……即ち被告人に書(画)かせる段階で既に下に両面カーボン紙が敷かれてあり、そのあと再びカーボン紙の下に新しい紙を入れかえて今度は骨筆の類でその上をなぞったものとみなければならぬ。」としたうえで前記の推論をしているのである。しかしながら、前記二枚の図面を子細に観察すれば、裏面の二重(二〇五〇丁の図面については三重の箇所もある。)のカーボン線のうちの一本が表面の鉛筆の線や字と一致するかに見えながら随所において外れていることが明らかであり、上野鑑定がいっているごとく被告人が書いた段階で既に図面の下に両面カーボン紙が敷かれていたとは到底認めることができない。しかも弁護人も指摘しているように、二〇四九丁の図面の裏面に見られる二重のカーボン線は、同時に付けられたと認められるのである。そうすると、鑑定書の前記推論はその根拠を失うものといわざるを得ず、むしろ鑑定書が立てているもう一つの推論、すなわち被告人作成の図面を複写するに際して片面カーボン紙を用いたため裏面にカーボンで写し出されていない筆圧痕が付いたという見方が正しいと考えられるのである。弁護人らは、また、前記二枚の図面には鉛筆跡より先につけられていた筆圧痕が存在する旨その箇所を指示して主張するのであるが、右各箇所はいずれも宮内鑑定によって鉛筆痕のあとから筆圧痕が加えられたものと判定されたところであって、これに疑いをさしはさむ余地はない。その外の図面について弁護人の指摘する諸点も、宮内、上野両鑑定の結論を左右するものとは認め難い。したがつて、筆圧痕を根拠として被告人に対し自白の強制ないし誘導がなされたとする弁護人らの主張は、その論拠を欠き失当であるといわざるを得ない。

 以上の次第で、被告人の捜査段階における供述の任意性に疑いがあるとする論旨はすべて理由がない。 

三 次に、原裁判所が本件のような重大な犯罪について、弁護人の二度にわたる精神鑑定の請求を却下し、その他前掲捜査の経過・アリバイ・生活環境・動機等に関連する多数の反証の取調べの請求を却下し、情状に関する証人四名に限って取り調べたこと、なかんずく、検察官請求の証人小島朝政の再主尋問の際に判明した六月一八日に被告人宅を捜索し差押えをした事実について弁護人が再反対尋問をしようとしたところ、原審の裁判長が右は主尋問の範囲外であるとして排斥したのであるから、反証段階に入って弁護人から六月一八日の被告人宅の捜索・差押の状況及び方法を立証するため同人を証人として請求した際には、これを許すのが相当であるのに、原裁判所が必要性なしとして却下したのは、いかにも公平を欠き是認し難いところではあるけれども、何といっても当時被告人は訴因事実を全面的に認めて争わず、検察官及び裁判長の被告人質問に対しても事件の概要をすべて認める供述をしていたことをも考え合わせると、原裁判所としてはそれまでの証拠調べによって既に有罪の心証を形成してしまっていて、もはや弁護人から請求のあったこれらの証拠を取り調べるまでの必要性はないと考えたものと判断される。そして原審裁判長の前記の訴訟指揮と原裁判所の前記の証拠決定とには一般的にいって批判の余地がないとはいえず、殊に本件のような重大事件については、精神状態の調査に意を用いることが世界的にみて刑事裁判のすう勢であること、裁判所は一見自明と考えられる事柄についてもまずもって訴因事実を疑ってかかるという一般的な態度を堅持し、慎重のうえにも慎重を期する審理態度が望ましいことなどからすると、やや軽卒のそしりを免れないといわざるを得ない。しかし、そうかといって証拠調べの限度は受訴裁判所の合理的な裁量に委ねられているところであるから、叙上の審理経過にかんがみれば、原裁判所としてもはや弁護人の右反証の取調べをするまでの必要はないと判断し、専ら情状に関する証人に限って証拠調べをしたからといって、あながち審理不尽の違法があるとまではいえないし、少なくとも、当審における事実の取調べの結果を合わせて考えると、仮に原判決に訴訟手続の法令違反があったとしても、右の違反が判決に影響を及ぼすことが明らかであるとは認められない。

 以上の次第で、この点の論旨はすべて理由がない。

 

 第三 事実誤認の主張について。

 所論は、右第二の論旨を除いても、極めて多岐にわたり、かつ、微に入り細をうがっているけれども、これを要約すると、一、全く無実の被告人を有罪と認定し死刑に処した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、二、仮に被告人が犯人であるとしても、被告人には被害者を殺害する意思はなかったのであるから、原判決が被告人を強盗強姦強盗殺人等に問擬したのは事実を誤認したもので、強盗強姦致死等に問うべきものである、また、原判決中、石橋一平(仮名) の作業衣一着を窃取したと認定したのは、被告人に不法領得の意思がなかったのであるから窃盗罪を構成せず、いずれも判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるというに帰着する(控訴趣意第四は法令適用の誤りをいうけれども、原判決の認定した事実に対する法令の適用としては何ら誤りはないのであるから、所論の実質は、殺意を否定する事実誤認の主張に帰すると解される。)

 そこで、右の点につき順次判断をする。

 一 事実誤認の主張一について。

 (一) 所論は、被告人は恐喝未遂を含めて「本件」に全く無関係、無実というのであって、弁護人らの主張の主軸をなし、本被告事件のまさに核心をなす部分であるから、当裁判所としては最も慎重かつ綿密に証拠を検討した。所論は、被告人の捜査段階における自白には、その間に数多くの食い違いがあること、もし犯人であるとすれば当然触れなければならないはずの事柄について知らないと述べ、供述に多くの欠落があること―その最たるものは、被害者の首に巻かれていた木綿細引紐について何ら触れられていないことである―及びこれらの供述と客観的証拠(証拠物・鑑定結果その他信用するに足りる第三者の証言等)とが食い違っている、これは、捜査段階において、被告人が体験しない事柄について、捜査官の方で他の証拠等から組み立てた被告人とは無関係な事件に合わせて被告人の供述を誘導したからにほかならないというのである。

 そこで、事後審である当裁判所として、原判決の事実誤認の存否を審査するに当たって、ここで当裁判所の基本的な態度を明らかにしておくと、我々裁判官は憲法に適合した法令の従僕であるとともに証拠の従僕でもなければならないと考えているがゆえに、個々の証拠を評価するに当たっては証拠能力・証明力の点について綿密な審査を重ねてきたわけである。ところで、実務の経験が教えるところによると、捜査の段階にせよ、公判の段階にせよ、被疑者若しくは被告人は常に必ずしも完全な自白をするとは限らないということで、このことはむしろ永遠の真理といっても過言ではない。殊に現行の刑事手続においては、被疑者ないし被告人にはあらかじめ黙秘権・供述拒否権が告知されるのであり、質問の全部または一部について答えないことができ、答えないからといってそのことから不利益な心証をもってはならないという趣旨であって、もとより虚偽を述べる権利が与えられるわけではない。また、実務の経験は、被疑者または被告人に事実のすべてにわたって真実を語らせることがいかに困難な業であり、人は真実を語るがごとくみえる場合にも、意識的にせよ無意識的にせよ、自分に有利に事実を潤色したり、意識的に虚偽を混ぜ合わせたり、自分に不都合なことは知らないといって供述を回避したりして、まあまあの供述(自白)をするものであることを、常に念頭において供述を評価しなければならないことを教えている。このことは、参考人や証人として供述する場合も程度の差こそあれ同じことである。また、かようなことは、弁護士が民事・刑事の依頼者から事実関係を聴取する場合にすら往々経験するところであろうと思われる。被疑者や被告人が捜査官や裁判官に対して述べるのは、神仏や牧師の前で懺悔するようなものではない。否、懺悔にすら潤色がつきまとうものであって、これこそ人間の自衛本能であろう。大罪を犯した犯人が反省悔悟しひたすら被害者の冥福を祈る心境にある場合にすら、他面において死刑だけは免れたい一心から自分に不利益と思われる部分は伏せ、不都合な点は潤色して供述することも人情の自然であり、ある程度やむを得ないところである。しかるに、所論は自白とさえいえば、被疑者や被告人は事実のすべてを捜査官や裁判官に告白するものだ、これが先験的な必然であるというかのような独断をまず設定したうえで、そこから出発して被告人の供述の微細な食い違いや欠落部分を誇張し、それゆえ被告人は無実であると終始主張している。これは全く短絡的な思考であって誤りであるといわざるを得ない。 

そもそも、刑事裁判において認識の対象としているものは、いうまでもなく人間の行動である。人間の行動は、その感覚や思考や意欲から発生するものであり、その発現の態様は我々自身が日常自らの活動において体験するところと同様である。この一般的な経験則を根底に持っている人間性は同一であるという思考が、過去の事実の正しい認識を可能にする根本原理であって、人が人を裁くことに根拠を与えている刑事裁判の基礎をなすところのものなのである。過去の人間行動(事実)はただ一回演ぜられてしまって観察者の知覚から消え去った後は、記憶の影像としてのみ残るに過ぎない。しかも、その観察者の知覚・表象・判断・推論を条件付ける精神過程は極めて区々であるうえに、さきにも触れたように、人間は意識的・無意識的に自己の行動を潤色し正当化しようとするものであることをも考え合せると、このような不確実と思われる資料(証人や被告人の供述など)を基礎として、確実な認識を獲得することはなかなか困難な作業ではあるけれども、しかし、それらの互に矛盾する資料であっても、その差異を計算に入れて適切な批判や吟味(この思考過程は直線的でなく円環的であり、弁証法的なものである。分析的であるとともに、総合的なものである。)を加えるならば、かえってそれ相当の価値ある観察が可能なのであり、このことが刑事裁判における事実認定の基礎であるとともに、控訴審である当裁判所が事後審として原判決の事実認定の当否を判断することを可能にする根拠でもある。そして、この心的過程は、窮極的には、裁判官の全人格的能力による合理的洞察の作用にほかならないのである。

一件記録によって全証拠を精査・検討してみると、本事件の捜査は極めて拙劣なものではあるが、その間試行錯誤を重ねつつも、客観的証拠が指向するところに従って捜査を進めていったところ、被告人に到達したと見ることができるのであり、捜査官が始めから不当な予断偏見をもって被告人をねらい撃ちしたとする所論を裏付けるような証跡は、ついにこれを発見することができない。

(二) 以上のような観点に立って、被告人の捜査段階における供述や原審及び当審供述の中から、被告人が明らかに、かつ、意識的に虚偽の供述をしたと認められる部分を拾い出すことは容易である。例えば、(1)被告人は捜査段階では、この事件以前に女性と性的交渉をもった経験はなかったと述べてきたところ、当審(第二六・六六回)供述ではこれを変更して、それまでに複数の女性と肉体関係をもったことがあると表白するに至った(「本件」のような態様の犯罪では、性交の経験者が実行する方が比較的容易であることを考えると、この点はかなり重要である。)。(2)被告人は、捜査段階で、はじめ狭山署の留置場の便所に詫び文句を書いたと述べたので調べてみたが、そこには見当たらず、川越分室の留置場の自室の壁板に横書きで爪で書いたと認められる六月二〇日付の詫び文句「じよぶでいたら一週かに一どツせんこをあげさせてください六・二十日石川一夫入間川」が発見された(この詫び文句にある六月二〇日といえば、被告人が、「本件」につき裁判官の勾留質問に答えて「事実(善江(仮名)さんのこと)は知りません。事件をおこしてないと云うことをお話しするという意味のことを話しただけで裁判所へ行っても善江(仮名)さんのことについては知らないから知りません。」と陳述した当日であり、員関源三に三人犯行を自供した日でもあることを考え合わせると、裁判官には否定的な答えをし、員関源三には三人犯行を自供したものの、内心では良心の呵責に堪えかねて、反省悔悟の情を自室の壁板に爪書きしたものと考えられる。)。(3)被告人が員関源三に、三人犯行を自供したのは六月二〇日であると認められるところ、当審に至ってこれを六月二三日であると主張している。(4)六・二一員関調書で、始め鞄を捨てた場所として嘘の略図を書いて渡しておきながら、「なおよく考えてみたら思い違いであったと思います。」といって、別の略図を書いて渡し、その略図によって捜索したところ、鞄が発見されるに至った。(5)被告人は、捜査段階で「筆入れをうんまけたとき鉛筆やペンが入っていた。」、「今日話したことは本当です。」と供述したけれども、当審において取り調べた東京大学名誉教授秋谷七郎作成の鑑定書(以下秋谷鑑定という。)によると、脅迫状の訂正部分の筆記用具は、ペン又は万年筆であるとされ、この鑑定結果は信用するに足りるものであると認められるから、被告人が犯人だとすると、被告人が万年筆を鞄から取り出したのは、「本件」の兇行が行われた四本杉の所で思案していた間のことで、被告人がその場所で被害者の鞄の中を探って筆入れの中にあった万年筆を取り出し、それを使って杉か檜の下で雨を避けて脅迫文を訂正したと認めざるを得ないことになる。そうだとすると、万年筆を奪った時期と場所に関する供述、並びに「万年筆を使ったことがないからインクが入っていたかどうかわかりません。」という捜査段階での供述は、偽りであるといわざるを得ない。そして、所論の文字を書く生活から程遠い被告人が、なぜ五月一日にボールペンを持って家を出たか、その他ボールペンに関していろいろ不合理な供述をしている点も解明されるというものである(したがって、万年筆の奪取時期に関する原判決の事実の認定には誤りがあることになる。)。なお、被告人は六・二九員青木調書(七冊二一四四丁)で、「うんまけるということは容物を逆さにして物をあけることです。」と注釈している。(6)前掲六・二〇員関調書の三人犯行説は、同一人格内部の精神の葛藤を、入間川の男とか入曽の男とかと擬人化して表現したものと見ることができ、供述内容自体からして極めて不自然な部分が認められる。なかでも、兇行後の火急の際に、字の書けない被告人が字をよく知っている名前も言えない入曽の友達から字を教えてもらって脅迫状を書いたという箇所は、極めて不自然で、供述自体からして偽りであることが明らかで、むしろ、捜査官としてはこれこそ単独犯を自供する前触れとみるのが相当であろう(なお、関係証拠によると、被告人はその際関源三と手を取り合って涙ながらに三人犯行を告白したということであるが、そのような状況のもとで初めて犯行を自供するような場合にすら、人間は虚偽と計算と擬態を織り混ぜるものであるということを見せつけられるのは、人生の悲哀であるが、このような人間性を直視することなしには真実に迫ることはできないと考える。)。(7)脅迫状が特定人を具体的に脳裏に描いて書いたものであることについては、文面の上部欄外に「少時このかみにツツんでこい」と書かれていること、封筒にボールペンで少時様と記載されていること、右各記載もその後万年筆を使用して青インクで脅迫状と封筒とが訂正された部分も、ともに鑑定の結果被告人の筆跡になることが判明したことから判断すると、この点に関する被告人の捜査段階及び原審供述は虚偽であると認められ、このことと、封筒が乱雑に引きさかれていることからして封筒は脅迫状が書かれた段階で一旦封緘されたものと考えられ、その他記録に現れた関係証拠を総合すると、被告人が極力否定するにもかかわらず、近所の特定人(江籐昭二(仮名)宅の幼稚園児)を脳裏に描いて脅迫状を書いたとの推論が自然に成り立つわけであるが、捜査官(殊に当審における原検察官の証言一四冊一八四三丁)においても極めて強い疑いを持ちながらこの点の捜査を打ち切ってしまったのは真相の究明にとって惜しまれる。この点に関し、被告人は「照司(仮名)此の紙へ包んで持ってこうって書いたのはいいかげんに照司(仮名)って書いたんだけど四丁目に照司(仮名)って言うのが居たんだな。」(七冊一九九二丁)と、とぼけて答えている。(8)さきに詳述したいわゆる筆圧痕問題は、弁護人がその点に疑問をもつて被告人に図面作成の経緯をただしたところ、被告人が虚偽架空のことを述べたことがもとになって当裁判所がこれをとりあげたものであるが、鑑定の結果は結局、事実無根であることが明確となったと認めざるを得えない(そして、これが当審における訴訟遅延の一つの大きな原因となったことは否定できない。)。その他にも随所に指摘することができる。

 しかしながら、他面において被告人の自白の真実性が他の証拠によって裏付けられる点も多々存することはいうまでもない。

  また、真偽いずれとも決め難い点も多々存在することは後述するとおりである。

 (三) そこで考えるに、原判決が(弁護人等の主張に対する判断)二の「自白の信憑力について」の項において、被告人の自白(捜査機関に対する各自白調書のみならず公判廷の自白を含む。)につき、弁護人の、あるいは他に共犯者がおるごとき、あるいは自白に基づく物証の発見経過に捜査機関その他の作為が存するごとき口吻でその信憑力を争う主張を排斥するに当たり、「しかしながら、被告人は捜査の当初全面的に右各犯行を否認していたが、昭和三十八年六月二十日頃から一部自己の犯行(三人共犯説)を認めるようになり、次いで同月二十三日頃、捜査機関に対し全面的に自己の犯行である旨自白するに至るや、その後は捜査機関の取り調べだけでなく起訴後の当公判廷においても、一貫してその犯行を認めているところであり、しかもそれが死刑になるかも知れない重大犯罪であることを認識しながら自白していることが窺われ、特段の事情なき限り措信し得るものというべきところ、これを補強するものとして、云々」と述べて、以下多数の補強証拠を掲げ、要するに、自白を証拠の中心に据えて、これを補強する証拠が多数存在するという理論構成をとっているのであるが、当裁判所として原判決の事実認定の当否を審査するに当たっては、むしろ視点を変え、まず、自白を離れて客観的に存在する物的証拠の方面からこれと被告人との結びつきの有無を検討し、次いで、被告人の自供に基づいて調査したところ自供どおりの証拠を発見した関係にあるかどうか(いわゆる秘密の暴露)を考え、さらに客観性のある証言等に及ぶ方法をとることとする。

 なお、科学的捜査の現段階においては、一般的にいって犯人と犯行とを結びつける最も有力な証拠の第一は、何といっても指紋であり、次いで掌紋、足紋、筆跡、血液型、足跡、音声(声紋)、容貌、体格、服装の特徴等が考えられるが、指紋以外は未だ決定打とはいえないであろう。ところが、当審における事実の取調べの結果によると、捜査官は、本事件においても脅迫状、封筒、身分証明書、万年筆、腕時計、教科書、自転車等について指紋の検出に努めたのであるが、ついに成功するに至らなかったことが認められる。しかし、指紋は常に検出が可能であるとはいえないから、指紋が検出されないからといって被告人は犯人でないと一概にはいえないのである。

 

(自白を離れて客観的に存在する証拠)

その一 脅迫状及び封筒の筆跡について。        

 所論は、原判決は自白の真実性を補強するものの第一に「上田栄治(仮名)方にとどけられた封筒入り脅迫状一通は明らかに被告人の筆跡になるものであること」を挙げており、筆跡鑑定にほとんど無条件の信頼性をおいていることが明らかであるが、いわゆる従来の鑑定方法によった原判決の掲げる関根政一・吉田一雄、長野勝弘作成の各鑑定書は、鑑定人の主観と勘とを頼りにした客観性・科学性のないものであり、特定の文字について「相同性」のみを強調して「相異性」、「稀少性」、「常同性」を無視してなされた信頼度の低いものであり、また、当審で取り調べた高村巌作成の鑑定書も同様である、しかも、関根・吉田、長野、高村各鑑定(以下三鑑定という。)は、被検文書及び照合文書の各作成者の表記能力(読み書き能力)に質的差異のあることを無視して、各文書の文章構成、文字の表記能力、仮名の使用方法、漢字の表記、当て字、句読点のつけ方、横書きの習熟の程度などについての比較検討を怠っており、そのため極めて信頼度の低いものである、そして、このことは当審で取り調べた戸谷富之、大野晋、磨野久一、綾村勝次作成の各鑑定書によっても明らかである、のみならず、大野、磨野、綾村各鑑定によると、被告人には脅迫状及び封筒に記載されたような文章や文字を記載できる能力はないから、本件脅迫状及び封筒の筆跡は第三者の筆跡とみなければならないというのである。

 そこでまず脅迫文の全文を引用すると、これは横罫の大学ノートを破った紙の半面一杯にボールペンを使って横書きされているが、最初は、「子供の命がほ知かたら4月28日の夜12時に、金二十万円女の人がもツて前の門のところにいろ。友だちが車出いくからその人にわたせ、時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。―刑札には名知たら小供は死、もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ、もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける。くりか江す刑札にはなすな。気んじよの人にもはなすな子供死出死まう。もし金をとりにいツて、ちがう人がいたらそのままかえてきてこどもわころしてヤる。」と書き、その上の欄外に「少時このかみにツツんでこい」と書き加え、これを封筒に入れ、その封筒の宛名は「少時様」と記載されてあったところ、その後当審における鑑定の結果をも総合すると、万年筆又はペンで、「4月28日」を「五月2日」と、「前の門」を「さのヤの門」と書き直し、右欄外「少時」の記載を塗りつぶし、封筒の宛名「少時様」を斜線で消し、その下方に「上田栄治(仮名)」と、書き直したものである。

 そこで考えてみると、いわゆる伝統的筆跡鑑定方法に従った三鑑定は、多分に鑑定人の経験と勘に頼るところがあり、その証明力には自ら限界があることは否定できないが、そのことから直ちに、三鑑定の鑑定方法が非科学的であるということはできない。また伝統的筆跡鑑定方法は、これまでの経験の集積と専門的知識によって裏付けられたものであつて、鑑定人の単なる主観に過ぎないものとはいえない。ところで、証人高村巌の当審(第五八・六七回)供述及び同人作成の鑑定書によれば、同人の鑑定でも「相異性」、「稀少性」、「常同性」について表現に差こそあれ十分斟酌し、検討を加えていることが認められる。そして、右関根・吉田鑑定及び長野鑑定と高村鑑定とは照合文書(資料)を異にしているにもかかわらず、三鑑定とも本件の脅迫状及び封筒の筆跡が同一人の筆跡、すなわち被告人の筆跡であるという鑑定結果となっていることは注目すべきである。そのうえ、戸谷鑑定にしてみても、結論として「かなりの類似点は見られ、通常の学歴をもつ人の場合には、同一人の筆跡であると判定するのにあるいは充分であるかも知れないという印象をうけるが、本人が学歴低く日常字を書くことのないグループに属する者であることを考慮するとき、本人の字の稀少性はグループ中では薄れるため、同一人と直ちに判定することには理論的に同意しがたいように思う。」等々と説明しつつも、同鑑定人のいわゆる近代的統計学を応用した科学的方法によっても、脅迫状と封筒の筆跡が被告人の筆跡ではないとは結論していないのである。

 次に、所論は、当審において取り調べた大野晋、磨野久一、綾村勝次作成の各鑑定書を援用して、前記三鑑定の鑑定方法は科学性に乏しく、殊に表記能力・文章構成能力の面からする異同識別の方法を採らなかったことは重大であり、これらの鑑定によれば、脅迫状、封筒の筆者は被告人でないことが実証でき、三鑑定の証明力は根底から覆えされる旨主張する。しかし、これらの鑑定書の説くところは、一言にしていえば、不確定な要素を前提として、自己の感想ないし意見を記述した点が多くみられ、到底前記三鑑定を批判し得るような専門的な所見とは認め難い。すなわち、綾村鑑定は、脅迫状に「刑」という教育漢字に含まれていない漢字が使われていること、あて字が多いこと、横書きであることを挙げ、これは教育程度の低い被告人の書き得るものではなく、小学校以上の教育を受けた者が、何らかの意識をもって書いたものであるとしているが、被告人が何らかの資料を見て書くこともあり得ることを無視した、納得し難い見解であるといわざるを得ない。磨野、大野両鑑定も同様である。たしかに、被告人は教育程度が低く、逮捕された後に作成した図面に記載した説明文を見ても誤りが多いうえ漢字も余り知らないことが窺えるのである。しかし、被告人は六・二四員青木調書において、「私は本当に漢字は少ししか書くことができまぜん。私はその手紙を書くために『りぼんちゃん』という漫画の本を見て字を習いました。りぼんちゃんというのは女の子の雑誌で中には二宮金次郎が薪を背負って本を読んでいる絵などが書いてあってその他にいろいろ字が書いてあり漢字にはかながふってありました。」と述べ、六・二五検原調書において、「脅迫状は四月二八日に書いた事を先程言いましたが、それは吉展ちゃん事件をテレビで見てあの様な方法で子供を隠しておいて金を取ろうと思って脅迫状を書いたものです。 字を書く時は妹の佐智子(仮名)の帳面を四枚位破り取り佐智子(仮名)が読んでいたりぼんちゃんという漫画の絵本を見ながら漢字を探して字を書き、三枚位書きくずして四枚目位に書いたのが善江(仮名)ちゃんの家へ届けた脅迫状です。」と述べ、さらに七・一検原調書において、集英社発行の雑誌「りぼん」昭和三六年一一月号を示されて、「私が手紙の字を拾い出した漫画の雑誌というのはそれと同じ様な本でした。その本の中に二宮金次郎の像の写真がありますがそれを私は覚えております。」と述べている。そして、当審において証拠として取り調べた雑誌「りぼん」昭和三六年一一月号(昭和四一年押第二〇号の7)には、まさに二宮金次郎の像の写真が載っており、脅迫状に使われた漢字も「刑」及び「西武」の字を除きすべて右雑誌の中で使われており、これには振り仮名が付されているのである。したがって、被告人の前記供述には裏付けがあることになり、被告人は、「リボン」から当時知らない漢字を振り仮名を頼りに拾い出して練習したうえ脅迫状を作成したものと認められる(「刑」の字についてはテレビその他で覚えていた可能性も考えられることはすでに指摘したとおりであり、「西武」についても、被告人は西武園へしばしば行っていたのであるから、同様に前から知っていたであろうことは容易に推測されるところである。)。ところが被告人は漢字の正確な意味を知らないため、その使い方を誤り、仮名で書くべきところに漢字を充てるなどして、前記引用した脅迫文のとおり特異な文を作ったものと考えられるのである。それが証拠に、六・二六員青木調書に添付されているとおり、被告人は藁半紙を順次つなぎ合わせて五月一日、二日の行動について一枚の大きな地図(二一〇四丁)を書き、さらにこれを清書した地図(二一〇三丁)を書いているが、これは被告人の当日の行動経路の概略を彷彿させ、他の証拠とも符合する(例えば、「さんりんしやにをいこされたところ」とか、「じどうしやのあつたところ」とかには、その後の捜査によって、それぞれ裏付けがある。)まことに迫真力に富んだものであるが、そこでは四八個に及ぶ説明文にはほとんど平仮名が使われ、漢字はわずかに、署名の「石川一夫」、作成日の「6月26日」、「上田栄じ(仮名)」、「狭山せエみつ」、「入間川エき」、「松本」、「四丁目」の七個が使われているのに対比し、脅迫文には、捜査段階及び原審公判を通じそれを書くために参考にしたことを認めて争わなかつた「りぼん」に出ている漢字例えば「子供」、「命」、「知」、「五月2日」、「夜」、「金」、「万円」、「女」、「人」、「門」、「前」、「友」、「車」、「出」、「時」、「一分」、「札」、「名」、「死」、「少」、「気」、「園」、「池」、「中」、「江」等がその本来の用法には無頓着に多用されているのを見れば明らかである。そうすると、被告人の教育程度が低く、字を知らないことを根拠に、本件脅迫状は被告人によって書かれたものではないとする前記綾村、磨野、大野各鑑定は、その立論の根拠を失うことになる。結局、被告人の当時の表記能力、文章構成能力をもってしても、「りぼん」その他の補助手段を借りれば、本件の脅迫文自体、ごくありふれた構文のものであるだけに、作成が困難であるとは認められないのである。しかも、脅迫文の内容は、いわゆる吉展ちゃん事件の犯人がしばしば親元にかけてきた脅迫電話の内容と全体的にみて類似性があると認められるのである。殊に例えば、被害者の身分証明書を脅迫状の封筒に入れ、自転車を届け、「このかみにツツんでこい」と書いたのは、吉展ちゃん事件の犯人が「地下鉄入谷駅売場の所に靴下片方を置くから金をボロ紙に包んでおけ。」という脅迫電話をかけた手法に類似しており、また、「上野駅前の住友銀行わきの公衆電話ボックスに金を持って来い。警察に届けるな。つまらない了見を起すな。」という点は、前掲の「刑札には名知たら小供は死、」に通ずるものがあり、そして、「……これが最後だ。子どもは一時間後に必ず返す場所を連絡する。」という点は、前掲の「……子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける。」に通ずる(この脅迫電話の音声や文句は、当時テレビやラジオでしばしば放送され、新聞にも掲載されたことは、公知の事実といってよい。)。以上のとおりであるから、これらの鑑定書の説くところを前提として所論がいうところの、被告人の当時の表記能力では脅迫文を起草しかつ筆写することは絶対に不可能である、また、人間は自己の労働生活、家庭環境、学歴等の、いわゆる自己を取り巻く社会的制約から超越して自己を語ることはできない、本件の真犯人は脅迫文に稚拙さを工作することによって、自己の出身を隠そうとしたが、その努力をすればするほど、自らがかなり高度の文字能力をもつ人間であることを暴露せざるを得なかったとする所論も、所詮単なる憶断の域を出ないものといえる。なお、所論は、脅迫状には「氣」の字を「気」という簡略体を使って書いてあり、筆者の文意識が低くないことを物語っているというのであるが、当用漢字字体表によると「気」の字が正しく、現に前記「りぼん」の中に出て来る字も「気」であるから、この点の主張も理由がない。

 以上の次第であるから、本件脅迫状及び封筒の文字は被告人の筆跡であることには疑いがないと判断される。それゆえ脅迫状及び封筒は、自白を離れて被告人と犯人とを結び付ける客観的証拠の一つであるということができる。原判決がこれを被告人の自白を補強する証拠として第一に挙示したのはまことに相当であって、論旨は理由がない。

 その二 地下足袋・足跡について。

 所論は、原判決は、自白の信憑力を補強するものの(3)として、「五月三日佐野屋付近の畑地から採取された足跡三個は、被告人方から押収された地下足袋中の一足によって印象されたものと認められる。」旨説示し、かつ、同事実は「全く自白を離れても認めることのできる事実であり、……被告人の自供部分(すべて各犯行の重要部分に当る)を概ね端的かつ強力に裏付けている。」ともいっているけれども、被告人の履物の大きさは十文半であって、兄六助(仮名)の九文七分の地下足袋を借りて履いたことはあるがきつくて履きにくい、また、被告人の五月二日夜の行動に関する捜査段階での供述と現場足跡が発見されたとされている場所とは一致していない、のみならず右足跡の採取に当たっては捜査当局の作為が介在していることが窺われ、右の現場足跡が果たして右の地下足袋によって印象されたものかどうかには疑いがあり、原判決挙示の石膏型成足跡三個は捜査当局によって偽造された疑いがある、そればかりでなく、被害者の死体が発見された場所及びスコツプが発見された場所付近で犯人のものと推認される別の地下足袋一足とその足跡とが発見された事実があるのに、被告人は、自白をしていた当時から現在まで右事実は全く知らないと供述しているところからすると、少なくとも被告人が被害者の死体を埋めた後スコップを捨てたとの供述部分は虚偽架空である、要するに犯人は別にいるのであって被告人ではないというのである。

 そこで、この点を考えるに、問題は三つある。その一は、佐野屋付近における現場足跡の採取経過であり、その二は、採取された石膏型成足跡の鑑定の結果であり、そしてその三は、死体発掘現場方面で発見された別の地下足袋一足が存在することである。

