読み方 : さよのなかやま

所在地 :
 掛川市佐夜鹿


東海道三大難所(箱根峠・鈴鹿峠)のひとつに挙げられる小夜の中山峠は、東の青木坂と西の沓掛に急勾配があり、旅人を悩ませてきました。

古来より、「小夜(さよ)の中山」は「佐夜(さや)の中山」とも書き、二通りの言い方があり名称の由来も定かではありませんが、現在は小夜の中山と呼ぶのが一般的です。
また、「小夜」はさえぎるの意味の「塞」であり、「中山」は境を示す言葉であることから、「小夜の中山峠」は住民にとって災いをさえぎる「塞の神」を祀る峠であり、旅人にとっては旅の安全を祈る「手向けの神」のいる峠を意味するという説もあります。

西行法師が69歳で峠越えをしたとき、「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山」と詠んだ歌のように、古来「小夜の中山」の名は数多くの紀行や和歌に登場します。
中山峠は夜泣き石伝説でも有名で、江戸時代には僧欣誉作「小夜の中山霊鐘記」(1748年)や滝澤馬琴「石言遺響」(1805年)などにより広く世に紹介されました。それに関連し「子育て飴」が作られ茶店で売られるようになりましたが、久延寺の隣にある茶屋「扇屋」が、峠を通る客に出したのが始まりとされています。

小夜中山地図

@ 夜泣き石

A扇 屋


【 夜泣き石伝説U 】


H夜泣き石坂
(広重絵)
その昔、中山峠に頭は鳥・体は蛇という世にも恐ろしい怪鳥(蛇身鳥)が現れ、里の人や旅人を襲っていたため、都より帝の命令で三位良政(さんみよしまさ)が怪鳥退治にやってきました。苦闘の末見事に怪鳥を退治した良政は、意気揚々と引き上げようとした時に月小夜姫(清道禅尼)に出会い、やがて二人の間に小石姫が生まれました。

月日は流れ、年頃となった姫に父良政卿は、家臣橘主計助(たちばなかずえのすけ)との婚約を語ります。既に姫は思い人の子を宿しており無事男子を生みますが、身の不幸を安じ峠の松の袂で自害して果てます。姫の霊は自害した松に宿り、その悲しい結末から「夜泣き松」と呼ばれました。この松は皮を削って燃やした煙を子供に吸わせると丈夫に育つと云われ、この噂は直ぐに広まり松の皮は削られてやがて枯れてしまいます。そのため松のあった場所に丸石を置いて変わりとした後は、「夜泣き松」の名も「夜泣き石」と呼ばれるようになったと云われます。ちなみに、小石姫の遺児は中国伝来の製法により作られた飴で育てられ立派な若者に成長し、やがて僧侶となりました。

夜泣き石坂
(現在)


【 中山峠の史跡 】

B一里塚

江戸日本橋を起点にし一里(約4km)ごとに置かれ。慶長9年(1604年)小夜の中山の一里塚は作られました。

C鎧 塚

建武2年(1335年)北条時行の一族名越太郎邦時が、「中先代の乱」において足利一族の今川頼国と戦い壮絶な討死をしました。頼国は名越邦時の武勇を讃えてここに塚をつくり供養したと云います。

D馬頭観世音

蛇身鳥退治に京よりやってきた三位良政が、乗ってきた愛馬を葬った場所です。

E小石姫の墓

松の木の下で自害した小石姫を葬った場所です。

F涼み松

ここに大きな松の木があり、松尾芭蕉が「命なりわずかの笠の下涼み」と詠んだことにちなんで涼み松と呼ぶようになりました。

I二の曲り

旧坂口町を過ぎて東に向かう沓掛に至るこの急カーブを指しています。
西行歌碑