羽州街道

 江戸時代の享保元年(1716)「五街道に関する触書」により東海道53次、中山道67次、日光道中23宿、奥州道中10宿(白河まで)、甲州道中45宿が正式名称となった。
 「羽州街道」は、奥州街道の福島県桑折から分かれ宮城、山形、秋田そして青森油川までをいうが、正式には「羽州街道」という名称はない。
 昔は地方の名称「小坂道」「山中七ヶ宿街道」「最上街道(道)出羽山形」「秋田街道(佐竹街道)」「下筋街道」「碇ヶ関街道」「外ガ浜街道」を使用していた。つまり「羽州街道」は地域性の強い諸街道の総称である。また奥州街道は白河からは脇海道となり青森三厩までの街道である。
    山形県内の「羽州街道
 羽州街道58宿のうち県内は14宿で、間の宿(金山宿・上山)1宿が設置されていた。参勤交代でこの街道を利用した大名は、陸奥国弘前、黒石藩、出羽国秋田、亀田、本庄、矢島、松山、新庄、庄内、長瀞、天童、山形、上山藩の13家であった。
 この街道は、諸大名の参勤交代だけでなく物資や文化を運ぶ動脈で、特に羽黒山、湯殿山、月山の出羽三山を参詣する白装束の行者 が大勢(年間2千人以上)行き来した。
    羽州街道(県内14宿)を南から北へ

楢下宿 上山宿 黒沢・松原宿 山形宿 天童宿 六田・宮崎宿 楯岡宿
本飯田・土生田宿 尾花沢宿 名木沢宿 舟形宿 新庄宿 金山宿 及位宿
 金山峠と金山宿(間の宿)
 陸奥と出羽国境の宿場「湯原宿」をでて羽州街道と米沢街道の分岐点には、追分の石碑が残っていて「右は最上海道」「左は米澤海道」と刻まれている。右に入り「間の宿・千蒲(ひかば)宿」を抜けると国境の金山峠に至る
追分の石碑。左の石碑だ。 石碑の左の面に「左は米さわ」と刻まれている 石碑の右の面に「右はもがみ」と刻まれている
左の石碑が「追分の石碑」 左面に左は米さわ 右面に右は、もがみ
 
         千蒲宿(間の宿) 宮城県七ヶ宿
千蒲(ひかば) の宿入口 宿の面影は家並みに微かに残っているようだ 
街道は左の砂利道へ  宿外れにはお地蔵様が並んでいる 
お地蔵様の並びに

馬頭観音様と供養塔が並ぶ
江戸時代の年号が刻まれている
街道を行き交う人々も手を合わせただろう 

        金山峠    
 峠(標高633m)には旅人の道中の安全を願って秋田藩主佐竹氏寄進の不動尊や、出羽三山参詣行者の宿泊所、茶屋もあった。
 生保2年(1645)楢下村は新道として「からめき道」をつくったが、悪路のため明暦2年(1656)土岐氏の時代に「小みね一廻り東方」に新道を付け替えし、以来本格的な参勤交代路となり、元禄11年(1698)秋田藩主佐竹氏が峠をさらに改修した。また別名猿鼻峠、楢下峠と言われた。
 明治に入り関山峠(東根)や笹谷峠(山形)が改修されたことと、鉄道路の奥羽本線が開通したしたことにより往来が次第に衰退していった。
   {参考 土岐氏・上山城主 寛永5年(1628)〜元禄5年(1692)

現在の金山峠 昔の街道が残っている 峠の鏡清水、今も水が沸き出でいる
:宮城側から見た現在の金山峠 宮城側にも昔の街道が残っている。 峠の茶屋跡か鏡清水
不動尊の石の祠 不動尊の近景 法印文秀の石碑
道路から見上げると不動尊の石の祠 昔は立派な建物が建っていたようだ 法印文秀と刻まれている石碑
道路を挟んで向側には義秀の石碑が
秋田藩佐竹氏が建立
峠下の茶屋の跡 一里塚 現在の旧街道
峠を下ると茶屋跡がある
立派な石垣が残っていて昔を偲ばせる
街道の傍に土を盛った一里塚
この近くには馬頭塔がある
杉木立の中の街道
         金山宿      
 宮城県側干蒲宿と同様に間の宿の役割で、冬季の積雪期間に峠を越すため楢下宿を出て、この宿に宿泊する大名や旅人が少なくなかったという。
 川口村の百姓が山仕事中にまよか沢で金塊を発見したと伝えられ、寛永初期(1624〜1644)に能見松平氏により金山が開発された。
 途中中断し貞亮元年(1684)に当村の庄屋清右衛門が再び採掘され、享保元年(1726)には銅山が開発された。
金山宿近くの地蔵様 金山宿近くの湯殿山碑と八日講供養塔 古い建物が残っている現在の金山宿
金山宿の近くの地藏尊 同じく湯殿山碑と八日講供養塔 古い建物がある現在の金山宿

 金山峠と金山集落に羽州街道の案内板が設置されている。

     上山市教育委員会の案内板より 羽州街道金山峠(下り口)

 この金山峠は、江戸時代には陸奥と出羽の国境であり西奥羽地方諸藩大名の参勤交代、出羽三山詣りや一般旅人の往来で賑わい、奥羽街道から羽州街道に途をとり、難所の小坂峠と山中七ヶ宿とおりを経て、いよいよおらが国に入る峠であり、山形盆地を一望に感慨ひとしおにして、開放感に浸る絶景の場所であった。
 峠の右側には、元禄4年(1691)に久保田藩(秋田)藩主佐竹公が寄進した不動尊堂があり、その向側には妙法寺や茶屋もあって、旅人は道中の安全を祈願し、陸奥国から出羽国へと向かったのである。
 ここから麓の間宿であった金山までは約 1.9kmで、大半は杉木立の中を通り、途中には一里塚や茶屋もあって、休息をとりながら快適な道中ができた。
 明治16年(1883)峠の右前前方に県道が開通したため、現在は旧街道の人通りはほとんどないが、この金山峠から楢下宿までの街道は江戸時代の面影を随所に遺しており、「羽州街道・楢下宿・金山越」の一部として、平成9年に国の史跡に指定されている。

     上山市教育委員会の案内板より
 羽州街道金山峠(上り口)

 金山峠の麓に位置するこの金山は江戸時代は楢下村の枝郷で、本宿である楢下宿と山中七ヶ宿通り湯原宿との間にある間宿(あいのしゅく)であった。
 明暦2年(1656)に金山峠の大改修を行った後は、西奥羽地方13藩の諸大名が江戸参府の際の街道となり、その家臣たちの休息や一般旅人が休泊する所となった。
 金山峠路は、この上り口から峠まで約 1.9km、幅員 3.6mの緩やかな山道であったが、峠下の俗に言う七曲りの坂道は少し急坂である。
 奥州街道に出る峠越え(関山、二口、板谷)としては最も標高が低く、峠路のほとんどが杉木立の中で夏も涼しく、他の峠越えより積雪も少なく雪崩れや吹きさらしに遭うこともなかった。
 峠路の途中には、一里塚や茶屋もあって休息をとりながら快適な道中ができた。
 久保田藩(秋田)藩主佐竹公寄進の不動尊を祀った堂宇があり、その向側には妙法院や立派な梵鐘もあって、旅人は道中の安全を祈願し出羽国から陸奥国の奥羽街道へと向かったのである。
 この金山から金山峠までの峠路は、江戸時代の面影を遺しており「羽州街道・楢下宿・金山越」の一部として、平成9年に国の史跡に指定されている。

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