 まずその一について考えてみると、航空自衛隊入間基地司令中川雅男(仮名))名義の気象状況について(回答)と題する書面によれば、犯人が佐野屋付近の茶畑へ現れた前日である五月二日の現地の天候は、午後四時五五分から七時四五分まで雷雨があったのであるから、右七時四五分以降司法巡査が現場足跡を採取した翌三日午前六時三〇分ころまでの間に、耕作者ないし付近の住民など本件と関係のない者が右場所へ立ち入ることは考えられず、また、仮に前日の午後七時四五分までに現場へ立ち入った者があったとしても、右の雷雨によって足跡は消失していると推認される。犯人が逃走した三日の午前零時前後に現場へ立ち入る可能性のあった者は、本件の犯人か、犯人が逃走した後現場付近の捜索に当たった警察官以外にはあり得ないと考えられるところ、証人飯野源治の原審供述によれば、「自分は狭山署の捜査係であるが、刑事課長諏訪部警部の指示により、五月三日午前六時三〇分ころから同八時三〇分ころまでにかけて長谷部警視に案内されて、犯人のものと思料される足跡のうち鮮明なものを選んで左一個と右二個の計三個を石膏型成足跡として採取した。その場所は佐野屋の東方約四〇米の地点から南へ入る農道を約一三〇米入った右側(西側)の馬鈴薯の畑で、すぐ南に茶株があるが、その茶株から二さく目の馬鈴薯の間に西に向かって印象されている二〇歩ないし二五歩のうち、鮮明な、農道に一番近い第一足跡と第二足跡、更に七・八歩位入った最も鮮明だと思われる一個の計三個を採取した。足跡は地下足袋によって印象されたもので、前夜七時ころまでに降った豪雨の後にできた足跡であることは判然としており、捜査員の中にはこれと同種の地下足袋ないし職人足袋と称されるものを着用していた者は誰もいなかったから、これらの足跡は、逃走犯人によって印象されたものであると思料された。なお、立会人は畑地の所有者横瀬喜世(仮名)である。石膏の材料を集めに行って持参したのは相勤者の小川事務官である。同石膏型成足跡三個(昭和三八年押第一一五号の五)はそのとき採取したものに相違ない。」と答えている。これを当審において取り調べた五・三司法巡査飯野源治・同小川実共同作成の狭山警察署長あての「現場足跡採取報告書」と対照すると、同報告書には、佐野屋東方一四・八米の地点(この点は、原審で取り調べた五・四員関口邦造作成の実況見分調書の添付図面と対照すると、佐野屋東方二七米で茶垣が切れた地点から更に一四・八米の地点というべきである。)から南へ入る農道を一三三・七米入った右側(西側)にある狭山市大字堀兼字芳野X番地馬鈴薯畑内で、所有者は同市大字堀兼X番地農業横川為一(仮名)で、立会人は同所同番地の横瀬喜世(仮名)である旨、また、右足跡の発見は犯人の逃走方向に向かつて警察犬で逃走方向を追跡して遺留足跡を発見した旨記載されていて、大筋において前掲の飯野証言と同趣旨であるといえる。また、当審において取り調べた五・四員関口邦造作成の狭山警察署長あて「被疑者の足跡と思料されるものの発見に就いて」と題する書面によれば、これはその文面からみて同人作成の前記同日付実況見分調書よりも前に作成されたことが明らかであるが、被疑者が逃走した直後の五月三日午前一時ころ懐中電灯を用いて、被疑者が現れたと思われる佐野屋東方を捜査中、別紙図面,涼賄世砲いて茶株とゴミを捨てた畑の中に北に向かつて横線模様の地下足袋跡(右)が一個発見されたので保存のため地面に棒で地下足袋を○をして茶の枯木を折って立てておいた、なお、この地点から南へ一米離れた畑の中に横線模様の地下足袋で踏みかためられた足跡が直径一米位の範囲に丸く見分されたが重複して印象されており採取不能であった、この状況から被疑者はこの地点に潜伏していたものと推定された、午前五時四〇分ころ警察犬が来て逃走した被疑者の捜索にあたるため,梁跡から臭気をかがせたため、警察犬によって足跡は損傷してしまい採取不能となってしまった、そこで、佐野屋前の県道を約五〇米東進した地点を南に入る農道を南進し約一三〇米位の別添略図△涼賄税藁觸鯣において,涼賄世砲いて発見したのと同一と認められる横線模様の足跡二〇個位を発見したので直ちに佐野屋北側県道にいた上司に午前六時ころ報告したものである、更に農道を南進して別添略図の地点の畑を斜めに東から西に通っている´△汎碓譴隼徇舛気譴訛跡三〇個位を発見した、……本日実況見分を命ぜられた際、この地点を見分したところ、多数の足跡によって踏み荒らされて足跡採取は不能であった、となっている。かように原審に顕出された同日付員関口邦造作成の実況見分調書によれば、同日午前一〇時より午後一時にかけて同調書に記載されたとおりかなり広範囲に実況見分が行われたのであるが、その記載によれば「県道南東畑地を見分する、不老川に至る間無数の長靴及地下足袋ズック跡が認められたが本件被疑者の足跡と思料される通称地下足袋が印象されてあったのは二ヶ所あったので写真撮影したる後見尺をなす。」とあって、右の「通称地下足袋」の部分は黒色の原文とは異なり青インクで訂正されている点をみると、最初「素足跡」と書こうとして「素」の字を「表」と誤記したのでこれを棒線で消して一たん「素足跡」と書いた後、今度は青インクで「素足」を消して「通称地下足袋」と訂正したと認められる、まことにずさんなものであり、添付の写真も,良玄韻鮖1討靴燭發里篝亶僂鬚箸すため使用したとおぼしきバケツと人影が写されているものがあるけれども、その他はおおむね遠景写真で、採取足跡そのものを撮影したものが存在せず、写真の影像からみて晴天時と雨後の少なくとも二日以上にわたって撮影したものを寄せ集めたものであると認められることも所論のとおりである。しかしながら、実況見分が行われた五月四日の右時間帯においては、足跡が印象されてから既に三十数時間を経過し、付近は雑多な足跡が入り混っていてもはや犯人の足跡を判別することができなかったため足跡の接近撮影をしなかったものと判断される。そして現場足跡の実況見分をするに当たって、足跡を接近撮影した写真が添付されず、その代わりに日を異にして撮影されたことの明らかな遠景写真を添付するなど拙劣な方法であることは否定できないけれども、これらの写真相互及び実況見分調書の添付図面に一件記録中の航空写真を対照すると、茶株の形状等からして、足跡を採取した位置を明確に看取することができる。また、およそ足跡というのは人が歩行又は駆足によって地上を移動することにより印象されるのであるから、連続しているのがむしろ当然である。ただ他の足跡等によって不明瞭になることのあるのはもとよりで、前記飯野証言や関口報告書に足跡の個数が記載されているのは、明瞭なものの個数をいっているものと解するのが合理的であり、その間連続した旨の記載がないから別の足跡である旨の所論及び関口調書に後日青インクで訂正した部分がある点をとらえてその信憑性を云々するのはともかく、右調書が偽造であるとの所論はいずれも採用できない。

 なお、前記△涼賄世悩亮茲気譴紳跡は、前記飯野源治ほか一名作成の「現場足跡採取報告書」の記載及び証人飯野源治の当審(第五〇回)の供述によって認められるその歩幅が六四糎あるいは七五糎で西に向かって印象されている点にかんがみると、同証人の推測とは逆に、むしろ犯人が佐野屋へ往く際の足跡であると推測される。

 次にその二の考察に移る。

 五・二三員小島朝政作成の捜索差押調書によれば、裁判官の許可状により、五月二三日早朝被告人方の居宅玄関のコンクリート地面東側に置かれた下駄箱の右側下隅から横線模様の地下足袋二足が恐喝未遂被疑事件の現場の遺留足跡と類似するとして差し押さえられ、また、勝手場に至る境の所のブリキかんの上にあった同様の地下足袋二足が、更に、風呂場入口のコンクリート上にぬれたままあった同様の地下足袋一足が差し押さえられ、これらが原審に証拠物として提出されてそれぞれ押第一一五号の二八の一及び二八の二となったことは記録に徴して明らかである。ところで、六・一八県警本部刑事部鑑識課警察技師関根政一・同岸田政司共同作成の鑑定書並びに右両名の原審証言を総合すると、五月二四日県警本部鑑識課長山中芳郎の下命により、前掲現場から採取した石膏型成足跡三個(鑑定資料(一))と前掲被告人方から押収した前記押第一一五号の二八の一の地下足袋一足(鑑定資料(二))とを受領し、これを鑑定資料として、(一)の足跡は(二)の地下足袋によって印象されたものかどうかについて鑑定をしたことが認められる。その鑑定経過は右鑑定書に詳細であるが、そのなかで指摘しておくべきことは、足型の測定の項に「足型測定器を使用し被疑者石川一雄の素足の足長を測定するに右足は約二三・九糎、左足は約二四糎である。次に鑑定資料(二)の地下足袋をはかせてみると、やや窮屈である模様であったが、こはぜは最上部まで装着した。」とある箇所及び鑑定資料(二)の地下足袋は金寿印のマークで九七の文数記号があり、その本底の足長は約二四・五糎(拇趾先端から踵部ほぼ中央後端まで)足幅は約九・二糎(竹の葉型模様右側横線の前部から五本目の位置の足幅)とある箇所である。そして、各種の検査を重ねたうえ、最後の考察に入り、  

 「鑑定資料(一)の足跡は、顕出面より観察し、足袋底に泥土が相当附着したままの状態で印象された足跡であるため、底型デザインの大部は顕出されていないが、印象面に大きな移動変型はなく、うち右足地下足袋によって印象された二個は、破損こん跡がほぼ固有の状態で顕出している。特に資料(一)の3号は、竹の葉型模様後部外側縁に著明な破損こん跡が存在し、踏付部前端外側縁部に特有な損傷こん跡が認められる。また資料(一)の2号は、拇趾先端部および踏付部前端外側縁部に損傷部位を認められるので、いずれも決定的な異同識別資料としての適格性がある。

 前述の鑑定経過においては、特にこれら破損部位の実体究明を行うため、対照足跡の印象実験ならびに採型実験を反覆実施し、さらに被疑者についてこれらの実験を行う等措置し、比較検査においては各角度からこれを掘下げて鑑定の客観的妥当性の確立を期した。

  次に貼付地下足袋は、跣足の足跡に準じ足跡面に歪を生じる。また磨耗形体は製造時における固有特徴と使用度等が関連し、特有な形状となるがこれらの印象条件も併せて検査した。

  以上の各検査段階を総合すると、右足による足跡二個は対応する資料とそれぞれ符合している。勿論前述の比較測定数値に若干の差異はあるが、立体足跡の場合印象個所、土質の柔軟の度、歩行速度、歩幅、姿勢等により重心の移行、地面におよぼす重圧等が、その都度変化するので印象された形状も同一でなく誤差を生じるのであるが、各数値を見ると同一のはき物で足跡を印象した場合の許容範囲内の誤差である。また顕出面に同一性を否定すべき特徴要素が全く存在しないので、単なる類似性または偶然性の一致等のものではないと確信した。

 次に左足の地下足袋による現場足跡は、対応する資料と拇趾の傾斜状態に共通性を認められ、特有な形体ではあるが決定的な異同識別の基礎となるべき損傷特徴が顕出されていない。したがって対応する資料と同一種別・同一足長のものと言い得るが、決定的な結論には到達できない。」   

 としたうえ、鑑定結果として、

 「1 鑑定資料(一)の1号足跡は、同上(二)の左足地下足袋と同一種別・同一足長と認む。2 鑑定資料(一)の2号足跡は、同上(二)の右足地下足袋によって印象可能である。3 鑑定資料(一)の3号足跡は同上(二)の右足地下足袋によって印象されたものと認む。」

と結論している。

 所論は、右鑑定書の記載によれば、鑑定のための対照足跡を作成するに当たり、警察技師加藤幸男の分は本件足跡採取現場の土を県警本部鑑識課に運搬し、畑とほぼ同一条件の状態で土を盛り足跡の印象実験を行ったのに、肝心の被告人の分については狭山署において別の土を用いて足跡の印象実験を行った点を非難し、これを前提として、現場から採取した鑑定資料(一)の石膏型成足跡を前記加藤幸男の対照足跡とすりかえ、この足跡が鑑定資料(二)の地下足袋によって印象されたものかどうかを鑑定したのである、要するに、足跡を偽造したものであるというのであるけれども、鑑定の経過は右に述べたとおり正当に行われていて疑義を容れる余地は全く存しない。

 以上によって、現場足跡の採取経過及び地下足袋の押収手続に疑念をさしはさむ事情は見いだし難く、これらを資料としてなされた鑑定の結果も信用するに足り、証人岸田政司の当審(第四六・四九回)供述を加えて検討してみても、その間捜査当局の作為ないしは証拠の偽造が行われた疑いがあるとの所論は採用の限りでない。

 所論は、また、右3号足跡と前記右足地下足袋とは、弁護人の測定によると、部分によっては一六粍もの差があり、両者は一致しないというのである。しかし、弁護人の測定方法は3号足跡と右足地下足袋をそれぞれ写真撮影してこれを拡大し、さらにトレーシング・ぺ―パーに書き写し、対応すると思われる測定基点を定めて測定したというのであるが、弁護人も自認するとおり、どの点を測定基点と定めるかによって大きな誤差が生ずるものであるばかりでなく、写真撮影の方法、引き伸ばしの方法・倍率などによっても少なからず誤差の生ずることは自明のことである。ところで、昭和四八年一二月更新弁論における弁論要旨に添付された資料によって弁護人の測定方法を見ると、まず3号足跡と地下足袋の写真撮影に当たり、寸法の割り出しのため同時に定規や三角定規が並べて撮影されているのであるが、これらはセルロイドかプラスチック製のものと思われる。しかし、かかる定規の目盛りが正確に刻まれていないことは往々にしてあることであり、この目盛りを規準にして各部分の長さの測定をしているのは、方法においてすでに誤っているといわざるを得ない。しかも3号足跡の写真と地下足袋の写真にはそれぞれ異なった定規が写されているのであって、両者の目盛りが一致しているかどうかも確認できないのである。次に、弁護人が測定対象とした諸点についても、3号足跡及び地下足袋の現物と、前記添付資料中の写真とを対照して検討すれば、測定基点として厳密にそれぞれ対応する点を設定したものとは認め難い(その最もはなはだしい例はイ点である。)。所論は、3号足跡と地下足袋の間には、最高一六粍もの差が出る箇所があるというのであるが、両者の現物によって所論の指摘するそれぞれの対応箇所を測定してみれば、その誤りであることが明らかである。したがつて、弁護人の測定結果を根拠として3号足跡と地下足袋との一致を否定し、前記鑑定書の結論が信用できないとする所論も失当である。その他所論並びに弁護人らの最終弁論にかんがみ検討しても、前記鑑定書の結論の信用性に疑いをさしはさむ余地はない。    

 次にその三として所論は、被害者の死体が発見された場所及びスコップが発見された場所付近で地下足袋一足とその足跡とが発見されたことを云々し、犯人は別人であると主張するので、この点を考えてみるに、まず、佐野屋付近で発見され採取された地下足袋の足跡は五月二日の午後一一時ころから翌三日の午前にかけての問題であるのに対して、死体が発見された場所の付近から発見された地下足袋は五月一日の兇行にかかわる問題であることを明確に区別して認識する必要がある。そもそも、スコップが発見された場所から足跡が発見されたこと及びその方面で地下足袋一足が発見されたという事実から、直ちに犯人は被告人以外の別人であると主張すること自体、それだけでは論理の飛躍であり問題とするに値しないものといわなければならない。弁護人らは五月一日には被告人がゴム長靴を履いていたことを当然自明のように前提するけれども、この点について、被告人の自供を裏付ける確かな証拠は何ら存在しない。被告人は五月一日にも兄六助(仮名)の地下足袋を履いていた可能性があることが考えられる。さて、当審第七五回公判において取り調べられた六・一五員伊藤操作成の実況見分調書によれば、所論の地下足袋が投棄されていた場所は、狭山市入間川X番地麦畑内で、荒神様(三柱神社)の南方約二〇〇米、西武線入間川駅の東方約三〇〇米、当時建築中の統合中学の西方約六〇〇米の地点でその南方は約二〇〇米を隔てて新築家屋二、三軒あり、その南方約五〇米の所にエンピ(スコップ)が遺留されていた畑があり、南方やや東寄り約三〇米に旭団地と呼ばれる市営住宅がある、畑の中に行き止まりになった私道があるが、その左側と右側とにそれぞれ左足と右足とが別々に放り込んだように一双の地下足袋が幾らか倒れた麦の上にあって地面には直接していない状況であった、殊に地下足袋(右足)には泥土が親指と他の指との爪先の割目の上まで一杯つまっており、両側底にも同様付いており十枚こはぜのもので、立会人佐田森太郎(仮名)は、この足袋に付いている泥は私方の畑の土とは違いますと指示説明した、足袋は両足とも泥土の乾燥具合等から相当期間放置されてあったものと認められ、こはぜには金寿と銘があった、この地下足袋は被疑者が遺留したものと認められたので領置した、となっている。佐田森太郎(仮名)の六・一八員調書によると、同人はこの足袋は職人が履く足袋で中古であったが、そうかといって捨てるような履き古した足袋ではないので不審に思ったが、そのまま足袋の下になっている麦を引いたところ鎌を入れないのに自然にとれたから麦が青いうちに足袋がその上に乗ったので下になった麦が腐ってしまったのかと思った、五月一日の上田善江(仮名)の事件に関係があるのではないかと思って駐在所に届け出たのである、この足袋には一寸変った泥が着いていた、というのは、私方の畑の土のようでなく、赤土のようで、場所によっては違うが穴を掘つたときに出る土のようなものが着いていた、土は普通乾いた土でなく、ぬかるみを歩くとつくような土が足袋の回りや底の部分と爪先の割目には下から押し出した恰好で固まっており、左側の足袋の内側には麦の重なり合っている中にあったためかかびが生えており、最近捨てたものでなく一箇月以上経過しているものと思われた、大きさは大体の感じでは十文位と思うと述べている。そこで、押収の地下足袋一足(当庁昭和四一年押第二〇号の11、12)を検すると、やはり九文七分で金寿の印があり、甲の部分に穴があいており、裏のゴムも相当磨耗していていかにも古びて見えるけれども、なにぶん発見されるまでに畑の中で麦が立ちくされするまで相当長期間日光や風雨にさらされていたこと、投棄の方法が異様で証拠隠滅の臭いが感じられることなどからすると、あるいは本件に関係があるのではないかとの疑いがないわけではない。ところが、被告人はこれまで五月一日にはゴム長靴を履いていたと終始供述してきている。しかし、そのことを裏付ける証拠はどこにも見いだすことができない。本件の捜査はこのような初歩的な点で欠陥があることはさきにも指摘したとおりであるが、しかしそうかといって、被告人が五月一日に地下足袋を履いていなかったという確証もどこにも見いだすことができない。むしろ、被告人の当時の職業は鳶職手伝いであること、仕事に行くといって母に弁当をこしらえてもらって出かけたということが仮に真実だとすれば、それまでにも被告人は兄六助(仮名)の地下足袋を借りて仕事をしたことがあるというのであるから、五月一日にも兄六助(仮名)の古い地下足袋を無断で借用して出かけ、本件兇行に及んだ後帰宅するに際し、泥で汚れた地下足袋を脱ぎ、これを前記の麦畑内に投棄して素足となり、更にスコップを投げ捨ててから帰宅したということも考えられなくはない。しかしながら、要するに、右地下足袋と「本件」との関係は、結局において不明であるというほかはなく、地下足袋が存在するということから当然に犯人は別人であって被告人ではないということにはならない。

なお、五月一一日にスコップを発見した現場である狭山市入間川旭町X番地佐田政治(仮名)方の畔道付近において同じ日にスコップの近くで採取した足跡については、その石膏型成足跡が明瞭に出ているのであれば犯人割り出しの決め手ともなり得るであろうけれども、なにぶんにも右石膏型成足跡は、足跡が既に風雨等によって変形した後のものと判断され、到底同一性判定の資料にならないので、証拠価値のないものとして廃棄処分されたものと考えられる。この点につき検察官において、当審の最終段階まで故意に証拠の存在を隠していたとは認められない。

 以上の次第であるから、右地下足袋と足跡とは、自白を離れて被告人と犯人とを結び付ける客観的証拠の一つであるということができ、原判決がこれを被告人の自白を補強する証拠として挙示したのはまことに相当であって、論旨は理由がない。

 その三 血液型について。

 所論は、被害者上田善江(仮名)の膣内に存した精液の血液型はB型であり、被告人の血液型もB型であるからといって、直ちに被告人が犯人であるとは断定できない、殊に被告人の血液型を鑑定するに当たっては分泌型か非分泌型かの鑑定をしていないところ、原審証人渡辺孚は、唾液による検査でB型と出た場合にも分泌型と断定することはできないといっている、また、六・二一員清水利一作成の捜査報告書中には、被告人以外の者についても血液型の検査が行われ、その結果が記載されているけれども、その検査方法は全く不明である、要するに、これまでに現れた証拠をもっては、被告人が犯人であるという情況証拠とはなし難いというのである。  

 そこで考えてみると、原判決の掲げる五十嵐勝爾作成の鑑定書によれば、上田善江(仮名)の膣内から採取した精液の血液型はB型(分泌型あるいは排出型)であり、そして被害者の血液型はO・MN型であるから、被害者を姦淫した犯人はB型(分泌型)の血液型であることは明らかである。ところで、原判決が掲げる渡辺孚ほか三名共同作成の鑑定書によれば、被告人の煙草の吸殻と唾液とによってその血液型を鑑定したところ、B型であることが判明したことも明らかである。

 してみれば、被告人の血液型がB型(分泌型)で、被害者の膣内に残された精液がB型であるということは、両者の血液型が同一であることに相違はなく、原判決が「5被告人の血液型はB型で、被害者善江(仮名)の膣内に存した精液の血液型と一致すること」が被告人の自白の信憑力を補強する事実であるばかりでなく、自白を離れても認めることができ、かつ、他の情況証拠と相関連しその信憑力を補強し合う有力な情況証拠であると認定したのは、当裁判所としても肯認することができる。 

 なお、当審における事実の取調として、鑑定人上野正吉は、直接被告人の血液及び唾液によりその血液型をB・MN型(分泌型あるいは排出型)と判定している(昭和四二年五年二〇日付鑑定書)。また、当審で取り調べた八・二九警察技師松田勝作成の「血液型の鑑定・検査結果について」と題する報告書によれば、山田(仮名)豚屋関係者二一名について、五月一六日から同月二三日にかけて血液型の検査が行われた、被告人について五月二二日に行った煙草吸殻による検査ではB型かAB型か判定困難でB型の可能性が大きいということであり、翌二三日に行った唾液による検査ではB型であったこと、被告人以外にはB型の血液型の者が一人もいなかったことが認められる。

 さらにさかのぼれば、小川簡易裁判所裁判官瀬尾桂一が本件強盗強姦殺人・死体遺棄被疑事件について発付した逮捕状に添付された逮捕状請求書をみると、「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」があることの資料中に「被疑者血液型干係一冊」があったことが認められるが、その内容は前記松田勝が五月一六日から同月二三日にかけて行った血液型の検査結果と同一であったと推認するに難くない。

 次に、証人将田政二(第一二回)及び同原正(第一七回)の当審各供述によると、捜査官は、被害者の膣内に残された精液の血液型がB型であることを重視していたところ、山田(仮名)豚屋で五月一日の夜盗まれたスコップが五月一一日に死体発見現場付近で発見されたことから、山田(仮名)豚屋の従業員や出入業者に捜査の網を絞り、それらの者の筆跡・血液型・アリバイなどを捜査した結果、被告人に嫌疑をかけるに至ったもので、その経過は極めて自然であると考えられる。また、その過程において、被告人は、豚屋の経営者山田明義(仮名)から血液型を尋ねられて自分の血液型は一応B型であると思っているのに、A型であるとか、新聞などで報道されている犯人の血液型とは違うとかと答え、五月一日の行動については兄六助(仮名)の鳶職の手伝いをしていたのであるから自分は大丈夫だなどと嘘の答えをしたことがそれぞれ認められる(その詳細については、証人山田明義(仮名)の当審(第一五回)供述、被告人の当審(第二七・六六回)供述、当審において捜査の経緯を明らかにする趣旨で取り調べられた被告人の六・九検原調書を各参照。)。

 以上を要するに、原判決が被告人の血液型と被害者の膣内に残された精液による血液型とが同一であることを、有力な情況証拠としている点は、当審における事実の取調べの結果によって一層その正当性を肯認することができ、この点に疑問の余地があるとする論旨は理由がない。      

 その四 手拭・タオルについて。

 所論は、原判決は、自白の真実性を補強するものとして「被害者善江(仮名)を目隠しするのに使われたタオル一枚につき被告人は入手可能の地位にあったこと」を挙げているが、このタオルと死体が発掘されたとき後ろ手に両手首を縛りつけていた手拭の入手経路はともに明らかではない、右タオルは東京都江東区所在の月島食品工業株式会社が昭和三四年から三七年までの間に得意先に配布した八四三四本のうちの一本である、そして月島食品と被告人が勤務したことのある東鳩製菓保谷工場との間に取引があること、月島食品が東鳩製菓にタオルを配布したこと、配布されたタオルを野球部員に配ったこと、被告人が野球部員であったことには一応の証明がある、しかし、被告人がタオルを貰ってこれを自宅へ持ち帰ったかどうか、母親に渡したかどうか、自宅へ持ち帰ったとしてもそのタオルが五月一日の朝まで被告人宅に存在していたかどうか、そしてそれが同日朝風呂場に掛けられてあったかどうか、これらの事実は全く証明されていない、しかも、狭山市内にもこのタオルと同種のタオルが出回っていたことは確実であり、多数の人が同種のタオルを手に入れる可能性をもっているのである、次に、手拭は狭山市田中にある五十子米屋が昭和三八年正月年賀用として得意先一六〇軒に配布した一六五本(五軒には二本ずつ)のうちの一本である、警察では被告人宅からの一本を含めて一五五本を回収し、使用中のため回収しなかった三本を除き、残る七軒、七本に捜査の対象を絞った、ところが、警察では被告人宅から右一本の手拭が提出されたので、本事件後被告人の家人の誰かが親戚に当たる石川仙介(仮名)方(二本配られたうちの一本は提出済み)若しくは隣家の木村しの(仮名)方から都合をつけたか又は本事件前石川仙介(仮名)方か木村しの(仮名)方の誰かが被告人方に置き忘れて被告人方には当時二本の手拭があったものと推測せざるを得なかったのである、しかし、それも単なる推測であって、証明ではない、被告人が当日の朝本件手拭を自宅から持ち出した事実も自白があるだけであって何の裏付けもない、手拭やタオルについて単に入手可能性があるということだけで被告人を犯人と断定することは許されないというのである。                          

 そこで考えてみると、さきに述べたように捜査当局は死体が手拭で両手を後ろ手に縛られ、タオルで目隠しされていたことから、手拭・タオルの出所について捜査をし、手拭は五十子米屋が昭和三八年正月年賀用として一六〇軒の得意先に配布した一六五本中の一本であり、タオルは月島食品工業株式会社が昭和三四年から三七年までの間に得意先に配布した八四三四本のうちの一本であることを突き止め、その配布経路を追及し、第二次逮捕のころにはほぼ被告人方にも手拭・タオルが存在していたことに確信を持っていたことが窺われる。 そして、原審(第五回)における東鳩製菓株式会社保谷工場長佐野祐二(仮名)の証言によれば、タオルは月島食品からその得意先である東鳩製菓が貰い受けて、これを野球大会の際の賞品として選手に贈ったことが認められ、当時選手をしていた被告人もこれを貰ったのではないかと考えられる。また、当審(第一四回)における滝沢直人検事の証言によれば、手拭は五十子米屋から被告人方へ一本配布されたが、警察では被告人方から一本回収した、ところが被告人の姉婿石川仙介(仮名)は五十子米屋から二本配布を受けたのに一本しか貰わないと主張し、被告人方の隣家の木村しの(仮名)は五十子米屋から貰っていないと主張したので、被告人方で石川仙介(仮名)方か木村しの(仮名)方から都合をつけて警察へ提出したか、五月一日以前にどちらかの手拭が偶然被告人方へ紛れ込んでいたかのどちらかであると推測したというのである。ところで、被告人が家人と相謀って五月一日のアリバイ工作をした事実があること、家人も、関源三警察官が万年筆をあらかじめ勝手出入口の鴨居の上に置いておき、そこから万年筆が発見されるような工作をしたと主張していることなどを考え合わせると(後出その九参照)、手拭についても家人が工作した疑いが濃い。被告人が五十子米屋の手拭を入手し得る立場にあつたことを否定する事情は認められない。

しかも、被告人は捜査段階及び原審(第一〇回)において、手拭やタオルの出所については何も供述していないが、現物を示されて、五月一日朝出がけに手拭は母親から手渡され汗ふき用に折りたたんでズボンのポケットに入れ、タオルは自分で風呂場の針金に掛けてあったものを取って、ジャンパーの襟の下にぼろかくしとして使ったと供述しているのである。

してみれば、原判決が「被害者善江(仮名)を目隠しするのに使われたタオル一枚につき被告人は入手可能の地位にあつたこと」を自白の真実性を補強する情況証拠の一つに挙げているのはまことに相当であり、更に当審における事実の取調べの結果によって、被害者善江(仮名)の両手を後ろ手に縛るのに使われた手拭一枚も五月一日の朝被告人方にあったと認めて差し支えなく、したがってこれも自白を離れた情況証拠の一つとして挙げるのが相当である。それゆえ、論旨は理由がない。 

その五 スコップについて。

 所論は、原判決は、自白の真実性を補強するものの第六に「死体埋没に使われたスコップ一丁は狭山市大字堀兼の養豚業山田明義(仮名)方豚小屋から盗まれたものであるが、被告人はかつて同人方に雇われて働いていたことがあって、右小屋にスコップが置かれていることを知っており、容易にこれを盗み得たこと」を挙げているが、捜査当局のしたスコップの同一性の確認経過には疑惑があり、スコップが発見された際の状況も被告人の自白と明らかに矛盾しており、殊に発見場所の近くから地下足袋の足跡が発見されていることは他に真犯人がいて当日地下足袋を履いて行動したと考えられる余地もあるというのである。

 そこで考えてみると、証人山田明義(仮名)の原審(第五回)、当審(第一五・五五回)各供述及び六・二六星野正彦・阿部孟郎作成の鑑定書「附記」の記載によれば、五月一一日佐田キン(仮名)によって発見された本件スコップは、五月六日ころに被害上申書を提出していた山田明義(仮名)による確認手続をとらずに五月一二日に直ちに鑑定に付されており、山田明義(仮名)をして同人方のものであるかどうかの確認をさせたのが五月二一日であることが認められる。しかし、被害者の確認手続が遅れたからといって捜査に落度があると非難するのは相当でなく、殊に本件スコップは一見して農作業や土木工事に使われていたスコップではなく、木部に食用の油が付着していたところから、捜査当局が被害上申書が提出されている山田明義(仮名)方で養豚用に使用していたものだと考えて、まずもってスコップに付着している油の性質やこれに死体発見現場の土壌が付着しているかどうかなどについての鑑定を急いだのはむしろ当然の措置であつたと判断される。  

 次に、当審で取り調べた五・一二司法巡査小川実ほか一名作成の「現場足跡採取報告書」によれば、本件スコップが発見された場所の近くで地下足袋の足跡が発見されていることが明らかである。しかし、本事件から相当の日時が経過し、その間に降雨もあったことなどを考慮すると、捜査当局においてその足跡が「本件」の犯人のものかどうかの判断資料として採取してはみたものの、適格性に乏しいものとしてやむなく石膏型成足跡を廃棄してしまったと解するのが相当で、その間他意あるものとは考えられない。この点をとらえて他に真犯人があるかのようにいう所論は相当でない。

 その他、スコップ関係の捜査について、不合理なところや、公正を疑わせるような事情を見いだすことができない。

ところで、被告人が員及び検調書中でスコップの処置に関して、被害者の死体を農道上に埋めてから自宅へ帰る途中で畑の中へ「放り投げて捨てた」とか単に「捨てた」といっていること、スコップの第一発見者である佐田キン(仮名)が、原審(第五回)において、スコップを発見したときスコップは麦のうねに沿って隠しかげんに置いてあったと証言しており、五・一一員福島英次作成の実況見分調書添付の写真(三冊八六六丁裏)を見ても、そのような状態であったことは所論指摘のとおりで、この点において多少の食い違いはあるけれども、だからといって被告人が犯人でないとはいえない。

