妖夢は愕然としながら目の前に広がる光景へ見入っていた。
 白玉楼の石畳、無残に打ち砕かれた陶器の破片が散乱するその光景。
 辺り一面に立ち込めるぬかの匂い、未だ半熟成の大根は悲しそうにこちらを見つめ、食べ物は大切に、などというありふれた標語が己の犯した過ちを雄弁に語っていた。

 そもそもの原因は半刻ほど遡る。
 庭師、魂魄妖夢が今日も今日とて二百由旬に届こうかという白玉楼の庭にあり、粉骨砕身を賭して清掃に勤しんでいた時のことである。
 自らの愛すべき主人西行寺幽々子は、いつもの様にどこからとも無く現れて、例の如く読みきれない笑みを称えつつ、当たり前に理不尽な命を残して去っていった。

「ねえ、妖夢。私最近ぬか漬けを始めてみたの。幽霊でもぬか漬けって作れるものなのかなあと思ってね。でも、もう飽きたから後のことは妖夢に任せるわ。おいしくできたらご飯と一緒にだしてね。楽しみだわー」

 嵐の様な幽々子さまが通った跡地には、小さな両の手に大きな漬物壷を持った妖夢が一人ぽつねんと取り残されていた。

「……」

 未だ事の顛末を飲み込みきれぬ妖夢はひとつ溜息をつき、主従関係の機微について大いに悩んだ後、やたらと重い漬物壷をやたらと平坦な胸に抱つつ歩き出した。
 その時である。

 先に言って置くと妖夢は全く悪くない。
 彼女は連日身を磨り減らすようにして庭を掃除していたし、その甲斐も合って白玉楼は常に千客を万来すべく清潔だ。
 落ち葉など風流を感じるまでも無く片付けてしまうから、そこに至っては通常の汚れなど言わずともながである。
 強いて妖夢の過失を上げとするのならば、今日の彼女は少しばかり判断力に欠けていた。
 白玉楼、広々とした庭の石畳、朗々と響く風鳴りの中で、妖夢は自らの足元に、屋敷の年月を思わせる青ゴケが連日の清掃に負けず生えていたのにも気づかず歩を差し出してしまったのである。

 妖夢は音を立ててすっ転んだ。

 コマ送りの映写機さながらに天地が逆転してゆくなかで、自分と刀と漬物壷、三方いずれを守るべきか迷った妖夢はどれも取れずにあえなく地べたに叩き付けられた。
 体に痛みを感じた次に楼観剣と白楼剣が落ちてきて、最後にガリレイを嘲笑うかのように最も重い漬物壷が地面へと墜落した。それはもう盛大な音だった。見事な割れっぷりだった。このまま庭で寝てしまおうかとさえ思った。

「……」

 かくして妖夢は愕然としながらも目の前に広がる大惨事を認識し、ぬかの匂いで満たされた庭において漬物の材料である大根なぞと見つめあう事態に相成ったのである。

「妖夢ー。なんだかすごい音がしたけど大丈夫ー? 具体的には大切な大切な壷が割れたような――」
「あっ! いえっ! なんでもありませんよ幽々子さまっ。どうぞそのまま奥の部屋で羊羹など摘んでいてくださいっ! 私は身を粉とする覚悟で漬物を漬けていますのでっ」
「あらそう? 楽しみねー」

 そこまで会話した時点で、今回の過失を正直に告白するという選択肢が潰えたことに気づく妖夢はまたも呆然と自失するのである。
 やはり、今日の彼女はどこか判断力に欠けていた。

「……」

 不幸なことに、妖夢はぬか漬けを食べた経験があっても作った経験は無い。
 従ってぬか漬けの製造方法など知っている道理も無く、まさか地べたに落ちたぬか漬けを再利用するわけにも行かず、ただただ大根と見詰め合う妖夢は、それこそなけなしの商品をぶちまけてしまったマッチ売りの少女さながらである。

 妖夢は思案した。
 噂に聞く半人半獣に歴史を操作してもらうというのは彼女生来の勤勉が許さない。
 ならばどうだ。これはもう、再び自分でぬか漬けを作り上げ、朝食の傍らにその成果を置きながら幽々子さまの御前にそっと差し出すのが最良だと考える。

