上山宿(城下町・湯の町)

 上山城は丘陵上にある平山城で、最上義光の支配下にあったが改易され元和8年(1622)松平重忠が4万石で入部。
 寛永3年(1626)蒲生忠知、寛永5年に土岐頼行が2.5万石で入部(後で1万石加増)して、城の整備に着手し小さな城であったが奥羽の名城と言われたが、その後幕府領(元禄5年 1692)となり、本丸・隅櫓・石垣等か゛解体され名城が消滅した。
 解体されてすぐに金森頼時、元禄10年(1697)に松平信通(藤井松平氏)が三万石で入部し城の普請もなく明治に至っている。

 城下にあっては「温泉のある宿場」として、参勤交代の大名、出羽三山参詣の行者等に加え近郊の人々が集まり、通りには問屋・本陣(原田)、脇本陣(亀屋)の宿屋、湯屋、定飛脚宿(長谷屋・現存)、茶屋、酒屋などが軒を連ねていた。
 宿の南の入口「矢来橋」手前に柵を設置し、橋向には枡形が設けられ、北の入口「四谷」にも枡形が設けられた。四谷から登りに入り「花立峠」に至る。
 この峠が城下北方の入口にあたり、上山藩と山形藩の境には寛文7年(1667)建立された「地蔵尊」があり境地蔵として旅人に親しまれた。藩境には関所が設置され出入りがとくに厳しく制限していたとのことで、飢饉などで移動してきた人が大勢ここの近くで行き倒れたと伝えられ、近くにはその人たちを葬った塚がある。そこでその人たちを弔うために地蔵尊が建立され、花がいつも供えてあったので花立峠と言われる。

 花立峠から高台を少々降ると山形藩の黒沢峠の茶屋に至る。
    
       上山城下入口
矢来の休み石 休石 矢来橋
矢来二丁目にある「休石」。旅人がこの石で一服休息をとっていただろう 休石と刻まれている
南の入口矢来橋。
この辺に柵が設けられた
                      
     温泉宿場街 
温泉宿場町 南
「東講商人鑑」より宿場の様子。左手が矢来橋。中央右下に本陣・問屋の原田家と右上に(緑色)現在も温泉宿としてある定飛脚宿長谷屋が載っている
温泉宿場町 北
右上観音寺の左手に、脇本陣の亀屋金兵衛家が載っている。ここには上山城は櫓程度の建物しか描かれていない
二日町 長谷屋 上山城
矢来の南枡形を抜け二日町に入る 長谷屋付近は温泉宿 十日町から現在の上山城を望む
色々な城を参考に建てられた現在の城だ
武家屋敷   上山城の西北部一帯は武家屋敷となりこの仲丁通りには藩の要職にあった家臣が居住していた。
 現存している家屋は、茅葺屋根鉤形の曲屋で玄関と通用口とを別にする武家中門造りの建築様式であり、17世紀中頃の建造と推定され、屋敷周りには土塀または土塁が築かれていた。
   上山市教育委員会
北枡形
武家屋敷が今も残っている 北の四谷枡形(南から北方を望む)
北枡形 古い民家 新丁から登り
北の四谷枡形(北から南方を望む) 街道沿いの古い民家(四谷) 新丁からは街道は西に入り、花立峠のへの登りが続く
 
      藩境の花立峠へ
六面地蔵 六面地蔵 花立峠の地蔵尊
峠を登る中ほどに、1620年代に造られた六面地蔵がある。旅人の安全を祈願しているようだ 六面地蔵の浮き彫り 花立峠にある地蔵尊
ここが上山藩と山形藩の境

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