 してみれば、スコップは自白を離れて客観的に存在する物的証拠であり、被告人が「本件」の犯人であることを指向する情況証拠であるとみて差し支えない。原判決が「死体埋没に使われたスコップ一丁は山田明義(仮名)方豚小屋から盗まれたものであるが、被告人はかつて同人方に雇われていたことがあって、右小屋にスコップが置かれていることを知っており容易にこれを盗み得たこと」を自白を補強する証拠に挙げているのはまことに相当である。それゆえ、論旨は理由がない。  

 その六 水田幸三(仮名)証言について。

  所論は、証人水田幸三(仮名)の原審供述は、同人の当審供述があいまいであること、同人が事件後一箇月以上たってから漸く警察に届け出たこと、届出が遅れた理由について納得できる説明をしていないこと、証言内容にも矛盾があることから信用性に乏しいというのである。

 そこで考えてみると、原審において証人水田幸三(仮名)は、「五月一日午後七時半ころ、『今晩わ』という声がしたので土間に降りて外燈をつけ、戸口を開けて『今晩わ』と言った。すると、九尺か一丈ほど離れた所に、年齢二十二、三歳、背丈五尺一、二寸の男が雨に濡れて自転車のハンドルを手にして立っていた。その男は『上田栄治(仮名)さんのうちはどこですか。』と尋ねたので、『裏から四軒目のうちが上田栄治(仮名)さんのうちだ』と指さして教えた。被告人が逮捕された後に警察に行って見たが、大体顔かたちや顔がふくれ、あごがこけた感じや背丈の様子、髪の具合も訪ねて来た男に似ていると思った」旨述べ、更に、法廷の被告人を見て、「そうです、そうです、この人です。」と述べた。ところが、同証人は、当審においては、被告人を見せられて、弁護人の、「証人は、そこにいる人に前に会ったことがあるか。」との問に対して、「ありません。」と、「昭和三八年五月一日の晩に証人のところへ人が訪ねて来たということについて原審で証言しているが、いま弁護人が指示した人はその人ではないのか。」との問に対し、「古いことで、はっきりしたことはわかりません。」などとあいまいな供述をしたことは、所論指摘のとおりである。しかしまた、同証人は当審において、検察官の、「証人は早いころ警察で五月一日の晩証人のところへ訪ねて来た人ではないかということで、ある男の顔を見せてもらったことがあるか。」との問に対して、「あります。」と、「そのとき見せられた男は、証人のところへ訪ねて来た男に似ていたか。」との問に対し、「似ていたところがありましたから、そのときそう言いました。」と、「証人は、原審で証人として取調を受けたとき、被告人の顔を見てこの人だと言っておるが、その原審で見た人と警察で見た人と同じ人であったか。」との問に対し、「やはり似ていました。」とも供述しているのであって、同証人の原審供述が事件発生後間もない昭和三八年一一月一三日であり、当審供述が事件発生後三年を経過した昭和四一年五月三一日であることと、同証人の年齢(当審証言当時六三歳)を考慮すると、当審における証言は記憶の薄れによりはっきりしなくなったものと判断され、これをもって、同証人の原審供述の信用性を否定する理由とはなし難い。また、同証人が上田栄治(仮名)方を訪ねて来た不審な男のことを、事件後直ちに警察へ届け出なかった理由について、同証人が原審及び当審で供述しているところは、結局届け出ることによって事件とかかわりを持つことが恐ろしく、わずらわしいということに帰すると解され、そのように考えて届出をためらい、後になって漸く届出をするに至った心情も理解できないことではない。所論は、隣人が被害にかかっているならば、直ちに犯人と思われる訪問者の人相、風体、年齢その他を警察に届けるはずだと主張するが、一般世人の人情を理解しない見解と評せざるを得ない。更に所論は、同証人が自宅の犬について吠えると言ったり、吠えないと言ったり矛盾した供述をしており、信用性に欠けるというのであるが、同人が飼っている犬がよく吠える犬かどうか、当夜吠えたかどうかについての同人の証言がはっきりしないからといって、前記の証言の信憑性を疑う理由とはならない。

 しかも被告人は、六・二一員青木調書(第二回)中で、水田幸三(仮名)方に行つたときのことを詳細に供述し、殊に水田幸三(仮名)の年齢について、取調べに立ち会っていた遠藤三警部補(当時六一ないし六二歳)を指して、「この小父さんは自分の父より二つか三つ上の五十七、八歳に見えるが、この人と同じ年齢位の人に見えた。」と供述し、なお同調書に添付された被告人自筆の図面第一及び第三の中で、水田幸三(仮名)方を図示し、「きいたんち」及び「うえだエいじ(仮名)さんのいエをきいたいエ」と説明を付している。もっとも右調書は、三人共犯の自白を内容とするものであるが、単独犯行を認めるに至った後の六・二四員青木調書(第一回)及び六・二五員青木調書の中で、脅迫状を届けに行った経路については前の供述をそのまま維持し、次いで六・二五検原調書(第一回)中で再び水田幸三(仮名)方に行ったときのことを具体的に供述し、更に、六・二六員青木調書(第二回)でも同調書に添付された被告人自筆の図面の中で、「上田江いじ(仮名)さんのうちをきいたところ」と説明を加え、六・二九員青木調書では、自転車を置いた位置についてそれまでの供述を変えはしたが、水田幸三(仮名)方に立ち寄ったときのことを述べ、また七・四検原調書においても、添付図面の中で、「上田江いじ(仮名)さんのうちをきいたいエ」と説明を加えているほか、原審(第七回)において、上田栄治(仮名)方へ行く途中、上田(仮名)方の五〇米位手前の家で上田(仮名)の家を尋ねた、相手は前に証人に出た水田(仮名)という人かどうかはっきり覚えていないが年齢はあの位だった旨供述し、水田幸三(仮名)方に立ち寄った事実を肯定しているのである。

 そして更に、被告人は前示六・二一員青木調書(第二回)中で、「今この時のことで覚えているのは、善江(仮名)ちゃんの家の東隣りの家の前の道に小型貨物自動車が東向きに停まっていました。」と供述し、前示被告人の各供述調書に添付された被告人自筆の図面にも、上田栄治(仮名)方手前の道路わきに駐車中の自動車を図示し、「じどしや」とか、「うえだ(仮名)さんにじてんしやとてがみをもてゆくときにあッたじどをしや」とか、「じどうしやのあつたところ」とか「じどをしやのとまていたところ」などと説明されているのであるが、証人大田正太郎(仮名)の原審(第六回)供述によれば、同人は、五月一日午後七時過ぎころから、四〇分位の間、上田栄治(仮名)方の東隣りの松田里二(仮名)方を訪れ、その間自動車(ダットサンのライトバン)を同人方前の道路に東方川越方向に向けて駐車しておいたことが認められるのである。そして、原審記録中の検察官請求証拠目録に記載された大田正太郎(仮名)の員調書の日付が六月二五日となっていることから判断すると、被告人が前記のとおり、駐車中の自動車があった旨供述したので捜査したところ、大田正太郎(仮名)が当時松田里二(仮名)方前道路上に自動車を駐車しておいたことが明らかとなったもので、捜査当局としては、被告人が自供するまで右の事実を知らなかったものと認められる。したがって、右の点に関する被告人の供述は、自発的になされたもので、かつ、他の証拠によって裏付けられた十分信用に値するものと認められ、被告人が当時水田幸三(仮名)方ないしは上田栄治(仮名)方付近を通りかかったことは証拠上明らかというべきである。そしてこのことは、前記証人水田幸三(仮名)の原審供述の信用性をいよいよ高めるものであるといえる。 

 以上のとおりであるから、証人水田幸三(仮名)の原審供述が信用性に乏しい旨の所論は失当であって、同人の証言は十分信用に値するものと認められ、結局、被告人が脅迫状を上田栄治(仮名)方へ届けに行く途中水田幸三(仮名)方に立ち寄り、同人に上田(仮名)方の所在を尋ねた事実は疑う余地がない。原判決がこれを被告人の自白を補強するものの一つとして挙示しているのは相当である。それゆえ、論旨は理由がない。  

 その七 犯人の音声について。

 所論は、原判決は「自白の信憑力」の項で、「五月三日午前零時過ぎころ、佐野屋附近で上田富美恵(仮名)が聞いた犯人の音声は、被告人のそれに極めてよく似ていること」を被告人の捜査段階及び原審公判廷における自白を補強する有力な情況証拠であるとしているが、警察での声聞きは誤りが伴い易いうえ、被疑者として逮捕された者をとかく真犯人と考え易い心理状態殊に被害者の姉としての被害感情などを考えると、上田富美恵(仮名)の証言によっても犯人の声と被告人の声とが同一であるとは断定できないし、また証人増川宗雄(仮名)についても同様であるが、殊に同証人が被害者の家族に同情していることなどを考えると、同人の証言によっても、犯人の声と被告人の声とが同一であるとは断定できないというのである。

 そこで検討すると、証人上田富美恵(仮名)は、原審(第二回)において、「当夜犯人と三〇米位離れた所で問答した。当夜は静かで声はよく聞きとれる状態であった。被告人が逮捕された後六月一一日にテープで、翌一二日には生の被告人の声を聞いたが、声全体から受ける感じがそっくりであった。声から推定される年齢も二十五、六歳で合っており、なまりも土地の者のそれであった。」旨供述しており、また、民間人として捜査に協力し、当夜佐野屋で張込みをしていた増川宗雄(仮名)も、原審(第二回)において証人として、「犯人の声は、土地の方言が入っていたので土地の人だと直感した。被告人が逮捕された後その声を聞いたが、似ていると感じた。」と供述している。これらの証言によれば、右証人らの身分関係、その他所論指摘の諸事情を考慮に入れても、原判決のいうように、「五月三日午前零時過ぎころ、佐野屋附近で上田富美恵(仮名)が聞いた犯人の音声は被告人のそれに極めてよく似ている。」と認めるのが相当である。もとより、これによって犯人の声が被告人の声と同一であると断定することができないことは、所論のいうとおりであるが、原判決もこれを被告人と犯人とを結びつける有力な情況証拠の一つとみているのであって、この判断に誤りは存しない。それゆえ、論旨は理由がない。   

 

 (自白に基づいて捜査した結果発見するに至った証拠)

 その八 鞄について。

 所論は、被告人の鞄類、教科書類を埋めた点に関する自白はあまりにも不合理・不自然な点が多く、それにもかかわらず捜査当局が鞄類の発見について絶大な確信をもって捜し出しているのは奇妙であり、捜査当局が既に何らかの方法で鞄類を発見入手し、そこで被告人を不当に誘導して鞄類を捨てた場所の地図を書かせ、その場所に鞄類を置いておき、あたかも被告人の自供に基づいて被害品を捜索発見したかのごとく見せかけるという工作をした疑いがあるというのである。

 いかにも、被告人は当審において、初め鞄を捨てた場所として嘘の略図を書いて員関源三に渡したが、その図示した場所はポリグラフ検査の際に検査員から教科書類が出てきた場所を教えられていたのでその場所の近くに鞄もあるだろうと勝手に想像して書いた、自転車の荷掛紐が出た所はテレビを見て知っていた、員関源三が嘘の図面を持って捜索に出掛け発見できなかったといって帰ってくる前に、員長谷部梅吉は「お前がさっき書いた場所は違うだろう、埋めたところは川のところじゃないか、その川のところを地図で書け。」というので、地図を書き直して提出した、ところが員長谷部梅吉のいうとおりの場所から鞄が出てきたなどといい、所論に添うように不当な誘導によって鞄を捨てた場所の地図を書かされたと供述している。

 しかし、鞄類の捜索をした員関源三、同清水利一、被告人の取調べに当たっていた員長谷部梅吉、同青木一夫らの当審各証言によっても、所論がいうような違法な工作はもちろん、被告人の取調べに当たって不当な誘導があったことを窺わせるような状況を見いだすことはできない。なお、鞄の捜索発見の際に立会人となった原審証人宮田貞夫(仮名)も、立ち会ったときには既に鞄が発見されていたという所論指摘のような供述はしていないし、同証言によっても捜査当局に違法な工作があつたことを窺わせるような状況は見いだせない。のみならず、被告人は、原審(第七回)において鞄類を始め教科書類、自転車の荷掛紐を捨てたことを自認しているのである。被告人の当審供述は、これを裏付けるに足りる証拠は何もなく、単なる思い付きの弁解であるとみるほかはない。

 次に所論は、被告人の員及び検調書中での鞄類や教科書類を埋めた場所、埋めた順序、埋めた理由に関する供述には不自然なところやあいまいなところがあるばかりでなく、矛盾があり、殊に被告人が鞄の下から発見された牛乳びん、ハンカチ、三角布については記憶がないといっているのも不思議であり、また当時既に相当離れた場所から教科書類が発見されていたのに、被告人が教科書類は鞄と一しょに埋めたといっていることも不可解であり、このように被告人の供述には不合理、不自然なところが多いことからみると、被告人は鞄を捨てた犯人ではなく、そのために鞄などを捨てた場所を知らなかったのではないかと思われ、他に真犯人がいるかのごとくいうのである。

 たしかに、被告人は、七・一及び七・二検原調書中で、教科書を捨てた場所は山学校の方から行くと道路の左側で鞄を捨てた場所の近くであるといっており、この供述は五・二五員伊藤操作成の実況見分調書及び六・二二員清水利一作成の実況見分調書、六・二二司法巡査三沢弘作成の現場写真撮影報告書によって認められる教科書の発見現場の状況と相違している。しかし被告人は、原審(第七回)において教科書は鞄と五〇米位離れた場所に埋めたといっており、右の実況見分調書の記載についても殊更争っていないのである。そして、被告人の捜査段階における供述によっても教科書類を捨てる場所まで自転車を押して行ったか、それともどこかに自転車を置いておいたか、そのとき鞄を逆さにしたというがどうして鞄の中に糸巻きや櫛が残っているのか、鞄の下から牛乳びんなどが発見されているのに、被告人はどうしてこれに気付かなかったのであろうかなど、その際の状況の細部については明らかではない。しかし、このような細部の状況については、捜査官において細心の注意をもって疑問の解明に努め、被告人の供述を引き出しておかない限り、どうしても不明瞭な点が残るもので、ある程度はやむを得ないところである。殊にこの事件では、これらの物の埋没行為は「四本杉」での兇行後上田栄治(仮名)方へ脅迫状を届けに行く途中に行われたもので、被告人自身も言っているように、精神的に興奮しており、しかも薄暗い中で急いで行われたことであってみれば、記憶自体が不正確となり、あるいは事実の一部を見落とすことも考えられ、これを理由に被告人自身が教科書類、鞄、荷掛紐を埋め又は捨てた事実までを否定できないことは、原判決が説示しているとおりである。また、被告人の捜査段階における供述に不正確、不明瞭な点が存することから直ちに被告人が犯人でないと断ずることの相当でないこともさきに説示したとおりである。ところで、原判決は「教科書類を埋没する機会に取り出した筆入れの中にあつた万年筆一本が被告人の自宅から発見されているのであるから、被告人が鞄類、教科書類を溝内及び附近の構内に埋没したとみて差支えなく」と説示しているけれども、被告人は「四本杉」での兇行の後、脅迫状を訂正するため善江(仮名)の鞄の中を探って万年筆を奪取したと認められるのであるから、原判決の認定は万年筆を奪取した時期及び場所については誤っているけれども、その余の判断(ただし、筆入れについては後に触れる。)はおおむね正当であるから、結論を左右するものではない。鞄発見の経過については、他に捜査の公正を疑わせるような状況は認め難く、当審における事実の取調べの結果を考え合わせても、被告人の自供に基づいて鞄が発見されるに至ったとの原判決の説示は首肯できるから、論旨は理由がない。

 その九 万年筆について。

 所論は、被告人方の勝手場入口の鴨居の上から本件万年筆が発見されたという六月二六日の前に、五月二三日及び六月一八日の二回にわたって被告人方の捜索が行われており、その時発見できなかったものが六月二六日の捜索で発見されたということはいかにも不自然であり、また、捜査官は被告人の自白を得て駆けつけたのであるから自ら捜すべきところを、わざわざ立会人六造に捜させていることも、いかにも芝居がかつており、捜査官がそこに万年筆があることを確信していたようにみえるのは不自然である、更に捜査官は鞄の場合と同様に、何らかの方法で万年筆を入手しておいて、被告人を不当に誘導して万年筆を置いた場所を図面に書かせたうえ、その場所に員関源三をして万年筆を差し置かせ、あたかも被告人の自供に基づいて捜索するようなふりをして、兄六造にこれを取り出させた疑いが濃く、捜査官に作為があったかのごとくいうのである。

 そして、被告人もまた、当審において、員長谷部梅吉が「お前の家に万年筆がある。剃刀を置いてある所を地図に書け。そこに万年筆があるから。」というので、いつも剃刀を置いておく勝手場出入口の鴨居を地図に書くと、そこから本当に万年筆が出てきた、警察では五月二日に犯人が残した足跡が兄の地下足袋だと言うし、五月一日分晩兄が一〇時ころ皮のジャンパーを着て地下足袋を履いて単車で帰ってきたこともあったので、犯人は兄ではないかと考えたなどといい、万年筆の所在を書いた見取図(当庁昭和四一年押第二〇号の2)について、「長谷部警視から俺の家を捜したら万年筆を見付けたが、そのことを俺から言わせようと思って、そのままにしてきたから図面を書けと言われたから、ここにありますと言って鉛筆でその図面を書いたわけです。長谷部警視が鴨居のところにあるというから、その場所を書いたのであって、自分の方から進んで、ここにあると言って書いたのではありません。」といい、あたかも捜査官の偽計によって虚偽の供述をしたかのようにいい、所論に添う供述をしている。  

 しかしながら、被告人の右当審供述はそれ自体極めて不自然であり、殊に兄六造が犯人ではないかと思ったという点は奇怪な供述(被告人は、河本検事から犯人は兄六造ではないかと言われて怒り、湯呑茶碗を投げつけようとしたと言っている。)であって、到底そのまま信用することはできない。そして、員青木一夫、同長谷部梅吉、同関源三の当審各証言に徴しても、被告人は、自分から進んで万年筆がある場所の見取図を書いたものと認められ、取調官が偽計を用いてこれを書かせたと疑わせる節は見いだせない。なお被告人は、原審(第七回)において本件万年筆を示されて、「これは善江(仮名)ちゃんちへ手紙届けにいく時カバンを捨てる時一緒にこれが出てきたので、その時取ったです。……家へ持って帰り、時計と同じところへ置きました。逮捕された後も、この万年筆はかもいの上にありました。」と供述しており、その他関係証拠を検討してみても、万年筆を奪取した時期や場所については嘘といわざるを得ないが、万年筆を鴨居に隠匿していたという点は信用することができる。

次に、所論が指摘する被告人の家族の当審(第一六回)各証言を検討する。

 まず兄六助(仮名)は、「勝手場の入口と風呂場の屋根裏の野地板の所にはねずみ穴がいくつかあり、ぼろ切れでそのねずみ穴をふさいでいた。警察官が六月一八日の第二回目の捜索に来たとき、その一人が、ぼろ切れを取って穴を見せろと言ったので、自分で取って見たらいいでしょうと答えた。その警察官は箱を台にしてぼろ切れを取って穴の様子を見ていた。勝手場の入口の所で、万年筆が出てきた所にもねずみ穴があって、陸足袋の片方とハンカチのぼろ切れをその穴に詰めてあったが、小島警部ともう少し背の低い人が、ぼろ切れを取って、その辺を手で探ったりしていた。そのとき警察官はぼろを詰め直してくれなかったので、私が後から全部詰め直した。六月二六日の第三回目の捜索のときには、小島警部が『一雄君が万年筆があるっていうから、そこをちょっと兄さん見てくれ、ここだ。』といって、勝手場のつけかもいの上の、二回目の捜索の時にぼろ切れを詰め直した場所を指示した。写真を撮ってから、『取ってくれ』と言うので『こんな所にあるわけない、この前見ていったんだから。』と答えると、『いや、一雄君が図面までちゃんと書いてくれたんだから、ここにある、取ってくれ。』と言うので、足袋とぼろ切れを取ったところ、鴨居のねずみ穴の手前の方に万年筆があった。小島警部は袋を出し、『袋に入れろ。』というので万年筆を袋の中へ入れた。」、「万年筆が出てきた日の四、五日前だと思うが、関さんが来た。関さんが来たとき寝ていたらおふくろが起こしにきた。何回も起こされるので起きたら、関さんは上へ上がつていて、『なんだこっちに寝てるんか。』、「弟さんに頼まれて下着を取りに来たんだ。』と言った。それで、おれは『わからないからおふくろに聞いてくれ。』といった。そしたらおふくろが後で届けるとか言って、七、八分位話して帰つたと思う。起こされたとき、関さんは勝手場に上がっていて、私の方へ向かって来た。廊下を下りて四帖半の方へもう途中まで来ていた。関さんが『お母さんじゃなんかよく判らない、ほかの人は誰かいないか。』と言っているのを聞いたような記憶もある。そのときは下着を取りにきたというだけだった。そのほかに関さんが勝手場の方から訪ねてきたことはない。いつも玄関からくる。あの人は座ってくれといっても座らない。玄関で立ち話しなんです。あの日に限ってどういうわけか知らないけれども、誰もいないと思ったのかもしれないけど、風呂場の方へ上がってきた。」と述べている。

 父富蔵は、「万年筆が台所の方から出たことは知っている。警察官はうちの中を探さずに、てんがけそこへ行って、六助(仮名)に『ここにあるから出せ』といって六造に万年筆を取り出させた。」と述べている(「てんがけ」とは、最初にとか、いきなりとかいう意味の方言である。)。

 母リイは、「関さんが家の中に上がってきたことが一回あるが、その日にちはおぼえていない。関さんはいつもは玄関から入ってくるが、上がり口にかけたことも、お茶を飲んだりしたこともなく、いつも立って話しをした。関さんはおせんべいを持っていってやるとか、下着を持っていってやるとか、そういってくれた。その日風呂場で洗濯していると、関さんに『おはようございます』と声をかけられたが、どなたかと思って返事をしなかったら、『お母さんですか』と言うのではいと返事をした。風呂場の前の外から『お母さん一雄君が下着が欲しいって言うから貰いにきた。』と言ってくれたので、『あれまあだれもいないで困っちゃったね』と私がそう言って、で上がらしてもらうということで上がった。それで私が六助(仮名)を四帖半に起こしにいった。そのとき関さんは、風呂場のガラス戸をあけた所の板の間に立っていた。私は六助(仮名)に『一雄が下着をほしいっていうんだけどよわったね』と言って、また風呂場に入って洗濯をしていた。風呂場に入ってから関さんと六助(仮名)とはなんだか話をしていたようだが、はっきりおぼえていない。関さんはすぐ帰ったと思うが、それもはっきりしない。六助(仮名)はいつも夜眠れないので、朝起きないで、いくどもいわなきや起きない。」と述べている。

 ところで、員関源三は被告人方の近くに住んでいて、青少年チームの野球のコーチをしてやったりしたことから被告人と知り合いであったところ、被告人が逮捕されてからは、被告人のために家族への連絡、差入れ、下着類の取替えの伝達などの便宜を計り、被告人方を何度も訪れたことは一件記録上に現れているところであるが、同人は当審(第六・五三回)において、「出勤の途中下着交換の伝言などのために被告人方に立ち寄ったことがあるが、いつも玄関から訪れていた。勝手場の出入口で伝言したことは一度だけある。それは玄関で声をかけたところ、お母さんが勝手の方に見えたので、そちらへ回って母親と話をしたのである。そのとき家の中へは入っていないし、母親が六助(仮名)を起こしにいった記憶もなく、六助(仮名)に会った事実もない。』と証言している。また、「六月二十三、四日ころ証人は被告人の家を訪ねるに当たり万年筆を持っていかなかったか。」という弁護人の問に対して「持っていきません。」と答えている。

 他方、原審検証調書添付写真(49)(一冊二一三丁)、当審第七回検証調書(特に添付写真(34)ないし(41)とその説明文、一九冊三三三三丁以下)によれば、兄六助(仮名)が勝手場出入口の鴨居にあるねずみ穴だといっている穴は、縦二・三糎、横二・五糎、深さ二・三糎の大きさで、その周囲をみてもねずみが噛って通路とした形跡はなく、しかもその穴の奥は空洞となっていて、ねずみがつたって通るような所でもなく、ねずみ穴であるかどうかは極めて疑わしい。殊に、陸足袋やハンカチでふさぐ程の大きい穴でもない(ただし、原審検証の際にはぼろ布が詰められていた。)。また、鴨居の高さは床から約一七五・九糎で、万年筆のあったのは鴨居の奥行約八・五糎の位置であるから、背の低い人には見えにくく、人目につき易いところであるとは認められない(なお、検察官は原審検証の際に、万年筆がぼろ切れの下に隠されていたと指示しているけれども、ぼろ切れに隠してあったという証拠はないから右の指示は誤りである。)。なお、証人関源三の当審(第六回)供述によれば、同人は被告人が浦和拘置所に勾留されていたとき被告人の母親と弟毅(仮名)に同道して被告人と面接させたが、その際被告人が母親と毅(仮名)に「関さんが悪いんではない、みんなは関さんのことを悪く言ってはいけない。」と話していることが認められ、被告人自身は関源三に対して好意さえ寄せていたことが窺われ、他方当審において取り調べた被告人の関源三あての四〇・七・一八及び四五・四・四手紙(当庁昭和四一年押第二〇号の4のうち)の文面をみると、被告人の家族は、そのころには被告人が関源三と面会することを快く思っていなかったことが窺われる。その他、さきに触れたところであるが、家族の者達が被告人のため五月一日のアリバイ工作をし、あるいは五十子米屋の手拭についても作為をした疑いがあり、員小島朝政の当審証言によれば、第二回目の家宅捜索の際に、家人が捜索員を罵倒したことも認められる。

 叙上の諸事実を考え合わせると、被告人の家族の前示各証言は、その内容がいかにも不自然で、たやすく信用することができない。これに比べて関源三の証言は十分信用することができる。したがつて、関源三が所論のように、捜査官があらかじめ何らかの方法で入手していた本件の万年筆を持参して、被告人方の勝手場入口の鴨居の上に差し置いてきたなどということを窺わせるものは何もないというべきである。

 なお所論は、五月二三日の第一回の捜索は午前四時四五分から一四時間余の長時間にわたって行われたのに、万年筆が発見されなかったのは不自然であるというのであるが、五・二三員小島朝政作成の捜索差押調書によれば、右捜索は午前四時四五分から午前七時二分までの二時間余であることが明らかである。

 要するに、被告人の自供に基づいて万年筆が発見された旨の原判示は、当審における事実の取調べの結果に徴しても、肯認することができる。それゆえ、論旨は理由がない。

 その一〇 腕時計について。

 所論は、本件腕時計の側番号が捜査当局によって出された品触れの側番号と異なっていることや、被告人が六月二四日に腕時計を捨てたと自供して図面まで提出しているのに捜査当局が直ちに捜索を行わずに五日後の同月二九日ころになって捜索に着手したことなど、本件腕時計の発見経過については疑惑があり、それが自白の真実性をおびやかしている、時計を捨てた場所を図面に書いたのは六月二四日ではない、小中杉五郎(仮名)が時計を発見した七月二日よりも前に既に被告人は取調官に本件の腕時計を見せられて、腕にはめてみた、また、捜査官が二日間にわたって多勢で被告人の書いた図面を見ながら探して見付からなかったのに、七月二日小中老人が被告人の自供した場所からわずか七メートル余り隔てた茶株の下で発見したというのは、あまりにも都合のよい話である、これらの事情を考え合わせると、捜査当局は、被告人が時計を捨てた場所の地図を書いたり小中老人が「発見」する以前に、既に何らかの方法で本件腕時計を入手していて、無理に被告人に時計を捨てた場所の地図を書かせたうえ、その付近で聞込みをしたり、捜索をしたようなふりをして、まだ時計が発見できないような雰囲気を作出し、そこで被告人の捨てたという場所付近に腕時計を差し置き、小中老人と通謀して同人に発見させるという手の込んだ工作をした疑いがあるというのである。

 そして被告人は、当審(第二六回)において、「時計を捨てた場所の地図を書いたのは六月二七日ころで、次の日の夕方時計を見せられたと思う。地図を書いた日を特に覚えているのは、雨が随分降ってきた日の夕方から雷がものすごく鳴ってきて取調室に雨が漏るので、弁護士と面会する部屋に移ったことがあるが、そういうことがあった日の翌日時計を見せられ、その時計を自分の腕にはめてみた。」と供述し、当審(第七回)において被告人は、その取調べに当たつた員青木一夫証人に対して「時計のことですが、時計を示した時、まだ見つかっていないときですね、書くのに青木さんの金張りの時計を見せてもらって型は判らないから書いたと思うけどね。」と発問し(この問に対して青木証人は「私の時計は金張りじゃなく、その当時からこの銀張りの時計である。」と答えている。)、また「善江(仮名)ちゃんの時計が出てきて、その日か次の日かに私に時計を見せた記憶はないか。」と発問し、更に「それで、結局俺の手にはめてみたら、ぴたりだったんだね、だから俺が善江(仮名)ちゃんも案外腕が太いな、俺の腕にぴたり合うじゃないか、そうしたら遠藤さんが合うわけだお前が殺したんだものと言ったので、なんでもいいから俺は刑務所へ行って野球やりたいから早く出して下さいと言ったら、長谷部さんがそこは大丈夫だ、石川俺にまかしておけよと言ったことを記憶しておりますか。」と発問し、「じゃ、善江(仮名)ちゃんの時計は俺がはめてみれば四つ目の穴だからね、俺今でも記憶しておるからね、……だから俺腕にはめてみたらぴたり合ったわけだね、四つ目の穴がね、そこで長谷部さんが以前富美恵(仮名)さんがはめていたので穴が足りないので一つあけたので、ちょうど石川と合うじゃないかと長谷部さんが言ったですね、だから買った時計より一つ余計穴があけてあるわけだね。」と発問し、当審(第九回)において被告人は、その取調べに当たった員長谷部梅吉証人に対して、「時計のことについて尋ねるが、時計の件は六月二十六、七日ころの木曜日に取調べを受けたときに図面を書いたと記憶している。そのときの取調官が誰か今覚えていないが、善江(仮名)ちゃんの腕時計をどこへ捨てたというので、俺が田無の質屋へ入れたといったら、我々はとっくに調べてある、黙っていたってわかっているんだ、どこへ捨てたというのかというので、田中へ捨てたといって図面を書いたら、その翌日知らない刑事が証人のところへきて、課長時計が見付かりましたといって時計を出した、そのとき俺がそれでは見せてくれといってその時計を手にとり、これが善江(仮名)ちゃんの腕時計ですかといって自分の腕にはめてみたらぴったり合つたので、善江(仮名)ちゃんは案外腕が太かったんだといったら、傍らにいた遠藤さんが、石川が殺したのではないか、殺した本人が知らないない(ママ)ていうと笑われるぞといって皆で笑ったことがあったが、そういうことを覚えているか。」と発問し、「時計を持ってきたのは夕方ではなかったか、俺が図面を書いた夕方であるが覚えているか。」とか、「その日は晴れた日ということは、その日検事の取調中俺は糞をしてしまったので、検事が帰ってから遠藤さんにその話をしたら、同人は今日は晴れているから洗濯してしまえ、そうすればうちにわからないだろうといったが、俺は洗濯なんかしたことがないから、かまわずうちへ届けてくれといった、そういうことで、その日が晴れた日で六月二八日であったということをはっきり記憶しており、そしてその日の時計を持ってきたので自分の腕にはめてみたのであるが記憶ないか。」(この問に対し長谷部証人は記憶がないと答えている。)と発問して、所論を裏付けるように、時計を捨てた場所を図面に書いたのは六月二四日ではなく六月二十七、八日ころであり、またその翌日の夕方腕時計を見せられていると主張し、その日の天候やその際の具体的状況を挙げてこのことに間違いはないというのである。