 よし、と彼女は一回の頷きを持って奮起。
 目指すは知の宝庫、風が噂する大図書館をその懐に持つ、湖を隔ててそびえた紅魔館である。
 そこには百年分の知恵を持った魔女が住むという。話通りならば美味しいぬか漬けの作り方など呼吸をするように教えてくれるに違いない。


 そこまで思考した妖夢はいても立ってもいられず紅魔館へ向かって飛び立った。

 館を守る伏兵の存在などはしにもかけていなかった。

 素直に問いに答えてもらえるかなど考えてもいなかった。

 そもそも、割れた壷とぶちまけた大根を片付けていなかった。


 正しい判断とはかくも重要なものである。







 最近、紅美鈴はある種のルールを持って門の警備に挑んでいるらしい。

 曰く、何も言わずに無理やり通ろうとする奴は何も言わずに迎撃する。
 曰く、きちんと門番の自分に声をかけ、きちんと用件を言える奴なら事情くらいは聞いてやる。
 曰く、自分の名前を間違った輩はにこやかに館へ通し、侵入者と称してメイド長と挟み撃ちでぼっこぼこ。

 以上を規律としてからというもの、美鈴は非常に清々しい気持ちで日夜業務へと励んでいる。
 真に正しき門番の面構えとは如何なる物かを体現し、毎度現れる乱入者を華麗に捌いているのである。
 メイド長の手を煩わせてしまうケースが非常に多いのは誠に遺憾であるが、まあ、屈辱は約三倍、主にメイド長を通して返すため問題ない。
 あまりにも間違いが多いため一昨日から胸に名札をつけるようにしたのだが、効果のほどは不明である。

 そんな夜更け。
 ようやく太陽が地平線へ沈み、美鈴が門番詰め所、さあ、これからお嬢様の活動時間だ頑張るぞー、などと気合を入れなおした直後であった。

「済みません、そこを通してもらえませんか」

 突如として目の前に現れた銀髪のちんまい少女が申し訳なさそうに申して来たから驚くわけである。
 特筆すべき出来事も無く終わると思っていた今日という日に若干の退屈を抱く美鈴は、にべも無く眼前の少女に興味を抱き、聞き返す。

「用件をどうぞ。下らない話題だったら追い返すから」

 鬱々とした顔を上げ、これ以上ないほど重々く口を開く少女に、何か面白いことになるのかと美鈴は期待する。
 その用件は、

「……ぬか漬けの作り方を教わりに来ました、魂魄妖夢と申します」

 面白かった。
 確かに面白いことになったけどなんか自分が期待していたのとは違うんじゃないかなあと美鈴は考える。

「どうしても……ぬか漬けを作らなくてはいけないのです。お願いします。噂に名だたる紅魔館の大図書館へ入館させてください」

 どうしたもんだかと美鈴は苦悩するのである。
 日の夜更けに少女がやってきて、ぬか漬けを教わりたいから西洋風大豪邸の紅魔館へ入れろと言う。
 あれか、今日は咲夜さんの三分間メイド料理教室ではぬか漬けを教える日なのか。
 そもそもそんなスキルがあったとして、お嬢様はぬか漬けなんて食されるのか。そりゃあ他のヴァンパイアもびっくりだろう。
 そういえば紅魔館での食事は人の血肉を材料とした西洋料理が多い。お嬢様が西洋出身の物の怪なのだからそれは必然であるのだが、中国に縁の深い美鈴としては時たま他国籍の、人肉を使わない料理が食べたくもなるのである。
 特に漬物といえば中国国民の食卓には馴染み深い敬愛すべき料理であり、唐辛子でつけた大根など涎が出てしまう。

 そうして美鈴は結論を出した。


 ――今晩のオカズは漬物でもいいなあ。


 趣旨がズレている気がしないでもないが、薄給から導き出される空腹を常に抱えている美鈴にとっては些細な問題である。
 美鈴がちゃぶ台の上に乗っけた漬物を想像している所へ、妖夢はさらに追い討ちをかけるような言葉を紡ぐからズレは拡大した。

