読み方:あのやかた

築城年:鎌倉時代

築城主:阿野全成

様 式:館城

遺 構:土塁・堀

所在地:
沼津市東井出
 アクセス

車 : 県道22号線(三島富士線)沿い大泉寺内
    

駐車場 大泉寺駐車場



治承4年(1180年)源頼朝が韮山で挙兵すると、弟の全成は兄頼朝のもとに参じ手助けをした功績により、駿河国阿野庄(現在の東原、今沢から富士市境一帯)を与えられ、阿野を姓として阿野全成を名乗り根拠地としました。
東井出に館を構え、その一隅に持仏堂を建て祖先の霊を弔ったのが、現在の大泉寺(曹洞宗)です。千福の普明寺の末寺で、本尊は聖観音で運慶の作と伝えられています。

正治元年(1199年)に頼朝が死後、建仁3年(1203年)5月に全成は阿野庄において兵を挙げますが幕府軍に捕らえられ、常陸国(茨城県)に配流となり6月23日下野国(栃木県)で処刑され、全成の首は阿野館へ届けられたと言われています。
大泉寺には、下野の国で処刑された全成の首が一夜のうちに阿野の地まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという伝説があります。現在その松はありませんが、境内の隅に首掛松の切り株の複製と碑が作られています。
承久元年(1219年)1月27日、三代将軍源実朝の死により征夷大将軍の座が空席となると、翌月その位を望み全成の子時元が挙兵します。しかし思うように兵を集めることができないうちに、執権北条義時の命を受けた金窪行親の手勢に襲撃され、あっけなく討ち取られてしまいます。

首掛け松跡

こうした一方、元久元年(1204年)7月18日2代将軍源頼家、承久元年(1219年)1月27日3代実朝が相次いで北条氏の謀略のために殺されると、源氏の血統が次々と粛清されていることを時元は憂いて、同年2月11日反北条の兵を挙げ対抗。時の執権北条義時は直ちに兵をさしむけ応戦した結果、時元軍は10日後に敗れ自刃したとも言われています。真実は未だ謎ですが、この時代に北条氏によって捏造された事件は他にもあることからも、私的にはこちらの説が有力ではないかと考えます。
その後は、大泉寺として現在に至りますが、明治時代には弘需館として学問の場としても使われていました。



弘 需 館
近代教育発祥の地、現、浮島小学校の前身「公立・弘需館(こうじゅかん)」
明治5年(1872年)、「学制」が発布され、わが国の近代教育が始まると、明治7年大泉寺を校舎とし、第2大学区、第14番中学区、第50番小学校「公立・弘需館」が開校され、明治22年に現在の地に移されるまでの17年間、この地に小学校がありました。





愛鷹山麓の丘陵末端に位置し、館の南と西には深い水田があるなど、自然を利用した要害な館城で、周囲には高さ3m程の土塁が築かれ防御されていました。今でもその一部をみることができますが、館跡は大泉寺の境内と保育園となっています。

遺構があることを期待せず訪れたので、土塁が残っているのを見た時は感激です。寺というより館城であることが実感できたことは大変よかったですね。



■ 阿野 全成(あの ぜんじょう 、 ぜんせい)

仁平3年(1153年)〜建仁3年6月23日(1203年8月1日)

幼名は今若丸といい、清和源氏の嫡流源義朝の七男、母は常盤御前。弟に乙若丸・牛若丸がおり、後にそれぞれ義圓・義経と名乗っています。
平治の乱で父義朝が平清盛と戦って敗れて殺されたため、幼くして醍醐寺に預けられ隆超(または隆起)と名乗り、後に出家して全成と改名します。全成は、その荒法師ぶりから「醍醐の悪禅師」と呼ばれました。

境 内
治承4年(1180年)源頼朝が韮山で挙兵すると、全成はひそかに寺を抜け出し、修行を装いながら頼朝のもとに参ずると、頼朝はその志に涙して感動したといいます。
その後、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚。保子は頼朝の次男千幡丸(後の実朝)の乳母となり、以降頼朝政権において地味ながら着実な地位を築いていきます。
正治元年(1199年)に頼朝が死去し、甥・頼家が将軍職を継ぐと、全成は妻の父北条時政・その子義時と結んで頼家一派と対立するようになります。建仁3年(1203年)5月19日、先手を打った頼家は武田信光を派遣して全成を逮捕。全成は5月25日に常陸国(茨城県)に配流され、6月23日、頼家の下知を受けた八田知家によって下野国(栃木県)で処刑されました。(享年51歳)

阿野親子墓
 
    土 塁 跡