(一) そこで考えてみるに、まず、六・二四員青木調書(第三回)添付の時計を捨てた場所を説明している図面(七冊二〇七五丁)の被告人自書の日付をみると、いかにも所論がいうように「6月29日」と読めないわけではない。しかし、同調書添付の時計の略図(二〇七四丁)や同日付の員青木調書(第一回)添付の佐野屋までの道筋を被告人が書いた図面(二〇六〇丁)の各日付の数字を子細に比照してみると、二〇七五丁の図面日付も「6月24日」であることがわかる。すなわち、数字の「4」の筆法が三通とも共通であること、これと六・二九員青木調書に添付されている図面(二一五〇丁)及び当審において捜査の経過を明らかにする趣旨で取り調べられた五・二七員清水利一調書に添付されている図面(一六冊二七二一丁)の被告人自筆の数字「9」の筆法とを比較検討すれば、このことは明らかである。更に時計を捨てた場所については、六・二七員青木調書においても述べており、その図面(二一一四丁)も添付されているが、この図面と右の二〇七五丁の図面を比較してみると、六月二七日付の図面の方がより具体的正確に時計を捨てた場所を示しているのである。もし二〇七五丁の図面が六月二九日付であるとすれば六月二七日付二一一四丁の図面を書いた後、更にこれよりも簡略な図面を二九日に書いたということになり、合理的でないことになる。ところで、先に述べたとおり、所論は右六・二四員青木調書添付の図面の日付が一見「6月29日」であるように読めることや、被告人の供述に基づいて、被告人の員調書の日付は故意に遡らせてあるといい、被告人が三人共犯の自白をしたのは六月二三日で、単独犯行の自白をしたのは六月二六日であるというのであるが、それは、この六・二四員青木調書添付の図面(二〇七五丁)の被告人自筆の「6月24日」の記載を「6月29日」であると誤読したためであって、一つの大きな前提を失うものといわなければならない。

 次に、被告人のいう時計の図面を書いたり本件時計を見せられた日の天候についてであるが、当審において取り調べた航空自衛隊入間基地司令中川雅男(仮名)作成の「気象状況について」という回答書二通(一五冊二三八六丁・二三九〇丁)、埼玉県園芸試験場入間川支場長入田善郎(仮名)及び熊谷気象台の各証明書(二三九六丁・二四〇〇丁)によると、六月末ころ川越市付近で雷雨のあったのは六月二九日と三〇日の両日であり、六月二七日は曇り、六月二八日は曇り・時々小雨であると認められ、被告人のいうとおりの気象状況であったとは認められないのである(ただし、六月二七日は被告人のいうとおり木曜日である。)。

 次に、被告人が七月二日以前に見せられて腕にはめてみたという時計であるが、押収の腕時計(昭和四一年押第一八七号の六一)をみると、バンドの穴数は被告人がいう四個ではなく、六個である。もっとも、被害者善江(仮名)と姉富美恵(仮名)の二人がこの時計を使用し、両名が使用する場合にそれぞれ違ったバンド穴を使用していた形跡がみられないわけではない。しかし、被害者善江(仮名)が使用する際に購入時のままでは足りないので新たに穴をあけたという形跡は見受けられない。また、七・七検原調書によれば、その記載内容からみて同日以前に被告人に対して時計を見せた様子は窺えない。なお、被告人は六月二八日に検事の取調べを受けたというが、同日付の検調書は記録中に存在しない。      

 叙上の諸点を総合すると、具体的な事実を挙げて正確な記憶によるものであるかのようにいう被告人の当審供述や発問は、必ずしも正しいものではなく、殊に時計の図面、それを捨てた場所の図面を書いた日時や、七月二日の時計発見届出の前に取調官から本件時計を見せられているという部分は、その後に知り得た知識を交えた作為的なものか、重要な点で思い違いをしているかのいずれかであって、結局において信用できないのである。そして、このような被告人の当審供述や発問を前提とする所論も採用することができない。

 しかるところ、本件腕時計の側番号と品触れの時計の側番号とが相違していることや、被告人が腕時計を捨てたと自供した後捜査官が直ちに捜索に着手しなかったことに疑惑がある旨の所論が理由のないことは、原判決が詳細に説示しているところであって、当審における事実の取調べの結果に徴しても、その説示は正当であるとして肯認することができる。なお、この点について付言すると、本事件の捜査の統轄責任者であった員将田政二の当審(第一二回)証言によれば、捜査官は被害者善江(仮名)の兄上田寛治(仮名)を同道させて本件腕時計を購入した店に赴き、同型の女物腕時計を借り受け、それを見本にして品触れの書面を作成し、軽卒にもその側番号まで品触れに記入したものであることが明らかであり(特に、保証書でも保存していない限り、腕時計の側番号がその発見前に判明している場合は通常考えられない。)、また、被告人の取調べに当たった員青木一夫の当審(第二七回)証言によると、「調書をとった時には、どうもそういう道路の真中へ捨てるということは、ちょっと考えられないということで、その日には捜索をしなかった。しかし、それから一、二日位してからと思うが、重ねて尋ねた折に、この前書いた図面は間違いないんだというようなことを言ったので、これは一応捜索しなきゃいけないんじゃないかということで、捜索することにしたと思う。」というのである。原判決が「弁護人等主張の如くたとえ側番号が、品触れのものと異っていたとしても、それはむしろ品触れ自体が誤っていたとみるべきである。」と説示し、また「何らかの都合で、自供の五日後に至って現場附近の捜索に赴いたとしても」と説示しているところは、当審における事実の取調べの結果によれば、それぞれ前示の各証拠によって裏けられ、その判断の正当であることがいよいよ明らかになったわけである。

 (二) 進んで、所論がいうように捜査当局において腕時計についても鞄類や万年筆の発見経過におけると同様のトリックを用いた事実があるかどうかについて考察する。

 たしかに、七、八名の捜索員が六月二九、三〇日の両日にわたり、被告人が書いた図面を持って被告人の指示した三差路付近をくまなく捜索しても本件腕時計を発見し得なかったにもかかわらず、その後間もない七月二日に小中杉五郎(仮名)によって、被告人が捨てたという地点から約七・五米離れた道路脇の茶株の根元から発見されたことは一見不思議であると考えられないわけではない。しかし、七・二員小島朝政作成の捜索差押調書及び当審第七回検証調書をみると、茶株の周辺には茶の枯葉などが沢山あってよほど注意深く捜さないと見落としてしまうような場所であることがわかる。そして、捜索に携わった証人飯野源治(第二五・五〇回)、同石原安儀(第四八回)、同梅沢茂(第四五・四八回)、同鈴木章(第四六回)の当審供述及びこの捜索を指揮し、捜索差押調書を作成した員小島朝政の当審(第五五回)証言によれば、同人らは、被告人が捨てたという場所が道路上であるうえそれから相当日にちが経過していることから、通行人のだれかが拾ったかもしれない、あるいは自動車などが道路脇へはね飛ばしたかもしれないなどと考えながら、拾得者がないかと付近の聞き込みをするとともに、現場を丁寧に捜索したことが窺われる(もっとも、小中杉五郎(仮名)方には聞込みに行かなかったようであるが、同人は水田方の下屋を借りて住んでいたために捜索員らが同人のことに気付かなかったからであって、他意があって殊更同人方へ行かなかったものとは考えられない。)。また、捜索員が捜索に当たって故意に手抜きをした節は見いだせない。多勢の捜索員が二日がかりで捜索をして見落としてしまったことは徹底した捜索をしなかったものとして非難を免れないにしても、殊更捜索員が茶株の根元を捜さなかったとは考えられない。まして、捜査当局において事前に何らかの方法で本件腕時計を入手していて、それを茶株の根元へ差し置いたと推測すべき事情は全く見いだすことができない。 

 次に所論が援用する小中とみ(仮名)の証言(昭和四七年八月一五日の証人尋問の際の供述、石田、宇津両弁護人の同人に対する質問応答を録取した録音テープ一巻を含む。)によれば、同人は小中杉五郎(仮名)の義姉で本事件当時病弱な杉五郎(仮名)の身の回りの世話をするため杉五郎(仮名)方を時折り訪ねていたものであるが、杉五郎(仮名)が散歩の途中偶然腕時計を発見拾得して警察へ届け、礼金を貰い受けたことを聞いたことや、警察官が杉五郎(仮名)方を訪ねて話をしていたときお茶を出したことが窺われないわけではない。しかし、同人は、右の両事実は雷雨があったころといっているがその前後もはっきりとは記憶していないし、警察官と杉五郎(仮名)との話の内容も知らないというのである。したがって、同人の証言をもってしては、原判決挙示の小中杉五郎(仮名)の検調書の信憑性を疑わしいとみることはできない。まして、捜査当局において小中杉五郎(仮名)と相謀り、あらかじめそこに差し置いてあった本件の腕時計を同人に拾わせたというような事実を推測させる状況は全く見いだすことができない。

 なお、被告人は当審において、「五十子の手拭で善江(仮名)ちゃんの手だか頭を縛ってあったらしいので、その手拭を出した五十子米屋の近所だと思ってその近くに捨てたと言ったのです。」(第四回)とか、弁護人の「あなたの自白調書をみると、五月一一日ごろに時計を田中に捨てたという供述がありますが、時計を田中に捨てたというようになったのはどういうことからですか。」との質問に対し、「それは、親父なんかと五月九日か一〇日かどっちか日にちははっきりわかりませんが、木村(仮名)さん方に仕事に行ったのです。そうしたら親父が山田(仮名)豚屋の昭男(仮名)が警察に連れて行かれたそうだが、お前は何もしていないかといったのです。当時山田(仮名)にいるとき材木を盗んだことなんかやったから、やっていないとはいわなかったのですが、ただ何でもないよといったです。親父は本当に何でもないかといったので、本当に何でもないといって、それで昭男(仮名)が連れて行かれたかどうかと思って次の日の新聞を買いに行ったです。だから、一一日だと思えば新聞を買いに行った日が多分一一日だと思います。……おれの友達の家の朝日新聞で、郵便局の坂を降りて行くとすぐのところです。そこのおれの友達が、そこに買いに行ったことは認めてくれたですけど、警察につかまってですよ、峯の方に自動車のタイヤをちょくちょく取替えに行っていたそこの家の人が一一日の日にそのへんでおれを見たと警察にいったらしいのです。」と供述し、「狭山にいるときにそういうことを警察官からいわれたので自白するようになってから時計を田中に捨てたというようになったということですか。」との質問に対し、「そうです。」(第三〇回)などと供述しており、被告人が五月一一日ころ田中の三差路に本件の腕時計を捨てたと自供したのは、取調べ中に警察官から種々誘導されたためであるというのであるが、特定の三差路に捨てたという事実は到底誘導のしようもないことである。のみならず、被告人は原審(第七回)において「腕時計は風呂場の入口のかもいの上においていたが、五月一〇日か一一日ころ、はっきりわからないけれども田中の五十子米屋の近くの道路上に捨てた。」と供述しているのである。この点に関する被告人の当審供述は信用できない。

 以上これを要するに、被告人の供述に基づいて被告人が捨てたという地点の近くから本件腕時計が発見されたことに疑いはなく、腕時計の発見経緯について捜査当局の作為が介在したことを推測される状況は見いだすことができない。そして、当審における事実の取調べの結果に徴しても、原判決の「腕時計の発見経過について」の項において説示するところは大要において首肯することができ、また、原判決が「被告人の自白に基き被告人が自白した地点の近くから本件腕時計が発見されていること」を自白を補強する情況証拠に挙げているのもまことに相当である。殊に被害者から奪取した所持品の処分のごときはまさに犯人のみが知り得る事実であるから、被告人が犯人であることを強力に物語る情況証拠であるといわなければならない。この点に関する所論は根拠を欠き、単なる憶測の域を出ないといわざるを得ない。それゆえ、論旨は理由がない。

 その一一 吉田榮(仮名)証言について。

 所論は、被告人が脅迫状を上田栄治(仮名)方に届けに行くとき鎌倉街道を通った旨の被告人の供述は、取調官の誘導に基づく虚偽の供述であるというのである。

 被告人は、当審(第三回)において、被告人の六・二六員青木調書(第二回)添付の図面を示されて質問を受けた際に、取調官から鎌倉街道で被告人を見た人がいると言われ、一たん佐野屋の前を通る別の近い道を図面に書いたのを鎌倉街道を通る道に訂正させられ、右調書添付の図面を作成した旨、更に当審(第二六回)においても右と同様、所論に添う供述をしている。

 しかし、被告人は、前記員調書添付の図面を書く以前の六・二一員青木調書(第二回)の中で、脅迫状を届けに行ったときの道筋を述べ、同調書添付の被告人作成の第一図には、鎌倉街道を通った旨の記載があり、しかも右図面中鎌倉街道に当たる部分に赤印がつけられ、「をいこされたところ」と説明文がつけられているのである。もっとも右調書は、三人共犯の自白を内容とするものであるが、単独犯行を認めるに至った後の六・二四員青木調書(第一回)及び六・二五員青木調書中で、脅迫状を届けに行った経路については前の供述をそのまま維持し、次いで前記六・二六員青木調書(第二回)でこれを再確認し、更に七・四検原調書においても添付図面によって前記経路についての供述を維持しているのである。

 ところで、証人吉田榮(仮名)の原審(第六回)供述によれば、同人は、被告人がそこを自転車で通ったという時刻に、友人の奥入義男(仮名)ほか一名を同乗させて自動三輪車で鎌倉街道を通ったことが認められるのである。そして原審記録中の検察官請求証拠目録に記載された吉田榮(仮名)及び奥入義男(仮名)の員調書並びに員野本定雄ほか三名作成の捜査報告書の日付がいずれも六月二七日となっていることから判断すると、被告人が鎌倉街道を通った際に自動三輪車に追い越された旨自ら供述したので捜査したところ、吉田榮(仮名)が当時自動三輪車を運転して右道路を通ったことが明らかとなったもので、捜査当局は、被告人が右の自供をするまで、被告人が鎌倉街道を通ったことも、その際自動三輪車に追い越されたことも知らなかったものと認められる。したがって、被告人の鎌倉街道を通った旨の供述が、取調官の誘導によるものでないことは疑いのないところであって、被告人の前示当審供述は、到底信用することができない。なお、被告人は、原審(第七回)においても、上田栄治(仮名)方へ行く途中三輪車に追い越されたことがある旨をごく自然に供述しているのである。

 以上のとおりであるから、被告人が鎌倉街道を通った旨の被告人の供述は、取調官の誘導に基づく虚偽の供述であるとする所論は、根拠を欠き失当であり、被告人の各供述は、自発的になされたもので、かつ他の証拠によって裏付けられた十分信用に値するものと認められ、結局、被告人が脅迫状を上田栄治(仮名)方へ届けに行く途中鎌倉街道を通ったこと、その際自動三輪車に追い越された事実は、被告人の自供によって判明するに至った動かし難い事実であるというべきである。それゆえ、論旨は理由がない。

 

(死体及びこれと前後して発見された証拠物によって推認される犯行の態様について。)

 その一二 死体について。

 所論は、強姦・殺害・死体処理に関する自白は死体などの客観的事実を示す証拠と重要な点で食い違いがある、すなわち、死体の前頸部の傷害からみても被害者は被告人が自白しているような方法で殺害されたものとは考えられず、被害者が姦淫された時期や状況も被告人のいうところと符合していない、また死体にみられる死斑の状況や後頭部の裂傷、これに伴う出血状態、足首に索溝がみられないなどの状況からみて、被告人がいうように芋穴に死体を逆さ吊りにした事実は推認できない、更に死後の経過時間、胃の内容物の消化状態からみて被告人の自白するような時間的経過によって犯行が行われたかどうかも疑わしく、このように被告人の自白が重要な点で客観的状況と相違することは、結局被告人が犯人でないから本件犯行の態様について知る由もなく、また真相を語り得なかったことを示すものであり、被告人の自白は虚偽架空であって信用することができないというのである。

 そこで、以下各論点ごとに検討を加える。

(一)  死因と死体頸部の傷害について。

所論は、上田政雄作成の鑑定書を援用し、死体前頸部に指頭痕や爪痕のないこと、前頸部に二種類の索状物によって絞扼した圧迫痕跡があること、その他眼瞼結膜に溢血点が比較的少なく眼球血膜にも溢血点や浮腫や血管充盈がないことなどからみると、本件の殺害は、自白にいう方法とは異なった方法すなわち単純な圧頸による扼殺ではなく、おそらく幅の広い索状物による絞頸と前膊部や上膊部などの比較的幅の広い鈍体による圧頸とを併せ用いた複雑な方法の殺害が行われたものに違いなく、死体の状況から推認し得る被害方法と被告人の自白とは最も重要な点で明白な食い違いがあるというのである。

 上田鑑定は、五十嵐勝爾作成の鑑定書、同人の当審証言、員大野喜平作成の実況見分調書、被告人の六・二五及び七・一検原調書を資料として再鑑定をし、「右手の親指と他の四本を両方に拡げて女学生の首に手の掌が当たるようにして首を締めたという石川一雄の供述に当たる所見は、以上の死体所見からは全く考えることは出来ない。」との結論を下している。そして、このような結論を示した理由として、「眼瞼結膜に溢血点が比較的少なく眼球結膜にも溢血点や浮腫や血管充盈を見ていない。この所見は私の経験上何らかの幅広い物で絞殺されたか、かなり幅のある太い物で強く側頸部を圧迫した時に最もしばしば認められる。これは幅広い物によって気管の圧迫と同時に左右側頸部の血管や頸動脈洞の圧迫、迷走神経の刺戟等の諸種条件が加わり比較的はやく意識不明に陥り死に至ったものと思われる。」とし、「c3(前頸部に於て、下顎骨下方より前記b(前頸部に於て、胸骨点上方約九・七糎の処を通り横走する蒼白色皮膚皺襞1条存在す)までの間は、前頸部一帯にわたり暗紫色を呈し、その内に小指爪大以下の暗黒色斑点若干が散在す。(五十嵐鑑定書))の右前頸部には正中によった部分は軽く弧をえがいており、C1(左前頸部に於て、正中線上で胸骨点上方約九・四糎の処(ほぼ喉頭部上縁に相当す)より左方に向い横走する約六・二糎長、約〇・三糎幅の暗赤紫色部1条存在するも周辺は自然消褪の状を呈し、境界は不明瞭である。(五十嵐鑑定書))と同様程度の黒化度を示している。C1とc3の間の距離は前述した如く三糎以上の幅を持っていると考える。しかもこの部分を何らかの索状体で絞頸したものと考えれば、この前頸部のC1c3等が最も強く恐らくこの部分に結節があったものと考える。この場合その索状体は単に交叉するのみで絞頸された可能性が強い。しかしながらC1やc3の変化を幅広い索状体の辺縁でできた損傷と受け取らなければ頤下部に出来た皮下出血や喉頭部下部にある皮下出血が全く説明がつかない。これらの損傷部を索状体を交叉する際に圧迫した痕跡と考える。……外景所見からは前述した如く幅広い兇器で絞殺したものか、あるいは幅広い鈍体で(手、足等)圧頸したものと考えざると得ないのである。しかも、その索状物或は鈍体は圧頸後間もなく取り除かれ細引紐等を用いて死を確実にしたものではないだろうか。この場合細引紐は死体に着いていた細引紐で二、三回頸部を締めることが可能であり、最後にその紐を死体につけた儘放置埋没したものではないだろうか。」とし、また、「喉頭部を上から圧迫し気管を圧迫するのみでは普通はなかなか死に至らず本例の様に溢血点や浮腫が少ない例は前述した如く幅の広い索状物で締めるか、幅広い鈍体により左右側頸部を圧迫する所見が加わらなければならない。」としており、これをみると、被害者の死体の前頸部の外景所見からは幅広い兇器(索状物)で絞殺したとは断定しておらず、幅広い手、足などの鈍体で圧頸した可能性もあるというのである。しかも、「鑑定資料(二)(2)(被告人の七・一検原調書第二回)に記載の如く顎に近い方の喉の所を手の掌が通るようにして上から押さえつけたという記載に一致する損傷としては舌先端に挫創が生じている点や?下部の皮下出血(恐らくこれも筋内出血を含む)等が妥当する損傷と思われる。」ともいっている。このようにみてくれば、上田鑑定と五十嵐鑑定との見解の相違は死体前頸部の外表所見をどう評価するかによって生じているものと考えられるが、五十嵐鑑定でも「本屍の殺害方法は加害者の上肢(手掌、前膊或は上膊)或は下肢(下腿等)による頸部扼圧(扼殺)と鑑定する。」と結論を下しており、両者は必ずしも相容れない鑑定ではないと認められる。現に、弁護人も最終弁論において、親指と他の四本の指を広げてではなく、五本の指をそろえて手掌で圧頸し、その際前頸部の外表に損傷が生じたのではないかとも推測している程である。

 ところで、C1c3等の損傷や殺害方法について、五十嵐鑑定人は、当審(第五三、五四回)において、「C1c3はいずれも着色部で、その間は皮膚の皺襞を伴う横走状皮膚蒼白帯となっていた。」と証言し、「C1のような暗赤紫色部が生じたのは、何故だろうか。」との弁護人の問に対し、「それは、bのところに『前頸部に於て、胸骨点上方約九・七糎の処を通り横走する蒼白色皮膚皺襞1条存在す』と書いてございますが、死体が置かれた時、首と身体の位置のくい違いによってしわができますと、そこが蒼白になることがございます。ですから、これに表皮剥脱があるとかいう記載もございませんし、ただここだけ色がついていたから記載したまでで……。」と証言し、また、「鑑定書の頸部所見という所に自然の皺襞によるという蒼白部は記載してございますが、索状物を使ったという痕跡は出ておりません。たとえば、きれの紐とか縄類みたいなもので締めたという痕跡は出ておりません……。(頸部内景)所見は頸部が索状物でない物で扼圧された時の通常の痕跡でございます。で、その扼圧した接触面が比較的広いということを意味しております。一応爪の痕などがあれば手によるものと推定できますが、爪の痕がない場合には掌で首を締めるだけが、締める方法ではございません。背部からのはだか締めもございます。プロレスのニードロップのように喉を押すこともございます。……爪の痕がない限り手によるという断定はできないと思います。」と、そして、「いくつかの可能性は確かにあることは判ったのですが、もう少し、たとえば、親指を拡げるような形で扼したとか、或いはうしろから羽交締めで前頸部があたるような形で扼殺したとか、そのへんの推測はもう少しできないでしようか。」との弁護人の問に対し、「それは、ごくむずかしい問題です。それは、首を扼圧して窒息死に陥らせたという場合には、気管に圧力を加えて呼吸を困難にするということのほかに神経圧迫の作用が加わって参ります。迷走神経とか、或いは頸動脈のわかれめの所の神経叢の圧迫、そういうものが加味されてきますから、気管を完全に閉鎖したとばかりは言えない場合がございます。」、「(圧迫痕著明というのは頸部所見でいうと)主に内部所見でございます。」、「皮下出血は、絞殺でも同様ですけれども絞殺とか拒殺とかいう時に頸部に力が加わった場合に死ぬまで抑えっぱなしにしていれば皮下出血は起きないものであります……扼殺の場合だとどうしても力が波状的になり、強くなったり弱くなったりする、そういうので絞殺の場合よりも数多く皮下出血が認められるということです。……出血は力の加わった部位と必ずしも一致しない場合がございます。」と、更に、「C1の暗赤紫色部1条存在するも周辺は自然消褪の状を呈し境界は不明瞭である、というこの部分は何かで特に力が加わった部分であるというふうには考えられませんか。」との弁護人の問に対し「私としては、こういうような特に力が加わった時は割合境界が明瞭だと思います。特に段々色があせてわからなくなったという場合には、死斑に近い時が多うございます。」と、「C1がやや顕著にあらわれているわけですけれども、それだけからは、掌によるものか、上膊、或いは前膊によるものかなどということはどのようにも決めることはできないと。」との弁護人の問に対し、「皮膚の着色だけでは無理と思います、を手で扼殺しだが、絞殺ではないということは言えると思います。」、「普通のこういう強姦殺人といわれるような場合では掌による扼殺が一ばん多いように思われます、……爪痕、加害者の爪による創傷がなかったということで(殺害方法を)一つにしぼることは無理だと、可能性のあるものは列記しておいた方がいいというだけのものであります。……前頸部を手で扼殺した場合爪が立って爪のあとが残る時もございますし、特に親指に力がはいつて飛び島のような皮下出血が起ることもあります。しかし、本屍の場合はそういうものがないと、従って接触面の広いもので扼圧したという以外、それ以上に説明がわたると無理になります。……(指痕)は、残る時と残らない時がございます。ですから鑑定としますれば、残っている時しか、結論として出せないわけです」と証言しており、これによれば、C1c3などの損傷は前頸部の変色部分であったことが窺われ、同鑑定人は、爪痕や指痕が前頸部にないところから、内景所見を重視して、「前頸部には、圧迫痕跡は著明であるが、爪痕、指頭による圧迫痕、索痕、表皮剥脱等が全く認められないので、本屍の殺害方法は加害者の上肢(手掌、前膊或は上膊)或は下肢(下腿等)による頸部扼圧(扼殺)と鑑定する。」と結論を下したものであることが明らかである。

そうだとすれば、上田鑑定人自身「(五十嵐鑑定)添付写真第五号を私が見た所見を記載する。この写真は黒白写真でありカラー写真でない点前頸部の所見を観察するには著しく不便である。例えば、C1がどんな色調で、c3がどんな色調かもわからず色調の決定がその損傷の成因を考える上において重要な要素をなすものであることを第一にことわっておかねばならない。」といっているように、写真による死体の再鑑定には限界があることは否定できず、上田鑑定人はC1c3などの外表所見をあまりにも重視し、加害者がC1c3間を幅広い索状体で扼頸して死に致したものと推定したものとみるほかはなく、更に、内景所見の皮下出血の状態について、殊更「喉頭部下部の手掌大の皮下出血はその位置関係からみてその存在が疑わしい。」としているものと思われ、同鑑定人の「被告人の供述する如く右手の親指と他の四本を両方にひろげて女学生の首に手の掌が当るようにして首をしめたという所見は考えられない」との結論は、偏った状況判断によって、一概にきめつけたきらいがあって、賛同することができない。

要するに、上田鑑定は再鑑定に必然的に伴う限界を考慮した良心的な鑑定ではあっても、直接死体を解剖した五十嵐鑑定の結論を左右するに足りるものとはいえない。

 次に、死体前頸部に存在した赤色斜走線条であるが、五十嵐鑑定は「生活反応がなく索条物(荒縄或いは麻縄の類)の死後の圧迫により生じた死斑と判断される。」といい、上田鑑定も「生前に細引紐で締めることが考えられないので、この機転は死戦期或いは死亡直後に起ったものと考えるのが最も適当である。この場合C1の如き変化も起きることが考えられる。……細引紐等を用いて死を確実にしたものではないだろうか。この場合細引紐は死体に着いていた細引紐でも二、三回頸部を締めることが可能であり、最後にその紐を死体につけた儘放置埋没したものではないだろうか。」といっており、両鑑定とも死体前頸部に存する赤色斜走線条の痕跡は犯人が死後索条物によって死を確実ならしめるために締めた痕跡であると推認しているが、同部分の絞頸が死因であるとは判断していないのである。ところで、被告人は取調べに当たった検察官に対して死体の頸部に巻き付けられていた細引紐については記憶がないといって否認の態度をとり、原審公判廷においてもこの点について何も供述していない。しかし、先に触れたように被告人は捜査段階において真相を語らず、又は積極的に虚偽の事実を述べていることを考え合わせると、被告人は細引紐の出所はもとより、被害者の頸部に細引紐を巻きつけたことを、情状面において自己に不利益であると考えて否認しているものと認めざるを得ない。そうだとすれば、両鑑定の推認しているように、被告人は被害者の死を確実ならしめようとして、細引紐で絞頸したものと判断せざるを得ないのであって、被告人がこの点について否認するからといって被告人が犯人ではないとはいえないのである。

 ところで被告人は、捜査段階において、被害者を姦淫しながら右手の親指と他の四本の指とを広げて頸部を強圧したというのであるが、右鑑定の結果からは、扼頸の具体的方法についてまではこれを確定することはできない。しかしながら、被害者の死因が扼頸による窒息であることは前記のとおり疑いがないから、死体の状況と被告人の自白との間に重要なそごがあるとは認められない。それゆえ、論旨は理由がない。

 (二) 死斑について。

 所論は、五十嵐、上田両鑑定によると、死体の背面には明らかに死斑が存在するが、被告人のいう死体処理の方法では、このような死斑は生じない、上田鑑定は一般に死斑が生ずるためには死後三時間ないし四時間死体が一定の姿勢を静穏に保つことが必要であるといい、五十嵐鑑定人は当審(第五四回)において、一たん生じた死斑が、その後の死体の体位転換によって消失せずに残存するためには、四時間ないし六時間以上の時間の経過が必要であるといっており、したがって本件の死体は少なくとも三時間以上はあお向けの状態に置かれていたものと推認しなければならない、ところが、被告人の自白によると、死体をあお向けにしたのは殺害直後から芋穴に死体を逆さ吊りにするまでであるといっている、そこで、被告人が芋穴に死体を逆さ吊りにしたのは何時ころであるかを考察すると、殺害時刻を午後四時少し過ぎころとし、この時刻を基準にして、その後被告人がとったという行動時間から計算してみると、およそ午後五時半ころとなり、逆に上田(仮名)家に脅迫状が投げ込まれたとされている午後七時半ころを基準にして芋穴から上田(仮名)家までの距離、その間被告人が自転車を使用していること、教科書や鞄などを埋没するに要する時間を考慮して計算すると、被告人が芋穴を出発して上田(仮名)家へ向かつた時刻、すなわち死体を芋穴に逆さ吊りにした時刻は遅くとも午後六時半ころとなる、いずれにしても死体があお向けにされていた時間は、一時間半ないし二時間に過ぎず、多目にみてもせいぜい二時間半である、このように被告人の自白による限り、死体をあお向けにした時間は一時間半ないし二時間、あるいは二時間半に過ぎず、死斑が生ずるに必要な三時間ないし四時間、またその後の体位転換によって死斑が消滅せずに残存するに足りる四時間ないし六時間のいずれにも到底及ばないのである、死斑の発現状況と死体処理の状況に関する自白とは明らかに符合しない、ところが検察官は「被告人は原審認定の如く午後三時五〇分頃被害者と出会って山へ連れ込み、殺害後、一旦芋穴に死体を(仰向けに)かくし、午後七時三〇分頃甲2家へ脅迫状を届けてのかえり、スコップを盗んで午後九時頃農道に穴を掘って、死体を(うつぶせに)埋め直しているのであるから、死体の体位転換を行った時間に徴して、死斑の状況と死体処理の方法とは一致し、被告人の自白に何らの客観的事実との矛盾はない」(昭和四七年五月一〇日付意見書)と主張するが、これは死体のあお向けの時間を、殺害直後から農道に埋没するまでと大幅に延長するごまかしの議論であるばかりでなく、被告人の自白による限り死体は芋穴の中で逆さ吊りになっていたかもしれないが、あお向けの状態でなかったことは明らかなことであるし、死体が芋穴の中であお向けの状態になっていたと認むべき証拠はないのであるから客観的事実を無視した議論である、もっともまれな例として死後一時間ないし二時間程度で死斑が出現することもあり得るとされているが、そのように死後短時間に生じた死斑はその後の体位の転換によって容易に消滅するのであるから、本件の死体のように、あお向けから逆さ吊りされ、更にうつ伏せに埋没されるなど激しく変動を加えられた場合には、たとえ一度現れた死斑もたやすく消滅してしまうに違いない、なお、五十嵐鑑定人も当審(第五四回)において、本件の死体はうつ伏せに埋没される以前、かなり長い間あお向けに置かれていたのではなかろうかとの意見を述べている、以上のとおり、死斑の状況は明らかに被告人の自白と一致せず、ここでもまた被告人の自白が本事件の真相を述べたものでなくその虚偽性は明白であるというのである。