「炊き立ての湯気が立つ白米を、長い時間をかけて旨みを凝縮した漬物で食べるのは我が主最大の幸福なのです。なんとかお願いできないでしょうか」

 ああ、そうだよなあ。炊き立てのお米に漬物はおいしいよなあ。西洋料理のように重くなく、胃がもたれなく、健康に良い。長いこと漬けて置いた野菜をかむ時の食感はたまらなく幸福だし、それがまたご飯に良くあうのである。しかも一般庶民が日常的に食せる程値段は安い。

 美鈴は結論を訂正した。


 ――向こう一ヶ月は漬物でいけるかもしれない。


 一ヶ月間漬物のみで生命活動可能な人間がいたらそれはもはや物の怪の類であるが、美鈴は元々が妖怪である故、全く持って齟齬は生じない。
 もはや美鈴は居ても立っても飛んでもいられず、何とかして今日の夕食を漬物にできないかと知恵を絞り考えるのであった。

 この幻想郷において漬物はどうやって仕入れるのだったか。特に目の前の少女が言う『ぬか漬け』なんて、とんと見当が付かない。やはり自分で作るしかないのか。とは言ってもぬか漬けの作り方なんて記憶の遥か彼方で磨耗したままである。悲しいかな、自分はその程度の提案もこなせぬつまらない門番だったのか。いや、違う。これは私への挑戦だ。中国国民への挑戦だ。同時に紅魔館への宣戦布告であり、マンネリ化した朝昼晩の西洋風三食を正すべく勃発した革命戦争なのだ。

 加速する思考の中、愛国心も相まって気分が高揚してきた美鈴は震える肩を両の手で抱き、死命を賭けた使命に自らの氏名を指名するのであった。


 ――紅魔館、三度の食事を、漬物に。


 何の因果か五七五の川柳で読んでしまったことも省みず、思い立ったが吉日とばかりに美鈴は眼前の銀髪つるぺた刀オプション付き少女に言い放つ。

「……私の名前は紅美鈴。付いて来なさい。お嬢様に掛け合ってみるから」

 掛け合う、の中に含まれている美鈴私的の理由もつゆ知らず、己の情熱がこの門番に進言を納得させたのだと妖夢はほころんだ。なんて良い人なのだろう。この調子ならば紅魔館の住人たちもきっと悪魔の如き笑みを浮かべた天使に違いない。
 その考えが真実を指しているのかは別として、妖夢は意気揚々と紅魔館への道のりを可とするのであった。

 喜びを滲ませる妖夢の傍にあり、美鈴は先日取り決めた門番ルール三か条の改正が必要だと考えていた。
 無言の奴は無言で撃墜、正直者には正直に。名前を間違えたら私刑する規定、その網目。


――自分から侵入者に名乗った場合はどうすればいいんだろうか。







 紅魔館の主、レミリア・スカーレットは何時になく機嫌が良かった。
 というのも先ほどまで寝ながらにして見ていた夢の内容に原因があり、如何なる設定が展開されていたかといえば、まあ、あれだ。
 満開に花の咲く草原にて。ほーらレミリア、つかまえてごらんなさい、あははー、まってよ霊夢ー、えいっ、やったーつかまえたー、あらあら、やられちゃったわねえ、それじゃあご褒美に私の血を好き勝手し放題
 その辺りで目が覚めた。

 とにもかくにもレミリアが上機嫌なのは事実であり、その事実はまた他の事実を呼び寄せる原因となるのである。

 ついさっきのこと。
 寝起きのレミリアが自室にあり、上機嫌で夜一番の食事を要求しようとしたその刹那。
 廊下が何やら騒がしいではないか。メイド達のうろたえ騒ぐ声、さらには装飾物の壊れる音が聞こえ、最も悪いのはそれらの音が自分の部屋に向かって近づいてくるという感覚である。
 今日は何か面倒なことがあるのかなあ、と思ったレミリアは少々の考えを持ってその言葉を言い直した。
 今日も何か面倒なことがあるのかなあ。

