黒沢宿・松原宿(合宿)

 花立峠を少し下ると黒沢峠にいたり、峠には茶屋2軒(坂上二軒茶屋)があった。黒沢村は村山平野の最南端の須川西岸にあるが、元和8年(1622)羽州街道が整備される際に須川東岸にあった黒沢の集落を街道沿いに移されたという。また横手道沿いにあった松原の集落も同様に移され二つの宿ができた。
        花立峠から黒沢峠へ     
黒沢峠にある神明神社 神社の前にあった茶屋の井戸の跡 茶屋の絵図
山形藩から峠道は黒沢峠と言われ、峠の高所に神明神社がある。
ここは蔵王や街の眺望がよく風光明媚の場所であったので、安永2年(1773)に神社が遷座した
神社の前には 坂上二軒茶屋(三八茶屋・八兵衛茶屋)の井戸の跡が残っている。
井戸の側に「峠の登り口の絵図」がある
黒沢峠の登り入口 石碑群 石碑
黒沢峠の登り口 絵図にもある石碑群。
出羽三山(湯殿山・羽黒山・月山)、雷神塔等の碑
天神皇大神宮、八幡大菩薩等と刻まれている石碑。
横山与左衛門夫婦が建立したものだ。
高橋由一の絵 早坂新道 現在の早坂新道
花立峠と黒沢峠は明治になり上山新丁から山形黒沢まで、新たな道路の開削により通行者はなくなった。(早坂新道・明治11年11月着工〜13年8月開通)
高橋由一の手彩色石版画。「上ノ山新道ノ内早坂ヨリ山形地方ヲ望ム図」より。図の左上の山の中が黒沢峠
高橋由一は明治17年9月に、開削記念の大きな石碑(早坂新道碑)のあるところで描いたと思われる。
なお記念碑は明治16年7月に建立されている。、
        
       黒沢宿・松原宿から片谷地・南館へ    
 「黒沢宿」は月の下旬10日間を、名主渡辺久右衛門が問屋役を勤めた。月の前20日間は「松原宿」が人馬継立を行い、大庄屋草刈市郎右衛門と庄屋岩瀬四郎右衛門が問屋を勤め、享保2年(1717)に岩瀬家から山本伝治大夫が問屋を譲り受け以後幕末まで続いた。
 黒沢の渡辺家は代々大庄屋を勤め大名貸しをすると共に、郷蔵を建て飢餓には近村まで救済している。また松原堰の拡充や新田開発に尽力した。
 松原宿を抜けると直線的に山形城下に至る。途中では「片谷地・円龍寺」宝徳3年(1451)開基の脇を通り、須川と坂巻川の合流点付近にある「常盤橋」(初代県令三島通康により5連アーチ型石橋が建造された)を渡り、吉原を抜け南館「善福寺」の脇から山形城下に入る。ここ南館を起点とする小滝街道が分かれている。

 
黒沢宿の問屋渡辺家の近く 渡辺家の黒塀 松原宿の番所跡
黒沢宿の問屋渡辺家が左に 今ものこる渡辺家と黒塀 松原宿の番所跡(石碑)
松原宿街道筋 片谷地 円龍寺
松原宿の街道筋 片谷地。最上氏の改易後長谷堂城主坂氏の家臣が帰農した集落 街道筋の大ケヤキは、円龍寺
石橋の常盤橋 現在の常盤橋
須川に架かる常盤橋は、明治13年3月から9月の工期で架けられた長さ32間、幅4間の5連アーチ形石橋であったが、その後の洪水により流出してしまった。
高橋由一の手彩色石版画。「吉原村新道ノ内酢川ニ架スル常盤橋ノ図」より
イザベラ・バードの「日本奥地紀行」に、この橋の工事中のことが書かれている。
高橋由一の図は上流から描いたもので、現在左岸には住宅が建てられていて同じ角度での写真は不可能である。
右岸からの見た現在の常盤橋。
洪水で流された常盤橋の記念石碑が、この近くの「蔵王常盤水天宮」の中に2基残されている
昔の常盤橋碑二基 南館善福寺前 西に向かう小滝街道
二基の常盤橋碑。最近右の石碑を再建した石碑がこの近くに建てられた。 南館の善福寺の通り。道路改良で拡幅されている 善福寺の先の丁字路を西に曲がると小滝街道にはいる。どこか昔の街道の雰囲気が感じられる
  

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