 まず、五十嵐、上田両鑑定によれば、死体の背部に死斑が存することは明らかな事実である。そして被告人は、芋穴に吊るすまで死体をあお向けの状態にして置いたといっていること、死体を芋穴に吊るした時刻は、殺害時刻や脅迫状を上田(仮名)方へ届けた時刻を基準とすればおおよそ午後六時半ころとみるのが相当で、したがってこの間死体をあお向けの状態にして置いた時間はおおよそ一時間半ないし二時間半となり、この時間経過は右の鑑定人らがいう一般に死斑が生ずるために要する三時間ないし四時間や一たん生じた死斑がその後の死体の体位転換によって消失することなく残存するために要する四時間ないし六時間のいずれにも及ばない短い時間であることは、所論のとおりである。しかし、検察官がいうように、芋穴の中で死体があお向けの状態であったとすれば、殺害時刻を午後四時半ころとみて、原判示のように午後九時ころ農道に掘った穴に死体をうつ伏せに埋め直した時まで約四時間半位あお向けの状態であったことになり、死斑の状況と被告人のいう死体処理の方法とは一致することになる。

 そこで、死体が果たして芋穴の中でどのような状態であったかを検討するに、まず、被告人の捜査段階における供述をみると、「女の死体が芋穴の底についていたか、ぶら下がっていたか判然しません……」(六・二五検原調書第一回)とか、「善江(仮名)ちゃんの頭が穴ぐらの底の地面についていたかも知れないけれども足は殆んど真上にあって、善江(仮名)ちゃんの身体は逆さになって頭が下に足が天井をむいていたと思います(六・二八員青木調書)とか、「吊した縄は芋穴の口の角の所にくっつけて少しずらしたので割り合い楽に降すことができました。ゆわえつけた縄の端は少ししか余っていませんでした。結び方は縄を一回桑の木に廻し、一回結んで更にもう一回結びました。そうして、その縄の端が約二十糎位残っていた様でした。桑の木に結んだ縄はたるんでおらず、張っておりましたが、善江(仮名)ちゃんの身体が穴の中に宙に下がっている様な強い力で下から引っ張っている張り方ではなく比較的ゆるやかな引っ張り状況でしたので穴の深さはどの位か判りませんでしたが、善江(仮名)ちゃんの体の頭からお尻位迄は穴の底に着いている状況ではなかったかと思います。吊した縄は四角い穴の桑の木に近い方の角のところから下げておきました。その芋穴にはコンクリで造った二枚の蓋がありましたが……。」(七・一検原調書第二回)とか、「芋穴から引き上げるとき、死体が穴の底についていたか、それともぶらさがっていたかどうもはっきりしません。」(七・六検河本調書)とか、「善江(仮名)ちゃんを穴倉から引き上げるときは、善江(仮名)ちゃんの体は穴倉の底にある程度ついていたのではないかと思います。」(七・八検原調書)などといい、その供述は一定しておらず、被告人が芋穴の中で死体が果たしてどのような状態になっていたのかはっきり記憶していないものと考えられる。そこで、芋穴の深さ、芋穴の近くの桑の木と芋穴との間の距離、荒縄や足首に巻かれていた木綿細引紐の長さなどから、死体が芋穴の中でどのような状態であったかを推認することとする。原審の検証調書によると芋穴の深さは約二・七米、桑の木の太さは周囲約二八糎、桑の木と芋穴との距離は二・四五米である。したがって被告人のいうように桑の木に二回りさせ、約二〇糎の端を残すようにするにはそれだけで縄の長さは約七六糎必要であり、そして芋穴の底に縄が達するには桑の木から五・一五米の長さが更に必要であり、その合計は五・九一米となる。ところで、他方、大野喜平作成の実況見分調書をみると「足を縛った木綿細引紐に接続する前記荒縄は俵の外し縄様のもので二本を二重に折って四本合せとしたもので、……その四本は六・九米のもの一本、六・七五米のもの一本、五・五八米のもの一本、四・八米のもの一本である(この状況は別添現場写真三十三号の通り)。……両足を縛った木綿の細引紐は長さ二・六○米、太さ○・八糎、輪の部分は直径二十二糎である。」と記載されており、これによると、荒縄の全長(昭和四一年押第一八七号の八だけ、細い縄の同押号の九は除外)は二四・〇三米、木綿細引紐の全長は二・六〇米である。そこで、荒縄と細引紐とを結びつけ、これを四重にして使用したと仮定してみると、その長さは約六・六五米となる。そうだとすればこの約六・六五米は前記桑の木に二重に巻き付けて約二〇糎を残し、桑の木から芋穴の底まで達するに要する縄の長さの約五・九一米よりも約〇・七四米長いことになる。したがって、結び目を作るときに要する若干の長さを差し引いても、被告人がいうように被害者の死体の足首を縛り、芋穴の中へ頭の方から入れ、縄の一端を桑の木に結び付け、被害者の死体全体を芋穴の底に平らに横たえることは十分可能である。そして、前示の原審検証調書によると芋穴の口は縦六二糎、横七七糎の大きさであるが、その底は三方に奥行三米ないし四米の深い横穴が掘られていて広いから、逆さに吊り下ろす場合に死体全体をあお向けに芋穴の底に横たえることは容易であるし、そうでないとしても、身体が腰の部分で折れ、上半身があお向けの状態になることも考えられる。その状態はいずれとも判然しない。少なくとも死体は宙吊りの状態ではなかったと考えるのが相当である。なぜなら、死体を文字どおり宙吊りにするには相当な労力を要するのであるが、この場合死体を一時隠すのが目的であるとすれば、その必要は更にないからである。

 そうだとすれば、検察官がいうように、被害者の死体は殺害後、農道に掘った穴に埋め直すまでの間のおよそ五時間近く、あお向けの状態であったと認めて差支えない。結局、死斑の状態と被告人の自白との間には矛盾がないといわなければならない(弁護人は、最終弁論において死後硬直の点を云々するが、医学書によれば、死後の硬直は気温の状態に左右されることが多いが、通常、最高潮に達するのは、死後六時間ないし八時間であるとされていることにかんがみると、死後五時間近く経過した時点では、いまだ死体を芋穴から引き上げて農道に掘った穴に埋める作業をするのにさして支障はないと判断される。)。それゆえ、論旨は理由がない。

(三)  死体左側腹部、左右大腿部に存する擦過傷について。

 所論は、死体左側腹部、左右大腿部などには、極めて顕著に線状の擦過傷がみられる、すなわち五十嵐鑑定によると、「左側側腹部より左鼠径部にわたり上外側より下内側に向い走る線状擦過傷多数が集簇性に存在す。」、「右大腿の前外側面に於て、鼠径溝直下の幅約一三・七糎、上下径約一六・〇糎の範囲に上内側より下外側に向い互に平行に斜走する線状擦過傷多数が存在す。」、「左前大腿部に於て、鼠径溝直下で左右径約一〇・二糎、上下径約六・〇糎の範囲内に互に平行に縦走する細線状表皮剥脱多数が存在す。」、「下口唇左半部より顎部左半部にわたり平行にほぼ縦走する線状擦過傷四条存在す。」、「右前下腿部に於て、脛骨縁に沿い縦走する線状擦過傷若干が散在する。」、「左前下腿部に於て脛骨縁に沿い線状擦過傷若干が存在する。」と記載されており、このおびただしい線状擦過傷は裸の死体が死後地面を引きずられたために生じたものと考えられる、五十嵐鑑定人は当審(第五三回)において、「これはうつ向けの死体を引きずった時にごくつきやすい傷である。」、「ぎざぎざのある棒でこすったり何かしてこういうような傷はできません。」、「生活反応がはっきりしないということは先ほど申した死戦期の損傷かどうかは、はっきりしませんけれども、普通は死後損傷と見るのが普通でございます。」、「これだけの擦過傷というものは相手に抵抗力のある時にはなかなかでき得るものではございません。」と述べている、そして五・四員大野喜平作成の実況見分調書中にも、「服の長さは〇・五七米、袖の長さは〇・五〇米で地面を引きずった形跡が認められる。」と記載されており、死体が地面を引きずられたことを衣服に残った痕跡から判断している、死体は何らかの理由で引きずられたことは明らかである、ところが、被告人は、はっきりと死体を引きずったことを否定しているのである、すなわち、被告人は七・八検原調書中で、「善江(仮名)ちゃんを穴倉の所まで運んだり穴倉から埋めた所まで運んだ際は両手で首付近と足を抱える様にして運びました。引きずって行った様なことはありません。」と述べているのである、以上のとおり自白によっては死体に存在するおびただしい擦過傷の成因を説明することはできない、ここでもまた自白が客観的事実に合致しないことを明瞭に露呈している、もっとも、これらの擦過傷は死体を芋穴へ吊り下げる際又は引き上げる際に芋穴の壁に死体が触れて生じたのではないかと考えることができるかもしれない、少なくとも、原検察官がそのように考えたことは確かである、原検察官は当審(第一七回)において、「死体を引きずったという自白はありませんが、芋穴で死体を上げ下げしたときに腹のところに擦過傷ができるという風に思ったのです。」と証言しており、これに見合うように被告人の六・二五員青木調書中の「この時善江(仮名)さんは穴倉の壁にさわって上って来たと思います。」との供述があり、七・八検原調書中でも「善江(仮名)ちゃんの体は穴の壁に擦れながら引き上げられたわけです。」との供述がある。しかし、そもそも死体を芋穴に逆さ吊りしたという前提事実に疑問があるし、死体が芋穴に逆さ吊りされて、芋穴の壁に触れて吊り下ろされ、また引き上げられたとしても、果たして死体にみられるような整然とした擦過傷が生ずるかどうかは極めて疑わしく、殊に芋穴の壁は柔らかい土であるからこのようにはっきりした擦過傷が付くものとは考えられないし、あるいはコンクリート製の蓋にこすれたりすればもっと深く、生々しい傷跡が生ずるに違いないのであるから、原検察官の判断は単なる想像にしかすぎないというのである。 

 たしかに、所論指摘の各証拠によれば、死体に存在する多くの擦過傷、なかんずく死体左側腹部、左右大腿部に存在する擦過傷は死体が何らかの理由で引きずられたことによるものと考えられる。そして、被告人が員及び検調書中で死体を引きずったことはないといっていること(ただ芋穴に隠しておいた死体を引き上げるとき死体は穴の壁に擦れながら上がってきたといっている。)は所論指摘のとおりである。

 しかしながら、後述するように被害者が着ていたスカートが破れたのは被告人がいうように死体を芋穴から引き上げる際にその足部が穴の外へ出たとき身体を引き出そうとしてスカートをつかんだときに破れたものと認めて差支えなく、被告人が死体を芋穴に出し入れする際に死体が芋穴の側壁(前掲大野実況見分調書の添付写真を見ると、芋穴の口はコンクリ―トで縁どられて補強されておることが認められ、その上に二枚のコンクリートの蓋を乗せるように出来ている。)に触れて腹部や左右大腿部に本屍のような擦過傷ができる可能性はあると考えられる。のみならず、右の各線状擦過傷は被告人が被害者を殺害後農道へ埋没するまでの間の、いずれかの時点に、いずれかの場所で死体を引きずったために生じたものと推認することもできるのである。 要するに、被告人が捜査段階において、死体に存する多くの擦過傷やその成因について供述していないことを理由に、被告人の自白全体の信用性がないかのようにいう論旨は理由がない。

 (四) 後頭部の創傷について。

 所論は、死体の後頭部には大きな裂傷がある、これについて上田鑑定は、「もし解剖鑑定人の考える如く、後頭部損傷を来たしたのは被害者が窒息を来たす頃かその少し前に受けていると仮定すると後頭部損傷は皮膚に裂傷を来たす程の損傷を受けているのだから被害者は一時的にしろ意識不明状態になっていると考えねばならない。」、「この場合には後頭部損傷よりかなりの出血があると考えるのが常道で、後頭部損傷の周囲皮下には凝血が多量に付着しておるべきはずである。」「うっ血がおこっても後頭部が体下方になっている限りにおいてかなりの外出血が考えられよう。」と述べている、しかし、被告人のどの供述調書をみても被害者が殺される前に既に意識不明の状態にあったという供述は見当たらないし、多量に見られる筈の出血についても何も触れていない、殊に、被告人が述べるような方法で死体を芋穴まで抱きかかえて運んだとすれば、被告人の右手、右の手首、右の袖口などに血痕が付着しそうなものであるが、血痕が付着したとの供述もなければ、それに見合う物証もない、四本杉や芋穴からも血痕は発見されていない、被告人の自白は客観的事実と相いれない虚偽の事実を述べたものだといわざるを得ない、なお、上田鑑定は「私は明確な判断を下すことはできないが創傷の皮下に凝血があり生前の傷であるという点にかなりの疑問をいだくものである。」と述べており、五十嵐鑑定が述べているように後頭部裂傷が果たして生前のものかどうかにも疑問があるというのである。

 いかにも、上田鑑定は死体の後頭部に存する裂傷について指摘のとおりの意見を述べており、被告人は員及び検調書中でこの裂傷や出血について触れた供述をしていないし、殺害の現場付近や芋穴の付近で血痕が発見された形跡は窺えない。  

 しかし、後頭部の裂傷の成因について、五十嵐鑑定は「後頭部の裂創は、その存在部位、損傷程度、特に創口周囲の皮膚面に著明な挫創を随伴せざる事よりみれば棒状鈍器等の使用による加害者の積極的攻撃の結果とは見做し難い(勿論断定的否定ではない)。むしろ、本人の後方転倒等の場合に鈍体(特に鈍状角稜を有するもの)との衝突等と見做し得る。」と述べており、上田鑑定も「五十嵐鑑定書に記載されている如く創口周囲の皮膚面に幅のせまい挫創を伴っておらないことにより棒状鈍器等の使用による加害者の積極的攻撃の結果とはみなし難く、本人の後方転倒等のため鈍体との衝突の可能性を考えるのがよいであろう。」といっていること、更に加えて「後頭部に比較的大きな石等を緩く衝突させても、その上部を被う毛髪がかなりあるため衝撃力が吸収され、上述のような傷となるかも知れない。」ともいい、出血が少ないとすれば「私は明確な判断を下すことはできないが創傷の皮下に凝血があり生前の傷であるという点にかなりの疑問をいだくものである。」とも述べてさほどの傷害とはみていないこと、また、五十嵐鑑定人が後頭部裂傷が意識不明の状態をきたす程のものであれば必ずその旨の記載をしたであろうのに鑑定書にその旨の記載がないことなどを考え合わせると、右の後頭部の裂傷は被害者がそのために意識不明になる程の傷害であるとは認め難い。

 また、本傷からの出血の多寡についても、上田鑑定は五十嵐鑑定の写真をみて判断をしているが、写真による判断にはおのずから限界があること、直接死体を解剖した五十嵐鑑定書の鑑定書に外出血についての記載がないことからみて、本傷による外出血があったとしてもさほど多量ではなかったと考えるのが相当である。

 なお、捜査当局において、本件の殺害現場、芋穴の中及びその間の経路等につき血液反応検査など精密な現場検証を行っていたならば、本傷による外出血の存否は明らかになったことであろう。しかるに、被告人の着衣や被害者の着衣に血痕が付着していたかどうかについてすら鑑定がなされていない。

 これを要するに、被告人が後頭部の傷害について供述していないのは、客観的事実と相いれない虚偽の自白であるとか、被害者の着衣及び被告人の着衣並びに犯行現場から血痕が発見されていないのは奇怪であるとかいう論旨は、失当である。

 (五) 胃内容物と殺害時刻について。

 所論は、死体の胃内容物の消化状態からみると被害者の死亡時刻は、五十嵐鑑定では食後最短三時間、上田鑑定では食後二時間であるといっている、ところで証拠上明らかにされている被害者の最後の食事は、当日午前一一時五〇分ころから午後零時五分ころまでの間に学校でとった食事であるから、これら両鑑定によると、被害者は五月一日午後一時五〇分ないし三時五分の間に殺害されたことになる、しかし、被害者善江(仮名)の級友中野敏子(仮名)の原審証言及び同佐藤とよ子(仮名)の五・二九検調書によると、当日の被害者の下校時刻は三時半ころとなり、そうだとすれば、死亡推定時刻に関する両鑑定はいずれも誤りと断ぜざるを得ない、鑑定人が胃内容物から死亡時刻を推定するには胃内容の消化状態を観察しみずからの経験に基づいて判断するのであるから、それぞれの鑑定人によって若干の差異が生ずることはもとより、鑑定人自身、その推定時刻にいくらかの幅をもたせていることも当然であり、証人鎌本芳子(仮名)及び若宮良江(仮名)の当審各供述に徴すれば、被害者の下校時刻は前記三時半よりも早く、授業終了直後の二時三五分ころではなかったかとも考えられ、そうだとすれば、五十嵐鑑定のいう「最短三時間」に多少の幅をもたせて考えれば、意外に早く被害者が殺害されたかもしれない、いずれにしても、原判決の認定(原判決は出会い時刻を午後三時五〇分ころとしているので、これからすれば被害者は午後四時ころから午後四時半ころまでの間に殺されたことになる。)と両鑑定のいう死亡推定時刻とが食い違っているというのである。

 (1) まず、被害者善江(仮名)の下校時刻についてみると、同女が放課後間もなく帰宅したという級友の証人鎌本芳子(仮名)、同若宮良江(仮名)の当審各供述は具体性を欠き正確とはいえないのに比して、級友の原審証人中野敏子(仮名)が、自分が乗る電車の時刻を根拠に被害者が自転車に乗って下校したのは午後三時二三分ころであるという方がより信用性がある。そして、被害者の死体とともに発見され押収された雑部金領収証書乙一枚(昭和四一年押第一八七号の一四)の存在と証人宇賀田俊江(仮名)の原審供述によれば、被害者は右領収書を受領するため下校後狭山郵便局に立ち寄ったことが認められる。また、学校、郵便局、出会い地点までの距離関係に徴すれば、原判示のように被害者が加佐志街道のエックス型十字路に差し掛かったのは午後三時五〇分ころと認めて差支えない。更に、右エックス型十字路と「四本杉」との距離や被告人のいう犯行の手順などからみると、殺害時刻は午後四時ころから四時半ころまでの間であると認めるのが相当である。他方、所論指摘のとおり、被害者は当日午前一一時五〇分ころから午後零時五分ころまでの間に学校で料理の実習をしてカレーライスを食べたことが明らかである。一般に胃内容物の消化状況から死亡時刻を推定するのは、文字通り推定であって、しかく厳密なものではないと考えられるところ、五十嵐鑑定によると、被害者の死亡時刻は食後最短三時間というのであるから、原判示から推認できる午後四時ないし四時半ころと何ら矛盾するところはない。これとは異なり上田鑑定によると、食後二時間程度であって三時間であり得ないというのであるから、明らかに右時刻と矛盾することになる。しかし、上田鑑定は五十嵐鑑定を資料とした再鑑定であることを考慮しなければならない。それゆえ、被害者が原判示から推認できる午後四時ないし四時半ころよりも早い時期に死亡しているという所論は採用できない。

 (2) また所論は、五十嵐鑑定によれば、被害者の胃内容物の中に、五月一日の昼食であるカレーライスの材料には含まれていないトマト片が検出されており、胃内容物がカレーライスであればカレーの黄色色調が残っている筈であるのに、五十嵐鑑定にその色調が検出されたとは記載されていないのは、被害者がカレーライスの昼食のほかに、これとは別の機会に別内容の食事をとった疑いを生じさせるものである、五十嵐鑑定によると被害者の死後の経過日数はほぼ二、三日と推定されているのであるから、被害者は五月一日でなく五月二日に殺害されたと考える余地があるともいうのである。

 たしかに、原審証人中野敏子(仮名)は、五月一日に学校で料理の実習があって、カレーライスを作って試食したといい、その材料として玉ねぎ・にんじん・肉・じゃがいも・福神漬を挙げていて、トマトを昼食に食べたとはいっていないけれども、五十嵐鑑定によれば、胃内容をみるとトマト片がカレーライスの材料の中に混在しているというのであるから、被害者は昼食時にトマトを食べたと考えて間違いない。それは、被害者自身又は学友のだれかがカレーライスの材料として玉ねぎ・にんじん・肉・じゃがいもなどを購入する際にトマトも買ってきてカレーライスの添えものとしたということも十分考えられる。ただ現在となっては、この点を確かめるすべがないだけのことである。

また、胃内容のカレーの色調についても、五十嵐鑑定に色調についての記載がないからといって、色調がなかったことにはならないから、このことを理由に黄色色調が既に消失していたと断言するのは相当でない。

そして、このように胃内容から昼食のカレーライスの材料が検出されているほか被害者が朝食にとつた赤飯の小豆が残っていることを考え合わせると、その後別の機会に食事をとったとすれば、別の内容物が発見されるはずであり、別の機会にトマトだけをとった可能性はほとんどないといってよい。

 一方、原審証人鈴本一之助(仮名)は、五月二日農作業(ごぼうまき)に出掛けたが、そのとき新川千吉(仮名)所有の農道に土を掘って犬か猫でも埋めたような痕跡があるのに気付いたというのであるから、死体は五月一日の夜のうちに農道に埋没されたことを疑う余地はない。

 してみれば、五月二日になって被害者が殺害されたかのようにいう所論も恨拠がないことになる。

 (3) 次に所論は、殺害時刻を午後四時二〇分ころとし、上田(仮名)家へ脅迫状を届けた時刻を午後七時三〇分ころとし、その間被告人が自白どおりの手順で事を運んだとしても、一時間ないし一時間半の空白時間が出てくる、もともと殺害後は後始末に寸刻を争うのが人情であるが、五月一日の午後四時とか五時といえばまだ白昼時で、芋穴のあたりは周囲から見通しのきく場所でもあるから、そこでのろのろと芋穴に死体を逆さ吊りにするなどという芸当はまず考えられない、しかも、午後四時二〇分以降は雨は本降りとなっている、一体被告人はこの空白時間を野外でどうしていたというのであろうか、この間の事情について説明がないこと自体、供述の真実性を否定することであるというのである。

 いかにも一件記録によれば、殺害時刻は午後四時二〇分ころ、上田(仮名)家へ脅迫状を届けた時刻は午後七時半ころとみて差支えない。そして、先にみたように被告人が「四本杉」を離れて上田(仮名)家へ向かった時刻は午後六時半ころとみるのが相当である。そうだとすれば、午後四時二〇分ころから六時半ころにかけての約二時間の間、被告人のいうところに従えば、被告人はあれこれと考えた末(三〇分間程檜の下であれこれ手順を考えたという供述は、犯人の心理からみてごく自然であり、取調官が空白時間を埋めるために誘導して獲得した供述であるとは考えられない。)、脅迫状を書き直したり、暗くなるのを待って荒縄探しに行ったり、死体を芋穴に運んだり、芋穴に死体を隠したりして犯行現場付近にいたことになる。

 思うに、被告人は文章を書くことに慣れていないのであるから、脅迫状の訂正作業にも相当の時間がかかったことが推認され、所論が「死斑について」の項で推定しているように五分や一〇分で脅迫状を訂正することができたとは到底考えられない。その他の手順についても、所論がいうように三〇分間(ただし、脅迫状の訂正時間を含めていう。なお、所論は「死斑について」の項では一時間とみている。)では到底なし遂げることはできまい。そればかりか被告人はその間の行動について必ずしも真相を詳述しているとは考えられないし、また犯人の心理状態からいって時間関係やことの手順についてしかく正確に記憶しているとも考えられない。

 してみれば、この点に関する所論は、憶測の域にとどまり、合理的な疑いがあるとまではいえない。それゆえ、論旨は理由がない。

 (六) 姦淫の態様について。

 所論は、上田鑑定を援用し、死体外陰部に存在する損傷は被告人が自白調書で述べているように、「さぐり」又は「まさぐる」程度のことでこのような傷が生ずるかどうか疑わしく、また被告人が述べるような方法で姦淫が可能かどうかも疑問である、殊に、被害者は後ろ手に手拭で縛られていたとすれば「右掌側前腕尺骨側縁中央部の指頭大皮下出血」(五十嵐鑑定)一個にとどまらず手にその他の傷を負うことは当然予想し得るところである、更に、処女膜の時計文字板位一〇時から二時までの間は裂隙状(裂けているという意味)でしかも創縁が蒼白で死後にできた損傷であると思われ生前のものでないことが確かであること、外陰部の損傷は生前、姦淫時にできたものと考えるのが妥当ではあろうが、その位置関係や死体がひきずられたなどの事情があるために、他の時にできたかもしれず、必ずしも姦淫時に生じたものとは断定できないこと、小陰唇の損傷だけでは暴力的性交の証拠とすることは比較的可能性が乏しいこと、すなわち処女膜の六時位に皮下出血を伴う小指爪面大挫傷(五十嵐鑑定にいうI )も爪痕とは考えにくく、大陰唇・小陰唇などの各損傷(五十嵐鑑定にいうH1H2H3G1G2G3)も必ずしも暴力的性交でなくとも性交に慣れない者による性交の場合にできる可能性があることなどを考え合わせると、被害者の陰部に残る痕跡は必ずしも暴力的性交によるものとはいい切れない、のみならず被害者が姦淫されたのは死亡直前であるかどうかは断定できないというのである。

 たしかに、上田鑑定は、外陰部に存する損傷について所論指摘のような意見を述べている。しかし、五十嵐鑑定及び証人五十嵐勝爾の当審(第五四回)供述によれば、同人も左右大陰唇外側面のG2G3については「典型的爪痕の形状を示さないが、加害者の指爪による損傷の疑いが強く存在す。」と述べているだけで、その成因についてしかく断定的な意見を述べているわけではない。そして、被告人のいうように、被害者の両手を後ろ手に縛って押し倒したうえ姦淫した場合でも、被害者の前腕部に皮下出血一個の傷害を負わせるにとどまることも決してあり得ないことではない。また、被害者が処女であったかどうかについても、五十嵐証人が当審公判廷で供述しているように現段階においてはこれを確認することはできない。更に、上田鑑定は新たに処女膜に生前のものと思われる裂隙状の損傷があると指摘しているが、その他の外陰部に存するH1H2H3IG1G2G3の表皮剥脱、擦過傷、皮下出血などの各損傷については両鑑定とも生前に(特に、上田鑑定もG1G2G3Iについては性交時のものではないかといっている。)生じたものとみている。なお、両鑑定とも膣内容から精虫多数が検出されたことを前提として結論を導いている。以上検討してきたところによれば、両鑑定の外陰部の損傷についての所見にはさほどの相違があるとは考えられない。要は、これらの外陰部以外の被害者の死体の状況(殊に損傷の存在、その成因など)について医学的にどうみるかということであり、言い換えれば死体の状況を総合的に判断して医学的に犯行の態様をどの程度推認することができるかということであり、その点で両鑑定の結論が分かれているとみてよい。つまり、五十嵐鑑定は「1.本屍の外陰部には生存中成傷の新鮮創を存すること。2.膣内容より形態完全なる精虫多数を検出し得たこと。3.本屍には生前の外傷を存すること。」のほか、犯行の態様には三つの型があって、普通一番多いと思われるのは抵抗を排除しつつ性行為を行うために扼殺に至る型であり、次は、あらかじめ殺しておいてから屍姦に類した行為をする場合、更に姦淫をした後改めて扼殺を行う場合であり、本件は第一の型であろうという同鑑定人の経験的知識に基づく推定を根拠として、「本屍の死亡直前に暴力的性交が遂行されたものと鑑定する。」と結論し、他方、上田鑑定は、H1H2H3G1G2G3は性交に慣れない者の性交時に生ずる可能性もあるから死亡直前に暴力的性交を受けたとは断定できないと結論するのである。

 しかしながら、前記のとおり被害者の外陰部に生前の損傷があり、膣内容から形態完全な多数の精虫が検出されたことのほか、死体には多数の生前の損傷があること、死因が扼頸による窒息死であること、被害者の死体がタオルで目隠しされ、かつ手拭で後ろ手に縛られまたズロースも下げられた状態で発見されたことなどを総合して考察すると、被害者は死亡の直前強いて姦淫されたものと推認するに十分である。

 この点につき、被告人は自ら員及び検調書中で、身分証明書そう入の手帳一冊を強取した際、にわかに劣情を催し、後ろ手に縛った手拭を解いて同女を松の木から外した後、再び右手拭で後ろ手に縛り直し、次いで数米離れた四本の杉の中の北端にある直径約四十糎の杉の立木の根元付近まで歩かせ、同所であお向けに転倒させて押さえ付け、ズロースを引き下げて同女の上に乗りかかり姦淫しようとしたところ、同女が救いを求めて大声を出したため、右手親指と人差し指の間で同女の喉頭部を押さえ付けたが、なおも大声で騒ぎ立てようとしたので、右手に一層力を込めて同女の喉頭部を強圧しながら姦淫を遂げた、姦淫を遂げた後に被害者が死亡したことに気付いた旨の供述をしているのである。

 してみれば、被告人の自白と死体の状況との間に矛盾するところはないと認められる。それゆえ、論旨は理由がない。

 (七) 被害者のスカートの破損と上着のボタンの脱落について。

 所論は、被害者のスカートが破れていることは明瞭な事実であるが、スカートはいつどうして破れたかは明らかでない、被告人は七・五検原調書中で、「スカートが破れているのは芋穴から引き上げる時、善江(仮名)ちゃんの足が穴から外へ出て体を引き出す時にスカートをつかんで引っ張った様な気がするのでその時と思います。」と述べているが、被告人はこれより先の七・三員青木調書中で「破けたという音は気がつかなかったが、もし破けたとすれば穴ぐらへ入れる時か出す時と思います。」と述べており、これをみると検察官は、被告人が員調書でスカートをつかんで死体を吊り下ろしたと供述しているが、それでは、死体が芋穴の底に墜落してしまうことになるので、被告人を不当に誘導して死体を芋穴から引き上げるときに破れたと供述を訂正させ、つじつまを合わせたもので、被告人が記憶を喚起して進んで真実を吐露したものではない、死体を芋穴から引き上げる際に破れたとすれば、吊り下ろす際と同様に死体は芋穴の中へ墜落してしまうに違いなく、また仮に死体が既に芋穴から半ば引き出されていて墜落しないような状態であっても、死体の全重量がかかるのでスカートは破れるどころかすっぽり外れてしまうのではないかと思われる、スカートが破れた原因についての被告人の供述は到底信用できない、また、被害者が着ていた上着のボタンが二個脱落していることは明らかな事実であるが、うち一個は発見されていないし、被告人は七・三員青木調書中で「(芋穴まで)抱いて運んだのですが、私はその時善江(仮名)ちゃんが着ていた服のボタンはかけてあったと思います。もしその時ボタンが外れておれば服がダラリと下がるはずですが、その時は下がっていなかったと思います。」と述べ、七・八検原調書中で「善江(仮名)ちゃんの身体は穴の壁に擦れながら引き上げられたわけです。善江(仮名)ちゃんの体が穴の外に半分位出たころ、制服の上着をつかんで引っ張った様に思います。上着のボタンがちぎれているかどうか知りませんが、ちぎれているとすればその時だと思います。それ以外の時にはちぎれる程上着を引っ張ったことはありません。」と述べているが、もし、死体を芋穴から引き出す際にボタンがちぎれたとすれば、芋穴の中か芋穴の付近でボタンが発見できたであろうの(ママ)に、だれもボタンを発見していないのである、自白からすれば当然発見されてしかるべきボタンが発見されなかったのは、ボタンは自白と異なり、別の場所で、被告人の知らないときに脱落したに違いない、いずれにしても、被告人の自供内容と客観的事実とは食い違っていて、自白には信用性がないというのである。

 しかしながら、前掲七・五検原調書の供述内容が検察官の不当な誘導によって得られたと窺うに足りる事情は見いだすことができない。被告人は、原審(第七回)においても「死体を穴の中から出すときスカートを持って引っ張ったのでそのとき破れたと思います。」と供述しており、七・五検原調書中で供述しているように「死体の足が穴から外へ出て体を引き出すときにスカートをつかんで引っ張った。」とすると、死体の重量がさほどスカートにかかる状況ではないと認められるから、死体が芋穴の中へ墜落したり、スカートがすっぽり外れてしまうことはないと考えられる。