 と、同時に自室の扉が盛大な音を立てて打ち開き、何事か何奴かとそちらへ目を向けるのである。

「お嬢様っ」

 現れたのは我が家付きの門番紅美鈴プラスして白玉楼の何だっけ、魂魄妖夢か。
 何だ咲夜も通さずに、などと口を開きかけ咲夜の留守を思い出した。買出に行っているのだ。今回は遠出らしい


 そしてなし崩し的に美鈴の意見を聞くこととなったこの状況である。


 美鈴の提案は次の一言から始まった。

「次の食事はぬか漬けにしましょう、お嬢様」

 いきなり何を言い出すのかと思えば、それはまだ序の口であり、レミリアにとって眩暈のするような論法はこれからであった。
 美鈴はひとまず漬物の歴史を紀元前まで紐解き、周代の礼法書の三礼の一つ『儀礼』、それに加え三世紀の中国最古の辞書『爾雅』、二世紀の二番目の辞書である許愼の『説文解字』及び三世紀中頃の辞書である劉煕の『釈名』、これらの中国古文書にはいずれも塩蔵品を示す言葉が見られ漬物の存在を裏付けている。ああ素晴らしい、悠久の歴史が語る真に驚愕すべき事実である。と述べた。

 早くもレミリアは付いていけなかった。

 熱弁を奮う美鈴の双眼は爛々と輝き、身振り手振りを交えて雄弁に豪語する。始皇帝の探していた不老長寿の仙薬、その正体は漬物に他ならなかっただろう。憐れかな一代限りの大富を築いた大陸の覇者は豪華な食生活に己の寿命を食わせていたのだ、と。

 遅ればせながらレミリアは二度寝の体勢に入っていた。

 語りが山場へ入って行くにつれ美鈴の表情は紅顔し、菘、蕪青、蜀芥の鹹漬法、湯漬法、醸漬法、菘根蘿蔔漬法、瓜芥漬法など数多くの漬物製造法の名を挙げる。ぬか漬けを掘り出す作業は正に夢を彫る作業である、しかし残念ながら自分は作り方を知らぬとここで告白し、紅魔館台所事情の是非を繋ぎながら結論で持って自らの意見と成した。

「使用人みんなで漬物を漬けましょう」

 呆れを通り越したレミリアはある種の感動に浸りつつ前方の紅美鈴を見つめるのである。
 いつもは割と腰の低い彼女がここまで必死になるとは一体何事なのか。毎度のようにここまでの勢いを持った弁舌を展開することができるのならば、門番に留まらずメイド長補佐補佐くらいなら出来たであろうに。
 ピクルスを食べたことはあっても、いわゆる東洋の漬物、特にぬか漬けなんて食した経験は五百年生きて皆無である。
 長い人生、一度くらいは経験したって失うものはないだろう。ここまで人を狂乱させるぬか漬けとは一体何者なのか。
 これからは紅美鈴のことを『中国』でなく『漬物』と呼ぶ決心をつけながら、レミリア・スカーレットは決断した。

 一応のために言って置くと、今回の判断は彼女の上機嫌から来る超法規的な決断であり、普段通りのレミリアであるなら漢書の題名一文字目も読み終わらないうちに相手を部屋から叩き出していたであろうことは想像に難くない。
 まあ、妖夢が転んだのも偶然であれば、我的中国人美鈴が門番をしていたのもまた偶然。そこへ至ってレミリアが偶然上機嫌であろうとも、それが必然に思えるから不思議なもので。

「じゃあ、パチェに聞いてみましょうか。ぬか漬けの作り方」

 かくして幽々子、妖夢、美鈴、レミリアと偶然渡ってきた判断のバトンは、ついに、動かぬ大図書館パチュリー・ノーレッジへと引き継がれ、それもまた何処かへ渡っていくのかと聞かれれば、答えを知るのは偶然のみである。







 眠かった。
 非常に疲れていた。
 何せここ三日は媚薬の製造に追われ不眠不休で実験を繰り返していたのだ。
 パチュリー・ノーレッジはいつもの図書室にて大きなあくびをし、今まさに寝る体勢だったはずである。