 次に、死体の発掘状態について実況見分をしその調書を作成した証人大野喜平の原審供述によれば、死体発見時には被害者の上着のボタン三個のうち一個が脱落していただけで、他の一個は死体を上田(仮名)家へ運搬し、解剖するまでの間に脱落したものであることが認められる。たしかに、脱落した二個のボタンのうち一個は発見されず、被告人もそのボタンは死体を芋穴から引き上げるとき脱落したと思うと述べているだけで、いつどのような機会に脱落したかについて明確な供述をしているわけではない。しかし、本件犯行の態様に徴すれば、被告人が被害者を強姦し、殺害した後、死体を埋没するまでの間に右のボタン一個が脱落する可能性は十分あり、この間に被告人がボタン一個の脱落に気付かなかったとしても、少しも異とするに足りないことである。 これを要するに、所論は合理的な疑いというよりはむしろ憶測に過ぎないというほかはなく、自白と客観的事実との間にそごは見いだせない。それゆえ、論旨は理由がない。

 (八) 死体の逆さ吊りについて。

 所論は、原判決は判示第二の事実中で「死体の足首を細引紐で縛り、その一端を荒縄に連結して死体を芋穴に逆吊りにし、荒縄の端を芋穴近くの桑の木に結びつけたあげく、コンクリート製の蓋をして一旦死体を隠し……脅迫状を上田栄治(仮名)方にとどけた後、再び右芋穴のところに引き返し……農道に……穴を掘り、その中に芋穴から引き上げて運んだ善江(仮名)の死体を両手を後手に縛り、目隠しを施し、足首を縛り、荒縄をつけたままの姿で俯伏せにして入れ、土をかけ埋没し」た旨認定判示し、同認定に添う被告人の員及び検調書を証拠に挙げているが、死体や芋穴の状況には死体が逆さ吊りにされた痕跡は全くみられないし、被告人の員及び検調書中の自白は、取調官において死体が発掘された際の状態、すなわち、死体の足を縛ってあった木綿細引紐に長い荒縄が結び付けられて、うつ伏せの死体の背にたぐり寄せられてあったこと、たまたま芋穴の底にビニールの風呂敷と根棒が落ちていたこと、死体から鼻血と思われるものが出ていたこと、被害者善江(仮名)の着衣が当日の雨に打たれたにしてはそれ程濡れていなかつたこと、木綿細引紐の端についていたビニール片と芋穴の中から発見されたビニール風呂敷の欠損部分が一致したことなどを勝手に結び付けて、死体を芋穴に逆さ吊りにするという科学的な裏付けのない想定をして、これを被告人に押し付けて自白させたものである、このような想定が成り立ち得ないことは前述のように死体の状況と芋穴自体が物語っているとおりである、また、このように取調官が勝手な想定を被告人に押し付けたことは、被告人の供述内容に不合理、不自然なところが多いこと、重要な点で矛盾があるうえに客観的証拠と一致していないことが、これを示しているのである、被告人の自白は虚偽架空であるというのである。

 そこで順次考えてみると、

 (1) 所論は、上田鑑定を援用して、死斑の発現状況からみて死体を逆さ吊りにしたと思われる所見が全くないこと、もし逆さ吊りにしたとすれば、被害者の後頭部挫創の創口周囲から出血があり乾燥血として残るはずであるが、その所見がないこと、死体を逆さ吊りにした場合には足首部分に全体重がかかってくるので、被害者が靴下を履いていても、また、逆さ吊りの時間が二、三時間だけであっても、縊死の場合に生ずる索溝と同じ程度の索溝がつくはずであるが、被害者の足首にはその所見がないこと、前頸部の赤色条痕は死戦期又はそれ以後に残されたものとみられるが、その際に頸部を圧迫したと思われる力は体重が足首にかかるのに比べるとはるかに弱く五分の一から一〇分の一位の力であることなどを考え合わせると、足首には当然体重がかかった痕跡が残ってよいはずであるが、この部分には何の痕跡もない、そうだとすれば、死体が逆さ吊りにされたとは考えられない、そして、五十嵐鑑定人も当審において、顔面には軽度のチアノーゼはあったが黒い斑点がみられないので、死体が二、三時間逆さ吊りになっていたとは考えられないと証言をして、死体の状況からは逆さ吊りの事実は否定すべきであるといっている、この点に関する被告人の自白もまた虚偽であることが明らかであるというのである。

 まず、両鑑定のいう逆さ吊りは文字どおりの宙吊りの意味であり、足首で身体の全体が支えられた場合のことを想定したうえでの意見である。ところが、先に「(二)死斑について。」の項でみたように、被害者の死体背面の状況や荒縄の長さ、芋穴の深さなどから考察すると、被害者の死体は文字どおりの宙吊りではなく、死体はあお向けに芋穴の底に横たわっていたか、少なくとも上半身は芋穴の底につきあお向けの状態であったと推認することができる。また「(四)後頭部の創傷について。」の項でみたように、後頭部の裂創による外出血があったとしてもさほど多量であったとは考えられない。そして、足首の痕跡については、被害者がソックスを履いていたこと、足首に力が加わるのは死体を芋穴へ出し入れするときだけの短時間であること、しかも芋穴の口が狭いこともあって死体の出し入れの作業を静かにしなければならないこと(現に被告人自身そのように供述している。)などを考え合わせると、死体の足首に索溝などの痕跡が残らないことも十分納得できるのであって、格別異とするには足りない。

 (2) 所論は、仮に死体が五月一日の夕方雨の降る中で芋穴に逆さ吊りにされ、後で引き上げられたとすれば、芋穴の北側の壁や縁に何らかの痕跡、例えば荒縄のこすれた跡とか荒縄のくずが付着しているとか壁にこすれた跡とかが残っていてよいはずであり、芋穴の底にも荒縄のくずとか被害者の上衣から脱落したボタンが落ちているはずであり、特に、被害者の頭部の傷から流れ出た血痕が発見されてしかるべきであるのに、芋穴の所有者の新川千吉(仮名)、芋穴の中にビニール風呂敷があるのを最初に発見した員高橋乙彦らの各証言や、五・四員大野喜平作成の実況見分調書に徴しても、これらの痕跡が何一つ発見されなかった、かように芋穴自体の状況からみても死体が芋穴に逆さ吊りにされた事実は否定しなければならないというのである。

 たしかに、所論指摘の各証拠によれば、芋穴の中からは棒切れ(根棒といえるようなものではない。)とビニール風呂敷が発見されただけで、それ以外の物は発見されていない。しかし、証人新川千吉(仮名)、同高橋乙彦の原審及び当審各供述によれば、捜査官が棒切れやビニール風呂敷を芋穴から取り出し、又はこれらを原状に復して写真を撮影するために縄を使用して芋穴に出入りしていること、新川千吉(仮名)もまた芋穴に出入りしていることが認められ、しかも血液反応検査など精密な現場検証が行われなかったことからすると、果たして捜査官が芋穴の原状保存について慎重に配慮したかどうかは疑わしい。したがってまた、たとえ芋穴の側壁(芋穴の口がコンクリートで固められていたことは、先にみたとおりである。)などに犯行時の痕跡があってもこれに気付かなかったと思われる。なお、先に説明したとおり死体頭部の裂創による外出血があったとしてもさほど多量とは認められないし、また、五十嵐鑑定人の当審証言によれば、鼻血が出た形跡も認められないのであるから、芋穴の底に血痕があった公算は乏しい。

 してみれば、芋穴そのものに死体を隠したという痕跡があったかどうかは不明であるが、発見された死体に木綿細引紐や荒縄が付着していた状況、死体埋没地点と芋穴との位置関係その他の本項の冒頭に記載したとおり所論が列挙している具体的状況からみると、被害者の死体を一時芋穴に隠したという自白には十分裏付けがある。

 (3) 所論は、取調官らは捜査の結果判明した関連性のない事実を勝手に結び付けて芋穴に死体を吊り下げたという想定をし、これを被告人に押し付けて自白させたというのである。

 しかし、被告人は当審(第二六回)において、弁護人の「どういうことから死体を芋穴に吊るしたというようになったのか。」との質問に対して、「死体の足に縄が縛ってあつたらしいんですね。最初にそれを車で運んだろう。それでずつて傷になったんだろうといわれました。それから多分一人でやったといってからだと思いますが、その縄について答えられなくて、穴蔵に吊るしたといいました。そうしたら、穴蔵に吊るせば、死んでいても生きていても鼻血が出るわけだから、そんなことはないといわれました。これは何回もいわれたです。だけどほかに縄が入用なところはないので、ただ穴蔵に吊るしたと頑張りました。」と答え、また、弁護人の「見せられた縄はかなり長い縄だから、何に使ったのかといろいろきかれて、結局穴蔵に吊るすのに使ったと自分で考え出していったわけか。」との質問に対して、「そうです。子供のころ遊んでいて穴蔵があるということは知っていました。それから今思い出しましたがビニールが穴蔵に入れてあったと警察でいいました。それで穴蔵に下ろしたといったと思います。」と答えており、これをみると、被告人自身取調官から不当な誘導がなされたために、死体を芋穴に隠したと供述せざるを得なかったとは言っていないのである。そして、荒縄を用いて死体を芋穴に隠し、その一端を芋穴の近くの桑の木に結び付けたというような手順などは取調官において誘導のしようもない事柄であり、また、その下で死体を一たん芋穴に隠そうと考えたという檜が存在することなどは取調官において被告人が言い出さない限り知る由もない事柄である。そればかりでなく、被告人は原審(第一〇回)において、犯行の概要を述べている中で芋穴に死体を隠したと自供しているのである。その他、員青木一夫、同長谷部梅吉の当審各証言に徴しても、不当な誘導がなされたことを窺わせる状況は見いだせない。

 (4) 所論は、被告人は犯行現場の地理に詳しく、殊に「四本杉」には死体を隠すことのできるような穴が沢山あることを知っていたのであるから、もし被告人が犯人で死体を隠す必要があればその穴に隠すことを考えたに違いない、あえて人に発見される危険を冒してまでも死体を芋穴まで運ぶようなことはしなかったであろう、また、そこに荒縄や細引紐があるのにわざわざ弱いビニール風呂敷を使って足を縛ったというのは不自然である、被告人が死体を芋穴に隠したことを言い出せなかったのは「こんなことがわかるとその穴ぐらはもう使えなくなってしまうからです。」と供述しているが、凶悪な犯人が他人の芋穴のことまで心配することはないはずであり、これは全く奇怪な供述である、被告人は、なぜひこつくし様という特殊な方法で死体を縛ったかについて何の説明もしていないのは納得できないなどといい、被告人の自白調書の内容が不合理であるゆえんをるる主張する。

 いかにも、「四本杉」の中には死体を隠すことのできる場所がないわけではない。そして、被告人があらかじめ檜の下で、農道に穴を掘って死体を埋めることを考えたというのであれば、わざわざ縄を探しに行ったり、手数をかけて芋穴に死体を隠す必要はないといえないわけではない。しかし、犯人の心理として、一時的にしろ死体から離れる場合は人に発見されては大変だという心理がまず働くであろうから、死体を農道に埋めるにしても、それまで芋穴の中に隠しておこうと考えてもあながち不自然であるとまではいえず、また、恐怖心にかられて一見不合理な行動に走ったとしても不思議なことではない。そうだとすれば、縄を探しに行き、死体を芋穴に隠したという被告人の自白は別段不自然、不合理であるとはいえない。

 そして、死体を芋穴に隠したことを言い出せなかったのは芋穴が使えなくなるからであるという被告人の供述は、一見不自然であるといえなくもないが、よく考えてみると、無関係な芋穴の所有者にまで迷惑をかけることに対する自責の念から言い出せなかったという趣旨にもとることができ、それなりに理解できないわけではない。

 また、先に認定したように死体を芋穴の中へ宙吊りの状態で隠したものではないから、縄はそれほど強く張りつめていたとは考えられない。とすれば、桑の木に縄の一端を結びつけることも所論がいう程手間のかかる作業であるともいえない。

 なお、「ひこつくし」様の結び方もさほど特殊なものではなく、鳶職や農家の人達、又は荷造り作業をする人達が常用している結び方である。殊に、被告人は農奉公、土工、鳶職手伝いの経験があるのであるから、このような結び方を知っていたと推認することができる。

 してみれば、被告人の自白内容には客観的事実と矛盾し、又はそれ自体に不自然、不合理なところが多い旨の論旨は理由がなく、もとより、取調官の不当な誘導若しくは強要があるという論旨もまた採用の限りでない。

 (5) 所論は、死体を芋穴の中へ逆さ吊りにした際の荒縄の張り方、死体を芋穴へ下ろす動作、足首に細引紐を結び付けた手法、ビニール風呂敷と縄とを結んだ状況、荒縄と木綿細引紐との結び方、荒縄と木綿細引紐の使用方法に関する被告人の員及び検調書中の供述は、変転極まりなく、このことは、被告人が死体処理に伴うビニール風呂敷・荒縄・木綿細引紐について、その使用目的、使用方法などを全く知らなかったことを示すものであり、被告人が真犯人であるならば、このような調書間の記載内容の混乱はあり得ないことであるといい、被告人の自白には信用性がないというのである。

 しかして、被告人の捜査段階における供述調書には、所論が指摘するような混乱があることは否定することができないけれども、これを総合的に考察すれば、荒縄・木綿細引紐・ビニール風呂敷等の客観的証拠と整合していて、それなりに理解可能であって、被告人が死体を芋穴に隠したことを否定することはできない。

 以上の次第であるから、被告人の自白と死体の状況との間には重要な点において矛盾はなく、被告人の自白は要点要点において客観的証拠によって十分裏付けられており、原判示第一ないし第三の事実を認定する限りにおいて十分信用することができる。それゆえ、この点の論旨はすべて理由がない。

 その一三 木綿細引紐・荒縄・ビニール風呂敷について。

 所論は、原判決は、判示第二の事実中で「附近の家屋新築現場にあった荒縄・木綿細引紐(昭和三八年押第一一五号の六ないし九=当庁昭和四一年押第一八七号の六ないし九)を使用し、死体の足首を右細引紐で縛り、その一端を右荒縄に連結して同死体を右芋穴に逆吊りにし、荒縄の端を芋穴近くの桑の木に結び付けたあげく、コンクリート製の蓋をして一旦死体を隠し」た旨認定判示しているけれども、被害者の頸に巻き付けられてあつた木綿細引紐も足首に掛けられてあった木綿細引紐も、被害者の死体の上に置かれてあった荒縄も、これらが原判示の家屋新築現場にあったのかどうか疑わしく、被告人のこの点に関する員及び検調書は捜査官の誘導によって得られたもので、供述の内容も不合理、不自然なところがあるばかりか、客観的事実とも矛盾していて信用できないというのである。

 そこで考えてみるに、原判決の挙示する員大野喜平作成の実況見分調書によると、被害者の死体が発見されたとき、その頸部に木綿細引紐(前掲押第一八七号の六)がひこつくし様に巻き付けられ、足首には木綿細引紐(同押号の七)が掛けられ、荒縄(同押号の八・九)が死体の上に乱雑に置かれていたことが認められる。 しかも足首に掛けられた木綿細引紐の一端の固定した蛇口にビニ―ルの切れ端がくつ付いたまま出てきたこと、これと約二〇米の地点にある芋穴からよじれた形で発見されたビニール風呂敷の切断面とが符合するものであるところから、犯人がこれらの物で死体に対して何らかの作業をしたことが窺われる。これらの物証が客観的に示している状態と、被告人の自白その他の証拠とが合理的な疑いを容れる余地なく適合しているかどうかは、被告人の自白の真実性を検証する有力な尺度となることは所論が指摘するとおりである。ところで、首に巻かれていた木綿細引紐については、被告人は捜査段階及び原審の公判並びに当審における事実の取調べを通じ、終始知らないと答えている。荒縄と足首に掛けられていた木綿細引紐については、被告人は捜査段階において、中田ゑみ子(仮名)、椎野稔(仮名)方から持ってきた旨供述していて、そのうち荒縄については、中田ゑみ子(仮名)も椎野稔(仮名)方の建築に携わっていた余方正伸(仮名)もともにこれを肯定するところであるが、木綿細引紐については確たる記憶がないと述べ、原審の検証に立ち会った元田進(仮名)の「細引紐は玄関前に置かれていて梯子に巻き付けてあったということでした。」という伝聞供述が存在しないわけではないけれども、結局のところ、木綿細引紐の出所については確たる証拠はないといわざるを得ない。思うに、脅迫文にみられるように、幼児誘拐の機会を窺っている犯人としてみれば、幼児を適当な場所に縛り付けておき、その間にかねて用意した脅迫状を届けようと考えて、あらかじめ木綿細引紐を持ち歩いていたことも考えられないわけではない。殊に、脅迫状、足跡その他これまで述べてきた信憑性に富む客観的証拠によって、被告人と「本件」との結び付きが極めて濃厚となり、被告人が「本件」の犯行を自供するに至った後においても、木綿細引紐をあらかじめ持ち歩いていたというようなことは、そのこと自体明らかに被告人に不利益な情状であり、ひいてそれが死を確実にするためこの木綿細引紐で首を絞めた紛れもない事実にも結び付かざるを得ない以上、被告人としてその出所を明らかにしないのはそれなりの理由があるのである。当裁判所としては、この疑念を否定し去るわけにはいかないのであるが、そうかといってそうと断定する確かな証拠は存在しないし、また、被告人が偶然どこかに落ちていた物を拾って使ったと考えても、物の性質上格別不自然ともいえない。被告人の捜査段階における供述の内容には他にも不明な点があり、記録によって窺われるその供述態度を考え合わせると、木綿細引紐の出所が明確でないから被告人は「本件」の犯人ではないと一概にいうことはできない。

 次に所論は、本件の荒縄はその長さからみて中田(仮名)方及び椎野(仮名)方で紛失した荒縄と同じ物であるとは認め難い。すなわち、六・三〇員神田正雄作成の実況見分調書によると、同人が中田ゑみ子(仮名)、椎野稔(仮名)の指示によって荒縄が紛失する以前の状態に復元して荒縄の長さを計測した結果、中田(仮名)方の分は上下二段で合計一九・八七米、椎野(仮名)方の分は一一・三〇米の合計三一・一七米であるのに対し、本件荒縄の長さは複雑な結び目からくる計測上の誤差を見込んでも二四・五米ないし二五米で、その間六米前後の違いがあるというのである。

 そこで考えるに、当裁判所で計測してみると、押収にかかる荒縄の太くて長い方は二系統になっていて、その一本は約一三・〇五米、他の一本は約一〇・三五米で合計二三・四〇米であり、細くて短く結び目の間隔が短い方は約二・一二米で、総計は約二五・五〇米である。そして、大野喜平作成の前記実況見分調書ではこれが二五・七八米となっている。この縄は、太くて長い方は米俵の外し縄で、細くて短い方はもと板などを縛ってあったようにみえ、前者は一本二・七〇米前後のものをつなぎ合わせたもので、なるほど被告人はその点に触れた供述はしていないけれども、自らもつなぎ合わせたと供述しているところからすると、椎野(仮名)方から芋穴まで持ってくる途中なり、あるいはつなぎ合わせる間に、一、二本を落とすなり、若しくはつながなかったと考えてもそれほど不自然ではない。そして、田舎の田畑や農道にこのような縄切れが落ちていたとしても、人々の関心を引く事柄でもない。その見落としが本件の山狩りなり実況見分に際してあったとしても、それ程異とするには足りないと考えられる。

 なお、荒縄や木綿細引紐の使用方法については、既にその一二の(二)「死斑について。」の項で触れたとおり、符号八の太い方の荒縄の長さは前記のように合計約二三・四〇米であるからこれを四重にして、これと、木綿細引紐の一方を輪にして被害者の足首を通したものの他の端とを結び合わせて被害者の死体を芋穴に吊り下ろして、少なくとも頭の先から腰の辺まではその背部が穴底に着くようなかっこうで一時隠し置き、荒縄の他の端を桑の木に結び付けておいて引き上げに備えることは、芋穴の深さや桑の木までの距離等を考慮しても十分可能で、あえて宙吊りにしながら桑の木に結び付けるという困難な作業をする必要は更にない。

 次に、ビニール風呂敷について考えるため、証拠物(昭和四一年押第一八七号の六)を検すると、木綿細引紐の一端に固定した蛇口が作られ、その蛇口にビニール風呂敷を紐のようにねじつてその両端を蛇口に差し込み細引紐を抱くようにして米結びにしたうえ、右木綿細引紐とビニールの輪とを引っ張った結果切れた状態がすなわち証拠物の木綿細引紐にビニール片が付着している状態であると観察される(蛇口への差し込み状態につき、昭和四八年一二月の更新弁論における所論中、図123(三五冊八四八八丁)は一見して証拠物の状態と異なっており、図4が証拠物の状態と合致する。)。そしてこのような状態は、被告人が被害者の自転車前部のかごの中にあったビニール風呂敷を取り出し、被害者の死体を芋穴に隠す前に、これを縄のようによじつて被害者の足首を縛り、ビニールの端を木綿細引紐の蛇口に通して結び付け、被害者を芋穴に隠す際に吊り下ろしても切れないかどうかその強度を試したところ、切れてしまった、切れたビニール風呂敷はその後ジャンパーのポケットに入れておいたが、被害者を埋めた後これに気付いて、被害者を隠しておいた芋穴の中へ投げ込んだものであると供述する部分と一致するのである。

 この点に関する被告人の捜査段階における供述に微細な点で多くの食い違いがあることは所論が克明に指摘するところであるが、この点は先にも触れたことがあるとおり、被告人の知覚し、表象し、表現する能力が低いうえ、取調官があるがままにこれを受け止め正確に記述する能力に乏しく大雑把で無頓着な録取方法をとる場合や、これも先に一般論として触れたことであるが、殊に本件の被告人のように、意識的、無意識的に虚実を取り混ぜて供述する傾向が特に顕著であるような場合には、往々あり得ることであって、所論の指摘にもかかわらず、当裁判所としてはそれなりに理解可能である。例えば、「強くひっぱった」ら切れたとか「一寸引っぱったら」切れたとかいう文言は、どのようにして引っ張ったかの点が明らかでない限り不正確な表現たるを免れない。被害者の足首をビニール風呂敷で縛りこれを木綿細引紐の固定した蛇口に前記のとおり結び付けて、自分の片足、膝等を被害者の足首に掛けるなど固定させたうえで木綿細引紐を引っ張れば、力は効率よくかかるから、ちょっと引っ張った感じでも切れることは十分考えられよう。また、被告人の「善江(仮名)ちゃんを穴の中へ入れようと思った時切れた。」という供述も、芋穴の中へ入れる直前という意味よりは、それまでの経緯を説明したものと解され、試しに引っ張ったら切れたので、細引紐を被害者の足首に巻くことにしたということを簡略に説明したものと解される。矛盾するかにみえる各供述調書中七・七検原調書は、被害者の死体とともに発見された木綿細引紐やビニール風呂敷の切れ端を被告人に示して記憶を喚起したうえ供述を求めたものと認められ、その他の員調書は取調官が果たして証拠物等を検討したうえで調書をとったかどうかも疑わしく、取調官において死体の発見状況につきどの程度正確な知識をもって被告人の供述を求めたか、実況見分調書添付の写真を示したかさえ疑わしく、不正確な供述を積み重ねてなぞ作りに終始した感さえなきを得ない。

 そうかといって、所論が強調するところの、被告人はビニール風呂敷の出所も使途も全く知らなかったなどとは記録に徴して到底いうことはできないのである。

 なお、所論は、五・四員大野喜平作成の実況見分調書添付写真35・36号のように結び目近くで両枝とも切れることは力学的に稀有のことであるというが、既に観察したように、木綿細引紐の一端に固定した蛇口を作り、その蛇口にビニール風呂敷を紐のようにねじってその両端を蛇口に差し込み、細引紐を抱くようにして米結びにすれば、引っ張り力は比較的均等にかかると考えられる。そして、力の入り具合いはしかく単純なものとはいえないけれども、両枝がほぼ均等に切れる可能性が大きいばかりでなく、たとえ、最初に片方が切れ他方がちぎれかかったとすると、次の作業の邪魔になるので、被告人においてちぎれかかった他方の枝を手でちぎり捨ててからビニール風呂敷をポケットに入れたのかもしれないのである。

 叙上の説明で明らかなように、押収のビニール風呂敷は、被害者が所持していたのを被告人が奪取したのであり、その使用方法に関する供述も客観的証拠によって裏付けられていて十分信用することができる。すなわち、被告人がこの風呂敷を被害者の自転車前部のかごの中から取り出し、被害者の死体を芋穴に隠す際に、これを使って被害者の足首を縛ったうえ、両端を木綿細引紐の蛇口に通して結び、その強度を試すため引っ張ったときちぎれてしまったものであり、また、その後被告人はこれをジャンパーのポケットに入れていて、被害者の死体を農道に埋めて帰宅する際にポケットに入れていたことに気付いて芋穴に投棄したと認めることができる。それゆえ、この点の論旨はすべて理由がない。

 その一四 自転車、その荷掛紐及び教科書類について。

 関係証拠によれば、五月一日夜被害者善江(仮名)の身分証明書入りの脅迫状が上田栄治(仮名)方に届けられ、上田(仮名)方では善江(仮名)が学校からの帰途何者かによって誘拐されたのではないかと思い、警察に届けて助けを求めようとして父栄治(仮名)と兄寛治(仮名)とが一緒に小型貨物自動車で出掛けようとした際に、納屋の軒下に善江(仮名)が当日学校へ乗って行った婦人用自転車が置いてあるのを発見したこと、五月三日犯人逮捕に矢敗した捜査当局が被害者の通学路を含め主として付近一帯の山林を捜索し、手掛かりとなる遺留品、証拠物の発見に努めた結果、同日午後二時二五分ころ狭山市入間川井戸窪X番地の雑木林から被害者が使用していた自転車の荷掛紐を発見したこと、その後五月四日に死体が発見され、五月一一日にはスコップが発見された後、五月二五日になって同市入間川字中窪X番地の桑畑で作業中の宮田貞夫(仮名)が畑の側溝で被害者の教科書、ノート類一三点を発見して警察へ届け出たことは、疑いのない事実である。

 これらの自転車、その荷掛紐及び教料書類の発見経過から犯行の態様について推測できることは、犯人が五月一日上田栄治(仮名)方へ脅迫状を届けに行く際に、この自転車を利用したであろうこと、その途中で被害者の所持品の教科書類や荷掛紐を捨てたり隠したりしたこと、いまだ発見できないが、鞄も教科書類や荷掛紐を捨てたり隠したりした地点の付近に隠されているのではないかということであって、犯人の行動経路はもちろん不明であるが、犯人が上田(仮名)家へ自転車を屈けたのは、脅迫状を屈けに行く際単にそれを利用したばかりでなく、脅迫状在中の封筒に身分証明書を入れたのと同様、家人に被害者の身に危険が切迫していることを告知する意味があったと考えてよいであろう。また、犯人にしてみれば、自転車から足がつくことを恐れてこれを被害者宅に差し置くのが得策であると考えたこともあるであろう。

 しかるところ、被告人の自供によって、五月一日の犯行の手順や経路が明らかになり、これらの証拠物の処置の詳細も判明し、これらの証拠物は、他の証拠物と相まって被告人の自白の真実性を担保していることに相違はない。

 ところで所論は、自転車や教科書類から指紋が検出されなかったこと自体に疑惑がある、すなわち、捜査当局が故意に指紋をふき消したのではないかとか、指紋検出方法に誤りがあつたのではないかなどというのである(自転車、荷掛紐、教科書類の発見経過については他に特段の主張はない。)。

 自転車の指紋検出に関する報告書は提出されなかったが、当審において提出された教科書(五・三〇警察主事小沼達之助ほか三名作成の「指紋検出結果報告書」)、封筒、脅迫状、身分証明書(五・一三警察技師齊藤義見ほか二名作成の「指紋検出および対照結果について」)、万年筆(六・二六警察主事新井実作成の「指紋印象の有無検査結果について」)、腕時計(七・二警察技師小沼達之助作成の「指紋印象の有無検査結果について」)などについての指紋検査に関する各報告書(これらの証拠物については、いずれも被告人の指紋を検出することができなかった。)をみても、捜査当局の作為が介在する疑いは存しない。そして、捜査官らの当審証言によれば、自転車についても指紋検査が行われたが、指紋を検出することができなかったことが窺われる。捜査当局の指紋検査について、作為性が介在するかのごとくいう所論は何ら根拠のない憶測に過ぎない。

 その一五 出会い地点について。

 所論は、原判決は判示第一の事実中で、被告人が「通称『山の学校』附近まで行ったが、同所から引き返し、再び右荒神様の方へ歩いて来た際、同日午後三時五十分頃、同市入間川X番地先の右加佐志街道のエックス型十字路において、自転車に乗って通りかかった」被害者に出会った旨認定判示しているが、右認定事実に添う被告人の自白は取調官の不当な誘導による虚偽の自白であって、客観的事実にも反するというのである。

 そこで、論点ごとに順次検討する。

 (1) まず所論は、捜査官が植木職奥沢栄(仮名)から、五月一日被告人と北島敦(仮名)との二名が山学校付近にいたという清報を得て、この情報に基づいて被告人を不当に誘導し追及した結果、被告人の出会い地点に関する自白が形成されるに至ったものであるかのようにいうのである。

 いかにも、当審で取り調べた植木職奥沢栄(仮名)の五・二七員調書及び六・五検原調書によれば、奥沢(仮名)は五月一日午後二時ころ、当時建築中であった東中学校の東方の雑木林の中で、被告人と北島敦(仮名)と思われる二人連れの姿を見掛けたと供述している。しかし、同じく当審で取り調べた奥沢栄(仮名)の六・三〇検小川陽一調書、捜査主任検事であった証人原正の当審(第一七回)供述、証人青木一夫の当審(第七回)供述によれば、奥沢栄(仮名)は、東中学校の東方の雑木林の中で被告人と北島敦(仮名)と思われる二人連れの姿を見かけたという供述を、被告人と北島敦(仮名)であったかはっきりしないという供述に変えていること、他方、取調官らも当初はこの奥沢栄(仮名)情報をかなり重視していたが、その後その信用性について疑いをもつに至ったことが認められる。もっとも、証人北島敦(仮名)は当審(第一八回)において、被告人らと共犯にかかる窃盗(原判示第四の(一)の事実)等被疑事件で六月四日に逮捕され、その際「本件」の容疑でも取調べを受けたが、その後五月一日のアリバイ関係がはっきりした旨供述しており、これによれば捜査当局は六月四日の段階ではまだ奥沢栄(仮名)情報をかなり重視していたのではないかと思われる。しかしながら、捜査当局としては、遅くとも第二次逮捕の六月一七日ころにはもはや「本件」につき北島敦(仮名)には共犯の容疑がないとみていたものと思われる。

 そうだとすれば、被告人の当審(第二七・三〇回)供述中の「(奥沢(仮名)という植木屋さんが)おれと北島(仮名)が通称山学校付近に二人でいるところを見たと警察へ知らせたらしいです。多分面通しもされたと思います。」とか、「山学校付近に北島(仮名)とおれといたということで、山学校ということになっちゃったです。」という、所論に添うかにみえる供述は、そのままには信用できない。

 他方、被告人は当審(第二回)において、「長谷部さんだと思うが、北島(仮名)がやったというんだね、五月一日に善江(仮名)ちゃんをやったというんだね、だけど、俺は知らないから知らないと言ったわけですね。しかし、北島(仮名)がやったと言っているからね、お前が知らないと言っても、裁判へいってお前がやったことになるとね、だけどね、俺はね、やらないと言ったんだけどもね。」と供述して、北島(仮名)との共犯関係をはっきり否定しており、また、当審(第二六回)において、弁護人の質問に対して、被害者との出会い地点を山学校付近の十字路であると言い出したのは、取調官ではなく被告人自身であり、自分で考えてそのように供述したと述べているのである。加えて、被告人は、捜査段階でも六・二三員青木調書中で「私はこの朝家を出る時は、仕事に行くと言って出たのです、それで弁当を持って出たので余り早く帰るわけにもゆかず、庚神様の方へぶらぶら行きました。庚神様は五月一日が毎年御祭りです。この日も御祭りでおもちゃ屋などが出ていて人が五十人位出ていたようでした。私は庚神様を通り越してみんなが山学校と呼んでいる夏だけ使う学校がありますが、そっちの方へ向かって行きました。」と述べており、その後同趣旨の供述を維持しているのである。

 叙上の関係証拠に徴すれば、被告人が取調官の不当な誘導によってやむなく出会い地点の供述をするようになったとは考えられない。

 (2) 所論は、五月一日に被告人は荒神様(三柱神社)の所を通っていないと主張し、その理由として、当日は同神社の祭礼の日であり流行歌のレコードが大きくスピーカーで流されていた事実があるのに、被告人は検察官の取調べに際して「レコードがかかって流行歌等歌っていたのではないか。」と質問されても「それは聞きませんでした。」と述べており、このことは、被告人が当日の状況について無知であること、すなわち当日荒神様の所を通っていないことを示すものであって、荒神様の所を通った旨の自白は明らかに客観的事実に反するというのである。

 たしかに、当審で取り調べた野村清之丞(仮名)の六・二七員調書によれば、同神社で祭礼気分を盛り上げるため流行歌のレコードをスピーカーで流した事実はあったようであるが、被告人がそこを通った際にたまたまレコードがかかっていないこともあり得るし、レコードがかかっていても被告人が気にとめなかつたこともないとはいえない。それに、被告人は取調官に対し、入間川駅で下車して荒神様の方へ行った事情について詳細具体的に供述しており、確たる裏付けこそないが十分信用できる。少なくとも、被告人がスピーカーからレコードが流されていたのを聞かなかったと供述しているという一事によっては、当日被告人が同神社の所を通らなかったとはいえない。

 なお、被告人は当審(第二六回)において、「山学校の方で善江(仮名)ちゃんをつかまえたといったら、それではそれを証明するものがあるかといわれたので、子供のころ荒神様に綿菓子とかおもちゃ屋が出ていたから、その日は荒神様のお祭りだったので、おもちゃ屋が出ていて綿菓子が桜の木の下に出ていたということを地図に書いて示しました。お祭りがあったのかどうかも知らなかったです。荒神様のお祭りには何年も行ったことがないです。」と供述しているが、不自然であって信用できない。

 (3) 所論は、出会い地点が被害者の平素の通学路と異なったコースに当たることを理由として、被告人の自白には信憑性がないというのである。                            

 ところで、関係証拠によれば、被害者の川越高校入間川分校への通学路は通常自宅から権現橋、佐野屋脇、薬研坂を通り狭山精機前から入間川四丁目を通って学校に行く道順を往復することになっていたところ、被害者が当日下校後右の通学路を通らなかったことは確かであるが、実際にどういう経路を経て被告人と出会ったかは必ずしも明らかではない。

 ただ、被害者の死体とともに発見された雑部金領収証書乙一枚(昭和四一年押第一八七号の一四)の存在と被害者の家庭科と体育の先生であった証人宇賀田敏江(仮名)の原審(第六回)供述とによれば、被害者は下校後右領収書を受領するために狭山郵便局に立ち寄ったことが推認できるに過ぎない。しかし、被害者が当日何らかの事情で、例えば荒神様のお祭りの模様を見物しようとして平素の通学路と違う加佐志街道を通ることも十分考えられるところである。なお、所論は出会いの時刻に関する被告人の自白ははっきりしないというのであるが、被害者の学友であった証人中野敏子(仮名)の原審(第六回)供述によれば、被害者は同日午後三時二三分ころに下校していることは前述のとおりであり、このことと被害者は下校後学校の近くにある郵便局に立ち寄っているので、その所要時間を考慮し、かつ学校から原判示エックス型十字路までの距離関係(当審第一回及び第四回検証調書によれば、学校と右十字路との間の距離は約一四〇〇米である。)を考慮すると、被害者は自転車で午後三時四〇分ないし五〇分ころ右エックス型十字路に差し掛かつたものと推認される。

 そうだとすれば、被告人の自白する被害者との出会い地点が平素の通学路と異なるコースにあることや、その時刻に関する自白がはっきりしていないことを理由に、被告人の自白に信想性がないと主張するのは早計に失するものといわざるを得ない。

 (4) 所論は、被告人の六・二七員青木調書(第二回)添付図面(2)によれば、出会い地点の右脇の方に独立した形で樹木が書かれており、その下に「かきのき」と横書きされていること、及び原審の検証に際し立会人である検察官原正が「被告人が『被害者と出会った地点の付近に柿の木があった』と述べているが、その木は実は桑の木である。現在この桑の木は切られているが、当時はこのように立っていたものである。」と特に指示説明している点を指摘して、桑の木と柿の木を間違えることは都会の者ならともかく、養蚕の盛んな農村育ちの被告人には絶対あり得ないことであるから、被告人の出会い地点のエックス型十字路近くに柿の木があったという自白は客観的事実と全く相違しており、この点からも被告人の出会い地点に関する自白は信用性がないというのである。

 いかにも、被告人の六・二七員青木調書(第二回)添付の図面(2)(七冊二一一八丁)には、指摘のとおり「かきのき」が図示されており、原検事は原審の検証に際し指摘のとおりの指示説明をしている。しかし、右図面をみると、その「かきのき」は出会い地点よりかなり離れたところに描かれていて、それが出会い地点の特定に格別意味があるかどうか明らかではない。むしろ、右図面をみると、出会い地点の十字路の特定に意味があるのは「ちゃのき」、「くわばたけ」、「むぎばたけ」の図示であることが明らかである。そして、この「ちゃのき」、「くわばたけ」、「むぎばたけ」という右十字路の説明は、原審及び当審における各検証の結果によって認められる十字路の状況とよく合致しているのである。そうだとすると、原検察官の右の指示は誤解によるものとみるほかはなく、被告人の出会い地点に関する自白が客観的状況と相違するなどとはいえない。

(5) 所論は、被告人は六・二三員青木調書中で、被害者をエックス型十字路でつかまえた状況について、「後ろの方から自転車で女の子がやってきたので荷台のカバンを押さえた。」と述べていたところ、六・二七員青木調書中では「私はこの前、後から来た善江(仮名)さんの自転車の荷掛けを押さえたといったが、それは間違いで、私はその時山学校の方まで行って荒神様の方へひっくりかえって来たら善江(仮名)さんと擦れ違ったので荷台を押さえた。」と述べ、六・二九員青木調書中でも「山学校の前あたりまで行って引き返してきた。」と述べている、しかし、現に事実を経験した者が、後ろから走ってくる自転車を止めたのか、対向してくる自転車を止めたのかという点について記憶違いをするとは考えられない、この供述の変更は、捜査当局が、殺害現場への連行に都合良くするため(六・二三員青木調書第二回によると、出会い地点がエックス型十字路よりも遠くなるので都合が悪い。)と、後ろから走ってくる自転車の荷台を押さえて停止させることが極めて困難であることに気付き、被告人に供述を変更させたもの考えられる、しかも自白調書では「ひっくりかえった」というが、なぜ「ひっくりかえった」かについて合理的な説明もしていない、この点についての自白には迫真性が全く欠落している、のみならず、荷台を押さえて自転車を止めたといつても、どのような姿勢で引き止めたのか、両者の位置関係はどうであったか、止める前に周囲を見渡して警戒したのか、自転車のスピードはどれ位であったか、その時善江(仮名)の表情はどうであったかなどについては自白調書は全く触れていない、自白調書は読めば読むほど出会い場面を彷佛させるものではなく観念的であり、疑惑に包まれている、出会い場面の描写は、単に茫漠とした観念として、捜査当局が被告人に与えたものであって、被告人自身の経験を物語るものではない、出会い地点に関する被告人の自白には信憑性がないというのである。

 たしかに、被告人は六・二三員青木調書(第二回)中で「後ろの方、庚神様の方から紺色様の自転車の荷掛けに鞄をつけて、その自転車に乗ったちょっとみて女学生に見える黒っぽい上衣に同じ色のスカートをはき、白い短い靴下に黒い靴をはいた女の子が来ました。私は『用がある』と言って自転車の荷台の鞄を押さえて止めました。」と述べていたところ、六・二七員青木調書(第一回)中では「私は後ろから来た善江(仮名)ちゃんの自転車の荷掛けを押さえて『チョット停まれ』と言ったと話しましたが、それは間違えで、私はその時山学校の方まで行って庚神様の方へひっくりかえって来たら、善江(仮名)ちゃんとすれ違ったのです。そして私はすれ違ってからこの前話したように善江(仮名)さんの自転車の荷掛けを押さえたのですが、その時右手で押さえました。そして善江(仮名)ちゃんが自転車を降りたから『用があるから、こっちへ来い』と言って倉さんが首っこをして死んだ山の中へつれて行ったのです。」と述べて、供述内容を変更し、その後は同趣旨の供述を維持している。

 しかし、取調官の作為により、被告人をして無理にこのように供述を変更させたと疑うに足りる状況は、記録上見いだすことができない。これを素直にみれば、被告人が自ら供述内容を変えたものであって、後の供述を信用してよいものと考えられる。

 また、たしかに、被害者の自転車を取り押さえた際の相互の位置関係や被害者の表情などについて被告人は詳細な供述をしていない。しかし、他の部分は具体的であって不自然なところもなく、その供述内容が観念的、抽象的で迫真力がないなどということはできない。けだし、実務の経験に徴すればとっさの出来事で、しかも興奮状態にある犯人が、被害者の表情までも気にとめたり、記憶しているという方が、かえって不自然ではないかと考えられるところ、本件についてみると、当時の被告人は必ずしも表現能力に富むものとは認められないのであるから、経験事実をさほど詳細に供述したものとは思われないし、その供述を録取する取調官においても要点以外に子細を漏らさずに調書に記載したものとも考えられないのである。したがって、取調官がいかに誘導しても、犯人でない被告人から出会い場面を彷彿させるに足りる具体的な供述を得ることはできなかったという所論には、賛同することができない。         

 (6) 所論は、証人横川ハル(仮名)、同横畑権太郎(仮名)の当審各供述によると、同人らは五月一日の午後、出会い地点から「四本杉」に通ずる道路の付近で畑仕事をしており、特に横川ハル(仮名)は、まさにその道路にダイハツの自動車を止めて長男と一緒に桑畑の手入れをしていたというのであるから、もし被告人が自白どおりに被害者をつかまえて、「四本杉」へ連行したものとすれば、被告人はその人達や自動車を見かけたはずであり、そのことを供述したに相違ないと思われるのに、自白調書には逆に「近所に人がいなかった」(六・二七員青木調書第一回)、「その近所には誰もいなかった」(六・二九員青木調書)、「その場所の付近は畑や山で人通りもなく淋しい所で……」(七・一検原調書第一回)などと繰り返して供述している、このことは被告人がその日そこを通らなかったことの証左であり、この点でも被告人の自白は客観的事実に反し、信用性がないというのである。

 そこでまず、証人横川ハル(仮名)の当審(第二七回)及び当審第七回検証現場における各供述、同検証調書添付の見取図(一九冊三三〇五丁)によれば、横川ハル(仮名)が当日午後長男とともに桑畑の手入れをしていたという場所は、被告人が被害者を連行して通ったという道路の西側にある、道路に接した桑畑であり、同人らがダイハツの自動車を駐車させておいた場所もその道路東側であり、当時の桑の葉の繁り具合や、同人らが桑畑の草かき作業に従事していたことを考慮しても、右道路を通る者があれば、おそらくその通行人に気付くであろうし、通行人の方でも同人らの姿や駐車中の自動車の存在に気付くであろうと思われる。

 ところが証人横川ハル(仮名)は、同女が長男とともに当日桑畑へ赴いたのは午後一時前後ころで、草かきの仕事を始めて一時間位経過したと思われるころ、雨が降ってきたので間もなく帰宅した、時刻は正確にはわからないが、帰宅してからお茶を飲んだ記憶があり、すぐ夕飯ではなかったというのである。そして、当審で取り調べた五・一四航空自衛隊入間基地司令作成の「気象状況について(回答)」と題する書面によれば、同日の入間基地付近の天気は曇り後雨で、降雨が始まった時刻は一四時一一分て、本降りになったのは一六時三〇分からであったことが認められる。したがって、横川ハル(仮名)が長男とともに桑畑を引き揚げて帰宅したのは、降雨後間もない午後二時過ぎころであると認めるのが相当である。

 してみれば、前述のように、被害者と犯人との出会い時刻は午後三時四〇分ないし五〇分ころであるから、自白のような経緯や状況のもとに被告人が被害者を連行して、その道を通行したとしても、その時点では既に横川ハル(仮名)らは帰宅しており、その自動車も右道路付近にはなかったと認めざるを得ない。

 次に、証人横畑権太郎(仮名)の当審(第二七回)及び当審第七回検証現場における各供述、同検証調書添付の見取図によれば、当日午後、同人が息子夫婦とともに畑仕事をしていた場所は、被告人が被害者を連行して通ったという道路(前記横川ハル(仮名)のいう道路と同じ。)から東方へ約一一〇米離れたかぼちゃ畑であり、そのかぼちゃ畑から右道路の方を見ようと思えば望見できる位置関係にあったことが認められる。

 しかしながら、同証人らがかぼちゃ畑へ赴いたのは午後一時ころで、仕事中に雨が降ってきたがそのままビニ―ルの覆いの中からかぼちゃの芯を引き出す作業を続け、普通ならば約二時間位かかる仕事を急いでやり、時間はよくわからないが、その畑から約五〇〇米東方にあるほぼ同面積の畑へ移動し、午後五時ごろまで引き続き同じかぼちゃの手入れ作業に従事したというのである。したがって、同人らが最初の畑で作業したのは午後三時ころまでであったと認めて差支えない。

 してみれば、自白のような経緯や状況のもとに被告人が被害者を連行して右「四本杉」に通ずる道路を通ったとしても、その時は既に横畑権太郎(仮名)らは、横川ハル(仮名)らと同様に、最初の畑にいなかったのであるから、被告人が横畑権太郎(仮名)らの姿を見掛けなかったとしても何ら異とするに足りないのである。

 これを要するに、エックス型十字路から「四本杉」へ被害者を連行したという道筋に関する被告人の自白には客観的事実と矛盾するところはないから、論旨は失当である。

 (7) 所論は、被告人の自白によれば、被告人はいとも簡単に被害者を「四本杉」まで同道させることができたというのであるが、被告人と被害者とは面識がなかったこと、被告人は当時職人の手伝いをしており被害者とは社会的地位が異なっていること、しかも、出会い地点から「四本杉」まではかなりの距離があるうえ、そのころは雨模様であったとはいえ白昼であり、荒神様の祭礼に赴く人達や、畑仕事に出掛けたり帰る人達とも出会う可能性もあり、被害者が叫び声をあげて、同道を振り切ることも容易にできたはずであることなどを考え合わせると、被害者がなぜ被告人と同道したか理解できない、被害者はたとえ被告人に自転車の荷台を押さえられて下車させられ、「ちょっと来い、用があるんだ」などと言われても素直について行くはずはない、ここで、最も常識的に考えられることは犯人と被害者とは顔見知りではなかったかということである、被告人の自白がこのように客観的状況と食い違っていて不合理であるのは、被告人が取調官の誘導によって虚偽の自白を強いられたことの証左である、被告人の自白には信用性がないというのである。

 そこで、被告人は出会い地点から「四本杉」まで被害者を連行した状況について員及び検調書中でどのように供述しているかをみると、(一)六・二三員青木調書(第二回)中で「私は『用がある』と言って自転車の荷台の鞄を押さえて止めました。その時その娘は「何すんの」と言いましたので、私は『こっちへ来い』と言って倉さんが首っこをした山の方へ運れて行きました。その時女が先に立って自転車を転がして歩き私がその後からついて行きました。……山へ入るちょっと手前で私が自転車を持つよと言って受け取り私が転がして行きました。……私は山の入口の所で自転車のスタンドを立てて自転車を立てました。それから私は女の子の左手を自分の右手でつかんで山の中に連れて行きました。女の子は嫌とも、キャーとも何とも言いませんでした。 問、その時女の子を脅かしはしなかったか。答、脅かしません。黙ってついて来ました。私はその時善江(仮名)ちゃんということは知らなかったのですが、私は山田豚屋にいたので向こうでは私を知っていたかも知れません。」と述べ、(二)六・二五検原調書(第一回)中で「女学生が私の目の前を通り過ぎようとした時、自転車の荷台に鞄を縛り付けてありましたが、それを押さえて『用があるから降りろ』と言うと、女学生は自転車から降りたので、私は『用があるから来い』と言って山の方へ連れて行きました。女は『何すんの』と言うので、私は『用があるんだ』と言いましたが、特に脅かした様な事はありません。女は自転車を転がしながら山の方へついてくるので、約三、四百米歩いたころ、山の道になった所を自転車を私が押して山の中の道を歩きました。 ……女学生は嫌だと言っておりましたが、声を出したり暴れたりはしませんでした。」と述べ、(三)六・二七員青木調書(第一回)中で「善江(仮名)ちゃんは、おとなしくついて来ました。そして逃げようともしませんでした。 近所に人がいなかったからおっかなかったので、おとなしくついて来たと思います。」と述べ、(四)六・二九員青木調書中で「『いいからこっちへ来い』と言って善江(仮名)ちゃんの右に並ぶか、私が後になるか位に、私が右、善江(仮名)ちゃんが左に自転車をはさんで歩き出しました。……その時私は別に恐ろしい顔もしないし大きい声を出したのでもありません、善江(仮名)ちゃんは黙っていっしょに来ましたが、その時その辺りには人もいなかったし、おっかなくなっていっしょについて来たものと思います。それから私は山の中へ入る少し手前で『自転車を俺が持つよ』と言って私が自転車を持ちましたが、これは自転車を押さえておいて善江(仮名)ちゃんに逃げられないために持ったのです。……騒ぎも逃げようともしなかったが、その時私は『すぐ帰すから』と言いました。別に脅かすということはしません。」と述べ、(五)七・一検原調書(第一回)中で「善江(仮名)ちゃんを山の方に連れ込んだ時の模様は前に申したとおりで、特に脅かしたようなことはありません。しかし私は『こっちへ来い、すぐ帰すから』と低い声ではありましたが、すごみを利かせて、押しつける様な声で言ったし、その場所が付近は畑や山で人通りもなく淋しい所ですから善江(仮名)ちゃんにすれば、私が恐くて嫌だと言えずついて来たと思います。 私はこっちへ来いと言って、山の方に歩かせ善江(仮名)ちゃんが先に自転車を転がして歩き、私がその自転車の右側に並ぶようにし、くっついて歩きました。……善江(仮名)ちゃんは『何するの』と何回か言いましたが、私はその度に押さえつけるような声で『用があるんだ、すぐ帰すから来い』と言って、善江(仮名)ちゃんを歩かせ、更に『だれか来るといけないから急げ』と命じて歩くのを急がせました。善江(仮名)ちゃんは、私が恐かったので私の言うとおりになっていたのかも知れないが、暴れたり声を出したりはしませんでした。……山の方に行き、山に入ろうとするころ自転車を私が持って善江(仮名)ちゃんは私のすぐ前を歩かせました。……倉さんの首っこをした付近の山の所で『そこを右に入ってくれ、すぐ帰すから』と言うと善江(仮名)ちゃんは私が命じたとおり黙って山の中の細い道を右の方に入って歩きました。それから四本杉の付近まで来た時、そこで止まれと言って善江(仮名)ちゃんを止め、私が自転車をその山道に立てて善江(仮名)ちゃんの手首をつかんで、林の中に道から二、三米引っ張り込み、すぐ帰すから手を後ろに回せというと、黙って両手を後ろに回したので、松の木を背中に抱かせる様にして、私がポケットに持っていた手拭で善江(仮名)ちゃんの両手を後ろ手に縛りました。私は大きな声でどなりつけたり、殴ったりはしませんでしたが、押さえ付けるようなすごみのある声で、それまで命令したので、善江(仮名)ちゃんも恐くなって嫌だと言わないで、逃げなかったと思います。手を後ろに回せと言った時も黙って手を後ろに回し、縛った時も声を出すようなことはしませんでした。善江(仮名)ちゃんは泣きはしませんでしたが、黙ってむっとした顔をしておりました。」と述べている。

これらの被告人の員及び検調書をみると、所論がいうように被害者がしかく簡単に出会い地点のエックス型十字路から「四本杉」まで被告人について行ったものとは認め難い。被告人は、暴行や脅迫を加えたことを否定し、被害者は格別抵抗しなかったなどと供述しているが、真実を告白しているかどうかは極めて疑わしく、被告人の自白どおりであるとしても、被害者は予期もしなかった異常な事態に遭遇し、昼間ではあったが、近くに救いを求めるような人影はなく、また高校入学後間もないことでもあり新しい学用品等が入っている鞄を載せていた自転車の荷台を被告人に押さえられたため、逃げるに逃げられず畏怖心にかられて被告人のいうとおりに「四本杉」まで連行されたものであることは容易に推認することができる。たしかに、被害者の姉上田富美恵(仮名)、兄上田寛治(仮名)、学校の先生宇賀田敏江(仮名)の原審各証言によれば、被害者は、スポーツが好きで体格もよく、明朗な性格の持主で、学業成績も優れ、人物もしっかりしていて、見知らぬ人が道で誘ってもたやすくついて行くような女性ではなかったことが窺われる。しかし、いかに人物がしっかりしていても、まだ一六歳の高校生であってみれば、予期もしない異常な事態に遭遇し、ずるずると被告人の意に従い、取り返しのつかないはめになってしまったと考えることができる。

 してみれば、所論は、関係証拠を総合的に考察することなく、いたずらに推測をめぐらしているだけで、採用の限りでない。

 それゆえ、出合い地点に関する論旨は理由がない。

 その一六 玉石・棒切れ・ビニール片・丸京青果の荷札・残土・財布・三つ折財布・筆入れについて。

 (1) 玉石について。                             

 所論は、五・四員大野喜平作成の実況見分調書をみると、死体とともに「死体の右側頭部に接して人頭大の玉石一個を発見し」と記載されているが、被告人はこの玉石に触れた供述をしていない、そして、死体発見現場の土質からみてもそのような玉石が自然にそこに存在したとは考えられないので、おそらく犯人が被害者の死体を埋没する際に他所から持って来たものと考えられる、また、地中にあったとしても犯人ならば必ず玉石があったことを記憶していてこれについて説明するはずである、玉石について全く供述していないのは、被告人が死体を遺棄した犯人でないからであって、死体遺棄に関する被告人の自白は信用することができないというのである。

そこで、当審に至って提出された玉石(昭和四一年押第二〇号の6)をみると、これは土木建築の基礎工事に使われる程度の何の変哲もないやや丸味のある児童の頭位の大きさで、重量約四・六五瓩のものであるが、土が付着している状態を観察してみても、また、所論指摘の関係証拠によってみても、この石塊が以前から土中にあったものか、それとも茶株の根元辺りにあったものが、死体を埋めるために農道を掘り起こして埋めもどす際転がり込んだものか、何とも判然しない。

 しかし、被告人が死体を埋没するため現場で土を掘ったのは、暗闇の中のことであり、懸命に急いで作業をしたと推認されるから、作業に夢中のあまり、石塊の存在に気付かなかったか、気付いても記憶に残らないということもあり得るから、被告人が捜査段階でこの石塊のことに触れた供述をしていないからといって、被告人が犯人でないとはいえない。右の石塊が周辺地域の墓制からみて、墓石(拝み石)ではないかとの所論は、なにしろ埋没した場所は人が踏み付けて通る農道であるだけに到底賛同することができない。

 (2) 棒切れについて。

 所論は、芋穴の中からビニール風呂敷とともに棍棒が発見されているが、この棍棒は犯行に関連があるものと思われるのに、被告人は自白中でこの棍棒について何も語らない、もし、被告人が犯人であれば、前述の玉石と同様に、この棍棒の出所や使途などについて説明できるはずである、ところで被告人は当審(第二七・二八回)で、取調官に棍棒の実物を見せられて「死体を二人がかりでこの棒で担いできたのではないか。」ときかれたが、知らないと答えたと述べており、これによれば、取調官は棍棒が事件に関係がないと判断して強いて調書に記載しなかったのではなかろうか、犯行現場に客観的に実在したことの明白な物証であっても、捜査官の関心をひかず、又は見落としたことや想定することができないことは、被告人の自白には一切登場しないのである、このことは自白が捜査官の描く構想どおりに不当に誘導されたものであることを示している、更に、当審で取り調べた和歌森太郎及び上田正昭共同作成の鑑定書によれば、この棍棒は、周辺地区に伝承されている墓制からみて、埋め墓を守る目的で使用されるいわゆるハジキの習俗の変形ではないかと考えられ、犯人はこの墓制上の習俗を熟知していたことが推認でき、この習俗を知らない被告人は犯人ではなく、本件は被害者と面識のある複数犯人による謀殺事件の疑いがあるというのである。

 まず、当審で取り調べた棍棒(昭和四一年押第二〇号の5)をみると、棍棒といえるような太さや長さはないし、その両端は、所論がいうような刃物で切ったような切口ではなく、手で折ったような断面を呈し、折った際に裂けたような痕跡もあり、材質はもろくて折れやすく無花果ではないかと思われる。外観からみても、この棒切れが、和歌森・上田鑑定にいう「ハジキ」の代用にしたのではないかなどと考えること自体無理だといわざるを得ない。

 ところで、証人高橋乙彦は原審(第四回)において、山狩りに携わった消防団員や機動隊員らが、遺留品や証拠物を捜索するために藪などを払いのけたり、杖代わりに山の木を折って持ち歩いたと証言しており、また、証人長谷部梅吉は当審(第九回)において、「捜索隊の者が山を歩くのに杖代わりに持って歩き、そこへ投げ捨てたのではないかと思った、その棒が死体を運ぶだけの重量に堪えるものでないという記憶があるので、おそらく捜査員もその棒で運んだということは頭になかったのではないかと思います。」と供述しており、これによれば、死体発見前に山狩りの捜索隊員がこの棒を芋穴の中へ捨てたのではないかとも考えられる。

また、本件以前に、本件と何の関係もない何人かが右の棒切れを芋穴へ投げ込んだという推測も十分可能である。

 そうだとすれば、犯人がこれを何らかの目的で使用、ビニール風呂敷とともに芋穴の中に投げ捨てたとは、にわかに断定できず、したがって、被告人が犯人ではないからこの棒の出所や使用状況について説明ができなかったとみるのは相当でない。

 (3) ビニール片と「丸京青果」の荷札について。

 所論は、五・四員大野喜平作成の実況見分調書には「発掘し始めた穴を更に掘り下げるに古い茶の木の葉やビニールの汚れた紙片等が土に交って掘り出された」との記載があり、同調書添付の11号の写真には「○ちビニール布」との説明があるビニール布が写し出されている、このビニール布について被告人は自白調書中で何も供述していない、他方、五月七日付朝日新聞夕刊(東京三版)には「捜査本部は死体についてあった布きれについていた東京築地市場の丸郷青果(なお同紙五月六日夕刊、東京三版には『丸京青果』とある。)の荷札は、その後の調べでは地元の堀兼農協が農作物の出荷用に主として上赤坂地区の農家に配っているもので、農家は使わないで残った分は畑を区切った時の目印などにしたりするほか、農家以外にも多少流れていることがわかり、犯人が地元にいることの一つの裏付けがとれた。」との記事があり、この記事と前記のビニール布とが妙に結びつく、つまり右記事によると丸京(又は丸郷)青果は堀兼農協に対し出荷用としてビニール布と荷札を提供していた模様で、その出荷用ビニール布と荷札が死体とともに発見されたのではないかと推測される、しかし、この荷札もビニール布と同様領置されていないし、被告人の自白調書にも全く現れない、本件の捜査には疑惑があるというのである。

 しかしながら、死体発掘現場の実況見分調書を作成した員大野喜平は当審(第四四回)において、「(実況見分調書に記載してある茶の葉というのは、)その馬道のすぐそばは茶のさくになっていて、その根元のほうからかき込んだものの中に厚葉のものが多少古いものでも入ったというような感じでした。ビニール紙片は、私の感じで、農家の人が冬、苗なんかを作った時ビニールの、こう竹かなんかにかぶした、よく温室というか、暖かく栽培するそういうものの、破けたものが、ちぎれたものが風が吹いて茶のさくの方に引っ掛かっていたもののように思うんです。」と証言し、他方、本件捜査に携わった員将田政二は当審(第五〇回)において、「あの荷札は被害者の死体から縄をほどく時、頭の部分とか足の部分というのが、わかんなくなっちゃいますね、そのために死体の解剖をやった鑑識がほどく時につけたんだということだったと思います。」と証言しており、現に前示の実況見分調書添付の写真27・28・30・31号を見ると、死体から手拭を切り取った際その原状を示すために荷札が付けられており、各荷札の表に、「○京青果」と表示されていることが裏から透視できるのである。

 叙上の関係証拠に徴すれば、ビニール片は、農家でビニール栽培用に使用したものが風に飛ばされて、たまたま農道近くの茶垣の根元辺りに吹き寄せられていたか、又は偶然その辺にあつたものが掘り出した土と一緒に穴の中に埋められたのではないかと考えられ、また丸京青果の荷札は、警察官が証拠物件を整理するために付けたものと認められる。してみれば、所論が指摘する新聞記事は、記者の想像を交えた独自の判断を記事にしたものと考えられる。

 (4) 死体埋没穴の残土の処理について。

 所論は、八幡鑑定を援用して、農道を掘って穴の中に死体を入れ、その上に土をかけて死体を埋めると、多量の残土が出るはずであるのに、大野喜平作成の実況見分調書をみても、残土に触れた記載がないし、被告人も自白調書中で残土を処理したと供述していない、したがって、現場の状況からみて、犯人は残土をいずこかへ持ち去ったか、あるいは極めて丁寧な作業で相当広範囲にその付近に均一に散布したかのいずれかを想定するほかはない、被告人の自白にはこの点の説明がない、かように自白が客観的事実と相違することは、被告人が犯人でない証左であるというのである。

 五・四員大野喜平作成の実況見分調書には残土に関する記載がないが、同調書によって認められる死体を埋没した穴の大きさ、付近の土質などからみて、死体を入れて土を埋めもどした場合に、少なくとも死体の体積と同量ほどの残土が出るであろうことは推認するに難くない。しかし、その場合の残土が現実にどの位であるかは、その埋めもどし作業の方法いかんによって変りがあり一概には断定できない。現に、八幡鑑定にある埋めもどしの二つの実験例をみても、残土の量が極端に相違しているのである。すなわち、実験例のうち、あまり踏み固めをしない場合には、残土の量が二四七瓩(石油かん約一六杯分)であるのに、埋めもどしに際してかなり踏み固めをした場合には、残土の量が九二瓩(石油かん約六杯分)ということであり、踏み固めの程度によって残土の量が約三分の一に減少しているのである。しかも、同鑑定では「火山灰土では一般に作業を丁寧にやれば踏み固め後の土量と自然状態との比を1以下になしうるというのは土木施工上の常識であって、本実験でも後者の場合に踏み固めが全層に亘って穴の中央部並みに行われたならば、全土量が残土なしに穴の中にもどったはずだという計算結果が出た。」と述べており、これによれば踏み固めを十分行えば、残土はほとんど出ないことが推認できる。しかも、同鑑定によれば、踏み固めを十分行っても穴を掘り死体を埋没するに要する時間は、実験例での約三〇分ないし三五分の作業時間よりもさほど長時間を要しないことが推認できる。

 しかるところ、死体発掘地点近くの畑で農作業をしていた証人鈴本一之助(仮名)原審(第三回)において、「五月二日、三日、四日の連日、死体発見現場の農道を通った、そこの土が変わっていたので、これは犬か猫でも埋めたものかと思っていた。その土の所は平らになでてあった。穴の上には乗らないけど、何の穴だろうと思って足のかかとと、爪先でこいでみたところ、爪先がこの位引っ込んだ、引っ込まない所もあった。」と供述しており、また、五月四日消防団員として山狩りに参加した証人橋本喜一郎は、原審(第三回)において、「一米位地割れがしておりましたので、棒で二、三回つつきましたら、軟らかいために穴があいた。」と供述しており、これらの証言によると、残土については触れていないが、埋めもどした後は平らに地ならしされていたこと、降雨のために(航空自衛隊入間基地司令名義の「気象状況について」と題する書面によると、五月一日から二日にかけて三十数粍の降雨があつたことが認められる。)掘った部分が沈み込み、地割れしていたことが認められる。