 なんだろう、この状況。

 パチュリーの周りを若干三名が取り囲んでいる。
 左から。
 館の主、レミリア・スカーレットは、今にもアイムハングリーハングリーと言いそうな様子でお腹をさすっている。
 中央。
 館の門番、紅美鈴は燃える様な瞳を自分へ向け、さあ吐け、今すぐ吐け、洗いざらいぶちまけろ、とカツ丼でも差し出してきそうな気概である。
 最後。
 確か魂魄妖夢、白玉楼の庭師はおずおずと上目遣いでこちらを見つめ、しかしはっきりとした意思の感じられる声で聞いてきた。

「ぬか漬けの作り方を教えてください」

 なんなんだと。
 そんなもの咲夜に作らせればいいではないか。ピクルスを作って食事に出す彼女ならば当然他種の漬物も作れるだろうに。
 三日間食事も取らずこもりっぱなしで外界との交流を絶っていたパチュリーは、当然、咲夜の留守も知らないわけなのだが、それ以上に彼女は眠かった。
 めんどくさい。
 誰か他の人がフォローしてくれるだろう。
 薄れゆく意識の中、半寝の状態でパチュリーはつぶやくのであった。

「……知らない」

 周りの三人は耳を疑う。

「それは、とても貴重な料理なので……私は作り方を知りません……ぐぅ」

 最後の『ぐぅ』はパチュリーが安らかに寝入った効果音である。


 大変なのはそれからだ。
 あの動かぬ大図書館パチュリー・ノーレッジの膨大な辞書目録にさえ『ぬか漬け』についての記述は一行もなかった、この事実は紅魔館を大いに揺るがし、主から使用人まで交えて上へ下への大騒動となった。
 美鈴は『ぬか漬けは貴重だったのか、そーなのかー。そういえばメダカも絶滅寸前だって聞いたしね。そーだったのかー』と一人漬物の価値に満足していた。
 レミリアは、自分に手に入らないものはこの世に無し、と、生来の環境が育てたお嬢様スキルを発揮し、ぬか漬けを発掘すべく総力を挙げた作戦を指揮する。
 紅魔館の使用人たちは、パチュリー様も知らぬほどの『ヌカヅケ(NUKADUKE)』とは、自分の知っている『ぬか漬け』と全く次元を異にした存在なのだろうなどど畏敬の念を抱き、詳しく問いただす事もしない。

 そうして騒動の片隅にあり呆然と成り行きを見守る妖夢、自分はそんなにも貴重なものを落として壊して亡き物にしてしまったのか、と自己を嫌悪し、同時に、『毎日毎日幽々子さまばかりご飯を沢山食べて私はぬか漬けで食い繋ぐしかない、幽々子様の大食漢』などと考えていた過去を捨て、貴重なものをより多く自分に食べさせようとしてくれていた主の気付かぬ心遣いに涙を流すのである。

 これをもってヌカヅケのもつ神性は本来と別に変化を遂げ、その広がりは留まりを知らずに侵食していく。

 ああ、げに悲しきは偶然と勘違いの重なり合った運命が螺旋よ。
 この騒動の原因を全て運命の女神に擦り付けられたならばどんなに楽だったろうか。
 事の顛末を知りうる存在は既に存在せず、ただただ成り行きを見つめる傍観者のみがその数を増やしていくのである。







 博麗神社の朝は早い、というわけでもないが、今日の博麗霊夢は早起きだった。
 というのも外が騒がしいためであり、これもまた中々に珍しいことである。
 人間は昼間に働き妖怪は夜に働く、従って住人が妖怪に入れ替わる夕暮れを逢魔が時と呼ぶのであり、逆に明け方は人間に切り替わる時間帯、強いるならば逢人が時とでも言えば良い。
 昼うるさいのは慣れている。夜に騒がしいのも動じない。しかしその喧騒が朝となると二度寝もままならないわけで非常に心もとないのである。