 そして、この点についての被告人の供述をみると、七・六検河本調書中で「死体を埋めた穴を掘った土は、その脇の麦畑や茶の木の方に放ったのだが、穴に死体を入れてから、その土をかけて大体平らにした訳です。 だから麦畑辺りに掘った土の残りが、そのままあったかも知れません。」と供述しており、これによれば、被告人が埋めもどした後に穴の上を押さえて平らにしたことが窺われ、また、残土はさほど多量ではなく、それもあたりにまき散らしたままになっていたと認められる。

 加えて、一件記録に徴すれば、被告人はかつて土建業西田正雄 (仮名)方に雇われて土方仕事をした経験もあるうえ、人並み優れた体力と腕力の持主であることが認められるのであるから、スコップで農道の土を掘り起こし、近くの芋穴から死体を引き上げ、これを掘った穴の所に運んで穴に入れ、穴を埋めもどして踏み固めるという一連の作業を迅速、的確に行い得たであろうことも推測することができる。

 叙上の関係証拠に徴すれば、残土はさほど多量ではなく、その残土も被告人が麦畑などにまき散らしたままになっていて、降雨によってその痕跡がなくなったものと推認できる。そうだとすれば、大野喜平作成の実況見分調書中に残土に関する記載がないことも格別異とするに足りないことであり、被告人が埋めもどしの方法について詳細な供述をしていないからといって、残土処理に関する自白に疑いがあるとすることはできない。

 (5) 財布について。

 所論は、被害者が当時チャック付の財布を持っていたことは、上田栄治(仮名)(五・二員調書)や証人上田富美恵(仮名)の原審(第七回)供述等家族の供述によって疑いがない、しかし、この財布は発見されていない、犯人は被害者から腕時計や万年筆など金目のものを奪い取っているので財布も奪い取ったとみるのが自然である、ところが、被告人の身辺からこの財布は現れず、自白によってもチャック付財布は知らないというのである、もし被告人が犯人だとすれば、この財布に気付かないはずはないし、気付かなかったとしてもどこかから発見されるはずである、この点でも被告人を犯人とするのは明らかに客観的事実に合致しないというべきであるというのである。

上田栄治(仮名)及び上田富美恵(仮名)の各供述のほか、原審で取り調べた被害者の友人佐藤とよ子(仮名)及び新川良江(仮名)の各七・一検調書によれば、被害者は当日七〇〇円ないし八〇〇円在中の紺がかった水色のビニール製チャック付財布を所持していたものと推認できる。

 ところで、被告人は六・二七検原調書中で「私は、善江(仮名)ちゃんの物でチャックのついたがま口は知りません。」といい、七・一検原調書(第二回)中で「私は女学生の制服の上着の左右のポケットと胸のポケットを探しましたが、チャック付の財布というものはありませんし、盗んでおりません。私が盗った財布というのは前に言ったとおり(身分証明書入り三つ折財布)です。」と述べていること、及び捜索の結果によってもチャック付財布が発見されていないことは、所論指摘のとおりである。

 しかしながら、被告人は被害者の死体の首に巻き付けられていた木綿細引紐について否認しているのを始めとして、多くの点において必ずしも真相を告白していないことを考え合わせると、被害者からチャック付財布を奪取しながら情状面において不利になることを恐れて、財布が発見されていないこと、又は発見されるはずのないことをよいことに、この事実を否定しているのではないかとも考えられる。いずれにしても、この財布が発見されていないし、在中の金員についての使途関係も不明であるから、被告人が財布を奪取したことを確認することは困難である。なお、原判決も財布を奪取した事実は認定していないし、もともとこの点は起訴されてもいない。

 要するに、被告人が財布を奪取したことが確認できないからといって、被告人が犯人でないということはできない。

 (6) 三つ折財布について。

 所論は、被告人は、自白調書中で被害者の身分証明書が入っていた三つ折財布を奪取したと供述しているが、「(その中に)金が入っていたかどうか記憶していません。」とか「金が入っていたかどうか見ていないのでわかりません。」とか、更に「女学生が持っていた腕時計とポケットに入っていた三つ折位の財布を盗って自分のポケットに入れました。……その財布は後で善江(仮名)ちゃん方へ行く途中でどこかになくしてしまいました。」(六・二五検原調書第一回)とか、「善江(仮名)ちゃんから盗った財布は前に言った様にジャンパーのポケットに入れておいたところ、いつの間にかなくしてしまい、帰ってみたらポケットにありませんでした。」(七・二検原調書第一回)などといい、不自然であるばかりでなく矛盾した供述をしているのである、すなわち、自白によると、殺害後三〇分以上も檜の下でこれからの行動を考えたというのであるから、奪った財布の中味を点検するはずだし、その機会も十分あったはずである、にもかかわらず、財布の中味をちらりとも見ようとしない、その無関心さは自白の信憑性を疑わせるに十分である、また、財布をいつの間にかなくしてしまったというが、一緒にジャンパーの右ポケットに入れておいた腕時計が残ったのに、ポケットから腕時計よりも落ちにくい財布の方を紛失したというのはいかにも不自然な供述である、更に、仮に財布を紛失したとしても、その後大規模な捜索が行われたのであるから、必ず発見されてよいはずであって、このように三つ折財布が発見されないことは、何人かの手、つまり犯人の手によって現在も保管されているとみられる可能性があるというのである。

そこで考えるに、被告人は、捜査段階及び原審公判廷を通じて、身分証明書は三つ折財布の素通しになっているところに入っており、その三つ折財布は被害者を松の木に後ろ手に縛り付けた際に、被害者の上着のポケットから奪取したと供述している。もっとも、七・八検原調書中では「善江(仮名)ちゃんの財布は三つ折りの様に思いますが、……善江(仮名)ちゃんが持っていたという写真を入れるビニール製の手帳の様になった物だったかも知れません。私は盗った財布の様なものの上から写真を貼った紙がセルロイドの下に見える様になっていたので、それを開けて、内側から、その写真を取り出しました。」と供述している。

 ところが、証人上田富美恵(仮名)の原審(第七回)供述、佐藤とよ子(仮名)の七・一検調書及び鎌本芳子(仮名)の七・三員調書によれば、被害者は、身分証明書を中学校の卒業記念に贈られた手帳の表紙が素通しになっているところに入れていたことが推認され、そのほかに三つ折財布なるものを所持していなかったことが明らかである。したがって、被告人は身分証明書が入っていた手帳のことを三つ折財布といっているものと思われる。 

 ところで、被告人は所論が指摘するとおり、身分証明書が入っていた三つ折財布はジヤンパーの右ポケットに時計と一緒に入れていたところ、自宅へ帰る途中これをどこかで紛失したといっているが、当審で取り調べた一二・一八鵜川勝二作成の「カラー写真撮影報告書」の写真をみると、被告人が当時着ていたというジャンパーのポケットは深く、被告人がいうようにそのポケットから三つ折財布だけが落ちるとはまず考えられない。そして、被告人は、当審(第七回)公判廷に証人として出廷した員青木一夫に対し、「青木さんなんかが調べている間に、財布はどこへやったのかと言ったので、結局、俺は捨てたと言うとうまくないから風呂場で燃しちゃったと言ったんだね。そしたら、長谷部さんが、なんだ燃しちゃったのか、それじゃ、そんなものはしょうがない、そんなものはしょうがないからなかったことにしちゃおうかと言ったので、俺は結局どこかへ捨てたというと、どこへ捨てたと言われるので、ただ燃しちゃったと言えばわからないと思って灰になっちゃったと言ったら、それじゃ、しょうがないと言って、……」などと発問しているが(この発問に対して、青木証人は「そういうふうな供述があれば調書に書いてあると思う。捜査官としては燃しちゃったらしょうがない、なかったことにしようなどというはずはない」と答えている。)、この被告人の発問をみると、被告人は捜査段階の供述と相違して、奪取した三つ折財布を自宅で燃したと供述したことがあるというのである。なお、被告人は前段で述べたようにチャック付財布についてはこれを奪取したことを否認しているほか、先にみたように多くの点において必ずしも真相を告白しているとは考えられないのである。以上の諸点を考え合わせると、被告人の三つ折財布を紛失したという供述もにわかに信用することができず、被告人はこれを風呂場で燃すなどして罪証を隠滅した疑いさえあって、被告人はこの点について故意にいいかげんな供述をしているものと認めざるを得ない。

 要するに、その処分関係は不明であるが、被告人が身分証明書そう入の手帳一冊を被害者から強取したことには疑いの余地がない。

 (7) 筆入れについて。

 所論は、被害者の未発見所持品のうちに筆入れがある、被告人は、自白中で教科書類を埋める際に鞄を逆さにしたとき筆入れが落ちたので、その蓋をあけてみると中に万年筆が入っていたので、また蓋をしてジーパンの腰のポケットに入れて自宅へ持ち帰り、万年筆を取り出して筆入れを風呂場で燃してしまったといっている、しかし、価値のない、しかもポケットに入れて持ち歩くとガタガタ音がするような筆入れを、脅迫状を上田(仮名)家へ届けにいった往復の長い道程をわざわざ持ち歩いたという供述は極めて不自然である、筆入れに関する自白内容は不合理、不自然であって信用できないというのである。

 いかにも、筆入れに関する被告人の自白内容には不自然なところがある。ところで、先にみたように、万年筆は被告人が「四本杉」で脅迫状のあて名などを訂正するため、被害者の鞄の中を探って筆入れの中から取り出して使用したと認めざるを得ないのであるから、教科書を捨てる際に万年筆在中の筆入れを奪取したという供述は、奪取の時期と場所に関して意識的に虚偽を述べたと認めざるを得ない。そして、万年筆在中の筆入れをズボンの後ろポケットに入れたまま上田(仮名)家へ脅迫状を届けに行ったという供述部分も、こと筆入れに関しては疑いがないわけではないけれども、被害者の鞄の中に筆入れが入っていたところそれがなくなっていること、及び被告人が筆入れを自宅へ持ち帰って風呂場で燃したと供述していること、並びに万年筆が後に勝手場出入口の鴨居から被告人の自供に基づいて発見されたことをかれこれ総合すると、万年筆など在中の筆入れ一個を強取したのは、「四本杉」においてであると認めるのが相当である。

 しかるに原判決は、判示第一の事実中で「同女が自転車につけていた鞄の中にあった同女所有の万年筆一本など在中の筆入れ一個を強取した」旨認定判示し、その「鞄類の発見経過について」の項で「教科書類を埋没する機会に取り出した筆入れの中にあった万年筆一本……」と説示しているところからみると、万年筆在中の筆入れを強取したのは教科書類を埋没した際で、その場所であると認定したものと解せざるを得ないのであるから、原判決は、万年筆在中の筆入れを強取した時期と場所については事実を誤認したといわなければならない。しかし、被告人は既に被害者の腕時計や身分証明書そう入の手帳を強取して強盗の身分を取得していたのであるから、右認定の誤りは、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認に当たらない。

 

 総括として。

 以上、客観的証拠(証拠物、鑑定結果その他信用するに足りる第三者の証言等)を中心に据えて、これと被告人との結び付きを個別的に検討してきたのであるが、これを総合的に考察しても、被告人が犯人であることに疑いはない。すなわち、(1)上田(仮名)方に届けられた脅迫状(封筒のあて名部分を含む)は被告人の筆跡であること、(2)五月三日佐野屋付近の畑の中から採取された足跡三個は、被告人方から押収された地下足袋によって印象されたものと認められること、(3)被告人の血液型はB型(分泌型)で被害者の膣内に存した精液の血液型と一致すること、(4)被害者を目隠しするのに使われたタオル及び同女の両手を後ろ手に縛り付けるのに使われた手拭につき被告人は入手可能の地位にあったこと、(5)死体埋没に使われたスコップは山田明義(仮名)方豚小屋から五月一日の夜間に盗まれたものであるが、被告人はかつて同人方に雇われて働いていたことがあって、右小屋にスコップがあることを知っており、容易にこれを盗み得たであろうこと、(6)上田栄治(仮名)方の近所の水田幸三(仮名)が、脅迫状が上田(仮名)家へ届けられたころ、水田(仮名)方を訪れて上田栄治(仮名)方はどこかと尋ねた人物は、被告人に相違ないと証言していること、(7)五月三日午前零時過ぎころ佐野屋付近で犯人の音声を聞いた上田登美恵(仮名)及び増川宗雄(仮名)は、いずれも犯人の声が被告人の声とよく似ていると証言していることなどの状況は、被告人の自白を離れても認めることのできる事実であり、かつこれらの状況は相互に関連しその信憑力を補強し合うことによって、脅迫状の筆跡が被告人の筆跡であることを主軸として被告人が犯人であることを推認させるに十分であり、この推認を妨げる状況は全く見いだすことができない(このことは、先に述べた本事件の捜査の経緯に徴しても明らかなところである。)。しかも、被告人の自白に基づいて調査した結果、(8)六月二一日には、被害者の所持品の鞄が発見され、(9)被告人が五月一日上田(仮名)家へ脅迫状を届けに行く途中鎌倉街道で追い越されたという自動三輪車は吉田榮(仮名)運転のものであつたこと、また、被告人が上田(仮名)方近くの路上に駐車しているのを見かけたという自動車は大田正太郎(仮名)の車両であることが判明し、(10)六月二六日には、被告人のいうとおり、自宅勝手場出入口の鴨居の上から被害者の所持品である万年筆が発見され、(11)七月二日には、被告人が捨てたという場所の近くから、被害者の所持品である腕時計が小中杉五郎(仮名)によって発見され、警察へ届けられており、これらの状況を併せ考えると、被告人が犯人であることにはもはや疑いはないというべきである。  

 加えて、死体の状況や死体と前後して発見された証拠物によって推認できない犯行の細部の態様について、被告人は詳細に供述しており、かつ、自白と物的証拠との間に合理的疑いをもたらす程の矛盾は認められない。

 ここで被告人の自白と客観的状況とが合致する一例を補足すると、被告人は三人犯行を自白した初期の段階である六・二一員青木調書(第二回)中で、「私は上田(仮名)さんの庭の西側の端を通って家の西端から玄関の方へしゃがむようにこごんで行きガラス戸とガラス戸の合わせめの下の方から三尺位の高さのところへ手紙をさしこんできました。その時すきまからみたら家の中には小母さんのような人がいたようでした。」と供述しているところ、五・四員関口邦造作成の実況見分調書添付の写真(二冊五三一丁)及び原審検証調書添付の写真(2)・(3)を見ると、上田(仮名)方の玄関の二枚の引戸は腰板の上部が四段のガラス張りで、ガラス張りの下から二段目が素通しになっており、被告人のいうとおり、そこから内部の様子を窺うことができることがわかる。この点、被告人の供述内容は客観的状況と一致していて信用度が高く、たくまずして犯人でなければ知り得ない事実を露呈していると認められる。

 なお、原判決も説示しているところであるが、他に共犯者がいる疑いは全くなく、犯行の態様、殊に犯行が長時間にわたっており、その場所的関係も広範囲に及んでいるけれども、被告人の体力や腕力からみて、単独で犯行を遂行することは十分可能である。

 しかして、被告人の当審公判廷における供述は、詳細かつ具体的ではあるが、既に検討を加えてきた関係証拠に照らして、到底信用することができない。

 

 二 事実誤認の主張二について。

 (一) 所論は、被告人は、被害者を強姦するに際し、未必的にしろ殺意はなかったのであるから、原判決が「同女が救いを求めて大声を出したため、右手親指と人差し指の間で同女の喉頭部を押えつけたが、なおも大声で騒ぎたてようとしたので、遂に同女を死に致すかも知れないことを認識しつつあえて右手に一層力をこめて同女の喉頭部を強圧しながら強いて姦淫を遂げ、よって同女を窒息させて殺害したすえ」云々と認定し、被告人を強盗殺人・強盗強姦に問疑したのは、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認であるというに帰するので、この点を考えてみるに、被告人は当審になってから原審までの自白を翻して全面的に無実を主張するに至ったので、当審における長期間かつ詳細な事実の取調べにおいても、この点に触れて新たに付加された判断資料は存在せず、専ら被告人の原審公判及び捜査段階における各供述、並びに死体が発掘された当時の状態とか鑑定の結果等によって、原判決の認定の当否を判断するほかはない。ところが、被告人の原審における公判供述中この点に触れた部分は、「問、縛りつけて時計や財布を取った後に強姦したのか。答、はい。問、その際被害者を殺すようなことになったのか。答、はい。問、この間の事情は警察や検察庁で述べたとおりか。答、はい。」という程度にとどまり、その詳細は挙げてこれを捜査段階における被告人の供述に依存する形になっている。しかるところ、この点に関する被告人の捜査段階における供述はまちまちで補そくし難い内容のものであるから、原審としては、被告人がいわゆる冒頭認否以降、終始強盗殺人・強盗強姦等の事実を認めて争わなかったにしろ、この点を詳細に質問して犯行当時の具体的状況を明らかにしておく必要があったのであり、今となっては仕方のないことであるが遺憾なことである。

 それはそれとして、一件記録によれば、被告人が、原判決の冒頭及び(罪となるべき事実)第一に認定判示されたのとほぼ同様の経緯から、昭和三八年五月一日午後三時五〇分ころ、狭山市入間川X番地先の加佐志街道のエックス型十字路において、自転車に乗って通りかかった下校途上の埼玉県立川越高等学校入間川分校別科一年生上田善江(仮名)(当時一六歳)に出会うや、とっさに同女を山中に連れ込み人質にして、家人から身の代金名義のもとに金員を喝取しようと決意し、同女の乗っていた自転車の荷台を押さえて下車させたうえ、原判示の雑木林に連行したこと、原判示の経緯で同女を付近の松の立木に縛り付け、そのままにしておいて脅迫状を同女の父上田栄治(仮名)方に届けて同人から身の代金を喝取し、かつは善江(仮名)所持の金品などをも強奪しようと企図して、同女に対し「騒ぐと殺すぞ」と申し向けながら、立たせたまま付近の直径約一〇糎の松の立木を背負わせるようにして、所携の手拭(昭和四一年押第一八七号の一一は右手拭を三つに分断したもの)で同女をその立木に後ろ手に縛り付け、所携のタオル(同押号の一〇)で目隠しを施し、その反抗を抑圧したうえ、まず同女が身に着けていた同女所有の腕時計一個(同押号の六一)及び身分証明書(同押号の二)そう入の手帳一冊を強取した際、にわかに劣情を催し、後ろ手に縛った手拭を解いて同女を松の木から外した後、再び右手拭で後ろ手に縛り直したことは、被告人の自白中素直に理解することができる部分であり、殊に、一たん松の木を背負わせるようにして後ろ手に縛り付け、目隠しを施した後腕時計等を強取した際、にわかに劣情を催したので同女を強いて姦淫するべく手拭を解いて松の木から外した後再び右手拭で後ろ手に縛り直した経緯は、発掘された死体の状態そのものから推測することは困難で、どうしても被告人が供述しなければ捜査官において誘導のしようもない事実であると考えられる。次いで数米離れた四本の杉の中の北端にある直径四〇糎位の立木の根元付近まで歩かせ、同所で同女をあお向けに転倒させて押さえ付け、ズロースを引き下げて同女の上に乗りかかり姦淫しようとしたところ、同女が救いを求めて大声を出したという事実も、当然の成り行きであるとして首肯することができる。更に、声を立てさせまいとしてとっさに右手親指と人差し指との間で同女の喉頭部を押さえ付けたが、なおも大声で騒ぎ立てようとしたので、被告人としては更に一層の力をこめて喉頭部を強圧したという事実もまた首肯することができる。

 このように、被害者の両手を後ろ手に縛り上げ、目隠しを施して無抵抗の状態にしておきながら、同女をあお向けに転倒させて強いて姦淫しようとしたが大声で騒がれたので前記のように被害者の喉頭部を強圧し続け、姦淫を終わるころようやく手を緩めたところ、被害者はもはや動かなくなっていたという一連の行動は、特段の事情のない限り少なくとも未必の殺意を推認させるといってよい。この点に関する被告人の捜査段階での供述はまちまちで、供述調書の数からいうと、死んでしまうかもしれないとまでは思わなかったという方が多いけれども、検調書の一部には、死んでしまうかもしれないと思ったという供述もあって、供述だけではどちらとも決し難い。

 そこで、被告人の「本件」犯行に至る動機・経緯にさかのぼって考えると、事の起こりは、被告人は当時の生活態度などが原因で兄六助(仮名)と仲たがいするなど家庭内の折り合いが悪くなり、兄の鳶職手伝いにもとかく身が入らず、東京都内へ出て働こうと思っていた矢先、たまたま起こったいわゆる吉展ちゃん事件にヒントを得て、自分も幼児を誘拐してその親から身の代金を喝取しようと考えるに至ったのであるが、当時は吉展ちゃんの行方は分からず、生死の程も不明であって、被告人としても幼児を殺すことまでは考えていなかったとみるのが相当であること、被告人は捜査官に対して誘拐するのに適当な幼児が見付かっていたならば善江(仮名)さんを殺さずにすんだのにと述懐している部分があること、被告人の員及び検調書の多くは殺すつもりはなかったと繰り返し供述していること、善江(仮名)さんが死んでしまったのをみて大変なことになったと驚き、少し離れた檜の下で思案中にも、善江(仮名)さんが倒れている場所まで行って見たが、やはり死んでしまっていたと供述している箇所があること、このことと、鑑定の結果によっても、木綿細引紺で首が絞められたのは死後のことであって絞頸による窒息死ではないことなどを総合すると、一応は殺意を否定する特段の事情があると見ることもできないわけではない。言い換えると、死後の絞頸は、被告人が検察官の質問に対して極力否定しているにもかかわらず、被告人としては、脅迫状を届けて帰るまでの間に被害者が万一生き返るかもしれないことを慮って、死を確実にするためにやったと認めざるを得ないわけであるが(被告人がしらをきったのは死後とはいえ紐で首を絞めるのは悪い情状であるとみられるのを恐れてのことと認めざるを得ない。)、そのことがかえって姦淫時に喉頭部を強圧する際には殺意がなかったことの証左であるとも一応は考えられる。しかしながら、なおよく考究するに、当初、幼児を誘拐して身の代金を喝取するとすれば木綿細引紐でも使って幼児をしかるべき場所に縛り付けておき、その間に脅迫状を持参することもできないわけではないが(七・三検原調書で、被告人は、子供を山学校の便所に連れ込んで脅かしの手紙を子供の家に届けることを考えていたと述べている。)、被告人が描いていたと思われる江籐昭二(仮名)方の幼稚園児その他適当な幼児が見当たらず、誘拐の対象を急に原判示のエックス型十字4路で出会った上田善江(仮名)に転換し、原判示の経緯で同女を原判示の雑木林に連れ込んだものの、そこに被告人の誤算があつたと考えられる。言い換えると、善江(仮名)は当日一六歳の誕生日を迎えた少女であるから、原判示のように同女を立木に後ろ手に縛り付け、タオルで目隠しを施して反抗を抑圧したうえ身に着けていた腕時計や身分証明書などを強取するまでの運びはともかく、仮に「俺は近くで見張っているから、騒いだり声を出したりするな。」といって、付近で見張っているように見せかけ、目隠しをした(七・一検原調書第二回)ところで、上田栄治(仮名)方に脅迫状を届けて立ち帰るまでの間、同女がそのままおとなしくその場に残留しているとは到底考えられない。更にその際劣情を催し、原判示のように同女を強いて姦淫しようとして大声を出して騒がれたにもかかわらず、その抵抗を排して強いて同女を姦淫するべくその喉頭部を強圧するまでに立ち至り、既に被害者に顔を見られていることでもあるから、もはやそのままですますことはできない事態にまで発展した以上、死の結果の発生を認識し、かつ、認容しつつあえて同女の喉頭部を強圧し続けたものと認めないわけにはいかない。すなわち、少なくとも未必的な殺意を有していたといわざるを得ない。要するに、前掲の諸事情はいまだもって、原判決認定の未必の殺意を否定する特段の事情とまでは認められない。

 それゆえ、原判決には事実の誤認は存しないから、この点の論旨は理由がない。

 (二) 次に所論は、原判示第四の(四)の石橋一平(仮名)所有の作業衣一着を窃取したとの認定を争うのであるが、関係証拠によれば、被告人は石橋一平(仮名)から明示黙示の承諾もなく、被害者の意思に反して同人の管理する自動車の中に置いてあった同人所有の作業衣一着を勝手に着用して持ち去ったものであるから、犯行の当時不法領得の意思を有していたことを優に肯認することができる。そして、このような無断持ち去り行為は実質的違法性がないなどとはいえないから、窃盗罪を構成しないとする論旨も理由がない。

 なお、原判決の冒頭並びに罪となるべき事実第一ないし第三の事実中には、当審における事実の取調べの結果を参酌すると、細部において事実を誤認したと認められる部分が存することは先に指摘したとおりであるけれども、これら認定の誤りはいまだ判決に影響を及ぼすことが明らかであるとは認められない。

 

 第四 量刑に関する職権調査。

 原判決が判示冒頭の(被告人の経歴、本件第一乃至第三の各犯行に至る経緯)の項において認定した事実、なかんずく本件犯行に至る動機として認定した事実、すなわち「昭和三七年四月頃から同年六月までの間に、軽自動二輪車二台を代金合計一八万五〇〇〇円で、月賦で買い入れ、その修理費、ガソリン代の支払いを滞らせたり、月賦金を完済しない中に右軽自動二輪車を売却または入質したことによる後始末のため負債がかさんだため、右西田(仮名)方をやめた後の同年九月頃、父冨蔵から約一三万円を出して貰ってその内金の支払をした。そのようなことから被告人は家に居づらくなり、養豚業山田明義(仮名)に住み込みで雇われて働いたが長続きせずに約四ケ月でやめ、同三八年三月初頃自宅に戻ったのであるが、前記のごとく父に迷惑をかけたことや、被告人の生活態度などが原因で、兄六助(仮名)との間がうまく行かず、同人から家を出て行けといわれ、父冨蔵も被告人をかばって六助(仮名)と仲たがいするなどとかく家庭内に風波を生ずるに至ったので、被告人は、いっそのこと東京都へ出て働こうと思い立った。」と認定した点は、原判決挙示の証拠によってこれを認定できないわけではないけれども、右に続けて「それについては父に迷惑をかけた一三万円を返さなければならないと思っていた」からその金員調達のため、本件の犯行を思い立ったという原判決の認定は強きに過ぎると考える。当裁判所としては、むしろ、被告人は、その生活態度が原因で兄六助(仮名)と仲たがいするなど家庭内の折り合いが悪くなり、兄の鳶職の手伝いにもとかく身が入らず、東京都へ出て働こうと思っていた矢先、同年三月末ころ東京都内で起こったいわゆる吉展ちゃん事件の誘拐犯人が身の代金五〇万円を奪って逃げ失せたことを同年四月二〇日前後(同事件については発生後間もないころから報道されていたが、四月一九日に捜査当局が公開捜査に踏み切ってからは、大々的に新聞・テレビ・ラジオなどで報道されるに至ったことは、公知の事実であるといってよい。)のテレビ放送などで知り、自分も同様の手段で他家の幼児を誘拐して身の代金を喝取しようと考え、原判示の日時ころ自宅で原判示の脅迫状を書いて準備し、機会があれば右計画を実行しようと考えてズボンの後ろのポケットに入れて持ち歩いていたと考える。

 ところで、被告人が幼児誘拐を企図した当時はもとより、原判示の加佐志街道で上田善江(仮名)と出会い急に誘拐の対象を同女に転換した当初においても、いまだ同女を殺害し、その死体を埋めて犯跡を隠ぺいすることまで考えていたとは思われないところ、誘拐の対象をかねての幼児から急に女子高校生に変えたことに伴って勝手が違い、対応の仕方が難しくなったうえ、色欲のとりことなったため、ついに強盗殺人・強盗強姦の大罪にまで発展するに至ったこと、しかもなお思案の末、身の代金喝取の目的を遂げようとしたのは、まことに非道言語に絶する所為というべきことは原判決の指摘するとおりである。そして、記録並びに当審における事実の取調べの結果によれば、被告人は、小学校五年を修了しただけで、農家の子守奉公から始まり年少のころから社会の荒波にもまれて成人しただけに、読み書きこそ満足に出来なかったとはいえ、人並みの世間知は備えており、強じんな性格の持主であったことが窺われるのであり、それだけに是非善悪を弁識する能力にも欠けるところはなかったと認められる。したがって、犯行の重大さから死刑になるかもしれないことを十分意識しており、それなればこそ、最初は頑強に犯行を否認していたところ、再逮捕後の六月二〇日には事態やむなしと観念して員関源三に嘘の三人犯行を自供するに至ったのであるが、これも何とかして死刑だけは免がれたいと考えたからであるとみることができる。更に六月二三日に他の取調官に場を外してもらって関源三に単独犯行を、告白し、死刑にだけはなりたくないと述べたうえ、死体の発掘当時の状態について同人に聞くなど一見不思議な行動に出たのも、関に依存してなんとか死刑だけは免れたいと考え、暗に答え方につき同人に相談をもちかけたと解する余地がある。このように功利的な心情も加わって六月二〇日房内の自室に前掲の詫び文句を爪書きするに至った。これは純粋に悔悟の気持だけから発したものではなく、少しでも罪を軽くしてもらいたいという気持もあったことは被告人自身も認めているところであるけれども、反省悔悟し、被害者の冥福を祈るとともにその遺族に対して謝罪の気持を表したことに違いはないのである(死刑だけは免れたいとの願いがかなわず、控訴するや一転して無実を叫び、以来一〇年余の歳月を未決にしんぎんして今日に至っている。)。原判決も右に述べたような人格形成期における境遇を「被告人だけの責に帰することができない。」、「被告人にとって有利な情状ということができるものである。」とみている。ただ、これらの有利な情状を斟酌してもなおやむを得ないものがあるとして死刑に処したのである。しかし、死刑は、まさにあらゆる刑罰のうちで最も冷厳な刑罰であり、またまことにやむを得ざるに出ずる窮極の刑罰である。それだけに死刑を適用するには、特に慎重でなければならないと考える。当裁判所としては、本件の犯行には右に述べた偶然的な要素の重なりもあって、被告人にとって事が予期しない事態にまで発展してしまった節があると認められること、それまで前科前歴もないこと、その他一件記録に現れた被告人に有利な諸般の情状を考量すると、原判決が臨むに死刑をもってしたのは、刑の量定重きに過ぎて妥当でないと判断されるので、刑訴法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書を適用して当裁判所において更に次のとおり判決をする。

 原判決の確定した原判示第一の所為中強盗殺人の点は刑法二四〇条後段に、強盗強姦の点は同法二四一条前段に各該当し、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い強盗殺人罪の刑に従い、前記諸般の情状を勘案して所定刑中無期懲役刑を選択し、原判示第二の死体遺棄の所為は同法一九〇条に、同第三の恐喝未遂の所為は同法二五〇条、二四九条一項に、同第四の(一)ないし(四)の窃盗の所為はいずれも同法二三五条((一)ないし(三)についてはなお同法六〇条)に、同第五の森林窃盗の所為は昭和四九年法律第三九号による改正前の森林法一九七条、刑法六〇条に、同第六の傷害の所為は同法二〇四条、同法六条、一〇条により改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、同第七の(一)、(二)の各暴行の所為は刑法二〇八条((一)についてはなお同法六〇条)、同法六条、一〇条により改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号に、同第八の横領の所為は刑法二五二条一項に各該当するところ、右第五の森林窃盗、第六の傷害、第七の暴行の罪につき所定刑中各懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四六条二項本文を適用して原判示第一の罪の刑によって処断し、他の刑を科さないこととして、被告人を無期懲役に処し、押収にかかる身分証明書一通、万年筆一本及び腕時計一個(昭和四一年押第一八七号の二、四二及び六一)は、いずれも被告人が右強盗殺人の犯罪行為によって得た賍物で、被害者に還付すべき理由が明らかであるから、刑訴法三四七条一項によりこれを被害者上田善江(仮名)の相続人に還付し、原審及び当審における訴訟費用は、同法一八一条一項但書を適用してこれを被告人に負担させないこととする。

 よって、主文のとおり判決をする。

 

裁判長裁判官 寺尾正二        

裁判官 丸山喜左エ門  

裁判官 和田啓一         

 

 (文責:やっさん。私人は仮名にしました)