 何事かと思い社の扉を開けてみれば、ちょうど良い按配で魔理沙が飛んでから聞いてみた。

「騒がしいわねー、何かあったのー」
「おう、『ムカツケ』だぜ」

 はあ? と霊夢は怪訝な顔をした。
 何言ってんだろうこの人は、と。

「……なによそれ」
「あっちの方で誰かかが言ってるのを聞いたんだ。『紅魔館のレミリアまでムカツケを持っていけばお礼が出る』ってなー。きっとレミリアをムカつかせればいいんだぜ。面白そうだから行って来る」

 飛び去っていく箒の尻尾を見つめながら霊夢は嘆息するのであった。また面倒なことになってるなあ。

 とりあえず霊夢すべき仕事は朝食の用意であり、やはり腹が減っては戦も出来ない。
 そんなこんなで用意をする霊夢なのである。

 十三代前から朝食の献立はあまり変わっていない、と霊夢は考えている。
 まあ、幻想郷の変化自体があまりないのだから食物連鎖の変化もまた少ないわけで、何百年に渡って続けられてきた朝食が変化しないのもまた必然と毎朝納得して納豆を練るのである。

 むぐむぐと米を咀嚼し、いつも通りの変わらぬ味に満足する。
 次の箸を伸ばそうとしたその刹那、神社の扉がどんどんと叩かれた。

「霊夢ー、霊夢ー居るー? れいむー」

 ひとつ溜息をして立ち上がり、誰だろうと思案しながら扉を開けたらアリス・マーガトロイドが立っていた。

「ねえ、霊夢。『メカズケ』って知らない?」
「知らない」

 扉を閉め食事に戻る。
 表からは何やら『きっとメカの部品をくっつけるすごい人形の薬なのよー、知ってたら教えてよー』と声がするけれども、気にせず作業を続けた。

 次に食べるのは川魚の塩焼き。うん、中々良い出来だ。これなら胸を張ってお嫁にいける。
 この毎朝の食事、味を確認する作業は今日の調子まで占えるから割合霊夢は好きである。
 えー、次は……

「霊夢ー、霊夢ー、ちょっといいー、ねえ、ちょっとー」

 玄関先に出迎えるのが面倒になった霊夢は食卓に座ったまま聞き返す。

「はい、どちらさまー」
「チルノだけどさー、ちょっと霊夢、コオリヅケになってみないー? 今、流行ってるらしいのよねー」

 とりあえず放って置くことにした。
 神社がちょっと寒くなった気がしたけれど、まあいいやと霊夢は開き直る。

 お次は味噌汁である。
 早起きしてすする味噌の香りは好きだ。出来も悪くない。
 そうして霊夢は最後に――

「すみません、霊夢さん。いらっしゃいませんか」

 と、扉の向こうから聞こえた。
 なんて今日は来訪者の多い日なのだろう。一食取る間に三人も私に会いに来るのか。そんなに私は人気者だったか。それだったら賽銭を入れろ、賽銭を。始終ご縁があるように四十五円なんていわずに四十五万円くらい入れていけ。

「はーい、どーちらーさまー」

 霊夢は食事を取るのもやめず、割とはしたのない格好で来客者を問う。

「妖夢です……ちょっとお聞きしたいことがありまして」
「あー、入っていいわよー。あなただったら礼儀正しいし」

 ポリポリと食事を噛みながら客人を招き入れる霊夢。うん、こいつの出来も完璧だ。
 部屋に入って来た妖夢はぐったぐたに疲弊しており今にも倒れこみそうな有様である。
 さすがに見かねた霊夢は口へ運ぶ箸を止め、妖夢を見やった。
 妖夢は息も切れ切れに言葉を紡ぐ。

「あの……和の道に詳しいだろう霊夢さんにお聞きしたいのですが……」

 そこで言葉はピタリと止まる。
 妖夢は呆然と霊夢を見つめ、何事かと思った霊夢は視線の先が自分の箸であることに気付いた。

「それは……たくあん……」
「はい? そうだけど」

 震える声で妖夢。

「たくあんというと、ぬか漬け」
「大根のね」

 しばしの間。
 小鳥のさえずる気持ち良い朝。
 ああ、今日も晴天だ。と感じた霊夢は、妖夢の問い掛けに気前良く応答するのであった。

「……それを頂けませんか」
「いいわよ。倉庫にいっぱいあるし。そこの風呂敷にでも包んでいって」

 返答を聞くや否や駆け出す妖夢を尻目に、霊夢は思うのである。

 ――そっちは井戸。

 後から聞こえてきた蛙飛び込む水の音を霊夢は詮索しない。

 何故か。

 霊夢はこれから正体不明のムカツキだかメカズケだかを退治しなければならない故。

 巫女とはかように忙しき職業なのである。







 白玉楼、霊魂の集まる中心にあり、西行寺幽々子は枯れっ放しの桜を眺め、のんべんだらりと茶なぞ啜っていた。

「玉露……」

 時折呟かれる独り言は特に意味を持たない。
 まあ、風流である。桜が咲いていれば。

「桜餅……」

 ぼへーっと枯れ木を眺める幽々子は、自分の従者について考えてみた。
 魂魄妖夢。中々の働き者ではあるが未だ半人前で頼りない。
 そういえば昨日割ったらしい漬物壷はどうしたのだろう。割った後駆け出して行ってしまったようだが。
 そんなに高い壷でもないし、漬物だってまた漬ければいいのだから私に要求してくれれば材料をあげるのに。
 まあ、若いとそんなこともあるわよねえ。

「白玉……」

 もう一度音を立てて緑茶を啜り、ふと幽々子は思い出す。
 風の噂に聞いたところ、まだ生きてる人たちの間では、昨日の夜から、カタカナ四文字の怪物ムカヅケだかミカヅキだかが暴れ回っているのだとか。
 例の巫女が退治しようとしたが姿も見えず、気配もない。
 人の噂や勘違いも妖怪よねえ、と幽々子は息をつく。ちなみに寿命は七十五日。
 あっちの方に行っているらしい妖夢は大丈夫だろうか。まあ大丈夫だろう。
 しかし、実は彼女に折り入って頼みたいことがあるのである。何時帰ってくるのか気になって仕方ない。

「羊羹……あ……」

 と、ちょうどそこへ、白玉楼の階段の向こう側から妖夢が顔を出した。

「妖夢ー」

 彼女の名前を呼んでみれば、疲れた様子ながらも答えを返してくれた。

「幽々子さま、私やりました、幽々子さまー」

 何のことだかさっぱり不明であるが、彼女自身が喜んでいるなら問題ない。

「朝ごはんまだかしらー。お腹すいちゃったわー」

 だんだん近づいてくる妖夢の顔は嬉々に満ちていた。

「はいっ。お任せください幽々子さま。すぐに食事を用意してお出しします」

 なんだか今日の妖夢は何時になく機嫌が良い。やたらと張り切っている
 この調子ならば、頼みごとをしても大丈夫ではなかろうか。
 それにしても、びしょ濡れの彼女が小脇に抱えている風呂敷包みはなんなのか、それだけが気になる。
 ようやく側まで来た彼女に問う。

「妖夢、その風呂敷包みは何?」
「あ、これですか。ふふ……秘密ですよー。楽しみにして置いてくださいね」

 まあいいか。妖夢が満足ならば。

 そうして幽々子は先ほどから言うぞ言うぞと考えていた頼みごとを、妖夢へ浴びせるのであった。

 まあ、結果とすれば誰も悪くないのである。
 妖夢は職務に忠実なだけだったし、門番も中国なだけだったし、レミリアは機嫌が良いだけだった。
 パチュリーは眠かったし、使用人達に罪もなければ、霊夢が妖夢に漬物をあげたのだって褒められて然るべき行為である。

 妖夢は主人に命じられたまま、ぬか漬けをご飯に付して出すべく、文字通り死ぬ思いでそれを見つけてきた。褒めてやりたい。

 畏怖すべきはただひとつ。主の気まぐれ。


「妖夢……」


 白玉楼。

 今日も平和な死後の世界、その中にあり。

 幽々子は笑顔で言うのである。



 ――今日のご飯はハンバーグがいいなあ


 と。









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